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第五十話 線の内側

## 第五十話 線の内側


NATO車両の灯りが見えた時、鷲尾は初めて膝を落としかけた。


市場の明かりとは違う。


露店の裸電球でもない。

薬屋の蛍光灯でもない。

火葬場の白い熱でもない。


硬い光だった。


青白く、一定で、揺れない。


そこに人の暮らしの温度はなかった。

だが、その分だけ、今夜は信用できた。


NATOの車両は、西側道路に三台並んでいた。


前後に装甲車。

中央に医療車両。

その横に、仮設の記録テント。


テントの入口には、二つの国旗と、いくつもの小さな標識が貼られていた。


NATO。

国連監視班。

外国人保護調整班。

医療支援班。

証拠保全室。


その文字を見ても、鷲尾には何が何だか分からなかった。


ただ、一つだけ分かった。


ここから先は、市場ではない。


的場の顔も通らない。

華南の白い線もない。

白羽の紙も、簡単には入れない。


ジンは白い手袋の男を押して歩いた。


男の手は縛られている。

だが、顔はまだ落ち着いていた。


自分が悪人だとは思っていない顔だった。


火葬場で殴られたからではない。

捕まったからでもない。

ただ、納得できない顔をしていた。


「私は、整理しただけです」


誰に言うでもなく、男は呟いた。


「名前が混乱していれば、配給も医療も届かない。保護には記録が必要です」


ジンは何も言わなかった。


鷲尾が低く言った。


「まだ言うかよ」


男は鷲尾を見た。


「あなた方の市場こそ、記録が乱れている。誰がどこに住み、誰が誰の子で、誰が医療を必要としているのか。整理しなければ、弱い者から消えます」


鷲尾の顔が歪んだ。


「整理ってのは、指輪を袋に入れることか」


男は黙った。


「金歯を抜くことか。生きてるやつと死んでるやつを同じ箱に入れることか。子どもの古い名前を焼くことか」


男は静かに答えた。


「例外は、どの制度にもあります」


鷲尾が殴りかけた。


ジンが止めた。


「ここではやるな」


鷲尾は歯を食いしばった。


「分かってる」


「分かってない顔だ」


「分かってるって言ってんだろ」


白い手袋の男が、薄く笑った。


その笑いは、すぐ消えた。


NATOの隊員が二人、前へ出てきた。


一人は銃を持っている。

もう一人は、端末と透明な袋を持っている。


ミーシャがその前に立った。


雨合羽は裂れていた。

肩には血がついている。

顔は白い。


それでも声は乱れていなかった。


「拘束対象一名。火葬場登録室で確保。生活名登録票、焼却予定表、火葬場搬入記録、端末、古い名簿を同時搬出」


記録官が頷いた。


「受領します」


通訳が同じ内容を日本語にした。


ミーシャはすぐに言った。


「接触記録を取ってください。対象は、単独で保管しない。監視映像、音声、入退室記録、複数国立会い。すべて必要です」


記録官が顔を上げた。


「分かっています」


「分かっているだけでは足りません」


ミーシャの声は冷たかった。


「この対象は、死ぬと都合がいい人間です」


白い手袋の男が、わずかに眉を動かした。


記録官は一拍置いてから、端末へ入力した。


「対象、高リスク証人。単独接触禁止。二名以上立会い。映像記録常時保存」


ミーシャはまだ見ていた。


記録官は続けた。


「監視はNATO側と国連側の二重記録。証拠保全室とは別系統。入退室者は顔認証と署名。武器持ち込み禁止」


ミーシャは頷いた。


だが、安心した顔ではなかった。


ジンが聞いた。


「どこまで安全だ」


記録官はジンを見た。


通訳が訳す。


記録官は、少しだけ言葉を選んだ。


「この線の内側では、かなり近いところまで保証できます」


「完全ではないのか」


「完全という言葉は使えません」


記録官はテントの外を見た。


道路の向こう。

市場。

火葬場。

華南の消えかけた線。

白羽の紙が舞っていた夜。


それらを見たあと、彼は言った。


「しかし、ここでは誰かを黙って消すことは難しい。ここでは、誰が触れたか、誰が見たか、誰が入ったかが残る。証人が死んでも、死んだ事実を消すことはできない」


ジンはその言葉を聞いた。


完全ではない。


だが、外よりはましだった。


白羽の紙は、名前を消す。


NATOの紙は、消えたことを残す。


それだけでも、今夜は大きかった。


ミーシャが白い手袋の男を隊員へ渡した。


隊員は男の腕を掴まなかった。


まず、写真を撮った。

拘束具の状態。

手袋。

顔。

衣服。

血の有無。

持ち物。


それから、透明な袋に手袋を入れた。


白い手袋の男が初めて反応した。


「それは私物です」


記録官が答えた。


「証拠です」


「私は暴力を振るっていない」


ミーシャが言った。


「紙に触りました」


男は黙った。


「ここでは、それも証拠です」


白い手袋の男は、ゆっくりとミーシャを見た。


「あなた方は、記録を信じすぎている」


ミーシャは答えた。


「あなたほどではありません」


男の顔から、少しだけ表情が消えた。


隊員が男をテントの奥へ連れていく。


白い手袋の男は一度だけ振り返った。


ジンでも、鷲尾でも、ミーシャでもない。


彼は、証拠袋に入れられた古い名簿を見ていた。


子どもの古い名前。

市場の名前。

学校の名前。

死者と生者を分ける前の名前。


男は言った。


「古い名前では、守れない子もいる」


ジンは答えた。


「勝手に焼くな」


それだけだった。


男は奥へ消えた。


その瞬間、鷲尾の肩から力が抜けた。


「……渡ったのか」


ミーシャが頷いた。


「はい」


「もう、白羽は手を出せねえのか」


ミーシャはすぐには答えなかった。


鷲尾が苛立つ。


「何だよ」


「簡単には、です」


「簡単には?」


「ここは、今夜の中では最も安全です。NATO、国連監視、外国人保護調整班、医療班、証拠保全班。複数の系統が同時に見ています」


ミーシャはテントを見た。


「ここで何かが起きれば、隠すより先に記録が残ります」


鷲尾は息を吐いた。


「つまり」


「かなり安全です」


「かなりかよ」


「完全に近い」


鷲尾はその言葉を聞いて、ようやく地面に座り込んだ。


「先にそれを言え」


ジンは志乃を見た。


志乃は医療車両の横に運ばれていた。


顔色は悪い。

だが、まだ目は開いている。


FAMASは回収され、別の隊員が記録していた。

志乃の身体に巻かれたチェストリグも、そのまま外されていない。


医師が傷を見ようとして、手を止めた。


「これは誰が」


通訳が訳す。


鷲尾が言った。


「こいつです」


ジンを指した。


医師はチェストリグの巻き方を見た。


負傷側の腕は通されていない。

腕ごと身体に固定されている。

脇腹には布が挟まれ、圧迫されている。


医師は少しだけ頷いた。


「乱暴ですが、助かっています」


通訳がそう訳した。


鷲尾はジンを見た。


「助かってるってよ」


ジンは答えなかった。


志乃が薄く目を開けた。


「聞こえてる」


鷲尾が慌てて近づいた。


「志乃さん、喋んなくていいです」


「うるさい」


「今は本当に喋んなくていいです」


「慎吾」


「はい」


「市場は」


鷲尾は一瞬詰まった。


それから、振り返って丘の下を見た。


中部市場の明かりが見える。


小さい。

だが、消えていない。


「燃えてません」


志乃は小さく息を吐いた。


「ならいい」


医師が処置を始めた。


チェストリグのベルトを切る。

血で固まった布を慎重に外す。

新しい圧迫材を当てる。

点滴を通す。

止血剤を使う。


鷲尾はそのたびに顔をしかめた。


「痛そうにすんな」


志乃が言った。


「お前が痛そうなんだよ」


「だって痛そうなんで」


「黙れ」


医師が短く言った。


「意識は保っています。出血は多いが、搬送可能です」


通訳が訳す。


鷲尾はその場で深く息を吐いた。


それは、今夜初めての息だった。


肩で吸う息ではない。

怒鳴る前の息でもない。

安心して、身体が勝手に落とした息だった。


ミーシャも医療班に腕を掴まれていた。


「私は後で」


「今です」


医師は短かった。


ミーシャは抵抗しなかった。


黒い雨合羽の肩が裂かれ、傷が見える。

思っていたより深い。


ジンは見た。


ミーシャは視線を逸らさなかった。


「問題ありません」


医師が言った。


「問題あります」


通訳が訳す前に、ラソアの声が無線に入った。


「雨合羽は嘘が下手だな」


ミーシャは無線を切ろうとした。


ジンが止めた。


「聞かせろ」


「なぜですか」


「静かだと寝る」


ミーシャは少しだけ眉を寄せた。


「寝ません」


「なら聞かせろ」


ラソアが笑った。


「良い判断だ。負傷者は退屈すると死にたくなる」


ミーシャは無線を切った。


鷲尾が横で言った。


「切ったぞ」


「聞こえてるだろ」


ジンは答えなかった。


その時、NATOの証拠保全室から記録官が出てきた。


顔が変わっていた。


「端末の一部を確認しました」


ミーシャが振り向く。


「内容は」


「市場だけではありません」


その場の空気が変わった。


記録官は端末を見た。


「水源。医療物資。火葬場搬入。生活名登録。移送予定。死亡処理。複数の地域が同じ形式で記録されています」


通訳が訳すたびに、鷲尾の顔が悪くなった。


記録官は続けた。


「白羽生活支援系統だけではない。物流、医療、葬送、登録処理が接続されています」


ジンは聞いた。


「一本の線か」


「はい」


記録官は頷いた。


「少なくとも、そう見えます」


鷲尾が低く言った。


「うちの市場だけじゃねえのか」


ミーシャが答えた。


「違います」


志乃が医療車両の中から目を開けた。


「だから、火葬場だった」


誰も否定しなかった。


記録官は続けた。


「火葬場の搬入記録に、生存者と思われる生活名が混在しています。死亡処理欄と移送欄が同時に存在するものがある」


鷲尾が声を荒げた。


「どういう意味だ」


記録官は黙った。


通訳も、すぐには訳さなかった。


ミーシャが代わりに言った。


「生きている人間を、死者の処理に混ぜられる可能性があります」


鷲尾の顔が固まった。


「……名前を焼くってことか」


ジンは言った。


「帰る道を消す」


その言葉で、志乃が目を閉じた。


奥村先生の薬箱。

市場の子ども。

英語の教科書。

米屋の親子。

火葬場の名簿。


全部が、一本の線でつながっていた。


記録官は、証拠袋を机に並べた。


一つずつ、番号が振られる。


古い名簿。

生活名登録票。

端末。

焼却予定表。

搬入記録。

貴金属の袋。

ドナー用クーラーボックスのラベル写真。


鷲尾はそれを見ていた。


「こんだけあれば、終わるのか」


誰もすぐには答えなかった。


ジンも、ミーシャも、記録官も。


鷲尾は笑いそうになった。


「何で黙るんだよ」


ミーシャが言った。


「証拠は揃い始めています」


「なら」


「でも、証人が必要です」


鷲尾はテントの奥を見た。


白い手袋の男が連れて行かれた方。


「いるだろ」


「はい」


ミーシャは頷いた。


「だから、守らなければいけません」


ジンはその言葉を聞いて、テントの奥を見た。


白い布の壁。

監視カメラ。

記録端末。

複数国の立会い。


完全に近い安全。


今夜、初めて出てきた言葉。


だが、ジンはそれを信用しすぎなかった。


完全に近いという言葉は、完全ではないという意味でもある。


それでも、志乃は医師の手に渡った。

ミーシャも治療を受けている。

白い手袋の男も記録の中に入った。

証拠は番号を与えられた。


市場の外で、初めて何かが止まった。


鷲尾は地面に座ったまま、空を見上げた。


「……安全って、こんなに疲れるもんなのか」


ジンは答えた。


「外よりましだ」


鷲尾は目を閉じた。


「またそれかよ」


志乃が医療車両の中から、かすかに言った。


「今夜は、それで生きるんだろ」


鷲尾は黙った。


そして、小さく笑った。


市場はまだ燃えていない。


名前も、まだすべて灰にはなっていない。


証人も、まだ生きている。


NATOの線の内側で、ほんの短い時間だけ、全員がそれを信じた。


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