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第四十七話 半分の証拠

## 第四十七話 半分の証拠


ミーシャは走らなかった。


走れば、撃たれる。


撃たれれば、データが落ちる。


だから、歩いた。


西側通路の壁に肩を寄せる。

右手は記録媒体を握ったまま、左手で雨合羽の裾を押さえている。


通路の先に、NATOの車両灯が見えた。


白い光ではない。


薄い青を帯びた、硬い光だった。


市場の明かりとは違う。

露店の裸電球とも違う。

薬屋の奥に残った蛍光灯とも違う。


外の光だった。


鷲尾の若い衆が一人、ミーシャの横についた。


さっき肩を撃たれた男ではない。

まだ顔に幼さが残っている。

手に持った拳銃が、少しだけ震えていた。


ミーシャが言った。


「下げてください」


若い衆は睨んだ。


「命令すんな、雨合羽」


「その震え方だと、味方を撃ちます」


若い衆は一瞬黙った。


それから舌打ちして、銃口を下げた。


「うるせえ」


ミーシャは何も返さなかった。


背後では、まだ市場が揺れている。


華南車両のエンジン音。

的場の怒号。

陳維明の無線の声。

白羽の紙が踏まれる音。

誰かの泣き声。

誰かが奥村先生を呼ぶ声。


全部が重なっていた。


ミーシャは振り返らなかった。


振り返る役は、ジンだった。


ジンは西側通路の入口に立っていた。


FAMASを構えている。


撃つためではない。

撃たせないためだった。


銃口を向けるだけで、華南側の若い警備員の足が止まる。

的場の若い衆も、無駄に前へ出ない。

白羽の別働も、今は簡単に動けない。


危険は、またジンに集まっていた。


鷲尾がその横に立った。


「お前、便利だな」


ジンは答えなかった。


「立ってるだけで、みんな嫌な顔する」


「褒めてるのか」


「褒めるわけねえだろ」


鷲尾は唾を吐いた。


「市場にいて一番迷惑な置物だ」


ジンは短く言った。


「動く置物よりましだ」


鷲尾は少しだけ笑いかけて、すぐにやめた。


笑う場所ではなかった。


西側道路の先で、NATOの隊員が二人、車両から降りた。


一人は記録用の端末を持っている。

もう一人は銃を下げているが、指は安全な場所に置かれていた。


敵意ではない。


規則だった。


ミーシャは記録媒体を差し出した。


「白羽生活支援系統と思われる作業者から確保。元データの可能性があります」


NATOの記録官が受け取る前に、ミーシャは言った。


「複製前です。触る人間を記録してください」


記録官が一瞬、ミーシャを見た。


それから頷いた。


「Chain of custody」


横にいた通訳が小さく訳した。


「保全記録を取る」


ミーシャは頷いた。


「生活名登録票の一部もあります」


濡れた紙の束を出す。


子どもの名前。

古い住所。

生活名。

保護区分。

移送欄。


紙は濡れていた。

泥もついている。

だが、文字は読めた。


記録官の表情が変わった。


「Human source?」


ミーシャは答えた。


「華南側に奪われました」


通訳が訳す前に、NATOの隊員は意味を理解したようだった。


記録官は短く言った。


「Incomplete」


ミーシャは頷いた。


「半分です」


その言葉は、アレクセイの声と重なった。


端末から、低い声が入る。


「そうだ。半分だ」


NATOの記録官が端末を見た。


ミーシャは言った。


「協力者です」


アレクセイは笑わなかった。


「訂正しろ。老いた観察者だ」


ラソアの声が、さらに奥から混じった。


「観察者は、普通ガソリンスタンドに武器屋を呼ばない」


アレクセイは返さなかった。


ミーシャは通信を切らなかった。


記録官が生活名登録票を一枚ずつ写真に撮る。

記録媒体は透明な袋に入れられる。

袋の端に番号が書かれる。


それは、白羽の紙とは違う紙だった。


白羽の紙は、人の名前を変える。

NATOの紙は、人がいつ何を渡したかを残す。


どちらも紙だった。


だが、向いている方向が違った。


ミーシャはそれを見ていた。


もう一人の雨合羽が、壁に背を預けて立っていた。


肩から血が落ちている。


NATOの衛生兵が近づいた。


雨合羽は首を振った。


ミーシャが言った。


「治療を受けてください」


雨合羽は、また首を振った。


「まだ見る」


初めて声が出た。


若い声だった。


男か女か、すぐには分からない。

声は擦れていた。


ミーシャは少しだけ目を細めた。


「命令です」


雨合羽は沈黙した。


そして、短く答えた。


「了解」


衛生兵が肩を見る。


黒い合羽が裂かれる。

血で貼りついていた布が剥がれる。


雨合羽は顔をしかめなかった。


ミーシャは一度だけ、その横顔を見た。


まだ若い。


自分より若いかもしれない。


だが、さっき白羽の男を追った時の目は、若くなかった。


ミーシャは通信に戻った。


「データはNATOへ渡しました」


アレクセイが言った。


「人間は」


「華南保護線内です」


「まだ死んでいないな」


「確認できません」


「死んでいないと仮定しろ」


ラソアが言った。


「白羽が消しに来たなら、まだ喋る価値がある。華南が抱えたなら、まだ使う価値がある。どちらにしても、生きている間は値段がある」


ミーシャは少しだけ眉を動かした。


「人間を値段で言わないでください」


ラソアは笑った。


「なら時間だ。人間には時間がある。死体にはない」


ミーシャは通信を切った。


市場の北側では、華南の保護線が厚くなっていた。


白い紐の男を乗せた車両は、完全に逃げてはいなかった。


白い箱型車両の後ろに入り、左右を別の車両で挟まれている。

車体の間に人が立つ。

その人の間に銃がある。


保護。


そう呼べる形だった。


だが、外から見れば、拘束でもあった。


白い紐の男は、車両の中に押し込まれていた。


手首の紐は切られていない。


口も塞がれていない。


ただ、逃げ道だけが消されていた。


陳維明は、車両の外に立っていた。


部下が近づく。


「陳隊長、移動しますか」


陳は答えなかった。


「梁先生からは、北側へ引けと」


「まだだ」


「しかし、このままでは的場側と」


「まだだ」


部下は黙った。


陳は白い箱型車両を見た。


白羽の箱。

華南の列に混ざった箱。

自分たちのリストにない箱。


彼は、それを見た時から吐き気に近いものを覚えていた。


白羽は銃を持たなくても、人を撃てる。


箱を混ぜればいい。

紙を入れればいい。

作業者を紛れ込ませればいい。

そして、撃つ理由を他人の手に持たせればいい。


陳はそれを理解していた。


理解していたからこそ、渡せなかった。


外へ渡せば、華南の列が白羽の箱を運んだことになる。


事実だった。


だが、事実は使われる。


事実だから安全なのではない。


事実だから、強い。


梁海成が近づいてきた。


灰色の上着の裾が、風でわずかに揺れている。


「陳」


陳は振り向いた。


「はい」


梁は白い箱型車両を見た。


「我々のリストにはありません」


「確認済みです」


「白羽ですね」


「はい」


梁は目を閉じた。


短い時間だった。


「男は」


「保護線内に入れました」


「NATOへは」


「渡していません」


梁は陳を見た。


「良い判断です」


その言葉に、陳の表情は動かなかった。


褒められた顔ではなかった。


「良い判断ではありません」


梁の眉が、わずかに動いた。


陳は続けた。


「必要な判断です」


梁は何も言わなかった。


陳は白い箱型車両の扉を見た。


「白羽は、我々の線を使いました」


「ええ」


「このままでは、我々は白羽の下請けです」


梁の目が細くなった。


陳は言った。


「私は、それが許せません」


梁は静かに答えた。


「許せなくても、撃てません」


その言葉は、まだ最期の言葉ではなかった。


だが、同じ場所から出ていた。


陳は梁を見た。


「撃てないなら、押さえます」


「誰を」


「白羽の犬を」


車両の中から、白い紐の男の声が漏れた。


「私は犬じゃない!」


陳は振り向かなかった。


「では、誰に命じられた」


男は黙った。


「誰が箱を渡した」


返事はない。


「誰が生活名登録票を積んだ」


男は震えている。


「誰が市場の裏道を教えた」


その言葉に、車両の中の空気が変わった。


陳は聞き逃さなかった。


「やはり知っているな」


男は言った。


「私は、地図を渡されただけで」


「誰から」


「知らない。本当に知らない。白羽の人間じゃない。連絡員だ。顔も」


陳は一歩近づいた。


「顔を見ていないのに、地図は受け取ったのか」


「封筒で」


「どこで」


男は黙った。


陳は手袋を外した。


手は細かった。

だが、指には硬い傷があった。


「どこで受け取った」


男は目を逸らした。


陳は殴らなかった。


代わりに、車両の扉を閉めた。


中が暗くなる。


男の声が少し高くなった。


「待ってください」


陳は部下へ言った。


「録音しろ」


部下が驚く。


「録音、ですか」


「我々の記録に残す」


「梁先生」


部下は梁を見た。


梁は少しだけ頷いた。


陳は続けた。


「白羽に戻さない。NATOにも渡さない。だが、消しもしない」


車両の中から、男の息づかいが聞こえた。


陳は低く言った。


「喋れ。お前を消そうとしたのは、的場でも華南でもない。白羽だ」


男は答えなかった。


「次は、守れないかもしれない」


その言葉は脅しではなかった。


事実だった。


市場の西側では、ジンが動き始めていた。


鷲尾が後ろから声をかける。


「どこへ行く」


「見る」


「またそれか」


ジンは答えなかった。


鷲尾はついてきた。


志乃も止めなかった。


代わりに言った。


「慎吾」


「はいよ」


「一人で行かせるな」


「誰に言ってんですか」


「お前に」


鷲尾は舌打ちした。


「分かってますよ」


ジンは言った。


「来るな」


鷲尾は鼻で笑った。


「お前に言われる筋合いはねえ」


「足手まといになる」


「お前、うちの市場の道を知らねえだろ」


ジンは黙った。


鷲尾は勝ったような顔をした。


「ほら見ろ」


ジンは北側を見た。


華南車両の配置。

白い箱型車両。

管理棟の影。

燃料缶。

薬屋裏。

西側道路。

NATOの車両灯。


銃で抜ける道はある。


だが、それを使えば市場が燃える。


撃てる相手はいる。

撃ってはいけない位置にいる。


ジンはそれを見ていた。


鷲尾が低く言った。


「撃って全部開けるって顔すんなよ」


「してない」


「してるんだよ。そういう顔は市場じゃ嫌われる」


ジンは少しだけ鷲尾を見た。


鷲尾は続けた。


「こっちはな、道ってのは壊すもんじゃなくて、残すもんなんだよ。明日も通るからな」


ジンは答えなかった。


その言葉は、旧南第三に似ていた。


帰る道を残す。


市場も同じだった。


そこへ、ミーシャから通信が入った。


「データ受け渡し完了。NATO側で保全開始」


「中身は」


「まだ未解析。ただし、ファイル名に中部市場、安全管理要請、児童医療物資、外部武装勢力の語が含まれています」


ジンは目を細めた。


「予定文書か」


「可能性があります」


鷲尾が聞いた。


「何だって」


ジンは答えなかった。


ミーシャの声が続いた。


「もう一つあります」


「言え」


「映像フォルダがあります。サムネイルに、あなたが写っています」


鷲尾がジンを見た。


「お前、もう撮られてんのか」


ジンは短く答えた。


「だろうな」


「何で平気な顔してんだよ」


「平気じゃない」


「そうは見えねえ」


ジンはFAMASを握り直した。


「だから取り返す」


ミーシャが言った。


「対象は華南側です。強行すれば、華南との衝突になります」


「しない」


「どうやって」


ジンは鷲尾を見た。


鷲尾が嫌そうな顔をした。


「何だよ」


「道」


「またかよ」


「華南車両に近づける道」


鷲尾は即答しなかった。


市場を見た。


北側。

白い箱型車両。

華南の保護線。

管理棟。

古い配電室。

薬屋裏。

燃料缶。


鷲尾は舌打ちした。


「あるにはある」


「どこだ」


「昔の排水溝だ。市場の下を通ってる。人が一人、這って通れるくらいのやつ」


ジンは見た。


「使えるのか」


「使いたくねえ」


「なぜ」


「臭い。狭い。途中で鉄格子が曲がってる。雨が降ると水が溜まる。あと、昔そこで一人死んでる」


ジンは言った。


「使えるな」


鷲尾は顔をしかめた。


「お前、話聞いてたか」


「使える」


「だから嫌なんだよ、兵隊は」


志乃が背後から言った。


「慎吾」


鷲尾は振り返った。


「分かってますよ」


志乃はジンを見た。


「取り返すのは、人間か」


「今は、場所を見る」


「質問に答えな」


ジンは少しだけ黙った。


それから言った。


「人間を取り返せれば一番いい」


「できなければ」


「生きている場所を確定する」


志乃は頷いた。


「それならいい」


鷲尾が言った。


「よくねえですよ」


志乃は答えなかった。


ジンは鷲尾に言った。


「案内しろ」


「命令すんな」


「頼む」


鷲尾の顔が、少しだけ崩れた。


「……最初からそう言え」


彼は若い衆を一人呼んだ。


「奥村先生のところへ行け。肩を撃たれたやつも運べ。西側の列は止めるな。薬屋裏に人を詰めるな。あと、志乃さんの横を空けろ」


若い衆が頷いて走った。


鷲尾はジンに向き直った。


「来い。排水溝は古い魚屋の床下だ」


ジンが動く。


その時、華南車両の方から叫び声が上がった。


白い紐の男の声だった。


「言います! 言いますから、閉めないでください!」


陳の声は聞こえなかった。


だが、車両の周囲の華南側の警備員が一瞬だけ動いた。


ジンは足を止めた。


鷲尾も止まった。


志乃が目を細める。


車両の中で、男が泣きながら何かを叫んでいる。


言葉は市場の騒音に混じって聞き取れない。


だが、最後の単語だけが、ジンの耳に届いた。


「先生」


奥村先生ではない。


誰かをそう呼んだのか。

白羽側の連絡員の呼称か。

あるいは、市場の中にいる誰かか。


鷲尾の顔が変わった。


「今、何て言った」


ジンは答えなかった。


志乃も答えなかった。


市場の中に、別の沈黙が落ちた。


白羽へ市場の裏道を渡した者がいる。


その者は、白い紐の男から「先生」と呼ばれていた。


奥村先生の薬箱が、診療所の奥で小さく鳴った。


誰かがぶつかっただけかもしれない。


だが、全員が一瞬、そちらを見た。


陳維明の声が、北側から響いた。


「動くな!」


華南側の銃口が、こちらではなく、白い箱型車両の内側へ向いた。


ジンは理解した。


白羽はまだ中にいる。


人間を取られたのではない。


白羽の舞台は、華南の線の内側でも続いていた。


ジンは鷲尾に言った。


「排水溝」


鷲尾は歯を食いしばった。


「こっちだ」


二人は、古い魚屋の床下へ向かった。


背後で、白羽の紙がまた一枚、宙に舞った。


紙は燃えていなかった。


だが、市場の下で、別の火が走り始めていた。


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