第四十五話 市場の借り
## 第四十五話 市場の借り
西側通路の入口に、男が立っていた。
黒い作業着の上に、古い防刃ベストを着ている。
袖口は煤で汚れ、右の頬には古い切り傷があった。
肩で息をしている。
だが、手に持った拳銃だけは揺れていない。
その後ろに、的場地域物流警備連絡会の若い衆が二人いた。
一人は唇を噛んでいる。
もう一人は、銃口を上げたまま、ジンの手元から目を離せないでいた。
彼らが見ていたのは、ジンではなかった。
ジンの手にある銃だった。
FAMAS。
中部市場にあるはずのない銃。
「銃を捨てろ」
男が言った。
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、通路の壁に湿った音で響いた。
ジンは振り向かなかった。
市場の西側通路。
診療所裏の狭い空間。
壁には古い消毒液の匂いが染みついていた。
ジンの肩から血が落ちていた。
脇腹も濡れている。
チェストリグには弾の跡が残っていた。
男は、もう一度言った。
「聞こえねえのか。銃を捨てろ」
鷲尾慎吾。
的場地域物流警備連絡会の現場頭だった。
ジンはFAMASを地面に置いた。
ゆっくりと。
鷲尾は銃を見た。
「見たこともねえ銃を持って、うちの市場で撃ってたな」
ジンは黙っていた。
「どこの筋だ」
返事はなかった。
「誰の客だ」
ジンは答えなかった。
鷲尾の目が細くなった。
「名乗れねえ。説明もしねえ。血まみれ。横には雨合羽。拾ってるのは紙。先生は血だらけ」
鷲尾は半歩近づいた。
「そういうやつを、俺らがどう扱うか分かるか」
ジンは短く言った。
「縛る」
鷲尾の口元が、少しだけ歪んだ。
「分かってんなら話が早え」
ミーシャが一歩前へ出た。
「彼は民間人退避路を確保していました」
「黙れ、雨合羽」
鷲尾はミーシャを睨んだ。
「お前もだ。さっきから何を拾ってる。誰に送ってる。市場で紙を拾うやつは、だいたいろくでもねえ」
ミーシャは口を閉じた。
鷲尾はジンに視線を戻した。
「俺は難しい話を聞きてえんじゃねえ。お前が何者かも、今はどうでもいい」
拳銃の先が、ジンの胸に向いた。
「俺の目の前で、知らねえ銃を持った知らねえ男が立ってる。それだけで十分だ」
ジンは何も言わなかった。
「縛れ」
若い衆が動いた。
ジンは抵抗しなかった。
肩を掴まれる。
脇腹に痛みが走る。
手首を後ろへ回される。
ミーシャが動こうとした。
ジンは短く言った。
「動くな」
ミーシャは止まった。
鷲尾はそれを見て、鼻で笑った。
「命令は聞くんだな」
ジンは答えなかった。
「なら、そのまま黙ってろ」
その時、通路の奥から声がした。
「その人は、薬箱を捨てろと言わなかった」
車椅子の男だった。
車輪は歪んだままだった。
膝には、さっきの薬箱が乗っている。
箱には血がついていた。
鷲尾の顔が変わった。
「先生」
車椅子の男は、息を整えた。
「私だけを助けたんじゃない。薬も助けた」
「先生、下がってくれ」
「下がれない」
男は薬箱を叩いた。
「子どもたちの喘息の薬が入っている。熱冷ましも。消毒も。あの男は、それも守ってくれた」
奥村先生。
分裂前は、中学校の英語教師だった。
今は、誰もそう呼ばない。
市場では、ただ先生と呼ばれていた。
医者ではなかった。
だが、医者が来なくなってから、薬の種類を覚えた。
包帯の巻き方を覚えた。
熱を測り、咳を聞き、子どもに水を飲ませた。
英語の教科書を捨てずに、診療所の棚に置いていた。
子どもたちは、薬をもらいに来る。
ついでに、アルファベットを一つ覚えて帰る。
「私だけじゃない」
奥村先生は続けた。
「さっき、米屋の前に親子がいた。あの人が音を作ったから、母親が走れた」
通路の端で、女が顔を上げた。
腕の中に、子どもを抱えていた。
「うちの子もです」
声は震えていた。
「棚の下から出られなかった。撃たれてたら、そこで終わりでした」
別の露店主が、割れた看板の影から言った。
「こいつが車椅子を押した。薬箱も落とさなかった。俺は見た」
年寄りの女が、米袋を抱えたまま、口を挟んだ。
「明日、店を開けるには薬がいるんだよ。先生がいなきゃ、子どもも年寄りも困る」
鷲尾が振り返った。
「黙ってろ」
だが、女は黙らなかった。
「慎吾、あんたも子どもの頃、先生に字を直されたろ」
鷲尾の顔が一瞬だけ歪んだ。
「今その話をすんな」
「するよ。明日がなくなる時に、昔の話をしなくてどうするんだい」
通路の奥で、人が割れた。
誰かが名前を呼んだわけではない。
だが、市場の人間は、彼女が来る時だけ少しだけ道を作る。
的場志乃が入ってきた。
黒い上着に、煤がついている。
短く結んだ髪の端が、汗で首筋に貼りついていた。
首の古い無線機は、まだ小さな雑音を吐いている。
彼女は大声を出さなかった。
それでも、的場の若い衆の肩がわずかに下がった。
露店の影にいた女が、泣くのを一度だけ止めた。
鷲尾でさえ、銃口を向けたまま、半歩だけ横へずれた。
この市場では、警察より先に志乃に話が通る。
揉めた露店の場所。
夜中に消えた燃料缶。
薬の列の割り込み。
場所代の不払い。
喧嘩。
盗み。
死体の引き取り先。
綺麗な仕事ではなかった。
志乃は白い手袋で市場を守ってきたわけではない。
汚れた名前のまま、汚れた場所に立ってきた。
だから市場の人間は、彼女を好きではない者でも、彼女が来れば見る。
逃げるためではなく、次に何をするかを待つために。
志乃は奥村先生を見た。
「先生、下がってください」
「待ってくれ」
奥村先生は薬箱を抱え直した。
「この箱が残った。あの親子も残った。露店主も、そこの子どもも残った」
奥村先生はジンを見た。
「この人が善人かは知らない。だが、さっきは明日を残した」
志乃は、診療所の棚を知っていた。
窓際に置かれた、角の折れた英語の教科書。
薬箱の下に挟まった、子どもの名前を書いた古いノート。
熱を出した子どもが眠る横で、奥村先生が小さな声で発音を直していた夜。
志乃が市場を守ると言う時、それは米袋だけの話ではなかった。
燃料だけでもない。
通行証だけでもない。
場所代を払う露店だけでもない。
明日の朝、子どもが咳をしても行く場所があること。
熱を出した時に、誰かが額に手を当てること。
外の文字を一つでも覚えて、いつかこの市場の外へ出られるかもしれないこと。
志乃にとって奥村先生は、市場の端に残った未来だった。
その先生が、血のついた薬箱を抱えて、ジンを庇っていた。
志乃はジンを見た。
ジンは縛られたまま、壁にもたれていた。
「名前は」
ジンは答えなかった。
ミーシャも答えなかった。
鷲尾が言った。
「志乃さん、こいつは危ない。銃も、服も、動き方も、カタギじゃねえ」
「分かってる」
「なら」
「だから使う」
鷲尾が顔をしかめた。
志乃はジンに近づいた。
「信用はしない」
ジンは頷いた。
「それでいい」
「でも先生を助けた。市場の人間を出した。薬を残した」
志乃は鷲尾を見た。
「縄を解け」
鷲尾は動かなかった。
「志乃さん」
「解け」
「こいつがまた撃ったら」
「撃たせる」
鷲尾が黙った。
志乃はジンを見たまま言った。
「ただし、今度はうちの市場のために撃たせる」
若い衆がジンの手首を解いた。
縄が落ちた。
ジンは手首を軽く動かした。
志乃は言った。
「信用してほしいなら、口じゃなく仕事で見せろ」
「何をする」
「市場の外へ出す人間がいる」
志乃は管理棟の方を見た。
「あそこに、よそ者がいる」
鷲尾が顔を上げた。
「二階か」
「分かるのか」
「分かる」
鷲尾は管理棟を見た。
「市場の人間は、あそこに立たねえ。二階の床が抜けてる。入口の支柱もそうだ。上から屋根材が落ちる。知ってるやつは避ける」
志乃は目を細めた。
「外から来た人間か」
「少なくとも、市場を知らねえやつだ」
ミーシャの端末が短く震えた。
画面に、文字だけが出た。
《白い箱の後部。男一。手首に白羽の識別紐。逃走準備》
ミーシャは顔を上げた。
「別働から連絡」
ジンが聞いた。
「雨合羽か」
「はい」
鷲尾が眉をひそめた。
「雨合羽が何人いるんだ」
ミーシャは答えなかった。
ジンも答えなかった。
市場の外れ。
古いガソリンスタンドの影に、もう一人の雨合羽がいた。
その人物は、ミーシャより少し背が低かった。
顔は見えない。
黒い合羽のフードを深くかぶり、割れた給油機の裏から市場を見ていた。
その雨合羽が、ラソアに接触していた。
ここにジンが来る。
場所が悪くなる。
商売の準備をしておけ。
そう伝えたのは、その人物だった。
そして今、その雨合羽は別のものを見つけていた。
白い箱型車両の後部。
開いた扉。
床に落ちた生活名登録票。
箱の内側に残った固定具。
そして、逃げようとしている男。
男は銃を持っていなかった。
だから、ただの避難者に見えた。
だが、手首に白い紐があった。
避難者が巻く布ではなかった。
救護所で配る目印でもなかった。
薄い樹脂の輪。
一度締めると、切らなければ外れない。
表面には、小さな黒い印字があった。
白羽生活支援系統。
臨時作業。
物資配布、児童誘導、生活名登録、避難列整理。
そういう名目で現場に入る者に付けられる識別紐だった。
一般の避難者は持たない。
市場の露店主も持たない。
的場の警備も、華南の保護線も使わない。
白羽の中に入った者だけが、手首に付ける紐だった。
雨合羽は、男を追った。
走らない。
声を出さない。
ただ、距離を詰める。
男は白い箱から離れ、燃料缶の影へ入った。
そこで上着を脱ぎ、腕章を外した。
顔を伏せ、避難者の列へ混じろうとした。
雨合羽は、その瞬間を見ていた。
端末に短く打つ。
《対象、変装。避難列へ混入》
ミーシャはその文字を読んだ。
「白羽側の作業者が、避難列に混じります」
志乃の目が細くなった。
「どこだ」
「燃料缶の影から西側へ」
鷲尾が即座に言った。
「薬屋の裏だ。人が詰まる。逃げ込まれたら見失う」
志乃は言った。
「列は止めるな」
鷲尾は若い衆に怒鳴った。
「道を塞ぐな! 避難列は流せ! 白い紐の男だけ外せ!」
若い衆が走った。
その瞬間、管理棟二階から乾いた音がした。
若い衆の一人が肩を押さえて倒れた。
血が壁に散った。
鷲尾が振り向いた。
「上だ!」
ジンはもうFAMASを拾っていた。
縛られていた時の遅さはなかった。
一歩で壁際へ入り、二歩目で倒れた荷箱の影に沈んだ。
三歩目はなかった。
銃声がもう一度鳴る前に、ジンが撃った。
管理棟二階の暗がりで、人影が崩れた。
悲鳴はなかった。
ただ、金属の何かが落ちる音だけがした。
鷲尾の若い衆が息を飲んだ。
ジンはその顔を見なかった。
「動けるか」
撃たれた若い衆が歯を食いしばった。
「腕です」
「なら退け」
ジンは視線を移した。
市場入口の支柱の陰に、もう一人いた。
そいつは白い紐の男を撃つ位置にいた。
ジンは迷わなかった。
撃った。
支柱の陰の男が後ろへ倒れた。
鷲尾が低く言った。
「おい」
ジンは答えなかった。
ミーシャが白い紐の男へ走った。
男は叫んだ。
「違う! 私は避難を」
もう一人の雨合羽が、その背後に立った。
男の肩がわずかに揺れた。
振り返るより早く、雨合羽の手が男の手首を掴んだ。
白い識別紐が見えた。
男は逃げようとした。
雨合羽は殴らなかった。
ただ、腕を押さえ、避難列から一歩外へずらした。
その一歩だけで、男は避難者ではなくなった。
白羽の舞台係になった。
奥の露店から、別の男が飛び出した。
包丁ではない。
短い銃だった。
狙いはミーシャではなかった。
白い紐の男だった。
消すための銃口だった。
ジンが撃った。
男は荷台にぶつかって倒れた。
銃が石畳を滑った。
鷲尾が初めて、ジンを見た。
「お前、迷わねえな」
ジンは短く言った。
「撃ってきた」
「こっちじゃなく、あいつをか」
「証拠を消しに来てる」
鷲尾は奥歯を噛んだ。
「くそが」
ミーシャが白い紐の男の手首を押さえた。
「対象確保」
男は首を振った。
「違う、私は、臨時の」
ミーシャは男の手首を見た。
「白羽生活支援系統、臨時作業識別紐」
「配布を手伝っていただけだ」
「何を配布しましたか」
男は黙った。
雨合羽が、男の胸元から小さな記録媒体を取り出した。
男の顔色が変わった。
ミーシャはそれを見た。
「データ」
雨合羽は頷いた。
言葉はなかった。
鷲尾が追いついた。
「そいつか」
ミーシャは頷いた。
「生きた証拠です」
鷲尾は男を睨んだ。
「うちの市場で、何を撒いた」
男は答えなかった。
鷲尾の拳が動きかけた。
志乃が言った。
「殴るな」
鷲尾は止まった。
「志乃さん」
「殴れば、こっちの話になる」
鷲尾は歯を食いしばった。
「……くそが」
志乃はジンを見た。
「仕事はしたな」
ジンは答えなかった。
志乃は続けた。
「まだ終わってない」
ジンはFAMASを構えたまま、北側を見た。
市場の北側で、華南物流の車両が一台、ゆっくりと横を向いた。
通路を塞ぐような動きだった。
白い箱型車両の前に、一人の男が立っていた。
灰色の上着。
肩に小さな無線機。
手袋をした右手。
細い目。
動きに無駄がなかった。
男は、白羽の作業者を見ていなかった。
その男を連れて行こうとするジンたちを見ていた。
ミーシャが低く言った。
「華南側、妨害行動」
ジンは聞いた。
「誰だ」
志乃が答えた。
「陳維明。梁の現場だ」
鷲尾が舌打ちした。
「あいつは面倒だ。撃つより先に、道を塞ぐ」
白い箱型車両の前で、陳維明は無線機を握った。
その目は、白羽を嫌っている者の目だった。
だが、嫌いなものを外へ渡せる者の目ではなかった。
ジンはFAMASを握り直した。
市場の借りは、まだ返し終わっていない。
白い紐の男は、まだ生きていた。
紙もある。
元データもある。
奥村先生の薬箱も、まだ通路の奥にある。
市場はまだ燃えていない。
だが、道は塞がれた。
陳維明が、一歩前に出た。




