表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/46

第三十四話 抱えた燃料

## 第三十四話 抱えた燃料


 浜倉喜一は、朝からスマートフォンを見ていた。


 燃料価格の表。


 港の在庫連絡。


 白羽地域物資管理株式会社の指定輸送枠。


 他地域からの問い合わせ。


 画面の中では、数字が上下していた。


 だが、浜倉には上がっている数字だけが見えていた。


「やっぱり、持ってる方が強いっすね」


 事務所の隅で、洲崎が伝票をめくっていた。


 返事はない。


 浜倉は構わず続けた。


「昨日、ちょっと出したでしょ。灯油とガス。あれで向こうも黙ると思うんですよ」


 洲崎は顔を上げなかった。


「黙ってねえだろ」


「でも出したじゃないですか。こっちは譲ってるんで」


「譲ったんじゃない。理由を書かされたんだ」


 浜倉は鼻で笑った。


「理由なんて、後でどうにでもなるでしょ」


 洲崎は、そこで初めて顔を上げた。


「ならない理由もある」


 浜倉はスマートフォンを振った。


「今、北浦の方からも来てますよ。まとめて出せるなら買うって。内陸の冷凍倉庫も欲しがってる。燃料って、今は限定品みたいなもんなんです」


「限定品」


「そうっすよ。次いつ入るか分かんないんだから。欲しい奴が高く買う。普通でしょ」


 浜倉は自分の言葉に少し満足した。


 自分は相場を見ている。


 港の古い連中より早く、数字を見ている。


 困っている場所に安く出すより、高く出せる場所に流す。


 それが商売だと思っていた。


 事務所の外に、車の音がした。


 白いワゴンが一台。


 その後ろに、小型トラックが二台。


 見慣れない業者の車だった。


 ドアが開き、紺色のジャンパーを着た男が降りてきた。


「南浜燃料商会さん?」


 浜倉は立ち上がった。


「そうですけど」


「北浦物流です。話、来てると思うんですが」


 男は名刺を出した。


 その後ろから、別の男が言う。


「こっちは西浜資材。灯油でも軽油でも、まとまるなら買う」


 浜倉の口元が緩んだ。


 洲崎は動かなかった。


「ほら」


 浜倉は小さく言った。


「来た」


     *


 国境第三駐屯地では、相原が壁の地図を見ていた。


 旧南第三。

 橋。

 川島宅。

 旧駅裏高架下。

 南浜漁港。


 その横に、燃料の用途が並んでいる。


 通学路灯火維持。

 炊き出し継続。

 夜間保温。

 川島宅復旧発電。

 証言者保全拠点維持。


 相原の机には、南浜燃料商会からの回答と、浦戸仲買組合からの一部供給連絡があった。


 足りない。


 だが、何が足りないのかは、まだはっきりしていない。


 相原は無線を取った。


「旧南第三、応答願います」


 三枝の声が返る。


「旧南第三です」


「昨日の供給後の状況を確認します」


 倉持の声が入った。


「記録できます」


 相原は言った。


「夜間保温用灯油は」


「一日分、受領。今夜分として保管」


「炊き出し継続用ガスは」


「旧駅裏高架下へ半日分。森谷佐和さんが受領」


「通学路灯火維持用燃料は」


「未供給」


「川島宅復旧発電用燃料は」


「未供給」


「証言者保全拠点維持用燃料は」


「回答なし」


 相原は短く頷いた。


「了解」


 そして別の紙を見た。


 南浜燃料商会の回答。


 燃料全般。

 供給困難。

 一括配分。


 相原はペン先でその言葉を押さえた。


「燃料がないと言うなら、入った量を確認します」


 無線の向こうで、健二の声がした。


「入った量?」


「はい。出せる分ではありません。南浜に入った分です」


 三枝が静かに言った。


「搬入記録ですね」


「そうです」


 相原は続けた。


「タンクローリーの入港記録、封印番号、受領数量、配送先。まずそこを見ます」


 健二は黙った。


 少ししてから言った。


「港にあるかどうか」


「あります。あるなら、どこに止まっているか。出たなら、どこに出たか」


 相原は地図の港を見た。


「そこを確認します」


     *


 南浜漁港の燃料置き場に、国境第三駐屯地の車両が一台入った。


 相原は降りなかった。


 来たのは、駐屯地の事務官二名と、南岸復旧組合の年配の男だった。


 相原は前に出ない。


 圧力にしない。


 だが、紙は前に出る。


 事務官が南浜燃料商会の窓口に書類を置いた。


「燃料搬入数量の確認です」


 浜倉は眉をひそめた。


「今度は何ですか」


「供給困難との回答を受けましたので、搬入数量を確認します」


「出せる分がないって話で」


「出せる分ではありません」


 事務官は、伝票を指で押さえた。


「入った分です」


 浜倉は黙った。


 洲崎が奥から出てきた。


「何を見るって」


「昨日から本日朝までの搬入記録。タンクローリーの封印番号。受領数量。出庫先。残量」


 浜倉が口を挟む。


「そんなの、商売上の情報でしょ」


 南岸復旧組合の年配の男が言った。


「燃料がないって言ったのはそっちだ」


「ないとは言ってないです。出せる分がないって」


「じゃあ、出せない分を教えろ」


 浜倉は言い返そうとして、言葉を失った。


 ちょうどその時、タンクローリーが一台、燃料置き場の奥に入ってきた。


 運転席から、日に焼けた男が降りた。


 胸の名札には、瀬戸燃料輸送とある。


 事務官が声をかけた。


「昨日から南浜に入った便について確認します」


 運転手は、手袋を外しながら頷いた。


「伝票ありますよ」


 浜倉が慌てた。


「いや、それはこっちで」


 運転手は浜倉を見た。


「俺は運んだ分を聞かれただけです」


 それから、事務官に向き直る。


「昨日の朝、一便。昼、一便。今朝、一便。今のが四便目です」


 浜倉の顔が止まった。


 事務官が聞く。


「封印番号は」


「伝票にあります。切った封印も保管してます」


「空で来た便は」


「ありません」


 運転手は当たり前のように言った。


「空のタンクローリーは、ここまで走らせません」


 南岸復旧組合の年配の男が、浜倉を見た。


「ずいぶん入ってるじゃねえか」


 浜倉は声を荒げた。


「入ったからって、全部出せるわけじゃないんです。指定分とか、契約とか、いろいろあるんで」


 事務官はそのまま書いた。


 搬入四便。

 空便なし。

 封印番号あり。

 指定分あり。

 未配送分確認中。


 浜倉は、そのペン先を見ていた。


 数字は好きだった。


 だが、自分の名前の横に数字が残るのは好きではなかった。


     *


 国境第三駐屯地に、数量確認の第一報が入った。


 相原は、報告を聞きながら地図に印をつけた。


 搬入あり。


 未配送あり。


 指定輸送枠あり。


 他地域業者の接触あり。


 相原は、すぐに南雲へ上げた。


「燃料がない、ではありません」


 画面の向こうで、南雲が顔を上げる。


「言い切れるか」


「搬入記録では、昨日から四便入っています。空便なし。封印番号確認中。南浜側は“出せる分がない”と表現を変えています」


「理由は」


「指定輸送枠と、他地域業者との商談です」


 南雲は目を細めた。


「人道用途分より高値の買い手が出たか」


「その可能性があります」


「可能性で動くな」


「はい。ですので、数量確認と用途別照会です」


 南雲は少し黙った。


 それから言った。


「広域燃料備蓄所に確認する」


     *


 広域燃料備蓄所からの通達が来たのは、それから一時間後だった。


 南浜向け追加便、二便出発済み。


 人道用途分、別枠放出。


 対象用途。


 通学路灯火維持。

 炊き出し継続。

 夜間保温。

 復旧発電。

 証言者保全拠点維持。


 基準価格適用。


 転売、再販売、用途外流用禁止。


 相原は、その文書を見て息を止めた。


 勝ったわけではない。


 だが、流れが変わった。


 すぐに無線を取る。


「旧南第三、応答願います」


 三枝の声。


「旧南第三です」


「追加便が出ます」


 無線の向こうで、ざわめきが起きた。


 倉持の声が入る。


「記録します。内容をお願いします」


「広域燃料備蓄所より通達。南浜向け追加便二便、出発済み。人道用途分、別枠放出。基準価格適用」


 健二の声がした。


「基準価格って」


「高値では出さない、ということです」


 少しの間。


 蓮の声が遠くに聞こえた。


「じゃあ、買い占めた人は?」


 相原は答えなかった。


 三枝が代わりに言った。


「高く抱えた分は、高く売れなくなります」


 倉持が、ホワイトボードに書いた。


 追加便。

 人道用途別枠。

 基準価格。

 用途外流用禁止。


 健二は、その文字を見ていた。


 燃料は、ないわけではなかった。


 隠れていたわけでもない。


 止まっていた。


 そして今、別の名前で動き始めた。


     *


 浜倉のスマートフォンは、急に忙しくなった。


 だが、内容は朝とは違っていた。


 北浦物流。


> 追加便出るなら今回は見送ります。

> 基準価格分で足ります。


 西浜資材。


> 高値分は不要。

> 条件変更なら再提示してください。


 内陸の冷凍倉庫。


> 白羽指定分以外の確保は不要になりました。

> 公式放出分を確認します。


 浜倉は画面を見た。


「は?」


 何度も読み返す。


 さっきまで、まとめて買うと言っていた。


 高くても買うと言っていた。


 現金で出すと言っていた。


 その連中が、急に引いていく。


 浜倉は白羽地域物資管理株式会社へ電話した。


 何回かの呼び出し音のあと、丁寧な声が出る。


「白羽地域物資管理株式会社、地域物資調整窓口です」


「南浜の浜倉です。燃料の件で」


「はい」


「こっちで確保してた分、そちらに回せますよ。指定輸送枠、追加で」


「契約数量を超える受領予定はございません」


 浜倉は眉をひそめた。


「いや、でもそっちの分を優先して残してたんで」


「弊社は、南浜燃料商会様の在庫判断には関与しておりません」


「関与っていうか、そっちが必要だって」


「弊社が必要としておりますのは、契約書に記載された指定数量のみです」


 浜倉の声が高くなった。


「こっちはそれ見越して抱えてたんですよ」


「貴社判断による確保分について、弊社は関知いたしません」


「価格も上がってるんで、その分」


「価格変動分の補填は契約外です」


 丁寧な声は、どこまでも丁寧だった。


「なお、弊社名を外部説明に使用することはお控えください」


 電話が切れた。


 浜倉は受話器を見た。


 白羽は使う。


 だが、守らない。


 そのことに浜倉が気づいた時には、もう遅かった。


 洲崎が事務所の入口に立っていた。


「買ってくれるって?」


 浜倉は答えなかった。


 洲崎は机の上の伝票を見た。


「お前が相場で抱えたんだろ」


「でも、追加便なんて聞いてないっすよ」


「聞かされる立場だと思ってたのか」


 浜倉は顔を上げた。


「こっちは港を見てるんですよ」


「お前が見てたのはスマホの数字だ」


 洲崎は淡々と言った。


「相場で抱えたなら、相場で沈め」


 浜倉は唇を噛んだ。


 その時、事務所の奥の扉が開いた。


 年配の男が入ってきた。


 浜倉の父だった。


 漁港役員の名札を胸につけている。


 浜倉は、一瞬だけ子どもの顔になった。


「親父」


 父親は机の上の伝票を見た。


 次に、浜倉を見た。


「俺の椅子に座って、何を売った」


 浜倉は目をそらした。


「燃料だよ」


 父親は首を横に振った。


「違う」


 静かな声だった。


「橋の灯りだ」


 浜倉は何も言えなかった。


「鍋の湯気だ」


 洲崎も黙っていた。


「子どもの夜だ」


 父親は、伝票を一枚つまみ上げた。


「それを燃料って名前にして、値段をつけたんだ」


 浜倉は、スマートフォンを握りしめた。


 だが、そこにはもう、高く買うという連絡は来なかった。


     *


 追加便の一台目が南浜に入る前、国境第三駐屯地には人手の相談が来ていた。


 燃料をただ降ろせばいいわけではない。


 人道用途別枠になった以上、どこへ何を届けたかを確認する必要がある。


 封印番号。

 配送先。

 受領者。

 用途。

 残量。


 相原は人員表を見ていた。


 足りない。


 国境第三駐屯地の人間だけでは、港、橋、旧駅裏、旧南第三、川島宅のすべてを追えない。


 南岸復旧組合の年配の男が言った。


「一人、使える奴がいる」


 相原は顔を上げた。


「誰ですか」


「川島だ」


 相原はすぐには答えなかった。


 川島は晴斗の親族だ。


 証言者でもある。


 そして、白羽から見れば、帰宅先の当事者でもある。


「運転はさせません」


 相原が言った。


「分かってる」


「燃料配送補助なら」


「封印番号を読む。伝票を照合する。荷下ろし先で、何に使うか確認する。あいつにはできる」


 相原は少し考えた。


 川島は、晴斗の名前を守るために、写真と手紙とノートを持ってきた男だった。


 紙の意味を分かっている。


 名前が消える怖さを分かっている。


 なら、数量が消える怖さも分かるかもしれない。


「本人の意思を確認します」


     *


 川島は、旧南第三の玄関前にいた。


 晴斗は中にいる。


 まだ完全に一緒に暮らしているわけではない。


 仮帰宅の手順を踏む。


 一泊。

 確認。

 戻る。

 また一泊。


 焦らない。


 名前を戻す時と同じだった。


 相原からの連絡を、三枝が伝えた。


「燃料配送補助の人手が必要です」


 川島は黙って聞いた。


「運転ではありません。封印番号の確認、伝票照合、配送先での用途確認です」


 川島は、自分の手を見た。


 壊された家の柱を直した手。


 晴斗のノートを持ってきた手。


 殴らなかった手。


「俺でいいんですか」


 三枝は答えた。


「相原一尉は、本人の意思確認が必要だと言っています」


「晴斗は」


「今日は夕方から、川島さんの家で一泊の予定です」


 川島の喉が動いた。


 三枝は続けた。


「川島さんが仕事に出る時間と、晴斗くんの移動時間は重ねません。帰宅手順は旧南第三が立ち会います」


 川島は少しだけ目を閉じた。


「燃料を運べば、橋の灯りが戻るんですか」


「一部は」


「家の発電機も」


「用途確認が通れば」


 川島は頷いた。


「やります」


 健二が横に立っていた。


「大丈夫ですか」


 川島は健二を見た。


「大丈夫かは分からない」


 少し笑った。


「でも、数える仕事ならできる」


「数える仕事」


「晴斗の名前を数えた。写真も、手紙も、ノートも」


 川島は旧南第三の中を見た。


「今度は燃料を数える」


     *


 タンクローリーの横に、川島が立った。


 運転手は、昨日と同じ瀬戸燃料輸送の男だった。


「乗るのか」


「同乗補助です」


 川島は硬い声で言った。


 運転手は伝票を差し出した。


「封印番号、読めるか」


 川島は紙を受け取った。


 番号を見て、タンクの封印を見る。


「合ってます」


「配送先は」


「一件目、橋の仮設灯。通学路灯火維持用」


「二件目」


「旧南第三。夜間保温用灯油」


「三件目」


「川島宅。復旧発電用」


 自分の家の名を読む時、川島の声が少し詰まった。


 運転手は気づいたが、何も言わなかった。


「じゃあ、行くぞ」


 川島は助手席に乗った。


 タンクローリーが動き出す。


 浜倉は事務所の窓からそれを見ていた。


 自分が抱えていた燃料が、基準価格で、用途名つきで、別の人間の確認を受けながら出ていく。


 しかも、その助手席に座っているのは川島だった。


 昨日まで、燃料を待つ側だった男。


 今は、燃料を届ける側に回っている。


 浜倉はスマートフォンを見た。


 新しい通知はなかった。


     *


 橋の仮設灯に、燃料が入った。


 南岸復旧組合の年配の男が、発電機の横で立ち会った。


 川島は封印番号を読み上げた。


 運転手が伝票に書く。


 受領者の名前。

 用途。

 数量。

 時刻。


 年配の男がスイッチを確認する。


 低い音がして、発電機が動き出した。


 夕方の橋に、細い灯りが戻る。


 明るいとは言えない。


 だが、足元は見えた。


 欄干の切れ目も、濡れた板も、川へ落ちる斜面も見えた。


 川島は、その灯りを見ていた。


「帰りは逆から来る」


 年配の男が言った。


 川島は頷いた。


「はい」


「今日は、お前の家にも来る」


 川島は言葉に詰まった。


 燃料を届けているのに、自分が何かを受け取っている気がした。


     *


 旧駅裏の高架下では、佐和が鍋を準備していた。


 追加分のガスはまだ半日分だった。


 だが、今日の分ではなく、明日の朝の分まで見えるようになった。


 佐和は川島を見ると、少しだけ眉を上げた。


「そっち側になったの」


 川島は伝票を持ったまま答えた。


「同乗補助です」


「偉くなったね」


「偉くはないです」


 佐和は鍋の蓋を持ち上げた。


 湯気が出る。


「じゃあ、役に立ったんだ」


 川島は何も言えなかった。


 佐和は受領欄に名前を書いた。


 森谷佐和。


 用途、炊き出し継続。


 川島はその文字を見た。


 名前がある。


 用途がある。


 燃料は、ただの燃料ではなくなっていた。


     *


 夕方、川島宅の前に小型発電機が置かれた。


 中古だった。


 音も少し大きい。


 だが、動いた。


 川島は運転手と一緒に燃料を確認した。


 伝票には、こう書かれている。


 川島宅復旧発電用。

 帰宅対象児受け入れ予定地。

 用途確認済み。


 その文字を見た時、川島はしばらく動けなかった。


 自分の家が、ただの個人宅ではなくなっている。


 晴斗が帰る場所として、紙に戻っている。


 日が落ちる前、三枝と倉持が晴斗を連れてきた。


 健二も少し離れて立っている。


 直樹はいない。


 近くに来れば、また話が変えられる。


 だから、来ない。


 晴斗は、小さなリュックを背負っていた。


 玄関の前で止まる。


 川島は、すぐには声をかけなかった。


 入れとも言わない。


 思い出せとも言わない。


 ただ、玄関の灯りをつけた。


 小さな電球が、薄く光る。


 靴を置く場所が見えた。


 台所の入口が見えた。


 壁に下げた魚のキーホルダーが見えた。


 晴斗の目が、そこに止まった。


「……さかな」


 川島は頷いた。


「ああ。お前のだ」


 晴斗は動かない。


 川島も急がない。


 倉持が記録用紙を持っている。


 三枝は時計を見ている。


 健二は、門の外で橋の方を見ている。


 晴斗は、リュックの肩紐を握った。


 それから、小さく言った。


「……はる」


 川島の顔が歪んだ。


 だが、泣かなかった。


「うん」


 晴斗は玄関の段差を見た。


 そして、消えそうな声で言った。


「……ただいま」


 川島は一歩も近づかなかった。


 ただ、少し横にずれた。


 道を空けるように。


「おかえり、晴斗」


 倉持のペンが、紙の上で止まった。


 それから、ゆっくり動いた。


 本人発語。

 ただいま。

 玄関前。

 誘導なし。

 呼称、晴斗。

 反応、拒否なし。

 入室、自発。


 晴斗は靴を脱いだ。


 小さな靴が、玄関の端に置かれた。


 それだけのことだった。


 だが、川島の家には、久しぶりに帰ってきたものがあった。


     *


 国境第三駐屯地で、相原は報告を受けた。


 通学路灯火維持用燃料、一部供給。

 炊き出し継続用ガス、追加供給。

 夜間保温用灯油、受領。

 川島宅復旧発電用燃料、受領。

 証言者保全拠点維持、継続確認中。


 さらに別紙。


 晴斗、川島宅一泊試験。

 玄関前発語、ただいま。

 入室自発。

 誘導なし。

 記録者、倉持。

 立会、三枝。


 相原は、少しだけ目を閉じた。


 勝ったわけではない。


 白羽はまだいる。


 浜倉もまだ終わっていない。


 燃料も全部は戻っていない。


 だが、今日、二つのものが動いた。


 燃料。


 そして、家。


     *


 夜、浜倉は事務所に一人で残っていた。


 スマートフォンは机の上にある。


 画面は暗い。


 高く買うと言っていた業者からの連絡は、もうない。


 白羽からもない。


 父親は、事務所の奥の椅子を持っていった。


 浜倉の椅子は、パイプ椅子に変わっていた。


 机の上には、伝票が残っている。


 供給保留。

 未配送。

 高値商談。

 指定外確保。

 用途別再照会。

 追加便放出。


 その横に、浜倉喜一の名前。


 浜倉は、燃料を抱えていた。


 だが、抱えていたのは燃料だけではなかった。


 出し渋った時間。

 止めた灯り。

 冷えた教室。

 散りかけた炊き出し。

 個人宅扱いにした家。


 それら全部が、自分の名前の下に置かれていた。


 浜倉は、燃料を持っていれば強いと思っていた。


 だが、燃料は持つものではなかった。


 届けるものだった。


     *


 旧南第三のホワイトボードには、新しい線が引かれていた。


 港から橋へ。

 港から旧駅裏へ。

 港から旧南第三へ。

 港から川島宅へ。


 黒い斜線のうち、いくつかが黄色い丸に変わった。


 まだ全部ではない。


 それでも、地図は昨日より少し明るい。


 蓮が言った。


「川島さん、仕事になったの?」


 三枝が答えた。


「今日から燃料配送補助です。正式には試用です」


「タンクローリーの運転手?」


「いいえ。最初は同乗補助です。封印番号を確認して、伝票と用途を合わせる仕事です」


 美月が言った。


「名前を確認するみたい」


 倉持が頷いた。


「似ています」


 陸がホワイトボードを見た。


「間違えたら、違う場所に行く」


「はい」


「名前も、燃料も」


 三枝は静かに答えた。


「そうです」


 健二は、川島宅の黄色い丸を見ていた。


 その横に、小さく書かれている。


 晴斗、一泊試験。


 外を見ると、橋の灯りが細くついていた。


 その先に、川島の家の灯りが一つだけ見える。


 強い灯りではない。


 遠くから見れば、すぐに消えそうな小さな点だった。


 だが、そこにある。


 晴斗が帰った家に、灯りがある。


 健二は、無線機に手を伸ばした。


 二回だけ鳴らす。


 直樹の声が返った。


「何だ」


「橋、ついた」


「ああ」


「川島さんの家も」


「見えてる」


 健二は少し驚いた。


「兄ちゃん、見える場所にいるの?」


「遠くからな」


 健二は窓の外を見た。


 直樹の姿は見えない。


 それでいいと思った。


「晴斗くん、ただいまって言った」


 無線の向こうで、長い沈黙があった。


 直樹は短く言った。


「記録したか」


「した」


「なら、残る」


 健二は頷いた。


「うん」


 直樹の声は静かだった。


「帰り道は、灯りだけじゃない」


「何?」


「仕事もだ」


 健二は、川島の名前が書かれた配送補助記録を見た。


「川島さんの?」


「ああ」


 直樹は言った。


「帰る家があっても、明日の仕事がなければ、人はまた流れる」


 健二は黙った。


 その言葉は、冷たくなかった。


 ただ、現実だった。


「家と仕事」


「両方いる」


 健二は、ホワイトボードに書いた。


 帰る家。

 明日の仕事。


 それから、もう一行足した。


 燃料は届けるもの。


 無線の向こうで、直樹が言った。


「ケン」


「何」


「明日も、地図を見ろ」


「見る」


「黄色い丸だけ見るな」


 健二は黒い斜線を見た。


 まだ届いていない場所。


 まだ帰っていない人。


「黒いところを見る」


「そうだ」


 無線が切れた。


     *


 その夜、川島の家では、味噌汁の湯気が上がっていた。


 晴斗は食卓の前に座っている。


 川島は向かいに座らない。


 少し斜めに座る。


 見張るようにしない。


 逃げ道をふさがない。


 旧南第三で決めた通りだった。


「熱いぞ」


 川島が言った。


 晴斗は椀を見た。


 湯気の向こうに、小さな魚の箸置きがある。


「……さかな」


「ああ」


「……かわ」


「うん。川もある」


 川島はそれ以上言わなかった。


 晴斗は味噌汁を一口飲んだ。


 そして、少しだけ眉を動かした。


 川島は聞きたいことがたくさんあった。


 覚えているか。

 怖くないか。

 ここで眠れるか。

 俺を叔父だと思えるか。


 だが、聞かなかった。


 名前を急がない。


 返事を待つ。


 それが決まりだった。


 晴斗は、椀を両手で持ったまま、小さく言った。


「……あったかい」


 川島は頷いた。


「ああ」


 それだけで、今日は十分だった。


     *


 翌朝の記録欄は、まだ空白だった。


 晴斗が朝まで眠れたか。


 途中で不安定になったか。


 川島が急かさなかったか。


 白羽側がどう反応するか。


 何も終わっていない。


 だが、夜は一つ越えた。


 浜倉は、燃料を抱えて値段を待った。


 川島は、燃料を届けて朝を待った。


 同じ港から出たものが、一方では在庫になり、一方では灯りになった。


 その違いを、旧南第三は記録した。


 燃料は、抱えた者のものではない。

 届いた場所で、初めて意味を持つ。


 倉持は、その一文を書いてから、少しだけ迷った。


 そして下に、小さく足した。


 名前も、同じ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ