第四十二話 報酬扱い不可
##第四十二話 報酬扱い不可
港に降りた瞬間、子どもは少しだけ目を開けた。
声は出なかった。
ジンの腕の中で、薄い色のまつげが震えた。
白い肌。
薄い色の髪。
左耳の下の小さな傷跡。
赤い布片を握る手。
名前は、まだない。
ないのではない。
ここでは、まだ使わない。
港の照明が、子どもの顔を冷たく照らした。
ミーシャはすぐに照合票を出した。
顔写真。
身体特徴。
左耳下の瘢痕。
赤い布片。
推定年齢。
医療状態。
ECPA照合番号。
船内発見位置。
搬出記録。
港湾第三の職員が二人、走ってきた。
一人は相原の部下だった。
もう一人は、港側の記録担当だった。
白羽の人間はいない。
華南物流互助会の作業員たちは、船の入口で止められている。
南海福祉二号の出航灯は消えていた。
船は沈んでいない。
壊れてもいない。
ただ、紙の上で進めなくなっていた。
*
港の奥から、二台の車両が近づいてきた。
一台は医療車両。
もう一台は、灰色の装甲車に近い護送車だった。
車体には、大きな国名はなかった。
小さく、三つの印だけが並んでいた。
European Child Protection Accord.
International Child Relief Fund.
INTERPOL LIAISON.
欧州共同保護機構。
国際児童救済基金。
インターポール連絡官。
そして、その横にもう一つ。
International Protection Detachment.
国際保護分遣隊。
降りてきたのは、医療班が二名。
記録官が一名。
それから、銃を下げた保護分遣隊員が四名。
彼らは大声を出さなかった。
子どもの名を呼ばなかった。
ジンにも話しかけなかった。
まず周囲を見た。
船の入口。
華南物流互助会の作業員。
港湾第三の職員。
照明の死角。
車両までの距離。
それから、一人が短く言った。
「確認を」
ミーシャが照合票を差し出した。
記録官が受け取る。
写真。
身体特徴。
左耳下の瘢痕。
赤い布片。
推定年齢。
医療状態。
ECPA照合番号。
船内発見位置。
搬出者名。
記録官は紙を確認し、医療班に頷いた。
「照合票、一致確認」
医療班の一人が子どもの顔にライトを当てた。
「呼吸あり」
「脈あり」
「低体温傾向」
「脱水疑い」
「左耳下、瘢痕確認」
「赤い布片、本人保持」
記録官が書いた。
保護照合対象児童。
C-7。
写真照合、一致。
身体特徴、一致。
所持品、赤い布片。
本人保持。
ジンは何も言わなかった。
子どもを抱えたまま、周囲を見ていた。
黒い外套の男。
船の入口に残る作業員。
港湾第三の位置。
医療車両までの距離。
照明の切れ目。
話す必要はなかった。
必要なことは、紙に書かれている。
必要なことは、ミーシャが渡した。
ジンの仕事は、子どもを渡すことではない。
渡したあと、奪い返されないようにすることだった。
*
保護分遣隊の一人が、ジンの横に立った。
階級章は見えない。
だが、動きは軍のものだった。
その男はジンを見ずに、短く言った。
「引き継ぎを」
床に、港湾第三の白線が引かれていた。
その内側は、港湾第三の証拠保全区域。
その外側に、国際保護分遣隊の車両が止まっている。
白線を越えた瞬間、子どもの保護責任が切り替わる。
日本側ではない。
白羽でもない。
華南物流でもない。
欧州共同保護機構と国際保護分遣隊の管理下に入る。
ミーシャが書面を一枚めくった。
引渡記録。
港湾第三、区域安全確保。
児童保護責任、欧州共同保護機構。
医療対応、国際児童救済基金。
身元照合記録、インターポール連絡官保持。
華南物流互助会、接触禁止。
白羽生活支援系統、関与不可。
日本側機関、証拠保全および区域安全のみ。
記録官が署名した。
港湾第三の職員が署名した。
ミーシャが署名した。
最後に、記録官はジンの方を見た。
ジンは署名しなかった。
ミーシャが代わりに言った。
「Jin FUKUOKA」
記録官は頷き、そう書いた。
Jin FUKUOKA。
発言なし。
児童引渡時、周辺警戒継続。
ジンは、その文字を見なかった。
白線の向こうにいる保護分遣隊員が、担架を構えた。
医療班が子どもの身体を受ける準備をする。
ジンは、子どもの手を見た。
赤い布片が、まだ握られている。
落ちていない。
離されていない。
ジンは、ようやく子どもを担架へ移した。
動きは静かだった。
乱暴ではない。
だが、迷いもなかった。
医療班がすぐに保温シートをかける。
保護分遣隊員が左右につく。
一人は前方。
一人は後方。
一人は船側。
一人は港側。
担架は、子どもを乗せた瞬間から、守られるものになった。
荷ではなかった。
物品ではなかった。
移送対象でもなかった。
保護対象ですらない。
ただ、子どもだった。
記録官が短く言った。
「引き渡し完了」
ミーシャが答えた。
「確認」
ジンは何も言わなかった。
黒い外套の男が、少し離れた場所から見ていた。
その視線が、子どもからジンへ移る。
ジンは、その視線だけを受けた。
返事はしない。
名前も言わない。
問いにもならない。
ただ、そこに立っていた。
軍人の時の顔だった。
任務が終わるまで、余計な言葉を入れない顔。
担架が医療車両へ入る。
扉が閉まる。
保護分遣隊員が車両の両側につく。
記録官が最後に書いた。
C-7児童。
国際保護下へ移行。
白羽生活支援系統外。
華南物流互助会、接触なし。
日本側港湾第三、証拠保全継続。
そこで初めて、ジンは息を吐いた。
誰にも聞こえないくらい短く。
ミーシャはそれを見た。
記録しなかった。
処理ではないため。
*
南海福祉二号の前では、黒い外套の男が、港湾第三と話していた。
声は荒くない。
丁寧だった。
だが、丁寧な声ほど、隠すものが多い。
「本船は生活安定支援物資を輸送しているだけです」
男は言った。
「出航保留は、地域支援に影響します」
港湾第三の職員は書類を見た。
「封印不一致」
「貼付の乱れです」
「積荷虚偽」
「再配分です」
「児童支援物資の横流し」
「誤登録です」
「未確認児童の船内収容」
「保護です」
言葉が、次々に柔らかくなっていく。
封印は、乱れ。
虚偽は、再配分。
横流しは、誤登録。
収容は、保護。
ジンは、その声を背中で聞いていた。
白羽と同じだった。
違う名札。
違う組織。
違う港。
でも、言葉の曲げ方は同じだった。
ミーシャが小さく言った。
「華南物流互助会、中部にもあります」
「ここだけじゃないのか」
「はい」
「白羽の外の手」
「はい」
ジンは黒い外套の男を見た。
男は一瞬だけ、こちらを見た。
目が合う。
男は微笑まなかった。
もう笑っていない。
ジンの名前を覚えた顔だった。
福岡仁。
真柴直樹ではない。
まだ、そこにはつながっていない。
だが、福岡仁という名前が、華南物流互助会の側に残った。
それは、必要な危険だった。
*
アレクセイは、保冷倉庫の奥で待っていた。
赤い手帳を開いている。
机の上には、三枚の紙が置かれていた。
南海福祉二号、出航保留。
C-7児童、国際保護下へ移行。
第二保冷区画、港湾第三確認対象。
ミーシャはその前に立ち、淡々と報告した。
「児童、搬出」
「生存」
「はい」
「引き渡し先」
「欧州共同保護機構。国際児童救済基金医療班。インターポール連絡官記録保持。国際保護分遣隊警護」
「日本側」
「証拠保全および区域安全のみ」
「白羽生活支援系統」
「外しました」
「華南物流」
「接触なし。異議申し立て中」
「船は」
「保留」
アレクセイは頷いた。
「よろしい」
ジンは壁にもたれていた。
上着の袖に、子どもの髪が一本ついていた。
薄い色の髪。
ジンは、それを指で取った。
捨てなかった。
机の上に置いた。
ミーシャがそれを見た。
「記録しますか」
「するな」
「なぜ」
「子どものものだ」
ミーシャは少しだけ止まった。
「了解」
アレクセイがジンを見た。
「仕事は終わった」
「まだだ」
「食材か」
「旧南第三へ」
「出す」
ジンはアレクセイを見た。
「全部だ」
「全部は無理だ」
「旧南第三の分だ」
「それは出す」
「靴も」
「出す」
「栄養補助も」
「出す」
「川島宅の分も」
アレクセイは、そこで少しだけ笑った。
「強欲だな」
「横流しされていたものだ」
「お前のものではない」
「白羽のものでもない」
「その通り」
アレクセイは赤い手帳に書いた。
旧南第三。
緊急生存維持物資。
医療、栄養、靴、食材。
川島宅、生活配給補助。
南海福祉二号停船成果。
C-7児童保護確認。
Jin FUKUOKA、成果達成。
ジンは言った。
「成果報酬と書くな」
「書く」
「アレクセイ」
「こちらの紙には書く」
アレクセイは顔を上げた。
「そうしなければ箱が動かない」
ジンは黙った。
「だが、旧南第三の紙では書き換えればいい」
「健二にやらせるのか」
「お前の弟だ」
アレクセイは静かに言った。
「できる」
ジンは目を伏せた。
できる。
それが嫌だった。
健二はできてしまう。
兄の名前が別の紙で使われていても。
薬が手付金だったと分かっても。
食材が成果報酬だったと分かっても。
健二は、子どもを先にする。
そして、そのあとで紙を書き換える。
怒りながら。
泣かずに。
それが分かるから、嫌だった。
ミーシャが言った。
「搬入は私が行います」
「またか」
「はい」
「健二に聞かれたら」
「答えます」
「全部か」
「必要分のみ」
ジンはミーシャを見た。
「お前、嘘を覚えたか」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「説明順序を覚えました」
アレクセイが小さく笑った。
「学校へ行くと、悪くなる」
ミーシャは答えなかった。
*
旧南第三に、車が来た。
今度は一台ではなかった。
古い保冷車。
小型のトラック。
港湾第三の軽トラック。
白羽の印はない。
青葉生活輸送の車でもない。
国際児童救済基金の柔らかいマークは、端に小さく貼られているだけだった。
大きく書かれていたのは、別の文字だった。
緊急生存維持物資。
白羽生活支援系統外。
返却不可。
再配分不可。
受領後、旧南第三管理。
健二は門の前に立った。
倉持は記録帳を持っている。
三枝は美月のいる部屋から少し遅れて出てきた。
美月の熱は、少しだけ下がっていた。
まだ安心できない。
だが、昨日より呼吸が落ち着いている。
それだけでも、子どもたちの顔が少し変わっていた。
車の後ろから、ミーシャが降りた。
黒い雨合羽。
無表情。
手には、厚い伝票。
健二は、その顔を見た瞬間に分かった。
昨日の薬と、今日の物資はつながっている。
分かりたくなくても、分かった。
「どちらの方ですか?」
「ミーシャと言います」
「これは何ですか」
「食料物資です」
「昨日の薬と関係がありますか」
「あります」
健二は、少しだけ息を止めた。
「誰の手配ですか」
「ジンです」
倉持のペンが止まった。
三枝は目を伏せなかった。
健二は聞いた。
「昨日の薬も」
「手付金です」
「手付金」
「アレクセイが先に支払いました」
健二の顔が固まった。
「子どもの薬を、仕事の手付金にしたんですか」
「違います」
ミーシャは、前と同じように答えた。
同じ言い方だった。
だが、少しだけ間があった。
「薬は、先に必要だったため出されました。
その後、ジンが任務を完了しました。
その結果、追加物資の搬入条件が成立しました」
「任務」
「南海福祉二号の出航停止。
児童一名の国際保護下移行。
児童支援物資の横流し確認」
健二は、門の向こうのトラックを見た。
魚の缶詰。
乾燥豆。
粉乳。
葉物野菜の保存品。
栄養補助食品。
子ども用靴。
滅菌資材。
消毒液。
抗菌薬。
米。
油。
塩。
味噌。
そして、川島宅宛の小さな箱。
必要なものがある。
必要だったものがある。
子どもたちが、言わなくなったものがある。
健二は低く言った。
「兄ちゃんを、食材に換えたんですか」
ミーシャは黙った。
すぐに否定しなかった。
それが、前よりも誠実だった。
「違います」
しばらくして、ミーシャは言った。
「ジンは、止まっていたものを戻しました」
「戻した」
「はい」
「でも、ジンの成果なんですね」
「外部記録上は」
「旧南第三の記録上は」
「あなたが決めます」
健二は、伝票を受け取った。
そこには、見たくない文字があった。
発注区分、成果報酬。
対象実働者、Jin FUKUOKA。
成果内容、南海福祉二号停船。
児童保護確認。
支援物資再配分。
最終配分先、旧南第三。
健二は、紙を握らなかった。
破らなかった。
紙を壊しても、箱は消えない。
箱の中には、子どもたちが必要としているものがある。
三枝が静かに言った。
「健二さん」
「分かっています」
健二は頷いた。
「受け取ります」
ミーシャは伝票を差し出した。
「署名を」
「その前に、修正します」
「はい」
ミーシャは、最初からそのつもりだったようにペンを出した。
健二は言った。
「発注区分、成果報酬。この文字を消してください」
ミーシャは一本線を引いた。
消し潰さない。
読めるように線を引く。
そして横に書いた。
食料生活物資。
旧南第三児童保護用。
報酬扱い不可。
旧南第三への請求なし。
白羽生活支援系統外、維持。
再配分不可。
健二はそれを見た。
「もう一行」
「何を」
「止まっていたものの返還」
ミーシャは書いた。
止まっていたものの返還。
倉持も同じ文を記録帳に書いた。
健二は署名した。
真柴健二。
その名前で受け取った。
兄の成果としてではない。
子どもたちの食卓を戻すために。
*
箱が運び込まれると、旧南第三の空気が変わった。
大きな変化ではない。
歓声もない。
誰も走って喜んだりしない。
子どもたちは、もう急に喜ぶことを警戒している。
喜んだものが、次の日にはなくなることを知っているからだ。
蓮は、魚缶の箱をじっと見ていた。
晴斗は、葉物野菜の保存品を見て、小さく言った。
「……みどり」
三枝が聞き返した。
「緑?」
晴斗は頷いた。
「……ある」
三枝は少しだけ笑った。
「あるね」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
倉持は靴の箱を開けた。
サイズごとに並んだ子ども用の靴。
厚い底。
濡れにくい布。
紐も、ちゃんと付いている。
健二は、その靴を見て、美月の足を思い出した。
ガーゼが減るから、と言った声。
減るから。
その言葉を、二度と子どもに言わせたくなかった。
「足のサイズ確認、今日中に全員分やります」
健二が言った。
倉持が頷いた。
「記録します」
「足りない分は」
「今日のうちに再照会します」
「白羽に?」
「いいえ」
倉持は、ミーシャを見た。
「この経路に」
ミーシャは淡々と答えた。
「可能な範囲で」
「十分です」
健二は言った。
「可能な範囲で、十分です」
*
最後に、小さな木箱が一つ残った。
医療物資でもない。
生存維持物資でもない。
食材配分の箱でもない。
木箱には、別の紙が貼られていた。
個人宛。
受領者、真柴健二。
差出人、アレクセイ・イリイチ・サボリン。
健二は、その紙を見て眉を寄せた。
「これは」
ミーシャが答えた。
「贈呈品です」
「誰から」
「アレクセイ」
「何のために」
「同封文があります」
「読めるんですか」
「読めます」
ミーシャは、木箱の上に挟まれていた紙を開いた。
そして、いつもの無表情な声で読み始めた。
「真柴健二へ」
健二は黙っていた。
「まず、あしながおじさんからの解放を祝う」
倉持のペンが止まった。
三枝が、ほんの少し眉を動かした。
健二は顔を上げた。
「……何ですか、それ」
ミーシャは表情を変えずに続けた。
「この国には、子どものためと言いながら、子どもの靴のサイズと名前を先に数える長い足の男たちが多い」
健二は何も言わなかった。
「足が長い者は、遠くからでも踏める」
蓮が、廊下の奥で立ち止まっていた。
晴斗も、その横で見ている。
ミーシャは淡々と読んだ。
「白羽は、支援者ではない。
あれは、足の長い徴収係だ。
子どもに靴を履かせる前に、その子が誰の管理下にあるかを数える」
三枝が低く言った。
「悪趣味ですね」
ミーシャは紙から目を離さずに言った。
「同意します」
そして、続けた。
「次に、JIN復活を祝う」
健二の顔が固まった。
「JIN」
「はい」
ミーシャは読み続けた。
「真柴直樹は、弟のところに置いてきた。
福岡仁は、外で働き始めた。
これは、めでたいことではない。
だが、使える名が一つ戻ったことは、祝ってよい」
健二は、木箱を見た。
紙の隙間から、少しだけ甘い匂いがした。
「やつは、祝いを受け取らない。
あの男は、菓子を受け取るくらいなら、箱ごと別の子どもへ回す。
だから弟に送る」
健二は、苦い顔をした。
「よく分かってますね」
ミーシャはそのまま読んだ。
「弟は怒るだろう。
怒るなら、正しい。
兄が名前を変えて働き、その報酬で子どもが食べるなど、まともな家庭の祝いではない」
倉持は、そこで小さく息を止めた。
「だが、まともな家庭なら、そもそも子どもの薬を手付金にしない。
まともな国なら、子どもの食事を交渉材料にしない。
まともな支援者なら、子どもの名前を取らない」
ミーシャの声は、最後まで平らだった。
だから、言葉だけが冷たく残った。
「よって、これは勝利の祝いではない。
あしながおじさんの足を一本折った祝いだ」
健二は、思わず目を閉じた。
笑っていいのか、怒っていいのか分からなかった。
ミーシャは続けた。
「箱の中身は、ドライフルーツ入りのパウンドケーキと苺ジャム。
どちらも医療物資ではない。
生存維持物資でもない。
ただし、子どもは薬だけで戻るわけではない」
健二の手が止まった。
「甘いものは、記録に残らない回復をする。
白羽の箱には、こういうものが入っていない。
あいつらは栄養を配るが、祝いを配らない。
祝いを配ると、人が自分の名前を思い出すからだ」
健二は、木箱の紐に手をかけた。
まだ開けなかった。
ミーシャは最後の文を読んだ。
「真柴健二。
弟は、兄の名前を全部持たなくていい。
ただ、帰る場所だけ持っていろ。
JIN復活に。
そして、足の長すぎる支援者から一歩離れた祝いに。
アレクセイ」
読み終えると、ミーシャは紙を畳んだ。
しばらく、誰も話さなかった。
木箱の中には、布に包まれたパウンドケーキが入っていた。
切り口から、ドライフルーツがぎっしり見えた。
横には、苺ジャムの瓶。
赤い色だった。
旧南第三の食卓には、もう何日もなかった色だった。
「これは、兄ちゃんの復活祝いとしては受け取れません」
健二は言った。
ミーシャは頷いた。
「記録します」
「でも」
健二は、苺ジャムの瓶を手に取った。
光にかざすと、赤が揺れた。
「子どもたちが、今日を越えた印としてなら受け取ります」
倉持がペンを持った。
「どう記録しますか」
健二は少し考えた。
「個人宛贈答品。
医療物資・生存維持物資とは分離。
報酬扱い不可。
旧南第三への請求なし」
倉持が書いた。
健二は、もう一行足した。
「子どもたちと分ける。
ただし、祝いではなく、今日を越えた印として」
ミーシャは、その文を見た。
「祝いではないのですか」
「まだ祝えません」
「なぜ」
「兄ちゃんが帰ってきていないからです」
ミーシャは黙った。
健二は、木箱の蓋をそっと閉めた。
「アレクセイさんに伝えてください」
「何を」
「受け取りました」
「他には」
健二は少しだけ迷った。
それから言った。
「足は折らなくていいです」
ミーシャが、初めてほんの少しだけ首を傾けた。
健二は続けた。
「帰る道から、どいてくれればいい」
ミーシャは、その言葉を手順書には書かなかった。
別の紙に書いた。
帰る道から、どいてくれればいい。
それは処理ではなかった。
返事だった。
*
その夜、旧南第三の食卓には、少しだけ色が戻った。
魚缶を使った汁。
乾燥豆を柔らかく煮たもの。
葉物野菜の保存品を少入れた米。
子どもたちは、最初、静かに見ていた。
誰もすぐには箸を取らない。
三枝が言った。
「食べていいよ」
蓮が、健二を見た。
「明日の分は」
健二は答えた。
「あります」
「本当に?」
「あります」
蓮は、まだ疑っていた。
だから健二は、倉持を見た。
倉持が記録帳を開いた。
「明日の分、記録上あります」
蓮は、それでようやく箸を持った。
晴斗は、緑の入った米を見て、小さく言った。
「……みどり」
三枝が微笑んだ。
「あるね」
美月は、まだ普通の食事は取れない。
だが、栄養補助食品を少しだけ口にした。
健二は、その横にいた。
「減るからって、言わなくていいよ」
美月は小さく頷いた。
その夜、パウンドケーキと苺ジャムは出さなかった。
まだ早い。
健二はそう判断した。
ただ、子どもたちには言った。
「甘いものがあります」
蓮が目を上げた。
「本当?」
「本当」
「いつ?」
「美月がもう少し食べられるようになったら」
晴斗が、小さく言った。
「……みんなで」
健二は頷いた。
「みんなで」
それは、約束だった。
白羽の紙にない約束。
成果報酬でもない。
支援実績でもない。
ただ、みんなで食べるという約束。
*
港の保冷倉庫で、ミーシャは報告を終えた。
旧南第三、物資受領。
成果報酬表記、修正。
報酬扱い不可。
止まっていたものの返還。
個人宛贈答品、受領。
返答あり。
アレクセイは赤い手帳を開いた。
「返答は」
ミーシャは紙を出した。
「帰る道から、どいてくれればいい」
アレクセイは、それを見て少しだけ笑った。
「健二らしい」
ジンは壁際に立っていた。
その言葉を聞いて、顔を上げなかった。
アレクセイは、わざと聞こえるように言った。
「弟は、兄の復活を祝わなかった」
ジンは答えない。
「だが、箱は受け取った」
ジンはまだ答えない。
「帰る場所は、まだあるそうだ」
ジンの指が、ほんの少しだけ動いた。
ミーシャはそれを見た。
記録しなかった。
処理ではないため。
アレクセイは赤い手帳に一行を書いた。
旧南第三。
帰る場所、維持。
そして、別のページを開いた。
南海福祉二号。
華南物流互助会。
C-7児童、国際保護下へ移行。
中部経路、警戒上昇。
ジンは、その文字を見た。
「中部か」
「そうだ」
アレクセイは地図を広げた。
国境付近。
中部。
南。
九州。
「ここでは、モスクワの箱が届いた」
アレクセイは国境付近を指した。
「だが、中部では別の目が必要になる」
「華南物流か」
「それだけではない」
「何がいる」
「港の箱を読む者」
アレクセイは指をずらした。
「そして、紙を残す者」
ジンは地図を見た。
道は続いている。
帰る道ではなかった。
帰すための道だった。
旧南第三では、子どもたちが少しだけ色のある食事を食べている。
美月の熱は、少しだけ下がっている。
健二は、パウンドケーキをまだ切らない。
帰る場所は、まだある。
ジンは、その言葉を胸の奥に置いた。
真柴直樹としてではない。
福岡仁として。
次の道へ行くために。
アレクセイが言った。
「休め」
「時間は」
「少しだけある」
「少しだけか」
「それで十分だろう」
ジンは、地図の中部を見た。
白羽の紙が届く場所。
華南物流互助会の箱が通る場所。
モスクワの手が少し遠くなる場所。
そこで必要になる友人の名を、アレクセイはまだ言わなかった。
言わなくても、道はもう始まっていた。
南海福祉二号は止まった。
子どもは一人、船から出た。
旧南第三の食卓には、少しだけ緑が戻った。
だが、紙と燃料と名前を奪い合う戦争は、まだ終わっていなかった。




