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第六十話 八等分では足りない

##第六十話 八等分では足りない


 朝、校門には何も挟まっていなかった。


 白い封筒もない。


 札もない。


 支援物資の箱もない。


 坂道には、薄い霧だけが残っていた。


 悠斗は校門の内側に立ち、外を見てから振り返った。


「何もありません」


 健二はうなずいた。


「人は」


「いません」


「車は」


「見えません」


「じゃあ、戻る」


 悠斗はもう一度だけ坂道を見た。


 それから、校舎へ戻った。


 職員室だった部屋には、八人がいた。


 陸は机の上の紙を整えている。


 花音は窓際で小さな丸を描いている。


 美月は毛布を畳んでいた。


 千紘は水差しの横に立っている。


 悠太は、古い受信機の近くには座らなかった。


 蓮は床に腰を下ろし、何もない天井を見ていた。


 颯太は棚の前にいる。


 木箱を見ていた。


「……ある?」


 健二は棚を見た。


「ある」


 颯太は名札を触った。


「……今日?」


 部屋の空気が少し止まった。


 蓮が顔を上げる。


 陸の手も止まる。


 美月は、畳んでいた毛布の角を持ったまま、木箱を見た。


 健二はすぐには答えなかった。


 棚の前へ行く。


 木箱を両手で持つ。


 軽くはなかった。


 だが、危ない重さではない。


「開ける」


 颯太の指が名札の上で止まった。


「……食べる?」


「見てから」


 健二は木箱を机に置いた。


「急がない」


 蓮が言った。


「ここまで待って、まだ急がねえのかよ」


「急がない」


「腹減ってんだけど」


「それは知ってる」


「なら早くしろよ」


「蓮」


「何だよ」


「見るだけなら、近すぎる」


 蓮は舌打ちした。


 でも、机から半歩下がった。


 健二は釘を見た。


 強く打ち込まれてはいない。


 こじ開けるための道具もいらなかった。


 蓋の端に指をかける。


 木が小さく鳴った。


 蓋が開いた。


 部屋の誰も、すぐには声を出さなかった。


 中には、瓶が一つ入っていた。


 丸い瓶だった。


 赤いものが詰まっている。


 苺ジャムだった。


 ほかには、薄い紙が一枚。


 差出人の名前と、受領者の名前だけが書かれていた。


 健二は瓶を持ち上げた。


「苺ジャムだ」


 颯太が近づいた。


「……赤い」


「苺だからな」


 蓮が箱をのぞいた。


「これだけかよ」


「これだけだ」


「パンもねえのかよ」


 その時、廊下から足音がした。


 瀬田ハルが、盆を持って入ってきた。


 盆の上には、小さく切った硬いパンと、薄く入れたお茶があった。


「パンは、こっちで用意しました」


 瀬田は机の端に盆を置いた。


「一度にたくさん食べるものではありません。少しずつでいいです」


 美月が、パンを見た。


 千紘が、すぐ皿を取ろうとして手を止めた。


 健二は瓶を机に置いた。


「ジャムだけなら、分けられる」


 瀬田がうなずいた。


「パンに少し。食べにくい子は、お茶に少し溶かします」


 蓮は瓶を見た。


「菓子じゃねえのかよ」


「菓子より助かる」


 健二は答えた。


「急がなくていい」


   *


 陸が、すぐに紙を取った。


 パンの数を数える。


「一、二、三、四、五」


 そこで止まった。


「五個」


 蓮が言った。


「足りねえじゃん」


 陸は紙に丸を描いた。


 八個。


 その横に、小さな五本線。


「パンは五」


「八人だぞ」


「だから、切る」


 陸は、紙に線を引いた。


 五個のパンを、それぞれ二つに分ける。


 十。


 そこで、また止まった。


「十」


「足りるだろ」


 蓮が言った。


 陸は首を振った。


「八じゃない」


「俺ら八人だろ」


 陸は、花音の紙を見た。


 花音の紙には、八個の丸があった。


 少し離れて、一個。


 その外側に細い線。


 陸は言った。


「昨日、水飲んだ子がいる」


 蓮は黙った。


 美月が毛布を握った。


 颯太は瓶を見ている。


 悠斗は入口の近くで、人数ではなく全員の顔を見ていた。


 陸は紙にもう一つ丸を描いた。


「名前、まだ分からない」


 健二はうなずいた。


「分からないなら、決めつけない」


「じゃあ、ひとつ残す?」


「残せるなら残す」


 蓮が言った。


「外のやつまで入れたら、きりねえぞ」


「全部は入れない」


 健二は瓶の蓋を見た。


 まだ開けていない。


「でも、来たことで外さない」


「塞いだやつは」


「入れない」


「撮ったやつは」


「入れない」


「名前を変えようとしたやつは」


「止める」


 蓮は鼻を鳴らした。


「また面倒くせえ」


「面倒くさい」


 健二は言った。


「でも、面倒くさくしないと、すぐ誰かの分になる」


 瑠衣が紙を出した。


 ひと切れ、保留。


 理由、まだ名前を待つ子のため。


 陸がそれを見て、小さくうなずいた。


「保留」


「拒否じゃない」


 健二は言った。


「戻せるように置く」


   *


 千紘が、皿を並べ始めた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 皿は古い。


 縁が欠けているものもある。


 千紘は、欠けていない皿を先に子どもたちの前へ置いた。


 悠太。


 花音。


 颯太。


 美月。


 陸。


 蓮。


 悠斗。


 最後に、自分の分を取ろうとして、手が止まった。


 欠けた皿が一枚残っていた。


 千紘はそれを自分の前へ置こうとした。


 健二が言った。


「千紘」


 千紘の手が止まる。


「自分の皿を先に置け」


「でも」


「補助じゃない」


 千紘は、皿を持ったまま動かなかった。


 健二は、声を強くしなかった。


「佐伯千紘の分を置け」


 千紘は、欠けていない皿を一枚、自分の前に置いた。


 そのあとで、欠けた皿を机の端に置いた。


「これは?」


 陸が聞いた。


「保留の分」


 千紘は小さく答えた。


 その声は、いつもより少し柔らかかった。


 健二が瓶の蓋を開けた。


 硬い音がした。


 甘い匂いが、ほんの少しだけ出た。


 瀬田が小さな匙を渡す。


「多く塗らないでください。最初は少しです」


 健二はうなずいた。


 パンを小さく割り、皿に置く。


 ジャムは、ほんの少しずつだった。


 多く塗れば、すぐになくなる。


 少なく塗れば、全員に届く。


 千紘は、自分のパンにほとんど塗らなかった。


 赤い線が、かすかについた程度だった。


 花音がそれを見た。


 何も言わず、小さな匙を取る。


 千紘のパンに、苺ジャムを少し足した。


 千紘が花音を見る。


 花音は目をそらした。


 健二は何も言わなかった。


 言えば、花音が隠れてしまう。


 千紘は、小さく言った。


「ありがとう」


 花音の指が、紙の上で止まった。


   *


 美月の前には、小さく切ったパンが置かれた。


 ジャムは、爪の先ほどだった。


 美月はしばらく見ていた。


 誰も急かさなかった。


 蓮が見ようとした。


 健二が言った。


「見るな」


「見てねえよ」


「見てる」


「見てねえって」


「食べにくい」


 蓮は顔をそらした。


 悠太も目を伏せた。


 陸は数えるのをやめた。


 花音は紙に丸を描く。


 悠斗は入口のそばで、外ではなく美月の足元を見ていた。


 美月は、パンを持った。


 指先に力が入る。


 口へ運ぶ。


 少しだけ噛む。


 飲み込むまで、時間がかかった。


 健二は水を用意していた。


「水」


 美月はうなずいた。


 少し飲む。


 それから、息を吐いた。


「甘い」


 声は小さかった。


 だが、部屋の全員に届いた。


 颯太が瓶を見た。


「……甘い?」


 美月は少しだけ笑った。


「甘い」


 蓮が、顔をそらしたまま言った。


「そりゃジャムだし」


 千紘が、ほんの少しだけ笑った。


 音にはならなかった。


 美月は、もう一度パンを見た。


 少し迷った。


 それから言った。


「もう少し、いける」


 健二は、何も大げさに言わなかった。


 ただ、パンを小さくした。


「小さくする」


「うん」


「水も横に置く」


「うん」


「残していい」


 美月はうなずいた。


「でも、もう少し」


 健二は、もう一切れ置いた。


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 何かが治ったわけではない。


 足がすぐに動くようになったわけでもない。


 でも、戻っているものがあった。


 少し食べる。


 もう少し食べる。


 それだけで、戻る道が見えた。


   *


 颯太には、湯に溶かした。


 熱くないように、瀬田が器を持った。


 健二はその横で、落としそうになった時だけ受けられる位置にいた。


 茶葉を薄く出した湯に、苺ジャムをほんの少し落とす。


 赤がゆっくり広がった。


 颯太は器を見た。


「……赤い」


「苺だ」


「……飲む?」


「飲めるなら」


 颯太は両手で器を持った。


 健二は手を添えなかった。


 颯太は少し飲んだ。


 目を伏せる。


「……甘い」


「そうだな」


「……みんなで?」


 健二は、机を見た。


 皿が並んでいる。


 パンがある。


 苺ジャムがある。


 保留の皿がある。


 美月が、二口目を食べている。


 千紘が、自分の皿を前に置いている。


 蓮が顔をそらしながら、ちゃんと食べている。


 悠斗は最後に手を伸ばした。


 陸は保留の皿を数に入れている。


 花音は、九個目の丸の横に、小さな赤い点を描いた。


 健二は言った。


「みんなで」


 颯太は器を持ったまま、もう一度言った。


「……みんなで」


   *


 その頃、坂道の下で、南岸復旧組合の二トン車が停まっていた。


 車体には、南岸復旧組合とだけ書かれている。


 運転席の横に、灰色の作業服の男が立っていた。


 八坂辰蔵。


 南岸復旧組合の代表だった。


 背は高くない。


 だが、肩が四角い。


 工具を持っていないのに、そこにいるだけで何かを動かせる人間に見える。


 車を止める。


 人を退かせる。


 荷を通す。


 道を開ける。


 場合によっては、誰かの道を塞ぐ。


 若い組合員が、紙を持って駆けてきた。


「代表」


 八坂は手を出した。


「どこにあった」


「市場の下です。昨日の連中のワゴンが一回止まった場所です」


 紙は配送控えだった。


 支援物資配送確認票。


 旧南第三小学校。


 反応取得対象。


 第七〇五。


 第七〇八。


 生活名確認未了児童。


 木箱確認。


 受取不可時、支援拒否として記録。


 撮影録音不可時、不透明管理として記録。


 入場不可時、児童隔離として記録。


 使用語句。


 子どもの声。


 生活名の自由。


 第三者確認。


 現場判断不要。


 八坂は、最後の一行をしばらく見ていた。


 現場判断不要。


 若い組合員が言った。


「相原に持っていきますか」


「あぁ」


「旧南第三には」


「写しだけだ」


「原本は」


「相原だ」


 八坂は紙を折った。


「こいつら、子どもを見に来てねえな」


 若い組合員は黙った。


「反応を取りに来ただけだ」


 八坂は、旧南第三の校舎を見上げた。


 窓の中に、子どもの姿は見えない。


 それでよかった。


「子どもの中に、こんな紙を入れるな」


「はい」


「でも、真柴には見せる」


「なぜですか」


「受け取り方を間違えねえからだ」


 八坂は二トン車の荷台に手をかけた。


「相原へ回せ。そのあと、中部に一本入れる」


   *


 通信は、南岸市場の古い事務所から入れた。


 壁に地図が貼ってある。


 橋。


 荷場。


 古い倉庫。


 通れる道。


 通れない道。


 直している道。


 八坂は受話器を持った。


 相手が出るまで、何も言わなかった。


 雑音の向こうで、女の声がした。


『八坂かい』


「志乃さんか」


『生きてるよ。声で分かるだろ』


「中部は」


『表は落ち着いた』


「裏は」


 通信の向こうで、短く笑う声がした。


『落ち着くまでに、ずいぶん燃えた』


「市場か」


『市場は残した。燃えたのは、燃やそうとした連中だけだよ』


 八坂は紙を見た。


「こっちにも厄介が出た」


『南岸にも来たか』


「子どもの支援を名乗って、反応を取りに来てる」


『反応?』


「受け取らなければ支援拒否。録らせなければ不透明管理。入れなければ児童隔離。そう書いてある」


 通信の向こうで、志乃が黙った。


 八坂は続けた。


「現場判断不要、ともある」


『それは支援じゃないね』


「だろうな」


『中部にも似たのがいたよ。名前を変えれば助かる。古い名前は危ない。そう言って、名簿を燃やそうとした』


「燃やしたのか」


『燃やす前に止まった』


 八坂は、受話器を握り直した。


『荒事はあった。撃たれた。切られた。火葬場まで使われた』


「火葬場?」


『名前を灰にするには、ちょうどいい場所だったんだろうさ』


 八坂は黙った。


『でも、名簿は一部戻った。端末も、焼却予定も、生活名登録票も押さえた。中部の荷は、今は動いている』


「誰がやった」


『いろんな連中だよ』


「志乃さん」


『聞くな』


 八坂は、それ以上聞かなかった。


 通信の向こうで、志乃が息をつく音がした。


『そっちの紙、写しを寄越しな。中部のものと比べる』


「誰をこっちへ」


『もう向かわせた』


「早いな」


『慎吾は足だけは早い』


「口も早いだろ」


『うるさいのが難点だね』


 八坂は少しだけ口元を動かした。


「受け取ったら、相原にも回す」


『そうしな。紙は燃やすより回した方がいい』


「子どもの紙は、子どもの中に入れない」


『分かってるじゃないか』


「真柴という若いのがうるさい」


『うるさい若いのは残るよ』


 通信はそこで切れた。


 八坂は、しばらく受話器を持ったままでいた。


 壁の地図を見る。


 道がある。


 橋がある。


 消えた道もある。


 戻せる道もある。


   *


 夕方、一台の車が南岸市場の事務所前に止まった。


 降りてきた男は、作業服ではなかった。


 だが、きれいな格好でもない。


 顔には疲れが残っている。


 目つきは悪い。


 歩き方だけは速かった。


「八坂辰蔵さんですか」


 八坂は、二トン車の脇から男を見た。


「誰だ」


「鷲尾慎吾です」


「志乃さんのところの」


「そうです」


「早いな」


「急げと言われました」


「言われなくても急ぎそうな顔だ」


「よく言われます」


 鷲尾は、八坂の手元の紙を見た。


「それが南岸の配送控えですか」


「写しだ」


「見せてもらっても」


「先に話せ」


「何をです」


「中部で何があった」


 鷲尾は、少しだけ顔をしかめた。


「長いですよ」


「短くしろ」


「火葬場で、名前を燃やされかけました」


 八坂は黙った。


 鷲尾は続けた。


「生活名登録票。古い名前の名簿。焼却予定表。端末。そういうのを白羽がまとめてた」


「中部は安定したんじゃないのか」


「安定したのは、その後です」


 鷲尾は、配送控えの写しを受け取った。


「中部にも、変な男がいたんですよ」


「変な男?」


 八坂は、川の方を見たまま聞いた。


「兵隊屋です」


 鷲尾は少し顔をしかめた。


「しかも、だいぶぶっ飛んでる」


「名前は」


「俺は知りません」


「名乗らなかったのか」


「名乗ったのかもしれません。でも、俺が聞いたのは呼び名だけです」


「何て」


「雨合羽とロ助けは、ジンって呼んでました」


 八坂の目が、ほんの少し細くなった。


「ジン」


「ええ。でも俺が知ってるのは、そこまでです」


 鷲尾は、あの火葬場の熱を思い出すように、首の後ろをさすった。


「志乃さんが撃たれた時、そいつ、自分の防弾チョッキを脱いで、傷を押さえる道具にしたんですよ」


 八坂は黙っていた。


「ライフルまで志乃さんに持たせた。片腕で撃てって。近づけさせなきゃいいって」


「無茶だな」


「無茶です」


 鷲尾は即答した。


「でも、それで生きた」


 風が、二トン車の荷台の幌を揺らした。


「中ではどうした」


「白羽の作業員を、声も出させずに消していきました。殺したって意味じゃないですよ。いや、必要なら撃ってましたけど」


 鷲尾は自分で言って、少し嫌そうな顔をした。


「とにかく、普通じゃない。音を出さない。足を止めない。紙が燃やされる前に進む。それだけ見てる」


「紙?」


「生活名登録票です。古い名前の名簿。焼却予定表。端末。火葬場で燃やされかけてた」


 八坂は、そこで初めて鷲尾を見た。


「名前を焼いてたのか」


「焼こうとしてました」


 鷲尾の声が低くなった。


「生きてるやつと死んでるやつが、同じ箱に入ってた。古い名前も、生活名も、死亡扱いの欄も、全部です」


 八坂は何も言わなかった。


「ジンは、それを止めた。白い手袋の男も生かして外へ出した。名簿も、端末も、焼却予定も持ち出した」


「兵隊屋が、紙を守ったのか」


「そうです」


 鷲尾は短く笑った。


「変でしょう」


「変だな」


「撃つ時は撃つ。切る時は切る。人を壁に叩きつける。なのに、名前の紙だけは焼かせない」


 八坂は、しばらく黙った。


 昼間、旧南第三の校門で聞いた健二の声が、頭の奥で引っかかっていた。


 人を黙らせるためじゃなく、道を直すために。


 あの若い男は、そう言った。


 鷲尾の話の中の兵隊屋は、もっと荒い。


 もっと壊れている。


 だが、見ている場所が似ていた。


 紙。


 名前。


 帰る道。


「……面倒なのが、中部にもいるんだな」


「ええ」


 鷲尾はうなずいた。


「かなり面倒です」


 八坂は、それ以上聞かなかった。


 ジンという呼び名だけで十分だった。


 名前を深く聞けば、線が引かれる。


 線が引かれれば、誰かがその線を使う。


 まだ、使わせる時ではなかった。


「この紙は志乃さんに渡せ」


 八坂は、配送控えの写しを鷲尾に渡した。


「原本は相原へ出す」


「分かりました」


「中部の紙と比べるんだろ」


「はい」


「子どもの名前は使うな」


 鷲尾は八坂を見た。


「志乃さんにも同じことを言われました」


「なら二回聞け」


 鷲尾は少しだけ笑った。


「分かりました」


   *


 旧南第三小学校では、片づけが始まっていた。


 瓶の蓋を閉める。


 パンの粉を払う。


 皿を洗う。


 保留のひと切れは、小さな皿に置いた。


 ラップなどない。


 代わりに、清潔な布をかけた。


 瑠衣が紙に書いた。


 苺ジャム、開封。


 瀬田ハル準備の小型パン、分配。


 薄茶、使用。


 児童八名、摂取。


 保留一切れ。


 理由、まだ名前を待つ子のため。


 美月、一口摂取。


 追加一口、本人希望。


 健二はその行を見た。


「本人希望」


「必要です」


 瑠衣は言った。


 健二はうなずいた。


「必要だな」


 美月は、毛布を膝にかけて座っていた。


 顔色が劇的に良くなったわけではない。


 足の痛みが消えたわけでもない。


 でも、口元に少しだけ赤いジャムが残っていた。


 千紘が布で拭こうとして、手を止めた。


 美月が自分で拭いた。


 千紘は、少し迷ってから手を下ろした。


 健二は、それを見ていた。


「千紘」


「はい」


「それでいい」


 千紘は小さくうなずいた。


 颯太は、棚の方を見ている。


「……まだ、ある?」


「ある」


 健二は答えた。


「今日は、少し使った」


「……なくならない?」


「すぐにはなくならない」


「……みんなで?」


「みんなで」


 颯太はうなずいた。


 花音は、紙に描いた九個目の丸の横に、赤い点をもう一つ足した。


 陸がそれを見た。


「十?」


 花音は首を振った。


 赤い点を指差す。


 それから、美月を指差した。


 美月は、少し恥ずかしそうに目を伏せた。


 蓮が言った。


「何だよ」


 陸が答えた。


「二口目」


 蓮は黙った。


 それから、小さく言った。


「まあ、いいんじゃねえの」


 美月が顔を上げた。


「うん」


 声は小さかった。


 でも、昨日よりも少し前に出ていた。


   *


 夜、健二はラジオをつけなかった。


 外では、また何かが流れているかもしれない。


 支援拒否。


 児童隔離。


 不透明管理。


 そういう言葉が、どこかの声に混ざっているかもしれない。


 でも、今日は聞かなかった。


 部屋には、苺の匂いが少し残っていた。


 甘い匂いだった。


 強くはない。


 すぐに消えそうな匂いだった。


 それでも、あった。


 健二は棚を見た。


 木箱は、もう未開封ではない。


 約束は、なくなっていない。


 形を変えただけだった。


 開封。


 分配。


 保留。


 本人希望。


 記録の言葉は硬い。


 でも、その硬い言葉の中に、美月の二口目が残る。


 颯太の赤い湯が残る。


 千紘の皿が残る。


 花音の赤い点が残る。


 陸の数え直しが残る。


 蓮の「まあ、いいんじゃねえの」が残る。


 悠斗が最後に食べたことも残る。


 悠太が耳を塞がずに、匙の音を聞いていたことも残る。


 その日、旧南第三小学校では、初めて木箱を開けた。


 八等分では足りなかった。


 だから、八等分にはしなかった。


 少しずつ分けた。


 ひと切れ残した。


 名前を待つために。


 帰ってくる道を、まだ閉じないために。


 美月は、眠る前に小さく言った。


「甘かった」


 健二は電灯を落とした。


「ああ」


 それだけ答えた。


 外では、八坂辰蔵が紙を回していた。


 中部では、鷲尾が車を走らせていた。


 通信の向こうでは、的場志乃が南岸の写しを待っていた。


 まだ線は結ばれていない。


 けれど、紙は燃えなかった。


 名前は番号に戻らなかった。


 道も、声も、甘い匂いも、まだ残っていた。


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