第三十三話 帰っていない者たち
## 第三十三話 帰っていない者たち
翌朝、橋の灯りはまだ消えていた。
夜のあいだ、誰かが落ちたわけではない。
川島の家も、旧南第三も、旧駅裏の高架下も、なんとか朝を越えた。
だが、越えただけだった。
教室には、冷えた空気が残っている。
窓の結露は、昨日より厚い。
毛布を掛けた子どもたちは、いつもより口数が少なかった。
倉持はホワイトボードの前に立っていた。
昨日貼った燃料の地図。
黄色い丸。
黒い斜線。
届いている場所。
届いていない場所。
地図の横に、新しい紙が貼られている。
燃料を待っている人。
旧駅裏高架下、二十三名。
川島宅、一名。帰宅対象児一名予定。
旧南第三、児童十六名、職員四名。
橋通行者、夕方以降不明。
南岸復旧組合、重機二台停止予定。
炊き出し継続不可。
陸がその紙を見ていた。
「人を数えると、増えますね」
倉持は頷いた。
「物より増えます」
健二は、ストーブの消えた教室を見た。
灯油は残っている。
だが、残っているから使えるとは限らない。
今日使えば、夜が足りない。
夜を優先すれば、朝が冷える。
燃料が少なくなると、時間にも値段がつく。
*
国境第三駐屯地は、古い中学校の校舎を使っていた。
校門は残っている。
だが、校名板は外されていた。
代わりに、仮設の看板が立っている。
西日本暫定政府
国境第三駐屯地
校庭には、境界管理用の車両が並んでいた。
体育館の入口には、毛布と簡易寝台が積まれている。
元職員室には無線機が置かれ、壁には地図が貼られていた。
旧南第三。
川島宅。
旧駅裏高架下。
南浜漁港。
南岸復旧組合の資材置き場。
白羽生活支援センター。
ここが、相原一尉のいる場所だった。
旧南第三ではない。
相原は必要な時には旧南第三へ行く。
処置室二を確認する時も、白羽側と向き合う時も、子どもの保護手続きを立ち会う時も、現場へ出る。
だが、指揮を置く場所はここだった。
境界を越えて来る人間を受け、名前を確認し、どちらの紙にも消されないようにする場所。
その一角で、相原は南浜燃料商会からの二枚目の回答書を読んでいた。
相原は無線機を取った。
「旧南第三、応答願います」
少し雑音が入ったあと、三枝の声が返った。
「旧南第三、三枝です」
「南浜燃料商会から回答が来ました。記録できますか」
「倉持がいます」
別の声が入った。
「倉持です。記録します」
相原は紙を読み上げた。
「旧南第三周辺への燃料供給については、広域的な燃料需給逼迫、価格変動、および支援環境再評価中の事情を踏まえ、供給時期未定」
無線の向こうで、誰かが小さく息を吐いた。
相原は続けた。
「なお、燃料全般については現在、安定供給が困難な状況にあり、軽油、灯油、ガス等の個別用途についても一括して優先順位に基づき配分する」
倉持の声が返る。
「燃料全般。一括して配分。記録しました」
相原は、壁の地図にある南浜漁港を見た。
「旧南第三側でも、燃料地図を更新してください」
三枝が答えた。
「了解しました」
その時、無線の向こうで健二の声がした。
「一括って、どういうことですか」
相原は少し黙った。
「南浜側は、用途を分けずに扱うという意味です」
健二は答えなかった。
相原は続けた。
「真柴直樹への確認は、必要最小限にしてください。彼の名前をこの件の前面に出さないでください」
健二の声が、少し遅れて返った。
「分かってます」
相原は無線を置いた。
*
旧南第三では、倉持がホワイトボードに書いていた。
燃料全般。
一括して配分。
その字を見て、健二は無線機を握った。
約束では、直樹との無線は最小限だった。
直樹は旧南第三に入らない。
通達以降、距離を取っている。
だが、これは聞かなければいけないと思った。
健二は廊下の端へ行った。
二回だけ鳴らす。
短い沈黙のあと、直樹の声が返った。
「何だ」
「南浜から回答が来た」
「読め」
健二は紙を見ながら言った。
「燃料全般については現在、安定供給が困難。軽油、灯油、ガス等の個別用途についても一括して優先順位に基づき配分する、だって」
無線の向こうが、少しだけ静かになった。
それから、直樹が言った。
「燃料は一つじゃない」
「え?」
「名前だけで見るな。何に入れる燃料かを見ろ」
健二は黙った。
直樹の声は低かった。
「橋の仮設灯を動かしている発電機は軽油だ。川島の家に置ける小型発電機は、レギュラーで動くかもしれない。炊き出しはガスボンベだ。教室の暖房は灯油だ。南岸復旧組合の重機は軽油だ。工具やポンプには、混合燃料が要る場合もある」
「全部、燃料じゃないの?」
「燃料だ。だが、代わりにはならない」
直樹は言った。
「灯油をガスコンロには入れられない。ガスボンベで重機は動かない。軽油の発電機にレギュラーを入れれば壊れる。レギュラーで動く小型発電機に軽油を入れても動かない」
健二は、ホワイトボードの地図を見た。
橋。
旧駅裏。
旧南第三。
川島宅。
南岸復旧組合。
同じ黒い斜線でも、止まっている理由は同じではなかった。
「じゃあ、燃料不足って言われたら」
「不足という言葉を疑え」
直樹は言った。
「本当に足りないのか。違う燃料を一緒にしているのか。必要な容器が違うのか。配送先を選んでいるのか。用途名で止めているのか。そこを分けろ」
「種類だけじゃなくて」
「そうだ」
無線の向こうで、直樹が短く息を吐いた。
「燃料を一袋にするな。どの機械に、何を、何のために入れるのか。そこまで分けろ」
健二は、ようやく分かった。
南浜の回答は、燃料を一つの箱に入れていた。
燃料全般。
一括して配分。
優先順位。
だが、現場では違う。
橋の発電機。
炊き出しのガス台。
教室のストーブ。
川島の家の小型発電機。
重機。
工具。
それぞれ、必要なものが違う。
止まる場所も違う。
困る人も違う。
「兄ちゃん、それどこで覚えたの」
聞いてから、健二は少し後悔した。
無線の向こうで、短い間があった。
「現場だ」
「どこの」
直樹は答えなかった。
代わりに、別のことを言った。
「旧南第三宛にするな」
「何を」
「請求だ」
「じゃあ、どこ宛てにする」
「橋だ」
健二は息を止めた。
「橋?」
「通学路灯火維持。炊き出し継続。夜間保温。川島宅復旧発電。証言者保全拠点維持」
健二は、言葉を追いきれなかった。
倉持が廊下に来て、ペンを構えた。
直樹は続けた。
「施設名で止められたなら、用途名に戻せ」
倉持が書く。
通学路灯火維持。
炊き出し継続。
夜間保温。
川島宅復旧発電。
証言者保全拠点維持。
「兄ちゃん」
「何だ」
「それ、誰が通すの」
「俺じゃない」
直樹はすぐに言った。
「俺が言えば、元自衛官の介入になる。相原に戻せ」
健二は、国境第三駐屯地へつながる無線を見た。
*
国境第三駐屯地で、相原は健二からの報告を受けた。
無線越しに、倉持が書き取った用途名を復唱する。
通学路灯火維持。
炊き出し継続。
夜間保温。
川島宅復旧発電。
証言者保全拠点維持。
相原は、その言葉を指揮卓の紙に書いた。
南浜燃料商会の回答書の横に並べる。
燃料全般。
一括して配分。
その下に、現場の言葉を書く。
橋。
鍋。
暖房。
家。
証言者。
相原は無線に向かって言った。
「旧南第三、用途名として受けます」
三枝の声が返る。
「お願いします」
健二が聞いた。
「それで通りますか」
「すぐには通りません」
相原は答えた。
「ですが、南浜側は次から、何を止めているのかを書かなければいけなくなります」
倉持が復唱した。
「何を止めているのかを書かせる」
「はい」
相原は続けた。
「こちらで上に上げます。真柴直樹の名前は出しません」
少し間があった。
健二の声が返る。
「分かりました」
相原は無線を切り、南側境界調整局へ連絡を入れた。
直接、政治家に電話をするわけではない。
記録を飛ばすわけでもない。
まず、上に上げる。
相原の上司である南雲統括官は、画面越しでも疲れて見えた。
机の上には、何枚もの報告書が積まれている。
白羽生活支援センター。
処置室二。
旧南第三支援環境再評価。
燃料供給保留。
真柴直樹人物照合。
南雲は、相原の報告を最後まで聞いた。
「白羽案件か」
相原は答えた。
「港案件です」
「白羽は関係ないのか」
「白羽地域物資管理株式会社の指定輸送には燃料が流れています」
南雲は、眉を動かした。
「では、白羽案件でもある」
「ただし、表に出ているのは南浜燃料商会と浦戸仲買組合です」
「政治案件にするな」
南雲の声は低かった。
相原はすぐに答えた。
「政治案件ではありません。用途照会です」
「用途照会」
「旧南第三宛の燃料は保留されています。しかし止まっているのは、施設の燃料ではありません」
相原は紙を見た。
「通学路灯火維持。炊き出し継続。夜間保温。川島宅復旧発電。証言者保全拠点維持」
南雲は黙った。
相原は続けた。
「南浜側は燃料全般という言葉で一括保留しています。しかし、実際には機械も用途も違います」
「機械」
「橋の仮設灯を動かす発電機。炊き出しのガス台。教室の灯油ストーブ。川島宅に置く小型発電機。南岸復旧組合の重機。それぞれ必要な燃料も、容器も、止まった時の影響も違います」
南雲は相原を見た。
「誰の整理だ」
相原は一瞬だけ止まった。
直樹の名前を出せば、向こうの紙に乗る。
元自衛官による影響可能性。
その言葉は、まだ消えていない。
「現場記録です」
相原は言った。
「旧南第三および国境第三駐屯地の現場記録として整理しています」
南雲はそれ以上聞かなかった。
「分かった。用途照会として受ける」
「お願いします」
「ただし、港に直接圧力はかけない」
「承知しています」
「燃料商会を潰す話にするな」
「目的は供給の回復です」
南雲は、机の上にある別の紙を引き寄せた。
真柴直樹人物照合。
そこにある情報は薄い。
顔写真。
最終所属、中央即応連隊。
最終階級、三曹。
退職処理済。
国外滞在歴、五年。
詳細軍歴、通常照会不可。
それだけだった。
南雲は、画面の端にその資料を置いたまま、別の回線を開いた。
*
佐伯正臣議員は、移動中だった。
車の中ではない。
古い庁舎の仮眠室に近い部屋で、片方の袖をまくり、紙の束を膝に置いていた。
元自衛官。
今は南側暫定議会の人道支援・安全保障委員。
声は大きくない。
だが、言葉の順番が現場のものだった。
南雲が燃料用途の話を説明すると、佐伯はすぐに言った。
「施設名で止められているなら、用途名に戻せ」
南雲はメモを取る。
「通学路灯火、炊き出し、夜間保温、復旧発電、証言者保全拠点」
「その五つでいい」
「人道支援燃料として扱えますか」
「扱えるかどうかではない。扱う理由を作れ」
佐伯は紙をめくった。
「燃料は施設のためにあるんじゃない。目的のためにある。子どもを冷やさない。道を暗くしない。飯を止めない。証言者を散らさない。そこまで書け」
南雲は頷いた。
「南浜側は、燃料全般の需給逼迫と言っています」
「一括りにするな」
佐伯の声が少し硬くなった。
「燃料は同じ言葉で呼べる。だが、現場では同じものじゃない。発電機に入れるもの、ストーブに入れるもの、ガス台につなぐもの、車両を動かすもの。間違えれば動かない。壊れる。事故になる」
南雲は、相原の報告と同じものを聞いた気がした。
燃料を一つにするな。
その時、佐伯の声がふと止まった。
「南雲」
「はい」
「その画面の端の男は誰だ」
南雲は、一瞬遅れて資料を見た。
「真柴直樹です」
「旧南第三の件の」
「はい。元陸上自衛官。現在、児童保護案件への影響可能性として北側から照会されています」
佐伯は黙った。
顔写真を見ている。
「中即か」
「端末では、最終所属がそこまでしか出ません」
「いや」
佐伯は少しだけ身を乗り出した。
「その前だ」
南雲は資料を見直した。
「詳細軍歴は通常照会では出ません。退職後、五年間国外滞在。紙媒体照会が必要です」
「そうだろうな」
佐伯は、遠いものを見るような目をした。
「確証はない」
先にそう言った。
「記録にするなよ」
「はい」
「名前も覚えていない。部隊名も、細かくは違うかもしれん。ただ、四師団からイラクに来た若い隊員の中に、似た顔がいた」
南雲は黙って聞いた。
「第四師団ですか」
「四師団から来た、としか覚えていない。別府か、小倉か。そこまでは覚えていない。写真で見たのか、現場で見たのかも曖昧だ」
佐伯は、言葉を選んだ。
「給水車の横に立っていた。道路と燃料と水の順番を、目で追っていた」
「真柴本人だと」
「断定するな」
佐伯はすぐに言った。
「記憶だ。証拠じゃない」
「相原には伝えますか」
「燃料の用途だけ伝えろ」
佐伯は少し間を置いた。
「ただ、相原が真柴の言葉を聞いているなら、意味は分かるはずだ」
南雲は、真柴直樹の資料を閉じた。
画面には、もう燃料用途の文書だけが残った。
佐伯の声が続いた。
「人道支援で一番危ないのは、物がない時じゃない」
「はい」
「物があるのに、名前で止まる時だ」
*
南雲から相原に戻ってきた文書には、佐伯の名前は出ていなかった。
政治家の助言ではない。
西日本暫定政府の用途照会方針として返ってきた。
国境第三駐屯地の元職員室で、相原はその文書を受け取った。
そして無線を取った。
「旧南第三、応答願います」
三枝の声が返る。
「旧南第三です」
「燃料供給保留に関する用途別再照会を出します。記録を共有します」
倉持の声が入る。
「記録します」
相原は読み上げた。
「一、通学路灯火維持用燃料」
旧南第三では、倉持が橋の地図に丸をつけた。
「二、炊き出し継続用ガス」
旧駅裏の高架下に、丸がつく。
「三、夜間保温用灯油」
旧南第三の教室に、丸がつく。
「四、川島宅復旧発電用燃料」
川島の家に、丸がつく。
「五、証言者保全拠点維持用燃料」
高架下と旧南第三の間に、線が引かれる。
蓮が聞いた。
「旧南第三に出すんじゃないの?」
三枝が無線に触れる前に、相原の声が返った。
「旧南第三という名前で止められているなら、旧南第三という名前だけで請求しません」
「じゃあ何で」
「目的です」
美月が言った。
「寒い子のため」
三枝が頷く。
「それも目的です」
颯太が言った。
「橋の灯りのため」
「それも目的です」
花音は、昨日の燃料地図の横に、新しい紙を貼った。
燃料の用途。
黒い斜線の横に、言葉が足されていく。
橋。通学路灯火維持。
旧駅裏。炊き出し継続。
旧南第三。夜間保温。
川島宅。復旧発電。
高架下。証言者保全。
健二は、その文字を見ていた。
燃料を待っている人が、ただの人数ではなくなった。
目的を持った人になった。
相原が無線の向こうで言った。
「これを南浜燃料商会に再照会します」
陸が聞いた。
「出してくれますか」
「すぐには出さないと思います」
蓮が顔をしかめた。
「じゃあ意味ないじゃん」
三枝が首を横に振った。
「意味はあります」
相原の声が続いた。
「相手は、旧南第三が再評価中だから出せない、と言っていました」
倉持がホワイトボードに書く。
施設名で止める。
用途名で戻す。
「今度は、橋の灯りを止める理由を書かなければいけません」
三枝が言った。
「炊き出しのガスを止める理由も。夜間保温の灯油を止める理由も。川島さんの家の発電機を止める理由も」
健二は呟いた。
「理由を書かせる」
無線の向こうで、相原が短く答えた。
「はい」
*
南浜燃料商会に、再照会書が届いたのは昼過ぎだった。
浜倉喜一は、事務所の机でスマートフォンを見ていた。
燃料価格の数字。
港の配送表。
白羽地域物資管理株式会社の指定輸送枠。
そこに、新しい紙が置かれた。
「何すか、これ」
配達した男は答えなかった。
浜倉は紙をめくる。
旧南第三周辺燃料供給保留に関する用途別再照会。
通学路灯火維持。
炊き出し継続。
夜間保温。
川島宅復旧発電。
証言者保全拠点維持。
浜倉の顔が少し歪んだ。
「何これ。言い方変えただけじゃないですか」
奥から洲崎が出てきた。
「見せろ」
浜倉は紙を渡す。
洲崎は黙って読んだ。
その目が、少しだけ細くなった。
「面倒な切り方をしてきたな」
「切り方?」
「旧南第三に出せない、とは言える」
洲崎は紙を指で叩いた。
「だが、橋の灯りに出せない理由は別に書く必要がある」
浜倉は舌打ちした。
「同じでしょ」
「同じにしたいんだろ」
「同じじゃないんですか」
「違うから切ってきたんだ」
浜倉はスマートフォンを握った。
「じゃあ、全部不足って書けばいい」
洲崎は浜倉を見た。
「港にある」
「全部に出せる分はないって意味で」
「その言い方はもう使った」
「じゃあ優先順位」
「何の優先順位だ」
浜倉は少し黙った。
洲崎が続ける。
「冷凍倉庫の優先順位と、子どもの夜間保温を同じ表に乗せるのか」
「それは」
「白羽の指定輸送と、炊き出し継続用ガスを同じ表に乗せるのか」
浜倉は答えなかった。
洲崎は紙を机に置いた。
「誰が入れ知恵した」
「相原じゃないですか」
「違う」
「じゃあ、あの真柴の弟」
「違う」
洲崎は窓の外を見た。
燃料を積んだトラックが一台、港の出口へ向かっている。
「現場の言葉じゃない。これは、人道支援の言葉だ」
浜倉は苛立った。
「政治家ですか」
「かもしれん」
「面倒ですね」
「面倒にしたのは、お前だ」
浜倉の顔が赤くなった。
「俺だけじゃないでしょ。白羽の枠だって、港の判断だって」
「だから面倒なんだ」
洲崎は低く言った。
「今までは、燃料を高く売っているだけで済んだ。だが、この紙で止めれば、人道支援の用途を止めたことになる」
浜倉は、ようやく少し黙った。
転売する者は、値段をつけることは好きだ。
だが、何を止めたかを名指しされることは嫌う。
*
午後になって、国境第三駐屯地に電話が入った。
旧南第三ではない。
再照会書の差出人は、西日本暫定政府、国境第三駐屯地だった。
返答先も、古い中学校の元職員室に置かれた駐屯地の回線にしてある。
旧南第三に直接かけさせれば、相手は後で言える。
施設職員から要求を受けた。
真柴健二から圧力を受けた。
記録担当に誘導された。
だから相原は、返答先を国境第三駐屯地に固定した。
行政照会への回答として受けるためだった。
相原は受話器を取った。
「西日本暫定政府、国境第三駐屯地。相原です」
南浜燃料商会ではなく、浦戸仲買組合からだった。
声は洲崎だった。
「少量なら出す」
相原は表情を変えなかった。
「何を、どの用途でですか」
電話の向こうが少し黙った。
「灯油とガスだ」
「用途を確認します」
「細かいな」
「細かくしていただいた方が、記録できます」
洲崎は鼻で笑った。
「夜間保温用灯油。炊き出し継続用ガス。それでいいだろ」
「通学路灯火維持用燃料は」
「今日は出せない」
「理由は」
「配送枠がない」
「記録します」
「勝手にしろ」
「川島宅復旧発電用燃料は」
「個人宅だろ」
「帰宅対象児の受け入れ予定地です」
また沈黙。
洲崎は低く言った。
「お前ら、言葉を覚えたな」
相原は答えた。
「言葉ではありません。用途です」
電話が切れた。
相原は、通話記録にそのまま書いた。
夜間保温用灯油、一日分。
炊き出し継続用ガス、半日分。
通学路灯火維持、未供給。理由、配送枠なし。
川島宅復旧発電、未供給。理由、個人宅扱い。
証言者保全拠点維持、回答なし。
それから相原は無線を取った。
「旧南第三、応答願います」
三枝の声が返る。
「旧南第三です」
「一部供給が出ます」
無線の向こうで、空気が動いた。
「内容は」
「夜間保温用灯油、一日分。炊き出し継続用ガス、半日分」
倉持の声が入った。
「通学路灯火維持は」
「未供給。理由、配送枠なし」
「川島宅復旧発電は」
「未供給。理由、個人宅扱い」
無線の向こうで、健二の声がした。
「まだ残ってる」
相原は、壁の地図を見た。
橋と川島宅には、まだ黒い印が残っていた。
「はい。残っています」
倉持が言った。
「記録します」
相原は短く答えた。
「お願いします」
*
夕方、旧駅裏の高架下にガスボンベが届いた。
新品ではない。
大きくもない。
だが、森谷佐和は受け取る時に、両手で持った。
片方だけ軍靴の男が、鍋の横に置く。
「半日分だ」
佐和は頷いた。
「半日あれば、今日は散らない」
古い鍋に水が入る。
乾いた麺が入る。
缶詰の中身が落ちる。
やがて、湯気が立った。
匂いが戻る。
人が、戻る。
名前を聞かれても首を振る女は、壁際に座り直した。
毛布の老女が、器を両手で持った。
作業着の男が、何も言わずに列に並んだ。
佐和は、鍋の湯気を見ながら言った。
「ガスが来たんじゃない」
軍靴の男が聞いた。
「何が来た」
「今日、ここにいる理由が来た」
*
旧南第三では、夜間保温用灯油が届いた。
一日分。
それだけだった。
それでも、教室の空気が少しだけ変わった。
美月が毛布を干す順番を書いた。
陸がストーブの使用時間を決めた。
蓮は、橋の地図を見ていた。
「橋の灯りはまだ?」
健二は頷いた。
「まだ」
「川島さんの家は?」
「まだ」
蓮は黒い斜線を消そうとして、手を止めた。
「まだ消さない方がいい?」
倉持が言った。
「はい。届いていないものは、届いていないまま残します」
花音が黄色い丸を二つ足した。
旧南第三。
旧駅裏。
だが、橋と川島宅には黒い斜線が残っている。
全部は戻っていない。
だから地図は、まだ途中だった。
その時、無線が鳴った。
健二が取る。
「兄ちゃん」
「少し動いたか」
「灯油とガスだけ」
「十分じゃない」
「分かってる」
「何が残った」
「橋の灯り。川島さんの家の発電機。証言者保全拠点の分」
「そこが次だ」
健二は少し黙った。
「兄ちゃん」
「何だ」
「相原さんが、用途で切り直した」
「ああ」
「誰か、知ってる人がいるの?」
無線の向こうで、短い間があった。
直樹は低く言った。
「正式情報じゃないなら、聞くな」
健二は息を止めた。
その言い方で、何かを察した。
「兄ちゃんは、分かってるの?」
「分かってない」
「本当に?」
「今は、それでいい」
直樹の声は、いつもより少し遠かった。
「ケン」
「何」
「俺のことを見るな」
健二は、ホワイトボードを見た。
燃料の用途。
待っている人。
届いていない場所。
「道を見る」
「そうだ」
「燃料を見る」
「用途を見る」
「人を見る」
直樹は少しだけ黙った。
「それでいい」
無線が切れた。
*
その夜、南雲の机には、佐伯議員との通話記録が残っていた。
ただし、真柴直樹の話は書かれていない。
記憶は記録ではない。
証拠ではないものを、証拠として使わない。
それが、旧南第三と相原のやり方だった。
ただ、南雲は別の紙を一枚、引き出しに入れた。
人物照合補足。
通常照会不可。
紙媒体照会必要。
最終所属、中即。
国外滞在五年。
詳細未確認。
そこまで書いて、手を止めた。
第四師団。
イラク。
給水車。
その三つは書かなかった。
紙に書いた瞬間、誰かがそれを使う。
直樹を守るためではない。
議題を守るためだった。
*
旧南第三の教室では、ストーブが短い時間だけついた。
子どもたちは、その前に集まりすぎないように距離を取った。
美月が順番を決める。
陸が時間を計る。
蓮が窓の結露を指で拭く。
外は暗い。
橋の灯りは、まだ戻っていない。
川島の家も、まだ暗い。
だが、高架下の方角に、薄い湯気が上がっているのが見えた。
佐和の鍋だ。
健二は窓の前に立った。
倉持が、ホワイトボードに最後の一行を書いた。
燃料は、施設に届いたのではない。
目的に届いた。
三枝がそれを見て、静かに頷いた。
無線の向こうで、相原の声がした。
「次は、灯りです」
健二は頷いた。
帰り道は、まだ暗い。
だが、闇の中で一つだけ分かったことがある。
燃料は、値段だけで動くものではない。
名前でも止まる。
登録でも止まる。
顔でも止まる。
だが、用途に戻せば、少しだけ動く。
その夜、旧南第三は、全部を取り戻したわけではなかった。
灯りも、家も、道も、まだ半分だった。
それでも、鍋は温まった。
教室は少しだけ暖まった。
散りかけた人が、少しだけ戻った。
帰っていない者たちは、まだ遠くにいる。
海外にも。
港にも。
橋の向こうにも。
紙の外にも。
だが、帰り道は、誰かが名前をつけ直した時に、少しだけ戻る。
その日の記録には、こう残った。
燃料不足ではない。
用途の分断。
第一回再照会により、夜間保温用灯油、炊き出し継続用ガス、一部供給。
通学路灯火維持、未供給。
川島宅復旧発電、未供給。
証言者保全拠点維持、未回答。
次回照会、継続。
倉持は、最後に赤い線で囲んだ。
まだ届いていない場所を見る。
そして、その横に、健二が小さく書き足した。
帰っていない人を見る。




