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第四十六話 線を外へ渡すな

## 第四十六話 線を外へ渡すな


陳維明が、一歩前に出た。


白い箱型車両の前だった。


灰色の上着。

肩に小さな無線機。

手袋をした右手。

細い目。

動きに無駄がない。


華南物流の車両が、通路を塞ぐように横を向いていた。


完全には塞いでいない。


荷車一台なら通れる。

人なら抜けられる。

だが、慌てて押し通ろうとすれば詰まる。


そういう塞ぎ方だった。


鷲尾が低く言った。


「あいつは、道を殺すのがうまい」


ジンはFAMASを構えたまま、陳を見た。


白い紐の男は、ミーシャともう一人の雨合羽に押さえられていた。


手首には白い樹脂の輪。

白羽生活支援系統。

臨時作業。


胸元から取り出された小さな記録媒体は、雨合羽の手にあった。


男の顔は青かった。


さっきまで避難者のふりをしていた顔ではない。

捕まった者の顔だった。


志乃が前へ出た。


「どけ」


陳は答えなかった。


「そいつは市場で捕まえた」


陳は、白い紐の男を見た。


嫌悪があった。


助けたい者を見る目ではない。


だが、渡せる者を見る目でもなかった。


「その者を渡してください」


「白羽の人間だろ」


志乃が言った。


陳の頬が、わずかに動いた。


「白羽を守るのか」


陳は、ほんの一瞬だけ黙った。


「違います」


低い声だった。


次の言葉は、銃声に潰された。


乾いた音がした。


狙われたのは、ミーシャではなかった。


もう一人の雨合羽だった。


黒い合羽の肩が跳ねた。

壁に血が散る。

雨合羽は倒れなかった。

だが、白い紐の男を押さえていた腕が、一瞬だけ緩んだ。


その一瞬を、男は見逃さなかった。


男は膝から崩れるふりをした。


「撃たないで!」


そう叫びながら、雨合羽の腕の下へ潜る。


ミーシャが動いた。


だが、雨合羽の手から、小さな記録媒体が落ちた。


石畳に当たり、乾いた音を立てる。


ミーシャは男を追わなかった。


先に、それを拾った。


「データ、確保」


ジンが短く聞いた。


「人は」


白い紐の男は、すでに走っていた。


西側ではない。

NATOの車両灯が見える方でもない。

男は迷わず、北側の華南車両へ向かっていた。


鷲尾が怒鳴った。


「逃がすな!」


的場の若い衆が撃った。


一発。

二発。


弾は男の足元を削った。


白い紐の男が転びかける。


その瞬間、華南側の警備員が前へ出た。


「撃つな!」


華南側も銃を上げた。


市場が割れた。


誰が誰を撃ったのか、一瞬で分からなくなる。


露店の影に人が伏せる。

薬屋の看板が揺れる。

燃料缶の近くで誰かが叫ぶ。


ジンは、白い紐の男を撃たなかった。


撃てば、証人が死ぬ。


撃たなければ、証人が奪われる。


その間にも、二発目の銃声が来た。


今度も、雨合羽を狙っていた。


ジンは音の方向へ目を向けた。


管理棟の脇。

割れた窓の奥。

黒い影が銃口を戻そうとしている。


ジンは撃った。


影が奥へ崩れた。


悲鳴はなかった。


鷲尾が振り返った。


「どいつだ!」


「雨合羽を消しに来たやつだ」


ジンは答えた。


「白い紐じゃねえのか」


「そいつは喋る。雨合羽は見た」


鷲尾は奥歯を噛んだ。


「くそが、何人いるんだよ」


もう一人の雨合羽は、肩を押さえたまま膝をついていた。


血が黒い合羽の上を流れている。

それでも、視線は白い紐の男を追っていた。


ミーシャが短く言った。


「負傷確認」


雨合羽は首を振った。


「後でいい、という意味です」


ミーシャは頷いた。


白い紐の男は、華南車両の前で転んだ。


華南側の警備員が二人、男を掴む。


男は泣きそうな声で叫んだ。


「助けてください! 私は臨時です! 言われただけで、私は」


陳維明がその前に立った。


男は陳の足元にすがった。


「私は撃っていません! 配布を手伝っただけです! 生活名の紙を運べと言われて、車に乗れと言われて、それだけで」


陳は男を見下ろした。


その目には、露骨な嫌悪があった。


白羽の人間。

白羽の紐。

白羽の紙。

華南の列に混ぜられた箱。


そのすべてを、陳は見ていた。


男はさらにすがった。


「私は白羽の正規職員ではありません。臨時です。名前も知りません。上の者が」


陳が言った。


「黙れ」


男の口が閉じた。


陳は華南側の警備員へ命じた。


「保護線内へ入れろ」


志乃が叫んだ。


「陳!」


陳は振り返らなかった。


「その者は、華南輸送列内で確保します」


「逃がす気か」


「違います」


陳はようやく志乃を見た。


「外部へ渡さないだけです」


鷲尾が怒鳴った。


「白羽の犬を抱えて何言ってやがる!」


陳は鷲尾を見た。


「犬だからです」


その声は冷たかった。


「犬なら、誰が鎖を持っていたかを、こちらで確認する」


志乃が一歩前へ出た。


「こっちへ渡せ」


陳は首を振った。


「渡せません」


「なぜ」


「その男が外部へ渡れば、華南物流の列そのものが白羽の箱を運んだ記録になる」


ミーシャが言った。


「事実です」


「事実でも、外へ渡せば線が死ぬ」


陳の声がわずかに荒れた。


「線が死ねば、別の町へ薬が行かない。燃料が行かない。人が通れない。あなた方の市場だけで終わる話ではない」


鷲尾が吐き捨てた。


「うちの市場でやっておいて、別の町の話かよ」


陳は答えなかった。


白い紐の男は、華南側の警備員に引きずられていた。


男は逃げているのではなかった。


回収されていた。


白羽へ戻るのでもない。

NATOへ渡るのでもない。

華南の線の内側へ、飲み込まれようとしていた。


ジンは陳を見た。


陳もジンを見た。


ジンはFAMASを上げた。


華南側の警備員が一斉に銃を向ける。


陳は動かなかった。


「撃ちますか」


ジンは答えなかった。


「撃てば、あなたは白羽の絵になります」


「今さらだ」


「なら、なぜ撃たない」


ジンは白い紐の男を見た。


「生きてるからだ」


陳の目が、わずかに揺れた。


ジンは続けた。


「死んだら終わる」


陳は低く答えた。


「外へ渡っても、終わるものがあります」


「知るか」


鷲尾が言った。


「こっちは市場の中で撃たれてんだ。お前らの線だの面子だの、今は関係ねえ」


陳は鷲尾を見た。


「関係あります」


「ねえよ」


「あります」


陳は一歩前へ出た。


「あなた方も、守るために黙らせたことがあるはずです。通すために、見なかったことにしたものがあるはずです。市場を守るというのは、そういうことでしょう」


鷲尾が黙った。


志乃の表情は変わらなかった。


ただ、目だけが冷たくなった。


陳は言った。


「私は、あなた方を軽蔑していません」


それは、妙に重い言葉だった。


「だから分かるはずです。守る場所がある者は、きれいな判断だけでは動けない」


その時、また銃声がした。


今度は華南側からではない。


白い箱型車両の後部。

閉まりかけた扉の隙間。


そこから撃たれた。


狙いは、白い紐の男だった。


華南側の警備員の一人が、男を突き飛ばした。


弾が車両の側面に跳ねる。


陳が即座に叫んだ。


「箱を押さえろ!」


華南側の警備員が動く。


的場の若い衆も反射的に撃ち返した。


鷲尾が怒鳴る。


「撃つな! 燃料缶がある!」


だが、もう遅かった。


市場の音が割れた。


ジンは白い箱型車両の扉を見た。


中に影が一つ。

白羽の男か。

別働か。

消す側か。


どちらでもよかった。


銃口がもう一度動いた。


ジンは撃った。


扉の内側で、影が落ちた。


華南側の警備員が白い紐の男を引きずる。


男は泣き叫んでいた。


「私は知らない! 私は言われただけだ!」


陳は男を見なかった。


「保護線内へ入れろ」


「陳隊長、撃たれます!」


「だから入れろ」


華南側の車両の後部が開いた。


白い紐の男が押し込まれる。


ミーシャが一歩動いた。


ジンが止めた。


「今は無理だ」


ミーシャは唇を結んだ。


「対象、華南側へ移動」


「データは」


ミーシャは握った手を見せた。


「確保」


もう一人の雨合羽が、肩を押さえたまま立ち上がった。


血が指の間から落ちている。


ミーシャが見た。


「後退してください」


雨合羽は首を振った。


「まだ見る、という意味です」


ジンは短く言った。


「見たものを送れ」


雨合羽は頷いた。


端末に文字が走る。


《対象、華南保護線内へ収容。白羽別働、対象消去を試行。データ一部確保》


アレクセイの声が、ミーシャの端末から低く入った。


「半分だ」


ミーシャは答えた。


「はい」


「データは取った。人は取られた」


ラソアの声が、雑音混じりに重なった。


「最悪ではない。だが、良くもない」


鷲尾はジンを睨んだ。


「おい、火種。今のは負けか」


ジンは陳の方を見た。


白い紐の男を乗せた華南車両は、ゆっくり後退を始めている。

完全に逃げる速さではない。

だが、近づかせない距離を作っている。


陳はその前に立っていた。


白羽を憎んでいる。

白羽の男を見下している。

白羽の箱を嫌悪している。


それでも、外へ渡さない。


ジンは言った。


「半分だ」


鷲尾が顔をしかめた。


「半分?」


「物は取った」


ミーシャが記録媒体を握る。


「人は取られた」


華南車両が、また少し下がった。


志乃が低く言った。


「取り返すのか」


ジンは答えなかった。


陳維明が、こちらを見ていた。


敵の顔ではない。


味方の顔でもない。


守るものを間違えた男の顔でもなかった。


守るものを分かったうえで、こちらとは別の場所に立っている男の顔だった。


ジンはFAMASを下げなかった。


白羽の紙が、まだ空に舞っていた。


生活名登録票が一枚、濡れた地面に貼りつく。


その上を、華南車両のタイヤがゆっくり踏んだ。


紙は破れなかった。


泥の中で、名前だけが滲んだ。


ミーシャが言った。


「NATO車両、西側道路に到着」


鷲尾が吐き捨てた。


「渡す人間がいねえぞ」


ミーシャは記録媒体を見た。


「物的証拠はあります」


志乃が言った。


「人間がいるかどうかで、話の重さが違う」


ジンは頷いた。


「分かってる」


陳の車両が、白い箱型車両の後ろへ入る。


華南の保護線が厚くなる。


今撃てば、銃撃戦になる。

今突っ込めば、白羽の紙に書かれる。

今引けば、証人は失われる。


市場の中で、三つの道が同時に閉じかけていた。


ジンは、閉じる寸前の道を見ていた。


「ミーシャ」


「はい」


「データをNATOへ」


「あなたは」


「人を見てる」


鷲尾が言った。


「また勝手に走る気か」


ジンは答えなかった。


鷲尾は舌打ちした。


「志乃さん、こいつ絶対戻らねえ顔してるぞ」


志乃はジンを見た。


「戻らせる」


ジンは初めて、志乃を見た。


志乃は言った。


「信用してほしいなら、仕事で見せろと言った。まだ終わってない」


ジンは短く頷いた。


華南車両の向こうで、陳維明が無線機を握り直した。


白い紐の男は、華南の線の内側へ消えた。


データは、ミーシャの手に残った。


生きた証人は、奪われた。


中部市場はまだ燃えていない。


だが、次に燃える場所は、もう市場の中だけでは済まなかった。


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