第五十一話 動かない証人
## 第五十一話 動かない証人
白い部屋だった。
壁も白い。
天井も白い。
机も、白に近い灰色だった。
窓はない。
椅子は床に固定されている。
天井の隅には監視カメラ。
机の上には録音機。
壁には小さな時計。
扉の外にはNATO側の警備員が二人。
さらに廊下の外側には、国連監視班の机が置かれていた。
入退室記録。
顔認証。
署名。
映像。
音声。
二重記録。
紙の上では、すべてが揃っていた。
ここには、市場の匂いがない。
血の匂いもない。
油の匂いもない。
火葬場の熱もない。
古い花の匂いもない。
あるのは、消毒液と紙の匂いだけだった。
白い手袋の男は、椅子に座っていた。
手袋は、もう男の手にはない。
透明な証拠袋の中に入れられ、机の端に置かれている。
白い手袋。
指先に残った灰。
紙の粉。
古い名簿の繊維。
火葬場登録室の机に付いていた黒い汚れ。
それらは、男から切り離されていた。
男の素手は、細かった。
爪は整っている。
血も泥もほとんどない。
銃を持つ手ではない。
刃物を握る手でもない。
人を運ぶ手でもない。
紙を扱う手だった。
独房の中にいるのは、白い手袋の男だけではなかった。
NATO側の記録官。
通訳。
国連監視班の職員。
それだけだった。
ジンはいない。
鷲尾もいない。
ミーシャもいない。
志乃もいない。
市場の人間は、誰も入れられていない。
音声も外部には流されていない。
ただ、この部屋の中で記録される。
そのための部屋だった。
記録官が、机の上の紙を見た。
「火葬場の登録室にいた理由は」
通訳が訳した。
白い手袋の男は、少しだけ目を動かした。
疲れているようにも見えた。
退屈しているようにも見えた。
だが、怯えてはいなかった。
「記録の確認です」
記録官は表情を変えなかった。
「生活名登録票を扱いましたか」
「はい」
「焼却予定表も」
「確認しました」
「古い名簿も」
「必要でした」
男の声は、平らだった。
自白ではない。
弁明でもない。
仕事の説明だった。
記録官は別の紙を出した。
「この欄を見てください」
男は視線だけを落とす。
「死亡処理欄に、生存者と思われる名前が入っています」
「混乱地域では、記録が重なります」
「子どもの古い名前が、焼却予定表にあります」
「古い名前が危険になる場合があります」
「危険とは」
「追跡、誘拐、報復、所有関係の再主張。混乱地域では、古い名前が本人の安全を損なう場合があります」
記録官は、少しだけ手を止めた。
「誰が判断しましたか」
「記録上、そう処理されていました」
「あなたが処理したのですか」
男は、初めて眉を動かした。
理解できない、という顔だった。
「私は整えただけです」
部屋の時計が、小さく音を立てた。
記録官は次の質問へ進んだ。
「火葬炉を操作しましたか」
「していません」
「銃を撃ちましたか」
「撃っていません」
「指輪を袋に入れましたか」
「入れていません」
「青い医療用クーラーボックスの搬送に関わりましたか」
「管理していません」
「子どもを運びましたか」
「運んでいません」
「では、あなたは何をしたのですか」
男は、まっすぐ記録官を見た。
怒りはない。
怯えもない。
反省もない。
本気で不思議そうだった。
「記録を整えました」
通訳が訳す。
部屋の空気が、少し冷たくなった。
男の中では、本当にそうだった。
火葬炉を動かしたのは別の者。
銃を撃ったのも別の者。
指輪を外したのも別の者。
子どもを運んだのも別の者。
箱を積んだのも別の者。
自分は、紙の欄を揃えただけ。
古い名前を生活名へ置き換えた。
重複した名簿を整理した。
所在不明者を処理欄に移した。
死者と生存者の情報を、制度に合わせて分類した。
混乱した現場を、記録へ戻した。
それだけだった。
記録官は聞いた。
「その記録で、人が消えるとは思わなかったのですか」
男は答えた。
「記録がない方が、人は消えます」
「死亡処理欄に入れば、その人は死亡扱いになります」
「扱いです」
「生活名へ変われば、古い名前では探せなくなります」
「探されないために必要な場合があります」
「本人に確認しましたか」
男は、少しだけ首を傾げた。
「混乱地域で、すべての本人確認を待つことはできません」
「子どもでも」
「子どもだからこそ、早く安全な名前が必要です」
安全な名前。
その言葉が、机の上に落ちた。
記録官は、その言葉を書き留めた。
安全な名前。
男は続けた。
「古い名前に縛られることで、子どもが危険になる場合があります。帰る場所が危険であることもあります。家族が保護者でない場合もあります。地域のしがらみが本人を傷つける場合もあります」
「だから、名前を変える」
「生活に合わせます」
「本人が望まなくても」
「本人が望める状態にない場合があります」
記録官は、男を見た。
この男は、嘘をついているのではない。
少なくとも、今この瞬間は。
自分の言っていることを、本気で必要な仕事だと思っている。
悪意のある顔ではなかった。
だからこそ、たちが悪かった。
記録官は、机の端に置かれた証拠袋を見た。
白い手袋。
この男は、その手袋で紙に触った。
名簿に触った。
生活名登録票に触った。
焼却予定表に触った。
だが、火には触っていない。
血にも、ほとんど触っていない。
だから、自分は汚れていないと思っている。
記録官は、別の資料を出した。
「この名簿にある子どもは、火葬場搬入予定表にもあります」
男は紙を見た。
「予定です」
「死亡が確認されていません」
「確認中です」
「生存している可能性があります」
「だから、記録上重複していると申し上げています」
「あなたは、その重複をどう処理しましたか」
「生活名側へ統合しました」
「古い名前は」
「保管対象です」
「保管とは」
「必要時に参照できる状態です」
「誰が参照できますか」
男は少し黙った。
「権限を持つ者です」
「本人は」
「本人確認が必要です」
「本人が古い名前を言えなければ」
「保護上、慎重に扱われます」
記録官は、ペンを置いた。
「つまり、本人が自分の古い名前を言えなければ、その名前へ戻れない」
男は否定しなかった。
「誤認を防ぐためです」
「その結果、本人は帰れなくなる」
男は、そこで初めて少しだけ不快そうな顔をした。
「帰る場所が安全とは限りません」
「誰が決めるのですか」
「保護側です」
「あなたですか」
「私は記録を整えます」
また同じ答えだった。
記録官は、そこで分かった。
この男は、自分の立っている場所を決して中心とは言わない。
決めたのは別の者。
運んだのは別の者。
焼いたのは別の者。
撃ったのは別の者。
奪ったのは別の者。
自分は、その結果を記録へ戻すだけ。
だから、自分は無実だと信じている。
いや、無実という言葉すら、この男には大げさなのかもしれない。
必要な作業。
ただ、それだけ。
記録官は聞いた。
「あなたは、自分が人を消したとは思っていないのですね」
男は、少しだけ目を細めた。
ようやく質問の意味が不快だったらしい。
「人を消すのは、記録がない状態です」
「あなたの記録によって、古い名前が消えます」
「古い名前を残すことで、人が危険になる場合があります」
「では、帰る場所は」
「安全確認後です」
「その確認が終わる前に、火葬場で焼却予定へ入った場合は」
男は答えなかった。
記録官は、待った。
通訳も待った。
国連監視班の職員も、ペンを止めた。
男は、ゆっくり言った。
「現場の混乱です」
その言葉で、記録官はもう十分だと思った。
現場の混乱。
誰かが消えた時に、責任を置くための便利な穴。
男は続けた。
「だからこそ、記録を整える必要があります」
記録官は、録音機を確認した。
動いている。
映像も残っている。
この男は、ほとんど何も喋っていない。
だが、十分だった。
自分が何をしたか、男は理解していない。
理解していないのではなく、理解する場所に自分を置いていない。
記録の外で人が泣く。
記録の外で人が焼かれる。
記録の外で名前が失われる。
男は、その後から紙を整える。
それを仕事と呼ぶ。
記録官は最後に聞いた。
「後悔はありますか」
男は、少しだけ間を置いた。
「不備はありました」
「後悔ではなく」
「改善すべき点はあります」
「人が消えたことについては」
男は、また本気で不思議そうな顔をした。
「私は、人を消していません」
静かだった。
記録官は、ペンを置いた。
「本日の確認はここまでです」
通訳が訳した。
男は頷いた。
疲れたという顔ではなかった。
助かったという顔でもなかった。
ただ、業務が一区切りした人間の顔だった。
独房の扉が開いた。
記録官と通訳、国連監視班の職員が外へ出る。
扉が閉まる。
白い手袋の男は、椅子に座ったまま動かなかった。
机の端には、証拠袋に入った白い手袋。
男はそれを見ない。
自分の手が空になったことにも、たいして関心がないようだった。
廊下の外で、記録官は短く言った。
「彼は、自分を悪だと思っていません」
国連監視班の職員が答えた。
「よくあることですか」
記録官は首を振った。
「いいえ」
少し間を置いて、続けた。
「よくあることにしてはいけない種類のものです」
その記録は、すぐに整理された。
白い手袋の男は、証人として登録された。
高リスク証人。
単独接触禁止。
二名以上立会い。
映像記録常時保存。
音声記録常時保存。
NATO側、国連側、二重保全。
外部武装者との接触禁止。
市場関係者との接触禁止。
保護対象関係者との接触禁止。
完全ではない。
それでも、完全に近い安全。
そう書かれた。
会議室で、ミーシャはその初期記録を読んでいた。
ジンは窓際に立っている。
外の光はまだ薄い。
市場の方向は、ホテルの壁に隠れて見えない。
ミーシャが言った。
「彼は、自分が人を消したと思っていません」
ジンは答えた。
「そうだろうな」
「なぜ分かりますか」
「火葬場で見た」
「何を」
「紙を見る目だ」
ミーシャは端末を伏せた。
「紙を見る目」
「人を見てなかった」
少し沈黙があった。
ミーシャは言った。
「証言としては不十分です」
「証拠は」
「あります」
「なら残せ」
「残します」
ジンは、窓の外を見た。
白い手袋の男は、生きている。
椅子に座っている。
映像に映っている。
二重記録に入っている。
監視されている。
守られている。
だが、証人として動くかどうかは分からない。
あの男は、もう十分に動いていなかった。
身体ではない。
心が。
名前が焼かれることにも。
子どもが生活名へ置き換えられることにも。
帰る道が消えることにも。
何も動いていなかった。
ミーシャが言った。
「彼を生かしておく必要があります」
ジンは答えた。
「生きてても、喋るかは別だ」
「それでも証人です」
「動かない証人だ」
ミーシャは、その言葉を記録しなかった。
少しだけ、手が止まった。
それから端末を閉じた。
「志乃さんの容体を確認します」
「ああ」
「あなたも処置が必要です」
「後でいい」
「医師が怒ります」
「怒らせとけ」
ミーシャは、いつものように平らな声で言った。
「あなたは、怒られる対象が多すぎます」
ジンは少しだけ目を細めた。
笑ったわけではなかった。
だが、空気がほんの少しだけ緩んだ。
その時、廊下の向こうで台車が通った。
医療用の台車だった。
白いシーツ。
金属の足。
消毒液の匂い。
ホテルの壁の中では、人が助けられている。
傷を縫われる者。
点滴を受ける者。
名前を確認される者。
証拠として保全される者。
そして、独房には白い手袋の男がいる。
生きている。
まだ、生きている。
ジンは、窓に映った自分の顔を見た。
真柴直樹ではない。
Jin FUKUOKAでもない。
市場の誰かでもない。
今はただ、紙と紙の間に立っている男だった。
紙は人を消す。
紙は人を残す。
そのどちらが勝つかは、まだ分からない。
白い手袋の男は、独房の椅子に座ったまま、ほとんど動かなかった。
証人は、生きていた。
だが、その目は最後まで、自分が作った空白を見ようとはしなかった。




