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第四十三話 正しい銃声

## 第四十三話 正しい銃声


日本は、朝鮮半島のようには割れなかった。


北と南に線を引き、片方に中国とロシア、もう片方にアメリカが立つ。

そんな単純な地図ではなかった。


北にはロシアがいた。

日本海側には、中国系物流と在外同胞保護の名目で入り込んだ輸送網があった。

南には沖縄があり、米軍基地と太平洋側の軍事圧力があった。


日本は、最初から二つに割れるには形が悪すぎた。


北から押され、日本海側から押され、南から睨まれる。

割れた国土の上に、三つの力が重なった。


そして、その隙間に入ったのは、銃だけではなかった。


もっと前から、病巣は刻まれていた。


水源地。

火葬設備。

過疎地域の土地。

古い倉庫。

使われなくなった貨物駅。

山間部の道路。

誰も見ていなかった生活インフラ。


それらは、銃で奪われたわけではない。


売買契約で移った。

法人登記で移った。

相続で移った。

名義変更で移った。

地域振興の名目で移った。

過疎地再生の名目で移った。


そこには、中国系の権利者ネットワークもあった。

華南物流互助会と接続した法人もあった。

日本国籍を持つ者もいた。

日本の会社もあった。

日本の法律に従って、日本の権利を持っていた。


だから、国家は簡単には動けなかった。


外国軍が来たなら、軍で返せる。

武装勢力が来たなら、治安部隊で囲める。

だが、登記簿に名前があり、契約書に印があり、納税記録があり、生活支援の申請書がある相手には、砲弾を撃てない。


そこにあったのは侵攻ではなかった。

少なくとも、紙の上では。


民生だった。

福祉だった。

地域再生だった。

物流協力だった。

在外同胞保護だった。

生活基盤の維持だった。


だから厄介だった。


特効薬を使わずに、がんを治療するようなものだった。

切れば出血する。

焼けば周りの正常な組織まで死ぬ。

放置すれば、もっと深く入る。


警察は、実害が出なければ動けなかった。


誰かが殴られた。

誰かが撃たれた。

誰かが死んだ。


そこまで行かなければ、紙の上では事件にならなかった。


自衛隊は別の場所で戦っていた。

相手は銃を持った軍だった。

国境線とも呼べない線の向こうで、誰が先に撃ったのか、どこからが防衛出動だったのか、もう誰にも分からなくなっていた。


誰が始めた戦争なのか。

これは戦争なのか。

内乱なのか。

防衛なのか。

治安出動なのか。


名前を決めている間に、人は死んだ。


ただ、一つだけ言えることがあった。


日本は、また戦争の中にいた。


国家が動けなければ、民間が動く。


それは新しいことではなかった。

江戸より前。

もっと古い、戦国のあり方に近かった。


力のある者が土地を守る。

守られた者は通るために金を払う。

関所を作り、内側の民を守る。

関所を通る金で、兵を食わせ、米を買い、刃を研ぎ、また内側を守る。


昔の関所には、門があった。

番人がいた。

槍があった。

札があった。


今の関所には、門はない。


代わりに、警備票があった。

通行証があった。

生活支援票があった。

市場の区画があった。


誰の縄張りで、誰が血を流して守った場所なのか。


それだけが、見えない関所になっていた。


血を流さずに守ってもらった者は、金を出した。

血と汗を流した者は、その金で飯を食った。


それを搾取と呼ぶ者もいた。

必要経費と呼ぶ者もいた。

任侠と呼ぶ者もいた。

愛国心と呼ぶ者もいた。


家族を守る。

隣の家を守る。

通りを守る。

市場を守る。

町を守る。


その先に、国があるのだと信じた者たちがいた。


だが、言葉が大きくなればなるほど、足元の血は見えにくくなる。


守った者は、金も取った。

撃たれた者は、脅しもした。

市場を残した者は、市場を縄張りにもした。


白羽は、そこへ紙を重ねた。


保護。

支援。

安全管理。

生活名。

地域安定。


銃で奪う必要はなかった。

すでにある権利の上に、別の名前を貼ればよかった。


アレクセイ・イリイチ・サボリンは、古い貨物線の地図を膝の上に広げていた。


赤い手帳は閉じていない。


「国は撃てない」


隣で、ジンは窓の外を見ていた。


南海福祉二号の港から離れて、車はもう何時間も走っていた。

山の形が変わり、標識の文字が減り、道路脇の空き店舗が増えた。


「相手は軍ではない。法人だ。住民だ。権利者だ。支援団体だ。日本の紙を持っている」


ミーシャは後部座席で端末を見ていた。

黒い雨合羽の袖口から、細い指だけが動いている。


「中部臨時物資市場。古い貨物駅跡地。二〇二二年七月以降、自然発生的に形成。現在、三系統の管理票を確認」


「読め」


ジンが言った。


ミーシャは画面を少し上げた。


「的場地域物流警備連絡会、区域警備票。華南物流互助会、保護輸送協力票。白羽生活支援系統、照会中」


「照会中」


アレクセイが笑わずに言った。


「一番速い紙だ」


ジンは地図に目を落とした。


太平洋側へ抜ける道。

日本海側へ抜ける道。

東西をつなぐ古い貨物線。

燃料。

薬。

米。

靴。

通行証。

そして、名前をまだ言えない子ども。


アレクセイは、指先で中部を叩いた。


「ここを取られれば、人は生きる時も、死ぬ時も、紙を通らなければならなくなる」


ジンは聞き返さなかった。


「だから中部だ」


道の先に、古い貨物駅の屋根が見えた。


錆びた鉄骨。

剥がれた駅名板。

貨物用のホーム跡。

そこに青いシートと露店の屋根が重なり、細い煙が上がっていた。


中部臨時物資市場。


そこは、戦場ではなかった。

少なくとも、最初は。


そこは関所だった。


誰かが血を流して守り、誰かが金を払って通り、誰かがその金で飯を食う場所だった。


そして白羽は、その関所を紙で奪おうとしていた。


市場の入口には、紙が多すぎた。


中部自治会通行確認。

西側暫定生活圏補助。

国際医療搬入申請。

白羽生活支援系統、照会中。

華南物流互助会、保護輸送協力。

的場地域物流警備連絡会、区域警備。


紙が多すぎる場所では、紙を読める者が強くなる。


紙を読ませない者は、もっと強くなる。


ジンは車を降りた。


肩には古い上着。

腰の動きは小さい。

歩幅は変わらない。

周囲を見る目だけが、旧南第三にいた時とは違っていた。


真柴直樹は、学校に置いてきた。


ここにいるのは、Jin FUKUOKAだった。


ミーシャが後ろにつく。

アレクセイは赤い手帳を内ポケットに入れた。


市場には、米の匂いがした。


古い米。

新しい米。

湿った袋。

燃料。

薬。

煙草。

安い布。

雨に濡れた段ボール。

消毒液。

汗。

血を洗ったあとに残る、薄い鉄の匂い。


ジンは一度だけ立ち止まった。


「弾薬がある」


ミーシャが顔を上げた。


「視認できません」


「匂いだ」


市場の人間は、知らないふりをしていた。


米を買う老人。

薬の列に並ぶ母親。

咳をする子ども。

中古端末を並べる若い男。

車椅子の男。

通行証を隠すように握る女。

燃料缶を二つ抱えた少年。


誰も、ここが戦場になると思いたくなかった。


思えば、足が止まる。

足が止まれば、米が買えない。

米が買えなければ、家に帰れない。


だから人は、見ないふりをする。


市場の中央には、二つの線があった。


一つは、的場地域物流警備連絡会の警備線。

古い黄色のロープに、黒い布が結ばれていた。


もう一つは、華南物流互助会の保護線。

白いテープに、赤い印が押されていた。


その間に、誰も立ちたがらなかった。


的場志乃は、黒い上着を着ていた。

短く結んだ髪。

首には古い無線機。

目元に、眠っていない人間の乾きがある。


彼女の後ろには、若い警備員が三人。

古い的場組の名を消さずに残した者たちだった。


汚れた名前を、あえて残している。


名前を消せば、責任も消えるから。


向かいに立っていたのは、梁海成だった。


四十代前半。

細い眼鏡。

灰色の上着。

手袋。

胸に赤いピン。


華南物流互助会・動員派。


彼の後ろには、輸送担当者と警備員がいた。

彼らの表情には、恐怖よりも規律があった。


梁は、自分を悪人だと思っていなかった。


「この市場は、一時的に保護管理へ移行します」


声は大きくなかった。

だが、周囲に聞こえる高さだった。


「在外同胞および合法物流資産の保護です」


志乃は笑わなかった。


「ここを守ってきたのは、あんたらじゃない」


「割れた土地では、法が遅れる。遅れた法の隙間で、同胞が奪われる。物流が奪われる。権益が奪われる。我々は、それを防ぐ」


「その言葉で、何人通れなくした」


「我々は、祖国の法律に従っています」


「ここは、あんたの祖国じゃない」


梁の目が少しだけ細くなった。


「白羽と我々を同じにしないでいただきたい」


市場の空気が止まった。


白羽。


その名前だけで、何人かが顔を伏せた。

米袋を持つ老人の指が震えた。

薬の列の母親が、子どもの肩を引き寄せた。


梁は続けた。


「我々は箱を運ぶ。人を通す。権益を守る。祖国の法に従う」


志乃は、一歩前に出た。


「なら、白羽に逆らえばいい」


梁は答えなかった。


その沈黙で、ジンには十分だった。


梁は白羽を嫌っている。

だが、逆らえない。


白羽の紙がある限り、華南物流は白羽の紙の上でしか動けない。

白羽の記録に逆らえば、彼らは保護輸送ではなくなる。

在外同胞保護でも、物流協力でもなくなる。


ただの外部武装勢力になる。


だから梁は、保護管理と言うしかない。


志乃も退けなかった。


「綺麗なことを言うな」


志乃の声は低かった。


「ここを守ってきたのは、国じゃない。警察じゃない。白羽の紙でもない。うちの人間だ」


梁は見ていた。


「場所代を取った。脅しもした。間違ったこともした。けどな、あの時、誰が米の列を守った。誰が薬の車を通した。誰が夜の市場で火を消した」


市場の奥で、誰かが息をのんだ。


「白羽は後から来て、危険区域と書くだけだ。あんたらは保護管理と言うだけだ。だけど、ここで殴られて、撃たれて、死んだ名前を知ってるのは、うちだ」


梁は、表情を変えなかった。


「感情では、市場は維持できません」


「紙でも守れない」


「紙がなければ、外から見れば、あなた方は地域武装勢力です」


志乃の手が、腰の近くで止まった。


ジンはその動きを見た。

梁の後ろの警備員も見た。

的場側の若い男も、華南側の警備員も、同じ動きをした。


銃はまだ出ていない。


だが、もう場は撃っていた。


ジンはミーシャに言った。


「出口」


ミーシャは端末を開く。


「南側、封鎖。東側、射線あり。北側、燃料缶。西側、診療所裏に細い通路」


「距離」


「市場中央から三十二メートル。人混みあり。車椅子一台確認。薬箱を持つ男。子ども三。母親二。老人四」


ジンは市場を見た。


銃声は、まだ鳴っていない。


鳴っていないのに、人はもう死に始めていた。


逃げ道を知らない顔。

荷物を捨てられない手。

列から離れられない足。

誰の正義にも入れてもらえない者たち。


その時だった。


スピーカーが弾けた。


最初は、銃声に聞こえなかった。


乾いた破裂音。

続いて、古い拡声器が金属音を立てて落ちた。


一瞬遅れて、米袋が破れた。


白い粒が、地面に散った。


誰が撃ったのか、分からなかった。


的場側ではなかった。

華南側でもなかった。

少なくとも、最初に見えた銃口はなかった。


だが、最初の音が誰のものかなど、次の瞬間には意味を失った。


「伏せろ!」


志乃が叫んだ。


「保護線を維持しろ!」


梁が叫んだ。


二人とも、自分が守っていると思っていた。


だから中央に立っていた。


その間で、米を買いに来た老人が倒れた。


ジンは撃たなかった。


走った。


老人の肩を掴み、米粒の上を引きずった。

老人は軽かった。

軽すぎた。

背中の骨が、上着越しに手に当たった。


二発目が、地面を叩いた。


石が跳ねる。

ジンの頬に当たる。


三発目。


肩をかすめた。


熱が走った。

上着の布が裂れ、血が遅れて出た。


「被弾」


ミーシャが言った。


「かすりだ」


ジンは老人を屋台の影へ押し込んだ。


老人は米袋を見ていた。


破れた袋。

散った米。

拾おうとする手。


ジンはその手を押さえた。


「後だ」


老人は何か言った。

聞き取れなかった。


耳の奥で、最初の破裂音が残っていた。


市場が壊れ始めていた。


露店主が台を倒す。

女が通行証を落とす。

子どもが泣く。

誰かが「撃つな」と叫ぶ。

誰かが「こっちへ来るな」と叫ぶ。

誰かが、もう誰に向けてなのか分からない怒鳴り声を上げる。


的場側が撃った。

華南側も撃った。


正義と正義が、形を失って火になった。


ジンは、咳をする子どもを抱えた母親を見た。


母親は動けない。

子どもの背中を押さえ、露店の柱に身を寄せている。

子どもは咳をしていた。

吸う音が細い。


ジンは走った。


「こっちを見るな」


母親の肩を掴む。


「診療所の影まで走れ」


「でも、あの」


「三秒」


ジンは短く言った。


「三秒だけ走れ」


母親は頷けなかった。

だからジンは頷きを待たなかった。


ズボンの腰に隠していたマカロフを抜いた。


銃口が動く。


ジンは初めて撃った。


敵を倒すためではない。


柱の横、空いた金属板。

音を出す。

相手の顔を下げさせる。

射線を落とす。


一秒。

二秒。

三秒。


母親が走った。

子どもを抱えて、診療所の影へ飛び込む。


ジンは撃ち返された。


耳の横で、空気が裂けた。


殺すための射撃ではない。

それでも当たれば死ぬ。


ジンはミーシャを見た。


「記録じゃない」


ミーシャの指が端末の上で止まった。


「誘導しろ」


一拍あった。


「了解」


ミーシャは端末をしまった。


その瞬間、黒い雨合羽の若者は、記録係ではなくなった。


搬出側に入った。


「西側通路! 診療所裏!」


ミーシャの声は高くなかった。

だが、通った。


「歩ける者から。荷物は最小。担架は後。子どもを先に」


ジンは倒れた屋台を蹴ってずらした。

通路を一本作る。


老人。

母親。

子ども。

露店主。

薬を拾えなかった女。

足を引きずる男。


人の流れが、西へ曲がり始めた。


流れは、一度できれば強い。

しかし、最初の一人が動くまでが遅い。


誰も、自分が先に逃げていいと思えない。


ジンは、米袋を抱えた少年を見つけた。


十歳くらい。

両腕で、破れていない袋を抱えている。

足が動かない。


「捨てろ」


少年は首を振った。


「家の分」


銃声が近づく。


「捨てろ」


少年は、また首を振った。


ジンは一瞬、袋を奪おうとした。


だが、やめた。


米も命だ。


ジンは袋の片側を掴んだ。


「半分持つ。走れ」


少年の目が揺れた。


「走れ!」


二人で米袋を抱えたまま、地面を蹴った。


米の重さで、少年の足はもつれた。

ジンは引き上げる。

肩の傷が開く。

血が袖口へ流れる。


西側通路まで、あと十メートル。


管理棟の窓が光った。


「高所!」


ミーシャが叫んだ。


「管理棟二階!」


次の弾が、診療所の壁を砕いた。


退避路が止まった。


人の流れが詰まる。

先頭が伏せる。

後ろが押す。

子どもが転ぶ。

女が悲鳴を上げる。


ジンは顔を上げた。


古い貨物駅の管理棟。

二階。

割れた窓。

角度が悪い。


遠い。

人が多い。

撃ち返せば、外した弾が市場に落ちる。


ジンは撃てなかった。


撃てない時間が、一番人を殺す。


アレクセイの無線が鳴った。


雑音。

風の音。

低い笑い声。


「ジン」


知らない声ではなかった。


アレクセイが無線を見た。


「まだ死んでないな」


ジンは答えなかった。


声は続いた。


「お前はいつも場所が悪い」


ラソア・アンドリアマンガ。


マダガスカル出身。

外人部隊時代の旧友。

元港湾仲介人。

元兵站屋。

今は、武器商人。


ジンは管理棟の窓を見た。


「ラソア」


「十秒やる」


それだけだった。


次の瞬間、管理棟二階の窓が砕けた。


狙撃手が頭を下げる。

窓枠が跳ねる。

壁の古いコンクリートが白く削れる。


制圧射撃。


倒すためではない。

黙らせるための火力。


十秒。


ジンは叫んだ。


「走れ!」


人が動いた。


母親が走る。

老人が這う。

少年が米袋を抱える。

薬を拾えなかった女が、空の手を握りしめて走る。

足を引きずる男を、露店主が肩で支える。


ミーシャは転んだ子どもを起こした。


「前へ」


子どもは泣いていた。


「前へ」


ミーシャは同じ言葉を繰り返した。


「前へ」


九秒。


八秒。


管理棟の窓から、また銃口が上がる気配があった。


ジンは少年の米袋を押した。


「行け」


少年は通路へ消えた。


十秒が終わった。


管理棟から再び撃たれた。


今度は、通路の入口が削れた。

破片がジンの首筋を切った。


ミーシャが振り返る。


「残存確認。市場中央、車椅子一。薬箱あり」


ジンは見た。


市場の中央に、車椅子の男が残っていた。


片足がない。

膝に薬箱を抱えている。

車輪の片方が、散った米の上で空回りしていた。


周りには誰もいない。


誰も、戻れない。


ジンは走った。


「ジン」


アレクセイの声が飛んだ。


「北側が動いている。長くない」


「分かってる」


弾が地面を叩く。


ジンは屋台の影から影へ移る。

肩の痛みは、もう別の場所にあった。

血が流れていることだけを、布の重さで知る。


車椅子の男は、薬箱を抱えたまま動こうとしていた。


「置け!」


ジンは叫んだ。


男は顔を上げた。


「これが必要なんだ!」


ジンは止まった。


その通りだった。


米も命だ。

薬も命だ。

名前も命だ。

通行証も命だ。


命は、人間の体だけに入っているわけではない。


ジンは薬箱を奪わなかった。


車椅子に駆け寄り、男の膝の上の薬箱をベルトで固定する。


「手を離すな」


男は頷いた。


「押すぞ」


ジンは車椅子を押した。


車輪が米を踏む。

滑る。

進まない。


弾が近い。


一発が車椅子の右側を撃った。

金属が歪む。

車輪が斜めになった。


「前輪破損」


ミーシャが来た。


黒い雨合羽が、埃で灰色になっていた。


「掴め」


ジンが言った。


ミーシャは前輪を両手で持った。


二人で引く。


車椅子はもう車椅子ではなかった。

ただの重い命だった。


男は薬箱を抱えている。

歯を食いしばっている。

声を出さない。


弾が来た。


今度は、ジンの脇腹を削った。


熱。


遅れて、鈍い痛み。


体が一瞬だけ落ちる。


ミーシャが見た。


「被弾」


「かすりだ」


「出血量、増加」


「かすりだ」


ジンは車椅子を押した。


ミーシャは前輪を引いた。


男は薬箱を抱えた。


三人分の呼吸が、同じ方向へ倒れていく。


西側通路まで、あと五メートル。


管理棟がまた光った。


ジンは体を入れた。


弾は外れた。

外れたが、耳の奥を叩いた。


音が遠くなる。


市場の声が、水の中に沈んだように聞こえた。


ミーシャの口が動いている。


聞こえない。


ジンは車椅子を押した。


通路へ入る。


診療所の影。

狭い壁。

湿ったコンクリート。

古い消毒液の匂い。


車椅子の男が通路を抜けた瞬間、ジンは膝をついた。


一秒だけ。


一秒だけ、地面が近かった。


ミーシャが肩を掴む。


「立てますか」


ジンは息を吐いた。


「残り」


「市場奥に二。露店裏に一。子ども一の可能性」


ジンは立った。


ミーシャが見ていた。


「これは」


言葉が途中で止まった。


ジンは振り返った。


市場はまだ燃えていない。

だが、燃える前の匂いがしていた。


燃料缶が北側にある。

車列が来れば、銃口が増える。

白羽の紙は、その瞬間を待っている。


中部臨時物資市場における地域武装勢力間衝突。

児童・医療物資保護のため、白羽生活支援系統による緊急安全管理を要請。


もう文面は用意されているはずだった。


あとは、死体と炎が足りないだけだ。


無線が鳴った。


今度は英語だった。


「Civilian corridor must remain open. No escalation beyond market perimeter」


アレクセイが訳した。


「民間人通路を開けろ。市場外へ拡大させるな」


NATO国際沈静化監視班。


市場外の北側道路にいる。

だが、入れない。

入れば主権侵害と書かれる。

入らなければ民間人保護の失敗と書かれる。


どちらにしても、紙は誰かを殺す。


別の無線が重なった。


ロシア語。

短い応答。

低い笑い声。

ラソア。


アレクセイの顔から、表情が消えた。


「北側の車列が動く」


ジンは脇腹を押さえた。


「数」


「先頭三。後続不明。半分は華南」


アレクセイは無線を耳に押し当てた。


「半分は違う」


ラソアの声が入った。


「白羽の箱が混じってる」


ジンは市場の北側を見た。


見えない。


だが、音が来ていた。


エンジン音。

複数。

速度を落としていない。


的場側は市場を守りたい。

華南物流は祖国の通路を守りたい。

NATOは沈静化したい。

ロシアは紛争を利益に変えたい。

ラソアは武器の流れを読みたい。

白羽は全部を安全管理の紙に変えたい。


目的は違う。


だが、この瞬間だけ結論が一致していた。


市場を燃やすな。

民間人を出せ。

白羽に口実を渡すな。


ミーシャは、ジンの横に立った。


雨合羽の裾が破れていた。

手には、誰かの血がついていた。


「これは、処理ではありません」


ジンは前を見たまま言った。


「何だ」


ミーシャは、市場の奥を見た。


まだ出られていない者がいる。

まだ名前を呼べない子どもがいる。

まだ薬を持ったまま動けない誰かがいる。


「搬出です」


ジンは一度だけ頷いた。


正しい銃声などない。


あるのは、正しいと思って撃つ者と、その間で倒れる者だけだった。


ジンは撃ち返した。

敵を憎んだからではない。

道を閉じさせないために。


子どもが走る三秒を作るために。


その三秒のために、人は撃つことがある。


それを正義とは呼ばない。


ただ、必要な火力と呼ぶ。


無線の向こうで、ラソアが言った。


「次は大きな音になる」


少し間があった。


「人数が少ない時は、音を大きくするしかない」


北側の車列が、近づいていた。


中部市場の戦いは、まだ始まったばかりだった。


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