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第三十七話 赤い手帳

## 第三十七話 赤い手帳


 港へ向かう道は、旧国道よりも暗かった。


 街灯はほとんど残っていない。


 残っている灯りは、誰かが守っている灯りだった。


 検問所。

 倉庫の入口。

 港湾組合の詰所。

 外国人保護区へ続く仮設ゲート。

 そして、燃料を扱う場所。


 直樹は、道の端を歩いていた。


 走らない。


 隠れすぎない。


 逃げているように見えれば、追う者が増える。


 堂々と歩きすぎれば、止める者が出る。


 この国では、歩き方にも名前がつく。


 避難。

 逃走。

 不審移動。

 任意同行対象。


 白羽は、歩く者にも名前をつける。


 直樹は、ポケットの中の赤い紙片に指を当てた。


 名前を消す者は、名簿で裁かれる。


 その下の小さな文字。


 A.


 アレクセイ。


 古い名前だった。


 忘れたことはない。


 ただ、思い出さないようにしていた。


     *


 港は、生きていた。


 町が死にかけても、港は死なない。


 米、燃料、薬、毛布、電池、鉄板、発電機、浄水器、靴、缶詰。


 人が暮らすために必要な物は、どこかから必ず流れてくる。


 そして、流れる物には、必ず値段がつく。


 正規価格。

 港価格。

 人道価格。

 夜価格。

 白羽価格。


 直樹は、港の手前で一度止まった。


 古いフェンスの向こうに、コンテナが並んでいる。


 赤。

 青。

 灰色。

 番号を消されたもの。

 上から別の番号を塗られたもの。


 遠くで、フォークリフトの音がした。


 夜でも荷は動く。


 昼に動かせない荷ほど、夜に動く。


 港湾組合の詰所の前には、二人の男が立っていた。


 一人は煙草を吸っている。


 もう一人は、古い無線を肩にかけていた。


 直樹を見る。


 止めるかどうか、迷う目だった。


 直樹は立ち止まらない。


 視線だけを合わせる。


 男たちは、止めなかった。


 知らない顔ではないからではない。


 止める理由が、まだ見つからなかったからだ。


 理由が見つかる前に通る。


 それも、道の歩き方だった。


     *


 外国人保護区は、港の奥にあった。


 立派な建物ではない。


 旧税関の一部と、倉庫を仕切っただけの場所だった。


 看板には、日本語と英語とフランス語が並んでいる。


 西日本暫定政府。

 外国人保護連絡所。

 Temporary Foreign Nationals Liaison Office.

 Bureau provisoire de liaison pour ressortissants étrangers.


 直樹は、フランス語の行を見た。


 読める。


 読めることを、人に見せない。


 それが癖になっていた。


 入口には、南側の職員が一人いた。


 疲れた顔の若い男だった。


「身分確認を」


 直樹は答えない。


 ポケットに手を入れかけて、やめた。


 ここで出せば、早い。


 通れる。


 だが、それはまだ使う紙ではない。


「港湾組合に用がある」


 若い職員は、直樹の顔を見た。


「外国人保護区ではありませんか」


「違う」


「では、こちらではありません」


「分かっている」


 直樹は、保護区の入口を通り過ぎた。


 背中に、若い職員の視線が残った。


 あの職員は覚える。


 覚えられる。


 それでも、まだ紙は出さない。


 その紙は、直樹を通す紙ではある。


 だが同時に、直樹をこの場所から切り離す紙でもある。


     *


 港の一番奥に、古い冷凍倉庫があった。


 今は冷えていない。


 電力が足りない。


 扉の前には、使われなくなったパレットが積まれている。


 その脇に、小さな明かりが見えた。


 ランタンだった。


 電気ではない。


 火の灯りでもない。


 古い充電式の灯りだった。


 その下に、老人が座っていた。


 細い身体。


 大きすぎる外套。


 白い髭。


 指の関節が太い。


 老人は、直樹を見る前に言った。


「遅い」


 日本語だった。


 少し硬い。


 だが、聞き取れる。


 直樹は立ち止まった。


「生きてたのか」


 老人は笑った。


「私も、そう思う」


「アレクセイ」


「アレクセイ・イリイチ・サボリン」


 老人は胸に手を当てた。


「昔の名前だ」


「今は」


「今も同じだ。誰かが消したが、私は覚えている」


 直樹は近づかなかった。


 距離を残した。


 アレクセイは、その距離を見て、少し満足そうに頷いた。


「まだ兵隊だな」


「違う」


「なら、何だ」


「兄だ」


 アレクセイは、そこで初めて直樹の顔をしっかり見た。


「それは、難しい仕事だ」


 直樹は答えなかった。


     *


 アレクセイは、足元に置いた古い革袋から、小さな手帳を出した。


 赤い手帳だった。


 新しい赤ではない。


 擦れて、黒ずんで、角が丸くなっている。


 表紙には、消えかけた文字があった。


 直樹には読めない。


 アレクセイはそれを開かず、手の上に置いた。


「お前は、まだ学校の中にいると思っていた」


「出された」


「追い出されたのか」


「距離を置かれた」


 アレクセイは鼻で笑った。


「官僚の言葉だ」


「そうだ」


「追い出す時ほど、柔らかい言葉を使う」


 直樹は、赤い手帳を見た。


「何を持っている」


「名前だ」


「誰の」


「消された者たちの」


 アレクセイは、手帳を開いた。


 ページには、びっしりと文字が書かれている。


 ロシア語。

 日本語。

 英語。

 番号。

 地名。

 日付。


 直樹は、近づいて見た。


 白羽地域物資管理株式会社。

 白羽生活支援センター。

 青葉生活輸送。

 南浜燃料商会。

 全国児童救済連絡会。

 地域連携部。

 生活移行補助。

 処置室二。


 そこに、見たことのある言葉が混じっていた。


 アレクセイは言った。


「お前たちの学校だけではない」


「どこまである」


「港まで」


「港の先は」


「船だ」


「船の先は」


「名簿が変わる」


 直樹は、手帳から目を離さなかった。


「子どもか」


「子どもだけではない」


 アレクセイはページをめくる。


 白羽の社員名。

 外部協力者名。

 処置室二に関わった職員。

 所在確認中。

 任意離脱。

 自己都合退職。

 外部協力者A。


 直樹の目が止まった。


「久住」


 アレクセイは頷いた。


「もう消された」


「早いな」


「失敗者に名前を残す組織ではない」


 直樹は、旧南第三のホワイトボードを思い出した。


 力を使った者。

 力を使わせた者。

 力で連れて行こうとした者。

 力で止めた者。


 旧南第三は、名前を残そうとする。


 白羽は、名前を消す。


 アレクセイは、赤い手帳を閉じた。


「だから、私が持つ」


     *


 直樹は、アレクセイの手元を見た。


「お前は、白羽の敵か」


 アレクセイは少し考えた。


「敵ではない」


「味方でもない」


「もちろん」


「なら、何だ」


 アレクセイは、ゆっくり顔を上げた。


「私は、名簿係だ」


 直樹は黙った。


「昔、私は党員だった」


「知ってる」


「党は嫌いか」


「好きではない」


「私もだ」


 アレクセイは笑った。


 その笑いは、楽しそうではなかった。


「だが、党には一つだけ良いところがあった」


「何だ」


「責任を持つ時、自分の名前を書く」


 直樹は答えなかった。


「もちろん、嘘も書いた。人も消した。送った。戻らなかった者もいる」


 アレクセイは、手帳を叩いた。


「だから分かる」


「何が」


「白羽は、党ですらない」


 アレクセイの声が少し低くなった。


「あれは革命ではない。福祉でもない。国家でもない。企業が収容所の技術を買っただけだ」


 直樹は、港のコンテナを見た。


「買った」


「そうだ。記録の消し方。名前の替え方。家族の切り方。移送の言葉。生活安定という言葉。全部、技術だ」


「誰から買った」


「それを探している」


 アレクセイは、また手帳を開いた。


「白羽の倉庫に、外部データの照会番号があった」


「データ」


「生活名の照合。児童の移行先。親族不適合評価。過去名刺激記録」


 直樹の目が細くなる。


「処置室二と同じか」


「同じ型が、他にもある」


 港の風が、冷凍倉庫の扉を鳴らした。


 直樹は、しばらく黙っていた。


「何が欲しい」


 アレクセイは笑った。


「お前は変わらない」


「何が欲しい」


「白羽が動かした子どもの名簿」


「俺に取れと」


「違う」


 アレクセイは首を横に振った。


「お前が持つと、軍事案件になる。私が持つと、古い左翼の妄想になる。学校が持つと、児童支援の記録になる」


 直樹は、そこで顔を上げた。


「旧南第三に渡せと?」


「まだ早い」


「なぜ」


「学校は今、弱い」


 直樹の目が変わった。


 アレクセイは怯えなかった。


「お前がいない。白羽はそこを突く。今、重い名簿を渡せば、学校は潰れる」


「なら、なぜ呼んだ」


「お前に外の道を見せるためだ」


 アレクセイは、港の奥を指さした。


「白羽は、学校から子どもを連れ出すだけではない。外で名前を替える。港で番号を替える。船で記録を替える。戻ってきた時には、別人だ」


「戻ってくるのか」


「戻ってこない者もいる」


 直樹は、赤い手帳を見た。


「晴斗だけじゃない」


「晴斗だけなら、白羽はここまでしない」


     *


 同じ頃、旧南第三では朝の手順確認が始まっていた。


 直樹はいない。


 その不在を、誰も口にしなかった。


 口にしなければ消えるわけではない。


 だが、口にすれば頼ってしまう。


 健二はホワイトボードの前に立っていた。


 倉持が項目を読む。


「逃げ道」


「確認」


「入口」


「玄関一つ。裏口は退避用」


「子どもの人数」


「朝、昼、夕で確認」


「前に出ない人」


「三枝さん。子ども側に残る」


 三枝が頷いた。


「国境第三駐屯地連絡線」


「相原さんへ一本化」


「真柴直樹の名前を、旧南第三の力として使わない」


 そこで、少しだけ沈黙があった。


 蓮が手を上げた。


「直樹さん、もう来ないの?」


 健二はすぐに答えられなかった。


 三枝も答えなかった。


 倉持もペンを止めた。


 美月が蓮の袖を引いた。


「聞いちゃだめ」


「なんで」


 健二は、ようやく口を開いた。


「来ないんじゃない」


 自分で言って、違うと思った。


 言い直す。


「今は、入れない」


「なんで」


「ここを止めさせないため」


 蓮は分からない顔をした。


 それでよかった。


 子どもが全部分かる必要はない。


 だが、嘘はつけない。


 健二は言った。


「兄さんは、外の道を見に行った」


「外の道?」


「うん」


「帰ってくる?」


 健二は、窓の外を見た。


 橋の灯りは、昼には見えない。


 でも、そこにある。


「道がつながれば」


 蓮は少し考えた。


「じゃあ、こっちは内の道?」


 健二は蓮を見た。


 そして、頷いた。


「そう」


 倉持が、小さくホワイトボードに書き足した。


 内の道。


     *


 相原は、国境第三駐屯地で赤い紙片の翻訳を待っていた。


 翻訳できる者は少ない。


 ロシア語そのものは分かる者がいた。


 だが、この紙片の言葉は、ただの文章ではない。


 誰かの合図だった。


 南雲から通信が入った。


「現場の保全状況は」


「完了しています」


「死者は」


「確認中です」


「真柴直樹は」


「所在不明」


「追跡は」


「していません」


 通信の向こうで、短い沈黙があった。


「判断理由は」


「追跡すれば、国境第三駐屯地が真柴直樹を狩っている形になります」


「白羽は喜ぶでしょうね」


「はい」


「旧南第三には」


「未通知です」


「それでいい」


 相原は少しだけ目を伏せた。


「健二さんには、後で怒られます」


「怒られなさい」


 南雲は淡々と言った。


「今は、怒られる方がまだましです」


 相原は、赤い紙片を見た。


「この紙片ですが」


「翻訳は」


「名前を消す者は、名簿で裁かれる」


「古いですね」


「誰の言葉ですか」


「旧ソ連系の人間が使いそうな言い方です」


「旧ソ連」


「断定はしません」


 南雲の声が少し低くなった。


「ただし、真柴直樹の国外渡航歴に、ロシア語圏との接点がある可能性はあります」


「国外渡航歴、ですか」


「はい」


「ただの渡航ではない、ということですか」


「まだ分かりません」


 南雲の声がさらに低くなった。


「だから、今は名前をつけないでください」


 相原は黙った。


「名前をつければ、案件が変わります」


「もう変わっているのでは」


「はい」


 南雲は言った。


「だからこそ、まだ名前をつけません」


     *


 港の冷凍倉庫で、アレクセイは古い茶を淹れた。


 茶葉ではない。


 乾いた草のような匂いがした。


 直樹は受け取らなかった。


 アレクセイは気にせず、自分で飲んだ。


「相変わらず疑う」


「疑わないと死ぬ」


「それは兵隊の考えだ」


「兄でも同じだ」


 アレクセイは、少しだけ黙った。


「弟は」


「学校にいる」


「良いことだ」


「良いかどうかは分からない」


「お前のそばにいるより良い」


 直樹は、アレクセイを見た。


 アレクセイは平然としている。


「怒るな。事実だ」


「分かっている」


「お前の近くにいる人間は、お前の力を使いたくなる」


 直樹は答えなかった。


「お前は、それを嫌う。だが、嫌っても使われる。強い人間の名前は、勝手に道具になる」


「だから外に出た」


「出された、だろう」


「同じだ」


「違う」


 アレクセイは手帳を閉じた。


「追放は、相手が道を選ぶ。出発は、自分が道を選ぶ」


 直樹は、しばらく黙った。


「俺は追放された」


「そうだ」


「でも、ここに来た」


「なら、ここからは出発だ」


 アレクセイは立ち上がった。


 腰は曲がっているが、目だけは鋭い。


「見せるものがある」


 冷凍倉庫の奥へ向かう。


 直樹は、少し遅れてついていった。


     *


 倉庫の奥には、古いコンテナが一つ置かれていた。


 扉の鍵は壊されていない。


 何度も開け閉めされた跡がある。


 アレクセイが、錆びた鍵を差し込んだ。


 中には、荷物は少なかった。


 段ボール。

 古いファイル。

 布で包まれた紙束。

 そして、小さな靴がいくつか。


 直樹の目が止まった。


「子どものか」


「そうだ」


「なぜここにある」


「船に乗る前に、替える」


「何を」


「名前。服。靴。行き先」


 直樹は、コンテナの中へ入った。


 靴は新しくない。


 使われた靴だった。


 泥のつき方が違う。


 サイズも違う。


 男児用、女児用、大人の靴も混じっている。


 アレクセイは、紙束を開いた。


 生活移行補助物品管理表。

 児童用衣類。

 靴。

 識別札。

 予備名札。

 生活名カード。


 直樹は、紙を見た。


「白羽」


「表にはない」


「でも白羽の言葉だ」


「そうだ」


 アレクセイは、別の紙を出した。


 そこには、名前が二つずつ並んでいた。


 過去名。

 生活名。


 その横に、移行先番号。


 さらに横に、港湾通過記号。


 直樹は、紙を奪うように取った。


 晴斗の名前を探す。


 ない。


 ないことに安堵しそうになって、すぐにやめた。


 晴斗がないから安全なのではない。


 ここにある誰かが、晴斗になりかけていた。


 アレクセイは言った。


「この紙は、まだ旧南第三に渡せない」


「なぜ」


「渡せば、白羽は学校を潰す」


「ならどうする」


「一人、戻す」


「誰を」


 アレクセイは、赤い手帳を開いた。


 ページの端を指で押さえる。


 そこに、小さな名前があった。


 西田透。

 生活名、トオル。

 港湾通過予定、未了。

 親族照会、未回答。

 旧南第三関連可能性あり。


 直樹は眉を動かした。


「旧南第三関連?」


「昔、その学校に通っていた姉がいる」


「今は」


「不明」


「なぜ俺に」


「その子は、まだ港にいる」


 直樹は紙を見た。


「いつ動く」


「今夜」


 港の外で、フォークリフトの音がした。


 遠くで、金属扉が閉まる音。


 アレクセイは、静かに言った。


「学校の外に出されたなら、まず外の一人を戻せ」


 直樹は、紙から目を離さなかった。


「戻す場所は」


「まだない」


「親族は」


「不明」


「旧南第三は」


「今は使えない」


「なら、どこへ戻す」


 アレクセイは、直樹を見た。


「名前へ」


 直樹は黙った。


「家がなくても、名前は先に戻せる」


 それは、旧南第三がずっとやってきたことだった。


 だが、ここは学校ではない。


 港だ。


 冷えない冷凍倉庫。


 番号を塗り替えられたコンテナ。


 船に乗る前に靴を替えられる場所。


 直樹は、紙を折らずに持った。


「その子はどこにいる」


 アレクセイは、倉庫の外を見た。


「白羽のものではないことにされた車両の中だ」


     *


 旧南第三では、夕方の人数確認が終わった。


 全員いる。


 晴斗は川島宅。


 川島からの短い連絡が入った。


 朝食摂取。

 昼寝あり。

 呼称、晴斗。

 拒否なし。

 夕方、魚の絵を見る。


 倉持が記録した。


 健二は、それを見て少しだけ息を吐いた。


 戻っているものもある。


 止まっていないものもある。


 直樹がいなくても、旧南第三は動いている。


 だが、健二は窓の外を見た。


 旧国道の方は見えない。


 港も見えない。


 兄の道は、もう見えない。


 それでも、健二はホワイトボードに一行足した。


 内の道を止めない。


 書いてから、少し考えた。


 その下に、もう一行足した。


 外の道を勝手に呼ばない。


 倉持がそれを見て言った。


「呼ばない、ですか」


「はい」


「待つ、ではなく?」


 健二は首を横に振った。


「待つと、兄ちゃんに戻ってきてほしくなる」


 三枝が静かに聞いていた。


「呼ばない。でも、消さない」


 倉持は頷き、下に書いた。


 呼ばない。

 消さない。


     *


 夜になった。


 港の車両出入口に、白い小型トラックが止まっていた。


 白羽のロゴはない。


 青葉生活輸送の名前もない。


 ただ、側面に小さく番号だけが貼られている。


 生活移行補助車両。

 第三経路。

 港湾通過、未了。


 直樹は、倉庫の影からその車両を見ていた。


 アレクセイは隣にいない。


 少し離れた場所にいる。


 その方がいい。


 老人と並んでいれば、二人とも一つの勢力になる。


 別々にいれば、それぞれ別の通行人でいられる。


 車両の後部ドアの近くに、若い職員が立っていた。


 白羽ではない顔をしている。


 だが、白羽の手順で動いている。


 直樹は、車両の下を見た。


 タイヤ。

 泥。

 走ってきた道。


 泥は内陸のものではない。


 港の中を何度も走った車の泥だった。


 まだ遠くへは出ていない。


 間に合う。


 直樹が動こうとした時、アレクセイの声が小さく聞こえた。


「殺すな」


 直樹は振り返らない。


「分かってる」


「奪うな」


「分かってる」


「戻せ」


 直樹は、ポケットの中の赤い紙片を握った。


 名前を消す者は、名簿で裁かれる。


 だが、今ここにいる子どもに必要なのは、裁きではない。


 戻ることだった。


 直樹は、闇の中から一歩出た。


     *


 その頃、白羽本部では、黒崎が新しい報告書を読んでいた。


 久住の名前はもうない。


 接触班の名前も薄くなっている。


 だが、別の異常が出ていた。


 港湾第三経路、通過遅延。

 生活移行補助車両、確認待機。

 外部照会端末、一時通信不能。

 西田透、移行未了。


 黒崎は、最後の名前で止まった。


 西田透。


 生活名ではない。


 過去名が出ている。


 誰かが、港で名前を戻している。


 黒崎は静かに紙を置いた。


「長谷部さん」


「はい」


「港です」


「真柴直樹ですか」


 黒崎は答えなかった。


 窓のない部屋の中で、白い蛍光灯だけが鳴っていた。


 黒崎は言った。


「学校の外に出した男が、最初に向かう場所としては正しい」


「どうしますか」


「すぐには動かないでください」


「しかし」


「久住さんは、外に出した相手に接触して失敗しました」


 長谷部は黙った。


 黒崎は、港湾第三経路の紙を見ていた。


「今ここで慌てて港に手を出せば、同じことになります」


「では」


「向こうが何を戻そうとしているのかを見ます」


 黒崎は、赤いペンを取った。


 西田透の名前を丸で囲む。


 その横に、小さく書いた。


 餌ではなく、鏡。


     *


 港の白い車両の後部ドアが開いた。


 中に、子どもが一人座っていた。


 十二歳くらい。


 痩せている。


 膝の上に、袋を抱えている。


 袋の中には、新しい靴が入っていた。


 職員が言った。


「降りて」


 子どもは動かない。


「トオル」


 その呼び方に、子どもの肩が少し動いた。


 直樹は、少し離れた場所で止まった。


 近づきすぎない。


 名前を奪い合う場所では、近づきすぎる者が一番危ない。


 職員がもう一度言う。


「トオル、降りて」


 直樹は、低く言った。


「西田」


 職員が振り返った。


 子どもも、顔を上げた。


 直樹は続けない。


 西田透とは言わない。


 透とも呼ばない。


 ただ、名字だけを置いた。


 子どもは、ゆっくり瞬きをした。


 袋を抱える手に、力が入った。


 職員が言った。


「関係者以外は下がってください」


 直樹は答えた。


「この子の関係者は、誰だ」


「生活移行中です」


「誰の判断で」


「記録上、親族照会未回答です」


「未回答は、いないという意味じゃない」


 職員の顔が少し変わった。


 白羽の言葉を知っている顔だった。


「あなたは誰ですか」


 直樹は答えなかった。


 代わりに、子どもを見た。


「その靴は、履きたい靴か」


 子どもは、袋を見た。


 新しい靴。


 泥のついていない靴。


 どこにも行っていない靴。


 子どもは、小さく首を横に振った。


 職員が遮る。


「誘導しないでください」


 直樹は、職員を見た。


「質問だ」


「心理的圧力です」


「名前を替える方が圧力だ」


 職員は無線に手を伸ばした。


 直樹は動かなかった。


 その時、港の別方向から声がした。


「その車両、港湾通過止めだ」


 港湾組合の男だった。


 煙草を吸っていた男。


 後ろには、もう一人いる。


 無線を肩にかけた男。


 職員が振り返る。


「こちらは生活移行補助の」


「通過番号が違う」


「確認済みです」


「港では未確認だ」


 港湾組合の男は、紙を出した。


「第三経路は今夜止めてる。燃料照会が合ってない」


 直樹は、その紙を見た。


 アレクセイが動いたのではない。


 港もまた、自分の理由で止めている。


 道は一つではなかった。


 子どもが、車両の中から足を下ろした。


 まだ地面にはつけない。


 職員が言う。


「戻って」


 子どもは戻らない。


 直樹は、もう一度だけ言った。


「西田」


 子どもの唇が動いた。


 声はほとんど聞こえない。


 だが、直樹には聞こえた。


「……とおる」


 職員の顔色が変わる。


 港湾組合の男が、無線を握った。


「発語あり」


 誰に向けた無線かは分からない。


 だが、記録する者がいた。


 直樹は、その場から一歩下がった。


 近づかない。


 連れて行かない。


 ただ、名前が戻る場所から離れない。


 子どもは、袋から新しい靴を出した。


 そして、それを履かなかった。


 裸足ではない。


 古い靴を履いている。


 泥のついた靴。


 どこかから来た靴。


 誰かの生活を踏んできた靴。


 子どもは、その古い靴のまま、車両から降りた。


     *


 アレクセイは、倉庫の影で赤い手帳を開いた。


 西田透。


 横に、小さく線を引く。


 生活名、トオル。


 その横に、さらに一行足す。


 本人発語。

 港。

 誘導不明。

 車両外へ自発。


 アレクセイは少し笑った。


「学校の外でも、学校はできる」


 直樹は、その言葉を聞いていた。


「学校じゃない」


「では何だ」


 直樹は、港の車両を見た。


 港湾組合の男。

 白羽の職員。

 古い靴の子ども。

 赤い手帳。

 止まった第三経路。


「道だ」


 アレクセイは頷いた。


「なら、次は道をつなげ」


「どこへ」


 老人は、遠くの暗い海を見た。


「中の学校へ」


 直樹は何も言わなかった。


 旧南第三には入れない。


 健二を呼べない。


 無線も使えない。


 だが、道は一本ではない。


 港から学校へ。


 学校から家へ。


 家から名前へ。


 名前から、まだ知らない誰かへ。


 直樹は、暗い海を見た。


 遠くで船の汽笛が鳴った。


 その音は、帰る音にも、連れて行かれる音にも聞こえた。

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