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第五十八話 切らない声

##第五十八話 切らない声


 ラジオが鳴った。


 朝の職員室だった部屋に、ざらついた音が流れた。


 誰かがつけたわけではない。


 古い受信機のつまみが、夜のうちに少し戻っていた。


『昨日、旧南第三小学校前で、市民の声が国際部隊によって封じられました』


 蓮が顔を上げた。


 悠太の肩が跳ねた。


 その前に、千紘が動いた。


 机の布を取る。


 悠太の横に置く。


 花音の紙を押さえる。


 颯太の名前札を見る。


 蓮の前に、水を置く。


 呼ばれる前に手が動く。


 施設でついた癖だった。


 第七〇五。


 補助。


 下の子を見て。


 泣く子に水を渡して。


 黙っていない子を止めて。


 そうしていれば、そこにいてよかった。


『子どもの権利を訴える母親と支援者に対し、暫定政府、地元組織、そしてEU共同監視枠が一体となって圧力をかけた模様です』


「ふざけんな」


 蓮が立ち上がりかけた。


 健二は、まだ止めなかった。


 ラジオを聞いていた。


 声の前後を聞いていた。


『現地では、子どもを撮るな、という脅迫的な声も確認されています』


 流れたのは、南岸復旧組合の年配の男の声だった。


 子どもを撮るな。


 そこだけだった。


 その前に、端末を向けた大人がいたことは流れない。


 親子が、まだ水を飲む前だったことも流れない。


 母親の腕を、支援者風の女が止めたことも流れない。


 健二は、そこでラジオを切った。


 部屋が静かになった。


「ほらな」


 蓮が言った。


「やられたんだよ」


「やり返さない」


「何でだよ」


「同じになる」


「じゃあ、言われっぱなしでいいのかよ」


「違う」


 健二は机を見た。


 瑠衣の記録。


 相原の処置書。


 EU共同監視枠の記録番号。


 木箱、未開封。


 約束、継続。


「声を切られたからって、こっちも切らない」


「じゃあ何すんだよ」


「順番を戻す」


 健二は短く言った。


「荷物と同じだ。宛名と順番を切ったら、届かない」


 千紘の指が、コップの縁で止まった。


「声って、変えられるんだね」


 声は小さかった。


 言ったあと、千紘はすぐ目を伏せた。


 言いすぎたと思った顔だった。


 健二は叱らなかった。


「変えられる」


 千紘は机の紙を見た。


 何時に来た。


 水を出した。


 名前は急がせなかった。


 撮影と録音を止めた。


 道を戻した。


 勝利扱い不可。


「声も、残せる?」


「残せる」


 千紘は、初めてラジオを見た。


 怖いものを見る顔ではなかった。


   *


 瑠衣は机に紙を二枚置いた。


 一枚は昨日の記録。


 もう一枚は白紙だった。


 見出しだけが書いてある。


 旧南第三小学校 児童区域周辺事案 時系列記録。


「また紙かよ」


 蓮が言った。


「また紙です」


 瑠衣は短く返した。


 陸が紙の端を押さえた。


「いくつに分ける」


「時刻ごとに」


「時刻、いくつ」


「今から確認します」


 陸はうなずいた。


 数えられるものになると、少し落ち着く。


 悠斗は入口の近くに立っていた。


 外を見る場所ではない。


 全員が見える場所だった。


 美月は毛布を畳んでいる。


 角を合わせる。


 またほどく。


 怖いと言わずに、布を直している。


 花音は紙に丸を描いた。


 八個。


 少し離して、一個。


 その外側に、細い線を引いた。


 囲う線ではない。


 近づきすぎないための線だった。


 健二は言った。


「出すものと、出さないものを分ける」


 瑠衣の鉛筆が止まる。


「子どもの顔は出さない。声も出さない。名前も出さない」


「でも、出さないと嘘って言われるだろ」


 蓮が言った。


「言われる」


「じゃあ」


「それでも出さない」


「何を出すんだよ」


「大人がしたこと」


 健二は紙を指した。


「何時に来た。何を止めた。何を確認していない。どう退かせた。何をしなかった」


 千紘がつぶやいた。


「何を、しなかった」


「殴らなかった。撃たなかった。名前を急がせなかった。子どもの声を流さなかった」


 瑠衣が書いた。


 公開対象。


 時系列。


 警告回数。


 停止要請。


 退路確保。


 非致死対応。


 非公開対象。


 児童の顔。


 児童の声。


 児童の氏名。


 親子の個人情報。


 医療情報。


 生活名の詳細。


「相手の顔は出さねえのかよ」


 蓮が聞いた。


「出さない」


「何で」


「次に、その家族が狙われる」


「でも、あいつらが悪いだろ」


「悪い行為はあった」


 健二は蓮を見た。


「でも、晒しに行けば、子どもの道じゃなくなる」


 蓮は黙った。


 拳は握ったままだった。


 でも、机は叩かなかった。


   *


 無線が鳴った。


『第三区受入班、相原。旧南第三、応答願います』


 健二が受話器を取った。


「真柴です」


『朝の境界放送は確認しましたか』


「聞きました」


『切り抜きです』


「分かります」


『EU共同監視枠の記録員から、現場音声が届いています』


 瑠衣が鉛筆を構えた。


『重要な音声があります。ただし、単独公開はしないでください』


「内容は」


『座り込みを促した女の発言です』


 短い雑音が入った。


『排除されました、と言えばいい』


 蓮が立ち上がりかけた。


「ほら見ろ」


 健二は片手を上げた。


 蓮は止まった。


『この発言は、組織的煽動の疑いを補強します。ただし、この一言だけ出せば、こちらも切り抜きになります』


「出すなら前後も」


『はい。警告、退路確保、バッファーゾーン、最終警告、座り込み、当該発言、非致死的移動措置。その順番で扱ってください』


「子どもの声は」


『含めません』


「親子の声は」


『出しません』


「母親の名前は」


『出しません』


「こっちもそうします」


 相原は少し黙った。


『もう一点。同じ文言の札が、三か所で確認されています』


 瑠衣の鉛筆が止まった。


『旧南第三前、第三区東側検問、南岸市場入口。筆跡は違いますが、文面が一致しています』


「誰が作ったかは」


『断定しません。EU側は端末、録音機材、連絡経路を確認中です』


「うちは何をすれば」


『旧南第三側の時系列を出してください』


 相原の声は硬かった。


『切り抜きに対抗するには、こちらが切らないことです』


「分かりました」


『真柴さん』


「はい」


『子どもを守るために、出さない記録も必要です』


「分かっています」


 無線が切れた。


 千紘は無線機を見ていた。


 ラジオとは違う声だった。


 短い。


 飾らない。


 でも、必要なところへ届く。


   *


 昼前、南岸復旧組合の年配の男が来た。


 校門の外に立っている。


 中には入らない。


 昨日と同じだった。


 健二は外に出た。


 年配の男は、紙袋を差し出した。


「うちの若いのが書いた」


「証言ですか」


「そんな立派なもんじゃねえ」


 健二は紙を開いた。


 字は荒い。


 だが、時刻はある。


 十一時二十分、校門前道幅確認。


 十一時三十分、杭二本設置。


 十一時三十五分、視線遮断のためロープ張り。


 十一時四十分、若衆一名前進しかけ、停止指示。


 私的接触なし。


 打撃なし。


 押し出しなし。


「名前は出すな」


「出しません」


「顔も出すな」


「出しません」


「俺らを褒めるな」


 健二は顔を上げた。


 年配の男は坂道を見ていた。


「英雄にすると、次に若いのが殴る」


 健二は黙った。


「昨日は、殴らなかったから道が残った」


「はい」


「そこを間違えるな」


「間違えません」


 年配の男は、胸ポケットを軽く叩いた。


「端末を持ってた男の顔は、相原に渡す」


「それがいいです」


「お前には渡さねえ」


「はい」


「お前は、子どもの中に戻れ」


 健二はうなずいた。


「道は」


「見とく」


 年配の男は短く言った。


「今日は静かだ。昨日よりはな」


 それだけ言って、坂道を下りていった。


 健二が校舎に戻ると、蓮が待っていた。


「何だった」


「道の記録」


「誰が誰を殴ったとか?」


「殴ってない記録」


 蓮は黙った。


「残すのは、そっちだ」


   *


 午後、オルロフから封筒が届いた。


 持ってきたのは、EU共同監視枠の連絡員だった。


 白い装甲車ではない。


 小さな連絡車だった。


 封筒には、南部境界生活保証基金と国際保護班の印がある。


 健二と瑠衣は、並んで中を読んだ。


 支援者を名乗る三名の所属確認、未了。


 親子との委任関係確認、未了。


 本人署名、なし。


 通訳確認、なし。


 拒否時記録、なし。


 複数地点で同一文言の札を確認。


 複数端末による同時録音。


 境界ラジオ二局に、類似した切り抜き音声を確認。


 資金・動員経路については調査中。


 断定不可。


 公表不可部分あり。


 健二は、最後の二行を見た。


 断定不可。


 公表不可。


「出せませんね」


 瑠衣が言った。


「出さない」


「調査中の部分は」


「調査中とだけ書く」


 蓮が横から言った。


「怪しいなら怪しいって言えばいいだろ」


「言わない」


「何で」


「確認してない荷物は出さない」


 蓮は眉を寄せた。


「荷物?」


「宛名がない。中身も確認できない。そんな荷物を出したら、事故る」


「でも、どう見ても仕組んでるだろ」


「そう見える」


「じゃあ」


「見えることと、記録で言えることは違う」


 健二は報告書を畳んだ。


「ここでは、言えることだけ言う」


 陸が小さく聞いた。


「言えないことは、書かない?」


「書く。でも出さない」


 陸は少し考えた。


「記録上、ある。でも公開上、ない」


 瑠衣が小さくうなずいた。


「近いです」


 瑠衣は新しい紙を出した。


 内部記録。


 公開記録。


 二つの見出しが並んだ。


   *


 夕方、読み合わせをした。


 子どもたちは全員いた。


 健二は迷った。


 隠せば、外の声だけが残る。


 だから、名前を伏せたまま読むことにした。


 瑠衣が紙を持つ。


「旧南第三小学校、児童区域周辺事案、時系列記録」


 千紘が顔を上げた。


 ラジオの声とは違った。


 急がせない声だった。


「八時十分。校門下に複数名確認。手書き札、録音端末を確認」


 陸が指を折った。


 一。


「八時二十五分。約束物資の外部撮影を避けるため、保管場所を変更。木箱、未開封」


 颯太が棚を見た。


「九時四十分。親子一組を確認。本人確認、未了。水提供。氏名確認は急がせず」


 美月が毛布を握った。


 親子の名前は出ない。


「十時十五分。支援者を名乗る者による生活名主張あり。本人署名なし。通訳確認なし。拒否時記録なし」


 蓮の口元が固くなる。


「十時二十分。児童区域への接近、撮影および録音停止を要請」


 悠太は耳を塞いでいなかった。


「十一時三十分。南岸復旧組合により校門外道幅確保。私的制裁なし。打撃なし。押し出しなし」


 蓮が少し下を向いた。


「十三時四十分。通路封鎖の予兆確認。相原一尉により三度警告」


 悠斗が入口を見た。


 三度。


 数えられる警告だった。


「十五時二十分。EU共同監視枠、停戦監視派遣団到着。退路確保。バッファーゾーン確保。最終警告」


 花音が、九個目の丸の外に線を一本足した。


「十五時三十五分。座り込みを促す発言を記録。扇動者分離。非致死的対応。指定線外退去」


 瑠衣は一度息を吸った。


「十五時五十分。通路回復。児童区域安全確保」


 紙を下ろす前に、最後を読んだ。


「児童の顔、声、氏名は公開しない。親子の個人情報、医療情報は公開しない。親子への責任転嫁不可。報復不可。勝利扱い不可」


 部屋は静かだった。


 最初に口を開いたのは、千紘だった。


「怖くない」


 健二が千紘を見る。


「今の声は、怖くない」


 千紘は紙を見ていた。


「急がないから」


 悠太が小さくうなずいた。


 蓮は顔をそらした。


「ただ読んでるだけだろ」


「でも、順番がある」


 蓮は言い返さなかった。


 健二は机の上の紙を見た。


 順番をなくした声は、人を連れていく。


 順番を残した声は、人を戻すことがある。


   *


 公開記録は、三つに分けて出すことになった。


 第三区受入班の掲示板。


 南岸市場の紙の回覧。


 境界生活情報局への読み上げ依頼。


 境界生活情報局は、派手な番組ではない。


 配給の時間。


 通れる道。


 医療班の巡回。


 水の出る場所。


 そういうものだけを読む。


 面白くはない。


 でも、生活に使える。


「子どものところは」


 健二が聞いた。


「入れていません」


 瑠衣が答える。


「親子のことは」


「個人が分かる情報はありません」


「南岸の名前は」


「組織名だけです」


「相手側は」


「支援者を名乗る者、です」


 健二はうなずいた。


「それでいい」


「あいつらの名前も出さねえのかよ」


 蓮が言った。


「出さない」


「またかよ」


「名前は、罰を配るために使わない」


 蓮は黙った。


 颯太が、自分の名前札に触れた。


   *


 夜の境界生活情報局は、雑音混じりだった。


『本日、第三区受入班掲示板に、旧南第三小学校周辺事案の時系列記録が掲示されました』


 年配の女の声だった。


『記録によりますと、昨日のEU共同監視枠による措置は、児童保護区域周辺における通路封鎖、撮影および録音による威迫、本人確認手続きへの介入に対する任務防衛措置とされています』


 蓮はラジオを睨んでいる。


 でも、朝とは違った。


 悠太は耳を塞いでいない。


 千紘は水を配っていない。


 ただ座って聞いている。


『記録には、三度の警告、退路確保、バッファーゾーン確保、非致死的対応、指定線外退去が含まれています』


 雑音が入った。


 声が戻る。


『なお、児童の顔、声、氏名は公開されていません。親子の個人情報、医療情報も公開されていません』


 健二は机の紙を見た。


 出さないことも、記録になる。


『親子への責任転嫁不可。報復不可。勝利扱い不可。以上が、公開記録の末尾に記載されています』


 蓮が小さく言った。


「勝利扱い不可まで読むのかよ」


「読みます」


 瑠衣が答えた。


「かっこ悪いだろ」


「必要です」


 ラジオは、次の話題へ移った。


 明日の水配給。


 南岸橋の片側通行。


 第三区医療班の巡回予定。


 誰かが勝った声ではなかった。


 誰かが負けた声でもなかった。


 明日、どこに水があるかを知らせる声だった。


 千紘は、膝の上で手を重ねていた。


 今日は、誰の毛布も直していない。


 誰のコップも見ていない。


 それでも、そこにいてよかった。


   *


 すべてのラジオが変わったわけではない。


 別の境界放送では、まだ同じ言葉が流れた。


 市民の声が封じられた。


 旧南第三は閉鎖区域だ。


 子どもを盾にしている。


 EUは暫定政府の手先だ。


 北側の公式放送も似た言葉を使った。


 児童の安定。


 平等な保護。


 地域勢力による排他的対応。


 きれいで、古い声だった。


 健二は、そのどれにも返事をしなかった。


 蓮が聞いた。


「これで勝てんのか」


「勝つためじゃない」


「じゃあ、何のためだよ」


「次に同じことをされた時、子どもの声を勝手に使わせないためだ」


 蓮は黙った。


「それと、来た人を悪者にしないためだ」


「昨日の親子か」


「そうだ」


「あいつらのせいじゃないのは、分かってる」


「分かってるならいい」


「でも、また誰かが連れてきたら」


「水は出す」


「名前は?」


「急がせない」


「道を塞いだら?」


「止める」


「撮ったら?」


「止める」


「生活名を押しつけたら?」


「記録する」


 蓮は息を吐いた。


「面倒くせえ」


「面倒くさい」


 健二は言った。


「でも、面倒くさくしないと、声はすぐ切られる」


 千紘は、その言葉を聞いていた。


 声は、すぐ切られる。


 でも、切らないで残すこともできる。


   *


 夜、木箱は棚の中にあった。


 鍵はかけない。


 だが、見せ物にはしない。


 颯太が棚の前で止まった。


「……ある?」


「ある」


 颯太は名前札を触った。


「……まだ?」


「まだ」


「……みんなで?」


「みんなで」


 颯太はうなずいた。


 それ以上は聞かなかった。


 千紘は、棚の横の紙を見た。


 木箱、未開封。


 約束、継続。


 保管場所変更。


 理由、撮影・録音および外部利用防止。


 その隣に、新しい紙がある。


 児童区域周辺事案、時系列記録。


 子どもの顔、声、氏名は公開しない。


 親子への責任転嫁不可。


 報復不可。


 勝利扱い不可。


 道の回復。


 千紘は、声に出さずに読んだ。


 それから、小さく言った。


「切らない声」


 健二が振り向く。


「何だ」


 千紘は少し慌てた。


「何でもない」


 でも、声は柔らかかった。


 誰かの世話をするためだけの声ではなかった。


 自分の中から、少し出てきた声だった。


 健二はラジオを見た。


 今日はもう、つけなかった。


 外ではまだ、別の声が流れている。


 切られた声。


 怒らせる声。


 名前を奪う声。


 でも、この校舎の中には紙があった。


 順番があった。


 声を材料にしないという約束があった。


 その日、旧南第三小学校では、まだ甘いものを食べなかった。


 けれど、声は少しだけ戻った。


 道も、まだ残っていた。


 名前も、まだ待たれていた。


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