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第205話 白紙の移送命令

## 第205話 白紙の移送命令


 移送施設の外周灯は、遠くから見るより白かった。


 風に揺れる草の先を照らし、暗闇の中へ一定の間隔で光の杭を打ち込んでいる。


 江藤は水の抜けた用水路の底へ身を伏せ、その光が頭上を通り過ぎるのを待った。


 乾いた泥が肘へ食い込む。


 施設の裏では、発電機が低く唸っていた。


 人の声は少ない。


 それなのに、車両のエンジン音だけが一つずつ増えていく。


 静かすぎる。


 混乱が起きていないのではない。


 移送の準備が、すでに終わっている。


 前を進んでいたイネスが拳を上げた。


 全員が止まる。


 排水路の先から、警備員が一人見えた。


 肩へ小銃を掛け、外周柵に沿って歩いている。足取りは遅い。周囲を警戒しているというより、決められた区間を消化しているだけに見えた。


 それでも、顔はこちらへ向く。


 江藤は息を止めた。


 イネスが振り返らず、指を二本立てる。


 吐け。


 そういう合図だった。


 江藤は肺の中の空気を、音を立てないよう細く逃がした。


 警備員の足音が遠ざかる。


 直樹が用水路の出口まで進み、左右を見る。


「行くぞ」


 六人が一人ずつ、施設裏の暗がりへ移った。


     *


 大庭隊は外に残った。


 外周の監視。


 敵増援の確認。


 撤退路の維持。


 第204話で確認した車両の状態監視。


 施設内へ入るのは、直樹たち六人だけだった。


 直樹。


 イネス。


 田所。


 江藤。


 芦田。


 高城。


 大庭隊が事前に確認していた保守扉は、外から見れば閉じていた。


 錠の内部だけが壊れている。


 決められた位置を押し込みながら取っ手を引けば、留め金が外れると聞いていた。


 イネスが取っ手の下へ指を掛けた。


 金属が鳴らないよう、扉の重みを身体で受けながら隙間を作る。


 偶然開いていた入口ではない。


 施設の巡回間隔と、職員がほとんど使わない時間帯まで、大庭隊が先に調べていた。


 建物へ入る前に、直樹が全員を見る。


「ここからは距離を開けるな」


 田所が小声で確認した。


「主任教官、予期せず扉で分断された場合はどうしますか」


「二人以下になった時点で止まれ。前進するな」


「主任教官側も同じ条件ですか」


「ああ」


「了解しました」


 直樹はイネスを見る。


「前を頼む」


「任せて」


 イネスは短く答え、保守扉の隙間へ身体を滑り込ませた。


 直樹が続く。


 江藤は胸元の記録袋を押さえた。


 中には照合資料と、十枚の白い名札が入っている。


 まだ、どの札にも名前は書かれていなかった。


     *


 施設内の廊下には、消毒液と煮た穀物の臭いが残っていた。


 壁は灰色。


 床は薄い緑。


 扉には、名前ではなく数字が貼られている。


 四一七。


 四一八。


 四二〇。


 四一九がない。


 食事を配る台車にも番号。


 廊下の端へ積まれた鞄にも番号。


 子ども用の靴を入れた透明袋にも、黒い数字だけが書かれていた。


 江藤は歩きながら、記録袋へ指を触れた。


 旧南第三では、名前が分からない子どもの名札は白紙のままにしていた。


 誰かが呼びやすい名前を、勝手に書くことはしない。


 番号が必要なのは、食事や毛布を配る時だけ。


 人を呼ぶ時には使わない。


 ここは逆だった。


 本人へ名前を聞く前に、番号を付けている。


 イネスが角の手前で止まった。


 小さな鏡で、廊下の先を確認する。


「二人。奥へ行った」


 江藤は頷いた。


「はい、イネス大尉」


「肩を上げないで。息が音になる」


「はい」


 意識して力を抜こうとした。


 逆に肩が固くなる。


 イネスが江藤の顔を一度だけ見た。


「怖くていい。止まらなければね」


「分かりました」


 後ろから直樹が言う。


「江藤」


「はい」


「家族と話すのはお前だ」


 喉の奥が狭くなる。


「自分が担当するんですか」


「同意確認はお前の役目だ」


「はい」


「説得するな」


 江藤は直樹を見る。


「説得しなくてよろしいんですか」


「出たいかを聞け。答えを作るな」


「了解しました」


     *


 最初の対象は、四二三号室だった。


 扉の下から光が漏れている。


 中に複数の人間がいることは、記録と事前の熱源確認で分かっていた。


 直樹が扉の前へ立つ。


 武器へは触れない。


 拳を二度、軽く扉へ当てた。


 返事はなかった。


 もう一度。


 中で何かが擦れた。


 家具を動かした音。


 扉の向こうから、男の声がする。


「誰だ」


 直樹は答えず、江藤へ顎を引いた。


 江藤は扉から半歩離れた位置に立った。


 近づきすぎれば、押し入ろうとしているように見える。


 遠すぎれば、声を潜められない。


「江藤沙月です」


 自分の声が、思ったより高く聞こえた。


「国境第三と連携している家族保全班です」


「何をしに来た」


「ここから出たいかどうかを聞くためです」


「移送か」


「いいえ」


 すぐに否定した。


 扉の向こうが静かになる。


「連れていくんじゃないのか」


「ご本人とご家族が出たいと希望した場合だけ、移動を手伝います」


「同じことを前の奴らも言った」


 江藤は返す言葉を探した。


 信じてください。


 助けに来ました。


 安全です。


 どれも言えなかった。


 どれも保証できない。


「信じなくて構いません」


 口に出すと、自分でも冷たく聞こえた。


 言い直さずに続ける。


「扉も、まだ開けなくて大丈夫です」


「じゃあ帰れ」


「帰ることはできます」


 隣にいる直樹は、口を挟まない。


 江藤の背中を汗が流れた。


「ただ、今夜ここから別の場所へ移される可能性があります」


「脅してるのか」


「いいえ」


「同じだろ」


「そう聞こえたなら、申し訳ありません」


 廊下の遠くで、扉が閉まる音がした。


 イネスが片手を上げる。


 話を急ぐな。


 警備員の足音が近づいている。


 直樹が田所へ目を向けた。


 田所と高城が廊下の角へ下がる。


 芦田は反対側を確認した。


 江藤は扉の前に残る。


 足音が近づく。


 中の男も聞いている。


「敵じゃないなら、名前を言ってみろ」


 男が言った。


「俺たちの名前を知ってるんだろ」


 記録袋の中には書かれている。


 父親。


 母親。


 二人の息子。


 高齢の女性。


 だが、その名前を今ここで読み上げれば、施設の記録を持っている側だと証明するだけだった。


 江藤は白紙の名札を一枚取り出した。


「記録にはあります」


「だったら言え」


「ご本人から聞くまで、ここには書きません」


 扉の下の光が、人の動きで一度遮られた。


「何だ、それ」


「名札です」


「白紙じゃないか」


「はい」


「番号は」


「書きません」


 警備員の足音が、廊下の角で止まった。


 江藤の指が名札の端を強く挟む。


 イネスの身体が低くなる。


 直樹は壁際へ寄り、死角へ入った。


 数秒。


 咳払い。


 靴底が床を擦る。


 警備員は別の扉を開け、何かを置いた。


 また歩き始める。


 足音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。


 扉の向こうから、小さな子どもの声がした。


「白いの?」


 男が、黙っていろと低く言う。


 江藤は扉へ顔を向けた。


「白いです」


 子どもが何か言いかけ、止められた。


 しばらくして、扉の鍵が一つだけ外れた。


 扉が数センチ開く。


 隙間から、男の目が見えた。


 最初に見るのは江藤ではない。


 江藤の後ろにいる直樹の武器。


 イネス。


 田所たち。


「武器を持ってる」


「はい」


「それで信じろって?」


「信じなくて構いません」


 江藤は白紙の札を胸の高さで見せた。


「出ると決めた方の名前だけを書きます。残ると決めても、勝手には書きません」


 男の目が白紙へ落ちる。


 扉が、もう少しだけ開いた。


     *


 部屋の中には四人いた。


 父親。


 母親。


 十歳ほどの少年。


 ベッドへ腰掛けた高齢の女性。


 部屋の隅には、扉の前へ動かした机がある。


 父親は河合修司と名乗った。


 母親は河合真由。


 少年は河合陽斗。


 高齢の女性は河合房江。


 江藤は、一人ずつ本人の口から聞いた。


 鉛筆で白紙の札へ書く。


 河合修司。


 河合真由。


 河合陽斗。


 河合房江。


 四枚。


 だが、記録上の河合家は五人だった。


「長男の直人さんは?」


 修司の顔が固くなる。


「連れていかれた」


「いつですか」


「朝だ」


「どこへ?」


「知らない」


 真由が口元を押さえる。


「部屋を分けるだけだと言われました」


「移送先の説明はありましたか」


「ありません」


「戻る時間は」


「聞いても答えませんでした」


 陽斗が母親の袖をつかんだ。


「あっち」


 小さく言う。


 江藤は少年の正面へ回り込まず、隣へしゃがんだ。


 母親にも声が聞こえる位置。


「どちらですか」


 陽斗が廊下の奥を指す。


「兄ちゃんの靴、あっちにあった」


「靴を見たんですか」


「袋に入ってた。番号が書いてあった」


 江藤は真由を見る。


 母親は頷いた。


「直人の靴です。紐を私が直したので、分かります」


 直樹が尋ねる。


「この四人だけで出るか」


 修司が直樹を睨んだ。


「出るわけがない」


「分かった」


 直樹は反論しなかった。


「連れていけって言わないのか」


「家族を分けるために来たんじゃない」


「見つからなかったら?」


「探す」


「いつまでだ」


 直樹は腕時計を見る。


 答える前に、大庭から通信が入った。


『外周車両が三台始動した』


 全員の視線が直樹へ向く。


『運転手も乗ってる。予定より早い』


「出発まで」


『長く見て三十分。早ければ二十分だ』


 直樹は河合家を見る。


「それまでだ」


 修司が何か言おうとする。


 江藤が先に答えた。


「直人さんを捜します」


「見つからなかったら」


 今度は江藤が言葉を失った。


 直樹が答える。


「戻って伝える」


「置いていくのか」


「見つけるまで全員で施設に残れば、全員移送される」


「だからって――」


「答えを今決めろとは言わない」


 直樹は修司から目を逸らさなかった。


「時間までに戻る。その時、もう一度聞く」


     *


 二つ目の対象室には、母親と娘しかいなかった。


 母親は西村理沙。


 娘は西村紬。


 記録上は、父親の西村隆司を含めた三人家族だった。


「主人は作業に出されました」


 理沙が言った。


「どの区画か分かりますか」


 江藤が尋ねる。


「分かりません。昨日までは配膳だったんです。でも今日は朝から戻っていません」


「移送について説明を受けましたか」


「子どもだけ先に出すと言われました」


 理沙の腕の中で、紬が服を握っている。


「この子だけでも連れていってください」


 江藤は、すぐには答えなかった。


「紬さんの希望も確認してよろしいですか」


「この子は七歳です」


「はい」


「何が正しいかなんて分かりません」


「正しい答えを決めてもらうのではありません」


 江藤は紬の横へしゃがんだ。


 理沙が声を聞ける位置を保つ。


「紬さん」


 少女は顔を上げない。


「お母さんと離れて、先にここを出たいですか」


 小さな頭が横へ動いた。


 理沙が息を詰める。


「でも、ここにいたら危ないのよ」


 紬はさらに強く母親の服をつかんだ。


「お父さんも」


「お父さんは後から――」


「いっしょがいい」


 江藤は理沙を見る。


「今は、ご家族が一緒に出る方法を探します」


「そんな時間があるんですか」


「ありません」


 嘘は言えなかった。


 理沙の顔から希望が消えかける。


「それでも探します」


 直樹が後ろから言った。


「時間を決めてな」


 理沙は武器を持った直樹を見る。


「見つからなかったら?」


「戻って、もう一度意思を聞く」


「決めるのは私たち?」


「ああ」


 理沙は娘を抱き直した。


「なら、主人を探してください」


     *


 廊下へ戻ると、大庭から再び連絡が入った。


『集会所横の作業トラックが動いた』


 第204話で確認した二台目。


 目標地点に近く、すぐに出せる車両だった。


「施設側か」


『二人乗った。燃料缶も積んでる。候補から外せ』


 直樹は一度だけ目を閉じた。


「残り二つ」


『整備工場裏と果樹園だ。こっちの車両もある』


「了解」


 通信が切れる。


 江藤は時計を見た。


 移送開始まで、長くて二十七分。


 その間に、


 河合直人。


 西村隆司。


 記録から消えた二人の子ども。


 最低でも四人を見つけなければならない。


 施設内を制圧する時間はない。


 一部屋ずつ捜索する時間もない。


 廊下で銃撃になれば、各部屋の家族が閉じ込められる。


「主任教官」


 田所が地図を開いた。


「正面から移送区画へ入った場合、警備室の前を通ります」


「ああ」


「警報を止めても、車両側へ連絡される可能性があります」


「分かってる」


「全員を施設内で集めてから脱出するのは、時間的に難しいと思います」


 敬語を崩さず、田所は言った。


 江藤も同じことを考えていた。


 だが、それを口にすれば、誰かを置いていく判断へ近づく気がした。


 直樹は廊下の端に積まれた移送用の鞄を見る。


 番号札。


 車両ごとに分けられた荷物。


 すでに施設側が、人を動かす準備をしている。


「集めなくていい」


 直樹が言った。


 田所が顔を上げる。


「どういう意味ですか」


「向こうに乗せさせる」


「施設側の移送車両へ、ですか」


「ああ」


 江藤は、直樹の言葉の意味を追った。


 家族を一人ずつ探して連れ出すのではない。


 施設側が準備した手順へ入り込み、離された家族を同じ移送対象へまとめる。


 車両も使う。


 運転手も、門を開ける手続きも利用する。


 行き先だけを変える。


「移送命令が必要です」


 江藤が言った。


「作れるか」


「施設内の書類だけでは無理です。移送先と承認番号がありません」


「国境第三へつなげ」


     *


 閉鎖回線には、最初に相原が出た。


『状況を』


 直樹が短く説明する。


 家族が分離されていること。


 移送開始が早まったこと。


 施設内で全員を集める時間がないこと。


 敵の車両と手続きを使うこと。


 相原は数秒黙った。


『正規の移送命令は出せない』


「分かってる」


『こちらが承認した形にすれば、国境第三の直接介入になる』


「承認しろとは言ってない」


『では何を求める』


「止められるまで使える書類だ」


 相原が低く息を吐いた。


『学校へ回線をつなぐ』


 画面が分割された。


 旧南第三の情報室。


 えり。


 ミーシャ。


 机の上には複数の記録が広げられている。


 めぐみの姿は映っていない。


 恐らく、隣の部屋で通信が終わるのを待っている。


 ミーシャが画面へ顔を近づけた。


『対象者の記録を送ってください』


 江藤は照合資料を転送した。


 家族番号。


 氏名。


 続柄。


 同意欄。


 移送先。


 ミーシャの目が画面の上を走る。


『同一の家族に二つの番号があります』


 えりが別の書類を開いた。


『親と子どもの移送先も違う。歩行困難者の同意欄は空白』


「それを理由に移送を差し替えられますか」


 江藤が尋ねる。


『正式には、まず現地で照合停止』


「停止させれば警備が増えます」


『分かってる』


 えりは指で机を叩いた。


『止めるんじゃなく、照合する場所を変える』


 ミーシャが顔を上げる。


『臨時家族保全移送』


『そう。記録不整合がある家族を、家族単位へ戻して別の照合所へ送る』


「その照合所は」


 江藤が尋ねる。


 えりは答えなかった。


 画面の隅で、ミーシャが小さく首を振る。


『現在使える施設はありません』


「作れない?」


 直樹の問いに、ミーシャが答える。


『書式は作れます。しかし、照会番号がありません』


 外で別の車両が始動した。


 振動が床を通して伝わる。


 江藤は時計を見る。


「残り二十二分です」


 えりの指が止まる。


『番号だけ作れば、最初の照会で終わる。相手側の台帳に残っているものが必要』


「旧記録は」


『こちらにはない』


 直樹が相原を見る。


「他の経路は」


 ミーシャが卓上端末の一つへ手を伸ばした。


『父へ接続します』


 相原の顔が硬くなる。


『閉鎖回線へ直接入れるな』


『外部回線は分離したままです。父の音声だけ、こちらで中継します』


『三分だ。超えたら切る』


『分かりました』


 ミーシャが別端末の接続を開いた。


 短い呼び出し音。


 次に、紙をめくる音が入った。


『ある』


 低く、少しかすれた男の声だった。


 ミーシャの顔から、わずかに表情が消える。


「アレクセイ」


 直樹が名前を呼ぶ。


『久しぶりだな、真柴直樹』


 薄い端末ではない。


 厚く乾いた紙。


 古い帳簿を開く音だった。


『第二家族記録照合所。十二年前に閉鎖された施設だ』


 ミーシャが小さく息を吐く。


『父が旧登録番号を保管しています』


『保管ではない』


 アレクセイは訂正した。


『捨てなかっただけだ』


 えりが画面へ身を乗り出す。


『照会された場合は、どこへ回りますか』


『旧地域保護局から家族登録委員会へ回る』


『その部署は残っていますか』


『名前と責任だけはな。十分だ』


 ミーシャが旧番号を入力する。


 えりが現在の保全書式へ組み込む。


 家族の氏名。


 続柄。


 重複した番号。


 空白の同意欄。


 収容先の不一致。


 すべて本物だった。


 そこへ、閉鎖された照合所の登録番号が入る。


 江藤の端末へ、旧式の承認系列が送られた。


 アレクセイの赤い手帳の余白に、手書きで残されていた番号。


 現在は使用されていない。


 だが、失効処理も完了していない。


 書類の承認欄だけが、現在の横書き書式とは違う古い縦列になった。


 江藤はそこへ目を止めた。


「この欄だけ書式が違います」


 えりが答える。


『旧承認系列を使うなら、そこは変えられない』


「検問で聞かれます」


『聞かれる前提で説明を作る』


 ミーシャが言った。


『制度移行前の家族記録を照合するため、旧欄を併記した。そう答えてください』


「分かりました」


『これで本物になるわけではありません』


 ミーシャが画面を見たまま言う。


『本物か偽物かを、すぐに決められなくなる』


 アレクセイが答えた。


『それで十分だ』


 誰かが偽物だと決めるまで、書類は部署から部署へ回される。


 その時間だけが、江藤たちの持ち時間になる。


 直樹が尋ねる。


「代償は」


 回線が静かになった。


『帰ってこい』


 アレクセイが言う。


「帰った後は」


『精算する』


 ミーシャが画面から目を逸らした。


 えりは何も言わない。


 アレクセイの声から、先ほどまでの薄い笑いが消える。


『勘違いするな、真柴直樹』


 紙を閉じる音がした。


『私は善意で赤い手帳を開いたのではない』


「分かってる」


『分かっていない』


 声が低くなる。


『今、お前の帰り道を作っているのが、私の娘だということを忘れるな』


 直樹は答えなかった。


『娘の手を使い、娘に責任だけを残して、お前が帰らなかった場合――』


 短い沈黙。


『国が何枚に割れていようと、お前の居場所は見つける』


 イネスが通信画面を覗き込む。


「共産党員は、脅迫にも照会番号を付けるのね」


『イネス・モローか』


「覚えていたの?」


『忘れるには騒がしすぎる』


「褒め言葉として受け取るわ」


『勝手にしろ』


 アレクセイは再び直樹へ言った。


『家族を帰せ』


「ああ」


『お前も帰れ』


「帰って精算する」


『よろしい』


 相原が割り込む。


『三分だ。回線を切る』


 アレクセイの音声が消えた。


 外部回線の表示も閉じられる。


 ミーシャだけが画面に残った。


 何か言おうとして、やめる。


 直樹も何も聞かなかった。


 えりが完成した書類を確認する。


『これは身分を偽る書類じゃない』


 画面上の項目を、一つずつ指した。


『名前も家族関係も本物。記録の不整合も本物』


「偽るのは」


 江藤が尋ねる。


『移送理由と行き先』


 相原の声が入る。


『正式な承認書ではない。照会されたら、いつかは止まる』


 直樹は書類を江藤の端末へ送った。


「止められる前提で組む」


『どこまで持たせる』


 相原が尋ねる。


「施設の門と、最初の外部検問を越えるまで」


『その先は』


「照会が戻る前に予定経路を外れる」


『どの帰路を使う』


「状況を見て決める」


『一つはもう失った』


「二つ残ってる。大庭の車両もある」


 相原は数秒黙る。


『了解したとは言わない』


「言わなくていい」


『帰還報告は入れろ』


「ああ」


     *


 江藤は河合家の部屋へ戻った。


 手元には、名前の入った四枚の名札がある。


 記録袋の中には、西村理沙と西村紬の二枚も加わっていた。


 確認済みは六枚。


 奥には、まだ四枚の白紙が残っている。


 河合直人。


 西村隆司。


 記録から消えた二人の子ども。


 修司が端末の書類を見る。


「これで出られるのか」


「出られる可能性があります」


「可能性?」


「安全だとは言えません」


 真由が陽斗の肩へ手を置いた。


「私たちは何をすればいいんですか」


「名前は本名を答えてください」


 江藤は一人ずつ顔を見る。


「家族関係も、本当のことを答えてください」


「嘘は?」


 修司が尋ねる。


「一つだけです」


「何を偽る」


「行き先です」


「どこへ行くことになってる」


「第二家族記録照合所です」


 修司が眉を寄せる。


「そんな場所があるのか」


「以前はありました」


「今は?」


「閉鎖されています」


 房江がベッドの上で小さく笑った。


「ない場所へ行くのかい」


 江藤は頷く。


「書類上は、そこへ向かいます」


「本当は?」


「国境第三です」


 陽斗が顔を上げた。


「学校は?」


 江藤の喉が詰まる。


 少年は、帰り道の学校という名前をどこかで聞いたのかもしれない。


 修司が止めようとする。


 江藤は首を振った。


「叱らないでください」


「でも、この子が門で言ったら――」


「間違ったことを言ったわけではありません」


 江藤は陽斗の隣へしゃがむ。


「学校の名前は、門を出るまで言わないでください」


「どうして?」


「行き先が違うと分かると、止められるからです」


「嘘をつくの?」


「行き先だけです」


「名前は?」


「変えません」


「お母さんも?」


「一緒です」


「ばあちゃんも?」


「一緒です」


「兄ちゃんは?」


 江藤は、記録袋の奥にある白紙の一枚を見る。


「今から迎えに行きます」


「一緒に行ける?」


「そのために来ました」


 必ずとは言えない。


 それでも、目的だけは偽りたくなかった。


 廊下の向こうで、車両の扉が閉まった。


 一台。


 続いて、もう一台。


 江藤が時計を見る。


 残り十八分。


 直樹が廊下から呼ぶ。


「江藤」


「はい」


「次へ行くぞ」


 江藤は、名前の入った六枚を記録袋の手前へそろえた。


 その奥には、まだ四枚の白紙が残っている。


 四枚すべてに名前を書けるまで、残り十八分。


 外で、移送車列の先頭灯が点いた。


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