第五十二話 ホテルの壁
## 第五十二話 ホテルの壁
外国人居住区は、かつて高級ホテルだった。
正面玄関の上には、まだ古い金色の文字が残っている。
だが、名前の一部は布で隠され、代わりに仮設の標識が貼られていた。
EU保護居住区。
NATO医療連絡室。
外国人退避登録所。
一時安全区域。
ホテルの車寄せには、土嚢が積まれていた。
ガラス張りの入口には、金属探知機と検問台。
ロビーの中央にあった大きな花瓶は撤去され、代わりに無線機と地図が置かれている。
それでも、床の大理石はまだ残っていた。
磨かれた床。
高い天井。
壁の木目。
使われなくなったシャンデリア。
薄く残った香水と消毒液の匂い。
市場とも違う。
火葬場とも違う。
NATOの仮設テントとも違う。
ここには、まだ「壊れる前の世界」の形が少しだけ残っていた。
ジンたちを乗せた車両は、地下搬入口から入った。
正面ではない。
記者も、避難者も、白羽の紙も入れない場所だった。
鷲尾は車から降りた瞬間、天井を見上げた。
「……ホテルかよ」
誰も答えなかった。
「こんなとこ、まだ残ってたのか」
ミーシャが言った。
「買い上げられています。名目上はEU所属の外国人居住区です」
「名目上?」
「実際には、NATOと複数の外国勢力が共同で管理しています」
鷲尾は顔をしかめた。
「また分かりにくい話だな」
ミーシャは短く答えた。
「つまり、白羽が勝手に人を消しにくい場所です」
鷲尾は黙った。
それだけは分かった。
ロビーの奥に、医療区画が作られていた。
ホテルの宴会場を改造したものだった。
白い仕切り。
ベッド。
点滴台。
医療機器。
透明な薬品箱。
複数言語の表示。
受付にいた医師が、志乃を見てすぐに指示を出した。
「こちらへ」
通訳が遅れて日本語にする前に、担架が動いた。
志乃は目を閉じていた。
だが、意識はある。
鷲尾が担架の横について歩く。
「志乃さん、聞こえてますか」
志乃は目を開けずに言った。
「うるさい」
鷲尾は泣きそうな顔で笑った。
「聞こえてるならいいです」
「よくない」
「すみません」
「謝るな」
「はい」
志乃はそのまま処置室へ入れられた。
ジンが扉の前で止まる。
鷲尾も止まった。
医師が二人を見た。
「付き添いは一人」
通訳が言う。
鷲尾はすぐに言った。
「俺が」
ジンは頷いた。
「行け」
鷲尾は少しだけ迷った。
「お前は」
「別の部屋だ」
「また何か聞かれるんだろ」
「たぶん」
鷲尾はジンを見た。
「変なこと言うなよ」
「変なことしか言えない」
「知ってる」
それだけ言って、鷲尾は処置室へ入った。
志乃のベッドは、奥の個室ではなかった。
広い病室の一角だった。
本来はホテルのスイートルームだったのだろう。
壁紙も照明も、やけに上品だった。
窓には厚いカーテンがあり、床には柔らかい絨毯が残っていた。
だが、部屋の中央には医療ベッドが二つ並んでいた。
片方に志乃。
もう片方に、もう一人の雨合羽が寝かされていた。
黒い合羽は脱がされている。
肩には厚く包帯が巻かれている。
顔はまだ半分、布で隠れていた。
鷲尾はその姿を見て、眉をひそめた。
「こいつもか」
雨合羽は目を開けた。
「こいつではありません」
声はかすれていた。
鷲尾は一瞬、気まずそうな顔をした。
「……悪かったよ」
雨合羽は答えなかった。
志乃が目だけを動かした。
「誰だい」
鷲尾が言った。
「白い紐の男を捕まえた雨合羽です」
志乃は雨合羽を見た。
「名前は」
雨合羽は沈黙した。
志乃は薄く笑った。
「ここも名乗らないやつばかりだね」
雨合羽は小さく言った。
「まだ、名乗れません」
「なら、寝てな」
志乃はそう言って、目を閉じた。
雨合羽も黙った。
二つのベッドの間に、点滴の音だけが残った。
外では、鷲尾が椅子に座り込んだ。
さっきまで怒鳴っていた男が、急に静かになっていた。
志乃が死なない場所に入った。
それだけで、身体が限界に気づいたのだ。
一方、ジンとミーシャは別の階へ案内された。
ホテルの会議室だった。
分厚い扉。
防音壁。
大きな楕円形のテーブル。
壁に残った抽象画。
中央には水差しと紙コップ。
ここにも、壊れる前の世界が残っている。
だが、窓には防弾フィルム。
天井には監視カメラ。
部屋の外には警備員。
ジンは椅子に座らなかった。
ミーシャは座った。
肩には包帯。
顔色は悪い。
それでも背筋は伸びていた。
しばらくして、三人の男と一人の女が入ってきた。
EU側の調整官。
NATOの記録官。
外国人保護班の法務担当。
医療支援班の責任者。
通訳もいる。
ラソアはいなかった。
アレクセイもいない。
だが、どこかで聞いている気配はあった。
最初に口を開いたのは、EU側の調整官だった。
「まず、治療が優先されます」
通訳が訳す。
「そのうえで、いくつか確認します」
ジンは答えなかった。
ミーシャが言った。
「確認してください」
調整官はジンを見た。
「あなたは、どの組織の指示で動いていましたか」
ジンは短く答えた。
「指示はない」
通訳が訳すと、調整官はわずかに眉を動かした。
「個人判断ですか」
「そうだ」
「FAMASを所持していました」
「拾った」
「どこで」
「市場」
「誰から」
「白羽が置いた」
記録官がメモを取る。
調整官は続けた。
「あなたは、中部市場、火葬場、華南保護線、NATO車両のすべてに接触しています。個人判断だけでは説明が難しい」
ジンは椅子に座った。
ゆっくりと。
「難しくても、事実だ」
法務担当の女が言った。
「あなたを責めるためだけの質問ではありません」
ジンは女を見た。
「なら何だ」
「補償と保護の対象を決めるためです」
ジンは黙った。
女は続けた。
「あなたは負傷しています。火葬場で拘束対象と証拠を搬出した。中部市場の民間人退避にも関与した。医療補償、滞在保護、身分保全、移動許可、証人保護、いくつかの選択肢があります」
ジンは聞いていた。
だが、顔は変わらない。
「何を望みますか」
その質問で、部屋が少し静かになった。
ミーシャもジンを見た。
ジンはすぐには答えなかった。
何を望むか。
金。
治療。
武器。
身分。
移動権。
安全。
名前。
どれも、今夜の市場には足りなかったものだった。
ジンは言った。
「市場の人間を治療しろ」
調整官が顔を上げた。
「あなた自身ではなく?」
「奥村先生。志乃。鷲尾の若い衆。白い紐の男を追った雨合羽。市場で撃たれた者」
「それは既に対象です」
「足りない」
調整官は黙った。
ジンは続けた。
「薬を戻せ。薬箱を戻せ。子どもの名前を燃やすな。火葬場の名簿を複製しろ。市場の古い名前を残せ」
法務担当が言った。
「個人補償ではありませんね」
「望みを聞いた」
女は少しだけ頷いた。
「確かに」
NATOの記録官が聞いた。
「あなた自身の保護は」
「いらない」
ミーシャが即座に言った。
「必要です」
ジンはミーシャを見た。
「いらない」
「必要です」
声は静かだった。
だが、譲る気はなかった。
「あなたが死ぬと、証言の一部が消えます」
「証拠はある」
「証拠は喋りません」
ジンは黙った。
それは、自分がさっき言った言葉だった。
調整官は二人を見て、話を戻した。
「では、最低限の医療処置と短期保護は受けてください。拒否しても記録上、勧告します」
ジンは答えなかった。
医療責任者が近づいた。
「傷を見ます」
ジンは嫌そうな顔をした。
医師は表情を変えなかった。
「選択肢ではありません」
通訳が訳す。
ミーシャが少しだけ視線を逸らした。
笑いかけたのかもしれない。
ジンは上着を脱いだ。
脇腹の布は血で固まっていた。
肩にも傷がある。
腕にも新しい裂傷がある。
頬には石の破片でできた切り傷。
医師は一つずつ見た。
「よく動いていましたね」
通訳が訳す。
ジンは答えた。
「動けた」
医師は短く言った。
「動けたことと、動いていいことは違います」
鷲尾がいれば笑ったかもしれない。
ミーシャが言った。
「同感です」
ジンは黙った。
医師は処置を始めた。
消毒液が傷に入る。
ジンの肩がわずかに動く。
ミーシャの番も来た。
彼女は抵抗しなかった。
包帯が外され、肩の傷が露出する。
火葬場外周で撃たれたか、白い紐の男を押さえた時の傷か。
血と汚れが混ざっていた。
医師は眉をひそめた。
「こちらも縫合が必要です」
ミーシャは頷いた。
「記録作業のあとで」
「今です」
「証拠複製が」
「今です」
医師は一歩も引かなかった。
ミーシャはしばらく黙ったあと、言った。
「五分だけ」
医師は答えた。
「二分」
ジンが言った。
「三分」
医師は二人を見た。
「あなたたちは交渉する相手を間違えています」
法務担当の女が、少しだけ笑った。
部屋の空気が、その瞬間だけ緩んだ。
本当に短い時間だった。
だが、緩んだ。
調整官が再び口を開いた。
「もう一つ確認します」
空気が戻る。
「あなた方は、誰の指示で火葬場へ向かいましたか」
ジンは答えた。
「白い紐の男が言った」
「それだけで?」
「市場の名簿が燃える」
「それを確認するために向かった」
「そうだ」
「陳維明隊との連携は」
ジンは少しだけ黙った。
「連携じゃない」
「では」
「同じ場所を見ていた」
調整官は、その言葉を通訳が訳すまで待った。
「陳維明は、あなたの味方でしたか」
ジンは答えなかった。
ミーシャも黙った。
調整官は質問を変えた。
「敵でしたか」
ジンはようやく答えた。
「別の線にいた」
記録官が手を止めた。
ジンは続けた。
「白羽を嫌っていた。だが、華南の線を外へ渡せなかった」
「それで火葬場へ?」
「止めようとした」
「誰を」
「白羽」
「華南の命令で?」
「知らない」
法務担当が言った。
「彼を証言で保護できますか」
ジンは顔を上げた。
「陳をか」
「はい」
「遅いかもしれない」
その言葉で、部屋の中が静かになった。
調整官は何かを記録した。
ミーシャが端末を見た。
「華南保護線の識別情報が、減っています」
「撤収か」
ジンが聞いた。
「一部は」
「陳は」
ミーシャは画面を見たまま黙った。
それだけで、答えに近かった。
調整官が言った。
「この件についても確認します」
ジンは言った。
「急げ」
「努力します」
「努力は遅い」
通訳がそれを訳すと、調整官の顔が少し硬くなった。
だが、反論はしなかった。
会議室の外では、ホテルの廊下を医療スタッフが行き来している。
元は高級ホテルだった場所。
今は、負傷者と証拠と名前を守る場所になっている。
窓の外には、市場の方向が見えた。
夜は薄くなっていた。
ジンは処置されながら、そこを見た。
市場はまだ燃えていない。
火葬場の煙も、ここまでは届かない。
志乃はちゃんとしたベッドに入った。
もう一人の雨合羽も隣にいる。
ミーシャは縫われる。
白い手袋の男は、まだ生きているはずだった。
完全に近い安全。
その言葉が、ジンの中でまだ引っかかっていた。
完全に近い。
つまり、完全ではない。
それでも、今だけは、傷を縫う時間があった。
水を飲む時間があった。
誰かが「何が望みか」と聞く場所まで来た。
ジンは紙コップを見た。
中の水は透明だった。
市場の泥水ではない。
火葬場の湿った熱でもない。
ただの水だった。
ジンはそれを飲んだ。
喉が痛かった。
生きているからだ。
ミーシャが隣で言った。
「あなた自身の望みを、まだ答えていません」
ジンは紙コップを置いた。
「さっき言った」
「それは市場の望みです」
「同じだ」
ミーシャはしばらく黙った。
それから、処置台に横になった。
「では、記録しておきます」
「何を」
「本人は、自分の保護より市場の保全を希望」
ジンは何も言わなかった。
法務担当の女が、その言葉を端末に入力した。
記録に残る。
白羽の紙ではない。
誰かを消すための紙ではない。
それでも、紙だった。
ジンはそれを見ていた。
紙は、人を消す。
紙は、人を残す。
今夜は、その両方を見た。
そしてまだ、どちらが勝つかは分からなかった。




