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第204話 帰り道を三つ

## 第204話 帰り道を三つ


 火は、中型トラックの前部から上がっていた。


 黒い煙が岩壁へぶつかり、谷の上へ逃げずに滞留している。


 焦げたゴム。


 燃料。


 熱を持った鉄。


 喉の奥へ張りつく臭いの中で、国境第三から入った回収班が二つに分かれた。


 一方は負傷者へ。


 もう一方は、消火器を抱えてトラックへ走る。


「前部へ集中!」


 白い消火剤が炎を覆った。


 一度は弱まった火が、車体の下から再び噴き出す。


 噴射音。


 白煙。


 濡れた金属が急に冷やされ、細かな音を立てた。


 火はようやく縮み、黒煙が灰色へ変わった。


 安西はオートバイの横に立ち、斜面を見ていた。


 敵の姿はない。


 消えたのではない。


 射線を切り、こちらから見えない場所へ下がっただけだ。


 崩れた採掘道の脇には、新しい靴跡が残っている。


 踏み倒された草。


 削られた土。


 細い枝の折れ方。


 少なくとも二人。


 北東へ向かっている。


 今なら、まだ追える。


「安西」


 直樹の声に呼ばれ、安西は斜面から目を離した。


 森川が担架へ移されている。


 左肩を厚い圧迫材で固定され、顔から血の気が引いていた。


 柴崎は別の担架に横たわっている。


 膝から足首まで固定され、御厨が脈と呼吸を確かめていた。


 救助した老人も担架へ移されている。


 母親と少年は、そのそばから離れようとしない。


 少年は、散らばった紙を戻した革鞄を胸へ抱えていた。


「後送へ付け」


 直樹が言った。


 安西は、聞き間違えたのかと思った。


「自分が後送に入るんですか」


「ああ」


「回収班と警戒要員がいます」


「ここを出ても、国境第三までは敵地だ」


「でしたら、前線にも地形を読める人間が必要ではありませんか」


「前には大庭たちがいる」


「人数は多い方がいいはずです」


「後ろも同じだ」


 安西の指が、オートバイのグリップを強く握った。


 斜面を見れば、敵が通った跡はまだ残っている。


 森川たちを見れば、回収班が周囲を固めていた。


「逃げた敵を確認できます」


「追うな」


「また同じ判断ですか」


「同じだ」


 直樹は斜面を見なかった。


 担架の森川。


 柴崎。


 老人。


 母親。


 少年。


 帰る側の人間を見ていた。


「前へ行く奴はいる」


 直樹の目が安西へ戻る。


「後ろを帰す奴が足りない」


「自分一人で護衛しろという意味ですか」


「違う」


 直樹は谷の北側を指した。


 崩落の向こうでは、後送車列の編成が始まっている。


 先頭に回収班の小型車両。


 その後ろに医療車両。


 救助した家族を乗せる車両。


 最後尾に警戒車両。


「隊列から離れるな」


 直樹が言う。


「先頭車から見える距離を外れるな。異常を見つけても、一人で確認へ行くな。車列を止めて、回収班と一緒に確認しろ」


「敵を見つけた場合は」


「車列を止めろ」


「追跡は」


「するな」


 答えは変わらなかった。


 安西は、舌の裏へ残った苦い味を飲み込んだ。


「自分は前線へ戻らないんですか」


「戻らない」


 直樹は曖昧にしなかった。


「森川たちを国境第三まで送れ。全車両が門を通るところまで確認しろ」


「その間も作戦を続けるんですか」


「大庭と合流する」


「残る六人で?」


「ああ」


 安西は、直樹の後ろにいる者を見た。


 イネス。


 田所。


 江藤。


 芦田。


 高城。


 直樹を入れて六人。


 自分は、そこから外れる。


 負傷したからではない。


 能力が足りないからでもない。


 帰す側に必要だから、前へ行けない。


 それが、敵へ向かうより苦しかった。


     *


 回収班の一人が、中型トラックの銃座を見上げた。


 盾には複数の弾痕。


 旋回架台の片側は、爆発で押し曲げられている。


 そこへ固定された12.7ミリ重機関銃は、煤と消火剤に覆われていた。


「前部の火は抑えました」


 回収班員が直樹へ報告する。


「銃座周辺への延焼はありません」


 森川が担架から顔を動かした。


「機関部を確認してください」


 声は弱い。


 それでも、銃座を見上げる目だけは離れなかった。


 御厨が森川の肩を押さえる。


「起きないでください」


「自分で見た方が早いです」


「今の森川さんの仕事ではありません」


「使えるなら、敵地へ残したくありません」


「確認するのは回収班です」


「ですが――」


「森川」


 直樹が遮った。


「御厨の指示に従え」


 森川は口を閉じた。


「……了解しました」


 回収班員が銃座へ上がった。


 煤を払い、外側の状態を確認する。


 給弾部。


 機関部。


 銃身。


 操作部を手で動かすと、途中で一度引っ掛かった。


 戻す。


 付着した砂と消火剤を除く。


 もう一度動かす。


 今度は最後まで動いた。


「架台は使用不能です」


 回収班員が下へ向かって言う。


「銃本体は、後方で点検する価値があります。銃身にも、外見上の大きな変形はありません」


「外せるか」


 直樹が尋ねる。


「可能です。ただし、少し時間が掛かります」


 直樹は、担架へ収容されていく負傷者を見た。


 次に、谷の斜面。


 回収班の作業位置。


「人員の収容を先にしろ」


「了解しました」


「全員が出発できる状態になってから外せ。時間が掛かるなら置け」


 森川の目が直樹へ向いた。


「主任教官」


「人が先だ」


 森川は言葉を止めた。


 数秒後、短く頷く。


「了解しました」


     *


 森川と柴崎が医療車両へ移された。


 御厨は二人の状態を確認しながら、そのまま同乗する。


 老人は家族用の車両へ担架ごと収容された。


 母親と少年も離されない。


 少年は革鞄を抱えたまま、老人の顔が見える場所へ座った。


 各車両の扉が閉まり、いつでも出発できる状態になる。


 回収班の指揮員が直樹へ合図した。


「人員収容、完了しました」


「火器を外せ」


 回収班員たちが銃座へ集まる。


 歪んだ架台から、12.7ミリ重機関銃を取り外す。


 一人では扱えない。


 数人が重量を受け、位置を少しずつ変えていく。


 熱の残る金属が、低い音を立てた。


 銃身と本体が分けられた。


 銃身は耐熱布へ包まれる。


 本体も煤と消火剤を拭い、別の布へ包んだ。


 田所が最後尾の警戒車両を確認する。


「主任教官、警戒車両の後席足元と荷室へ分ければ収容できます」


「後席の乗員は」


「一名減らします。回収班側で別車両へ移せます」


「脱出を邪魔しないか」


「本体を後席足元へ横向きに収め、銃身は荷室床へ縦方向に置けば、左右の扉は使えます」


「固定は」


「床の固定部を使います」


 直樹が回収班の指揮員を見る。


「それでいけるか」


「可能です」


「やれ」


 警戒車両の後席から、回収班員が一人降りた。


 別の車両へ移る。


 後席の足元に、本体を横向きへ収める。


 座席の下と床の固定部を使い、二か所で留めた。


 銃身は荷室床へ置き、布の上から別の固定具で押さえる。


 急制動で前へ滑らないよう、前後にも止めを入れる。


 予備弾薬は、熱の影響を受けた可能性があった。


 銃と同じ車内へは積まない。


 回収班が別の耐火容器へ移し、後方で処理することになった。


 安西は警戒車両の後席へ身体を入れた。


 本体を押す。


 動かない。


 固定具を一つずつ引く。


 銃身側も確認する。


 左右の扉。


 乗員の足元。


 車外へ出るための空間。


「固定を確認しました」


 直樹が頷く。


「森川」


 医療車両の中で、森川が目を開ける。


「12.7ミリは銃身と本体に分けて後送する」


「使用できますか」


「点検待ちだ」


「自分も確認に入ってよろしいですか」


 御厨が先に答えた。


「少なくとも今日は認めません」


 森川が御厨を見る。


「点検を見るだけです」


「左肩を固定したまま、整備区画へ行くつもりですか」


「口頭で説明はできます」


「医師の許可が出てからにしてください」


 森川は目を閉じた。


「……分かりました」


「敵には残さない」


 直樹が言う。


 森川の口元が、ほんの少しだけ動いた。


「それなら、いいです」


 納得ではなかった。


 痛みと悔しさを、短い言葉の中へ押し込んだ声だった。


     *


 後送車列が動き始めた。


 安西はオートバイへ跨がる。


 単独で先へ出ない。


 先頭の回収車両から、常に見える距離を保つ。


 曲がり角へ入る前に速度を落とし、後続が近づくまで待つ。


 見通しの悪い場所では、一度停止する。


 自分だけで確認へは行かない。


 回収班員が二人降り、左右の斜面と路面を確認してから再び進む。


 速度は上がらない。


 負傷者の車両へ合わせる。


 森川と柴崎が耐えられる速度。


 担架の老人が揺れない速度。


 安西には遅く感じられた。


 敵を追うなら、こんな速度では間に合わない。


 だが、今の任務は追うことではない。


 採掘道へ続く分岐で、新しいタイヤ跡が見えた。


 土はまだ乾いていない。


 敵が使った車両かもしれない。


 安西はブレーキへ指を掛けた。


 この轍を追えば、敵の拠点か退路へ届く可能性がある。


 後ろから、医療車両の低いエンジン音が聞こえる。


 森川。


 柴崎。


 御厨。


 老人。


 母親。


 少年。


 最後尾の警戒車両には、分解して固定した12.7ミリ重機関銃。


 安西は分岐を見たまま、左手を上げた。


 減速。


 停止。


 先頭車両が止まり、後続も順に停止する。


 回収班員二人が車外へ出た。


「何かありましたか」


「新しい轍があります」


 安西は地面を指した。


「敵車両の可能性があります。ただし、こちらの進行方向から外れています」


 回収班員が轍を見る。


 一人が位置情報を記録する。


「国境第三へ送ります。追跡はしません」


「了解しました」


 安西は反論しなかった。


 全員が車両へ戻る。


 車列は直進した。


 敵の痕跡が、ミラーの中へ小さくなっていく。


 一人で追えば、勇気ではない。


 ただの無謀だ。


 頭で理解することと、身体を前へ向けたまま通り過ぎることは違った。


 アクセルを握る手が痛んだ。


     *


 国境第三の門が見えた時も、安西は後送車列の先頭にいた。


 門衛が車両番号を確認する。


 回収班の小型車両。


 医療車両。


 家族を乗せた車両。


 最後尾の警戒車両。


 一台ずつ門を通る。


 安西は道路脇へ寄せ、最後尾が敷地内へ入るまで動かなかった。


 医療車両の扉が開く。


 森川。


 柴崎。


 御厨。


 救助車両から、老人と母親、少年が降りる。


 少年は革鞄を抱いたまま、老人の担架から離れなかった。


 最後尾の警戒車両から、先に銃身が運び出された。


 耐熱布に包まれたまま、整備区画の台車へ載せられる。


 続いて、後席足元へ固定されていた本体が降ろされた。


 二つが同じ台車へ並べられた。


 整備要員が煤と消火剤を拭い、外側から状態を確認する。


「機関部は動いています」


 安西が尋ねる。


「使用可能ですか」


「まだ答えられません。分解点検と銃身内部の確認が先です」


「分かりました」


「前線へ戻す予定ですか」


 安西は、一度言葉を止めた。


「使うかどうかは、自分が決めることではありません」


 以前なら、使えるなら持っていくと言っただろう。


 今は違う。


 持ち帰るところまでが、自分の任務だった。


 門の内側にいる者を、もう一度見る。


 森川亮介。


 柴崎誠。


 御厨奈々。


 救助した三人。


 全員いる。


 安西は通信機を開いた。


「こちら安西。後送を完了しました」


 雑音の向こうから、直樹の声が返る。


『名前を』


「森川亮介、柴崎誠、御厨奈々。民間人三名。全員、国境第三へ収容しました」


『車両は』


「全車、門を通過しました」


『12.7ミリは』


「銃身と本体へ分けて回収しました。警戒車両へ固定し、国境第三へ搬入済みです」


『使用できるか』


「点検待ちです」


『分かった』


 直樹は敵について尋ねなかった。


 安西は、採掘道の轍を思い出す。


「途中で、敵車両と思われる痕跡を確認しました」


『追ったか』


「追っていません。回収班と確認し、位置と進行方向を送信しました」


 短い沈黙。


『それでいい』


「まだ、そうは思えません」


『今はそれでいい』


 回線が切れた。


 安西はオートバイを降りた。


 前線へ戻る許可は出ていない。


 医療班が森川たちを運んでいく。


 安西は敵のいる方角ではなく、その後ろを歩いた。


     *


 後送車列の音が谷の向こうへ消えたあと、イネスには道路が急に広くなったように見えた。


 岩壁の幅は変わっていない。


 狭い谷もそのままだ。


 ただ、中型トラックがなくなった。


 12.7ミリの重い銃声も消えた。


 オートバイも後方へ行った。


 残ったのは、六人と二台の損傷した小型車両だけだった。


 直樹は、消火された中型トラックを一度だけ振り返った。


 失った物を惜しむ顔ではない。


 残った物を数える顔だった。


「静かになったわね」


 イネスが言う。


「ああ」


「見つかりにくくもなった」


「トラックを失って良かったわけじゃない」


「分かってる」


「運べる人数も減った」


「それも分かってるわ」


 直樹は小型車両の弾痕へ指を触れた。


 金属板の内側へ届いているものもある。


 二台とも、長く使える状態ではない。


「ただ、ない物を数えても隠れられない」


 田所たちは持っていく装備を減らしていた。


 水。


 応急用品。


 家族記録。


 防寒具。


 通信機。


 必要な物だけを残す。


 重い予備装備は回収班へ渡した。


 車列の音が消えた。


 大型車が通れない農道や、建物の裏を使える。


 監視側からも、救出部隊の規模を読まれにくい。


「今ある形で入る」


 直樹が言った。


     *


 大庭の部隊とは、谷の北側にある旧用水路の管理棟で合流した。


 入口の板窓は外され、内部には地図と通信機が広げられている。


 大庭は入ってきた六人を見た。


 一人ずつ顔を確認する。


 だが、最初に聞いたのは人数ではなかった。


「後ろへ送った名前は」


 田所が姿勢を正す。


「森川亮介、柴崎誠、御厨奈々です。民間人三名も後送しました」


「状態は」


「森川さんは左肩を負傷。柴崎さんは脚の圧迫損傷です。御厨さんが付き添っています」


「安西は」


「後送隊へ残した」


 直樹が答えた。


「戻さないのか」


「ああ」


「ポイントが減るぞ」


「大庭隊と行動を合わせる」


 大庭は壁へ肩を預けた。


「うちから補充を入れるか」


「入れない」


「六人のまま?」


「ああ。指揮系統と帰還確認は分ける」


「信用されてないな」


「混ぜれば、欠けた時に分からなくなる」


 大庭は笑った。


「相変わらず面倒な男だ」


「お前に言われたくない」


 大庭は田所へ視線を移した。


「そっちはどう思う」


「主任教官の判断に従います」


「本音は?」


 田所は一度、直樹を見る。


「大庭隊と混成にした場合、緊急時の人員確認に時間が掛かると思います。別隊のまま連携する方が安全です」


「正解みたいに言うな」


「申し訳ありません」


「謝るところじゃない」


 大庭は笑ったまま、田所の肩を軽く叩いた。


「言いたいことがあるなら、敬語のまま言え。真柴よりは聞くぞ」


「評価へ残さないだけだ」


 直樹が言う。


「俺は評価表を持ってないからな」


 大庭は地図の端を指で叩いた。


「その代わり、口が元気な奴には仕事を多めに渡す」


 田所は大庭を見る。


「今の発言も対象になりますか」


「ならない。今のはちゃんと敬語だった」


 大庭は笑った。


 直樹が田所を見る。


「質問自体は不要だ。評価には残さない」


「はい」


 大庭の笑みが深くなる。


「真柴に評価される方が怖いだろ」


「任務を続けるぞ」


 直樹の一言で、冗談は終わった。


「共有するのは、接触地点、撤退方向、合流時刻、救出対象の情報」


「戦闘になったら?」


 大庭が聞く。


「家族を抜くための支援だけ頼む」


「敵を追うな?」


「家族を帰してからにしろ」


 大庭は鼻から息を吐いた。


「昔のお前なら、先に敵を消した」


 直樹は答えなかった。


     *


 大庭隊は、旧農業集落へ続く保守路を使った。


 舗装路ではない。


 水の抜けた用水路。


 畑の境界。


 倒れた防風林の陰。


 中型トラックがあれば通れなかった道だった。


 六人と大庭隊は、車両の音を残さず前へ進む。


 靴が乾いた土を踏む音。


 草が装備へ触れる音。


 遠くの発電機。


 それ以外は聞こえない。


 だが、帰りも歩くつもりではなかった。


 救出対象には老人がいる。


 子どももいる。


 接触後に負傷者が出る可能性もある。


 撤退用の車両は必要だった。


 だから、途中で使える車を一台ずつ確認していった。


 偶然動く一台へ賭けるためではない。


 攻撃を受けた場所と撤退方向に応じて、速やかに使える選択肢を残すためだった。


     *


 一台目は、果樹園の奥にある農業用中型トラックだった。


 木々の間へ隠れ、監視地点からは見えにくい。


 荷台は広い。


 避難した所有者から、大庭側が緊急使用の了承を得ている。


 高城が運転席へ入る。


 鍵。


 燃料。


 計器。


 ブレーキ。


 静かに確認する。


 始動は前夜に協力者が済ませていた。


 芦田が荷台へ上がる。


「想定している人数は収容できます」


 江藤は車両番号と所有者名を記録した。


 大庭がトラックの前へ回る。


「使えるな」


 直樹は答えない。


 車体の鼻先は倉庫へ向いている。


 左右には農具。


 後方には低い石垣。


 道路へ出るには、一度後退し、狭い場所で向きを変えなければならない。


「高城」


「はい」


「銃撃を受けながら出す場合、どれくらい掛かる」


 高城は運転席から左右を見た。


「農具を動かしても、切り返しが必要です。後方誘導なしでは危険です」


「すぐには出せない?」


「はい。遮蔽はありますが、即時離脱には向きません」


 直樹は頷いた。


「予備にする」


「動くぞ」


 大庭が言う。


「動くだけじゃ足りない」


 直樹は石垣と農具の間を見る。


「人を乗せたあと、止まらず帰る方向へ出られるかだ」


 江藤が記録へ書き足す。


 隠匿性は高い。


 収容力あり。


 退出に時間。


     *


 二台目は、旧集会所の横に停められた自治体用の作業トラックだった。


 目標地点に近い。


 荷台の床が低く、歩行困難者も乗せやすい。


 車体は道路へ向いている。


 鍵も管理箱に残されていた。


 田所が周囲を見回す。


「主任教官、これなら短時間で出せると思います」


 イネスは道路の向こうを見た。


 遠い斜面に、崩れた監視塔がある。


 そこから車体全体が見える。


「待ち伏せには最高ね」


 直樹も監視塔を見た。


「俺たちを待つ側にはな」


 大庭の隊員が、車体の下と周囲を確認する。


 新しい足跡はない。


 だから安全とは限らない。


「候補から外しますか」


 江藤が尋ねた。


「外すな」


 直樹が答える。


「攻撃を受けた位置によっては、これが一番近い」


「露出は大きいです」


「分かってる。近さを取る状況もある」


 江藤が記録する。


 距離は近い。


 即時離脱可能。


 露出が大きい。


 状況次第。


     *


 三台目は、小さな整備工場の裏にあった。


 荷台付きの中型車両。


 建物が斜面からの視線を遮っている。


 車体の前は、細い農道へ向いていた。


 農道は林へ入り、国境第三側の道路へつながっている。


 切り返しは必要ない。


 所有者の所在と緊急使用の許可は、大庭側が確認済みだった。


 燃料。


 バッテリー。


 タイヤ。


 最低限の確認も、協力者が済ませている。


 高城が運転席へ座った。


 前方の幅。


 ハンドル。


 ペダル。


 ミラー。


 一つずつ見る。


「この向きなら、そのまま出せます」


 芦田は荷台の扉を開いた。


「担架を二本置けます。座れる方を詰めれば、想定人数は入ります」


 江藤が所有者札と車両番号を記録する。


「使用記録を国境第三へ送ります」


「まだ動かすな」


 直樹が言った。


 エンジン音を出せば、この車両が使われることを知らせる。


 今は位置と状態を確認するだけでいい。


「これを帰りの車にするの?」


 イネスが尋ねた。


「第一候補だ」


「決めたのね」


「違う」


 直樹は果樹園の方向を見る。


 次に集会所。


 最後に、目の前の車両。


「車を決めたんじゃない」


「では?」


「帰り道を三つ残した」


     *


 六人は、車両をその場へ残して前進した。


 先頭は大庭隊。


 その後ろを、直樹たち六人が進む。


 足音を抑える。


 金属が触れないよう装備を固定する。


 話す時は短く。


 中型トラックを失った穴は大きい。


 重火力もない。


 救出対象を守れる厚い車体もない。


 だが、大型車両が通れる道へ縛られなくなった。


 敵が待つ道路を外れ、畑の境界と建物の裏を使える。


 大庭が立ち止まった。


 前方に、移送施設の外周灯が見える。


 まだ遠い。


 白い光が、風に揺れる草の間で見え隠れしていた。


「ここからは二隊で動く」


 直樹が言う。


 大庭が頷いた。


「うちは外周と撤退路」


「俺たちは家族へ接触する」


「車両は?」


「状況を見て選ぶ」


「整備工場の車が使えなければ」


「集会所」


「そこも潰れたら」


「果樹園へ戻る」


「全部駄目なら」


 直樹は歩いてきた保守路を振り返った。


「大庭の車両へ家族単位で分散する」


 運ではなかった。


 一台が偶然動くことへ賭けているのでもない。


 使える物を確認する。


 潰れた時の次を残す。


 それでも、全部が壊れる可能性はある。


 その時に初めて、最も悪い選択をする。


 最初から賭けにはしない。


 イネスは、隣に立つ直樹の横顔を見た。


 昔のJINは、退路が一つあれば十分だと言った。


 なければ作る。


 作れなければ、自分が残る。


 今の直樹は違う。


 退路を三つ残した。


 一人の犠牲で道を作る前に、全員で帰れる道を増やした。


 直樹は後ろを見る。


 田所。


 江藤。


 芦田。


 高城。


 イネス。


 最後に、自分の位置を確かめる。


「六人いるな」


 田所は、人数だけを答えなかった。


 一人ずつ顔を見る。


 直樹。


 イネス。


 江藤。


 芦田。


 高城。


 自分。


「六人、全員います」


 直樹は前へ向き直った。


「行くぞ」


 大庭隊が闇へ入る。


 六人が続く。


 後方では、安西が負傷者と救助者を国境第三へ帰した。


 銃身と本体へ分けて回収された12.7ミリ重機関銃も、門の内側にある。


 途中には、三台の車両が残されている。


 一台の車ではない。


 一人の犠牲でもない。


 帰るための道が、三つあった。


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