第四十八話 市場の下
## 第四十八話 市場の下
古い魚屋の床板は、半分腐っていた。
鷲尾が蹴ると、板は湿った音を立てて浮いた。
「ここだ」
魚の匂いは、もう残っていない。
代わりに、泥と油と、古い水の臭いがあった。
床下には、黒い穴が開いていた。
人が一人、ようやく通れる幅だった。
ジンは膝をついた。
脇腹が痛んだ。
肩も熱い。
FAMASを持ったままでは入れない。
ジンは銃を見た。
鷲尾が言った。
「置いてけ」
「無理だ」
「じゃあ死ね」
ジンは答えず、FAMASを身体の横に寄せた。
鷲尾は顔をしかめた。
「本当に行くのかよ」
「道がある」
「道じゃねえ。排水溝だ」
「通れるなら道だ」
鷲尾は舌打ちした。
「そういうところが嫌いなんだよ、兵隊は」
ジンは穴へ入った。
膝が泥に沈む。
水は冷たかった。
臭いが喉に貼りつく。
頭上では、市場の足音が響いている。
怒号。
銃声。
車のエンジン。
誰かが泣く声。
全部が、薄い板一枚の上にあった。
鷲尾も後ろから入った。
「先に言っとくぞ」
「何だ」
「ここで死んでも、うちのせいじゃねえ」
「分かった」
「あと、途中で鉄格子が曲がってる。引っかかるな」
「分かった」
「それと、昔ここで一人死んでる」
「聞いた」
「聞いたなら、もう少し嫌そうにしろ」
ジンは進んだ。
鷲尾は後ろから続いた。
市場の下は狭かった。
銃を構える場所ではない。
走る場所でもない。
ただ、進むしかない場所だった。
ジンは肘と膝で身体を運んだ。
肩の傷が擦れる。
脇腹から血が泥に混じる。
息を吸うたびに、腐った水の臭いが肺に入る。
鷲尾が後ろで低く言った。
「なあ」
「何だ」
「あの白い紐の男が言った“先生”ってのは、奥村先生じゃねえよな」
「分からない」
「分からねえ顔じゃなかったぞ」
ジンは止まらなかった。
鷲尾は続けた。
「市場の裏道を知ってる。配電室の横を知ってる。白羽の箱を入れた。生活名の紙を撒いた。そいつを“先生”って呼んだ」
狭い排水溝の中で、鷲尾の声が低く響いた。
「うちの中にいるってことか」
ジンは答えなかった。
「答えろよ」
「可能性はある」
「最悪だな」
「そうだ」
鷲尾はしばらく黙った。
水の音だけがした。
その頃、北側では陳維明が白い箱型車両の前に立っていた。
華南側の警備員が、車両の周囲を固めている。
白い紐の男は、車内に押し込まれていた。
泣いていた。
だが、泣き方が変わっていた。
助けを求める泣き方ではない。
見てはいけないものを見た者の泣き方だった。
陳は扉の前で言った。
「誰を先生と呼んだ」
男は首を振った。
「違います。言ってません」
「言った」
「言ってません」
陳は部下に視線を向けた。
部下が小型端末を見せる。
録音は回っていた。
陳は男に言った。
「白羽はお前を撃った」
男は黙った。
「華南も的場も、お前を撃っていない。撃ったのは、白羽の箱の中にいた者だ」
男の唇が震えた。
「私は……何も」
「何も知らない者は、裏道を走らない」
陳の声は静かだった。
「誰が地図を渡した」
男は答えなかった。
「誰が生活名登録票を積んだ」
答えない。
「誰がFAMASを置いた」
男の目が動いた。
陳はそれを見た。
「知っているな」
男は息を荒くした。
「知らない。銃のことは知らない」
「銃のことは、か」
陳が一歩近づいた。
「では、紙のことは知っている」
男は震えた。
その時、車両の外で華南側の警備員が叫んだ。
「陳隊長!」
陳は振り向いた。
白い箱型車両の下に、影が動いた。
人の足ではない。
床下から、何かが滑り込むような動きだった。
陳の目が細くなる。
「下だ」
華南側の警備員が銃を向ける。
その瞬間、車両の内側から別の音がした。
金属が外れる音。
白い箱の中にいた白羽の別働が、車両の奥の仕切りを開けようとしていた。
狙いは一つだった。
白い紐の男を消すこと。
陳が叫んだ。
「男を伏せさせろ!」
華南側の警備員が動く。
だが、白羽の別働の方が早かった。
車両の内側から銃口が出る。
陳が一歩踏み込んだ。
撃たれた。
肩だった。
陳の身体が少し揺れる。
それでも倒れなかった。
彼は左手で車両の扉を掴み、右手で部下を押しのけた。
「下げろ!」
部下が白い紐の男を引き倒す。
二発目。
車両の内壁が弾けた。
白い紐の男が悲鳴を上げる。
陳は銃を抜いた。
迷わなかった。
白羽の別働を撃った。
車両の奥で、人影が崩れた。
白い紐の男は、床に伏せたまま震えていた。
陳の肩から血が流れた。
部下が叫ぶ。
「隊長!」
「黙れ」
陳は白い紐の男を見下ろした。
「見たか」
男は泣いていた。
「お前を消そうとしたのは誰だ」
男は答えられなかった。
陳は低く言った。
「喋れ。今喋らなければ、次は私にも止められない」
市場の下で、ジンは音を聞いた。
鈍い銃声。
上ではない。
近い。
排水溝の先だった。
鷲尾が息を止めた。
「車両の下か」
ジンは頷いた。
「急ぐ」
「急げる場所じゃねえ」
それでも二人は進んだ。
鉄格子があった。
鷲尾が言っていた曲がった鉄格子だった。
人が通るには狭い。
ジンはFAMASを先に押し込んだ。
肩が引っかかる。
脇腹が裂けるように痛んだ。
鷲尾が後ろから押した。
「折るぞ」
「何を」
「お前か鉄格子だ」
「鉄格子にしろ」
鷲尾は短く笑った。
「やっぱ嫌いだわ、お前」
二人で鉄格子を押す。
音が上に響く。
危険だった。
だが、もう隠れる時間はなかった。
鉄が少し曲がった。
ジンは身体を滑り込ませる。
肩の傷がこすれた。
視界が一瞬、白くなる。
それでも抜けた。
排水溝の先に、薄い光があった。
華南車両の下。
ジンはそこから外を見た。
車輪。
泥。
白い紙。
華南側の靴。
陳の足。
血が落ちている。
陳は撃たれていた。
だが立っていた。
ジンは一瞬だけ止まった。
鷲尾が後ろから覗いた。
「あいつ、撃たれてんのか」
「肩だ」
「死ぬか」
「まだ」
「まだって何だよ」
車両の中から、白い紐の男の声が漏れた。
「先生は……市場の人じゃない」
陳の声。
「続けろ」
「顔は見てない。本当に見てない。声だけだった。紙は封筒で受け取った。地図も」
「どこで」
「火葬場の裏です」
鷲尾の顔が変わった。
「火葬場?」
ジンは黙って聞いた。
男は泣きながら続けた。
「水源の話も、火葬場の話も、土地の話も、全部知ってた。白羽は前から入っていた。市場だけじゃない。ここだけじゃない」
陳が言った。
「先生とは誰だ」
男は震えた。
「そう呼べと言われた」
「誰に」
「連絡員に」
「名前は」
男は首を振った。
「名前はない。先生とだけ」
陳は沈黙した。
男は続けた。
「先生は、白羽じゃないと言っていた。白羽に協力しているだけだと。地域を安定させるためだと。子どもを保護するためだと」
鷲尾が小さく言った。
「どいつも同じこと言いやがる」
ジンは車両の下から、陳を見た。
陳も、何かに気づいている顔だった。
白羽の内側だけではない。
外側に、白羽の紙を呼び込んだ人間がいる。
市場の中か。
市場の外か。
火葬場か。
水源か。
それはまだ分からない。
だが、道はそこまで続いていた。
その時、白い箱型車両の奥で、まだ息のあった白羽の別働が動いた。
手が床を這う。
小さな端末へ伸びる。
陳は気づいていない。
ジンは車両の下から出た。
泥と血にまみれたまま、低い姿勢で横へ滑る。
華南側の警備員が振り向いた。
「動くな!」
ジンは無視した。
FAMASを上げるには角度がない。
だから、短く構えた。
撃った。
白羽の別働の手元が弾けた。
端末が床を滑る。
華南側の銃口が一斉にジンへ向く。
陳が叫んだ。
「撃つな!」
その声で、華南側は止まった。
ジンと陳が向かい合った。
距離は近かった。
陳の肩から血が流れている。
ジンの脇腹も濡れている。
どちらも立っていた。
陳が言った。
「なぜ出てきた」
「端末」
陳は床を見た。
白羽の別働が伸ばしていた端末。
送信前だった。
陳は部下へ命じた。
「拾え」
ジンが言った。
「触るな」
陳の目が鋭くなる。
「これは華南保護線内です」
「白羽の端末だ」
「だからこちらで押さえる」
「外へ出せ」
陳は首を振った。
「渡せません」
また同じ言葉だった。
鷲尾が排水溝から這い出してきた。
「お前ら、またそれかよ」
華南側の警備員が鷲尾に銃を向ける。
鷲尾は泥だらけの顔で睨み返した。
「撃つなら撃て。だがその前に、こっちの市場の下水代払え」
誰も笑わなかった。
陳はジンを見た。
「あなたは、証拠を外へ出そうとする」
「そうだ」
「私は、線の内側に留める」
「そうだな」
「なら、敵です」
ジンは答えなかった。
陳は続けた。
「しかし、今撃てば白羽の思う通りです」
「分かってる」
「だから撃たない」
「俺もだ」
二人の間で、白い紙が一枚、泥に落ちた。
生活名登録票だった。
子どもの古い名前の欄が、泥で滲んでいた。
白い紐の男が、車両の中で泣いていた。
「先生は言っていた……名前は生活に合わせるものだって。古い名前では危ないって。白羽の生活名は、守るためだって」
ジンの目が変わった。
鷲尾も黙った。
陳も、白い紐の男を見た。
男は震えながら言った。
「でも、子どもの古い名前を消せば、帰る場所も消えるって……誰かが言ってた。だから急げと。市場が燃えてる間に登録を進めろと」
ジンは低く言った。
「誰かが言ってた?」
「声です。別の声。女か男か分からない。雨合羽みたいに、顔を見せない」
ミーシャの通信が入った。
「ジン」
「聞こえてる」
「NATO側、追加証拠を要求。生存証人、または端末の確保が必要です」
ジンは陳を見た。
陳は端末を見た。
白羽の端末。
華南の保護線内。
外へ出せないもの。
だが、内側に置けば、白羽に消されるもの。
陳の顔に、初めて迷いが出た。
梁海成が近づいてきた。
足音は静かだった。
「陳」
陳は振り向いた。
梁は状況を見た。
撃たれた陳。
泥だらけのジン。
排水溝から出てきた鷲尾。
車内の白い紐の男。
床に落ちた白羽の端末。
生活名登録票。
梁は静かに言った。
「端末は、こちらで保管します」
ジンが言った。
「消える」
梁はジンを見た。
「消しません」
「証明できない」
「外へ渡せば、我々が消えます」
ジンは答えなかった。
梁は続けた。
「我々は白羽ではない」
ジンは言った。
「なら渡せ」
梁の表情は動かなかった。
「できません」
同じ言葉だった。
撃てない紙。
渡せない線。
白羽は、その間に立っていた。
その時、車両の中の白い紐の男が叫んだ。
「先生は、次は火葬場だと言っていた!」
全員が止まった。
男は泣きながら続けた。
「市場が失敗したら、火葬場へ回すって。名簿をそっちで作るって。死んだ子も、生きた子も、生活名で処理できるって」
奥村先生の薬箱が、遠くの診療所で倒れる音がした。
誰かがぶつかっただけかもしれない。
だが、ジンには違う音に聞こえた。
名前が、焼かれる音。
鷲尾が低く言った。
「火葬場って、まさか」
志乃の声が無線から入った。
「中部北火葬設備。市場から三キロ」
アレクセイの声が、重なった。
「そこだ」
ラソアが言った。
「嫌な場所だな」
アレクセイは低く答えた。
「名簿を燃やすには、都合がいい」
陳は白い紐の男を見た。
白羽を憎んでいる。
それでも端末は渡せない。
だが、火葬場へ行かせれば、もっと消える。
陳は肩の血を押さえた。
「梁先生」
梁は陳を見た。
陳は言った。
「火葬場へ向かう車列を止めます」
梁は一瞬だけ黙った。
「華南の名で?」
「はい」
「それは、白羽と衝突します」
「承知しています」
梁は目を閉じた。
ジンは、その沈黙を見ていた。
陳は白羽を撃てない。
梁も撃てない。
だが、止めようとしている。
その違いは小さい。
しかし、今はその小ささだけが道だった。
梁は目を開けた。
「止めなさい」
陳は頷いた。
「はい」
ジンはFAMASを握り直した。
鷲尾が言った。
「火葬場まで行くのか」
ジンは答えた。
「行く」
「うちの市場はどうすんだよ」
「燃えてない」
「まだ、だろ」
ジンは鷲尾を見た。
「だから急ぐ」
鷲尾は舌打ちした。
「また道かよ」
「道だ」
鷲尾は泥を拭った。
「火葬場へ抜ける裏道は、俺でも知らねえぞ」
志乃の声が無線から入った。
「私が知ってる」
鷲尾が目を見開いた。
「志乃さん?」
「昔、的場が灰を運んでた道がある」
鷲尾は口を閉じた。
汚れた名前。
汚れた道。
それでも、今は必要だった。
ジンは短く言った。
「案内を」
志乃は答えた。
「市場の借りは、まだ返し終わってない」
通信が切れた。
中部市場の北で、火葬場へ向かう道が開こうとしていた。
白羽の紙は、まだ燃えていない。
だが今度は、紙を燃やす場所へ向かうことになった。




