第三十四話 抱えた燃料
## 第三十四話 抱えた燃料
浜倉喜一は、朝からスマートフォンを見ていた。
燃料価格の表。
港の在庫連絡。
白羽地域物資管理株式会社の指定輸送枠。
他地域からの問い合わせ。
画面の中では、数字が上下していた。
だが、浜倉には上がっている数字だけが見えていた。
「やっぱり、持ってる方が強いっすね」
事務所の隅で、洲崎が伝票をめくっていた。
返事はない。
浜倉は構わず続けた。
「昨日、ちょっと出したでしょ。灯油とガス。あれで向こうも黙ると思うんですよ」
洲崎は顔を上げなかった。
「黙ってねえだろ」
「でも出したじゃないですか。こっちは譲ってるんで」
「譲ったんじゃない。理由を書かされたんだ」
浜倉は鼻で笑った。
「理由なんて、後でどうにでもなるでしょ」
洲崎は、そこで初めて顔を上げた。
「ならない理由もある」
浜倉はスマートフォンを振った。
「今、北浦の方からも来てますよ。まとめて出せるなら買うって。内陸の冷凍倉庫も欲しがってる。燃料って、今は限定品みたいなもんなんです」
「限定品」
「そうっすよ。次いつ入るか分かんないんだから。欲しい奴が高く買う。普通でしょ」
浜倉は自分の言葉に少し満足した。
自分は相場を見ている。
港の古い連中より早く、数字を見ている。
困っている場所に安く出すより、高く出せる場所に流す。
それが商売だと思っていた。
事務所の外に、車の音がした。
白いワゴンが一台。
その後ろに、小型トラックが二台。
見慣れない業者の車だった。
ドアが開き、紺色のジャンパーを着た男が降りてきた。
「南浜燃料商会さん?」
浜倉は立ち上がった。
「そうですけど」
「北浦物流です。話、来てると思うんですが」
男は名刺を出した。
その後ろから、別の男が言う。
「こっちは西浜資材。灯油でも軽油でも、まとまるなら買う」
浜倉の口元が緩んだ。
洲崎は動かなかった。
「ほら」
浜倉は小さく言った。
「来た」
*
国境第三駐屯地では、相原が壁の地図を見ていた。
旧南第三。
橋。
川島宅。
旧駅裏高架下。
南浜漁港。
その横に、燃料の用途が並んでいる。
通学路灯火維持。
炊き出し継続。
夜間保温。
川島宅復旧発電。
証言者保全拠点維持。
相原の机には、南浜燃料商会からの回答と、浦戸仲買組合からの一部供給連絡があった。
足りない。
だが、何が足りないのかは、まだはっきりしていない。
相原は無線を取った。
「旧南第三、応答願います」
三枝の声が返る。
「旧南第三です」
「昨日の供給後の状況を確認します」
倉持の声が入った。
「記録できます」
相原は言った。
「夜間保温用灯油は」
「一日分、受領。今夜分として保管」
「炊き出し継続用ガスは」
「旧駅裏高架下へ半日分。森谷佐和さんが受領」
「通学路灯火維持用燃料は」
「未供給」
「川島宅復旧発電用燃料は」
「未供給」
「証言者保全拠点維持用燃料は」
「回答なし」
相原は短く頷いた。
「了解」
そして別の紙を見た。
南浜燃料商会の回答。
燃料全般。
供給困難。
一括配分。
相原はペン先でその言葉を押さえた。
「燃料がないと言うなら、入った量を確認します」
無線の向こうで、健二の声がした。
「入った量?」
「はい。出せる分ではありません。南浜に入った分です」
三枝が静かに言った。
「搬入記録ですね」
「そうです」
相原は続けた。
「タンクローリーの入港記録、封印番号、受領数量、配送先。まずそこを見ます」
健二は黙った。
少ししてから言った。
「港にあるかどうか」
「あります。あるなら、どこに止まっているか。出たなら、どこに出たか」
相原は地図の港を見た。
「そこを確認します」
*
南浜漁港の燃料置き場に、国境第三駐屯地の車両が一台入った。
相原は降りなかった。
来たのは、駐屯地の事務官二名と、南岸復旧組合の年配の男だった。
相原は前に出ない。
圧力にしない。
だが、紙は前に出る。
事務官が南浜燃料商会の窓口に書類を置いた。
「燃料搬入数量の確認です」
浜倉は眉をひそめた。
「今度は何ですか」
「供給困難との回答を受けましたので、搬入数量を確認します」
「出せる分がないって話で」
「出せる分ではありません」
事務官は、伝票を指で押さえた。
「入った分です」
浜倉は黙った。
洲崎が奥から出てきた。
「何を見るって」
「昨日から本日朝までの搬入記録。タンクローリーの封印番号。受領数量。出庫先。残量」
浜倉が口を挟む。
「そんなの、商売上の情報でしょ」
南岸復旧組合の年配の男が言った。
「燃料がないって言ったのはそっちだ」
「ないとは言ってないです。出せる分がないって」
「じゃあ、出せない分を教えろ」
浜倉は言い返そうとして、言葉を失った。
ちょうどその時、タンクローリーが一台、燃料置き場の奥に入ってきた。
運転席から、日に焼けた男が降りた。
胸の名札には、瀬戸燃料輸送とある。
事務官が声をかけた。
「昨日から南浜に入った便について確認します」
運転手は、手袋を外しながら頷いた。
「伝票ありますよ」
浜倉が慌てた。
「いや、それはこっちで」
運転手は浜倉を見た。
「俺は運んだ分を聞かれただけです」
それから、事務官に向き直る。
「昨日の朝、一便。昼、一便。今朝、一便。今のが四便目です」
浜倉の顔が止まった。
事務官が聞く。
「封印番号は」
「伝票にあります。切った封印も保管してます」
「空で来た便は」
「ありません」
運転手は当たり前のように言った。
「空のタンクローリーは、ここまで走らせません」
南岸復旧組合の年配の男が、浜倉を見た。
「ずいぶん入ってるじゃねえか」
浜倉は声を荒げた。
「入ったからって、全部出せるわけじゃないんです。指定分とか、契約とか、いろいろあるんで」
事務官はそのまま書いた。
搬入四便。
空便なし。
封印番号あり。
指定分あり。
未配送分確認中。
浜倉は、そのペン先を見ていた。
数字は好きだった。
だが、自分の名前の横に数字が残るのは好きではなかった。
*
国境第三駐屯地に、数量確認の第一報が入った。
相原は、報告を聞きながら地図に印をつけた。
搬入あり。
未配送あり。
指定輸送枠あり。
他地域業者の接触あり。
相原は、すぐに南雲へ上げた。
「燃料がない、ではありません」
画面の向こうで、南雲が顔を上げる。
「言い切れるか」
「搬入記録では、昨日から四便入っています。空便なし。封印番号確認中。南浜側は“出せる分がない”と表現を変えています」
「理由は」
「指定輸送枠と、他地域業者との商談です」
南雲は目を細めた。
「人道用途分より高値の買い手が出たか」
「その可能性があります」
「可能性で動くな」
「はい。ですので、数量確認と用途別照会です」
南雲は少し黙った。
それから言った。
「広域燃料備蓄所に確認する」
*
広域燃料備蓄所からの通達が来たのは、それから一時間後だった。
南浜向け追加便、二便出発済み。
人道用途分、別枠放出。
対象用途。
通学路灯火維持。
炊き出し継続。
夜間保温。
復旧発電。
証言者保全拠点維持。
基準価格適用。
転売、再販売、用途外流用禁止。
相原は、その文書を見て息を止めた。
勝ったわけではない。
だが、流れが変わった。
すぐに無線を取る。
「旧南第三、応答願います」
三枝の声。
「旧南第三です」
「追加便が出ます」
無線の向こうで、ざわめきが起きた。
倉持の声が入る。
「記録します。内容をお願いします」
「広域燃料備蓄所より通達。南浜向け追加便二便、出発済み。人道用途分、別枠放出。基準価格適用」
健二の声がした。
「基準価格って」
「高値では出さない、ということです」
少しの間。
蓮の声が遠くに聞こえた。
「じゃあ、買い占めた人は?」
相原は答えなかった。
三枝が代わりに言った。
「高く抱えた分は、高く売れなくなります」
倉持が、ホワイトボードに書いた。
追加便。
人道用途別枠。
基準価格。
用途外流用禁止。
健二は、その文字を見ていた。
燃料は、ないわけではなかった。
隠れていたわけでもない。
止まっていた。
そして今、別の名前で動き始めた。
*
浜倉のスマートフォンは、急に忙しくなった。
だが、内容は朝とは違っていた。
北浦物流。
> 追加便出るなら今回は見送ります。
> 基準価格分で足ります。
西浜資材。
> 高値分は不要。
> 条件変更なら再提示してください。
内陸の冷凍倉庫。
> 白羽指定分以外の確保は不要になりました。
> 公式放出分を確認します。
浜倉は画面を見た。
「は?」
何度も読み返す。
さっきまで、まとめて買うと言っていた。
高くても買うと言っていた。
現金で出すと言っていた。
その連中が、急に引いていく。
浜倉は白羽地域物資管理株式会社へ電話した。
何回かの呼び出し音のあと、丁寧な声が出る。
「白羽地域物資管理株式会社、地域物資調整窓口です」
「南浜の浜倉です。燃料の件で」
「はい」
「こっちで確保してた分、そちらに回せますよ。指定輸送枠、追加で」
「契約数量を超える受領予定はございません」
浜倉は眉をひそめた。
「いや、でもそっちの分を優先して残してたんで」
「弊社は、南浜燃料商会様の在庫判断には関与しておりません」
「関与っていうか、そっちが必要だって」
「弊社が必要としておりますのは、契約書に記載された指定数量のみです」
浜倉の声が高くなった。
「こっちはそれ見越して抱えてたんですよ」
「貴社判断による確保分について、弊社は関知いたしません」
「価格も上がってるんで、その分」
「価格変動分の補填は契約外です」
丁寧な声は、どこまでも丁寧だった。
「なお、弊社名を外部説明に使用することはお控えください」
電話が切れた。
浜倉は受話器を見た。
白羽は使う。
だが、守らない。
そのことに浜倉が気づいた時には、もう遅かった。
洲崎が事務所の入口に立っていた。
「買ってくれるって?」
浜倉は答えなかった。
洲崎は机の上の伝票を見た。
「お前が相場で抱えたんだろ」
「でも、追加便なんて聞いてないっすよ」
「聞かされる立場だと思ってたのか」
浜倉は顔を上げた。
「こっちは港を見てるんですよ」
「お前が見てたのはスマホの数字だ」
洲崎は淡々と言った。
「相場で抱えたなら、相場で沈め」
浜倉は唇を噛んだ。
その時、事務所の奥の扉が開いた。
年配の男が入ってきた。
浜倉の父だった。
漁港役員の名札を胸につけている。
浜倉は、一瞬だけ子どもの顔になった。
「親父」
父親は机の上の伝票を見た。
次に、浜倉を見た。
「俺の椅子に座って、何を売った」
浜倉は目をそらした。
「燃料だよ」
父親は首を横に振った。
「違う」
静かな声だった。
「橋の灯りだ」
浜倉は何も言えなかった。
「鍋の湯気だ」
洲崎も黙っていた。
「子どもの夜だ」
父親は、伝票を一枚つまみ上げた。
「それを燃料って名前にして、値段をつけたんだ」
浜倉は、スマートフォンを握りしめた。
だが、そこにはもう、高く買うという連絡は来なかった。
*
追加便の一台目が南浜に入る前、国境第三駐屯地には人手の相談が来ていた。
燃料をただ降ろせばいいわけではない。
人道用途別枠になった以上、どこへ何を届けたかを確認する必要がある。
封印番号。
配送先。
受領者。
用途。
残量。
相原は人員表を見ていた。
足りない。
国境第三駐屯地の人間だけでは、港、橋、旧駅裏、旧南第三、川島宅のすべてを追えない。
南岸復旧組合の年配の男が言った。
「一人、使える奴がいる」
相原は顔を上げた。
「誰ですか」
「川島だ」
相原はすぐには答えなかった。
川島は晴斗の親族だ。
証言者でもある。
そして、白羽から見れば、帰宅先の当事者でもある。
「運転はさせません」
相原が言った。
「分かってる」
「燃料配送補助なら」
「封印番号を読む。伝票を照合する。荷下ろし先で、何に使うか確認する。あいつにはできる」
相原は少し考えた。
川島は、晴斗の名前を守るために、写真と手紙とノートを持ってきた男だった。
紙の意味を分かっている。
名前が消える怖さを分かっている。
なら、数量が消える怖さも分かるかもしれない。
「本人の意思を確認します」
*
川島は、旧南第三の玄関前にいた。
晴斗は中にいる。
まだ完全に一緒に暮らしているわけではない。
仮帰宅の手順を踏む。
一泊。
確認。
戻る。
また一泊。
焦らない。
名前を戻す時と同じだった。
相原からの連絡を、三枝が伝えた。
「燃料配送補助の人手が必要です」
川島は黙って聞いた。
「運転ではありません。封印番号の確認、伝票照合、配送先での用途確認です」
川島は、自分の手を見た。
壊された家の柱を直した手。
晴斗のノートを持ってきた手。
殴らなかった手。
「俺でいいんですか」
三枝は答えた。
「相原一尉は、本人の意思確認が必要だと言っています」
「晴斗は」
「今日は夕方から、川島さんの家で一泊の予定です」
川島の喉が動いた。
三枝は続けた。
「川島さんが仕事に出る時間と、晴斗くんの移動時間は重ねません。帰宅手順は旧南第三が立ち会います」
川島は少しだけ目を閉じた。
「燃料を運べば、橋の灯りが戻るんですか」
「一部は」
「家の発電機も」
「用途確認が通れば」
川島は頷いた。
「やります」
健二が横に立っていた。
「大丈夫ですか」
川島は健二を見た。
「大丈夫かは分からない」
少し笑った。
「でも、数える仕事ならできる」
「数える仕事」
「晴斗の名前を数えた。写真も、手紙も、ノートも」
川島は旧南第三の中を見た。
「今度は燃料を数える」
*
タンクローリーの横に、川島が立った。
運転手は、昨日と同じ瀬戸燃料輸送の男だった。
「乗るのか」
「同乗補助です」
川島は硬い声で言った。
運転手は伝票を差し出した。
「封印番号、読めるか」
川島は紙を受け取った。
番号を見て、タンクの封印を見る。
「合ってます」
「配送先は」
「一件目、橋の仮設灯。通学路灯火維持用」
「二件目」
「旧南第三。夜間保温用灯油」
「三件目」
「川島宅。復旧発電用」
自分の家の名を読む時、川島の声が少し詰まった。
運転手は気づいたが、何も言わなかった。
「じゃあ、行くぞ」
川島は助手席に乗った。
タンクローリーが動き出す。
浜倉は事務所の窓からそれを見ていた。
自分が抱えていた燃料が、基準価格で、用途名つきで、別の人間の確認を受けながら出ていく。
しかも、その助手席に座っているのは川島だった。
昨日まで、燃料を待つ側だった男。
今は、燃料を届ける側に回っている。
浜倉はスマートフォンを見た。
新しい通知はなかった。
*
橋の仮設灯に、燃料が入った。
南岸復旧組合の年配の男が、発電機の横で立ち会った。
川島は封印番号を読み上げた。
運転手が伝票に書く。
受領者の名前。
用途。
数量。
時刻。
年配の男がスイッチを確認する。
低い音がして、発電機が動き出した。
夕方の橋に、細い灯りが戻る。
明るいとは言えない。
だが、足元は見えた。
欄干の切れ目も、濡れた板も、川へ落ちる斜面も見えた。
川島は、その灯りを見ていた。
「帰りは逆から来る」
年配の男が言った。
川島は頷いた。
「はい」
「今日は、お前の家にも来る」
川島は言葉に詰まった。
燃料を届けているのに、自分が何かを受け取っている気がした。
*
旧駅裏の高架下では、佐和が鍋を準備していた。
追加分のガスはまだ半日分だった。
だが、今日の分ではなく、明日の朝の分まで見えるようになった。
佐和は川島を見ると、少しだけ眉を上げた。
「そっち側になったの」
川島は伝票を持ったまま答えた。
「同乗補助です」
「偉くなったね」
「偉くはないです」
佐和は鍋の蓋を持ち上げた。
湯気が出る。
「じゃあ、役に立ったんだ」
川島は何も言えなかった。
佐和は受領欄に名前を書いた。
森谷佐和。
用途、炊き出し継続。
川島はその文字を見た。
名前がある。
用途がある。
燃料は、ただの燃料ではなくなっていた。
*
夕方、川島宅の前に小型発電機が置かれた。
中古だった。
音も少し大きい。
だが、動いた。
川島は運転手と一緒に燃料を確認した。
伝票には、こう書かれている。
川島宅復旧発電用。
帰宅対象児受け入れ予定地。
用途確認済み。
その文字を見た時、川島はしばらく動けなかった。
自分の家が、ただの個人宅ではなくなっている。
晴斗が帰る場所として、紙に戻っている。
日が落ちる前、三枝と倉持が晴斗を連れてきた。
健二も少し離れて立っている。
直樹はいない。
近くに来れば、また話が変えられる。
だから、来ない。
晴斗は、小さなリュックを背負っていた。
玄関の前で止まる。
川島は、すぐには声をかけなかった。
入れとも言わない。
思い出せとも言わない。
ただ、玄関の灯りをつけた。
小さな電球が、薄く光る。
靴を置く場所が見えた。
台所の入口が見えた。
壁に下げた魚のキーホルダーが見えた。
晴斗の目が、そこに止まった。
「……さかな」
川島は頷いた。
「ああ。お前のだ」
晴斗は動かない。
川島も急がない。
倉持が記録用紙を持っている。
三枝は時計を見ている。
健二は、門の外で橋の方を見ている。
晴斗は、リュックの肩紐を握った。
それから、小さく言った。
「……はる」
川島の顔が歪んだ。
だが、泣かなかった。
「うん」
晴斗は玄関の段差を見た。
そして、消えそうな声で言った。
「……ただいま」
川島は一歩も近づかなかった。
ただ、少し横にずれた。
道を空けるように。
「おかえり、晴斗」
倉持のペンが、紙の上で止まった。
それから、ゆっくり動いた。
本人発語。
ただいま。
玄関前。
誘導なし。
呼称、晴斗。
反応、拒否なし。
入室、自発。
晴斗は靴を脱いだ。
小さな靴が、玄関の端に置かれた。
それだけのことだった。
だが、川島の家には、久しぶりに帰ってきたものがあった。
*
国境第三駐屯地で、相原は報告を受けた。
通学路灯火維持用燃料、一部供給。
炊き出し継続用ガス、追加供給。
夜間保温用灯油、受領。
川島宅復旧発電用燃料、受領。
証言者保全拠点維持、継続確認中。
さらに別紙。
晴斗、川島宅一泊試験。
玄関前発語、ただいま。
入室自発。
誘導なし。
記録者、倉持。
立会、三枝。
相原は、少しだけ目を閉じた。
勝ったわけではない。
白羽はまだいる。
浜倉もまだ終わっていない。
燃料も全部は戻っていない。
だが、今日、二つのものが動いた。
燃料。
そして、家。
*
夜、浜倉は事務所に一人で残っていた。
スマートフォンは机の上にある。
画面は暗い。
高く買うと言っていた業者からの連絡は、もうない。
白羽からもない。
父親は、事務所の奥の椅子を持っていった。
浜倉の椅子は、パイプ椅子に変わっていた。
机の上には、伝票が残っている。
供給保留。
未配送。
高値商談。
指定外確保。
用途別再照会。
追加便放出。
その横に、浜倉喜一の名前。
浜倉は、燃料を抱えていた。
だが、抱えていたのは燃料だけではなかった。
出し渋った時間。
止めた灯り。
冷えた教室。
散りかけた炊き出し。
個人宅扱いにした家。
それら全部が、自分の名前の下に置かれていた。
浜倉は、燃料を持っていれば強いと思っていた。
だが、燃料は持つものではなかった。
届けるものだった。
*
旧南第三のホワイトボードには、新しい線が引かれていた。
港から橋へ。
港から旧駅裏へ。
港から旧南第三へ。
港から川島宅へ。
黒い斜線のうち、いくつかが黄色い丸に変わった。
まだ全部ではない。
それでも、地図は昨日より少し明るい。
蓮が言った。
「川島さん、仕事になったの?」
三枝が答えた。
「今日から燃料配送補助です。正式には試用です」
「タンクローリーの運転手?」
「いいえ。最初は同乗補助です。封印番号を確認して、伝票と用途を合わせる仕事です」
美月が言った。
「名前を確認するみたい」
倉持が頷いた。
「似ています」
陸がホワイトボードを見た。
「間違えたら、違う場所に行く」
「はい」
「名前も、燃料も」
三枝は静かに答えた。
「そうです」
健二は、川島宅の黄色い丸を見ていた。
その横に、小さく書かれている。
晴斗、一泊試験。
外を見ると、橋の灯りが細くついていた。
その先に、川島の家の灯りが一つだけ見える。
強い灯りではない。
遠くから見れば、すぐに消えそうな小さな点だった。
だが、そこにある。
晴斗が帰った家に、灯りがある。
健二は、無線機に手を伸ばした。
二回だけ鳴らす。
直樹の声が返った。
「何だ」
「橋、ついた」
「ああ」
「川島さんの家も」
「見えてる」
健二は少し驚いた。
「兄ちゃん、見える場所にいるの?」
「遠くからな」
健二は窓の外を見た。
直樹の姿は見えない。
それでいいと思った。
「晴斗くん、ただいまって言った」
無線の向こうで、長い沈黙があった。
直樹は短く言った。
「記録したか」
「した」
「なら、残る」
健二は頷いた。
「うん」
直樹の声は静かだった。
「帰り道は、灯りだけじゃない」
「何?」
「仕事もだ」
健二は、川島の名前が書かれた配送補助記録を見た。
「川島さんの?」
「ああ」
直樹は言った。
「帰る家があっても、明日の仕事がなければ、人はまた流れる」
健二は黙った。
その言葉は、冷たくなかった。
ただ、現実だった。
「家と仕事」
「両方いる」
健二は、ホワイトボードに書いた。
帰る家。
明日の仕事。
それから、もう一行足した。
燃料は届けるもの。
無線の向こうで、直樹が言った。
「ケン」
「何」
「明日も、地図を見ろ」
「見る」
「黄色い丸だけ見るな」
健二は黒い斜線を見た。
まだ届いていない場所。
まだ帰っていない人。
「黒いところを見る」
「そうだ」
無線が切れた。
*
その夜、川島の家では、味噌汁の湯気が上がっていた。
晴斗は食卓の前に座っている。
川島は向かいに座らない。
少し斜めに座る。
見張るようにしない。
逃げ道をふさがない。
旧南第三で決めた通りだった。
「熱いぞ」
川島が言った。
晴斗は椀を見た。
湯気の向こうに、小さな魚の箸置きがある。
「……さかな」
「ああ」
「……かわ」
「うん。川もある」
川島はそれ以上言わなかった。
晴斗は味噌汁を一口飲んだ。
そして、少しだけ眉を動かした。
川島は聞きたいことがたくさんあった。
覚えているか。
怖くないか。
ここで眠れるか。
俺を叔父だと思えるか。
だが、聞かなかった。
名前を急がない。
返事を待つ。
それが決まりだった。
晴斗は、椀を両手で持ったまま、小さく言った。
「……あったかい」
川島は頷いた。
「ああ」
それだけで、今日は十分だった。
*
翌朝の記録欄は、まだ空白だった。
晴斗が朝まで眠れたか。
途中で不安定になったか。
川島が急かさなかったか。
白羽側がどう反応するか。
何も終わっていない。
だが、夜は一つ越えた。
浜倉は、燃料を抱えて値段を待った。
川島は、燃料を届けて朝を待った。
同じ港から出たものが、一方では在庫になり、一方では灯りになった。
その違いを、旧南第三は記録した。
燃料は、抱えた者のものではない。
届いた場所で、初めて意味を持つ。
倉持は、その一文を書いてから、少しだけ迷った。
そして下に、小さく足した。
名前も、同じ。




