第五十七話 みんなで
##第五十七話 みんなで
木箱が、なかった。
朝、職員室だった部屋に入った高瀬陸が、最初にそれに気づいた。
机の上。
昨日まで置かれていた場所。
そこに、木箱がない。
陸は、すぐに数えた。
記録棚、一。
医療箱、二。
燃料券の箱、三。
ノートの束、四。
水袋、五。
工具箱、六。
木箱。
なし。
「一つ、ない」
陸の声は大きくなかった。
でも、廊下にいた子どもたちは止まった。
笹原蓮が、真っ先に入ってきた。
「何が」
「箱」
「どの箱だよ」
陸は机を指さした。
「ケーキの箱」
蓮の顔が変わった。
「は?」
机の上に走り寄る。
ない。
昨日まで、そこにあった。
ミーシャが持ってきた木箱。
ドライフルーツ入りのパウンドケーキ。
苺ジャム。
みんなで食べる。
美月がもう少し食べられるようになったら。
そう約束した箱だった。
「誰が開けた」
蓮の声が荒くなった。
中原悠斗は、廊下から部屋の中を見た。
箱を見る前に、人を数えた。
美月。
蓮。
悠太。
千紘。
陸。
花音。
颯太。
自分。
八人。
八人いる。
箱がない。
人はいる。
悠斗は、それを先に確認した。
浅野悠太は、部屋の入口で固まっていた。
蓮の声が大きくなったからだった。
佐伯千紘が、何も言わずに悠太の横に立った。
村瀬花音は、手に持っていた紙の端を押さえていた。
昨日、苺ジャムの赤を思い出して描いた丸。
八個。
それから、もう一個。
その九個目の丸の上に、指が置かれていた。
小野寺颯太は、胸元の名前札を触った。
小野寺颯太。
何度も見た名前。
でも、今は箱の方が気になった。
箱にも、名前があった。
受領者、真柴健二。
差出人、アレクセイ・イリイチ・サボリン。
名前があったものが、消えていた。
「健二さん」
悠斗が呼んだ。
健二は、奥の部屋から出てきた。
顔を見るより先に、机を見た。
空いている。
蓮が詰め寄った。
「誰が持ってったんだよ」
「落ち着け」
「落ち着けじゃねえよ。みんなでって言っただろ」
その言葉に、部屋の空気が止まった。
蓮は、自分でも少し驚いた顔をした。
怒鳴るつもりだった。
文句を言うつもりだった。
でも、出てきたのは違う言葉だった。
みんなで。
瀬田ハルが廊下から入ってきた。
手には鍵を持っていた。
「箱は、保健室の奥に移しました」
蓮が振り向く。
「何で勝手に」
「勝手にしました」
瀬田は否定しなかった。
蓮は言葉を詰まらせた。
否定されると思っていたからだった。
瀬田は続けた。
「外から校門と職員室が見えます。あの箱は、見せるためのものではありません」
健二が瀬田を見た。
「外?」
瀬田は窓の方を見た。
「坂道の下に、人がいます」
悠斗が動いた。
窓へ行こうとする。
瀬田が言った。
「悠斗さん。窓には近づかないでください」
悠斗の足が止まった。
先頭に立つ身体が、まだ先に動く。
大人の数。
出口。
下の子の位置。
見なければと思う。
でも、瀬田は言った。
「外は、私が見ます」
悠斗はすぐには返事をしなかった。
それから、ゆっくり下がった。
最後ではなかった。
最後に座らなくてもいいと言われた朝だった。
*
保健室の奥に、木箱はあった。
開けられていなかった。
蓋も、そのままだった。
苺ジャムの瓶も、箱の中にある。
陸が蓋の位置を確認した。
「開いてない」
蓮が鼻で息を吐いた。
「最初から言えよ」
瀬田は静かに言った。
「ごめんなさい」
蓮は、また言葉を詰まらせた。
大人が謝ると、次に何をすればいいか分からない。
怒りが、行き場をなくす。
瀬田は、箱を見た。
「約束は消えていません。場所を変えただけです」
宮原美月は、保健室のベッドの端に座っていた。
毛布の端を握っている。
足元には、きれいに畳まれた布があった。
自分のものではない。
朝、誰かの分まで直したものだった。
「私のせいで、隠したの」
美月が小さく言った。
弘美がすぐに口を開きかけた。
健二が先に首を振った。
「違う」
短い言葉だった。
「美月のせいじゃない」
美月は目を伏せた。
健二は続けた。
「箱は、見せ物じゃないから移した」
「見せ物?」
千紘が聞いた。
健二は窓の方を見た。
「外の大人が、撮ろうとしてる」
部屋の中が静かになった。
悠太の肩が上がった。
撮る。
その言葉だけで、空気が硬くなる。
蓮が言った。
「誰を」
「校門。建物。できれば、子ども」
「何のために」
健二はすぐには答えなかった。
廊下の向こうに、小さなラジオが置いてある。
壊れかけた受信機。
雑音の多い境界放送。
生活情報。
誰かの怒鳴り声。
誰かの解説。
誰かの告発。
この国では、テレビはもうほとんど残っていない。
スマホはある。
だが、旧南第三の子どもたちは持っていない。
持っていたとしても、充電できない。
回線も続かない。
検閲を抜けた動画サイトを自由に見られる人間も少ない。
代わりに、ラジオが増えた。
戦前の動画配信者のような者たちは、今は声で人を集める。
境界ラジオ。
個人放送。
噂話。
切り抜き音声。
正義を語る番組。
怒りを煽る番組。
泣き声を拾って、物語にする番組。
健二は、蓮に言った。
「声にするためだ」
「声?」
「子どもの泣き声。怒鳴る大人の声。止めに入る声。そこだけ切って、別の話にする」
蓮は顔をしかめた。
「意味分かんねえ」
「水を飲む前の顔だけ見せれば、閉じ込めてるように見える」
健二は言った。
「線を張ってるところだけ聞かせれば、脅してるように聞こえる」
「でも、本当は違うだろ」
「外の声は、順番を切る」
健二は、保健室の奥の木箱を見た。
「だから、こっちでは順番を残す」
花音は、九個目の丸から指を離さなかった。
消さない。
でも、見せない。
その丸も、誰かに勝手に使われる気がしたからだった。
*
坂道の下には、十人にも満たない大人たちがいた。
多くはない。
だが、声は大きかった。
手書きの札がある。
子どもの権利を守れ。
隔離反対。
国境線差別を許すな。
保護の名の迫害をやめろ。
その横に、別の言葉が混じっていた。
日本を取り戻せ。
腐った暫定政府に子どもを渡すな。
誰も見捨てない本当の平等を。
市民の手で、子どもを救え。
法律より、人の道を。
言葉だけなら、きれいだった。
子ども。
平等。
救済。
人の道。
どれも、間違った言葉ではない。
だが、その札を持つ大人たちは、目の前の子どもを見ていなかった。
大きすぎる靴を履いた子どもが、声に怯えていることを見ていない。
紙を握った母親が、何も言えずに固まっていることを見ていない。
見ているのは、校門だった。
端末の角度だった。
止められる瞬間だった。
端末を構える者がいる。
ただの私物には見えなかった。
この辺りでは、携帯もスマホも満足に使えない。
回線は途切れる。
充電も難しい。
通信は監視される。
だから、坂道の下で何人もが同じように端末を構えていること自体が、不自然だった。
撮って、その場で広げるためではない。
あとで切るため。
つなぐため。
声をかぶせるため。
検閲済みの動画サイトに流せる形にするため。
それ以上に、境界ラジオへ渡すため。
弾圧された声。
市民が排除された音。
子どもの権利を訴えた母親の沈黙。
そういう題名にするための素材だった。
その近くに、母親と子どもがいた。
母親は痩せていた。
顔色が悪い。
手に、折り畳まれた紙を持っている。
子どもは小さい。
七歳か、八歳くらい。
髪は短い。
靴が大きすぎる。
足を引きずっているわけではないが、歩幅が合っていない。
母親は札を持っていなかった。
叫んでもいなかった。
ただ、そこに立たされているように見えた。
子どもは、大人たちの声のたびに肩を震わせていた。
校門の外には、南岸復旧組合のトラックが止まっていた。
古い二トン車。
泥のついた荷台。
工具箱。
杭。
ロープ。
看板には、南岸復旧組合、とある。
白羽の名前ではない。
行政の名前でもない。
だが、この辺りで道や橋を直してきた者たちは、その名前を知っていた。
南岸復旧組合。
表向きは復旧。
実際には、道を守る者たちでもあった。
年配の男が、校門の外に立っていた。
六十前後。
背は高くない。
だが、肩が四角い。
工具袋を持っているわけでもないのに、そこに立っただけで、何かを壊せる人間に見えた。
札を持った男が、その前に出た。
「通行を妨害するな」
年配の男は答えなかった。
「ここは公共の道だ。子どもの権利を守るために来ている」
年配の男は、札を見た。
それから、端末を見た。
「子どもを撮るな」
「撮影の自由がある」
「子どもを撮るな」
年配の男は、同じ声で言った。
男が声を上げた。
「差別だ」
年配の男は、少しだけ首を傾けた。
「誰をだ」
「北側から来た人間を差別している」
「俺は北側かどうか聞いてねえ」
男は詰まった。
年配の男は、校門の方を顎で示した。
「子どもを撮るなと言ってる」
「迫害だ」
「誰をだ」
「保護を求める親子を」
「親子は水も飲んでねえ」
その時、母親が少し顔を上げた。
何かを言いかけた。
だが、横にいた支援者風の女が、母親の腕に触れた。
小さな動きだった。
止める動きだった。
年配の男は、それを見た。
「おい」
女が顔を上げる。
「その母親に喋らせろ」
「彼女は混乱しています」
「誰が決めた」
女は答えなかった。
「本人の権利を守るんだろ」
年配の男は言った。
「なら、本人に喋らせろ」
女は唇を噛んだ。
母親は、紙を握ったまま、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
言わない方がいいと、どこかで覚えたのかもしれない。
*
第三区受入班から、相原一尉が来た。
旧南第三小学校と、第三区受入班が置かれた中学校までは、車で三十分ほどある。
相原がすぐに来たわけではない。
無線で最初の報告を受け、現場の隊員から映像と音声の断片を受け、処置書の下書きを作ってから来た。
車は一台。
隊員二名。
大げさではない。
だが、相原が降りると、坂道の空気が少し変わった。
相原は、札を見た。
端末を見た。
親子を見た。
南岸の年配の男を見る。
「現場保持、ありがとうございます」
「頼まれてねえ」
年配の男は言った。
「子どもの道に、大人を座らせないだけだ」
相原はうなずいた。
そして、札を持つ者たちの前に立った。
「ここは通常の集会場所ではありません」
隊員が、相原の声を繰り返す。
「ここは、停戦監視区域内の児童保護区域です」
札を持った男が叫んだ。
「表現の自由を奪うのか」
相原は答えた。
「表現は記録します」
「差別だ」
「差別の主張も記録します」
「迫害だ」
「迫害の主張も記録します」
相原は、一拍置いた。
「しかし、児童区域への接近、通路封鎖、本人確認妨害、保護対象を背景にした撮影および録音は停止してください」
女が言った。
「本人は生活名を望んでいます」
相原は、女を見た。
それから、母親と子どもを見た。
母親は、折り畳まれた紙を握ったまま黙っている。
子どもは、足元を見ている。
望んでいる人間の顔ではなかった。
望んでいないと言える人間の顔でもなかった。
相原は、女に向き直った。
「誰が確認しましたか」
「支援者として聞き取りました」
「記録は」
「あります」
「本人署名は」
女は黙った。
「通訳は」
答えない。
「本人が嫌だと言った場合の記録は」
女の顔が険しくなった。
「あなたたちは、すぐ書類で人を縛る」
相原は、処置書を持つ隊員に目を向けた。
「今の発言も記録」
隊員が書く。
相原は続けた。
「書類で縛るのではありません」
女は睨んでいる。
「あなたの言葉だけで、本人の意思にしないためです」
母親の指が、紙の上でわずかに動いた。
相原は、それも見た。
「本人が言えない時ほど、周りの大人の言葉は強くなる」
相原は、声を荒げなかった。
「だから記録します」
女は一歩下がった。
相原は隊員に言った。
「本人意思確認、未了」
「はい」
「支援者による生活名主張、記録」
「はい」
「本人署名なし。通訳確認なし。拒否時記録なし」
「はい」
相原は、最後に言った。
「現時点で、生活名単独使用は認めません」
女が何か言おうとした。
その前に、南岸復旧組合の年配の男が低く言った。
「次は、道の話だ」
女が振り返る。
年配の男は、校門へ続く坂道を指した。
「そこに座るな」
「抗議の権利がある」
「権利は相原に言え」
年配の男は、少しだけ顎を上げた。
「道は俺が見る」
*
南岸復旧組合の年配の男は、札の文字を見ていた。
日本を取り戻せ。
本当の平等を。
法律より、人の道を。
誰も見捨てない真の支援を。
言葉だけなら、きれいだった。
だが、きれいな言葉で道を塞ぐ連中を、男は信用しなかった。
彼らは、自分たちを暴徒とは呼ばない。
工作員とも呼ばない。
反乱とも呼ばない。
むしろ、誰よりも日本のためと言う。
誰よりも弱者のためと言う。
誰よりも子どものためと言う。
そのくせ、見ているのは子どもではない。
校門だった。
端末の角度だった。
止められる瞬間だった。
相原の隊員が一歩でも前に出るのを待っている。
南岸の年配の男は、低く言った。
「世直しの顔をした道塞ぎだな」
若い衆の一人が聞いた。
「ただのデモじゃないんですか」
「違う」
年配の男は、校門へ続く坂道を見た。
「ただのデモなら、道を残す。あいつらは、道を止めに来てる」
米が通る道。
水が通る道。
薬が通る道。
子どもが通る道。
帰ってくる者が通る道。
その道を止めておいて、子どもの権利と言う。
その道を録っておいて、弾圧と言う。
その道に座っておいて、話し合いと言う。
年配の男は、札を持つ者たちを見た。
「外の理屈で、ここの暮らしを潰す連中だ」
若い衆は黙った。
「殴りますか」
「殴るな」
年配の男は即答した。
「あいつらは、殴られる絵を欲しがってる」
「じゃあ」
「道を見る」
年配の男は、杭を指した。
「線を引け。通れる道を残せ。子どもの道に、大人の正義を座らせるな」
若い衆が、杭を打った。
ロープを張る。
通行止めではない。
線だった。
通れる道。
通れない道。
抗議していい場所。
子どもに近づいてはいけない場所。
その線を、古い杭とロープで作っていく。
札の男が言った。
「勝手に線を引くな」
「勝手じゃねえ」
年配の男は言った。
「ここで暮らしてる者が、道を残してる」
「自治のつもりか」
「違う」
年配の男は、少しだけ目を細めた。
「共同体だ」
その言葉は、古かった。
国でもない。
党でもない。
支援団体でもない。
基金でもない。
昔からそこにあった、もっと小さなものだった。
隣の家の火事を消す。
橋が落ちたら板を渡す。
子どもが帰る時間には道を見る。
葬式があれば手を貸す。
米が足りなければ分ける。
誰かが道を塞げば、どかす。
それだけのものだった。
だが、その「それだけ」が、国が割れたあとも最後まで残っていた。
札の男が言った。
「古いんだよ、そういうのは」
年配の男はうなずいた。
「古い」
そして、校門の方を見た。
「だから残ってる」
*
親子は、校門の内側に入れられた。
正式な受入ではない。
一時確認。
それだけだった。
健二は校門の内側に立っていた。
親子を見た。
母親は、折り畳まれた紙を両手で握っている。
子どもは、校舎を見ている。
白い壁ではない。
古い小学校。
割れた窓を板で塞いだ校舎。
手書きの紙。
名前を急がせない。
痛い時は言う。
使ったものは記録する。
子どもは、その紙をじっと見ていた。
健二はしゃがまなかった。
近づきすぎなかった。
「水を出します」
健二は言った。
「名前は、あとでいい」
母親が、少しだけ頭を下げた。
坂道の下から声が跳ね返ってきた。
「勝手に管理するな」
「差別だ」
「迫害だ」
母親は、紙を握る手に力を入れた。
子どもは、コップを持つ前に動かなくなった。
声の方を見る。
戻るべきなのか。
逃げるべきなのか。
従うべきなのか。
その判断を、大人の顔色に預けている目だった。
健二は、親子に触れなかった。
手を引けば、連れて行く形になる。
背中を押せば、追い込む形になる。
だから、距離を残したまま言った。
「ここで飲んでいい」
子どもは動かない。
健二は、声を変えなかった。
「名前は、あとでいい」
その一言で、母親の肩が少しだけ落ちた。
坂道の下では、まだ声が続いている。
だが、校門の内側では、別の時間を作る必要があった。
叫ぶ大人の時間ではない。
紙を握らされた母親の時間でもない。
生活名にだけ反応してしまう子どもが、水を飲むまでの時間。
健二は、その時間を急がせなかった。
弘美が、もう一つコップを持ってきた。
颯太が、階段の途中で止まった。
新しく来た子どもを見ている。
その子も、颯太を見た。
二人とも、すぐには名前を言えない。
颯太は、自分の名前札を一度だけ触った。
それから、小さく言った。
「……水、あるよ」
相手の子どもは返事をしなかった。
でも、逃げなかった。
健二はうなずいた。
「ある」
子どもは、ようやくコップを少しだけ傾けた。
水が、コップの中で揺れる音。
喉を通る音。
それだけだった。
悠太は、その音なら怖がらなかった。
蓮はまだ不満そうだった。
だが、何も言わなかった。
花音は、九個目の丸を思い出していた。
陸は、九等分の線をもう一度考えた。
悠斗は人数を数えた。
八人。
母親一人。
子ども一人。
坂道の下に、札を持つ大人たち。
でも、今はまだ、数に入れていいのか分からない。
分からないものを、勝手に入れない。
分からないものを、勝手に外さない。
悠斗は、ただ見ていた。
*
夕方になっても、坂道の下の声は消えなかった。
人数は増えていない。
だが、形が変わった。
ただ叫ぶだけではなくなっていた。
札を持つ者が、校門の見える位置に並ぶ。
端末を構える者が、相原の隊員を録っている。
道の端に座り込もうとする者がいる。
警告は出ていた。
退去線も示されていた。
相原の隊員は、三度、同じ内容を読み上げた。
児童区域への接近を停止すること。
保護対象を背景にした撮影および録音を停止すること。
本人確認手続きへの介入を停止すること。
通路封鎖を行わないこと。
だが、坂道の下の大人たちは、引かなかった。
引けなかったのではない。
引く気がなかった。
ひとりが、わざと退去線の近くに座った。
別のひとりが、それを録った。
女が声を上げた。
「今、私たちは排除されようとしています」
まだ、誰も触れていない。
それでも女は、端末に向かって言った。
「子どもの権利を訴えた市民が、国家に弾圧されています」
相原は、その言葉を聞いて、判断を変えた。
これは抗議ではない。
止められることを前提にした行動だった。
警告を受ければ、弾圧と言う。
記録されれば、監視と言う。
退去を求められれば、迫害と言う。
通路を塞げば、対話の場を求めていると言う。
本人確認を妨げれば、子どもの権利を守っていると言う。
言葉は、もう合意のために使われていなかった。
相手を止めた瞬間に、自分たちの正義が完成するように使われていた。
相原は、処置書に書かせた。
主張は記録。
思想は処置しない。
行為を処置する。
児童区域周辺における、組織的分断工作の疑い。
認知戦的撮影、録音、煽動行為。
通路封鎖を伴う過激派ネットワーク化の兆候。
断定ではない。
だが、記録する必要はあった。
札を持った男が叫んだ。
「真の愛国者を弾圧するのか」
相原は表情を変えなかった。
「愛国主張、記録」
「弱者を見捨てるのか」
「救済主張、記録」
「法律より人の道がある」
「超法規的主張、記録」
男の顔が歪んだ。
相原は続けた。
「ここは停戦監視区域内の児童保護区域です。人の道を語るなら、まず子どもの道を塞がないでください」
女が端末を高く上げた。
「聞きましたか。国家が市民に警告を出しています」
相原は、無線を取った。
「第三区受入班、相原。EU共同監視枠へ」
短い雑音。
「児童保護区域周辺で、退去警告後も通路封鎖の予兆あり。撮影および録音継続。本人確認妨害継続。組織的煽動の疑いあり。現場判断を要請します」
南岸の年配の男が、相原を横目で見た。
「呼んだか」
「呼びました」
「日本の警察じゃねえな」
「ここは停戦監視区域です」
年配の男は、坂道を見た。
道の真ん中に座ろうとする女。
それを録る男。
札を掲げる者。
黙ったまま紙を握る母親。
大きすぎる靴を履いた子ども。
その向こうに、旧南第三小学校の校門がある。
「なら、最後はあいつらの仕事だ」
年配の男は、若い衆に言った。
「下がれ」
若い衆が一歩下がる。
南岸復旧組合は、道から消えたわけではない。
ただ、次の線を引く者に場所を渡した。
殴らないために。
私刑にしないために。
道を、道のまま残すために。
*
坂道の下から、白い車両が入ってきた。
一台ではなかった。
二台。
後ろに、同じ白で塗られた小型の装甲車が一台。
車体には、青い文字が入っている。
EU共同監視枠。
停戦監視派遣団。
その車両は、戦場では不自然なほど目立った。
白い車体。
水色のヘルメット。
迷彩服。
黒い防弾ベスト。
盾。
記録用カメラ。
翻訳官。
記録員。
攻めてくる軍隊には見えなかった。
かといって、日本の警察にも見えない。
救護班を守る護衛にも見える。
どこかの国の武装した役所にも見える。
白と水色を身につけているのに、盾と装備を持っている。
そのちぐはぐさが、かえって不気味だった。
子どもたちは、校舎の中からその車両を見た。
蓮が息を止める。
「何だよ、あれ」
悠斗は、車の数を数えた。
三台。
水色のヘルメットが八人。
盾を持つ隊員が六人。
記録員が二人。
翻訳官が一人。
南岸の男たちは、道の端で止まっている。
逃げたのではない。
場所を渡しただけだった。
ここから先は、道を見る仕事ではない。
停戦を監視し、記録し、手順に従って執行する者たちの仕事になる。
白い車両の扉が開いた。
隊長らしい男が降りる。
水色のヘルメットの下の顔は、表情が薄かった。
怒っているようにも見えない。
助けに来たようにも見えない。
ただ、決められた線を確認しに来た人間の顔だった。
翻訳官が、その横に立った。
隊長が低く言う。
翻訳官が日本語にする。
「ここは停戦監視区域です」
もう一度、英語で繰り返される。
「この区域は、児童保護区域および本人確認手続きの保護対象です」
記録員が、坂道の下を撮っている。
札。
端末。
座ろうとする者。
退去線。
校門。
親子。
それらが、順番に記録されていく。
隊長は、相原から処置書の写しを受け取った。
相原が短く説明する。
「三度、警告済みです。児童区域接近。撮影、録音。本人確認妨害。通路封鎖の予兆」
隊長はうなずいた。
翻訳官が隊員に指示を伝える。
水色のヘルメットの隊員たちは、すぐには前に出なかった。
まず、坂道の幅を測るように左右へ広がった。
校門側に二人。
親子のいる位置と抗議集団の間に二人。
退路になる下り道の端に一人。
逃げる道を残している。
完全には囲まない。
だが、校門へ近づく道だけは塞ぐ。
白い車両の前に、水色の線ができた。
南岸復旧組合の杭とロープの線とは違う。
相原の処置書の線とも違う。
それは、停戦監視団の線だった。
隊長が言う。
翻訳官が日本語にする。
「児童保護区域への接近を停止してください」
「通路封鎖を停止してください」
「撮影および録音による威迫を停止してください」
「本人確認手続きへの介入を停止してください」
札を持った男が叫んだ。
「国際部隊が人権を弾圧するのか」
記録員のカメラが、その男を向いた。
隊長は表情を変えなかった。
「あなたの発言は記録されています」
翻訳官が訳す。
「指定線の外へ移動してください。退路は坂道下方向に確保されています」
女が座り込んだ。
もう一人が続こうとした。
端末を持った男が、そこへ寄る。
「録れ。境界ラジオに流せ」
隊長は、短く指示を出した。
盾を持つ隊員たちが、半歩だけ前に出る。
走らない。
殴らない。
怒鳴らない。
ただ、横一列になる。
押し潰すためではない。
校門と群衆の間に、空白を作るためだった。
翻訳官が告げる。
「最終警告です。指定線の外へ移動してください」
男が叫ぶ。
「市民の声を消すな」
相原が隊員に言った。
「発言記録」
隊員が書く。
隊長は、端末を持つ男と、座り込みを促した女を指で示した。
全員ではない。
煽っている者だけだった。
水色のヘルメットの二人が、盾列の隙間から前に出る。
まず端末の視線を盾で切る。
次に、座り込んだ女の左右に立つ。
腕をねじ上げない。
地面に押さえつけない。
ただ、立ち上がる方向を一つだけ残す。
「移動してください」
翻訳官が繰り返す。
女は動かない。
「排除されました、と言えばいい」
小さな声で、女が言った。
記録員が、それも拾った。
隊長は手を上げた。
左右の隊員が女の腕を取り、立たせる。
引きずらない。
殴らない。
だが、座り続けることは許さない。
端末を持った男も、盾で進路を切られ、退路側へ押し戻される。
群衆は完全には囲まれていない。
逃げる道は残っている。
だから、後ろの者たちは少しずつ下がった。
下がらない者だけが、記録員の前に残った。
通路封鎖は、そこで崩れた。
隊長が言う。
翻訳官が訳す。
「これは主張への処置ではありません」
「児童保護区域周辺における通路封鎖、撮影・録音による威迫、本人確認妨害への任務防衛措置です」
相原は、その言葉を処置書に書かせた。
任務防衛措置。
非致死的対応。
指定線外退去。
退路確保。
バッファーゾーン確保。
扇動者分離。
民間人保護。
蓮が校舎の中で言った。
「やりすぎじゃねえの」
健二はすぐには答えなかった。
昔の日本で見たデモなら、そう見えたかもしれない。
だが、ここは駅前ではない。
基地のゲート前でもない。
この坂道の上には、子どもたちがいる。
まだ名前を取り戻せていない子どもたちがいる。
「ここは、もう昔の日本じゃない」
健二は言った。
蓮は黙った。
「それでも、撃たせないために段階を踏んでる」
坂道の下で、水色のヘルメットの隊員たちは、群衆を坂道下の退路へ流していった。
捕まえるためではない。
囲むためでもない。
校門から離すためだった。
残った二人だけが、記録員の前で名前を確認された。
答えない者には、衣服、所持物、位置、発言内容が記録された。
相原が処置書に署名した。
南岸の年配の男が、坂道の上を見た。
「子どもの道に座らせるわけにはいかねえ」
相原はうなずいた。
白い車両が、もう一度校門の前をゆっくり通った。
白い車体。
水色のヘルメット。
盾。
記録カメラ。
翻訳官の声。
それらが坂道に残った熱を、ひとつずつ消していった。
最後まで叫んでいた男も、声を落とした。
札は下げられた。
端末は下ろされた。
座り込みは解かれた。
道が開いた。
旧南第三小学校の前に、静けさが戻った。
それは平和ではなかった。
ただ、火がそれ以上広がらないように、手順で踏み消された静けさだった。
*
夜になっても、蓮はまだ外を気にしていた。
校門の方を見る。
坂道の方を見る。
南岸復旧組合のトラックが止まっていた場所を見る。
もう誰もいない。
札もない。
端末を向ける大人もいない。
白い車両も去った。
それでも、蓮の肩には力が入っていた。
「結局、強いやつが来たら終わるんだな」
蓮が言った。
健二は、すぐには答えなかった。
その言葉を叱れば、蓮は黙る。
黙れば、同意扱いになる。
だから、健二は少し待った。
「終わってない」
健二は言った。
蓮が顔を上げた。
「終わっただろ。あいつら、どかされた」
「道は開いた」
「同じだろ」
「違う」
健二は、窓の外を見た。
「勝ったんじゃない。止めただけだ」
蓮は眉を寄せた。
「止めたら勝ちだろ」
「違う」
健二は言った。
「勝ちにすると、また誰かが負けたことになる」
蓮は黙った。
「今日は、勝ち負けじゃない。子どもの道を塞がせなかった。それだけだ」
「でも、青いヘルメットが力でどかした」
「そうだ」
健二は否定しなかった。
「力は使った」
蓮の目が少し動いた。
健二は続けた。
「でも、南岸の人たちは殴らなかった。相原さんは怒鳴らなかった。水色のヘルメットの人たちも、撃たなかった」
「持ち上げてた」
「座ったままだと、道が塞がるからだ」
「じゃあ、やっぱり力だろ」
「力を使うしかない時はある」
健二は言った。
「でも、力を使ったあとに、勝った顔をしたら駄目だ」
蓮は返事をしなかった。
「勝った顔をすると、次は先に殴りたくなる」
蓮の指が、ロープの結び目で止まった。
健二は、蓮を見なかった。
見れば、蓮はまた怒る。
だから、同じ方向を見たまま言った。
「南岸の人たちは、怖いから偉いんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「手を出さなかったから、道が残った」
蓮は口を閉じた。
ロープの結び目を、ゆっくりほどいた。
結ぶためではない。
ほどくためだった。
*
親子は、その夜、旧南第三小学校には泊まらなかった。
第三区受入班へ戻された。
正式な受入ではない。
一時確認。
本人確認。
医療確認。
母親の書類照合。
生活名単独使用不可。
それが相原の処置だった。
だが、出る前に、健二は母親に言った。
「今日のことは、あなたたちのせいではありません」
母親は、紙を握ったまま顔を上げた。
健二は続けた。
「騒いだ大人の行為を、外で止めただけです」
母親は何も言わなかった。
子どもも、健二を見なかった。
健二は近づきすぎなかった。
「北側から来たことは、罪ではありません」
母親の手が震えた。
「名前を言えないことも、罪ではありません」
子どもの指が、コップの跡をなぞった。
水を飲んだ机の上に、丸い跡が残っていた。
「次に来ることがあれば、水は出します」
健二は言った。
「名前は、そのあとでいい」
子どもは返事をしなかった。
だが、出ていく時、一度だけ校舎を見た。
颯太は、廊下の影からそれを見ていた。
そして、自分の名前札を一度だけ触った。
*
夜、南岸復旧組合の年配の男が、校門の外に立っていた。
トラックの荷台には、杭とロープが戻されている。
若い衆は、もう煙草を吸いたそうな顔をしていた。
だが、誰も吸わなかった。
健二は校門まで出た。
「今日は、ありがとうございました」
年配の男は、礼を受け取る顔をしなかった。
「頼まれてねえ」
「それでも」
「道を見ただけだ」
健二はうなずいた。
「はい」
少し間が空いた。
年配の男が、校舎を見た。
「あの中には入らねえよ」
健二は顔を上げた。
年配の男は続けた。
「俺らが中に入ると、子どもが別のことを覚える」
健二は、何も言わなかった。
「怖いやつが守ってくれるって覚える。そいつは違う」
年配の男は、坂道を見た。
「俺らは道を見る。中は、お前らが見ろ」
健二は、深く頭を下げなかった。
頭を下げすぎると、借りになる。
借りにすると、次に断れなくなる。
だから、普通に言った。
「道は、お願いします」
「おう」
「でも、子どもの名前は、こっちで待ちます」
年配の男は、少しだけ口元を動かした。
「そうしろ」
トラックが坂道を下りていった。
校門の外に、静けさが残った。
守られた静けさだった。
でも、支配された静けさではなかった。
*
健二は、その夜、ラジオをつけなかった。
外で何を言われているのか、気にならないわけではない。
境界ラジオのどこかでは、もう今日のことが流れているかもしれない。
子どもの権利を訴えた市民が排除された。
旧南第三小学校は子どもを囲い込んでいる。
南岸復旧組合と暫定政府が結託している。
EU共同監視枠が市民を弾圧した。
きっと、そんな声もある。
北側の公式放送も、何かを言うかもしれない。
生活安定。
平等。
再建。
安全確保。
いつもの言葉で、いつものように、都合の悪いものを包むかもしれない。
だが、北側の放送を、そのまま信じる者は少なかった。
あれは古い放送だ。
報じない。
切り取る。
都合の悪い声を消す。
境界の人間は、そういうものに慣れている。
だからこそ、北側は別の声に混じる。
市民風。
支援者風。
愛国者風。
弱者救済風。
ラジオの個人配信のような声に混ざって、同じ言葉を少しずつ流す。
健二は、それを知っていた。
でも、子どもたちは、今日、自分の耳で十分すぎるほど大人の声を聞いた。
これ以上、切り取られた声を聞かせる必要はない。
健二は瑠衣に言った。
「外の声は、明日でいい」
瑠衣はうなずいた。
「今日は、ここの記録を残します」
職員室だった部屋で、瑠衣は記録を書いた。
EU共同監視枠による任務防衛措置。
非致死的対応。
指定線外退去。
退路確保。
バッファーゾーン確保。
扇動者分離。
児童区域安全確保。
通路回復。
撮影および録音行為停止。
本人確認妨害停止。
生活名単独使用不可。
親子への責任転嫁不可。
南岸復旧組合、校門外道幅確保。
私的制裁なし。
報復なし。
勝利扱い不可。
健二は、最後の一行を見た。
「勝利扱い不可」
瑠衣はうなずいた。
「必要だと思いました」
「必要だな」
健二は言った。
「勝ったことにすると、次は勝つために動く」
瑠衣は、鉛筆を止めた。
健二は続けた。
「今日は、道を戻しただけだ」
瑠衣は、最後にもう一行書いた。
道の回復。
それから、別の紙を出した。
木箱、未開封。
約束、継続。
保管場所変更。
理由、撮影・録音および外部利用防止。
瑠衣は、二枚の紙を並べた。
一枚は、力が使われた日の記録。
一枚は、甘いものをまだ開けない記録。
健二は、その二枚を見た。
「同じ棚に入れるのか」
瑠衣は答えた。
「はい」
「どうして」
「どちらも、みんなで食べるために必要だからです」
健二は、少しだけ黙った。
それから言った。
「そうだな」
木箱は、棚の中にあった。
鍵はかけない。
だが、見せ物にはしない。
颯太が、廊下の向こうから棚を見た。
少し迷って、近づいた。
「……ある?」
健二は答えた。
「ある」
颯太は、名前札を触った。
それから、棚を見た。
「……みんなで?」
部屋の中が静かになった。
健二はうなずいた。
「みんなで」
颯太は、もう一度だけ言った。
「……みんなで」
その日、旧南第三小学校では、甘いものを食べなかった。
でも、約束は残った。
道も残った。
名前も、まだ待たれていた。




