表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/48

第三十八話 青い靴紐

## 第三十八話 青い靴紐


 西田透は、古い靴を脱がなかった。


 港の地面は冷えていた。


 夜の湿気がアスファルトに残り、潮の匂いと軽油の匂いが混ざっている。


 白い小型トラックの後部ドアは開いたままだった。


 中には、新しい靴が入った袋が残っている。


 泥のついていない靴。


 どこにも行っていない靴。


 誰かが用意した、誰かのための靴。


 だが、西田透はそれを履かなかった。


 彼が履いている靴は、古かった。


 踵はすり減り、つま先の布は少し破れている。


 左の靴紐は黒。


 右の靴紐だけが青かった。


 その青は、港の灯りの下で少しだけ浮いて見えた。


 直樹は、その靴紐を見ていた。


 なぜ片方だけ青いのか。


 まだ分からない。


 だが、分からないものほど、消してはいけない。


 白羽は、意味が分からないものを「混乱」と呼ぶ。


 旧南第三は、意味が分からないものを「未確認」と書く。


 その差だけで、人は戻れることがある。


     *


 港湾組合の男は、無線を下ろさなかった。


 煙草をくわえているが、火はついていない。


 彼は、さっきから同じ言葉を繰り返していた。


「港では未確認だ」


 白羽の職員は、苛立ちを隠せなくなっていた。


「確認済みです。生活移行補助の正式車両です」


「港では未確認だ」


「書類はあります」


「港では未確認だ」


「何度言えば」


「何度でも言う」


 男は、火のついていない煙草を口から外した。


「港では未確認だ」


 その言い方は、ただの抵抗ではなかった。


 過去に一度、通してしまった人間の声だった。


 直樹は、それを聞き取った。


 この男は、最初から強かったわけではない。


 一度、通した。


 書類に問題がない車両を通した。


 そして、その車両に乗っていた子どもが、翌日には別の名前になった。


 だからこの男は、今、同じ言葉にしがみついている。


 港では未確認だ。


 それは手続きではなく、後悔の形だった。


     *


 アレクセイが動いたのは、黒い車両が港に入る少し前だった。


 冷凍倉庫の影に、黒い雨合羽の若者が一人立っていた。


 直樹は、最初から気づいていた。


 若者は、アレクセイの横にいたのではない。


 少し後ろ。


 ランタンの光が届くぎりぎり外側。


 そこに立っていた。


 顔は見えにくい。


 だが、立ち方で分かった。


 逃げる者ではない。


 見張る者でもない。


 必要な時だけ動く者だった。


 アレクセイが言った。


「ミーシャ」


 若者は返事をしなかった。


 ただ、手に持っていた薄い手順書を閉じた。


 その動きだけで、命令を受けたことが分かった。


「犬が来る」


 アレクセイは言った。


「噛ませるな」


 ミーシャは、ようやく短く答えた。


「処理します」


 直樹は、その言い方を聞いて眉を動かした。


 助ける、ではない。


 守る、でもない。


 処理する。


 それがミーシャの言葉だった。


     *


 黒い車両が、港の入口に止まった。


 白羽のロゴはない。


 青葉生活輸送の名前もない。


 ただ、車体の側面に小さな番号が貼られている。


 生活環境調整班。


 港湾組合の男の顔が変わった。


 ここから先は、南側の紙だけでは止まらない場所だった。


 港の奥。


 外国人保護区の外縁。


 暫定政府の職員も、港湾組合も、白羽も、外の組織も、誰も完全には支配していない場所。


 誰かが殴られても、すぐに警察が来るとは限らない。


 誰かが倒れても、最初に来るのは救急車ではなく、名前を確認する者だった。


 日本国籍の紙だけで人を守れない場所。


 日本国籍の紙だけで人を裁けない場所。


 そういう場所だった。


 最初に降りてきた男は、若かった。


 年齢は分かりにくい。


 二十代にも見える。


 十代の終わりにも見える。


 白い作業服。


 黒い手袋。


 胸に名札はない。


 後ろから降りた白羽側の職員が短く言った。


「三号」


 男の目が動いた。


 名前ではない。


 番号に反応した。


「対象」


 職員が西田透を指した。


「古い靴を回収。車両へ戻す」


 三号と呼ばれた男は頷いた。


 理解したのではない。


 動作を受け取った。


 古い靴を取る。


 新しい靴を履かせる。


 車に戻す。


 それだけだった。


     *


 犬塚央は、西田透の顔を見なかった。


 見ていたのは足だった。


 古い靴。


 右だけ青い靴紐。


 犬塚は、その靴へ向かって歩いた。


 その瞬間、ミーシャが動いた。


 説明はなかった。


 警告もなかった。


 犬塚に説明してはいけない。


 説明すれば、犬塚は考える。


 考える言葉を与えられていない犬塚は、考える代わりに動く。


 動けば、子どもに届く。


 だから、ミーシャは最初から会話を捨てていた。


 野犬に規約は読ませない。


 火のついた油に理由は聞かない。


 暴走する車両に停止命令書は見せない。


 止める。


 それだけだった。


 ミーシャは、犬塚の正面には立たなかった。


 立てば、ぶつかる。


 だから、犬塚と西田透の間に荷台を滑り込ませた。


「左を閉じて」


 港湾組合の男が反射的に荷台を押した。


 鉄の角が、犬塚の進路を切った。


 犬塚の足が止まる。


「どけ」


 ミーシャは答えなかった。


 犬塚を見なかった。


 見れば、相手になる。


 相手になれば、犬塚は噛む。


 犬塚が荷台を蹴った。


 金属音が港に響いた。


 西田透の肩が跳ねた。


 次の瞬間、犬塚は荷台を越えようとした。


 ミーシャはそこで初めて犬塚を見た。


 そして、短く言った。


「ここまで」


 犬塚は止まらなかった。


 ミーシャの肩を掴む。


 港の空気が、一瞬で変わった。


 ミーシャは抵抗しなかった。


 抵抗ではなく、遮断だった。


 掴まれた腕を捨てるように角度を変え、犬塚の勢いを荷台の側面へ流した。


 犬塚の身体が鉄にぶつかった。


 大きな音がした。


 犬塚は倒れなかった。


 痛みで止まるようには育てられていない。


 振り返った犬塚の顔から、さっきまでの子どものような迷いが消えていた。


 残ったのは、命令だけだった。


「邪魔だ」


 犬塚がミーシャへ向かって飛び込んだ。


 ミーシャは今度は避けなかった。


 受けた。


 受けて、犬塚の勢いを殺さず、港の濡れた地面へ落とした。


 犬塚の背中が鈍い音を立てた。


 白羽側の職員が叫んだ。


「三号!」


 犬塚はすぐに起き上がった。


 口の端が切れている。


 それでも、目は西田透の靴に戻っていた。


 古い靴。


 青い靴紐。


 犬塚にとって、それは命令の対象だった。


 ミーシャにとって、それは記録の対象だった。


 西田透にとって、それは帰り道だった。


     *


 直樹は動かなかった。


 動けば、終わる。


 外部軍事関係者による港湾暴力事案。

 児童移行妨害。

 白羽生活支援車両への不当介入。


 白羽が欲しがる言葉が、すぐそこに並んでいた。


 だから直樹は動かない。


 ただ見ていた。


 ミーシャは犬塚を人間として扱っていない。


 危険個体として処理している。


 それは有効だった。


 だが、冷たかった。


 白羽が人を番号で扱うのと、どこが違うのか。


 直樹は、そこに引っかかった。


 アレクセイが隣で言った。


「不快か」


「不快だ」


「あれは、犬の扱いだ」


「犬じゃない」


「知っている」


 アレクセイは赤い手帳を見た。


「だが、犬として育てられた人間は、まず噛む。噛まれる前に止める。それがミーシャの教育だ」


「教育か」


「そうだ」


「白羽と同じだな」


 アレクセイは否定しなかった。


「近い」


     *


 犬塚が三度目に動いた時、ミーシャの視線が青い靴紐に落ちた。


 右だけ青い。


 ほどけかけている。


 その瞬間、ミーシャの動きが止まった。


 ほんの一瞬。


 手順が途切れた。


 母の顔は覚えていない。


 声も、もう正しく思い出せない。


 だが、指だけは覚えている。


 靴紐を二度結びにする、冷たい指。


 ほどけたら、下を見なさい。


 下を見れば、自分の足がある。


 足があれば、まだ帰れる。


 ミーシャは瞬きをした。


 次の動作は、手順書になかった。


 それでも、一歩、西田透の前に出た。


 犬塚が殴りかかる。


 ミーシャは受けた。


 肩が揺れる。


 それでも退かなかった。


 犬塚の拳がもう一度来る前に、ミーシャは犬塚を横へ投げ飛ばした。


 犬塚は濡れた地面を転がり、すぐに起き上がろうとした。


 白羽側の職員が叫んだ。


「三号、戻れ!」


 犬塚の動きが止まった。


 名前では止まらない。


 番号で止まる。


 ミーシャは、その瞬間だけ犬塚ではなく職員を見た。


「命令者名を確認」


 職員は黙った。


 ミーシャはもう一度言った。


「現場命令者名」


 犬塚が苛立った声で言った。


「命令は来てる」


 ミーシャは犬塚を見ない。


「誰から」


 犬塚は答えた。


「黒崎」


 港が止まった。


 白羽側の職員の顔色が変わる。


 犬塚は、自分が何を言ったのか分かっていない。


 聞かれたから答えただけだった。


 ミーシャは手順書の余白に書いた。


 命令者名、黒崎。


 港湾組合の男も無線を握った。


「命令者名、黒崎。港湾第三、記録」


 白羽側の職員が叫ぶ。


「記録するな!」


 港湾組合の男は、火のついていない煙草を噛んだ。


「港では、聞こえたものは未確認にしない」


     *


 ミーシャは手順書を閉じた。


 小さな音だった。


 だが、その場にいた者には分かった。


 記録の段階が終わった。


 次の段階に移ったのだ。


 ミーシャは、犬塚ではなく、犬塚に命令していた職員を見た。


 白羽の名札はない。


 所属表示もない。


 だが、声で犬塚を動かしていた。


 ミーシャは短く言った。


「命令者を確認」


 職員が一歩下がった。


「何を」


 ミーシャは答えなかった。


 犬塚には説明しない。


 命令者にも説明しない。


 説明は、止めてからでいい。


 ミーシャが動いた。


 犬塚へではない。


 白羽側の職員へ。


 職員は反応できなかった。


 犬塚を前に出していた者は、自分が前に出されることに慣れていない。


 ミーシャは職員の襟を掴み、身体の向きを崩した。


 職員の足が港の濡れた地面を滑る。


 次の瞬間、背中から落ちた。


 肺の空気が抜ける音がした。


 犬塚が振り返る。


「おい」


 その声は、怒りではなかった。


 命令が途中で切れた時の、迷子の声だった。


 ミーシャは職員の腕を押さえた。


「現場命令者、制圧」


 職員がもがく。


「放せ。お前に権限は」


 ミーシャは聞いていない。


 職員の手が懐へ動いた。


 ミーシャの目が変わった。


 危険継続。


 制圧不完全。


 排除移行。


 直樹は、その変化を見た。


 まずい。


 ミーシャは止める気ではない。


 終わらせる気だ。


 直樹が一歩動きかけた。


 その前に、アレクセイの声がした。


「ミーシャ」


 大きな声ではなかった。


 だが、ミーシャの動きが止まった。


 アレクセイは、赤い手帳を開いたまま言った。


「記録は取れた」


 ミーシャの指が、職員の腕を押さえたまま止まる。


 数秒。


 港の音だけが聞こえた。


 波。


 遠くの発電機。


 犬塚の荒い息。


 西田透の震える呼吸。


 ミーシャは、ゆっくりと職員から手を離した。


「排除中断」


 白羽側の職員は咳き込みながら身を起こした。


 ミーシャは見ていない。


 もう対象ではなかった。


 記録は取れた。


 命令者は残った。


 それ以上壊せば、記録ではなく事件になる。


 アレクセイは、赤い手帳に一行を書いた。


 命令者、白羽側職員。

 犬塚央、命令反応。

 港湾第三、記録あり。

 排除、中断。


 直樹はアレクセイを見た。


「止めるなら、最初から止めろ」


 アレクセイは答えた。


「最初に止めれば、名前が残らない」


「殺すところだった」


「だから止めた」


 直樹は、ミーシャを見た。


 ミーシャは西田透の青い靴紐を見ていた。


 表情はなかった。


 だが、手順書を持つ指だけが、少し震えていた。


     *


 犬塚は、まだ地面に片膝をついていた。


 肩で息をしている。


 痛みよりも、混乱の方が大きかった。


 命令通り動いた。


 靴を取ろうとした。


 車に戻そうとした。


 なのに止められた。


 投げられた。


 命令を出していた人間まで倒された。


 そして、自分が答えた名前で、白羽側の職員が慌てている。


 犬塚には分からない。


 何が失敗だったのか。


 読めない。


 でも、分かる。


 自分はまた、失敗した。


 直樹はその顔を見た。


 そして、低く言った。


「犬塚」


 犬塚は反応しない。


 直樹は、もう一度言った。


「央」


 犬塚の目が、直樹へ向いた。


 ほんの一瞬、獣ではない顔になった。


 次の瞬間、怒りに変わる。


「呼ぶな」


 直樹は動かなかった。


「なら、自分で呼べ」


 犬塚は答えられなかった。


 自分の名前を、自分のものとして使う言葉を持っていなかった。


     *


 西田透は、古い靴のまま立っていた。


 青い靴紐が、ほどけかけている。


 ミーシャは、それを見た。


 手順なら、触らない。


 本人所持物。

 記録前。

 接触不可。


 だが、青い紐はほどけている。


 ほどけたら、下を見なさい。


 ミーシャは膝をついた。


 西田透は固まった。


 ミーシャは手を伸ばさない。


 まず、自分の手を見せた。


 次に、靴紐を指さした。


「結ぶ」


 西田透は答えない。


 ミーシャは待った。


 犬塚には待たなかった。


 西田透には待った。


 それを直樹は見ていた。


 ミーシャは冷たい。


 犬塚を人間として扱わなかった。


 だが、西田透には、待った。


 なぜか。


 青い靴紐だった。


 西田透は、小さく頷いた。


 ミーシャは、青い紐をちょう結びにした。


 その手は、手順書より少し遅かった。


 丁寧だった。


 西田透が、ほとんど聞こえない声で言った。


「……ちづる」


 ミーシャの指が止まった。


 直樹も、アレクセイも、港湾組合の男も、その声を聞いた。


 白羽側の職員だけが言った。


「混乱反応です」


 すぐに倉庫の影からアレクセイの声がした。


「記録しろ」


 ミーシャは靴紐を結び終えた。


 そして、手順書の余白に書いた。


 本人発語。

 「ちづる」。

 青い靴紐接触時。

 誘導なし。


 犬塚が、その紙を見た。


 読めない。


 だが、分かる。


 自分たちに不利なものだ。


 犬塚が手を伸ばした。


 直樹が言った。


「触るな」


 犬塚が直樹を見た。


 直樹は動いていない。


 ただ、声だけが低かった。


「その紙に触ったら、お前の名前も残る」


 犬塚は意味が分からない。


 だが、「名前」という言葉だけに反応した。


 央。


 さっき呼ばれた名前。


 犬塚は、歯を食いしばった。


「呼ぶな」


 直樹は言った。


「なら、誰の命令で動いたか考えろ」


 犬塚は答えられなかった。


 考える言葉を、与えられていなかった。


     *


 同じ頃、旧南第三では、倉持が古い箱を開けていた。


 紙の匂いがした。


 湿気を吸った名簿。


 破れかけた出席簿。


 旧南第三がまだ学校だった頃の記録。


 健二は、その横に立っていた。


 港湾組合から届いた写真は、一枚だった。


 泥のついた古い靴。


 右だけ青い靴紐。


 写真の下に短い文があった。


 港湾第三。

 本人発語あり。

 「西田」反応。

 「とおる」発語。

 「ちづる」発語。

 青い靴紐あり。

 旧南第三関連照会。


 直樹の名前はない。


 アレクセイの名前もない。


 ただ、港から来た記録だった。


 健二は言った。


「兄ちゃんからじゃない」


 倉持は頷いた。


「はい」


「でも、兄ちゃんの道だ」


 三枝は何も言わなかった。


 倉持は、古い在籍記録をめくった。


 西田。


 西田。


 西田千鶴。


 そこで、指が止まった。


 旧南第三在籍。

 避難時、弟を同伴。

 弟名、西田透。

 備考。


 倉持は、備考欄を見た。


 文字は薄い。


 だが、読める。


 避難時、弟の右靴紐を青に交換。本人識別に使用。

 本人、弟を「とおる」と呼称。

 弟、姉を「ちづる」と発語。


 健二は、その一行を見て動けなくなった。


 港で出た言葉。


 とおる。


 ちづる。


 青い靴紐。


 全部、ここにあった。


 旧南第三の古い紙の中に。


 倉持は、静かに言った。


「つながりました」


 健二は、ホワイトボードへ向かった。


 ペンを持つ。


 手が少し震えた。


 それでも書いた。


 外の道、到着。


 その下に、もう一行。


 西田透。

 名前確認、未完了。


 未完了。


 それは、終わっていないという意味だった。


 消えていないという意味だった。


     *


 港では、犬塚がまだ立っていた。


 白羽側の職員は、咳き込みながら撤収を命じた。


「三号、戻れ」


 犬塚は西田透を見た。


 古い靴。


 青い靴紐。


 ミーシャの手順書。


 港湾組合の無線。


 直樹の目。


 犬塚には、その意味が分からない。


 ただ、自分が回収に失敗したことだけは分かった。


 失敗。


 その言葉だけは、白羽で何度も教えられていた。


 失敗した者は、名前を外される。


 犬塚は、自分の胸元を見た。


 名札はない。


 最初から外されている。


 なら、自分は何を外されるのか。


 その疑問を考える言葉も、彼にはなかった。


 ミーシャは、犬塚を見ていなかった。


 西田透の靴紐を見ていた。


 直樹は、その横顔を見た。


「あいつを人間として見てないな」


 ミーシャは答えた。


「危険個体として処理しました」


「白羽と同じ言葉だ」


 ミーシャは黙った。


 アレクセイが、赤い手帳を閉じた。


「その通りだ」


 ミーシャが初めて、アレクセイを見た。


 アレクセイは言った。


「だが、今、一つだけ手順を外れた」


 ミーシャは答えた。


「規定外です」


「違う」


 アレクセイは、西田透の青い靴紐を見た。


「母親だ」


 ミーシャの顔は変わらなかった。


 だが、手順書を持つ指だけが、少し強く紙を押さえた。


     *


 白羽本部で、黒崎は港湾第三から漏れた短い通信記録を読んでいた。


 命令者名、黒崎。


 その一行で、部屋の空気が変わった。


 長谷部が言った。


「犬塚が」


「はい」


 黒崎は静かに答えた。


「犬塚さんは、聞かれたことに答えました」


「処分しますか」


「いいえ」


 黒崎は、紙を机に置いた。


「処分すれば、犬塚さんの名前が残ります」


 長谷部は黙った。


「では」


「犬塚央という名前を、今後は使わないでください」


 黒崎は赤いペンを取った。


 犬塚央の名前を丸で囲まず、線で引いた。


「三号で十分です」


 長谷部は、その赤い線を見ていた。


 黒崎は、もう一枚の紙を見た。


 西田透。

 青い靴紐。

 ちづる。

 旧南第三関連照会。


 黒崎は、そこで初めて少しだけ目を細めた。


「青い靴紐」


 彼は小さく呟いた。


「名前ではなく、物から戻りましたか」


 長谷部が聞いた。


「どうしますか」


 黒崎は答えた。


「物を消す時は、名前を消す時より慎重に」


 赤いペンの先が、紙の上で止まる。


「名前は書き換えられます」


 黒崎は言った。


「ですが、子どもは、靴紐の結び方を覚えていることがある」


     *


 夜の終わり、旧南第三のホワイトボードには三つの行が残った。


 内の道を止めない。

 外の道を勝手に呼ばない。

 外の道、到着。


 健二は、その前に立っていた。


 兄の名前はない。


 直樹からの連絡もない。


 それでも、道は来た。


 港から。


 古い靴から。


 青い靴紐から。


 西田千鶴という、まだ見つかっていない姉の名前から。


 健二は、ペンを持った。


 最後に一行だけ足した。


 西田透を、生活名で呼ばない。


 それを書いて、ようやく息を吐いた。


 旧南第三は、まだ何も取り戻していない。


 西田透本人は港にいる。


 直樹は外にいる。


 黒崎の部隊は動き始めた。


 アレクセイの赤い手帳も、安全ではない。


 それでも、名前は一つ、消えずに残った。


 青い靴紐が、道の端を結んでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ