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第三十二話 燃料の値段

## 第三十二話 燃料の値段


 橋の灯りは、夕方になっても点かなかった。


 昨日、ようやくついた仮設灯だった。


 低い欄干。

 錆びた支柱。

 暗くなると足元が消える橋。


 そこに一つだけ白い灯りがついた時、川島は小さく息を吐いた。


 帰れる道に近づいた。


 健二も、そう思った。


 だが次の日、その灯りは沈黙していた。


 夕方の空は重い。

 雲が低い。

 川の匂いが湿っている。


 南岸復旧組合の年配の男が、仮設灯の横で発電機のキャップを開けていた。


 中を覗き、短く舌打ちした。


「空だ」


 健二は近づいた。


「どうしたんですか」


「燃料だ」


「昨日入れたんじゃ」


「半日分だけな。今日の分が来ねえ」


 健二は橋の向こうを見た。


 川島の家へ続く道は、日が落ちるとすぐ暗くなる。


「不足ですか」


 年配の男は、発電機の蓋を閉めた。


「不足じゃねえ」


「じゃあ」


「港にはある」


 その言い方で、健二は分かった。


 燃料がないのではない。


 来ない。


「誰が止めてるんです」


 男は川の方を見た。


「誰かが止めてるんじゃねえ。出す順番を変えたんだと」


「順番?」


「病院、行政、登録避難所、冷凍倉庫、港湾車両、指定輸送。それから先だとよ」


「旧南第三は」


「再評価中」


 男は、苦い顔で笑った。


「便利な言葉だな」


 健二は答えなかった。


 再評価中。


 その言葉は、昨日から旧南第三の上に置かれている。


 直樹の経歴。

 特定元自衛官。

 宇都宮駐屯地。

 中央即応連隊。

 重要監視対象。


 紙の上で旧南第三を揺らした言葉が、今度は橋の灯りを消している。


 男は発電機を軽く蹴った。


「灯りは電気でつく。電気は燃料でつく。燃料は港から来る。港が渋れば、道は暗くなる」


 健二は橋を見た。


 昨日、見えるようになった道。


 今日、また見えなくなりかけている道。


「取りに行けば」


「売ってくれりゃな」


「売らないんですか」


「値段を上げてる。あと、顔を見る」


「顔?」


「誰の紹介か。どこの登録か。どこの荷物を通してるか。要は利益になるかだ」


 年配の男は、健二を見た。


「燃料には、値段がつく」


     *


 港には、燃料があった。


 南浜漁港の奥に、低いタンクが並んでいる。


 軽油。

 灯油。

 ガソリン。

 発電機用の缶。

 船用のドラム缶。

 ガスボンベ。


 岸壁には、白い発泡スチロールが積まれていた。


 冷凍倉庫の機械音が続いている。


 フォークリフトが動いている。


 白い息を吐きながら、男たちが荷を運ぶ。


 不足している港の音ではなかった。


 南浜燃料商会の事務所は、岸壁の二階にあった。


 窓から港が見える。


 古いストーブが赤く光っている。


 そのストーブだけは、よく燃えていた。


 机の上には、注文伝票とスマートフォンが並んでいる。


 南浜燃料商会の浜倉喜一は、二十代後半に見えた。


 まだ港の匂いが身体に染みていない男だった。


 新しいダウンジャケット。

 傷のない靴。

 妙に目立つ腕時計。

 漁港の役員である父親の名前で、この事務所に座っている。


 本人は、それを実力だと思っている顔をしていた。


 浜倉はスマートフォンを指で弾きながら言った。


「ないわけじゃないっすよ。安く出せる分がないだけで」


 向かいに座っていたのは、浦戸仲買組合の男だった。


 名前は洲崎。


 背は低いが、首が太い。


 白羽の職員のような柔らかさはない。


 青葉生活輸送の者たちのような粗さとも違う。


 港で長く人を待たせてきた男の顔だった。


「旧南第三が困ってるそうだ」


 洲崎が言った。


 浜倉は笑った。


「困ってるところに安く出したら、こっちが困りますよ」


「橋の灯りが消えた」


「橋、燃料代払うんすか」


「炊き出しも止まる」


「炊き出しって、利益出るんですか」


 浜倉は、机の上の伝票を一枚指で叩いた。


 白羽地域物資管理株式会社。

 指定輸送燃料。

 優先供給。


「こっちはちゃんと契約ありますから」


 洲崎は、その伝票を見た。


「処置室の件で、白羽の名前が悪くなった」


「だからこそじゃないですか」


 浜倉はスマートフォンを伏せた。


「今、白羽の配送を止めなかった港って、評価されますよね」


「評価が欲しいのか」


「評価っていうか、枠ですね。優先枠」


「燃料の」


「燃料も、倉庫も、配送も。こういう時に押さえた方が勝ちじゃないですか」


 洲崎は、少しだけ目を細めた。


 浜倉の言葉には、重さがなかった。


 港を背負っている男の言葉ではない。


 相場を見て、枠を見て、誰が困っているかを見て、そこに値段をつけるだけの男の言葉だった。


「旧南第三に出す気はないのか」


「再評価中なんですよね」


「便利な言葉だな」


「便利ですよ。こっちが悪者にならない」


 浜倉は軽く笑った。


「登録外の発電機。非認可の炊き出し。個人宅の復旧用燃料。全部、今は危ないって言えます」


「危ないのか」


「危ないことにできるんじゃないですか」


 洲崎は、机の向こうの若い男を見ていた。


 浜倉は、自分が港を動かしていると思っている。


 実際には、港に座らされているだけだった。


 父親の名前。

 役員の席。

 燃料の伝票。

 白羽との契約。

 不足ではなく、値上がり。


 それらがたまたま彼の前に置かれただけだった。


 だが、人はそれを権力と間違える。


 浜倉は窓の外を見た。


 岸壁に、燃料を積んだ小型トラックが二台並んでいる。


「旧南第三には、急がなくていいですよ」


「誰の指示だ」


「俺の判断です」


 浜倉は少し胸を張った。


「今は、港が決める時期なんで」


 洲崎は笑わなかった。


 若い男の浅さは、時々、悪意よりたちが悪い。


     *


 旧駅裏の高架下では、鍋が冷えていた。


 いつもなら、夕方前には湯気が上がる。


 味噌の匂い。

 野菜の匂い。

 古い器を並べる音。

 誰かが咳をする音。

 名前を聞かれても首を振る女が、壁際に座る時間。


 だが、その日はガスがなかった。


 森谷佐和は、空の鍋を見ていた。


 片方だけ軍靴の男が、ガスボンベを持ち上げる。


 軽い。


「空だ」


「予備は」


「来てない」


 佐和は段ボール箱を開けた。


 中には、乾いた麺が少しと、古い缶詰がある。


 ガスがなければ、ただの荷物だった。


 作業着のまま座り込む男が言った。


「今日は飯、ないのか」


 佐和は答えられなかった。


 毛布の老女が、膝を抱えた。


 名前を聞かれても首を振る女は、いつもより早く立ち上がろうとしている。


 片方だけ軍靴の男が、それを見た。


「みんないなくなるぞ」


 佐和は頷いた。


「分かってる」


「飯が出ないと、人は消える」


「分かってる」


「散ったら、次に集めるのは難しい」


 佐和は、鍋の縁を握った。


 ここにいた人たちは、白羽に見られていなかった人たちだった。


 見られていないから、見ていた。


 処置室二の裏口。

 箱の破片。

 紙片。

 反復音声。

 なお。


 この高架下に人が集まっていたから、晴斗の名前に近づけた。


 炊き出しが止まると、人は散る。


 証言も散る。


 佐和は言った。


「ガスがないと、ここはただの高架下です」


 軍靴の男は、古いライターを取り出した。


 火花だけが出た。


 鍋は温まらなかった。


     *


 旧南第三では、暖房を一つ止めた。


 教室の窓には、薄い結露がついている。


 悠太は音の少ない部屋に移されていた。


 美月は毛布を数えている。


 陸は在庫表を見ていた。


「灯油、今日の夜で半分以下です」


 倉持が記録する。


 灯油残量、夜間分不足。

 発電機燃料、残り少。

 無線充電、節約運用。

 橋仮設灯、燃料未着。

 炊き出し場、ガス未着。


 蓮は窓の外を見ていた。


「白羽が来たの?」


 三枝は首を横に振った。


「白羽の車は来ていません」


「じゃあ誰」


「港です」


「港?」


 蓮は眉を寄せた。


「海の?」


「燃料がそこを通ります」


 颯太が聞いた。


「灯油って、港から来るの?」


 三枝は少し考えた。


「全部ではありません。でも、今このあたりに来る分は港を通ります」


「じゃあ、港が止めたの?」


 答えづらい問いだった。


 港が止めたのか。

 燃料商会が止めたのか。

 仲買人が止めたのか。

 北側の通達が止めたのか。

 白羽との契約が止めたのか。


 誰か一人が止めたわけではない。


 だから、余計に止まる。


 相原が入ってきた。


 手には、港からの回答書があった。


「南浜燃料商会からです」


 倉持が顔を上げる。


「回答は」


「旧南第三については、支援環境再評価中のため、直接供給を一時保留。発電機、暖房用灯油、炊き出し用ガスについては、登録施設および指定避難拠点を優先」


 蓮が言った。


「また再評価」


 美月が毛布を握った。


「寒い子から先に渡します」


 三枝が頷いた。


「お願いします」


 川島も来ていた。


 古い上着を着て、手袋を持っている。


「うちに灯油、少しあります」


 健二が見た。


「どのくらいですか」


「一晩分くらい」


「川島さんの家で使ってください」


「でも」


「晴斗くんが帰る家です」


 川島は口を閉じた。


 自分の家の灯油をここに出せば、その家は冷える。


 帰る家を冷やしてまで、学校を暖めるべきか。


 誰にもすぐ判断できなかった。


 倉持が小さく言った。


「燃料の配分も、記録します」


     *


 無線は、二回だけ鳴らす約束だった。


 直樹は旧南第三に入らない。


 通達以降、相原も三枝も、その距離を保っている。


 だが、無線は完全には切らなかった。


 健二は、廊下の端で無線を握った。


「兄ちゃん」


 少し間があった。


「何だ」


「燃料が来ない」


「不足か」


「違う。港にはある」


 無線の向こうで、直樹が黙った。


 健二は続けた。


「橋の灯り、炊き出しのガス、旧南第三の灯油、川島さんの家の分、全部止まりかけてる」


「誰が言った」


「南浜燃料商会。浦戸仲買組合も絡んでるらしい」


 直樹は短く息を吐いた。


「港か」


「港に行く?」


「行かない」


 健二は、思わず聞き返した。


「行かない?」


「俺が行けば、港を脅した話になる」


「でも」


「行けば向こうの紙に乗る。元自衛官が燃料業者に接触。威圧。供給妨害。そう書ける」


 健二は歯を噛んだ。


「じゃあどうする」


「止めた奴を見るな」


「え?」


「燃料がどこに集まってるか見ろ」


 健二は黙った。


 直樹の声は低かった。


「足りないなら、全員が止まる。だが、港にはある。どこかには流れてる」


「白羽?」


「決めつけるな」


「じゃあ」


「冷凍倉庫。指定輸送。病院。登録避難所。港の車。船。燃料が残っている場所を見ろ」


 健二は、廊下の窓から外を見た。


 橋は暗い。


 でも、遠くの港の方は薄く明るい。


「届いていない場所じゃなくて、届いている場所を見る」


「違う」


「違う?」


「両方だ」


 直樹は言った。


「届いていない場所と、届いている場所を並べろ」


 健二は、息を吸った。


 地図だ。


 帰り道の地図ではない。


 燃料の地図。


「分かった」


「港には行くな」


「俺も?」


「お前は行っていい」


「何で」


「お前は見に行ける。俺は見に行くと事件になる」


 健二は、しばらく返事ができなかった。


 直樹は続けた。


「ケン」


「何」


「揉めるな」


「分かってる」


「殴られるな」


「分かってる」


「殴るな」


 健二は少し黙った。


「分かってる」


「相手は燃料を握ってる。正面から怒れば、値段がもっと上がる」


「じゃあ、何を持っていく」


「紙だ」


「紙?」


「注文書。未着記録。残量表。橋の灯りが消えた時刻。炊き出しが止まった人数。港で動いている車両の時刻」


 健二は、直樹の言葉を頭の中で並べた。


「証拠にする」


「違う」


「違うの?」


「最初は、地図にする」


 直樹は言った。


「地図になれば、誰が燃料を値段に変えたか見える」


     *


 健二は教室に戻った。


 ホワイトボードの前に立つ。


 子どもたちが見ている。


 倉持がペンを持っている。


 相原と三枝も黙っていた。


「燃料の地図を作ります」


 蓮がすぐ聞いた。


「帰り道の地図じゃなくて?」


「今日は燃料の地図です」


 颯太が言った。


「燃料の地図?」


 健二は頷いた。


「どこに燃料が届いているか。どこに届いていないか。どこの灯りが消えて、どこの暖房が残っているか」


 陸が在庫表を持って前に出た。


「旧南第三、灯油残り半分以下。発電機燃料、残り少。無線充電、節約」


 倉持が書く。


 美月が言った。


「毛布は二十七枚。厚いのは九枚」


 倉持が書く。


 千紘が無線記録を見た。


「炊き出し場、ガス未着。食事提供なし。人が散り始めてる」


 倉持が書く。


 蓮が言った。


「橋の灯り、昨日はついた。今日はつかない」


 倉持が書く。


 花音が地図の紙を広げた。


 昨日描いた帰り道の地図。


 そこに、黄色い丸を描く。


 橋。

 旧南第三。

 川島の家。

 旧駅裏。

 港。

 冷凍倉庫。

 指定避難所。


「黄色が燃料あるところ?」


 颯太が聞く。


 花音は頷いた。


「届いてるところ」


 蓮が黒い鉛筆を持った。


「じゃあ届いてないところは黒」


 橋の灯りに、黒い斜線が入る。


 旧駅裏にも、黒い斜線。


 旧南第三の暖房にも、小さな斜線。


 川島の家には、半分だけ斜線。


 花音が港の方に黄色い丸をたくさん描いた。


 蓮がそれを見て言った。


「あるじゃん」


 誰も笑わなかった。


 ある。


 燃料はある。


 だが、ここには来ない。


 それが地図になった。


     *


 南浜漁港に着いた時、健二は港の匂いに少し足を止めた。


 潮。

 軽油。

 魚。

 錆びた鉄。

 古いロープ。

 冷凍倉庫から漏れる白い冷気。


 南岸復旧組合の年配の男が一緒だった。


 健二一人では行かせないと言った。


 三枝も同行した。


 相原は旧南第三に残った。


 直樹は来ない。


 来てはいけない。


 港では、フォークリフトが動いていた。


 燃料を積んだ小型トラックが、白い伝票を挟んで出ていく。


 健二は時刻を見た。


 十五時十二分。


 倉持に渡すためにメモを取る。


 南浜燃料商会の事務所に入ると、浜倉喜一が顔を上げた。


 スマートフォンから目を離すのが、少し遅かった。


「何すか」


 年配の男が先に言った。


「燃料の件だ」


「順番待ちっすね」


「橋の灯りが消えた」


「橋って優先施設じゃないですよね」


「炊き出しも止まった」


「登録外ですよね」


「旧南第三も止まりかけてる」


「再評価中ですよね」


 浜倉は、言葉を準備していた。


 答えが早すぎる。


 自分で考えているのではない。


 使いやすい言葉だけを、先に拾っている。


 三枝が紙を出した。


「未着記録です」


 浜倉は見ようとしなかった。


「うちは決められた順で出してるだけなんで」


 健二が言った。


「不足してるわけじゃないんですね」


 浜倉は健二を見た。


「いや、不足してますよ」


「港にはあります」


「全部に安く出せる分はないって意味です」


「白羽地域物資管理株式会社の指定輸送には出ています」


 浜倉の目が少し変わった。


 三枝がその動きを見た。


 健二は続けた。


「冷凍倉庫にも出ています。港湾車両にも出ています。登録避難所にも出ています」


「だから優先順位ですって」


「旧駅裏の炊き出しは、ガスが来ないと人が散ります」


「うち、福祉じゃないんで」


「橋の灯りが消えると、川島さんの家から仮校舎への道が暗くなります」


「うち、道路管理じゃないんで」


「旧南第三の暖房が止まると、子どもが冷えます」


 浜倉は、少し面倒くさそうに笑った。


「だから何すか。うちはボランティアでも、困ってる人に配る係じゃないんで」


 健二は黙った。


 その通りだった。


 ここは支援施設ではない。


 でも、浜倉が供給を選べば、支援は止まる。


 三枝が言った。


「では、確認します。旧南第三周辺への供給保留は、南浜燃料商会の判断ですか。それとも浦戸仲買組合の判断ですか」


 浜倉は答えなかった。


 事務所の奥で、洲崎が煙草を消した。


「記録屋が来たのか」


 年配の男が、少し前に出た。


「洲崎」


「久しぶりだな」


「燃料で遊ぶな」


 洲崎は笑った。


「遊んでるのは俺じゃない」


 浜倉が少しむっとした。


「遊んでないですよ。相場です」


 洲崎は浜倉を見た。


「相場ねえ」


 浜倉は、少し早口になった。


「今、燃料は上がってるんです。みんな欲しがってる。だったら高いところ、契約あるところ、後で枠をくれるところに出すのが普通でしょ。こっちも商売なんで」


 年配の男が低く言った。


「親父の椅子に座って言うことか」


 浜倉の顔が赤くなった。


「親父は関係ないっすよ。今ここ見てるの俺なんで」


「お前が見てるのは、スマホの数字だろ」


 空気が少し硬くなった。


 健二は、直樹の言葉を思い出した。


 揉めるな。

 殴られるな。

 殴るな。


 洲崎が健二を見た。


「真柴の弟か」


 健二は答えなかった。


 年配の男が低く言った。


「その名前を港で出すな」


「出しただけだ」


「出すな」


 洲崎は肩をすくめた。


「兄貴は来ねえのか」


 健二は、ゆっくり答えた。


「来ません」


「賢いな」


 洲崎は笑った。


「来たら話が早かったのに」


 三枝が言った。


「どう早いのですか」


「港を脅した元自衛官。燃料供給への不当介入。そう書けば、分かりやすい」


 健二は拳を握った。


 年配の男が、健二の肩を軽く押さえた。


 洲崎はそれを見た。


「分かってるじゃねえか」


 健二は、ゆっくり息を吐いた。


 殴ってはいけない。


 今、ここで怒れば、燃料はもっと高くなる。


「今日は、確認に来ました」


 健二は言った。


「何を」


「燃料がどこに届いて、どこに届いていないか」


 洲崎の笑みが、少し消えた。


「何だそれは」


「橋の燃料は届いていません。旧駅裏のガスも届いていません。旧南第三の灯油も足りません。でも、港には残っている」


 健二は、伝票を見た。


「だから地図にします」


 浜倉が言った。


「それ、晒すってことですか」


「記録です」


 三枝が静かに言った。


「供給拒否ではなく、供給の偏りとして記録します」


 浜倉はスマートフォンを握った。


「偏りって言い方、悪意ありますよね」


「事実に近い言葉です」


「こっちは商売でやってるんですよ」


「商売として記録します」


 事務所が静かになった。


 脅迫ではない。


 告発でもない。


 正義の言葉でもない。


 ただ、値段と流れを紙にする。


 浜倉は、それを嫌がった。


 転売する者は、値段をつけることは好きでも、値段をつけた理由を残されることは嫌う。


     *


 旧南第三に戻る頃には、日が落ちていた。


 橋の仮設灯は、やはり点いていない。


 だが、花音の地図には、港の方に黄色い丸が増えていた。


 冷凍倉庫。

 指定輸送。

 白羽地域物資管理株式会社。

 港湾車両。

 登録避難所。


 黒い斜線も増えていた。


 橋。

 旧駅裏。

 旧南第三。

 川島宅。

 南岸復旧組合の重機。


 陸が言った。


「届いている場所と、届いていない場所が分かれてます」


 蓮が地図を見た。


「足りないんじゃない」


 美月が言った。


「来てないだけ」


 颯太が小さく聞いた。


「燃料って、帰り道にもいるんだね」


 三枝が頷いた。


「いります」


 倉持がホワイトボードに書いた。


 燃料不足ではない。

 供給の偏り。

 燃料が届く場所。

 燃料が届かない場所。

 価格と登録による分断。


 無線が鳴った。


 健二が取る。


「兄ちゃん」


「見たか」


「見た。港にはある」


「誰がいた」


「南浜燃料商会。浜倉。浦戸仲買組合の洲崎」


「揉めたか」


「揉めてない」


「殴ったか」


「殴ってない」


「殴られたか」


「殴られてない」


 直樹は、少しだけ間を置いた。


「ならいい」


 健二は地図を見た。


「兄ちゃん」


「何だ」


「届いてない場所と、届いてる場所を並べた」


「見えたか」


「足りないんじゃない。来てない」


「ああ」


「値段がついてる」


「燃料には値段がつく」


 健二は、年配の男が言った言葉を思い出した。


「でも、全部に値段をつけたら、帰れない人が出る」


 無線の向こうで、直樹は黙った。


 それから言った。


「そこを書け」


 倉持がペンを構える。


 健二は言った。


「燃料に値段をつけると、帰れない人が出る」


 倉持が書いた。


 教室の中で、誰も声を出さなかった。


 橋の外は暗い。


 だが、ホワイトボードの上では、燃料の流れが見え始めていた。


 直樹は言った。


「次は、燃料を待っている人間を数えろ」


「燃料そのものじゃなくて?」


「燃料は物だ。待っているのは人だ」


 健二は目を閉じた。


 旧駅裏の人たち。

 川島。

 旧南第三の子どもたち。

 橋を渡る人。

 仮校舎へ向かう人。

 夜を越す人。


「分かった」


「ケン」


「何」


「港は、燃料を握っているつもりだ」


「うん」


「こっちは、人を数えろ」


 無線が切れた。


 倉持が最後に一行を書いた。


 燃料を待っている人を数える。


 その日の夜、旧南第三は帰り道の地図の横に、燃料の地図を貼った。


 港には燃料があった。


 だが、届かなかった。


 不足ではない。


 値段だった。


 登録だった。


 顔だった。


 そして、その値段の向こうで、帰れない人が少しずつ増えていた。


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