第203話 帰る人数
##第203話 帰る人数
国境第三の車両庫には、朝の匂いがなかった。
焼いたパンも、煮込んだ肉も、子どもがこぼしたスープもない。
油。
湿った土。
消毒薬。
長く閉められていた金属箱の冷たい匂い。
旧南第三から運んできた荷物が壁際へ下ろされ、その向かいには任務用の装備が並べられていた。
小銃。
弾薬。
通信機。
暗視装備。
防寒具。
一つずつ番号が読み上げられ、受領票へ印が付く。
JIN――真柴直樹は、小銃を渡されても、すぐには照準器を覗かなかった。
封印番号。
銃身。
弾薬数。
返却欄。
必要な確認を済ませると、銃を机へ置き、田所たちを見た。
一人ずつ。
目の焦点。
呼吸。
装備の重さへ肩が負けていないか。
手袋を直す指が、普段より速くなっていないか。
昔のJINなら、武器を先に見た。
人間は命令どおりについてくるものだった。
ついてこられなければ、自分が前へ出る。
それで終わっていた。
「JIN」
イネスが呼ぶと、直樹の目が森川から彼女へ移った。
「何だ」
「私も確認して」
「見えてる」
「ちゃんと?」
「朝からうるさい」
イネスは笑った。
直樹は視線を外す前に、彼女の左肩を一度だけ見た。
古い銃創のある場所。
上着の縫い目。
腕を上げた時の動き。
「見たじゃない」
「装備だ」
「私の肩についてる」
「だから見た」
机の反対側で、大庭が受領票を束ねていた。
顔を上げ、二人を見比べる。
「学校でも、ずっとそれか」
「もっと近いわ」
「余計なことを言うな」
直樹が地図を広げた。
旧採石場へ続く細い道が、谷底を縫うように北へ延びている。
前進拠点へ向かう経路だった。
大庭の指が、谷へ入る手前で止まる。
「無線は、この辺りから不安定になる」
「完全に落ちるのか」
「岩壁の角度による。切れても数分走れば戻る。昨日まではな」
指が谷の中央へ進む。
「監視所から、民間の小型トラックが一台入るのを確認した。出てきた記録はない」
「故障か」
「分からん」
大庭は地図から顔を上げた。
「北の県道は検問が増えた。目立たず前進するなら、ここしかない」
選べる道ではなかった。
通れる可能性が残っているのが、その道だけだった。
直樹は地図を畳む。
「編成を確認する」
*
車両庫の外には、四台が並んでいた。
先頭は、直樹が旧南第三から乗ってきた偵察用オートバイ。
安西冬馬がハンドルへ手を掛け、車体の傷を見ている。
「主任教官が乗ってきたものですよね」
「ああ」
「壊したら?」
「帰ってから直せ」
「怒らないんですか」
「帰ってくればな」
安西の手が止まった。
直樹はオートバイではなく、その先にある谷の方角を見た。
「通信が切れても、後続から見える距離を外れるな」
「了解」
「ポイントの仕事は、敵を倒すことじゃない」
「障害物と異常の発見」
「新しい轍。動かされた石。止まった車。見慣れない物」
「敵を見つけたら?」
「戻って伝えろ」
「追跡できる距離でも?」
「追うな」
安西の顎が少し上がった。
「位置を失います」
「お前が戻らなければ、位置があったことすら伝わらない」
直樹は安西の目を見る。
「ポイントは、一番最初に敵へ近づく人間じゃない。一番最初に異常を持ち帰る人間だ」
安西はすぐには答えなかった。
ミラーを自分の位置へ合わせる。
「了解」
二番目は小型車両。
イネスが運転席。
直樹が助手席。
後部座席には、通信機と記録を持った江藤。
外から見ただけでは、そこにコンボイ・コマンダーが乗っているとは分からない。
三番目は中型トラック。
荷台には、救出対象を収容する空間が空けられている。
折り畳み担架。
防寒具。
水。
医療箱。
上部の旋回銃座には、12.7ミリ重機関銃。
森川が銃手。
柴崎が運転。
御厨が医療。
芦田が物資と収容区画を担当する。
最後尾は、もう一台の小型車両。
高城が運転し、田所が助手席へ乗る。
田所はアシスタント・コンボイ・コマンダーとして、後方警戒、車列の欠落確認、通信断時の指揮継承を担う。
直樹は車列を端から見た。
オートバイ。
小型車両。
中型トラック。
小型車両。
十人。
「谷へ入ったら、車間を詰めるな」
全員の目が集まる。
「停止命令が出ても、勝手に車外へ出るな。通信が切れたら、見えている範囲で前後を保て」
森川が銃座を見上げる。
「射撃判断は」
「明確な射点だけだ」
「斜面全体から撃たれた場合は?」
「斜面全体へ撃ち返すな」
「この火力を積んでいても?」
直樹は、太い銃身を見た。
「撃てる場所と、撃っていい場所は違う」
安西が腕を組む。
「襲撃側に逃げられます」
「追わない」
「後ろへ回られたら」
「車列を出す」
「敵を残したまま?」
「俺たちの目的は、谷を取ることじゃない」
直樹の視線が、中型トラックの空いた荷台へ向く。
帰りには、人を乗せる場所だった。
「家族を乗せて帰ることだ」
イネスは運転席の扉へ手を掛けた。
昔のJINは、敵を残すことを嫌った。
脅威を消せば、味方が安全になる。
簡単な理屈だった。
ただ、その簡単な理屈は、いつも彼を一人で遠くへ行かせた。
*
谷へ入る手前で、車列は一度停止した。
安西のオートバイが、少し先でアイドリングしている。
岩壁の間を抜ける風が、乾いた草を低く揺らしていた。
両側の斜面は高い。
空は細く切り取られ、昼前なのに道路の半分は影の中にある。
イネスは運転席で通信を確かめた。
「聞こえるわ」
後部座席で江藤が機器を操作する。
「安西さん」
『聞こえています』
「中型車」
『こちら柴崎。良好』
「後尾」
『田所。良好です』
助手席の直樹は前を見たあと、サイドミラーを調整した。
中型トラック。
最後尾の小型車両。
もう一度、中型トラック。
「前を見なくていいの?」
「見てる」
「後ろばかり」
「車列だ」
「学校も?」
直樹の右手が、無線機の上で止まった。
ほんの一瞬。
「今は任務中だ」
否定しなかった。
イネスはシートへ座り直した。
「十人いるわ」
「ああ」
「私も入ってる?」
「うるさいのが一人」
「それは私ね」
「自覚はあるのか」
安西のオートバイが動き出す。
直樹が手を上げた。
「出る」
イネスはアクセルを踏んだ。
四台の車列が、影の濃い谷へ入っていく。
*
通信は、三つ目の曲がり角を越えた辺りから崩れ始めた。
声の後ろへ砂嵐が混じる。
単語が一つずつ欠ける。
安西からの報告が途切れた。
『前方――民間――三名。車両――道幅――』
「安西、もう一度」
直樹が送信する。
返ってくるのは雑音だけだった。
江藤が機器の出力を調整する。
「呼び出しています」
「詰めるな」
直樹が言った。
イネスは速度を落とす。
曲がり角の先に、安西のオートバイが見えた。
道路左端。
エンジンは掛かったまま。
安西は地面へ片足を着け、前方を見ている。
その先に、古い小型トラックが斜めに停まっていた。
前輪が溝へ落ち、荷台が道路の半分を塞いでいる。
車外には、女。
十歳ほどの少年。
杖を持った老人。
三人の男が、荷物を道路へ投げ出していた。
服は揃っていない。
腕章もない。
しかし、三人とも銃を持っている。
イネスはハンドルを握ったまま、斜面を見た。
左側の岩棚。
古い採掘道。
風に揺れる草の中で、一か所だけ動かない黒い線。
右側。
崩れた作業小屋の影。
ガラスのような反射が一度だけ光った。
「上にいる」
「ああ」
「左に最低二」
「右もいる」
「止まる?」
「安西を戻す」
直樹は窓から左手を出した。
下がれ。
手の動きで伝える。
安西がミラー越しに確認した。
オートバイを回そうとした時、武装した男の一人が少年へ手を伸ばす。
少年は胸へ革鞄を抱えていた。
男が肩紐をつかむ。
少年は離さない。
女が男の腕へしがみつく。
肘で顔を払われ、路面へ倒れた。
革鞄が落ちた。
留め具が外れ、紙が風へ散る。
古い身分証。
薬の処方票。
色の褪せた家族写真。
少年が道路へ飛び出した。
谷の上で、短い光が弾ける。
「来る」
イネスが言った。
ハンドルを切る。
直後、少年の前で路面が破裂した。
石片がフロントガラスへ打ちつけられる。
安西がオートバイを倒し、岩陰へ滑り込んだ。
先頭のオートバイは通した。
小型車両も通した。
中型トラックの前輪が、道路中央に残る黒い染みへ重なった瞬間――待っていた者が選んだように、爆発した。
腹の底を押し潰す音。
車体が浮く。
銃座の太い銃身が空へ跳ねた。
中型トラックは前部を左へ振り、岩壁へ斜めにぶつかった。
道の大半が塞がれる。
ただ、右端にだけ、小型車両一台が辛うじて抜けられる幅が残った。
その一拍後。
最後尾のさらに後ろでも、地面が持ち上がった。
爆音。
斜面から岩と土が崩れ落ち、退路を塞ぐ。
前を止める。
後ろを閉じる。
谷底へ車列を閉じ込めるための罠だった。
イネスの車内へ、遅れて爆風が届く。
窓が震えた。
江藤が座席の間へ身体を沈める。
「中型車、応答してください!」
返事はない。
岩壁の両側から、銃火が降り始めた。
フロントガラスの端が白く砕ける。
イネスは車両を路肩へ寄せた。
直樹は身体を低くしたまま、後方を見る。
中型トラック。
銃座。
最後尾。
前方の安西。
道路へ伏せた少年。
敵の位置を拾う。
だが、その視線は敵に留まらない。
「江藤。人数」
「こちら三名」
「安西は見える」
「はい」
「中型車は」
「四名。状況不明」
「後尾二名」
十人。
位置は分かる。
生きているかは、まだ分からない。
中型トラックの銃座が動いた。
森川の頭が盾の後ろへ現れる。
太い銃身が斜面へ回る。
「撃つな!」
直樹が叫ぶ。
声が届いたかは分からない。
森川の銃身が止まる。
斜面全体ではなく、右側の作業小屋へ向く。
明確な発砲光が二度見えた。
12.7ミリが短く吠えた。
谷の空気が殴られたように震える。
作業小屋の壁が砕け、火線が止まった。
連射は続かない。
森川は次の射点を探している。
右の岩棚で、筒状の影が動いた。
「伏せろ!」
イネスが叫ぶ。
白い煙を引いた飛翔体が、中型トラックの上を越えた。
岩壁へ当たり、破片と粉塵が谷へ広がる。
銃座から森川の姿が消えた。
「JIN」
「ああ」
「行くつもりね」
直樹はドアへ手を掛けた。
「車両を家族の前へ出せ」
「あなたは?」
「子どもを戻す」
「中型車は」
「そのあとだ」
「一人で?」
「安西を戻せ。斜面へ行かせるな」
イネスは直樹の手首をつかんだ。
昔と同じだった。
自分だけが先に降りる。
必要な場所へ行く。
帰るかどうかを、結果へ預ける。
「質問に答えて」
直樹が彼女を見る。
頬には細かなガラス片。
右の眉の上から、一筋の血。
目だけは静かだった。
「戻る」
短い言葉。
昔のJINは、言わなかった。
戻れた時だけ戻る。
それが兵士だと思っていた。
イネスは手を離した。
「破ったら殺すわ」
「先に撃たれる」
「私が先よ」
直樹はドアを開けた。
*
彼は敵へ向かわなかった。
左の岩棚。
崩れた採掘道。
右の作業小屋。
射手の位置は読めている。
追えば届く。
少なくとも一人は捕まえられる。
昔のJINなら、すでに斜面へ消えていた。
今の直樹は、道路へ伏せた少年へ走った。
一度、車両の陰へ沈む。
銃火が路面を叩く。
次の遮蔽物まで移る。
少年は両腕で紙を押さえていた。
弾が近くへ落ちても、家族写真を離さない。
直樹は少年の手首をつかんだ。
少年が叫び、身体を捻る。
「母親は」
言葉は通じない。
直樹は倒れた女を指した。
少年の目が動く。
革鞄ごと身体を引き寄せ、道路脇の窪みへ押し出す。
女が這って近づき、少年を抱え込んだ。
イネスは車両を前へ出した。
小型車両の側面を、家族と斜面の間へ置く。
銃弾が外板へ当たり、薄い金属音を立てた。
江藤が後部座席からドアを開け、老人へ手を伸ばす。
「こちらへ!」
老人は立てない。
左脚へ体重を掛けられず、杖も失っている。
直樹が老人の脇へ肩を入れた。
イネスは斜面を見る。
安西がオートバイの陰から、採掘道を見ていた。
敵が後退する方向。
追える道。
安西の身体が、そちらへ傾く。
直樹は老人を支えたまま、片手を上げた。
戻れ。
安西の動きが止まる。
採掘道。
直樹。
中型トラック。
三つへ視線が動いた。
安西は歯を食いしばり、オートバイを起こす。
敵ではなく、車列へ向かって戻ってきた。
「谷を出ろ!」
直樹が叫ぶ。
「何を――」
「北の作業道を抜けろ。無線が通る場所まで行け」
安西は斜面の上を見る。
「追跡できます!」
「追うな」
「位置を失います!」
「救援を持って戻れ」
安西の顔に、納得はなかった。
それでもヘルメットを被り直す。
「戻ればいいんですね」
「戻れ」
オートバイが加速する。
斜面から安西へ銃口が向いた。
森川の12.7ミリが再び鳴る。
一度。
短く。
岩棚の縁が砕け、敵の頭が下がる。
安西は谷の脇へ延びる細い作業道へ入り、土煙の向こうへ消えた。
敵を追うためではない。
全員を帰す道を持ってくるために。
イネスは直樹の背中を見た。
彼は敵へ背を向けている。
昔なら、しなかった。
背中を見せれば死ぬ。
脅威を残せば仲間が死ぬ。
だから自分が最後まで前に残る。
今の直樹は、斜面へ背を向け、中型トラックを見ていた。
銃座の森川。
運転席の柴崎。
荷台の御厨と芦田。
最後尾の田所と高城。
誰がまだ動いているか。
誰が返事をしていないか。
敵ではなく、帰る人数を探していた。
以前のJINは、死なない兵士だった。
今の直樹は、帰る兵士になった。
*
爆発の直後、田所は自分の名前を思い出せなかった。
耳の奥で、巨大な鉄板を引きずる音が続いている。
舌を動かす。
砂。
血の味。
自分の身体がどこまで残っているのか、すぐには分からない。
腰の固定帯。
胸。
両脚。
一つずつ力を入れる。
動く。
運転席では高城がハンドルへ突っ伏していた。
「高城」
肩をつかむ。
「高城真帆」
瞼が動く。
高城は顔を上げ、鼻の下の血を手の甲で拭った。
「聞こえます」
「動けますか」
「右手が痺れています。でも動きます」
田所は車外を見る。
中型トラックが、前部を左の岩壁へ押しつけられている。
右側には狭い隙間がある。
小型車両なら通れるかもしれない。
ただし、右斜面から火線が通っていた。
後方では、崩れた岩と土が道を塞いでいる。
後退できない。
通信機を取る。
「中型車、応答してください」
雑音。
「こちら後尾。田所。応答を」
音は返らない。
中型トラックの銃座から、森川の姿が一瞬見えた。
12.7ミリが短く火を吐く。
空気が腹へ響いた。
その直後、岩壁で爆発。
粉塵がトラック全体を覆う。
「主任教官の車は」
高城が聞く。
「前にいます」
「見えますか」
「一部だけ」
車両の間から、直樹が道路を横切る姿が見えた。
敵の方向ではない。
民間人の方へ走っている。
訓練で何度も聞いた声が、頭の中へ戻った。
目的を見ろ。
家族を分けるな。
こちら側を一人でも欠かすな。
言葉は覚えている。
しかし、窓の外には本物の銃弾が飛んでいた。
「行きます」
田所はドアへ手を掛ける。
高城が袖をつかんだ。
「一人で?」
「中型車を確認します」
「私も行きます」
「車両を動かす人が必要です」
「それは役割で決めています」
田所の手が止まる。
高城の顔は青ざめていた。
右手は細かく震えている。
それでも、袖を離さなかった。
「一人で決めないでください」
時間がない時ほど、答えを作るな。
訓練で自分たちが何度も言われた言葉だった。
田所は外を見る。
右斜面。
中型トラックの脇に残る幅。
銃座。
高城の手。
「車両で抜けます」
「隙間を?」
「銃座が右斜面を押さえた時だけ」
「失敗したら」
「ここにいても撃たれます」
高城は一度だけ目を閉じた。
開く。
「分かりました」
田所は白い確認布を取り出した。
窓の下で一度振る。
中型トラックの荷台から、芦田の手が見えた。
布が二度動く。
生存。
負傷あり。
田所は右の斜面を指す。
次に、自分たちの車両からトラックの脇へ線を引く。
芦田の手が消えた。
数秒後、12.7ミリの銃身が右へ回る。
作業小屋の奥で発砲光。
重い銃声が一度だけ谷を叩いた。
「今!」
高城がアクセルを踏む。
小型車両が前へ出た。
右側の岩壁と、中型トラックの間。
車体が通れる幅しかない。
高城はハンドルを切らない。
車体右側が岩へ擦れる。
甲高い金属音。
サイドミラーが石へ当たり、後ろへ折れた。
左側では、中型トラックの荷台が窓のすぐ外を通る。
田所は息を止めた。
後輪が瓦礫へ乗り上げる。
車体が傾く。
高城はアクセルを緩めなかった。
小型車両は中型トラックの脇を抜け、前方側へ出た。
田所の肺から、一気に息が抜ける。
「止めて」
高城はトラックの運転席側へ車体を寄せた。
自分たちの車両を、斜面からの遮蔽物にする。
「行きます」
今度は、高城が先にドアへ手を掛けた。
「一緒に」
田所が言う。
「はい」
二人は車外へ出た。
*
中型トラックの荷台には、毛布と医療箱が散らばっていた。
火薬。
金属。
血の匂い。
森川は銃座の下へ座り込んでいる。
左の肩口が裂け、御厨が圧迫材を押し当てていた。
「森川」
瞼が動く。
「名前を言えますか」
「森川、亮介」
「銃座は」
「動く」
「あなたは」
「俺も動く」
立ち上がろうとする。
御厨が肩を押さえた。
「動かないでください」
「射点が残ってる」
「出血も残っています」
森川が歯を食いしばる。
田所は銃座を見上げた。
12.7ミリ。
谷の空気を変えられる火力。
同時に、銃手を岩壁の上へ晒す場所。
「森川。撃つのは、見えた射点だけです」
「主任教官から聞いてる」
「今は俺からです」
森川の目が田所へ向いた。
短い間。
「了解」
田所は運転席側へ移った。
柴崎は、変形したドアと座席の間へ脚を挟まれていた。
意識はある。
額には汗。
呼吸が速い。
「柴崎」
「ここです」
「脚は」
「感覚はあります。抜けません」
御厨が後ろから覗く。
「無理に引かないでください」
「火が回ったら?」
「その前に出します」
「どうやって」
御厨は答えなかった。
答えを持っていない。
田所も持っていなかった。
選択肢が一つずつ消えていく。
後退不能。
中型トラックは自走できない。
通信は途切れている。
銃手は負傷。
運転手は挟まれている。
敵は斜面に残っている。
救援が来る保証はない。
「田所さん」
芦田が呼ぶ。
荷台の外を指した。
斜面下で、安西のオートバイが動く。
敵のいる方角ではない。
細い作業道へ入っていく。
「安西さんが離れます」
「追撃じゃない」
田所は進行方向を見る。
谷の外。
通信が戻る場所。
「救援を呼びに行ったんです」
直樹が行かせた。
追える敵を追わせず、戻る道を探させた。
田所は柴崎へ向き直る。
「安西が救援を呼びます」
「来るまで、どれくらいですか」
「分かりません」
「正直ですね」
「今は、それしかありません」
柴崎の口元が少しだけ動いた。
「なら、待ちます」
*
待つ時間は、時計より長かった。
12.7ミリが短く鳴るたび、岩壁から砂が降った。
森川は御厨に支えられ、必要な時だけ銃座へ身体を上げる。
撃ち続けない。
姿が見えた射点。
前進しようとする敵。
車列へ火線を通そうとした瞬間だけ。
撃つたび、肩の圧迫材へ血が広がる。
御厨が下ろす。
森川がまた上がろうとする。
「次は俺が判断します」
田所が言った。
「銃手じゃないだろ」
「あなたを失えば、銃も失います」
「撃たなければ全員失う」
「だから、必要な時だけです」
森川は荒い息を吐いた。
反論はしなかった。
前方から、イネスの小型車両がゆっくり後退してくる。
側面には弾痕。
車両の陰へ、母親と少年が身を寄せている。
直樹は老人を肩で支えながら歩いていた。
敵へ背中を向けている。
田所はその姿を見た。
主任教官は、いつも前へ出る。
だから誰よりも強く見えた。
今は後ろへ戻ってくる。
老人を連れて。
少年の革鞄を抱えて。
逃げているのではない。
帰す人間を増やしながら、車列へ戻っている。
「田所!」
直樹の声が届く。
「こちら六名、全員生存!」
田所は反射的に叫んだ。
すぐに違うと気づく。
人数だけでは足りない。
「田所遼!」
高城が続く。
「高城真帆!」
芦田が荷台から声を上げる。
「芦田真希!」
「御厨奈々!」
森川が歯を食いしばる。
「森川亮介!」
運転席から柴崎の声。
「柴崎誠!」
六人。
直樹が頷く。
「前は四人いる!」
直樹。
イネス。
江藤。
安西。
安西は谷の外へ向かっている。
それでも、戻るために走っている。
「十人だ!」
直樹が叫んだ。
田所の胸の中で、昨日の帰還欄が開く。
十人の名前。
一つも消されていない。
*
北側の谷の外で、低い爆発音がした。
安西が向かった方向。
田所の腹が冷える。
数秒後、通信機へ激しい雑音が入り込む。
『こちら――安西――聞こえますか』
「聞こえる!」
田所が無線機を取る。
『救援と接続。回収班が北口へ向かっています』
「安西は」
『戻ります』
途切れた声の後ろで、オートバイのエンジン音がする。
『ただし北口で追加崩落。回収車両は入れません』
救援にも、罠が待っていた。
「状況は」
『徒歩班が担架を持って入ります。車両は崩落の向こうで待機』
「何分ですか」
返事はない。
通信がまた途切れた。
中型トラックの下から、細い煙が上がり始める。
芦田が床へ手を当てた。
「熱が上がっています」
御厨が柴崎を見る。
「待てません」
「脚を引く?」
「このまま火が回るよりは」
柴崎の顔から色が引いた。
田所は変形した座席を見る。
無理に動かせば、脚を傷める。
動かさなければ、火が来る。
選べる答えは、どちらも正しくない。
直樹が運転席側へ来る。
「状況」
「柴崎の脚が挟まれています。車体下から熱」
「工具は」
「前部の箱です。変形して開きません」
直樹は周囲を見た。
敵の火線。
銃座。
二台の小型車両。
民間人。
崩落。
田所は、その目がまた自分を人数から外す計算を始めるのを感じた。
「俺が残る」
やはり。
「イネスの車両で民間人を北へ出す。救援班と接続しろ。田所は残りをまとめろ」
「主任教官は」
「柴崎を出す」
「その後は」
「追いつく」
言葉は短い。
合理的に聞こえる。
訓練前なら、誰も止められなかった。
「一人で残る根拠を出してください」
直樹の目が田所へ向いた。
「時間がない」
「時間がない時ほど、勝手に答えを作るなと言いました」
「田所」
「帰還欄に、主任教官の名前もあります」
直樹の眉がわずかに動く。
「今する話か」
「今しかできません」
斜面から銃声。
トラックの外板へ穴が増える。
それでも田所は視線を外さなかった。
「こちら側から、主任教官を外しません」
「柴崎を出す人間が要る」
「全員で出します」
「全員を残せば危険が増える」
「主任教官一人を残しても、危険は減りません」
「車列を先に――」
「十人で入りました」
田所の声が震えた。
恐怖のせいか。
怒りのせいか。
自分でも分からない。
「十人で戻るんでしょう」
直樹は柴崎を見た。
森川。
御厨。
芦田。
高城。
田所。
最後に、自分の手を見る。
谷へ残る者を、自分だけで決めようとしていた手。
短く息を吐く。
「分かった」
「何がですか」
「全員で出す」
無線へイネスの声が入った。
『一人で残るなら、学校へ言うわ』
「何をだ」
『エプロンを燃やしに帰らなかったって』
直樹の眉間に皺が寄る。
「それは関係ない」
『子どもたちにはあるわ』
「もう決めた。全員で出す」
田所は、こんな場所で何を話しているのかと思った。
思った瞬間、詰まっていた息が少しだけ抜けた。
*
中型トラックに積まれていた物資が道路へ下ろされた。
水。
予備燃料。
食料箱。
防寒具。
明日のために必要な物まで捨てれば、任務は続けられない。
それでも今は、人間の方が先だった。
芦田が、残す物と捨てる物を選ぶ。
御厨は柴崎の脚を固定する。
高城が後方小型車両をさらに寄せ、運転席側を斜面から隠した。
森川の12.7ミリが一度だけ鳴る。
右斜面の火線が伏せる。
「今です!」
田所と直樹が、変形した座席へ手を入れた。
柴崎が歯を食いしばる。
「引きます」
御厨が言った。
「止めたければ言ってください」
「止めたら、火が待ってくれますか」
「待ちません」
「なら、やってください」
金属が擦れる。
柴崎の喉から、押し殺した声が漏れた。
田所の掌が汗で滑る。
直樹の肩が座席へ入る。
「もう一度」
座席が数センチ動く。
柴崎の脚が抜けた。
御厨と芦田が身体を受け取る。
直後、トラックの下から炎が上がった。
「離れろ!」
全員が車体の陰から走る。
森川が銃座から降りようとする。
左肩が動かない。
田所が下から腕を伸ばした。
「飛んでください!」
「受けられるか」
「二人います!」
高城も並ぶ。
森川が銃座を離れた。
二人の肩へ重さが落ちる。
その背後で、中型トラックが炎に包まれた。
銃座の金属が赤く焼ける。
給弾部が歪み、残された弾薬が火の中で乾いた破裂音を立てた。
12.7ミリ重機関銃は、回収も再使用もできない状態になった。
強い武器。
救出対象を運ぶはずだった器。
どちらも谷へ残すことになった。
*
安西が戻ったのは、炎が荷台へ回った頃だった。
オートバイの前面は、泥と岩の粉で白くなっている。
安西は停止と同時に車体を降りた。
「徒歩回収班が来ます。北の崩落までは十分以内」
直樹が尋ねる。
「敵は」
「作業道の上に二人いました」
「追ったか」
安西の口が固くなる。
「追えました」
「聞いてるのは、追ったかだ」
「追っていません」
「ならいい」
「よくありません」
安西は谷の上を見る。
「位置を失いました」
「救援は来る」
「敵は残っています」
「お前は戻った」
「それでいいんですか」
直樹は、炎を上げる中型トラックを見た。
次に、負傷した仲間と民間人を見る。
「今は、それでいい」
安西は納得しなかった。
それでも、オートバイを起こした。
敵を探すためではない。
徒歩回収班が入る道を示すために。
*
北側から入った回収班も、無傷では近づけなかった。
斜面から再び火線が落ちる。
先頭の隊員が岩陰へ伏せた。
後続が煙を展開する。
白い幕が谷底へ広がった。
誰がどこにいるのか分からなくなる。
田所は人数を数えかけた。
違う。
名前を呼ぶ。
「江藤!」
「います!」
「芦田!」
「はい!」
「安西!」
前方から声。
「います!」
「柴崎!」
御厨の隣で、苦しそうな返事。
「いる」
「森川!」
「うるさい!」
「御厨!」
「はい!」
「高城!」
「ここです!」
田所は直樹を探す。
見えない。
「真柴主任教官!」
返事がない。
胸の中が冷える。
「主任教官!」
煙の奥から手が伸び、田所の襟をつかんだ。
「近い」
直樹の顔が白煙の中から現れる。
「聞こえませんでした」
「老人を担架へ移してた」
「返事してください」
「ああ」
その一言で、田所の脚から力が抜けそうになる。
イネスも直樹の後ろから現れた。
「私は呼ばれてないわ」
「イネス大尉!」
「いる」
十人。
全員いる。
母親。
少年。
老人。
三人もいる。
「合計十三名!」
田所が叫ぶ。
徒歩回収班は二本の担架を持ち込んでいた。
森川。
柴崎。
老人。
三人を一度には運べない。
直樹は母親と少年を見る。
次に御厨。
「御厨は負傷者に付け」
「はい」
「老人を先に崩落の向こうへ。戻った担架で森川。柴崎は最後だ」
柴崎が顔を上げる。
「俺が最後ですか」
「意識と循環が安定してる」
御厨が答える。
「置いていくという意味ではありません」
柴崎は短く息を吐いた。
「分かりました」
母親と少年は、老人の担架から離れなかった。
回収班の一人が二人へ手を伸ばす。
直樹が止める。
「一緒に行かせろ」
崩落の向こうには、回収車両と医療車両が待っていた。
大型車は入れない。
だが徒歩なら通れる。
担架が一往復するたび、谷に残る人数が減っていく。
老人。
母親。
少年。
森川。
柴崎。
御厨も最後の担架に付き添って、崩落の向こうへ移った。
回収班が岩を動かし、道の端へ幅を作る。
大型車両は通れない。
小型車両とオートバイなら、ミラーを畳めば通れる。
田所は、残った顔をもう一度見る。
直樹。
イネス。
江藤。
芦田。
安西。
高城。
自分。
崩落の向こうには、森川、柴崎、御厨。
離れていても、十人だった。
「全員、移動済みです」
直樹が頷く。
「出るぞ」
*
二台の小型車両とオートバイが、北側の隙間を抜けた。
高城の車両は右のミラーを失い、側面を擦っている。
イネスの車両にも弾痕が残った。
後ろでは、中型トラックが燃えている。
敵を倒した証拠はない。
谷を制圧したわけでもない。
中型トラック。
12.7ミリ重機関銃。
物資。
予定していた経路。
多くを失った。
森川と柴崎は負傷した。
安西には、追えた敵を残した怒りがある。
翌夜の作戦は、もう予定どおりには実行できない。
勝利と呼べるものは、どこにも見えなかった。
ただ、谷へ置かれた名前もなかった。
*
国境第三へ戻ると、森川と柴崎は医療区画へ運ばれた。
森川の左肩は縫合が必要だった。
骨と大きな血管は外れている。
柴崎の脚も骨折はなかったが、強い圧迫と腫れが残った。
次の任務へ参加できるかは、まだ分からない。
田所は医療区画の外で、手を洗っていた。
石鹸を使っても、指の間から血と火薬の匂いが消えない。
水を止める。
鏡の中に、自分の顔があった。
頬の細い傷。
目の周りに付いた灰。
主任教官を止めると言った時より、今の方が怖い。
直樹が廊下の向こうから歩いてくる。
眉の上へ処置材が貼られていた。
「森川は」
「縫合中です。柴崎も検査しています」
「意識は」
「二人ともあります」
直樹は医療区画の扉を見る。
「なら、今はいい」
田所は蛇口に残る水滴を見た。
「主任教官」
「何だ」
「谷で、一人で残るつもりでしたか」
「必要なら」
「必要ではありませんでした」
「ああ」
「俺が止めなければ?」
直樹はすぐには答えなかった。
遠くで、金属製の器具が触れ合う音がする。
「残ったかもしれない」
「自分で決めた?」
「ああ」
「俺たちにだけですか」
「何が」
「勝手に答えを作るな、というのは」
直樹の目が田所へ向いた。
田所は視線を外さなかった。
脚は、まだ微かに震えている。
「帰還欄に、主任教官の名前もあります」
「健二が書いたんだろ」
「はい」
「消せないな」
「消させません」
直樹は短く息を吐いた。
「次も止めろ」
「止めます」
「ただし、今日と同じ答えとは限らない」
「その時に考えます」
「それでいい」
直樹は医療区画の扉へ向かった。
田所はその背中を見送る。
以前なら、あの背中についていくことだけを考えただろう。
今は違う。
遠くへ行きすぎた時、戻すことも自分の仕事だった。
*
夜、イネスは車両庫の隅で直樹を見つけた。
失った装備の一覧を作っている。
中型トラック。
12.7ミリ重機関銃。
救出用担架。
防寒具。
食料。
水。
通信機器の一部。
紙の上では、失った物が一行ずつ増えていた。
直樹はその前に、旧南第三へ定時連絡を入れている。
全員生存。
森川と柴崎が負傷。
国境第三へ帰着。
次の連絡時刻。
伝えたのはそれだけだった。
敵の人数も、撃った数も、燃えた車両も詳しくは話さない。
帰る場所が必要としているのは、戦果ではなかった。
「昔のあなたなら、斜面へ行った」
イネスは壁へ背を預けた。
「そうかもな」
「安西より先に」
「ああ」
「逃げた三人も、岩棚の二人も残さなかった」
「たぶんな」
「今日は追わなかった」
直樹は、失った物資の数を書き込む。
「人数が減る」
「昔も仲間はいたわ」
「いた」
「私もいた」
「ああ」
「なのに、自分だけ残った」
直樹のペン先が止まる。
谷にいた時より、今の方が疲れて見えた。
「昔は、俺を数えてなかった」
イネスの笑みが消えた。
直樹は紙から顔を上げない。
「今は、数える奴がいる」
「健二?」
「健二も」
「めぐみ」
返事まで、少し時間があった。
「ああ」
「ミーシャも?」
「たぶんな」
「子どもたちも」
直樹は答えなかった。
答えないことが答えだった。
イネスは腕を組む。
「幸せ?」
車両庫の外で、発電機が低く回っている。
油。
消毒薬。
焦げた樹脂。
谷から持ち帰った匂いが、まだ二人の服に残っていた。
直樹は長く黙った。
「帰る場所はある」
それで十分だった。
昔のJINは、死なない兵士だった。
今の直樹は、自分の命まで守る人数の中へ入れられる。
弱くなったのではない。
死ぬ覚悟を失ったのでもない。
敵を残す恐怖より、自分を待つ者のところへ戻れないことを恐れるようになった。
その恐れが、敵へ背を向けさせた。
田所の言葉を聞かせた。
仲間と同じ道を戻らせた。
イネスは壁から背を離す。
「どこへ行く」
直樹が尋ねる。
「寝るの」
「酒は」
「飲まないわ」
直樹が初めて顔を上げた。
「どうした」
「次も十人でしょう?」
直樹は医療区画の方角を見る。
「十人で動けるまでは出ない」
イネスは少しだけ目を細めた。
昔なら、負傷者を置いて別の人数で出た。
必要なら、自分だけでも行った。
「本当に変わったのね」
「何が」
「全部」
「大げさだ」
二歩進み、振り返る。
「JIN」
「何だ」
「今度、一人で残ろうとしたら、学校へ言うわ」
「やめろ」
「エプロンを燃やしに帰らなかったって」
「それは捨てろ」
「帰ってからね」
直樹の眉間に皺が寄った。
「帰る気なのね」
「最初から言ってる」
「昔は言わなかった」
直樹は答えなかった。
イネスは、その沈黙を連れて車両庫を出た。
医療区画には森川と柴崎。
その近くに御厨。
仮眠室には田所、江藤、芦田、安西、高城。
車両庫に直樹。
自分。
十人。
今夜は、人数だけでは足りなかった。
一人ずつ名前を思い出す。
全員、まだ国境第三にいる。
旧南第三の食器棚には、十枚の皿が並んでいる。
今夜、その一枚にも、消された名前はなかった。




