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第五十六話 記録上、ある

##第五十六話 記録上、ある


 朝になっても、旧南第三小学校は静かだった。


 校舎の窓ガラスには、まだ夜の冷たさが残っていた。


 廊下には、昨日運び込まれた段ボール箱が並んでいる。


 米。


 缶詰。


 粉ミルク。


 包帯。


 消毒液。


 靴。


 小さなノート。


 燃料券。


 生活手当仮登録用紙。


 どれも、まだ新しい匂いがした。


 白羽の支援物資とは違った。


 演説がない。


 写真を撮る大人もいない。


 共生。


 安全。


 未来。


 そんな言葉を書いた紙も貼られていない。


 ただ、箱があった。


 数えられる箱があった。


 しまえる箱があった。


 使ってもいい箱があった。


 それだけで、旧南第三小学校の朝は、昨日までと少し違っていた。


 中原悠斗は、廊下の端に立っていた。


 箱を見ていたのではない。


 人を数えていた。


 美月。


 蓮。


 悠太。


 千紘。


 陸。


 花音。


 颯太。


 七人。


 自分を入れれば、八人。


 昨日と同じ数だった。


 それを確認してから、悠斗はようやく箱の方を見た。


 靴の箱がある。


 ノートがある。


 毛布もある。


 なのに、すぐには近づかなかった。


 笹原蓮は、段ボールの横にしゃがみこんでいた。


 箱の側面を指で叩く。


「また紙かよ」


 誰に言うでもなく、そう言った。


「箱にも紙。袋にも紙。靴にも紙。なんでも紙だな」


 倉持瑠衣が、記録机の前で顔を上げた。


「紙がないと、あとで盗られます」


「紙があっても盗るやつは盗るだろ」


「そうです」


 瑠衣は否定しなかった。


「だから、紙を増やします」


 蓮は、舌打ちした。


 だが、箱から離れなかった。


 浅野悠太は、段ボールが擦れる音に肩を小さく揺らした。


 箱を開ける音。


 ガムテープが剥がれる音。


 硬い紙が折れる音。


 そのたびに、視線が少しだけ落ちる。


 佐伯千紘が、悠太の横に座った。


「大丈夫」


 悠太は答えなかった。


 千紘も、それ以上は言わなかった。


 ただ、箱を開ける手を少しだけゆっくりにした。


 高瀬陸は、靴の箱を並べていた。


「八じゃない」


 瑠衣が振り向いた。


「何が?」


「靴」


 陸は箱を指さした。


「八じゃない。九」


 蓮が横から覗いた。


「見れば分かるだろ」


「違う。大きさが違う。これだけ高さが違う」


 陸は一番端の箱を持ち上げた。


「予備」


 瑠衣は記録票をめくった。


 靴、八名分。


 予備、一足。


 欄外に、小さくそう書かれていた。


 瑠衣は息を吐いた。


「合っています」


「だったら最初から大きく書けよ」


 蓮が言った。


 陸は靴の箱を戻した。


「予備は、誰の?」


「まだ誰のものでもありません」


 瑠衣は答えた。


「使う人が出た時に、記録します」


 陸はうなずいた。


「記録上、ある」


 その言葉を、蓮が鼻で笑った。


「なんだよ、それ」


 陸は少し考えた。


「ないよりいい」


 蓮は黙った。


 村瀬花音は、ノートの端を指でなぞっていた。


 まだ開かない。


 名前も書かない。


 ただ、紙の角を見ている。


 光が当たると、紙の端が少しだけ白くなる。


 花音は、その白い線を指先で追った。


 小野寺颯太は、胸元の名前札を触っていた。


 何度も、何度も。


 小野寺颯太。


 黒い字で書かれたその名前を、爪の先でなぞる。


 誰かが呼んだ。


「颯太」


 颯太は、すぐには返事をしなかった。


 廊下の音が止まったわけではない。


 箱は動いている。


 紙は擦れている。


 蓮は何か言いかけている。


 悠斗は人数を数えている。


 それでも、颯太の周りだけ、少し遅れた。


 健二は、急かさなかった。


 もう一度呼ぶこともしなかった。


 颯太は名前札を見た。


 それから、顔を上げた。


「……はい」


 健二は、短くうなずいた。


「うん」


 それだけだった。


 名前を思い出したのではない。


 この名前で返事をしてもいいと、自分で決めるまで待った。


 旧南第三小学校では、それでよかった。


   *


 保健室だった部屋には、朝の光が入っていた。


 窓際に置かれた古い机の上に、医療箱がある。


 三枝弘美が、美月の足の包帯を外していた。


 森谷千夏は、記録票を見ながら、体温計の数字を確認している。


 宮原美月は、ベッドの端に座っていた。


 足を出している。


 でも、顔は横を向いていた。


「痛い?」


 弘美が聞いた。


 美月は首を振った。


 少し遅れて、もう一度、首を振った。


 森谷が言った。


「痛い時は、痛いでいい」


 美月は黙った。


 弘美が包帯を少し緩める。


 美月の肩が、小さく上がった。


「痛い?」


 もう一度、弘美が聞いた。


 美月は、今度はうなずいた。


「……少し」


「少しね」


 弘美はそのまま、手を止めた。


 止めてから、森谷を見た。


 森谷はうなずいた。


「熱は少し下がっています。腫れはまだあります。消毒を続けます」


 健二は保健室の入口に立っていた。


 中には入らない。


 入れば、美月がまた大丈夫と言うかもしれない。


 だから入口にいた。


 美月は医療箱を見た。


 新しいガーゼ。


 新しい包帯。


 消毒液。


 薬。


 昨日まで、使うたびに減っていくものだった。


 減るから、言わない。


 減るから、隠す。


 減るから、待つ。


 そういうものだった。


「……ガーゼ」


 美月が言った。


 弘美が手を止める。


「うん」


「使っていいの」


「使うよ」


「でも」


 美月は箱を見た。


「減るから」


 健二は、入口で目を閉じた。


 昨日も聞いた言葉だった。


 聞きたくなかった言葉だった。


 子どもが、痛みより先に、残りの数を心配する言葉だった。


 瑠衣が記録票を持って、保健室の前に来た。


 そして、静かに言った。


「記録上、あります」


 美月が顔を上げる。


 瑠衣は、記録票を見せなかった。


 読ませる必要はない。


 ただ、そこにあると言った。


「医療補助物資。使用可能。対象、美月。理由、足部外傷、発熱、予防接種歴不明。使用判断、森谷千夏。生活補助確認、三枝弘美」


 美月は、意味を全部は分からなかった。


 でも、瑠衣の声は分かった。


 使っていい声だった。


 森谷が、消毒液を手に取る。


「これは、誰かの手柄ではありません」


 森谷は言った。


「あなたに必要だから使います」


 美月は、ゆっくりとうなずいた。


 弘美がガーゼを取った。


 白いガーゼが一枚、箱から減った。


 でも、それは消えたのではなかった。


 美月の足に移った。


 記録に移った。


 今日を越えるためのものになった。


 健二は、入口の壁に背を預けた。


「減るからって、言わなくていいよ」


 美月は返事をしなかった。


 でも、今度は足を引っ込めなかった。


   *


 昼前、校庭に一台の車が入ってきた。


 白羽の車ではなかった。


 華南の車でもない。


 NATOの車両ほど大きくもない。


 灰色の車だった。


 泥が乾いて、車体の下半分にこびりついている。


 校庭の端で停まると、運転席から日本人の男が降りた。


 助手席から、灰色のコートを着た男が降りた。


 背は高い。


 髪は薄い色で、目元が動かない。


 子どもたちは、廊下の窓から見ていた。


 蓮が言った。


「誰だよ」


 悠斗は答えなかった。


 先に人数を数えた。


 車の大人、二人。


 外にいる健二。


 校舎内の大人。


 出口。


 校庭の門。


 それから、蓮の袖を少し引いた。


「下がれ」


「なんでだよ」


「大人が来た」


「見りゃ分かる」


「だから下がれ」


 蓮は舌打ちしたが、窓から半歩だけ離れた。


 健二は校庭に出た。


 瑠衣が記録板を持って、その少し後ろに立つ。


 三枝弘美は、子どもたちを廊下の奥へ下げた。


 森谷千夏は、保健室の鍵を確認した。


 灰色のコートの男は、校舎を見上げた。


 古い小学校。


 割れた窓を内側から板で塞いだ校舎。


 白羽の標語が剥がされた掲示板。


 その下に貼られた、手書きの紙。


 名前を急がせない。


 痛い時は言う。


 使ったものは記録する。


 男はその紙を見た。


 それから健二を見た。


 通訳役の日本人が口を開こうとしたが、男が先に言った。


「オルロフ」


 日本語だった。


 硬い発音だった。


「南部境界生活保証基金。現地調整」


 健二は黙っていた。


 瑠衣が記録板に書く。


 南部境界生活保証基金。


 現地調整。


 オルロフ。


 健二は聞いた。


「ロシアの方ですか?」


 オルロフは少しだけ首を傾けた。


「基金です」


「ああ、ロシアですか」


「そうです」


 健二はうなずいた。


 回りくどい言い方を続ける大人より、認める大人の方がまだましだった。


 信用できるわけではない。


 でも、嘘の種類が少ない。


 オルロフは封筒を出した。


「生活手当。燃料。医療箱。学校再開物資。定期支給に入ります」


 健二は封筒を受け取らなかった。


「支援ですか」


「いいえ」


 オルロフは即答した。


「保証です」


 瑠衣の鉛筆が止まった。


 健二も、ほんの少しだけ顔を上げた。


「保証」


「支援は、渡す側の気分で止まる」


 オルロフは言った。


「保証は、条件を満たす限り続く」


「条件は」


「記録」


 健二の目が細くなった。


 オルロフは続けた。


「受領者。数量。使用者。保管者。紛失。転売。医療使用。燃料使用。学校物資」


「名前は」


「変えません」


 オルロフは言った。


「名前を変えると、支給が止まる」


 弘美が、校舎の入口でわずかに眉を動かした。


 優しい言葉ではなかった。


 人権でもない。


 子どもの尊厳を語ったわけでもない。


 ただ、管理の都合だった。


 でも、白羽とは違った。


 白羽は、支援のために名前を変えろと言った。


 この男は、支給を続けるために名前を変えるなと言った。


 健二は封筒を見た。


「白羽の承認は」


「不要です」


「生活名名簿は」


「使いません」


「旧南第三小学校の記録は」


「併用します」


 瑠衣が、その言葉を書いた。


 併用。


 優先ではない。


 完全でもない。


 でも、消されてはいなかった。


 オルロフは、校舎の中を見た。


 子どもたちを見たわけではない。


 廊下。


 掲示板。


 保健室の扉。


 鍵の位置。


 箱の置き方。


 記録机。


 見ているのは、人ではなく、流れだった。


 健二には分かった。


 この男は、白羽とは違う。


 だが、危険ではないわけではない。


 白羽は名前を変えて人を消す。


 この男は名前を残して流れを握る。


 どちらも紙を見る。


 違うのは、紙の先に人を残すかどうかだった。


「受け取ります」


 健二は言った。


 瑠衣が一瞬だけ健二を見た。


 健二は続けた。


「ただし、旧南第三小学校側の分類を上に置きます」


 通訳の男が少し困った顔をした。


 オルロフは、困らなかった。


「書いてください」


 健二は封筒を受け取った。


 瑠衣が記録票に新しい欄を作る。


 外部処理分類。


 南部境界生活保証。


 現地受領分類。


 食料生活物資。


 医療補助物資。


 学校再開物資。


 燃料補助。


 生活保証。


 報酬扱い不可。


 止まっていたものの返還。


 オルロフは、その文字を見た。


「報酬扱い不可」


 日本語の発音は、少し硬かった。


「これを残すのですか」


「残します」


 健二が答えた。


「誰かが、報酬にしようとしたからです」


「誰の」


 健二は答えなかった。


 オルロフも、二度は聞かなかった。


「いい紙です」


 オルロフは言った。


「売られていない、と書いてある」


 健二は、封筒を握ったまま言った。


「助けられたとも書きません」


「それもいい」


 オルロフは、校舎をもう一度見た。


「助けた者は、あとで名前を取りに来る」


 健二はその言葉を聞いて、初めてこの男を少しだけ見直した。


 信用ではない。


 理解でもない。


 ただ、この男は、名前を取りに来る大人の匂いを知っていた。


   *


 旧南第三小学校から離れた場所に、まだ名前の戻っていない中学校があった。


 校門の表札は外されていた。


 白羽が外したのか。


 避難の時に外されたのか。


 砲撃の破片で割れたのか。


 誰も正確には覚えていない。


 ただ、門柱には薄い跡だけが残っていた。


 そこにかつて、何かの名前があった。


 今は、仮の看板が掛けられている。


 西日本暫定政府。


 境界一時保護所。


 第三区受入班。


 校庭には、白線が引かれていた。


 運動会の白線ではない。


 待機列。


 確認列。


 医療確認。


 身元照合。


 一時滞在。


 通過不可。


 そのための線だった。


 体育館には毛布が並び、武道場には負傷者用の簡易寝台が置かれている。


 職員室だった部屋には、無線機と名簿棚があった。


 相原一尉は、その名簿棚の前に立っていた。


 机の上には、朝届いた通達がある。


 西日本暫定政府。


 境界一時保護所。


 第三区受入班。


 中部市場および旧南第三小学校方面からの保護対象受入について。


 白羽生活名名簿の単独照合を停止。


 旧南第三小学校側記録、国際保護班記録、EU共同監視枠記録を併用。


 民間生活保証は北方外郭管理対象。


 軍事協力および沈静化監視はEU共同監視枠。


 西日本側は境界通過後の一時保護および本人確認を担当。


 相原は、最後の行を二度読んだ。


 本人確認。


 簡単な言葉だった。


 だが、この場所で一番難しい言葉だった。


 本人が黙っている場合。


 本人が名前を言えない場合。


 本人が別の名前で呼ばれ続けていた場合。


 本人が、どの名前で返事をしていいか分からない場合。


 それでも、本人確認という欄はある。


 白羽は、そこを生活名で埋めた。


 暫定政府は、そこを番号で埋めようとした。


 軍は、そこを通過者で処理しようとした。


 相原は、赤い鉛筆で一行だけ囲った。


 白羽生活名名簿の単独照合を停止。


 それから、隣の隊員に言った。


「旧南第三小学校の記録を通せ」


 隊員が顔を上げた。


「白羽の生活名より優先ですか」


「単独照合を止める」


 相原は言った。


「優先順位の問題じゃない。白羽だけで決めるなという意味だ」


「国際保護班の記録は」


「併用する」


「ロシア側の保証名簿は」


「そのまま信じるな」


 相原は紙を机に置いた。


「ただし、捨てるな。燃料と医療箱の流れが載っている」


 隊員はうなずいた。


 相原は続けた。


「子どもが黙ったら、同意扱いにするな」


 職員室の中が静かになった。


「聞こえなかったか」


「いえ」


「もう一度言う」


 相原は、全員に聞こえる声で言った。


「黙った子どもを、同意扱いにするな」


 誰かが、記録紙にそのまま書いた。


 黙った子どもを、同意扱いにしない。


 通達の言葉ではない。


 規則にも、まだなっていない。


 だが、その日の第三区受入班では、その言葉が最初の線になった。


 無線が鳴った。


 短い雑音のあと、男の声が入る。


『南部境界生活保証基金、現地調整。オルロフ』


 相原は受話器を取った。


「第三区受入班、相原」


『旧南第三小学校、受領開始。白羽名簿、使用せず。旧校側記録、併用』


「確認した」


『こちらの保証名簿だけでは、受けないと聞いた』


「受けない」


 相原は即答した。


「旧南第三小学校側の記録、国際保護班の記録、本人確認。三つを見る」


 無線の向こうで、少し沈黙があった。


『よい』


 オルロフは言った。


『白羽の生活名だけで受けないなら、こちらも困らない』


「信用しているわけではない」


『私もです』


 相原は少しだけ息を吐いた。


 それでいい。


 信用で回す場所ではない。


 信用で回したものは、裏切られた時に子どもを巻き込む。


「燃料は」


『週二回』


「医療箱は」


『使用記録と引き換えに補充』


「学校物資は」


『月単位。ただし転売があれば止める』


「子どもの名前を変えさせるな」


『変えません』


「理由は」


『支給が止まる』


 相原は一瞬だけ目を閉じた。


 美しい理由ではなかった。


 だが、今はそれでよかった。


「それなら、こちらは通せる」


『軍事協力はEU側』


「分かっている」


『生活保証は我々』


「分かっている」


『西日本側は受入』


「分かっている」


 相原は、通達の紙を見た。


 役割が分けられている。


 きれいではない。


 正義でもない。


 だが、一枚の紙で全部を握る者がいなくなった。


 それだけで、白羽の手は少し短くなる。


『相原一尉』


 オルロフが言った。


『子どもは、数えます』


 相原は答えた。


「数えるだけならいい」


 少し置いて、言った。


「名前を変えたら終わりだ」


『変えません』


 無線が切れた。


 相原は受話器を置いた。


 窓の外には、名前の戻っていない校庭があった。


 白線が引かれている。


 そこに、いつか誰かが並ぶ。


 旧南第三小学校から来る者かもしれない。


 中部市場から逃げてくる者かもしれない。


 名前を言えない子どもかもしれない。


 生活名でしか呼ばれてこなかった大人かもしれない。


 相原は、名簿棚の一番上に新しい紙を貼った。


 白羽生活名名簿。


 単独使用不可。


 旧南第三小学校側記録。


 照合対象。


 本人沈黙。


 同意扱い不可。


 それを書いてから、相原は赤い鉛筆を置いた。


 旧南第三小学校の記録が、この名前の戻っていない中学校まで届いた。


 道はまだ細い。


 だが、切れてはいなかった。


   *


 夕方、旧南第三小学校では、ノートが配られた。


 子どもたちは、自分の分を受け取った。


 美月はベッドの横に置いた。


 蓮は表紙を指で弾いた。


 悠太は紙をめくる音を聞いた。


 千紘は花音の分をそっと机の上に置いた。


 陸は、配られた冊数と残りを数えた。


 花音は、まだ名前を書かなかった。


 颯太は、名前札とノートを交互に見た。


 悠斗は、最後まで立っていた。


 全員が受け取るのを見ていた。


 それから、余った箱を奥に運ぼうとした。


 健二が呼んだ。


「悠斗」


 悠斗は振り向いた。


「それ、置け」


「でも」


「置け」


 悠斗は箱を見た。


 軽い箱だった。


 自分でも運べる。


 運んだ方が早い。


 そういう顔をしていた。


 健二は言った。


「先頭は終わりだ」


 悠斗の手が止まった。


「今日は座れ」


 悠斗は、すぐには座らなかった。


 蓮が言った。


「座れってよ」


 悠斗は蓮を見た。


 蓮は視線を逸らした。


「別に、俺が運ぶって意味じゃねえぞ」


 千紘が少し笑った。


 悠太も、ほんの少しだけ口元を動かした。


 悠斗は箱を床に置いた。


 それから、ゆっくり座った。


 最後に座る癖は、すぐには消えない。


 人を数える癖も。


 出口を見る癖も。


 下の子を先に行かせる癖も。


 それでも、今日は座った。


 健二は、それ以上何も言わなかった。


 座ったことだけを、記録しなかった。


 記録しない方がいいものもある。


 それは、瑠衣も書かなかった。


   *


 夜。


 旧南第三小学校の職員室だった部屋で、健二と瑠衣は記録を閉じていた。


 今日の欄は、いつもより多かった。


 食料生活物資、受領。


 医療補助物資、使用。


 対象、美月。


 本人への負担説明不要。


 靴、八名分、配布準備。


 予備、一足、未配布。


 ノート、八冊、配布。


 燃料券、保管。


 生活手当仮登録用紙、未記入。


 外部処理分類、南部境界生活保証。


 現地受領分類、報酬扱い不可。


 止まっていたものの返還。


 瑠衣が最後の行を読み上げた。


「報酬扱い不可」


 健二はうなずいた。


「残そう」


「残します」


「上にも」


「併記します」


「外の紙に戻されたら」


「こちらの記録を添えます」


 健二は、しばらく黙っていた。


 窓の外に、校庭がある。


 昼間、灰色の車が停まっていた場所には、もう何もない。


 車は去った。


 オルロフも去った。


 兄ちゃんがどこにいるのか、健二は知らない。


 どこへ向かったのか。


 何も知らない。


 届いたのは、箱だけだった。


 伝票だけだった。


 報酬扱い不可と書き換えた紙だけだった。


「兄ちゃんが帰ってきたわけじゃない」


 健二は言った。


「はい」


「助かったって話でもない」


「はい」


「でも」


 健二は記録票を見た。


「紙は残った」


 瑠衣は、鉛筆を置いた。


「残しました」


 健二は、少しだけ息を吐いた。


「なら、今日はそれでいい」


 瑠衣は記録を束ねた。


 白羽の古い紙とは別の棚。


 旧南第三小学校側の記録。


 報酬扱い不可。


 止まっていたものの返還。


 医療補助物資使用済み。


 本人への負担説明不要。


 それらをまとめて、棚の一番上に置く。


 鍵をかける。


 金属の音が、職員室に響いた。


 小さな音だった。


 それでも、昨日より強い音だった。


   *


 黒崎の机には、灰色の封筒が置かれていた。


 白羽の封筒ではない。


 国連の封筒でもない。


 華南物流のものでもない。


 紙が厚い。


 角に、古い赤い星の透かしがあった。


 黒崎は、それを見た瞬間、不快になった。


 古い。


 だが、弱くない。


 封筒の中には、通達が入っていた。


 白羽生活支援系統。


 中部市場・旧南第三小学校方面案件。


 地域内部処理より除外。


 外部監視対象へ移行。


 民間生活保証・燃料・医療物資・学校再開は北方外郭管理対象。


 軍事協力および沈静化監視はEU共同監視枠。


 西日本側受入は西日本暫定政府、境界一時保護所、第三区受入班。


 白羽生活支援系統による生活名更新処理を停止。


 単独移送を停止。


 児童名簿更新を停止。


 医療物資承認を停止。


 関係資料、複製保全対象。


 黒崎は、赤いペンを持ったまま止まった。


 これまで、線を引くのは自分たちだった。


 不要な名前。


 危険な名前。


 戻してはいけない名前。


 保護のために変える名前。


 生活のために与える名前。


 そう判断し、赤い線を引いてきた。


 だが今、白羽そのものに線が引かれている。


 黒崎は通達をめくった。


 添付資料。


 旧南第三小学校側受領記録。


 外部処理分類、南部境界生活保証。


 現地受領分類、報酬扱い不可。


 止まっていたものの返還。


 黒崎は、その一行に赤い線を引こうとした。


 報酬扱い不可。


 その文字にペン先を置く。


 だが、手が止まった。


 欄外に小さく印字されている。


 複製保全済。


 旧南第三小学校側記録。


 国際保護班記録。


 EU共同監視枠記録。


 北方外郭管理写し。


 西日本暫定政府第三区受入班照合対象。


 黒崎の赤ペンでは、もう消えない。


 黒崎は、別の紙を見た。


 白い手袋の男。


 死亡。


 映像欠損、三秒未満。


 関係資料、複製保全。


 次の紙。


 陳維明。


 所属欄、空白。


 死亡表示なし。


 拘束表示なし。


 負傷表示なし。


 照会継続。


 次の紙。


 Jin FUKUOKA。


 移動。


 最終引き渡し地点へ向かう一時経路。


 目的地表示なし。


 黒崎は、机の上に紙を並べた。


 白い手袋の男は喋れない。


 陳維明は所属欄から消えた。


 Jin FUKUOKAは移動した。


 旧南第三小学校は報酬扱い不可と書いた。


 西日本暫定政府の第三区受入班は、白羽生活名の単独照合を止めた。


 北方の外郭管理が、生活保証を握った。


 EUが軍事監視を握った。


 白羽の紙は、ひとつずつ、他の机に移されている。


 封筒の底に、小さな紙片が一枚あった。


 日本語ではない。


 黒崎には読めなかった。


 ただ、翻訳紙が添えられていた。


 名簿を作る者は、名簿に載る日が来る。


 黒崎は、その紙片を見た。


 しばらくして、赤いペンを置いた。


 初めてだった。


 消すべき名前ではなく、消される側の欄に、自分たちの名が置かれている。


 黒崎は、通達の最後の行を見た。


 白羽生活支援系統。


 外部監視対象。


 管理する側ではない。


 管理される側として。


 窓の外では、夜の雨が降っていた。


 白い線を洗い流すには弱い雨だった。


 だが、紙に滲むには十分な雨だった。


 黒崎は、赤いペンを見た。


 それから、もう一度、報酬扱い不可の文字を見た。


 線は、引けなかった。


 記録上、ある。


 その一行が、黒崎の前から消えなかった。


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