第四十四話 火力の値段
## 第四十四話 火力の値段
ラソアの車は、市場の北西に停まっていた。
救急車ではなかった。
軍用車でもなかった。
古い配送トラックだった。
荷台には、箱が積まれていた。
靴。
布。
防刃手袋。
無線機。
古い医療袋。
弾薬箱に見えるが、弾薬とは限らない箱。
逆に、ただの工具箱に見えるが、工具では済まない箱。
ラソア・アンドリアマンガは、荷台の扉にもたれていた。
煙草をくわえたまま、ジンを見た。
「まだ歩いているな」
ジンは答えなかった。
肩の布は血で重くなっていた。
脇腹の傷は、動くたびに熱を持った。
耳はまだ少し遠い。
市場の奥では、まだ銃声がしていた。
短い音。
長い音。
誰かが威嚇で撃った音。
誰かが本気で撃った音。
誰かがもう何に向けて撃っているのか分からなくなった音。
その全部が、古い貨物駅の屋根にぶつかって戻ってくる。
ミーシャが言った。
「止血が必要です」
「あとだ」
「今です」
ジンは荷台へ手をかけた。
ラソアが眉を上げた。
「おい。それは商品だ」
ジンは返事をせず、箱を開けた。
黒いタクティカルブーツ。
厚手のシャツ。
防弾のチェストリグ。
膝当て。
手袋。
古い水筒。
小さな止血包帯。
ジンは迷わなかった。
まず靴を見た。
底を押し、曲がり方を確かめる。
片方だけ履き、踵を鳴らす。
合わないものは捨てるように荷台へ戻した。
ラソアが言った。
「店でやれ」
ジンは別の靴を取った。
今度は履いた。
足首を回し、一歩だけ踏み込む。
それで決めた。
次に、血で濡れた上着を脱いだ。
布が傷に貼りついていた。
剥がす時、肩から血が滲み直した。
ミーシャが傷を見た。
「肩。浅いですが開いています。脇腹、出血継続」
「かすりだ」
「二箇所です」
「二つのかすりだ」
ラソアが笑った。
「昔から算数が悪い」
ジンはケプラー入りのシャツを取った。
袖を通す時、肩の傷が開いた。
息が止まる。
一秒。
それだけだった。
ジンは何も言わず、シャツを下ろした。
ミーシャが止血包帯を出す。
ジンは受け取らず、ラソアの箱から別のものを取った。
「それも商品だ」
「あとで払う」
「請求書はどこへ送ればいい」
ジンは一瞬だけラソアを見た。
「そこのビンテージイワノフに」
ラソアの視線が、アレクセイへ流れた。
「これはこれは、ゴルバチョフ殿。まだ駒を持っていたのか」
アレクセイは赤い手帳を閉じなかった。
「私は駒を持たない。盤面を読むだけだ」
「嘘つきは長生きする」
ラソアは笑った。
「ガソリンスタンドに雨合羽が来た。黒いやつだ。そいつが言った。ここにジンが来る。場所が悪くなる。だから、商売の準備をしておけ、と」
ミーシャは顔を上げなかった。
ジンも聞き返さなかった。
ラソアはジンを見た。
「俺は日本人の名前など知らん。ナオキも、ケンジも、学校も知らん」
チェストリグの留め具が、乾いた音を立てた。
「俺が知っているのは、Jin FUKUOKAだけだ」
ラソアは、荷台の箱を足で軽く叩いた。
「愉快で、楽しくて、狂っていて、いつも場所が悪くて、死ぬべき時に死なない兵隊家業の友人だ」
ジンは答えなかった。
ラソアは笑った。
「だから商品を持ってきた。お前はまた、俺の商品を壊す」
「壊した分も払う」
「払ったことがない」
「覚えてない」
「便利な頭だ」
ジンは手袋をはめた。
ラソアは、少しだけ目を細めた。
「だが、その歩き方は覚えている。肩をやったな。脇もか」
「かすりだ」
「お前の“かすり”は、だいたい他人の重傷だ」
ミーシャが低く言った。
「同意します」
ラソアはミーシャを見た。
「黒い雨合羽は、他に何人いるんだ?」
ミーシャは答えなかった。
ジンはチェストリグを持ち上げた。
重さを見る。
肩に乗せる。
脇腹に当たる部分をずらす。
傷に食い込まない位置を探す。
装備を身につけているのではなかった。
傷を隠しているのでもなかった。
死ににくい形に、身体を組み替えていた。
アレクセイは、それを黙って見ていた。
「いい商品だな」
ラソアは鼻で笑った。
「商品じゃない。誰かが死ななかった残りだ」
ジンはバックルを締めた。
乾いた音がした。
ミーシャが言った。
「再突入は推奨できません」
「推奨はいらない」
「負傷しています」
「まだ動く」
「動けることと、戻れることは違います」
ジンは手を止めた。
その言葉だけは、少し残った。
戻れること。
旧南第三。
名前を言えない子ども。
食卓に戻った少しの色。
健二が書き換えた記録。
報酬扱い不可。
再配分不可。
止まっていたものの返還。
ジンはチェストリグの最後の留め具を締めた。
「戻るために行く」
ミーシャは黙った。
ラソアは荷台の奥から手袋を投げた。
ジンは受け取った。
「それは高い」
「いくらだ」
「お前の命よりは安い」
ジンは手袋をはめた。
ラソアは市場の北側を見た。
エンジン音が近づいていた。
「北側の車列は、まっすぐ来る。先頭は華南の顔をしている。後ろに白羽の箱がある」
アレクセイが言った。
「箱を止める必要がある」
「箱じゃない」
ラソアは煙草を落とし、靴の裏で踏んだ。
「視線だ」
ジンが見た。
ラソアは続けた。
「人数が足りない時は、勇気じゃなくて角度だ。敵の目を市場から外せ。銃口の向きを変えろ。その間に人を出す」
「何秒」
「買えて十秒」
ジンは答えなかった。
十秒。
母親が走るには足りる。
老人が角を曲がるには足りない。
車椅子なら、押す者が必要になる。
子どもが泣けば、止まる。
十秒は短い。
だが、何もないよりは長い。
アレクセイは赤い手帳を開いた。
「火力の値段だ」
ラソアが笑った。
「違う」
ジンはマカロフを確認した。
残りは多くない。
ラソアは荷台から小さな無線機を取って投げた。
「時間の値段だ」
ジンは無線機を受け取った。
市場の奥から、また銃声がした。
ミーシャが端末を見る。
「残存民間人、最低四。子ども一。燃料缶周辺に二名の影」
ジンは北側の音を聞いた。
車列。
市場。
白羽の箱。
残っている子ども。
装備は整った。
傷は治っていない。
それで十分だった。
ジンは荷台を降りた。
ラソアが言った。
「ジン」
ジンは振り返らなかった。
「死ぬなら、俺の商品を返してからにしろ」
ジンは歩きながら答えた。
「壊した分も払う」
ラソアは低く笑った。
「なら、生きろ。高くつくぞ」
北側の道路の先で、地面が震えた。
車列が見えた。
先頭は白い輸送車だった。
華南物流互助会の印が入っている。
赤い線。
保護輸送協力。
在外同胞保護。
その後ろに、灰色の車両が二台。
さらに後ろに、白い箱型車両があった。
何も書かれていない。
それが一番悪かった。
何も書かれていない箱ほど、あとで好きな名前を貼れる。
アレクセイが双眼鏡を下ろした。
「白羽だ」
ラソアは首を鳴らした。
「やつらは、いつも空欄で来る。あとから書くためだ」
ミーシャが端末を見た。
「市場北側、燃料缶。通路付近に民間人二。奥、露店裏に熱源一。子どもの可能性」
ジンは短く言った。
「通路を開ける」
「車列は」
「止めるんじゃない。目を逸らす」
ラソアが笑った。
「学習が早い」
アレクセイは赤い手帳に何かを書いた。
「白羽の目的は、市場内で火が出ることだ。死体と火災があれば、緊急安全管理の文面が成立する」
「燃料缶を撃たせるな」
ジンが言った。
「そうだ」
「民間人を出す」
「それが先だ」
ラソアが無線を取った。
「北側、聞こえるか」
雑音。
次に、英語。
「Civilian corridor remains priority」
アレクセイが訳すより先に、ジンは歩き出した。
ミーシャが続く。
ラソアは言った。
「おい、黒い雨合羽」
ミーシャは振り返った。
「ジンが倒れたら、引きずれ」
「了解」
「死体でもだ」
ミーシャは少しだけ間を置いた。
「死体にはしません」
ラソアは笑った。
「いい雨合羽だ」
北側の車列は速度を落とさなかった。
市場の人間が、それに気づき始める。
的場側の警備員が北へ銃口を向けた。
華南側の警備員が、それを見て銃口を上げた。
どちらも、自分が先に撃たれると思っている。
だから撃つ準備をする。
撃つ準備をした者がいるだけで、撃たない者も撃つ準備をする。
市場は、そうやって狭くなっていく。
志乃が北側を見た。
「来るぞ!」
梁海成は輸送車を見ていた。
表情が変わった。
ほんの少しだけ。
ジンはそれを見逃さなかった。
梁は、車列の全部を知っているわけではない。
先頭は華南。
後ろは違う。
白羽の箱。
梁の保護管理の上に、白羽が紙を重ねようとしている。
ジンはミーシャに言った。
「梁を見るな。通路を見ろ」
「了解」
「燃料缶の横の二人」
「確認」
「出す」
二人は走った。
ジンの新しいブーツが、濡れた砂利を踏んだ。
足首は沈まない。
膝にかかる力が少しだけ逃げる。
脇腹は痛む。
肩は熱い。
装備は痛みを消さない。
死ぬ順番を少し後ろへずらすだけだ。
燃料缶の近くに、二人が伏せていた。
一人は女。
もう一人は老人だった。
女は老人の体を押さえている。
老人は足を怪我していた。
ジンはしゃがんだ。
「立てるか」
女は首を振った。
「足が」
「どっちだ」
老人が何か言った。
声が小さい。
銃声で聞こえない。
ミーシャが老人の膝を見た。
「自力歩行困難」
「引く」
ジンは老人の上着を掴んだ。
女が言った。
「燃料が」
「見るな」
「でも」
「見るな」
ジンは老人を引いた。
その時、北側の先頭車両が市場入口へ差しかかった。
華南側の警備員が叫ぶ。
的場側が撃った。
華南側も撃った。
どちらが先かは、また分からなかった。
もう分からなくてよかった。
分からないことを、白羽はあとで書く。
ジンは老人を引きずった。
ミーシャが女を立たせる。
燃料缶の横を、弾が通った。
音ではなく、空気が曲がる感覚だった。
ジンは老人の体を抱え直した。
脇腹に痛みが刺さる。
膝が落ちそうになる。
ミーシャが老人の反対側を持った。
「重量、私が」
「前を見ろ」
「見ています」
女が泣いていた。
泣きながら歩いていた。
それでよかった。
泣いても、歩けるならいい。
西側通路まで、あと十二メートル。
その時、北側で大きな音がした。
爆発というより、地面そのものが怒鳴ったような音だった。
市場全体が一度、沈んだ。
次に、空気が押し返してきた。
ジンの耳がまた遠くなる。
女の口が開く。
声は聞こえない。
老人の体が跳ねる。
ミーシャの雨合羽が風で膨らむ。
北側道路の先で、先頭車両が横を向いていた。
炎は大きくなかった。
だが、地面の形が変わっていた。
車列は止まった。
後続が詰まった。
銃口の向きが、市場から空へ逸れた。
運転席の影が、何かを叫んでいる。
誰かが外へ転がり出る。
ラソアの声が無線に入った。
「十秒」
ジンは老人を引いた。
「走れ!」
ミーシャが女の背を押す。
女が走る。
老人は走れない。
だからジンとミーシャが走る。
老人の足は地面を擦った。
靴底が裂ける。
血が薄く残る。
十秒。
それは短い。
だが、銃口が市場から逸れた。
それだけで、人は動ける。
西側通路へ入った瞬間、ジンは老人を壁際へ下ろした。
女が老人の名前を呼んだ。
名前があった。
それだけで、少し救われた。
ミーシャが端末を見る。
「露店裏、熱源一。小さい」
「子どもか」
「可能性高」
ジンは息を吐いた。
脇腹に手を当てる。
手袋に血がつく。
ラソアの商品は、もう汚れていた。
無線が鳴る。
ラソアの声。
「ジン、北側は止まった。だが長くない。後ろの白い箱が動く」
ジンは市場奥を見た。
「箱の中身」
「まだ分からん」
「読め」
ラソアは笑わなかった。
「だから俺を呼んだのか、ゴルバチョフ殿」
アレクセイの声が入る。
「私は呼んでいない。雨合羽が呼んだ」
「どいつも同じ色を着るな。商売に悪い」
アレクセイは無視した。
「ラソア。箱の出どころは」
少し間があった。
銃声。
無線の雑音。
遠くで誰かが怒鳴る声。
ラソアの声が低くなった。
「その箱は中国のものではない」
ジンは止まった。
「華南じゃないのか」
「持っている者と、流した者は違う」
ラソアは言った。
「白羽は、銃を撃たない」
一拍。
「撃つ理由を売る」
ジンは市場奥へ向かった。
露店裏。
倒れた棚。
割れた中古端末。
散った乾電池。
濡れた毛布。
その奥に、小さな靴が見えた。
ジンは膝をついた。
子どもがいた。
七歳くらい。
口を押さえている。
泣いていない。
泣くと見つかると分かっている顔だった。
ジンは声を落とした。
「出るぞ」
子どもは首を振った。
ジンは手を伸ばさなかった。
旧南第三で覚えた。
怖い子どもは、掴むと固まる。
名前を聞いてもいけない。
名前を言えない子どもに、名前を急がせるな。
ジンは短く言った。
「名前はいらない」
子どもの目が少し動いた。
「歩けるか」
子どもは小さく頷いた。
「じゃあ、俺の後ろ」
子どもは動かない。
銃声が近くなる。
ジンは手袋を外し、地面に置いた。
「これを持て」
子どもは手袋を見た。
「俺を持つな。これを持て」
子どもは、手袋の端を掴んだ。
ジンは立った。
手袋のもう片方を持つ。
子どもとの間に、短い布の距離ができた。
触れない。
離れない。
それでいい。
ミーシャが見ていた。
「誘導します」
「後ろ」
「了解」
ジンは歩き出した。
子どもがついてくる。
一歩。
二歩。
三歩。
その時、北側の白い箱が開いた。
市場の向こうで、紙が舞った。
最初はただの書類に見えた。
白い紙。
束。
風に散る。
地面に落ちる。
米粒の上に乗る。
血の近くに貼りつく。
ミーシャが一枚を拾った。
顔が変わった。
「白羽生活支援系統」
ジンは子どもを後ろへ押した。
「読め」
ミーシャは紙を見た。
「中部臨時物資市場における地域武装勢力間衝突。児童・医療物資保護のため、白羽生活支援系統による緊急安全管理を要請」
アレクセイの声が無線から入った。
「予定文書だ」
ラソアが言った。
「まだ市場は燃えていないぞ」
アレクセイは答えた。
「燃える前に書いたんだ」
ジンは紙を見た。
日付は今日だった。
時刻は、まだ少し先だった。
白羽は、未来の記録を持ってきていた。
ジンは子どもの手袋を握り直した。
「ミーシャ」
「はい」
「その紙を残せ」
「記録します」
「違う」
ジンは市場の北を見た。
白い箱。
華南の先頭車両。
的場の警備線。
志乃。
梁。
燃料缶。
逃げる人間。
まだ逃げられていない人間。
「奪われないように持て」
ミーシャは一瞬だけ止まった。
「了解」
子どもが手袋を握る力を強くした。
ジンは言った。
「走るぞ」
子どもは頷いた。
その時、梁海成の声が市場に響いた。
「撃つな!」
華南側の数人が止まった。
梁は北側の白い箱を見ていた。
顔色が変わっていた。
彼は知ったのだ。
自分の保護管理の上に、白羽の紙がすでに置かれていたことを。
自分たちの正義が、もう誰かの予定文書に組み込まれていたことを。
志乃もそれを見ていた。
二人の間に、まだ銃口はあった。
だが一瞬だけ、同じものを見ていた。
白羽の紙。
撃てない敵。
ラソアの声が無線に入る。
「ジン」
「何だ」
「十秒は終わった」
北側で、後続車両のドアが開く音がした。
人影が降りる。
銃口がまた市場へ戻る。
ジンは子どもを見た。
「走れ」
子どもが走った。
ミーシャが横につく。
ジンが後ろに入る。
銃声が戻ってきた。
一発。
二発。
三発。
チェストリグに何かが当たった。
硬い衝撃。
息が止まる。
ジンは倒れなかった。
ラソアの商品は、壊れた。
だが、ジンはまだ動いた。
子どもが西側通路へ飛び込む。
ミーシャが続く。
ジンは最後に入った。
壁に背中を当てた瞬間、膝が落ちた。
ミーシャが振り返る。
「被弾」
ジンは息を吐いた。
「商品が高い理由は分かった」
無線の向こうで、ラソアが笑った。
「だから返せと言った」
ジンは胸元を見た。
チェストリグの表面が裂れていた。
中までは抜けていない。
死ぬ順番が、少し後ろにずれた。
それだけで、子どもは通路を抜けた。
市場の北側では、白羽の紙がまだ舞っていた。
アレクセイが無線で言った。
「紙を拾え。全部だ」
ミーシャは子どもを通路の奥へ押し出したあと、振り返った。
「搬出と記録、同時に実行します」
ジンは立ち上がろうとした。
脇腹が痛む。
肩が熱い。
胸が痺れている。
だが、まだ市場の中に人がいる。
そして白羽の箱が開いた。
ラソアが低く言った。
「ジン」
「今度は何だ」
「箱の奥に、もう一つある」
「武器か」
「いや」
ラソアの声が、初めて少しだけ冷えた。
「子ども用の生活名登録票だ」
ジンは動きを止めた。
銃声が遠くなった。
市場の匂いも、血の熱も、一瞬だけ消えた。
生活名。
名前を奪う紙。
白羽は市場を奪いに来たのではない。
市場に残った子どもたちの名前を、戦闘の混乱ごと持っていくつもりだった。
ジンは壁に手をついた。
そして、もう一度立った。
「ミーシャ」
「はい」
「記録じゃない」
ミーシャは紙を握ったまま、顔を上げた。
ジンは市場を見た。
「名前を拾え」
北側の車列から、白羽の白い紙がさらに落ちてきた。
中部市場の空に、銃声より軽い音で、名前を消す紙が舞っていた。




