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第四十九話 殯儀館

## 第四十九話 殯儀館


火葬場へ向かう道は、地図には残っていなかった。


舗装は途中で切れ、草に埋もれた管理道が山側へ伸びている。

市場から三キロ。

近い。

だが、知らなければ辿り着けない。


志乃が先頭を歩いていた。


黒い上着の裾は、煤と泥で重くなっている。

手には古い鍵束。

的場が昔、灰を運んでいた道だと彼女は言った。


鷲尾はその後ろで、ずっと不機嫌な顔をしていた。


「志乃さん、本当にこっちで合ってるんですか」


「黙って歩け」


「いや、ここ、もう道じゃねえですよ」


「道だった」


「過去形じゃねえですか」


ジンは二人の後ろを歩いた。


FAMASは、まだ持っていた。


だが、最初に市場へ入った時とは、もう形が違って見えた。


銃身には煤がこびりつき、ハンドガードには細かい傷が走っている。

泥が乾いて、また濡れ、黒い筋になっていた。


ラソアから受け取ったチェストリグも、ひどい有様だった。


胸の防弾板の上には、弾を受けた白い擦過痕。

端の布は裂け、焦げた糸が飛び出している。

予備弾倉を入れるポーチの留め具は片方ちぎれていた。

肩紐は血と泥で固まり、動くたびに硬く擦れる。


膝当ては片方なくなっている

手袋の指先は破れ、血が黒く乾いている。

無線機の外装にもひびが入っていた。


ジンが歩くたび、装備のどこかが鳴った。


金属の軽い音ではない。


防弾プレートが割れた、コンクリート同士がこすれるような、硬く濁った音。

砕けた石が、軍靴の裏で押し潰されるような音。

防弾板と銃の部品が、疲れた骨みたいに当たる音。


鷲尾が振り返った。


「お前、歩くだけでうるせえな」


ジンは答えなかった。


「その格好で火葬場に入る気かよ。ばればれだぞ」


「まだ外だ」


「中に入ったら?」


「考える」


「考えてから来い」


志乃が前で言った。


「慎吾、黙れ」


「はい」


管理道は、墓地の裏へ回り込んでいた。


敷地の奥には、大きな墓が並んでいる。


日本の墓石とは少し違う。

横に広く、灰色の石で囲われ、名前の彫り方も異なっている。

中国名らしき文字が刻まれた墓。

土葬の跡のように盛り上がった場所。

さらに奥には、樹木葬と書かれた新しい区画もあった。


その向こうに、火葬場が見えた。


いや、火葬場というより、殯儀館だった。


低い管理棟。

横に長い告別室。

裏手の搬入口。

白い煙突。

白い箱型車両が出入りできる幅のシャッター。


日本の斎場のように、遺族が控室で待ち、骨を拾うための場所ではない。


死者を預かり、分け、処理し、後で渡す。

そういう流れのために作られた施設だった。


そして、おかしいことに。


この状況でも、火は入っていた。


煙突から、薄い煙が出ている。


誰を焼いているのかは分からない。


だが、動いていた。


志乃が足を止めた。


「裏の灰置き場から入る。昔、的場が使ってた搬入口がある」


鷲尾が低く言った。


「鍵は」


「ある」


「生きてるんですか」


「壊れてる」


「鍵の意味ねえじゃないですか」


「合図の意味はある」


志乃が古い門へ近づく。


その時だった。


草の中で、石が鳴った。


ジンが先に動いた。


「伏せろ」


言い終わる前に、銃声が来た。


一発目は、ジンのチェストリグを擦った。


胸元で鈍い音がした。

砕けた石が胸に当たったような音だった。


二発目が、門の支柱を削る。


三発目で、志乃が崩れた。


鷲尾が叫んだ。


「志乃さん!」


志乃は門の脇に膝をついた。


黒い上着の横腹から、血が広がっていた。

顔色が一気に失せている。


鷲尾が完全に動揺した。


「志乃さん、どこですか、どこ撃たれたんですか、いや、ちょっと、血が」


「黙れ」


志乃は歯を食いしばって言った。


「騒ぐな」


鷲尾は手を伸ばしたり引っ込めたりしている。


「押さえればいいんですか。いや、どこを。志乃さん、これ、まずいですよ」


ジンは志乃の横に滑り込んだ。


銃声はまだ来る。


狙撃ではない。

近い。


墓石の向こう。

樹木葬区画の看板の裏。

二人。


ジンはFAMASを上げた。


一人目が次弾を撃つ前に、撃った。


墓石の影で、人が崩れる。


二人目が移動する。


ジンは立たない。


膝をついたまま、割れた膝当てを石に擦りつけて角度を作った。

硬い音が鳴る。

コンクリートと石が噛み合うような音だった。


撃った。


二人目が草の中に沈んだ。


まだ終わらない。


火葬場の屋上から、光が一瞬だけ動いた。


ジンは撃たなかった。


遠すぎる。

角度が悪い。

今撃てば、場所を晒すだけだった。


代わりに、志乃の上へ身をかぶせた。


弾が近くの墓石を叩く。


石の破片が飛び、ジンの頬を切った。


鷲尾が叫ぶ。


「どうすりゃいい!」


ジンは志乃の傷を見た。


深い。


だが、まだ間に合う。


「押さえろ」


「どこを!」


ジンは鷲尾の手を掴み、志乃の左横腹へ押しつけた。


「ここだ。強く」


「強くって、こんなに?」


「死なせたくないなら強く」


鷲尾の顔から色が消えた。


だが、手は動いた。


志乃が呻いた。


鷲尾は震えた。


「すみません、志乃さん、すみません」


「謝るな」


志乃の声は細かった。


「手を離すな」


鷲尾は歯を食いしばった。


「離しません」


ジンはチェストリグの留め具に手をかけた。


血と泥で固まっていた留め具が、なかなか外れない。

無理に引くと、裂けた布が硬い音を立てた。


ようやく外れた。


ジンはラソアのチェストリグを脱ぎ、志乃の方へ押し出した。


鷲尾が目を剥いた。


「志乃さんに着せる気かよ」


「着せろ」


「撃たれてんだぞ」


「だからだ」


鷲尾は言葉に詰まった。


ジンは志乃の傷を見た。


左横腹から脇の下にかけて、血が広がっている。

腕を動かせば、傷口が開く。


ジンは短く言った。


「負傷側の腕は通すな」


鷲尾は混乱した顔をした。


「は?」


「腕ごと固定する」


ジンは志乃の負傷した側の腕を、身体の横へ押しつけた。


志乃が息を詰める。


「我慢しろ」


「命令するな」


「なら死ぬな」


志乃は歯を食いしばった。


ジンはチェストリグの片側だけを志乃の無事な腕へ通した。


負傷側は通さない。


代わりに、防弾板と肩紐を、志乃の脇腹から胸にかけて斜めに当てる。

傷口の上へ直接押しつけるように布を挟む。

しかし、緩めない。


血が滲む場所を、腕ごと身体へ押し込む。


鷲尾が顔を歪めた。


「これ、痛いだろ」


「痛い」


志乃が低く言った。


「でも、止まる」


ジンは頷いた。


「押さえ続けるよりましだ」


鷲尾は震える手で、チェストリグのベルトを回した。


泥で滑る。

血で指がずれる。

留め具がうまく噛まない。


「くそ、入らねえ」


「落ち着け」


「落ち着けるかよ」


ジンが鷲尾の手を押さえた。


「見ろ」


留め具の向きだけを直す。


硬い音がして、バックルが噛んだ。


ジンはベルトを引いた。


志乃の身体が震える。


負傷側の腕が、チェストリグと身体の間で固定された。

脇腹の布が押さえられ、血の流れが少しだけ鈍る。


志乃は息を吐いた。


長い息だった。


鷲尾が青い顔で聞いた。


「これでいいのか」


「ないよりましだ」


鷲尾はジンを睨んだ。


「その言葉、ほんと嫌いだ」


志乃が薄く笑った。


「でも、今は正しい」


ジンはFAMASを草の中から引き寄せた。


銃身には煤がこびりつき、ハンドガードには細かい傷が走っている。

泥が乾いて、また濡れ、黒い筋になっていた。


長い銃だった。


火葬場の中では邪魔になる。

だが、外で道を押さえるには使える。


ジンは残った弾倉を一本、FAMASに入れ直した。


硬い音がした。


割れたコンクリートと石が噛み合うような、乾いた音だった。


鷲尾が言った。


「おい、それまで渡すのか」


「中では使えない」


「志乃さんは片腕だぞ」


「片腕でも小銃は撃てる」


志乃が、血の気のない顔で言った。


「聞こえてる」


鷲尾が振り向く。


「志乃さん、無理です」


「無理かどうかは、私が決める」


「いや、でも」


「慎吾」


「はい」


「銃を寄せろ」


鷲尾は悔しそうに顔を歪めた。


それでも、FAMASを志乃の無事な右側へ寄せた。


ジンは安全装置を外してと引き金の位置だけを示した。


「狙って撃つな」


志乃は銃を見る。


「当てなくていいのか」


「当てる必要はない。近づいたら足元に撃て。そうすれば、どうにかなる」


鷲尾が言った。


「そんな説明で使わせるのかよ」


「ないよりましだ」


「またそれかよ」


志乃は短く笑った。


「慎吾、覚えろ。今夜はそれで生きる」


その瞬間、次の弾が来た。


門の上の石が砕けた。


志乃は無事な側の手でFAMASを押さえた。


負傷した腕は、チェストリグごと身体に固定されている。

銃を支えることはできない。


だから、志乃は銃を構えなかった。


門の支柱と地面に銃を預ける。


銃身をわずかに上げる。


一発。


火葬場の屋上へ向けて撃った。


当てるためではない。


寄せないためだった。


屋上の影が一瞬止まる。


それで十分だった。


ジンは拳銃を抜いた。


胸元から、チェストリグの硬い擦過音は消えていた。

FAMASの重さもない。


代わりに残ったのは、ガンベルトにぶら下がっている装備。

拳銃。

短い刃物。

細いワイヤー。

小さなライト。

最低限の弾倉。


装備は減った。


だが、動ける。


火葬場の中へ入るには、こちらの方がよかった。


長い銃ではなく。


短い距離。


短い音。


短い息。


鷲尾は志乃を見た。


「志乃さん、俺は」


志乃は血の気のない顔で言った。


「行け」


「でも」


「ここでお前が私の横で泣いてても、紙は燃える」


鷲尾の顔が歪んだ。


「泣いてねえです」


「なら行け」


ジンは言った。


「案内しろ」


鷲尾は志乃を見た。


志乃は頷いた。


「市場の借りは、まだ返し終わってない」


鷲尾は拳を握った。


「死ぬなよ」


志乃は薄く笑った。


「命令する相手が違う」


鷲尾は振り返らなかった。


ジンと鷲尾は、灰置き場横の通用口へ走った。


背後で、FAMASがもう一発鳴った。


志乃の撃った弾だった。


当たったかどうかは分からない。


だが、屋上の影がまた止まった。


それで十分だった。


火葬場の中は、暖かかった。


外の夜気と違う。


湿った熱。

焼けた何かの匂い。

消毒液。

古い花。

油。

そして、金属の匂い。


廊下の壁には、まだ新しい案内板があった。


告別室。

安置室。

処理室。

受取窓口。

登録室。

保管室。


収骨室はない。


日本の火葬場ではない。


遺族が数時間待つための空間ではない。

死者を預かり、処理し、後で渡すための流れになっていた。


その流れの中に、白羽の紙が入っている。


ジンは足を止めた。


廊下の横に、台車があった。


台車の上には、小さな透明袋がいくつも載っている。


指輪。


金歯。


時計。


細い鎖。


結婚指輪もあった。


内側に、名前が彫ってある。


誰かの名前。

誰かと誰かの記念日。


それが、番号だけの袋に入れられていた。


鷲尾が低く言った。


「おい……」


ジンは別の台車を見た。


青いクーラーボックスが三つ。


医療用に見える。

だが、ここにある理由が分からない。


表面には、ドナー用と書かれた古いラベルが貼られていた。


中身は見えない。


見たくもなかった。


鷲尾の喉が鳴った。


「何だよ、これ」


ジンは答えなかった。


答えれば、足が止まる。


足が止まれば、紙が燃える。


奥で、機械の低い音がしていた。


火葬炉が動いている。


誰を焼いているのか。


死者か。

名前か。

証拠か。


そのどれでも、止めなければならなかった。


ジンは指を立てた。


一人。


角の向こうに、足音。


鷲尾が息を止める。


ジンは壁に身を寄せた。


白羽の作業員が一人、廊下を歩いてきた。


銃を持っていない。

手には端末。

胸には白い識別札。


ジンは撃たなかった。


男が角を曲がる。


次の瞬間、壁へ引き込まれた。


声は出なかった。


足音だけが止まった。


鷲尾には、何が起きたのか見えなかった。


男は床に倒れていない。

ジンが支えている。

音を立てないために。


鷲尾は小さく言った。


「生きてるか」


「生きてる」


「何で殺さねえ」


「音が出る」


「理由そこかよ」


ジンは端末を奪い、白羽の作業員を横の物置へ入れた。


廊下の奥から声。


「遅いぞ」


別の男が来る。


ジンは鷲尾を見た。


「呼べ」


「は?」


「市場の人間みたいに」


鷲尾は顔をしかめた。


「俺に芝居しろってか」


ジンは頷いた。


鷲尾は舌打ちした。


「おい、こっちだ。台車が詰まってる」


声は自然だった。


苛立った現場の声。


廊下の奥から、男が近づく。


「何をしてる」


「いいから来い。手伝え」


男が角を曲がった。


ジンが消した。


今度は少しだけ音が出た。


肩が壁に当たる音。


鷲尾が歯を食いしばる。


「二人」


ジンは短く言った。


「次」


「お前、これをずっとやる気か」


「燃やされる前に」


奥の部屋から紙をめくる音がした。


生活名登録票。


子どもの名前。

古い名前。

新しい生活名。

死亡処理。

移送処理。


それが、火葬場の熱の中で揃えられている。


ジンは廊下を進んだ。


一人ずつ。


音で誘う。

影で止める。

角で消す。

声を出させない。

銃を抜かせない。

必要なら撃つ。


手順ではない。


ただ、距離だった。


息の距離。

腕の距離。

刃物が届く距離。

ワイヤーが見えない距離。

声が喉から出る前に消える距離。


鷲尾は何度も顔をしかめた。


だが、ついてきた。


途中、白羽の警備員が二人同時に来た。


一人はジンの影に気づいた。


「誰だ」


その一言で、静かな戦いは終わった。


銃が上がる。


ジンは先に撃った。


一人目が倒れる。


二人目は横へ逃げた。


鷲尾が反射的に銃を向けたが、撃てなかった。


ジンが踏み込み、二人目を壁に押し込んだ。


短い刃物が光る。


男は崩れた。


鷲尾は息を吐いた。


「撃てなかった」


「撃たなくていい」


「役に立ってねえ」


「道を知ってる」


鷲尾は黙った。


ジンは奥の扉を見た。


登録室。


中から声がする。


「市場が失敗した」


「華南が男を持った」


「データは?」


「一部が外へ出た可能性」


「なら残りを焼く」


落ち着いた声だった。


柔らかい。


人に教えるような声。


白い紐の男が言った“先生”の声。


ジンは扉の横についた。


鷲尾も反対側に入る。


中には三人。


一人は端末。

一人は紙の箱。

一人は白い手袋。


ジンは指で合図した。


鷲尾は分からない顔をした。


ジンは諦めた。


自分で開けた。


扉が開く。


端末の男が振り向く。


ジンは撃った。


端末が弾けた。


紙の箱を持つ男が銃を抜く。


ジンは近づいた。


銃声は一発だけ。


男は倒れた。


白い手袋の男は動かなかった。


五十代半ば。

痩せた顔。

眼鏡。

静かな目。


教師のような顔だった。


避難所で子どもの名簿を整えていても、誰も疑わない。


男は言った。


「あなたが、外部武装者ですか」


ジンは拳銃を向けた。


「紙から離れろ」


男は手を上げた。


「紙は武器ではありません」


「ここでは武器だ」


男は静かに笑った。


「名前は、人を守るために変えることがあります」


「子どもに聞いたのか」


男の笑みが薄くなる。


「帰る場所がない子もいます」


「勝手に決めるな」


男は答えなかった。


奥の廊下で、足音が増えた。


バレた。


白羽の増援が来る。


鷲尾が扉の外を見て叫んだ。


「来るぞ!」


ジンは男から目を離さなかった。


「名簿はどこだ」


「たくさんあります」


「子どもの古い名前」


男は黙った。


ジンは拳銃を男ではなく、火葬炉の操作盤へ向けた。


「焼く前に答えろ」


男の目が初めて歪んだ。


「それを壊せば、死者の処理が」


「名前を焼くよりましだ」


廊下から銃声が来た。


鷲尾が伏せる。


無線にミーシャの声が入った。


「突入します」


ジンは言った。


「待て」


「待てません」


外で、短い連続音が鳴った。


ミーシャの短機関銃だった。


火葬場外周の白羽が止まる。


窓ガラスが震える。

白い壁に影が走る。

足音が乱れる。


ミーシャの声。


「外周を抑えます。中は任せます」


アレクセイの声が続いた。


「北側二階、監視を排除する」


乾いた一発。


遠くからだった。


だが、火葬場の中の空気が変わった。


二階の窓にいた影が、糸を切られたように消えた。


アレクセイの声は静かだった。


「焼却室前。右から二人」


ジンは白い手袋の男を床へ押し倒し、横へ動いた。


廊下の角から二人が来る。


一人目を撃つ。


二人目は近すぎた。


拳銃では間に合わない。


ジンは刃物を抜いた。


短い接触。


息。

骨が壁に当たる音。

床に落ちる銃。


二人目が倒れた。


ジンの腕に傷が増えた。


白い手袋の男が、床を這って紙の箱へ手を伸ばす。


鷲尾が叫んだ。


「ジン!」


男は古い名簿を掴んでいた。


生活名登録票ではない。


古い名前の名簿。


それを破ろうとした。


ジンは飛び込む。


間に合わない。


その時、窓の外から一発。


アレクセイの弾が、男の手元の床を撃った。


紙が跳ねた。


男の手が止まる。


ジンがその腕を押さえた。


「終わりだ」


男は、初めて怒鳴った。


「終わりではない! 古い名前に縛られるから、子どもは危険になる! 生活に合わせた名前が必要なんだ!」


ジンは男の襟を掴んだ。


「自分で言うまで待ったのか」


男は答えなかった。


「なら保護じゃない」


廊下の銃声が止まった。


ミーシャが中へ入ってきた。


短機関銃を下げている。

黒い雨合羽の裾が裂れていた。

肩には血がついている。


自分の血か、他人の血か分からない。


「外周、一時制圧」


アレクセイの声が入った。


「長くは持たない」


ミーシャは白い手袋の男を見た。


「対象ですか」


ジンは頷いた。


「生かす」


男は笑った。


「私を外へ渡しても無駄です。白羽は私一人ではありません」


ミーシャは淡々と言った。


「分かっています」


男の笑みが薄れる。


ミーシャは続けた。


「だから、あなた一人ではなく、名簿、端末、生活名登録票、焼却予定、火葬場搬入記録、全部を渡します」


鷲尾が紙の束を抱えて入ってきた。


息が荒い。


「これもだ」


その腕には、古い名簿があった。


市場の子どもの名前。

避難所の名前。

古い学校名簿。

死亡扱いの欄。

生活名への置換欄。


鷲尾の顔は青かった。


「生きてるやつと死んでるやつが、同じ箱に入ってやがる」


ジンは火葬炉を見た。


鉄の扉は熱を持っていた。


この中へ入れられれば、名前は灰になる。


名前が灰になれば、帰る場所も灰になる。


その前に止めた。


完全ではない。


市場でも半分。

ここでも半分。


だが、灰になる前だった。


外でまた銃声。


ミーシャが短機関銃を構え直した。


「搬出します」


アレクセイの声。


「南側から増援。二分はない」


ラソアが言った。


「三分より信用できる」


鷲尾が顔をしかめた。


「お前らの時間、全部短くなってねえか」


ジンは白い手袋の男を立たせた。


「出る」


男は言った。


「どこへ」


「NATO」


「無駄です」


「それは向こうで言え」


ミーシャが先に出た。


短く、重い呼吸。

黒い雨合羽が、白い煙の中へ入る。


外から、アレクセイの一発が響いた。


白羽の増援の動きが、一瞬止まる。


その一瞬で、ジンたちは火葬場を出た。


白い手袋の男。

古い名簿。

生活名登録票。

端末。

焼却予定表。


そして、まだ灰になっていない名前。


裏手の管理道には、志乃がまだいた。


血で上着を濡らしたまま、門の影にもたれている。


FAMASは無事な腕のそばにある。

銃口は、まだ屋上へ向いていた。


鷲尾が駆け寄った。


「志乃さん!」


志乃は目を開けた。


「うるさい」


鷲尾は泣きそうな顔で笑った。


「生きてる」


「見れば分かる」


ジンは白い手袋の男を押して、前へ進ませた。


火葬場の煙突から、薄い煙が流れている。


誰を焼いていたのかは、まだ分からない。


だが、少なくとも今夜、すべての名前が灰になることはなかった。


丘の下に、中部市場の明かりが見えた。


市場は燃えていなかった。


だが、火はまだ消えていない。


ジンは煙の中を進んだ。


帰る道を残すために。


名前を灰にしないために。


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