第208話 渡したもの
## 第208話 渡したもの
情報室には、夜の熱が残っていた。
端末の排気。
閉じた回線の残響。
机の上には、すでに使えなくなった承認番号と、国境第三から届いた保護記録が並んでいる。
河合家五名。
西村家三名。
朝倉姉弟二名。
十人。
別紙には、直樹たち十人の帰還確認。
全員、生存。
全員、帰還欄に記載。
ミーシャは同じ画面を閉じ、また開いた。
数字は変わらない。
結果も変わらない。
それでも、指が止まらなかった。
首には、擦り切れたアフガンスカーフが巻かれていた。
端に古い破れ。
何度も縫い直された補修跡。
洗っても落ちなかった血と砂の薄い染み。
直樹が外人部隊にいた頃から使ってきた布だった。
今は、ミーシャの物だった。
直樹が自分の手で渡した。
新しい物はいりません。
これがいいです。
そう言ったミーシャに、直樹はただ、
そうか。
と答えた。
その布の長い方を、ミーシャは無意識に胸元へ押し込んでいた。
「四回目」
背後から声がした。
ミーシャは振り向かない。
「何がですか」
「同じ帰還記録を開いた回数」
イネスが紙コップを二つ持って入ってきた。
一つを机へ置く。
「砂糖は入れていないわ」
「頼んでいません」
「会話も頼まれてない」
「では、なぜ来たのですか」
「頼まれないと来ない人間ばかりなら、あなたは一人で壊れるでしょう」
ミーシャの指が止まった。
「壊れていません」
「そう」
「機能しています」
「それは見れば分かる」
イネスは隣の椅子へ座った。
「だから、機能以外の話をしに来たの」
「必要ありません」
「JINが帰った時、嬉しかった?」
「任務参加者全員の生還を確認しました」
「それは報告」
「事実です」
「あなたの話は?」
ミーシャは画面を閉じた。
「私はNAOを愛しています」
イネスの眉が、わずかに上がった。
ミーシャは視線を逸らさない。
「そこに迷いはありません」
「なら、何に迷ってるの?」
「押し通す自信がありません」
言ったあとも、ミーシャの表情は崩れなかった。
声だけが少し低くなった。
「私がNAOを愛していることは事実です」
「ええ」
「宮崎さんがNAOを愛していることも事実です」
「ええ」
「NAOが宮崎さんを選んでいることも、理解しています」
「それも事実ね」
「その前で、自分の感情を消さずに立ち続ける自信がないと言っています」
イネスは紙コップへ触れなかった。
「愛していることを疑っているんじゃない」
「はい」
「愛したまま、二人の前に立てるかが怖い」
「正確です」
「だったら、愛を諦めさせる話はしない」
ミーシャの目が動いた。
「私は、諦めろと言いに来たんじゃない」
「では、宮崎さんをどれほど探したかを話すつもりですか」
「知っていたの?」
「あなたの顔で分かりました」
イネスが小さく息を吐く。
「本当に可愛げがないわね」
「必要ありません」
「そこが可愛げのないところ」
ミーシャは無視した。
イネスが続ける。
「JINが記憶を取り戻したあと、最初に探したのは自分の所属じゃなかった」
「宮崎さんですね」
「そう」
「それを知れば、私が諦めると思ったのですか」
「逆よ」
イネスはミーシャを見た。
「彼がどういう男かを知らずに、自分の愛を押し通すことはできない」
ミーシャは黙った。
「JINは、目の前に新しい女が現れれば、過去を都合よく忘れるような男じゃない」
「存じています」
「めぐみを忘れられなかったから、あなたを愛せない。そんな単純な男でもない」
「NAOが私を愛していると断定するのですか」
「そこまではしない」
イネスはすぐに答えた。
「ただ、可能性がないとも言わない」
「根拠は?」
「彼も人間だから」
「不十分です」
「壁が大きいのは認めるわ」
「壁という表現も不正確です」
「十年以上の記憶。奈良。指輪。帰る場所。十分に壁でしょう」
「はい」
「でも、壁があることと、入口がないことは違う」
ミーシャの指が、スカーフの端へ触れた。
「入口」
「あなたはもう持っている」
「何を?」
「JINの内側へ入る切符」
「そのような物を受け取った記憶はありません」
「首に巻いているでしょう」
ミーシャの手が止まる。
「これはアフガンスカーフです」
「知ってる」
「正式に譲渡された私物です」
「それも知ってる」
「防寒具です」
「それだけだと思う?」
「NAOは、そのつもりでした」
「本人のつもりだけが、人間の行動の意味ではないわ」
情報室の入口で、紙が擦れる音がした。
二人が振り向く。
堀越が報告書を持って立っていた。
「そこは、自分が補足できます」
イネスが目を細める。
「いつから聞いてたの?」
「アフガンスカーフの少し前です」
「十分長いわね」
「失礼しました」
「謝るなら出ていきなさい」
「その前に一つだけ」
堀越はミーシャを見る。
「真柴が、あなたをどう認識しているかについてです」
「本人ではないあなたに分かるのですか」
「内心は分かりません」
堀越は報告書を机へ置いた。
「行動は分かります」
「同期だから?」
「中央即応連隊からの同期です」
堀越の声は淡々としていた。
「自衛隊にいた頃、あいつが一番危険だった時期を一緒に過ごしました」
「危険だった時期?」
「帰還できる見込みより、次の出動が先に決まるような時期です」
堀越は椅子へ座らなかった。
「負傷しても装備を手放さない。自分の水を飲まず、他人へ未開封を渡す。自分が使った物は、自分の身体と同じ管理区分に置く」
ミーシャがスカーフを見る。
「この布も?」
「特にそれは」
「外人部隊時代の物です。あなたは当時の同期ではありません」
「戻ってきてから見ています」
堀越は答えた。
「持ち物が変わっても、扱い方は変わりません」
「思い出として保存しているわけではありません」
「真柴なら、そう言います」
「まだ使えるから置いていただけです」
「それも正しい」
堀越は頷いた。
「使える物だから、誰にも渡さなかった」
「必要な者がいなかったのでは?」
「必要な者には共用品を渡しました」
「新しい物を?」
「はい」
「古い物を渡すのは失礼だからでは」
「それもあります」
堀越の目がスカーフへ向く。
「それでも、自分の匂いと汗と血が染みた物を、他人の生活圏へ置かなかった」
イネスが口を挟む。
「マーキングの話?」
「はい」
「言葉を選びなさい」
「選んでいます」
ミーシャが堀越を見る。
「説明してください」
「危機的な状況では、男女が一対で完結するとは限りません」
「また大きな話ですね」
「国家、法、食料、住居、医療が安定している時、人は制度に沿って一対の家族を作れます」
「安定していない時は?」
「生存可能な集団へ組み直される」
「一人の男と、複数の女性ですか」
「その形になることは多い」
イネスが腕を組んだ。
「男に都合のよい歴史ね」
「都合ではありません」
「動物学?」
「それも含みます」
堀越はミーシャから目を逸らさなかった。
「危機下では、生存能力の高い雄を中心に、複数の雌が生活共同体を作る。人間の歴史でも、動物の集団でも繰り返されています」
「人間を動物のコロニーと同じにするの?」
「人間も動物です」
「女性の意思は?」
「人間である以上、必要です」
「都合のよいところだけ文明的ね」
「自分は、男が女性を所有してよいとは言っていません」
堀越の声は変わらない。
「誰と暮らすか。誰を愛するか。誰の子を持つか。本人たちの意思が必要です」
「なら、何が正しいと言っているの?」
「一対一だけが自然だと決めつける方が不自然だと言っています」
イネスは黙った。
堀越は続ける。
「危機下の共同体としては、複数の成人が一つの家族を形成する方が、生存、養育、警護、生活維持の面で合理的な場合がある」
「それを、今の三人へ当てはめるのですか」
「結論は当てはめません」
「では?」
「真柴の身体が、すでに何を選んでいるかを説明しています」
ミーシャの目が細くなる。
「明確に言ってください」
堀越は一度だけ息を吸った。
「真柴は、宮崎さんを女性として認識しています」
「当然です」
「同じように、あなたも性別のない連絡要員としては見ていません」
「同じように、とは?」
「意味が同じということではありません」
堀越は答えた。
「宮崎さんは、真柴が意識して選んだ女性です」
「私は?」
「選んだと認識する前に、自分の範囲へ入れている女性です」
「それを、あなたは先ほどの言葉で何と呼ぶのですか」
堀越はイネスを一度見た。
止める気配がないことを確認した。
「雌として認識している、と言います」
部屋の空気が止まった。
ミーシャの表情は変わらない。
「不快です」
「承知しています」
「撤回してください」
「表現は撤回します」
堀越は頭を下げた。
「ただし、真柴があなたを女性として認識しているという観察は撤回しません」
「根拠がスカーフだけですか」
「十分です」
「十分ではありません」
「真柴が、自分の使用済みの私物を女性へ渡したことは、今まで一度もありません」
「宮崎さんには指輪があります」
「それは別です」
「なぜ?」
「指輪は、真柴が意味を理解して選んだ物です」
堀越はスカーフを見る。
「これは、意味を理解しないまま渡した物です」
「価値が低いということですか」
「比較できないと言っています」
堀越は即座に否定した。
「宮崎さんへの指輪は、未来を意識して渡した物です」
「このスカーフは?」
「現在の自分を、無意識に分けた物です」
ミーシャの指が布を握る。
「新しい物なら部屋にある、と真柴は言ったはずです」
「はい」
「あなたは、それを断った」
「これがよいと答えました」
「真柴は渡した」
「はい」
「誰にも渡さなかった物を」
堀越は短く息を吐く。
「中央即応連隊にいた頃から見ています」
「真柴は、自分が使った物を誰かへ渡しません」
「必要なら新しい物を取らせる」
「水も、服も、装備もです」
「自分の物を差し出すのは、自分の身体の一部を相手の生活圏へ置くのと同じです」
イネスが言った。
「無自覚なマーキング」
「そうです」
「所有の印?」
「違います」
堀越は否定した。
「自分の防護範囲から外さないという印です」
「本人は分かっているのですか」
「分かっていません」
「では、何の意味がありますか」
「本人に認識させる入口になります」
ミーシャはスカーフから手を離さなかった。
「私はNAOを愛しています」
「分かっています」
「愛しているかどうかに迷ってはいません」
「はい」
「それを宮崎さんの前で持ち続けてよいのか、自信がないだけです」
堀越は答えなかった。
イネスが代わりに言う。
「それが、あなたの壁ね」
「はい」
「だったら、無いことにする必要はない」
「宮崎さんを傷つけます」
「傷つける可能性はある」
「NAOを困らせます」
「確実に困るでしょうね」
「それでも言えと?」
「答えを強制せず、自分の気持ちを存在させることはできる」
ミーシャは二人を見る。
「私にチャンスがあると、本当に思うのですか」
イネスはすぐに答えた。
「ある」
「大きいですか」
「壁と比べれば小さい」
「正直ですね」
「嘘を言えば、あなたはすぐ見抜く」
「保証は?」
「ない」
「宮崎さんが拒絶する可能性は?」
「ある」
「NAOが、任務上の信頼だったと結論づける可能性も?」
「あるわ」
「では、なぜチャンスと呼ぶのですか」
イネスはミーシャの首元を指した。
「その入口は、他の誰にも渡されていないから」
「スカーフを持っているから?」
「それだけじゃない」
「あなたは彼を知っている」
「彼が強いだけの男ではないことも、壊れることも、逃げることも知っている」
「そのうえで愛している」
「そして彼は、あなたに自分の過去が染みた物を渡した」
イネスの声が少し柔らかくなる。
「その切符は、私にも手に入らない」
「アレクセイが作ることもできない」
「めぐみから奪うこともできない」
「JINが、自分であなたに渡したものよ」
ミーシャは目を閉じなかった。
「私は、目的地を求めています」
「切符は目的地を保証しない」
「使わなければ?」
「それもあなたの選択」
「捨てれば?」
「捨ててもいい」
イネスは立ち上がった。
「でも、持っていないふりだけはやめなさい」
ミーシャはしばらく黙っていた。
やがて、スカーフの端を首元へ収め直した。
「捨てるつもりはありません」
「それでいい」
「使用する自信もありません」
「今は、それでもいい」
*
閉鎖回線が開いたのは、一時間後だった。
情報室にいるのは、直樹、ミーシャ、イネス、えり。
画面に映ったアレクセイの机には、赤い手帳が置かれている。
姿勢。
声。
視線。
いつもと変わらない。
少なくとも、最初はそう見えた。
『十人は』
「国境第三にいる」
直樹が答える。
『状態』
「一名治療継続。複数名に軽傷。全員意識あり」
『UN記録は』
「着弾、発射方向、追跡車両、乗員を記録した」
『射手は』
「身元確認中」
『お前の要員は』
「十人全員、帰還欄にいる」
アレクセイが頷く。
『旧承認系列は死んだ』
「分かってる」
『第二家族記録照合所は二度と使えない』
「ああ」
『農業管理所の回線も調べられる』
「接続は切った」
『直接経路はな』
アレクセイの指が、赤い手帳の表紙を一度叩いた。
『古い交換記録は残る』
「空の建物へ着く」
『一度目はな』
「次は別の道を作る」
『次を作る前に、今回の精算だ』
直樹は待った。
『なぜ、ミーシャを使った』
「必要だった」
『それは理由にならない』
声が、わずかに強くなった。
直樹は画面を見る。
アレクセイは、報告で声を乱さない男だった。
損失人数。
失敗した経路。
処分される部下。
死んだ人間。
何を口にしても、事実を一つずつ机へ置くように話す。
今、その順番が崩れた。
「自分で協力を選んだ」
『選ばせるための情報を、すべて渡したのか』
「渡してない情報はあった」
『ならば選択ではない』
「アレクセイ」
ミーシャが言った。
アレクセイの視線が動く。
『今はNaokiと話している』
「私の話です」
『だから私が聞いている』
「私の代わりに怒らないでください」
『怒ってはいない』
「怒っています」
ミーシャの声は静かだった。
「あなたが私のことで、報告の順番を崩すところを初めて見ました」
直樹も、同じことを考えていた。
アレクセイは普段、感情を言葉より先へ出さない。
娘を愛していても、その愛情を制度や配置の中へ隠す。
今は隠しきれていない。
直樹は、それを初めて見た。
自分がミーシャへさせたことは、単なる連絡要員への負担ではなかった。
この男が長年守り、同時に利用してきた娘を、帰れない可能性のある道へ入れた。
アレクセイの感情が崩れるほどのことだった。
直樹は、その重さを遅れて理解した。
「アレクセイ」
ミーシャが続ける。
「私は自分で協力しました」
『危険をすべて知っていたのか』
「いいえ」
『ならば――』
「それでも、利用されたかどうかを決めるのは私です」
『ミーシャ』
「私はNAOを愛しています」
直樹の目が動いた。
イネスも、えりも何も言わない。
ミーシャは直樹を見なかった。
画面のアレクセイだけを見ていた。
「これは、あなたの配置命令によって作られた感情ではありません」
『分かっている』
「分かっていません」
『何を』
「私がNAOを愛していることと、NAOが私へ何をしてよいかは別です」
アレクセイが黙る。
「愛しているから、危険を隠されてよいとは思いません」
「愛しているから、必要な時だけ呼ばれてよいとも思いません」
「愛しているから、断れないとも思いません」
ミーシャは初めて直樹を見る。
「NAO」
「聞いてる」
「私は、あなたを愛していることに迷っていません」
「ああ」
「その感情を、宮崎さんの前で押し通せる自信がないだけです」
直樹はすぐに答えられなかった。
ミーシャは答えを求めなかった。
「今回の話へ戻します」
「危険と撤退条件を、先に伝えてください」
「ああ」
「私が断る可能性を、計画へ入れてください」
「入れる」
「私が協力することを前提に、帰路を一つにしないでください」
「分かった」
「今の返事では足りません」
直樹はミーシャを見る。
彼女の首に、自分が使っていたアフガンスカーフがある。
渡した時は、防寒具だった。
それ以上の意味を考えなかった。
今、その布が、ミーシャの言葉と一緒に直樹の前へ戻っている。
「お前がいないと成立しない計画を、勝手に作らない」
「はい」
「危険を隠さない」
「はい」
「断っても、お前の責任にはしない」
「はい」
「任務が終わったからといって、言ったことを無かったことにもしない」
ミーシャの目が、わずかに動いた。
「それは、今の話にも含まれますか」
直樹は答えに詰まった。
ミーシャは、追い詰めなかった。
「今すぐ答える必要はありません」
アレクセイが低く言う。
『逃げるな、Naoki』
直樹の目が画面へ向く。
アレクセイが、直樹の言葉を途中で切ることはほとんどなかった。
『娘が答えを急がせないことを、お前が黙る理由に使うな』
「使わない」
『お前は、必要な時だけ人を自分の内側へ入れる』
「違う」
『では、あの布は何だ』
アレクセイの視線が、ミーシャの首元へ落ちた。
『誰にも渡さなかった物を、なぜ娘へ渡した』
「寒そうだった」
『共用品があった』
「近くになかった」
『新しい物は、お前の部屋にあった』
直樹は黙る。
ミーシャが言った。
「アレクセイ。それを決めるのはNAOです」
『だから聞いている』
「追い詰めて出した答えは、私の望む答えではありません」
アレクセイの指が手帳から離れた。
それでも、声の熱は消えなかった。
『私は、お前を守ろうとしている』
「私を守るために、私の愛をあなたの所有物にしないでください」
『所有していない』
「では、私の代わりに怒らないでください」
『お前は、自分がどれだけ――』
アレクセイは言葉を切った。
直樹は、その沈黙を見た。
この男が言葉を飲み込むのを、初めて見た。
政治家としてではない。
旧党系の実務者としてでもない。
娘を危険へ出した男を前にした、一人の父親として。
ミーシャは彼を父とは呼ばない。
それでも、アレクセイの側では、その関係が消えたことはなかった。
「アレクセイ」
ミーシャの声が少しだけ柔らかくなる。
「私は、あなたに救われました」
アレクセイは何も言わない。
「育てられました」
「利用もされました」
「愛されてもいました」
「その全部を、私は分けて持っています」
『分けられるものではない』
「私は分けます」
『なぜ』
「選ぶためです」
アレクセイはミーシャを見る。
「私を守れとは言わないでください」
「私が自分で選べる状態を守ってください」
長い沈黙があった。
やがて、アレクセイの声が元の低さへ戻る。
『Naoki』
「聞いてる」
『娘を守れとは言わない』
「ああ」
『だが、選択肢を壊すな』
「分かった」
『今の返事は』
「命令を聞いただけじゃない」
直樹はミーシャを見る。
「こいつが選ぶ前に、俺が答えを決めない」
『お前自身の選択もだ』
「ああ」
ミーシャが言う。
「アレクセイもです」
アレクセイの眉がわずかに動く。
『何を』
「私の結論を先に決めないでください」
また少し沈黙する。
『……善処する』
イネスが小さく笑った。
「あなたが善処するなんて、かなり感情的になってるわね」
『フランス人に感情を診断されたくはない』
「診断じゃない。観察よ」
『堀越と同じことを言うな』
直樹が眉を寄せた。
「堀越からも何か聞いたのか」
『聞いていない』
アレクセイは直樹を見る。
『だが、お前が何も考えず渡した物が、娘にとって何であるかくらいは分かる』
直樹は答えられない。
『意味を知らないなら、知れ』
「答えを決めろということか」
『違う』
アレクセイの声は、もう静かだった。
『自分が何をしたかを、無かったことにするなと言っている』
回線が閉じた。
画面が暗くなる。
直樹はしばらく、その黒い画面を見ていた。
アレクセイが感情を失ったのではない。
最後に、自分で押し戻しただけだった。
普段の冷静さへ戻るまでに、あの男は何度も言葉を飲み込んだ。
その原因が、自分とミーシャの関係だった。
直樹は、その事実を軽く扱えなくなっていた。
*
夜。
めぐみの左手薬指には、指輪があった。
内側の刻印。
NAO MEGUMI。
第175話で、直樹が自分の手で渡し直したもの。
遺留品としてではない。
生きて帰った直樹が、現在のめぐみへ預け直した約束。
めぐみは窓際に座り、その指輪を親指でなぞっていた。
直樹が部屋へ入る。
「起きてたのか」
「待ってた」
「先に寝ててよかった」
「なおが帰った日の次の夜まで、先に寝るのは嫌」
直樹は返せなかった。
めぐみが隣を示す。
「座って」
直樹は椅子へ座った。
めぐみはすぐに話し始めなかった。
直樹の顔を見る。
呼吸。
肩。
目の動き。
帰ってきていることを確かめるように。
「前に、奈良で何を言うつもりだったかは聞いた」
「ああ」
「日本にいるって」
「ああ」
「帰る場所を曖昧にしないって」
「ああ」
「指輪も、もうもらった」
めぐみが左手を上げる。
「だから今日は、その話じゃない」
「何を聞きたい」
「どこで思い出したの」
直樹の目が止まる。
「記憶が戻った時」
「……古い庁舎」
「奈良?」
「違う」
「どこ?」
「町の名前は覚えてない」
直樹は膝へ両手を置いた。
「二年目の冬だった」
「何をしてたの」
「水を運んでた」
「庁舎に?」
「ああ」
「一階が臨時の名簿所になってた。窓は板で塞がれてた」
めぐみは黙って聞く。
「洗面台があった」
「水、出たの?」
「細いのが出た」
「きれいだった?」
「赤茶けてた」
直樹は自分の右手を見る。
「手を洗った」
「灰と血が流れた」
「その時、右手がポケットへ行った」
めぐみの指が、指輪の上で止まる。
「もう、何も入ってない場所だった」
「指輪は?」
「それより前に失くしてた」
「いつ?」
「分からない」
「失くしたことも?」
「忘れてた」
めぐみは息を吸った。
直樹は続ける。
「空だって分かってるのに、手が探した」
「布しかなかった」
「それで?」
「痛かった」
「どこが?」
「分からない」
直樹の声が低くなる。
「空なのが、急に痛くなった」
「その瞬間に戻った」
「何が最初?」
「後で話す」
めぐみの目が動く。
「私が言ったこと?」
「俺が言った」
「ああ」
「段取りがある」
「言い方を間違えた」
「約束する」
直樹は一つずつ、遠い記録を読むように言った。
「奈良」
「駅前」
「右のポケット」
「箱」
「指輪」
「めぐみ」
直樹の右手が、わずかに握られる。
「洗面台の前で、立っていられなくなった」
「倒れたの?」
「膝から落ちた」
「吐いた」
「胃に何もなかったから、何も出なかった」
めぐみは直樹の手へ触れなかった。
今は、言葉を止めない方がいいと分かっていた。
「誰かにJinって呼ばれた」
「うん」
「違うと思った」
「その名前じゃないって」
「うん」
「真柴直樹が戻った」
「なおも?」
「少し遅れて」
「私の名前は?」
「最後だった」
めぐみの眉がわずかに寄る。
「最後?」
「思い出したくなかったんだと思う」
「どうして」
「思い出したら、押したことも戻る」
「地下へ?」
「ああ」
「お前が嫌だって言ったことも」
「一緒にって言ったことも」
「俺が嘘をついたことも」
「全部戻った」
めぐみの指輪が、窓から入る弱い光を返す。
「それから奈良へ行った?」
「すぐに」
「誰かに許可は?」
「取ってない」
「どうやって?」
「歩いた」
「全部?」
「途中で荷台に乗せてもらった」
「検問は?」
「福岡仁で通った」
「真柴直樹では?」
「言えなかった」
「どうして」
「言ったら、本当に戻るから」
「もう戻ってたでしょう」
「頭では」
直樹はめぐみを見る。
「身体が追いついてなかった」
「奈良に着いて、どこへ行ったの」
「駅」
「残ってた?」
「名前だけ半分」
「案内板は焼けてた」
「鹿の絵も剥がれてた」
「でも、足は覚えてた」
「ここで、お前が笑った」
「ここで立ち止まった」
「ここでポケットを触った」
「全部分かった」
直樹は一度言葉を止める。
「壁に紙が貼ってあった」
「避難者名簿?」
「死亡者、搬送先不明、未確認」
「名前を探した」
「宮崎」
「宮崎」
「何枚もあった」
めぐみが小さく息を吐く。
「その中に一枚だけあった」
「宮崎め――」
めぐみの顔から、わずかに色が引いた。
「そこから先が焼けてた」
「下には?」
「死亡推定」
「うん」
「身元確認未了」
「うん」
「本人確定不可」
部屋が静かになる。
「それを見た時、何を思ったの」
直樹はすぐに答えなかった。
長い沈黙の後、言った。
「間に合わなかったと思った」
「でも、本人確定不可だった」
「ああ」
「生きている可能性もあった」
「ああ」
「それでも?」
「俺が生きる側へ押したのに」
直樹の声が、わずかに掠れた。
「紙の上で、お前は死ぬ側にいた」
めぐみは指輪を握る。
「その隣に、俺の名前があった」
「真柴直樹?」
「ああ」
「何て?」
「MIA」
めぐみの目が閉じる。
「自分は生きて立ってる」
「でも紙の上では行方不明」
「お前は、死んだかもしれない」
「でも本人かどうか分からない」
直樹は床を見る。
「二枚が、同じ壁に貼ってあった」
「俺はそこにいるのに、帰る場所がなかった」
「お前も、死んだ場所にも、生きている場所にもいなかった」
めぐみが静かに聞く。
「泣いた?」
「泣けなかった」
「どうして」
「死亡なら泣けた」
直樹の言葉が、重く落ちる。
「生存なら走れた」
「でも、どっちもできなかった」
「紙に止められた」
めぐみの目に涙が浮かぶ。
「どれくらい、そこにいたの」
「分からない」
「誰かに声をかけられた?」
「覚えてない」
「その後は?」
「市役所へ行った」
「聞いた」
「宮崎めぐみを探していますって」
「初めて、自分の口で言った」
「答えは?」
「該当の可能性はある」
「死亡推定の記録がある」
「本人確定ではない」
「搬送記録は切れている」
「避難所名簿は残っていない」
「ネットは?」
「もう繋がらないって言われた」
直樹の目が、遠い場所へ向く。
「紙片を一枚渡された」
「宮崎め――」
「そこまでしかなかった」
「持ってた?」
「ああ」
「今も?」
「なくした」
めぐみの顔が歪む。
「また?」
「ああ」
「なおは、大事な物を失くしすぎる」
「ああ」
「指輪も」
「ああ」
「紙も」
「ああ」
「私も」
直樹が顔を上げる。
「めぐみは失くしてない」
「失くしたよ」
「四年も」
「私はここにいた」
「なおの中からはいなくなった」
「二年だけだ」
「二年も」
直樹は否定しなかった。
「思い出した時、絶望した?」
「ああ」
「どれくらい」
「生きて帰ったことが、間違いだったと思うくらい」
めぐみの手が動く。
今度は、直樹の手をつかんだ。
「それは違う」
「ああ」
「今は分かる?」
「今は」
「その時は?」
「お前を生かしたと思ってた」
「でも、お前が死んだ紙を見た」
「俺だけ生きてた」
「指輪も失くした」
「名前も失くした」
「約束も忘れてた」
直樹の指が震えた。
「何一つ守れてないと思った」
めぐみは直樹の手を離さなかった。
「だから、来なかったの?」
「それもある」
「他には?」
「お前に会って、生きていたら」
「うん」
「何で来なかったって言われる」
「言うよ」
「ああ」
「今も言う」
「ああ」
「それが怖かった?」
「怖かった」
「嫌いって言われるのが?」
「ああ」
「置いていったって言われるのが?」
「ああ」
「押したことを、許さないって言われるのが?」
「ああ」
めぐみは涙を拭かなかった。
「でも、それを決めるのは私だった」
「ああ」
「死亡推定の紙も」
「ああ」
「本人確定不可の紙も」
「ああ」
「なおが絶望したことも」
「ああ」
「全部、もっと早く聞きたかった」
「言い訳になると思った」
「言い訳かどうかも、私が決める」
直樹は目を閉じる。
「悪かった」
「次は?」
「言う」
「怖くても?」
「言う」
「絶望してても?」
「言う」
「私が怒ると分かっていても?」
「言う」
めぐみは、ようやく直樹の手を少し緩めた。
「今日、ミーシャと話した?」
「ああ」
「アレクセイとも?」
「ああ」
「アレクセイ、怒ってた?」
直樹は少し考える。
「怒ってた」
「珍しい?」
「初めて見た」
「そんなに?」
「あの男が、報告の順番を崩した」
「それで分かった?」
「何が」
「ミーシャが、あの人にとってどれくらい大事か」
「ああ」
「なおにとっては?」
直樹は答えられなかった。
めぐみは待った。
「分からない」
直樹が言う。
「分からないけど、無かったことにはできない」
「ミーシャが、なおを愛してることは?」
「本人から聞いた」
「どう思った?」
「驚いた」
「それだけ?」
「まだ分からない」
めぐみが左手を上げる。
「私は、この指輪をもうもらってる」
「ああ」
「ミーシャは、アフガンスカーフをもらってる」
「ああ」
「同じだとは思ってない」
「ああ」
「指輪の方が上だとも、言いたくない」
直樹がめぐみを見る。
「どうして」
「比べたら、二人とも物になるから」
めぐみは指輪へ触れた。
「これは、なおが私へ渡したもの」
「スカーフは、なおがミーシャへ渡したもの」
「意味は違う」
「でも、どちらも、なおが渡した」
直樹は黙る。
「ミーシャは、なおを愛していることに迷ってない」
「そう言ってた」
「迷ってるのは、それを私の前で持ち続けていいか」
「ああ」
「私は嫌だよ」
めぐみはすぐに言った。
「なおを取られたくない」
「ああ」
「ミーシャに、なおを愛してほしくないと思う時もある」
「ああ」
「でも、あの人が自分の気持ちを消したふりをして、ずっとここにいる方がもっと嫌」
「めぐみ」
「私も分からない」
めぐみは直樹の手を自分の膝へ置いた。
「ミーシャにいてほしい気持ちがある」
「なおとは別に」
「私が、あの人にいてほしいと思ってる」
「でも、なおを譲りたいわけじゃない」
「両方ある」
直樹は何も言えなかった。
「変だと思う?」
「思わない」
「本当に?」
「ああ」
「なおは?」
「何が」
「ミーシャにいてほしい?」
直樹は長く黙った。
「任務がなくても?」
めぐみが重ねる。
アフガンスカーフ。
閉鎖回線。
帰還経路。
ミーシャが、自分の愛情に迷っていないと言った顔。
アレクセイが初めて崩した声。
それらが直樹の中で重なる。
「いてほしい」
直樹は言った。
「任務がなくても」
めぐみは目を伏せた。
痛みを隠さなかった。
「そっか」
「嫌か」
「嫌」
「ああ」
「でも、言ってくれてよかった」
めぐみは顔を上げる。
「ここで結論を出さないで」
「出せない」
「出せないから黙るのもやめて」
「ああ」
「私を置いて、ミーシャと決めないで」
「決めない」
「ミーシャを置いて、私と決めないで」
直樹は、今度はすぐに答えた。
「決めない」
「三人のことなら?」
「三人で話す」
めぐみは小さく頷いた。
何も成立していない。
誰も許可していない。
誰も諦めていない。
めぐみの指には、直樹が意味を知って渡した指輪がある。
ミーシャの首には、直樹が意味を知らずに渡したアフガンスカーフがある。
一つは、帰る場所を約束したもの。
もう一つは、本人より先に身体が開けた入口。
どちらも、もう直樹の手にはなかった。
渡したものを、無かったことにはできない。
その先を決めるには、まだ三人の声が必要だった。




