表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/50

第三十九話 福岡仁

##第三十九話 福岡仁


 港の夜は、学校の夜より冷たかった。


 旧南第三では、夜になると、誰かが廊下を歩く音がした。


 子どもの寝返り。

 三枝が湯を沸かす音。

 倉持が紙をめくる音。

 健二がホワイトボードの前で立ち止まる気配。


 港には、それがなかった。


 あるのは、金属の軋む音。

 遠い発電機。

 海水と油の匂い。

 コンテナの隙間を抜ける風。

 そして、名前を呼ばない人間たちの足音だった。


 直樹は、倉庫の壁にもたれていた。


 壁は冷えていた。


 手袋越しでも分かる冷たさだった。


 アレクセイは、折りたたみの机に赤い手帳を置いていた。


 その横には、港湾第三から回ってきた紙。

 西田透の発語記録。

 青い靴紐の写真。

 港湾記録の写し。

 命令者名、黒崎。


 ミーシャは少し離れた場所に立っていた。


 黒い雨合羽。

 濡れていないのに、雨合羽を着ていた。

 手には、薄い手順書。


 誰も、旧南第三の話をしなかった。


 だから直樹は、自分から言った。


「戻る」


 アレクセイは顔を上げなかった。


「どこへ」


「学校だ」


「真柴直樹としてか」


 直樹は答えなかった。


 アレクセイは、赤い手帳の角を指で押さえた。


「その名前では、もう戻るな」


 直樹の目が少しだけ動いた。


「俺の名前だ」


「知っている」


「なら」


「だから危ない」


 港の照明が一度だけ揺れた。


 遠くで、コンテナが吊り上げられる音がした。


 アレクセイは、ゆっくり顔を上げた。


「真柴直樹は、旧南第三に紐づいている」


 直樹は黙っていた。


「元自衛官。宇都宮。中央即応。海外渡航歴。港湾事案。児童支援拠点との関係。弟、真柴健二」


 言葉が、紙の項目のように並べられていく。


「その名前で一歩動けば、学校が動いたことになる」


「俺が動く」


「白羽はそう書かない」


 アレクセイは言った。


「旧南第三が動いた、と書く」


 直樹は、壁から背を離した。


 怒ったわけではなかった。


 殴る相手がいる言葉ではなかった。


 紙だった。


 紙に書かれたら、そこから燃える。


 自分が動けば、健二の場所が止まる。

 自分が戻れば、子どもたちの道が塞がる。

 自分の名前が、学校に火をつける。


 ミーシャが言った。


「真柴直樹は同行不可」


 直樹はミーシャを見た。


「誰が決めた」


「記録です」


「記録が人を決めるのか」


「この地域では、はい」


 ミーシャは表情を変えなかった。


「真柴直樹。旧南第三関連人物。監視対象。白羽接触時、学校への波及可能性あり」


「じゃあ、誰なら行ける」


 ミーシャは答えなかった。


 代わりに、アレクセイが古い封筒を机の上に置いた。


 濡れた跡のある封筒だった。


 角は折れ、紙の色は少し黄ばんでいる。


 表には、フランス語の短い文字があった。


 直樹は、それを見た瞬間、表情を消した。


「それは使わない」


 アレクセイは言った。


「使え」


「終わった名前だ」


「終わっていない」


「俺が終わらせた」


「紙が残っている」


 アレクセイは封筒を開いた。


 古い紙が出された。


 Nom.

 FUKUOKA.


 Prénom.

 Jin.


 直樹は、その紙を見なかった。


「俺は真柴直樹だ」


「知っている」


 アレクセイは静かに言った。


「だから、この話が終わるまで死ね」


 空気が止まった。


 ミーシャだけが、まばたきをした。


 アレクセイは続けた。


「真柴直樹は、学校に置いてこい」


 直樹は動かなかった。


「福岡仁だけを、外へ出す」


 赤い手帳の上に、アレクセイの手が置かれている。


「白羽が追うのは、紙の上の名前だ」


 直樹は、アレクセイを見た。


「なら」


 アレクセイは言った。


「紙の上だけで殺せ」


 直樹は、机の上の紙を見た。


 FUKUOKA Jin.


 かつて必要だった名前。


 国を出るための名前。

 命令を受けるための名前。

 帰る場所を持たないための名前。


 外で生きるための名前。


 その名前が、また目の前に置かれている。


「白羽は、子どもの名前を奪う」


 アレクセイは言った。


「お前は、子どもの名前を戻そうとしている」


 直樹は答えなかった。


「なら、自分の名前くらい置いていけ」


 直樹は低く言った。


「簡単に言うな」


「簡単ではない」


 アレクセイは赤い手帳を開いた。


「私は知っている」


 そのページには、小さな字で名前が並んでいた。


 消えた名前。

 戻らなかった名前。

 戻る前に切られた名前。


 アレクセイは、その中の一行を指で押さえた。


「名前を置いていくことが、どれほど危ないかも知っている」


 直樹は紙を見たまま言った。


「健二には」


「言うな、か」


「言うな」


 アレクセイは答えなかった。


 ミーシャが答えた。


「聞かれるまで、言いません」


 直樹はミーシャを見た。


「聞かれたら」


「答えます」


「黙れないのか」


「虚偽報告はしません」


 ミーシャの声には、悪意がなかった。


 だから残酷だった。


 直樹は、少しだけ目を伏せた。


 健二は、いつか聞く。


 聞かなくても分かる。


 兄の名前ではない名前が、外の記録に出てくる。


 港湾記録。

 搬入記録。

 外部照合。

 モスクワ経由。

 欧州共同保護機構。

 フランス側保護名義。


 そのどこにも、真柴直樹は出ない。


 出せない。


 出した瞬間、旧南第三に火が回る。


 直樹は、古い紙を取った。


 ペンを持つ。


 署名欄の前で、一度だけ止まった。


 真柴直樹。


 その名前は、ここには書けない。


 健二が持っている。

 旧南第三のホワイトボードに残っている。

 倉持の記録に残っている。

 三枝の呼び方に残っている。

 子どもたちが、たぶんまだ覚えている。


 兄ちゃん。


 その呼び名の中に残っている。


 だから、ここには書かない。


 直樹は署名した。


 Jin FUKUOKA.


 ペン先が、古い紙の上で少し引っかかった。


 書いた瞬間、港の音が遠くなった。


 アレクセイは赤い手帳に一行を書いた。


 福岡仁、使用再開。

 真柴直樹、旧南第三へ接続不可。


 ミーシャが手順書を閉じた。


「確認」


 直樹はペンを置いた。


 ミーシャが、初めてその名前で呼んだ。


「ジン」


 直樹は顔を上げた。


「前へ」


 港の奥に、白羽の紙が届かない扉があった。


 真柴直樹では開かない扉だった。


 福岡仁は、そこへ歩いた。


     *


 扉の向こうは、倉庫ではなかった。


 倉庫の形をした、別の国だった。


 床には白線が引かれている。


 線のこちら側には、日本語の注意書き。

 線の向こう側には、ロシア語とフランス語と英語の紙。


 危険物。

 保冷。

 人道支援。

 未成年者保護。

 外部照合。

 通過記録。


 同じ箱でも、線を越えると名前が変わる。


 白羽の生活支援物資ではない。

 国境第三の備蓄でもない。

 港湾組合の荷でもない。


 モスクワ経由の箱。

 欧州共同保護機構発注の箱。

 フランス側保護名義を通した箱。


 白羽が触れば、白羽の名前が残る箱。


 ミーシャは、先に立って歩いた。


「ここから先は、ロシア側の照合区域です」


「ロシアのものか」


「半分です」


「残りは」


「触った者の名前が残る区域です」


 直樹は足を止めなかった。


「白羽は」


「通常、入りません」


「入れないのか」


「入れば、白羽の名前が残ります」


 ミーシャは振り返らずに言った。


「白羽は、自分の名前が残る場所に入りません」


 アレクセイが後ろで笑った。


 笑い声は、乾いていた。


「正確だ」


 直樹は言った。


「ここで何をする」


 アレクセイは答えた。


「子どもの名前を取り戻すには、内側の記録だけでは足りない」


「西田透か」


「西田透だけではない」


 アレクセイは赤い手帳を叩いた。


「白羽は、生活名を作る前に、必ず外へ出す。物資、補助金、移行実績、保護件数。外に見せるための紙がある」


「そこに旧名が残るのか」


「残る時がある」


「なぜ」


「金を取るためだ」


 直樹は黙った。


「人を消すためには旧名を消す。だが、金を取るためには、元の子どもが誰だったかを証明しなければならない」


 アレクセイは続けた。


「白羽は、完全には消せない」


「矛盾している」


「だから、そこを開く」


 ミーシャが一枚の紙を差し出した。


 外部照合倉庫。

 生活移行実績確認。

 未成年者保護名簿。

 旧名照合、制限付き。

 入域許可者、Jin FUKUOKA。


 直樹は、その紙を見た。


 自分の名前ではない名前で、子どもの名前を取りに行く。


 そういう道だった。


     *


 旧南第三では、夜の記録が終わっていなかった。


 倉持は、ホワイトボードの前に立っていた。


 外の道、到着。

 西田透、名前確認、未完了。

 西田透を生活名で呼ばない。


 その下に、まだ書かれていない余白がある。


 健二は、黒いペンを持っていた。


 書くべきことがあった。


 だが、名前がなかった。


 三枝が、湯を入れたカップを置いた。


「書けませんか」


 健二は頷いた。


「外の道のことですか」


「はい」


「お兄さんのことですか」


 健二は少し黙った。


「呼ばないって決めたのに」


「はい」


「呼ばないようにしたら、兄ちゃんの名前まで書けなくなりました」


 三枝は、ホワイトボードを見た。


 真柴直樹。


 その名前は、どこにもなかった。


 あるのは、外の道。


 健二が書いた、兄を呼ばないための言葉。


 倉持が静かに言った。


「書かないことも、記録です」


 健二は振り返った。


「書かないことを、どう残すんですか」


 倉持は少し考えた。


 そして言った。


「呼ばない理由を残します」


 健二は、ホワイトボードを見た。


 それから、一行だけ書いた。


 外の道を、名前で呼ばない。

 旧南第三に火が戻るため。


 ペン先が止まった。


 健二は、もう一行書いた。


 ただし、消さない。


 三枝は、それを見て何も言わなかった。


 倉持は、記録帳に同じ文を書き写した。


 外の道を、名前で呼ばない。

 ただし、消さない。


 その夜、旧南第三では、真柴直樹の名前は書かれなかった。


 だが、消されもしなかった。


     *


 外部照合倉庫の入口には、男が一人座っていた。


 制服ではない。


 港湾職員でもない。


 机の上に、読み取り機と古いスタンプがあった。


 男は顔を上げずに言った。


「氏名」


 直樹は一瞬だけ止まった。


 ミーシャが横で言った。


「ジン」


 男が顔を上げた。


「本人に答えさせる」


 アレクセイは何も言わない。


 直樹は、男を見た。


 ここで真柴直樹と言えば、扉は開かない。


 開いたとしても、学校に火がつく。


 ここで黙れば、先へ進めない。


 直樹は答えた。


「Jin FUKUOKA」


 男は紙を確認した。


「国籍確認」


 直樹は言わなかった。


 ミーシャが書類を出した。


 男は目を通した。


 フランス語の紙。

 古い軍歴の断片。

 欧州共同保護機構の照会番号。

 モスクワ側通過印。


 男はスタンプを押した。


 音が大きかった。


 通過可。


 直樹は、その音を聞いた。


 名前が変わる音だった。


「入れ」


 男が言った。


 ミーシャが先に入る。


 アレクセイが続く。


 直樹は扉の前で、一度だけ振り返った。


 港の向こうに学校は見えない。


 当然だった。


 それでも、見えない場所に白い校舎がある気がした。


 古い廊下。

 ホワイトボード。

 健二の字。

 子どもたちの寝息。

 青い靴紐。

 ただいま。

 おかえり。


 真柴直樹は、そこに置いてきた。


 置いてきただけだ。


 捨てたわけではない。


 直樹は扉をくぐった。


 福岡仁として。


     *


 倉庫の中は、寒かった。


 保冷区画が近い。


 金属棚には、箱が並んでいた。


 白羽の箱とは違った。


 白羽の箱は、綺麗すぎる。

 同じ大きさ。

 同じ印刷。

 同じ文言。

 同じ笑顔の子どもの絵。


 ここにある箱は、ばらばらだった。


 ロシア語のスタンプ。

 フランス語の保冷票。

 英語の警告文。

 古い油染み。

 貼り直された通過紙。

 角の潰れた段ボール。


 汚い。


 だが、誰が触ったかが残っている。


 アレクセイが言った。


「白羽の箱は、きれいすぎる」


 直樹は箱を見た。


「こっちは汚いな」


「汚い箱には、手の跡が残る」


 アレクセイは赤い手帳を開いた。


「きれいな箱ほど、中に名前を消す紙が入っている」


 ミーシャが棚の前で止まった。


「照合対象」


 棚の奥に、鉄製の書類箱があった。


 鍵はなかった。


 鍵がない代わりに、開けた者の名前を残す装置が付いている。


 ミーシャが言った。


「開封者名」


 直樹は分かっていた。


 ここでも、真柴直樹では開けられない。


「Jin FUKUOKA」


 装置が短く鳴った。


 記録される。


 福岡仁が開けたことになる。


 真柴直樹ではない。


 旧南第三ではない。


 健二ではない。


 ミーシャが箱を開けた。


 中には、名簿があった。


 生活移行実績。

 児童保護配分。

 旧名照合控え。

 移送保留。

 成果未確定。


 アレクセイの指が、一枚の紙を止めた。


 西田透。

 旧名確認あり。

 生活名、トオル。

 家族照会、姉、西田千鶴。

 照会中断。

 移行未了。

 成果保留。


 直樹は、その紙を見た。


 西田透の名前があった。


 西田千鶴の名前もあった。


 青い靴紐の意味が、紙の上でつながる。


 アレクセイが言った。


「白羽は消しきれなかった」


「金のためか」


「金のためだ」


 ミーシャが記録した。


「旧名照合控え、取得」


 直樹は言った。


「旧南第三へ送れるか」


「直接は不可」


「なぜ」


「取得者がジンです」


 ミーシャは淡々と答えた。


「旧南第三へ直送すると、福岡仁と旧南第三の接続が発生します」


 直樹は舌打ちしなかった。


 もう、そういう道だと分かっていた。


「なら、どうする」


 アレクセイが言った。


「港湾第三を通す」


「相原か」


「相原の紙ではなく、港の記録だ」


「違うのか」


「違う」


 アレクセイは紙を折りたたんだ。


「港は聞いたことを未確認にしない」


 直樹は、前に聞いた言葉を思い出した。


 港では未確認だ。


 その言葉を言った男の顔。


 青い靴紐を見た時の、西田透の目。


 直樹は紙から目を離した。


「送れ」


 ミーシャが言った。


「ジン」


「何だ」


「次の照合対象があります」


  ミーシャが、別の紙を差し出した。


 医療物資照会。

 旧南第三。

 児童用医療在庫、低下。

 栄養補助食品、未確保。

 葉物野菜、入荷停止。

 タンパク源、配分調整中。

 消毒液、残量少。

 滅菌資材、残量少。

 子ども用靴、サイズ不足。

 白羽生活支援系統、確認中。


 直樹は、その紙を見た。


 事故は、まだ起きていなかった。


 病名も、まだなかった。


 ただ、危険だけが紙の上に出ていた。


 食べるものが薄くなる。

 身体が冷える。

 傷が治りにくくなる。

 小さな怪我が、小さな怪我で済まなくなる。


 白羽は止めたとは書かない。


 ただ、届かない。


 アレクセイが言った。


「次は、箱だ」


 直樹は紙を握った。


「何の箱だ」


「白羽が触れない箱」


 港の冷たい空気の中で、アレクセイの声だけが低く残った。


「ここは国境に近い」

「だから、モスクワの箱が届く」

「だが、南へ行けば違う」

「九州に近づくほど、別の紙が強くなる」


 直樹は顔を上げた。


「今は」


「今はロシアだ」


 アレクセイは言った。


「きれいな支援ではない」

「正しい箱でもない」

「だが、今日必要なのは、白羽が触れない箱だ」


 ミーシャが手順書を閉じた。


「ジン、次工程へ移行します」


 直樹は、もう訂正しなかった。


 真柴直樹とは言わなかった。


 福岡仁は、冷たい倉庫の奥へ歩いた。


 名前を戻すために。


 自分の名前を、もう少し遠くへ置いたまま。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ