第207話 帰還欄
## 第207話 帰還欄
追跡車両の前照灯が、後部窓の中で大きくなっていた。
高城はハンドルを握り直した。
施設側の運転手は助手席の奥へ押し込まれ、イネスに右腕を押さえられている。抵抗するたび、肩が座席へ深く沈んだ。
「動かない方が楽よ」
「どこへ持っていく」
「家族が帰れる場所」
「止まれ。後ろは本気だぞ」
高城は前方から目を離さなかった。
舗装路の右側へ、保守道路が落ちるように続いている。
道幅は狭い。
左右には低い石垣と、手入れの止まった畑。
並走はできない。
逃げ場もない。
直樹の声が閉鎖回線へ入った。
『高城、右へ入れ』
「はい」
『速度を上げすぎるな』
「追跡車両が近づいています」
『見えてる』
「距離を取らないと――」
『家族を壊して帰っても意味がない』
高城はアクセルを踏み込もうとしていた足を戻した。
「了解しました」
急な右折。
車体が左へ傾く。
荷台から、いくつもの息を呑む音が重なった。
高城はハンドルを戻し、車体を道路の中央へ置く。
窓の外を生け垣と枯れ枝が流れた。
ミラーを見る。
直樹たちの車両。
大庭隊の後方車両。
さらにその奥から、敵側の灯火。
隊列は切れていない。
誰も一人で残っていない。
それだけを確認して、前へ視線を戻した。
*
保守道路へ入って一分も経たないうちに、大庭から連絡が入った。
『整備工場裏に先回りがいる』
直樹が尋ねる。
「人数は」
『最低四。車両二。乗り換え地点を見られた』
前方に、整備工場へ抜ける分岐が見え始めていた。
第204話で確認した第一候補。
荷室は空いている。
車体も逃走路へ向いている。
状態も確認済みだった。
「主任教官、第一候補へ入りますか」
『入らない』
「車両自体は使用可能です」
『乗り換えている間に家族が外へ出る』
「大庭隊が周囲を押さえれば――」
『敵が先に見てる』
直樹の声は変わらなかった。
『動く車と、使える帰り道は同じじゃない』
高城は分岐を通り過ぎた。
整備工場の暗い建物が、木立の隙間から一瞬だけ見える。
その陰には、灯火を消した車両の輪郭。
選んでいた道が一つ消えた。
壊されたわけではない。
車両は動く。
それでも、家族を安全に乗せられない道は、帰り道にはならなかった。
「残りは果樹園ですね」
『ああ』
「農業用トラックは、すぐに出せません」
『分かってる』
「追いつかれる可能性があります」
『そこまで運べ』
「はい」
高城はそれ以上聞かなかった。
次の曲がり角。
次の坂。
次の減速。
今、自分が考えるのはそこまでだった。
十人を車内へ残したまま、果樹園へ届ける。
その先の時間は、他の者が作る。
*
追跡車両は、狭い道へ入ってから距離を詰めきれずにいた。
大庭隊は撃ち合いを始めなかった。
交差点へ入るたび、放置された農業機械や資材を動かす。
完全には塞がない。
車両一台が慎重に抜けられる幅だけを残す。
追跡側は止まり、車幅を確認し、速度を落とさなければならない。
その数十秒を積み重ねる。
敵を倒すためではない。
高城の車両が、次の角を曲がるための時間を作る。
『追ってくる一台が先行しました』
田所の声が入る。
『大庭隊後方車両との距離、約百五十メートルです』
「大庭」
『見えてる』
「深追いするな」
『してない。向こうが勝手に急いでる』
「果樹園へ戻れる距離を維持しろ」
『了解』
少し間を置き、大庭が言った。
『真柴、うちの車へ家族を分けるか』
「まだ分けない」
『果樹園の車は向きを変えるのに時間が掛かるぞ』
「分かってる」
『追いつかれる』
「その時間を作れ」
大庭が短く笑った。
『最初から、そのつもりだ』
*
果樹園の入口は、道路から見ただけでは分からなかった。
剪定されていない枝。
崩れかけた石垣。
錆びた農具。
その奥へ、土の道が一本続いている。
高城が車両を入れると、枝が側面を擦った。
細い音が車内へ長く続く。
木立の奥に、農業用の中型トラックがあった。
荷台には古い収穫箱。
車体の前には農具。
後方には低い石積み。
すぐには道路へ出せない。
分かっていた欠点だった。
大庭隊の二人が先に入り、農具を動かしている。
一人が荷台を持ち上げる間、もう一人が周囲を警戒する。
誰も一人ではない。
直樹たちの車両が横へ付いた。
「全員、降車準備」
江藤の声が荷台へ届く。
「家族ごとに動きます。河合房江さんからです」
高城は運転席を離れ、農業用トラックへ走った。
エンジンを確認する。
一度目は始動しない。
胸の奥が冷えた。
もう一度。
低い振動が車体へ戻る。
「始動しました」
田所が後方へ回った。
「高城さん、自分が誘導します」
「お願いします」
高城は運転席へ入る。
後ろの石積みとの間隔は狭い。
ここで焦れば、最後の車両を自分で壊す。
「後方、確認できています」
田所の声が窓の外から入る。
「ゆっくり下がってください」
高城はクラッチをつなぐ。
車体がわずかに動く。
「そのままです」
ミラーには、田所の腕と手だけが見えた。
右。
止まれ。
左へ切る。
一つずつ。
高城は、自分の目だけで車両を動かそうとしなかった。
「右後方、余裕があります」
「下がります」
「はい。もう少しです」
車体が石積みを離れる。
「止めてください」
ブレーキを踏む。
田所が車体の前へ回った。
「道路方向へ出せます」
「ありがとうございます」
「まだです。全員を乗せてからです」
「はい」
*
河合房江が折り畳み担架で運ばれてくる。
芦田と大庭隊員が担架を持ち、修司が横を歩く。
真由。
直人。
陽斗。
誰も離れない。
江藤が一人ずつ確認する。
「河合修司さん」
「います」
「河合真由さん」
「はい」
「河合直人さん」
「います」
「河合陽斗さん」
「ここ」
「河合房江さん」
「いるよ」
五人。
同じ車両。
次に西村家。
隆司。
理沙。
紬。
三人を一緒に乗せる。
最後に朝倉結衣と海斗。
二人の間を離さない。
江藤の手元には、十枚の名札があった。
荷物を数えるのではない。
人数だけを見るのでもない。
名前を呼び、本人の声を聞く。
十人が荷台へ入った。
芦田と江藤も乗る。
田所は最後尾へ残った。
直樹が後方道路を見る。
遠くで、前照灯が木々の隙間を横切った。
「俺が残る」
直樹が言った。
田所が振り向く。
「主任教官、単独残留は認められません」
「乗車が終わるまで後ろを持つ」
「交代で維持します」
「時間がない」
「ですから、一人にはしません」
直樹の目が田所へ向く。
「命令だ」
「目的に反する命令です」
田所は声を荒らげなかった。
「主任教官も帰還人数へ入っています」
直樹が何か言いかける。
イネスが横から言った。
「今回は田所が正しいわ」
「お前まで」
「一人で残る理由を、人数で説明できる?」
「時間を作る」
「大庭隊と交代すれば作れる」
イネスは農業用トラックを指した。
「JINも一人。数えなさい」
追跡車両の光が近づいてくる。
大庭隊が後方へ二人。
直樹とイネスが中央。
田所がトラック側。
互いの姿が見える。
互いに支援できる。
誰も一人にはならない。
直樹が言った。
「三十秒交代」
「はい」
「追うな」
「了解しました」
「乗車が終わったら全員戻る」
「はい」
江藤が荷台から報告する。
「保護対象十名、乗車完了しました」
高城が運転席から声を出す。
「発進できます」
大庭が後方から戻ってくる。
『先行車両が果樹園入口へ入りました』
直樹が答える。
「全員、車両へ」
『最後尾は』
「交代で戻す」
『やっと学んだな』
「後で聞く」
大庭隊が順に車両へ戻る。
最後に直樹とイネス。
誰も置いていかない。
高城は農業用トラックを発進させた。
*
果樹園を出た直後、追跡側から小銃弾が数発飛んできた。
狙いは定まっていない。
木の幹。
石垣。
道路脇の標識。
乾いた音だけが近づいてくる。
「頭を下げてください!」
江藤の声が荷台へ響く。
親が子どもを抱える。
結衣が海斗の頭を胸へ引き寄せる。
房江は担架の上で身体を丸められない。
修司と直人が左右から覆う。
高城は速度を上げすぎなかった。
路面が荒い。
荷台を跳ねさせれば、房江の身体が持たない。
それでも遅ければ、追いつかれる。
アクセルを踏む。
戻す。
曲がり角の前で減速する。
立ち上がりで再び踏む。
追っ手より速く走るのではない。
人を壊さず、止まらずに走る。
『国境第三まで四キロ』
大庭の声が入る。
『後方二台。距離は維持してる』
直樹が尋ねる。
「別働は」
『南側道路に一台。先回りする可能性がある』
「相原へ送れ」
『送った』
荷台で、房江が苦しそうに息を吐いた。
真由が江藤を呼ぶ。
「息が浅いです」
「芦田さん」
「確認します」
芦田が脈と呼吸を確認する。
医療判断はしない。
体位を調整し、衣服を緩め、呼吸を妨げるものを外す。
「止められませんか」
修司が言った。
江藤は窓の外を見る。
後方の灯火。
遠くで響くエンジン。
「今は止まれません」
「このまま何かあったら」
「すぐ安全になるとは言えません」
修司の顔が歪む。
江藤は房江の手へ触れた。
「でも、家族を分けません」
真由が房江の肩を支える。
直人が担架の足元を押さえる。
陽斗は母親の背中へ身体を寄せる。
西村隆司が担架の反対側を持った。
理沙は紬と朝倉姉弟を自分の近くへ集める。
一つの家族だけではなかった。
同じ車両に乗った者同士が、互いの身体を支え始めていた。
*
国境第三の外灯が見えた。
遠くに門の輪郭。
高城は喉の奥で息を吐く。
だが、門は閉じたままだった。
直樹が相原を呼ぶ。
「国境第三、応答しろ」
『聞こえている』
「保護対象十名。河合家五名、西村家三名、朝倉姉弟二名」
『確認している』
「児童四名。未成年者一名。歩行困難者一名」
『上は収容を認めていない』
「後方から武装車両二。南側から別働一」
『こちらでも見えている』
「門を開けろ」
相原はすぐに答えなかった。
『開ければ、国境第三がこの移送へ関与したと見なされる』
「ここまでの作戦を認めろとは言ってない」
『同じ車列を受け入れる』
「今、門の外にいる人間を見ろ」
通信が静かになる。
相原は門内にいる。
双眼鏡を持ち、近づく車列を見ていた。
偽造書類ではない。
行政上の説明でもない。
荷台に乗る家族。
身を寄せ合う子ども。
担架に横たわる房江。
後方から迫る武装車両。
相原の声が戻る。
『親子分離状態を確認』
門内で、人が動く。
『家族記録欠落者二名』
門衛が端末を開く。
『歩行困難者一名。未成年者を含む民間人十名』
相原が息を吸った。
『現地確認による緊急保護へ切り替える』
直樹は何も言わない。
『門を開けろ』
重い門が動き始めた。
UNの車両は、まだ見えていなかった。
相原は国際部隊の到着を待たず、自分の責任で門を開けた。
*
イネスは別の回線を開いた。
「地域連絡部、イネス・モロー」
返答は英語だった。
彼女は短く状況を伝えた。
民間人十名。
児童四名と未成年者一名。
歩行困難者一名。
武装車両による追跡。
国境線へ向かっている位置。
こちらから追跡側へ攻撃していないこと。
『介入要請か』
「観察要請よ」
『武装支援は』
「求めない」
「この車列が境界を越えるまで、記録を切らさないで」
『情報をUN統合作戦窓口へ共有する』
「現地巡回隊は、緩衝区域内の民間人保護権限を持っている?」
『任務区域内での差し迫った危害については、現地指揮官が判断できる』
「なら、位置と映像を送って」
『巡回変更を決めるのはUN側だ』
「分かってる」
数秒後、別の音声が入った。
『UN現地巡回隊が、民間人への差し迫った脅威と判断。経路を変更する』
直樹が尋ねる。
「部隊を呼んだのか」
「違うわ」
イネスは西側の道路を見る。
「情報を渡しただけ。来ると決めたのは向こうよ」
*
門まで、残り三百メートル。
後方の追跡車両が速度を上げた。
南側から回り込んだ別働車両も、低い丘の陰へ入っている。
高城は、国境第三の門が開いていく速度を見た。
間に合う。
そう思った直後だった。
大庭の声が閉鎖回線へ飛び込む。
『右後方、発射光!』
高城には見えなかった。
低い斜面。
枯れ草。
灯火を消した車両。
その陰から、対装甲擲弾が発射されていた。
敵側の無線へ別の声が割り込む。
『西側道路に車列』
『白色車両だ。UN標識』
『射撃中止』
『もう出た。止められない!』
UNを確認してから撃ったものではない。
発射時刻と傍受無線が、それを示していた。
だが、擲弾はすでに飛んでいる。
高城がミラーの端に、尾を引く光を見た。
「伏せてください!」
叫んだ直後、擲弾が農業用トラックの左後輪脇にある低い石積みへ斜めに当たった。
白い閃光。
腹の底を殴る衝撃。
爆圧と石片が、左後輪と車軸の下へ突き抜ける。
破片の主方向は荷台の中心を外れた。
それでも衝撃は車内まで届いた。
高城の肩が扉へぶつかる。
頬に細い痛み。
ハンドルが手の中で激しく跳ねた。
左後方から、金属を引き裂く音が続く。
トラックが道路の端へ流れた。
荷台から悲鳴が上がる。
高城はハンドルへ身体をかぶせる。
急にブレーキを踏めば、後ろが振られる。
右へ倒せば、家族が潰れる。
足を小刻みに使い、車体の向きを戻した。
左後方が沈む。
タイヤだけではない。
車軸か、駆動部まで壊れている。
トラックは黒い煙と破片を引きずりながら数十メートル進んだ。
そこで力を失った。
エンジン音だけが空回りする。
「走行不能です」
高城は自分の声が遠く聞こえた。
左耳に高い音が残っている。
頬へ触れると、指先に薄く血が付いた。
「左後方、駆動できません」
荷台では江藤が名前を呼んでいた。
「河合修司さん!」
「いる!」
「河合真由さん!」
「います!」
「河合直人さん!」
「ここです!」
一人ずつ。
十人。
全員が返事をする。
複数人に打撲と小さな裂傷。
房江の呼吸はさらに浅い。
だが、誰も車外へ投げ出されてはいない。
高城はハンドルへ額を付けそうになり、踏みとどまった。
門まで百数十メートル。
届かなかった。
*
爆発とほぼ同時に、西側の稜線から白い装甲車が姿を現した。
三台。
青い識別灯。
車体側面のUN標識。
イネスは、自分が送った位置情報と、車列の到着時刻を端末で照合した。
先頭車両の監視装置は、すでに作動している。
爆発。
飛来方向。
追跡車両。
発射後に出された射撃中止命令。
同じ時刻情報の中へ残る。
「最悪ね」
イネスが呟いた。
直樹が停止したトラックへ向かおうとしている。
「JIN」
「家族を見る」
「射手は?」
「追わない」
射手を取りに行けば、家族から離れる。
直樹は後方へ一歩も出なかった。
先頭のUN装甲車が加速した。
停止したトラックと追跡車両の間へ、車体を斜めに入れる。
二台目が並ぶ。
三台目は国境側へ寄り、民間人車両から門までの搬送路を確保した。
追跡側の先頭車両は、まだ完全には止まっていない。
UN装甲車の上部武装が旋回する。
銃口は車両そのものではなく、追跡車両前方の高い土の法面へ向いた。
拡声器から警告が響く。
「直ちに停止してください」
「これ以上の接近は、民間人に対する継続攻撃と判断します」
追跡車両は進み続けた。
UN側がもう一度警告する。
「停止してください」
「武器へ触れないでください」
先頭車両がなお数メートル進んだ。
短い連射音。
弾着が土の法面を縦に跳ね上げた。
土煙が、進路の先へ明確な停止線を作る。
追跡車両が急停止した。
後続も止まる。
次の射撃が、車両の停止を目的とすることは、追跡側にも伝わった。
UN装甲車の後部扉が開く。
武装した要員が下車する。
銃口を無闇に振らない。
間隔を保ち、装甲車の間へ防護線を作る。
一班は停止したトラックへ。
一班は追跡側へ。
もう一班は発射地点を見失わない位置へ展開した。
現地指揮官が拡声器を取る。
「追跡車両はエンジンを停止してください」
「乗員は武器へ触れず、指示があるまで車内で待機してください」
敵側の指揮官が無線で抗議した。
『不法に奪われた車両だ』
「車両所有権は現場で判断しません」
『UN到着前に発射した』
「到着時刻は、民間人保護を停止する理由になりません」
『我々を拘束するのか』
「現時点で司法判断は行いません」
UN指揮官の声は平坦だった。
「民間人への攻撃を継続できない状態に置き、身元、武器、車両、発射地点を記録します」
「その後の扱いは、任務協定に基づいて判断されます」
『民間人が乗っているとは知らなかった』
「その主張も記録します」
UN指揮官は言葉を変えなかった。
「民間人輸送車両への爆発性兵器の使用を確認しました」
「重大な国際人道法違反の疑いとして、発射者と命令系統を記録します」
「これ以上接近しないでください」
それ以上の法的な応酬は続かなかった。
医療班が、すでに停止したトラックへ走っていた。
*
相原から通信が入る。
『門は開いている』
直樹が答える。
「車両が動かない」
『搬送班を出す』
「国境外へ出ることになる」
『現地確認による緊急保護を宣言した』
相原の声は硬かった。
『門から民間人車両までを、一時保護区域として扱う』
「上が認めるか」
『あとで争う』
直樹は爆発した車両を見る。
UN部隊。
国境第三から出てくる搬送班。
追跡側との間に置かれた白い装甲車。
「了解」
荷台が開いた。
江藤が先に降りる。
脚は震えていた。
それでも、手には十枚の名札がある。
「家族単位で降ります!」
芦田が房江の状態を確認する。
「担架を使います」
直樹と田所が左右を持つ。
イネスと大庭隊が後方を警戒する。
誰も射手を追わない。
誰も撃った相手を取りに行かない。
家族を門へ帰す。
それだけを行う。
「河合家から動きます」
江藤が呼ぶ。
「全員、房江さんのそばを離れないでください」
修司。
真由。
直人。
陽斗。
房江。
五人が一つのまとまりで歩く。
次に西村家。
隆司。
理沙。
紬。
三人が手を離さない。
最後に朝倉結衣と海斗。
結衣が海斗の手を強く握る。
「走らなくていいです」
江藤が言った。
「一緒に歩いてください」
UNの記録要員が人数を撮影する。
名前。
家族関係。
到着時の状態。
攻撃直後の負傷。
第三者の記録が残る。
国境第三の搬送班が門から走ってくる。
境界線上で、UN医療班と担架を受け渡す。
指揮を奪わない。
家族を分けない。
必要な支援だけを出す。
追跡側の車両は停止したままだった。
その乗員は、武器へ触れられない位置で待機を命じられている。
逮捕ではない。
有罪判決でもない。
攻撃を続けられない状態へ置き、後の調査へ渡すための一時的な統制だった。
*
高城は壊れたトラックから最後に降りた。
左耳の高い音は消えていない。
頬の傷から、まだ薄く血が流れていた。
右肩を動かすと痛む。
直樹が高城を見る。
「歩けるか」
「はい」
「本当にか」
高城は一歩踏み出す。
膝は動く。
「歩けます」
「田所」
「はい」
「高城の横へ付け」
「了解しました」
「自分で歩けます」
高城が言う。
田所は腕を取らず、半歩横へ付いた。
「分かっています」
「では、なぜですか」
「一人で歩かせないためです」
高城は返事をしなかった。
否定もしなかった。
UN装甲車が作った防護線の内側を通り、二人は開いた門へ向かう。
*
大庭隊の車両も順に門へ入った。
最後に残ったのは、直樹、イネス、大庭。
直樹は後方を見たまま立っている。
イネスが言った。
「振り返らなくていいわ」
「全車入ったか見てる」
「そう」
イネスは少しだけ笑った。
「昔なら、撃つ相手を見ていた」
直樹は答えない。
大庭隊の最後尾車両が門を越える。
大庭が直樹の肩を軽く叩いた。
「全員入った」
「入るぞ」
三人が境界を越える。
直樹が門衛へ言った。
「閉めろ」
門がゆっくりと閉じた。
*
国境第三の保護区画で、江藤は十枚の名札を並べた。
河合修司。
河合真由。
河合直人。
河合陽斗。
河合房江。
西村隆司。
西村理沙。
西村紬。
朝倉結衣。
朝倉海斗。
UNの記録担当が、本人の声と名札を照合する。
強制的に連れ出されたのか。
家族を分けられていないか。
本人の意思は確認されたか。
質問は大人だけには向けられなかった。
子どもにも、親や近くの大人が聞こえる位置で尋ねられる。
陽斗は父親の服を握りながら答えた。
「兄ちゃんと一緒に来た」
紬は父親の膝の上で言った。
「お父さんとお母さんと来た」
結衣は海斗の手を持ったまま答える。
「二人で出るって決めた」
記録が残る。
敵側の主張だけでは消せない記録。
国境第三だけが作ったものでもない。
第三者の目の前で、十人が同じ場所へ到着したという記録だった。
次に任務側の人数確認が始まる。
施設へ入った六人。
真柴直樹。
イネス・モロー。
田所遼。
江藤沙月。
芦田真希。
高城真帆。
六人。
先に後送された四人。
安西冬馬。
森川亮介。
柴崎誠。
御厨奈々。
四人はすでに国境第三へ到着している。
森川と柴崎は医療区画。
御厨はその対応。
安西は後送車両と回収物の受領報告を終えていた。
十人。
誰かの欠員を、別の人間で埋めない。
大庭隊は大庭隊で、別の名簿を使って確認する。
同じ場所へ帰っても、帰還欄は混ぜない。
相原が内部記録を確認した。
「全員いるな」
田所が公開用の報告書を見る。
「主任教官たちの名前がありません」
「公開記録には出さない」
相原が答えた。
「UN巡回警備隊が武装追跡を確認。国境第三が民間人十名を緊急保護した。それだけだ」
「施設内での活動は」
「記録上、存在しない」
「大庭隊もですか」
「出さない」
「イネス大尉の観察要請は」
イネスが先に答えた。
「定期巡回中に状況を確認したことになるわ」
相原がイネスを見る。
「UNまで入れるとは聞いていない」
「入れてないわ」
「来ただろ」
「情報を渡しただけ。来ると決めたのはUN側よ」
「政治では違うのか」
「大きく違うでしょう?」
相原は数秒黙った。
「次からは先に言え」
「次があると思ってるの?」
「あんたたちを見てるとな」
イネスは否定しなかった。
田所は手元の内部記録を見る。
公開報告書には、直樹たちの名がない。
だが、別紙の帰還確認表には十人全員がいる。
「主任教官」
「何だ」
「公開記録に名前がなくても、問題ないんですか」
直樹は帰還確認表を見た。
「帰還欄にはある」
それだけだった。
*
夜明け前。
旧南第三へ先に戻るのは六人だった。
安西、森川、柴崎、御厨は国境第三へ残る。
負傷者の処置。
後送報告。
回収された重機関銃部品の引き渡し。
必要な仕事が残っていた。
学校の門には、健二が立っている。
車両の音が近づくと、内側から門を開けた。
その後ろに、めぐみ。
ミーシャ。
えり。
さらに八人の子どもたち。
誰も歓声を上げなかった。
血や土の付いた人間へ、英雄を迎えるように駆け寄る者もいない。
一人ずつ、顔を確かめる。
歩き方を見る。
足りない人間がいないかを数える。
高城が車両から降りると、田所がまだ半歩横にいた。
「もう大丈夫です」
「医療確認が終わるまでです」
「主任教官の命令ですか」
「自分の判断です」
「評価が下がるかもしれませんよ」
「承知しています」
高城は初めて、少し笑った。
めぐみは直樹の前へ立った。
顔。
肩。
腕。
手。
傷を探すように、一つずつ目で追う。
右手を隠していないことまで確認してから、直樹の顔へ戻った。
「おかえり、なお」
「ただいま」
めぐみはそれ以上言わなかった。
直樹も言わない。
今は、帰ったことだけでよかった。
少し離れた場所に、ミーシャが立っている。
直樹はミーシャへ向き直った。
「道を作ってくれて助かった」
「帰還してから言う約束でした」
「ああ」
「帰還しましたか」
直樹は学校の門を見る。
健二。
めぐみ。
ミーシャ。
えり。
八人の子どもたち。
自分と一緒に帰った五人。
国境第三にいる四人。
「帰った」
ミーシャが短く頷いた。
その時、情報室の端末が鳴った。
えりが表示を確認する。
「アレクセイさんです」
ミーシャの眉がわずかに動く。
直樹は端末の前へ立った。
音声だけが開く。
『帰ったそうだな、真柴直樹』
「帰った」
『家族は』
「十人全員、国境第三へ入った」
『お前の部下は』
「十人全員、帰還欄にいる」
回線の向こうで、紙を閉じる音がした。
『よろしい』
短い間。
『では、次は精算だ』
直樹は、隣に立つミーシャを見なかった。
めぐみからも目を逸らさなかった。
「分かってる」
『分かっている顔ではないな』
「帰ったら話す約束だった」
『そうだ』
アレクセイの声が低くなる。
『今度は、行き先を偽すなよ』
通信が切れた。
情報室に、朝の光が入り始めていた。




