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第四十一話 南海福祉二号

##第四十一話 南海福祉二号


 船の中は、港よりも狭かった。


 南海福祉二号。


 外から見れば、ただの支援船だった。


 白い船体。

 青い文字。

 生活安定支援。

 地域児童保護。

 緊急福祉輸送。


 だが、一歩中へ入ると、その言葉は壁の外に置いていかれた。


 中にあるのは、鉄の匂い。

 油の匂い。

 古い配線の焦げた匂い。

 冷蔵機の低い唸り。

 そして、誰かが急いで隠したものの匂いだった。


 ミーシャは先に進んだ。


 足音がほとんどしない。


 黒い雨合羽の裾が、薄暗い通路に溶けていた。


 ジンは、その後ろを歩いた。


 ここでは、真柴直樹ではない。


 旧南第三も存在しない。


 兄ちゃんという呼び名も、ここには持ち込めない。


 あるのは、Jin FUKUOKA。


 欧州共同保護機構、外部実働者。


 港湾照合補助。


 そういう紙の上の人間だった。


     *


 船内通路には、番号札が貼られていた。


 第一保冷区画。

 第二保冷区画。

 補助倉庫。

 生活支援資材。

 移送待機区画。


 最後の札だけ、文字が新しかった。


 貼り直した跡がある。


 ジンはそれを見た。


「待機区画」


 ミーシャは止まらずに答えた。


「人を荷物にする時の言葉です」


「白羽も使う」


「華南物流互助会も使います」


「同じか」


「同じではありません」


 ミーシャは角を曲がった。


「でも、似ています」


 通路の先で、人の声がした。


 二人。


 日本語ではない。


 中国語に近い響きと、短い日本語が混じっている。


「出航、三十分後」


「第三甲板、確認済み」


「C貨物は」


「下」


「上げるな」


「名前は」


「ない」


 ジンは足を止めた。


 ミーシャも止まった。


 声は近い。


 角の向こうに、作業員が二人いた。


 白羽の制服ではない。


 青い作業服。

 黒い手袋。

 胸には、華南物流互助会の小さなタグ。


 タグは小さい。


 白羽の名前より、さらに小さい。


 だが、船の中ではその小さなタグの方が強い。


 ミーシャが、指を二本立てた。


 二名。


 ジンは頷いた。


 ミーシャは、懐から小さな照合端末を出した。


 画面を点けない。


 光を出さない。


 ただ、黒い画面のまま手元に置く。


 ジンは通路の影に身体を入れた。


 作業員の一人が、角から出てきた。


 手には無線機。


 もう一人は伝票を持っていた。


 ジンは、最初の一人がこちらを向く前に動いた。


 声は出させなかった。


 壁に当てる音も立てなかった。


 男の身体が一瞬強張り、それから力が抜けた。


 ミーシャは、落ちかけた無線機を受け止めた。


 床に落とさない。


 音を出さない。


 もう一人が振り返る。


 ミーシャが一歩入った。


 黒い雨合羽が、影のように動いた。


 男は何かを言いかけた。


 言葉になる前に、膝から落ちた。


 ジンは、最初の男を通路の暗い側へ引いた。


 ミーシャは二人目の襟元からカードを抜き、手早く確認した。


 名札ではない。


 区画権限。

 保冷区画。

 移送待機。

 出航前確認。


 名前ではなく、権限だけが残るカードだった。


「生きているか」


 ジンが聞いた。


「はい」


「見つかるか」


「見つかれば、騒ぎになります」


「なら見つけさせるな」


「了解」


 二人の身体は、通路脇の使われていない資材スペースへ移された。


 古いロープ。

 破れた防水布。

 空の緩衝材。


 そこは、明かりが届かない。


 人が通れば、そこに空間があることすら気づかない。


 ミーシャは防水布を少しだけ戻した。


 やりすぎない。


 隠しすぎると、不自然になる。


 ジンは、その手つきを見て言った。


「慣れてるな」


「必要だったため」


「どこで」


「前の場所です」


 ミーシャはそれ以上言わなかった。


 ジンも聞かなかった。


 この船では、過去を聞く時間はない。


     *


 ミーシャは、抜いたカードを端末にかざした。


 短い振動。


 扉が一つ開く。


 第一保冷区画。


 中には、箱が並んでいた。


 冷気が流れ出す。


 ジンは一歩入って、箱の表示を見た。


 生活安定圏第三施設。

 児童栄養補助。

 北側保護食。

 地域優先配分。


 綺麗な文字だった。


 だが、箱の角には、別の紙の剥がし跡がある。


 古い糊。


 ちぎれた伝票の端。


 ミーシャが一つを確認した。


「貼り替え」


「白羽か」


「可能性あり」


 ミーシャは別の箱を開けない。


 写真だけを取る。


 封印番号。

 貼り替え跡。

 保冷記録。

 伝票番号。


 開ければ、開けた者の名前が残る。


 残すべき場所と、残してはいけない場所がある。


 ミーシャはそれを分けていた。


 ジンは奥の棚を見た。


 子ども用の靴があった。


 新品。


 サイズごとに並んでいる。


 旧南第三の子どもたちが履いている靴より、ずっと厚い底だった。


 ジンは一足を手に取った。


 タグには、生活安定圏第三施設とある。


 だが、箱の内側には薄い文字が残っていた。


 旧南第三。


 ジンは靴を戻した。


 音を立てずに。


「食材だけじゃないな」


「はい」


「靴も」


「はい」


「薬も」


「はい」


 ミーシャは、写真を撮り続ける。


「記録します」


 ジンは低く言った。


「あとで取り返す」


「任務は児童優先です」


「分かってる」


 分かっている。


 だが、旧南第三の食卓が頭から離れない。


 薄い味噌汁。

 色のない皿。

 美月の「減るから」という声。

 健二が何も言えなかった顔。


 この箱の中に、あの日の食卓の色がある。


 だが今は、それを抱えて帰る時間ではない。


 船の腹の中には、子どもがいる。


     *


 通路に戻ると、船内放送が鳴った。


「出航準備、三十分前。第二保冷区画、最終確認」


 声は柔らかかった。


 柔らかい声ほど、命令は固い。


 ミーシャは通路図を見た。


「移送待機区画は下です」


「保冷区画の下か」


「はい」


「人を保冷区画の下に置くのか」


「記録上は人ではありません」


 ジンは、ミーシャを見た。


 ミーシャは表情を変えなかった。


「特殊保護貨物。分類C」


「貨物か」


「はい」


 ジンは何も言わなかった。


 何かを言えば、音になる。


 音になれば、船が気づく。


 通路の先に監視員がいた。


 一人。


 腰に警棒。


 手に端末。


 耳に小さな通信機。


 歩き方は作業員ではない。


 見るために立っている人間だった。


 ミーシャが、足を止める。


 ジンは周囲を見た。


 通路は狭い。


 戻れば時間を失う。


 進めば見られる。


 ミーシャが、小さく言った。


「こちらを見ます」


「いつ」


「三秒後」


 言い終える前に、監視員が顔を上げた。


 ジンは動いた。


 速かった。


 だが、荒くはなかった。


 監視員の端末の光が、一瞬だけ床を照らした。


 次の瞬間には、その光はミーシャの手の中にあった。


 監視員は声を出せなかった。


 ジンの腕の中で、力が抜ける。


 ミーシャは通信機を外し、短く切った。


 完全には壊さない。


 壊れたことがすぐ分かる壊し方はしない。


 ただ、今だけ黙らせる。


 ジンは監視員を、扉の影へ移した。


 金属棚と予備ホースの間。


 通路からは見えない。


 近づけば分かる。


 だが、近づく者がいなければ分からない。


 ジンは言った。


「何分」


「長くて十五分」


「短いな」


「十分です」


「子どもを出すには」


「足りません」


「なら急げ」


「はい」


     *


 下層へ降りる階段は、湿っていた。


 一段ごとに、船が軋む。


 ジンは音を殺して降りた。


 ミーシャはもっと音がない。


 まるで、船の暗がりが勝手に下へ流れているようだった。


 階段の下には、赤い照明が点いていた。


 非常灯ではない。


 作業灯でもない。


 監視のための、目立たない赤だった。


 壁に札がある。


 補助貨物区画。

 関係者以外立入禁止。

 移送前確認中。


 その下に、小さな紙。


 C-7。


 ジンは照合票を思い出した。


 ECPA照合番号。

 左耳下の瘢痕。

 赤い布片。

 最終確認地点、北側港湾倉庫。


 C-7。


 箱の番号と、子どもの番号が近づいている。


 ミーシャが扉に耳を寄せた。


 中から音はしない。


 静かすぎた。


 ジンは、それが嫌だった。


 子どもがいる場所に、音がなさすぎる。


 泣き声もない。

 足音もない。

 息を殺す気配もない。


 それは、眠らされているか、声を出す力がないかのどちらかだった。


 ミーシャは端末を出した。


 扉の端に短く触れる。


 小さな音。


 鍵が開いた。


 ジンは、ミーシャを見た。


「開けるぞ」


「はい」


 扉が少しだけ開いた。


 空気が変わった。


 冷たい。


 だが、保冷庫の冷たさではない。


 閉じ込められた空気の冷たさだった。


     *


 中は狭かった。


 貨物室ではなかった。


 貨物室の形をした待機部屋だった。


 壁際に、簡易ベッド。

 床に、毛布。

 水の入った小さな容器。

 開けられていない栄養パック。

 そして、隅に子どもが一人いた。


 白い肌。


 薄い色の髪。


 痩せた頬。


 少し大きすぎる上着。


 目は閉じている。


 左耳の下に、小さな傷跡。


 手には、赤い布片を握っていた。


 ジンは息を止めた。


 ミーシャが照合票を開く。


 写真。


 傷跡。


 赤い布片。


 服の色。


 身長の目安。


 ミーシャは、子どもに触れなかった。


 まず、見た。


 次に、記録した。


 それから、短く言った。


「照合一致」


 ジンは子どものそばへ膝をついた。


「生きてるか」


 ミーシャが頸元を確認した。


「生存」


「意識は」


「低下」


「薬か」


「可能性あり」


 ジンは子どもの顔を見た。


 名前は聞かなかった。


 この子が誰かを知るためではない。


 この子を出すために来た。


 名前はあとでいい。


 道が先だ。


 ミーシャが小さな保護シートを出した。


「搬出します」


「担ぐ」


「はい。ただし、姿勢を固定します」


「急げ」


 その時、通路の向こうで声がした。


 中国語。


 近い。


 足音は二つ。


 さっきの作業員ではない。


 もっと重い。


 ジンは扉の影に入った。


 ミーシャは照合票をしまい、子どもの上に毛布をかけた。


 部屋の外で、男の声がした。


「C-7、確認」


 もう一人が答えた。


「出航前に上げる」


「記録は」


「港を出てから変える」


「白羽は」


「関係ない」


 笑い声がした。


 短い笑い。


 ジンの目が動かなくなった。


 ミーシャは、その顔を見て言った。


 声を出さずに、唇だけで。


 待て。


 ジンは動かなかった。


 扉が開く。


 男が一人入った。


 顔をこちらへ向ける前に、ジンの手が伸びた。


 声は出なかった。


 男の身体が、部屋の中へ沈む。


 二人目が異変に気づく。


 ミーシャが外へ出た。


 黒い雨合羽が、赤い灯りの中で一瞬だけ見えた。


 次に見えた時には、二人目は壁に寄りかかっていた。


 意識はない。


 だが、息はある。


 ジンは一人目を奥へ寄せた。


 ミーシャは二人目の端末を拾った。


 画面に、短い表示があった。


 C-7。

 出航後、記録変更。

 移送先、未表示。

 生活名、仮登録待ち。


 ミーシャが、その画面を写真に残した。


「証拠になります」


「船を止められるか」


「まだ不足」


「なぜ」


「華南物流互助会の船内記録だけです。港湾第三が入るには、出航停止条件が必要です」


「条件は」


「封印不一致。積荷虚偽。児童支援物資の横流し」


「子どもは」


「別件です」


 ジンはミーシャを見た。


「別件?」


「はい」


 ミーシャの声は冷たい。


「この子を出すことと、船を止めることは別の手続きです」


「同じ船だろ」


「手続き上は別です」


「面倒だな」


「だから白羽が使います」


 ジンは子どもを抱き上げた。


 軽かった。


 軽すぎた。


 食べていない軽さだった。


 旧南第三の子どもたちと同じ軽さ。


 だが、この子は旧南第三を知らない。


 健二を知らない。


 倉持を知らない。


 三枝を知らない。


 名前を待ってくれる場所を知らない。


 だから、今は待たない。


 外へ出す。


     *


 通路に戻ると、放送が鳴った。


「出航準備、二十分前。第二保冷区画、封印確認」


 ミーシャが言った。


「時間がありません」


「子どもを先に出す」


「食材が出ません」


 ジンは足を止めた。


 ミーシャは続けた。


「船を止めなければ、旧南第三への食材搬入条件が成立しません」


「子どもを置けと?」


「言っていません」


「なら」


「両方やります」


 ミーシャは端末を操作した。


「第二保冷区画へ向かいます」


「子どもを抱えたままか」


「はい」


「見つかる」


「見つからないように進みます」


 ジンは子どもを抱き直した。


 赤い布片が、子どもの手から少し垂れている。


 ミーシャがそれを見て、小さく毛布の中へ入れた。


 落とさないためだった。


 所持品は、本人確認の一部。


 子どもが誰であるかを示す、今ある少ない証拠。


 ジンは言った。


「お前、ちゃんと子どもとして扱えるんだな」


 ミーシャは少しだけ黙った。


「照合票に所持品とあります」


「そういう意味じゃない」


「では、分かりません」


 ジンはそれ以上言わなかった。


 通路の先に、また足音。


 三人。


 今度は近い。


 ミーシャはジンを別の通路へ押し込んだ。


 狭い清掃用の空間。


 水の匂い。


 洗剤の匂い。


 古い布の匂い。


 ジンは子どもを抱えたまま、息を止めた。


 足音が通り過ぎる。


「C-7は」


「下だ」


「確認したか」


「これから」


「早くしろ」


「出航後に処理でいい」


「上がうるさい」


「白羽か」


「名前を出すな」


 足音が遠ざかる。


 ジンは目を閉じた。


 白羽の名前が出た。


 出してはいけない名前として。


 それだけで十分だった。


 ミーシャが言った。


「進みます」


     *


 第二保冷区画の前には、封印があった。


 第一保冷区画よりも厳重だった。


 ミーシャは照合票ではなく、港湾記録を出した。


「ここが本命です」


「何がある」


「旧南第三向けだった食材」


「それだけか」


「いいえ」


 ミーシャは封印番号を見た。


「他施設向けに再登録された児童支援物資。医療品。靴。栄養補助食品。記録上は北側生活安定圏第三施設向け」


「実際は」


「港湾第三の照会記録と一致すれば、横流しです」


「開けるぞ」


「開封者名」


 ジンは短く言った。


「Jin FUKUOKA」


 装置が鳴った。


 記録が残った。


 福岡仁が開けた。


 真柴直樹ではない。


 扉が開く。


 冷気が流れ出す。


 ジンは子どもを抱えたまま中へ入った。


 ミーシャが先に走査した。


 箱。


 箱。


 箱。


 魚缶。

 乾燥豆。

 粉乳。

 葉物野菜の保存品。

 栄養補助食品。

 子ども用靴。

 滅菌ガーゼ。

 消毒液。

 抗菌薬。


 そして、貼り替えられた伝票。


 誰かの元に届くはずの善意が。


 未登録児童補助。


 生活配給補助。


 悪意で変更済。


 ミーシャが記録した。


「積荷虚偽、確認」


 ジンは周囲を見た。


「封印は」


「貼り替え痕あり」


「横流しは」


 ミーシャが奥の箱を指した。


 ラベルが剥がされている。


 だが、下の紙が残っていた。


 生活名登録済児童、支援加算対象。


 華南物流互助会。


 ミーシャが記録した。


「児童支援物資の横流し、確認」


「三条件は」


「成立」


 その時、外で警報が小さく鳴った。


 大きな警報ではない。


 船内だけに流れる、短い警告音。


 ミーシャが顔を上げた。


「発見が早い」


「何を」


「下層の二名です」


「隠し方が甘かったか」


「いいえ」


 ミーシャは端末を見た。


「予定より早く確認に来ています」


「出航を急いでる」


「はい」


 ジンは子どもを抱え直した。


「送れ」


 ミーシャは、港湾第三へ照合違反を送信した。


 封印不一致。

 積荷虚偽。

 児童支援物資の横流し。

 C-7未確認児童、船内発見。

 出航保留要請。


 送信完了。


 数秒。


 長かった。


 船が軋む。


 遠くで足音。


 近づいている。


 ミーシャが端末を見た。


「港湾第三、受信」


「止まるか」


「判定中」


「遅い」


「行政は遅いです」


「知ってる」


 足音が近づく。


 今度は多い。


 五人以上。


 華南物流互助会の声がした。


「下だ」


「子どもを確認しろ」


「記録を消せ」


「誰か入った」


 ジンは子どもを抱えたまま、保冷区画の奥へ下がった。


 ミーシャは扉の横に立った。


 黒い雨合羽。


 赤い非常灯。


 冷気。


 ジンは言った。


「ミーシャ」


「はい」


「殺すな」


「努力します」


「努力じゃない」


「殺しません」


 ミーシャはそう言った。


 その声は、いつもよりわずかに硬かった。


 扉が開く。


 最初の男が入ってくる。


 ミーシャが消えた。


 そう見えた。


 次の瞬間、男は床に落ちていた。


 声は出ない。


 二人目が入る。


 ジンは子どもを片腕で抱え、もう一方の手で男の腕を止めた。


 関節が変な方向へ行く前に止める。


 折らない。


 ただ、動けなくする。


 男が膝をつく。


 三人目が無線機を取る。


 ミーシャの手が、それを先に取った。


 四人目が叫びかける。


 ジンが壁に押し込む。


 音を殺す。


 息はある。


 動けない。


 五人目は逃げようとした。


 逃げる先は通路。


 通路へ出れば、船全体が起きる。


 ミーシャが足元を払った。


 男は転んだ。


 声を出す前に、口を押さえられた。


 五人。


 全員、生きている。


 全員、見える場所にはいない。


 だが、時間はもうなかった。


 ミーシャが息を吐いた。


「排除完了」


「言い方」


「無力化完了」


「それでいい」


 その時、船内放送が鳴った。


「出航許可、保留」


 声が揺れていた。


「繰り返す。出航許可、保留。第二保冷区画、港湾第三確認対象」


 ジンは顔を上げた。


 ミーシャが端末を見た。


「船は止まりました」


「子どもは」


「搬出します」


「食材は」


「条件成立」


 ジンは子どもを抱えて、扉へ向かった。


 その子はまだ目を覚まさない。


 だが、息はある。


 赤い布片は、毛布の中にある。


 左耳の下の小さな傷跡も確認した。


 写真と一致した。


 名前はまだない。


 でも、荷物ではなくなった。


 少なくとも、この船の中では。


     *


 通路へ出ると、港湾第三の警告灯が外で回っていた。


 白い光ではない。


 青と赤の間の、冷たい光。


 華南物流互助会の作業員たちが、船内で慌ただしく動いている。


 だが、もう遅い。


 船は紙の上で止まった。


 港が見ている。


 見られている船は、もう自由に子どもを動かせない。


 ミーシャが前を歩く。


 ジンは子どもを抱えて続く。


 出入口まで、あと少し。


 その時、通路の先に男が立っていた。


 青い作業服ではない。


 白羽の制服でもない。


 黒い外套。


 手袋。


 眼鏡。


 年齢は四十代ほど。


 胸には何も付けていない。


 名札もない。


 だが、周囲の作業員が、その男の前で止まっている。


 名前を出さなくても分かる。


 この船で、名前を持たずに命令できる男だった。


 男は、ジンの腕の中の子どもを見た。


 それから、ミーシャを見た。


「その荷は、こちらの管理下です」


 日本語だった。


 丁寧だった。


 ジンは答えなかった。


 ミーシャが言った。


「荷ではありません」


 男は微笑んだ。


「では、何ですか」


 ミーシャは照合票を出した。


「欧州共同保護機構、保護照合対象児童」


「名前は」


「救助条件ではありません」


「便利な言い方ですね」


「あなた方ほどではありません」


 男の笑みが、少しだけ消えた。


 ジンは子どもを抱えたまま、一歩前に出た。


 男はジンを見た。


「あなたは」


 ミーシャが先に答えた。


「Jin FUKUOKA。外部実働者」


 男は、その名前を聞いても表情を変えなかった。


 まだ知らない。


 真柴直樹とはつながっていない。


 福岡仁という名前だけが、ここで動いている。


 男は言った。


「港湾第三の確認が終わるまで、船内の物品は移動できません」


 ミーシャが答えた。


「物品ではありません」


「では」


「児童です」


「証明は」


 ミーシャは照合票を掲げた。


「写真、身体特徴、所持品、医療状態、照合番号。一致」


 男は言った。


「本人の申告は」


「不要」


「名前は」


「不要」


 男は、そこで初めてジンを見た。


「強引ですね」


 ジンは静かに言った。


「荷物にした奴が言うな」


 男の目が細くなった。


 その瞬間、外から声が響いた。


「港湾第三です。南海福祉二号、出航保留。第二保冷区画、移送待機区画、確認対象」


 船の空気が変わった。


 見られていなかった場所が、見られる場所になった。


 隠していた紙が、外へ出る。


 男は一歩下がった。


 まだ負けてはいない顔だった。


 だが、今は止められない顔でもあった。


 ミーシャが言った。


「通ります」


 男は何も言わなかった。


 ジンは、子どもを抱えて進んだ。


 すれ違う時、男が小さく言った。


「福岡仁」


 ジンは止まらなかった。


 男は続けた。


「その名前、覚えました」


 ジンは振り返らずに言った。


「忘れろ」


 外の光が近づく。


 港の冷たい空気が流れ込む。


 子どもの手が、毛布の中で少しだけ動いた。


 赤い布片が、指に絡んでいる。


 ジンは、その手を見た。


 生きている。


 それだけで、今は十分だった。


 南海福祉二号は止まった。


 だが、まだ終わっていない。


 この子をどこへ渡すか。

 食材をどう旧南第三へ届かせるか。

 福岡仁の名前をどこまで残すか。


 次の戦いは、船の外で始まる。


 ジンは子どもを抱えたまま、港へ降りた。


 その背後で、南海福祉二号の出航灯が消えた。


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