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第202話 戻る欄

##第202話 戻る欄


 出発の日の朝は、目覚まし時計より先に始まった。


 午前四時。


 厨房の灯りが点く。


 大鍋の蓋が持ち上がり、白い蒸気が天井へ広がった。昨夜のブリスケットから取った肉汁に野菜を加えたスープが、弱い火の上で静かに揺れている。


 パンを切る音。


 包み紙を折る音。


 水筒の蓋が噛み合う音。


 子どもたちが眠る校舎の中で、朝食を作る音だけが続いていた。


 健二は長机へ十枚の包み紙を並べた。


 薄く切った肉。


 酢漬けの野菜。


 潰したじゃがいも。


 固くなりにくいパン。


 一人分を包むたび、紙帯へ名前を書く。


 真柴直樹。


 イネス・モロー。


 田所遼。


 江藤沙月。


 芦田真希。


 安西冬馬。


 柴崎誠。


 御厨奈々。


 森川亮介。


 高城真帆。


 書き終えた紙帯を、包みへ一つずつ巻く。


 向かい側では、ハルが水筒の蓋を押していた。


 最後の一本を逆さにする。


 漏れはない。


「十本です」


 白い紐を巻いた二本だけを、箱の端へ分けた。


「御厨さんと高城さんは、白湯でしたね」


「冷えると胃が痛むそうです」


 健二は二本の間へ畳んだ布を差し込んだ。


「車の奥へ入れない方がいいですね」


「すぐ取れる場所にします」


 ハルは水筒の箱を閉じ、次の袋を開いた。


 家族確認票。


 本人の意思欄。


 親の意思欄。


 家族単位を示す紐。


 受付整理にだけ使う番号札。


 最後に、何も書かれていない白い札が出てくる。


 ハルは一本の鉛筆を手に取った。


 先端が紙へ触れる直前で止まる。


「何も書かなくていいんですよね」


「本人が決めるまでは」


 ハルは鉛筆を戻した。


 白紙のまま、札を袋へ入れる。


 名前のない紙。


 けれど、名前のない人間を表す紙ではない。


 まだ聞いていない名前を、こちらの都合で埋めないための空白だった。


 健二は最後の包みを保温箱へ入れた。


 蓋へ手を掛ける。


 閉める前に、厨房の棚を見た。


「何か足りませんか」


 ハルが尋ねる。


「足りないんじゃなくて、残します」


 健二は米袋を持ち上げ、普段とは別の棚へ移した。


 味噌。


 乾燥野菜。


 冷凍してある肉。


 卵を一箱。


 七日後に使う分だけを、今朝の棚から外していく。


 ハルは移された食材を見た。


「帰った人の分ですか」


「はい」


「今から献立を決めますか」


「まだ決めません」


 健二は棚の扉を閉じた。


「帰ってきた人に聞きます」


 ハルはそれ以上尋ねなかった。


     *


 五時前になると、廊下に足音が増え始めた。


 訓練生たちは、自分の荷物を持って多目的室へ集まっていく。


 武器はない。


 弾薬もない。


 国境第三で受け取る。


 学校から持ち出すのは、防寒具、通信端末、応急用品、家族確認票、そして朝食だけだった。


 健二とハルが保温箱を運んでいると、ミーシャの部屋から引き出しを閉める音がした。


 少し遅れて、鍵が回る。


 扉が開いた。


 暗い上着。


 動きやすいパンツ。


 肩には通信鞄。


 首元にはアフガンスカーフ。


 擦り切れた端は上着の内側へ入れられ、何度も縫い直された硬い部分だけが胸元へ見えていた。


 右手には金属製のカップ。


 左手には水筒。


 通信鞄の脇から、短い充電ケーブルが覗いている。


 ミーシャは部屋を振り返り、扉を引いた。


 もう一度、取っ手を押す。


 鍵は掛かっている。


 以前のように、直樹の部屋へ物を残してはいなかった。


 スカーフも。


 カップも。


 水筒も。


 すべて、自分の部屋から持ってきた物だった。


 ハルが先に頭を下げる。


「おはようございます」


「おはようございます」


 ミーシャの視線が、健二の手元へ落ちた。


「十名分ですか」


「はい」


 ミーシャはカップを水筒と同じ手へ持ち替え、保温箱へ手を伸ばした。


「持ちます」


「大丈夫です」


「私は出発要員ではありません。手が空いています」


「通信の確認があるでしょう」


「あります」


「なら、そちらをお願いします」


 ミーシャの手が箱へ届く前で止まった。


 宙に残った指を、一度だけ閉じる。


 その手はすぐ通信鞄の肩紐へ移り、位置を直した。


「分かりました」


 ハルは、その指を見ていた。


「持ちたかったですか」


「手が空いていました」


「それだけ?」


 ミーシャは肩紐をもう一度引いた。


 必要以上に強く。


「何もしないのは、慣れていません」


 健二は保温箱を持ち直した。


「仕事がなくなったわけではありませんよ」


「分かっています」


 返事は早かった。


 けれど、ミーシャの手はしばらく肩紐から離れなかった。


     *


 直樹の部屋の扉は閉じていた。


 めぐみは扉の前に立ち、左手を上げた。


 二度、ノックする。


「なお」


「入れ」


 返事を待ってから、扉を開けた。


 室内には直樹一人だけだった。


 机の上に封印済みの記録。


 畳まれた上着。


 空の水筒。


 寝台の皺は直されている。


 昨夜、イネスが遊んでいたゲーム機も、ワイングラスも残っていなかった。


 直樹は黒いシャツの袖を通していた。


 めぐみは中へ入り、扉を閉める。


 鍵は掛けなかった。


「寝た?」


「ああ」


「何時間?」


「四時間」


 めぐみの眉が寄る。


「少ない」


「移動中に休む」


「運転するでしょう」


「交代する」


 めぐみは直樹の前まで歩いた。


 左手を、その胸へ置く。


 布の下にある心臓が、掌へ一定の速さで返ってくる。


「毎日、連絡して」


「回線がある限り――」


 指輪のある指が、直樹のシャツをつかんだ。


「条件を先に言わないで」


 直樹は口を閉じた。


 めぐみの指を見る。


 焦げ跡の残る指輪へ、親指を一度だけ触れた。


「毎日連絡する」


「うん」


「黙っていなくならない」


「うん」


「予定が変わったら、先に伝える」


 めぐみは直樹の胸へ額を預けた。


 何も言わない。


 シャツをつかんだ指だけは離れなかった。


「帰ったら、三日分寝るから」


「寝すぎだ」


「なおと一緒に、って意味」


 直樹の視線が、もう一度指輪へ落ちる。


「帰ったら、めぐみの部屋へ行く」


 めぐみが顔を上げた。


「最初からそう言って」


「ああ」


「ちゃんと帰ってきて」


「帰る」


「任務の返事じゃないよね」


「違う」


「私に?」


「ああ」


 めぐみは目を閉じた。


 一度だけ、直樹の胸へ額を押しつける。


 それから顔を上げ、唇を重ねた。


 長くはない。


 離れたあとも、二人の額は触れるほど近かった。


 直樹の腕が、めぐみの背中へ回る。


 数秒だけ抱き締める。


 めぐみが先に離れた。


「行ってらっしゃいは、外で言う」


「ああ」


「今は?」


「またあとで」


「うん」


     *


 多目的室では、最終確認が始まっていた。


 田所たち八人は、一列ではなく半円に立っている。


 誰か一人が前へ出すぎない配置だった。


 えりは机の端で封印記録を開く。


 イネスは濃紺の軍服。


 階級章。


 後ろでまとめた髪。


 三日間、フリルのエプロンで直樹へまとわりついていた女の姿はない。


 ただ、足元の鞄から白い布が少しだけ覗いていた。


 直樹の目がそこへ落ちる。


「何で持ってきた」


 イネスが鞄を靴先で隠した。


「予備よ」


「何の」


「朝食」


「捨てろ」


「帰ったら使うわ」


「帰るまで持つな」


 扉の隙間から、蓮の顔が出た。


「燃やさないんだ」


「燃やす」


 直樹が答える。


 イネスは鞄を引き寄せ、白い布を完全に隠した。


「証拠はないわ」


「見えてた」


「錯覚よ」


 えりの指が机を二度叩く。


「始めるよ」


 室内から、余分な音が消えた。


 国境第三との閉鎖回線が開く。


 画面はない。


 音声だけ。


『相原だ』


「聞こえてる」


 えりが決裁書の一枚目へ指を置いた。


『身分』


「任務限定要員。十名」


『損失時』


「死亡、拘束、行方不明でも維持」


 えりの指が二枚目へ移る。


『補償』


「正式要員と同等」


『公開記録』


「訓練支援。実記録は封印」


『欠落は』


 えりは署名と印を指でなぞった。


「ありません」


 紙を閉じる。


『国境第三で大庭隊の情報へ更新する。学校では経路を扱わない』


「分かってる」


『現地で人数が増えても、こちら側を減らすな』


「十人で入る」


『十人で戻れ』


「その予定だ」


『予定で終わらせるな』


 短い沈黙。


 半円の中で、田所が顔を上げた。


「主任教官も人数から外しません」


 音声の向こうで、呼吸が一度止まる。


『誰だ』


「田所遼です」


『覚えた』


 田所は直樹を見る。


『真柴が目的から外れたら、止めろ』


「止めます」


「そうしろ」


 直樹の返事に、迷いはなかった。


『大庭隊との接続は到着後。以上』


 回線が切れた。


 送風機の低い音が部屋へ戻ってくる。


 えりは封印記録を閉じた。


「本人確認」


 高城が名簿を開く。


 一人ずつ、名前を読む。


 直樹。


 イネス。


 田所。


 江藤。


 芦田。


 安西。


 柴崎。


 御厨。


 森川。


 最後に、高城自身。


「高城真帆」


 一度だけ息を止める。


「はい」


 返事が十。


 ハルは扉のそばから、一人ずつの顔を見た。


 声だけではない。


 名前だけでもない。


 全員が、その場にいる。


     *


 朝食を終えた子どもたちは、いつもの格好で校庭へ出てきた。


 見送り用の服はない。


 上着のボタンを掛け違えた者。


 寝癖の残る者。


 パンをまだ口に入れている者。


 整列もしていない。


 いつもの朝のまま、十人が出ていくところを見に来ていた。


 悠斗は連絡車の窓を一つずつ数えた。


 荷台へ視線を移す。


 畳まれた担架。


 固定された荷物。


 その脇に残された空間。


 何も聞かず、次の車両へ目を移した。


 美月は両手で紙袋を抱えている。


 蓮はイネスの鞄から目を離さなかった。


「入ってる」


「何が?」


 イネスが聞く。


「エプロン」


「夢よ」


「白いの見えた」


「布よ」


「フリル付きの?」


「フランス軍の正式装備」


「嘘だ」


 直樹が横から答える。


「外交問題になるわよ」


「ならない」


 蓮は鞄へ半歩近づいた。


 直樹が肩へ手を置く。


「開けるな」


「開けてない」


「顔が開けようとしてる」


「顔じゃ開かないよ」


「お前ならやる」


 蓮は口を尖らせた。


「帰ったら見せて」


「燃えてる」


「まだ燃やしてないじゃん」


「帰ってから燃やす」


 蓮の動きが止まる。


 鞄ではなく、直樹を見る。


「じゃあ、帰ってくるんだ」


 直樹は一度だけ瞬いた。


 蓮は自分の言葉を大きく扱わず、視線を鞄へ戻す。


「その時、見せて」


「ああ」


 美月が紙袋を差し出した。


「これ」


 直樹が受け取る。


「何だ」


「国境第三の人に」


「誰から?」


「学校からでいい」


 袋の口は、不揃いな紐で二重に結ばれていた。


 直樹は結び目を一度見てから、鞄へ入れる。


「分かった」


 颯太は直樹の横へ立った。


 しばらく何も言わない。


 上着の裾を一度つまみ、すぐ離す。


「帰る?」


「ああ」


「七日?」


「予定はな」


「遅れたら?」


「連絡する」


「連絡できなかったら?」


 直樹はすぐには答えなかった。


 颯太の手は、もう上着をつかんでいない。


 それでも、その場から動かなかった。


「それでも帰る」


 颯太は一度だけ頷く。


「分かった」


 質問が終わると、美月の横へ戻った。


     *


 校門の外には、国境第三から来た二台の連絡車が停まっていた。


 前方車両に四人。


 後方車両に四人と装備。


 直樹の偵察用オートバイは車列の先頭へ置かれている。


 国境第三までの道路状況を見て、車列の速度を調整する役だった。


 イネスがヘルメットを持って近づく。


 後部座席へ手を置いた。


 直樹は、すぐにはエンジンを掛けなかった。


 めぐみを見る。


 次にミーシャ。


「イネスを後ろへ乗せる」


 めぐみの左手が、身体の横でゆっくり握られた。


「任務?」


「ああ」


「必要?」


「先頭で標識と検問を読む」


 めぐみは後部座席を見た。


 イネスはまだ跨がずに待っている。


「嫌だけど、分かりました」


 ミーシャも後部座席から目を離さない。


「任務上の異議はありません」


 スカーフへ手が伸びかける。


 途中で下りた。


「……嫌ではあります」


 直樹が頷く。


「分かった」


「帰ったあと、任務外で走る時は」


「聞く」


「私にも?」


「ああ」


 イネスの手が、ミーシャのスカーフへ伸びかけた。


 ミーシャが目だけを動かす。


 手は布へ届く前に止まった。


「触ってもいい?」


「いいえ」


「早いわね」


「私の物です」


 イネスは手を下ろした。


「知ってる。だから聞いたの」


 ミーシャの目が少し動く。


「帰ったあとも、私の物です」


「それも知ってるわ」


 からかう声ではなかった。


 イネスはヘルメットをかぶり、後部座席へ跨がった。


     *


 健二は保温箱を前方車両へ積んだ。


 田所が蓋へ手を掛ける。


「十人分です」


「確認します」


「名前も付けています」


「だから確認します」


 田所は蓋を開けた。


 包みを一つずつ見る。


 紙帯。


 名前。


 個数。


 十個。


「十名分です」


「はい」


「救出対象の分は?」


「国境第三で追加を受け取ってください」


「学校から持てます」


「帰る人の分を残しています」


 田所は一度、厨房の方を見た。


 校舎の中にある棚は、ここからは見えない。


「分かりました」


「温かい物は、帰ってから作ります」


「何を?」


「帰ってきてから決めてください」


 田所は蓋を閉じる。


「考えておきます」


     *


 十人が、それぞれの位置へ移動した。


 車両の扉が閉まる。


 えりが記録板を持ち上げる。


「車両一」


 ハルは窓越しの顔を見た。


 一人。


 二人。


 三人。


 四人。


「四名です」


「車両二」


 次の窓を見る。


 四つの顔。


「四名」


「二輪」


 直樹とイネス。


「二名」


 えりが尋ねる。


「合計」


 ハルは、もう一度すべての位置へ目を走らせた。


 それから答える。


「十名です」


 えりが出発時刻を書き込んだ。


「出発時、十名」


 まだエンジンは掛からない。


 めぐみがオートバイへ近づく。


「なお」


 直樹が顔を向けた。


「行ってらっしゃい」


「ああ」


「帰ったら、三日分だから」


「寝すぎだ」


「なおが決めないで」


 後ろに立っていたミーシャが、わずかに顎を上げた。


「三日分の連続休息は非効率です」


 めぐみが振り返る。


「今は味方じゃなかった?」


「そこは同盟範囲外です」


 めぐみが目を細める。


 ミーシャは視線を逸らさなかった。


「私も言いたいことがあります」


 イネスがヘルメットの中で笑った。


「仲がいいわね」


「違います」


 二人の声が重なる。


 直樹は前を向いた。


「出るぞ」


     *


 単気筒のエンジンが掛かった。


 乾いた排気音。


 続いて、二台の連絡車が低く震える。


 冷たい朝の空気が、排気の匂いと一緒に揺れた。


 オートバイが動き始める。


 イネスの腕が、直樹の腰へ回った。


 めぐみの指が一度だけ握られる。


 ミーシャはスカーフへ触れなかった。


 両手を身体の横へ下ろし、車列を見る。


 校門を出る直前、直樹が一度だけ振り返った。


 めぐみ。


 ミーシャ。


 健二。


 ハル。


 子どもたち。


 誰か一人へではなく、学校全体へ目を向けた。


 それから前へ戻る。


 オートバイが道へ出た。


 二台の連絡車が続く。


 最初の角で、オートバイが見えなくなる。


 前方車両。


 後方車両。


 最後の尾灯が消えると、朝の鳥の声が戻ってきた。


 誰も、すぐには動かなかった。


 蓮が最初に校舎へ振り返る。


「朝ごはん、まだある?」


「ありますよ」


 健二が答える。


「肉は?」


「あります」


「野菜は少なくていい」


「増やします」


「何で」


「今、決めました」


 蓮は文句を言いながら、食堂へ戻っていく。


 悠斗がその後ろへ続いた。


 子どもたちは一人ずつ、いつもの朝へ戻っていった。


     *


 校門の前には、めぐみとミーシャ、健二、ハル、えりが残った。


 ミーシャが先に校舎へ身体を向ける。


「情報室へ行きます」


 えりが腕時計を見る。


「通信はまだ来ないよ」


「機器を確認します」


「昨日もしたでしょう」


 ミーシャは返事をせず、通信鞄の肩紐を直した。


 めぐみが隣へ一歩近づく。


「私も行く?」


「今は」


 ミーシャは言葉を止めた。


 校門の外へ、もう一度目を向ける。


「一人でいたいです」


 めぐみは少しだけ唇を結んだ。


「分かりました」


 ミーシャが歩き出しかける。


 二歩目の前で止まった。


「二十二時には来てください」


 めぐみの眉がわずかに上がる。


「来ていい、じゃなくて?」


「来てください」


 ミーシャは言い直さなかった。


 めぐみの肩から、少しだけ力が抜ける。


「うん」


 ミーシャは校舎へ戻っていく。


 めぐみはその背中を見送り、左手の指輪へ触れた。


「私も、少し一人になります」


 えりが頷く。


「朝食を食べてからね」


「分かっています」


「食べずに待つのは禁止」


「規則?」


「私が嫌だから」


 めぐみはえりを見る。


 ほんの少しだけ笑った。


「分かりました」


     *


 健二は校門脇の記録板を外した。


 出発時刻。


 車両二台。


 二輪一台。


 人員十名。


 板を脇へ抱えたまま、すぐには校舎へ戻らなかった。


 ハルも隣に立っている。


 空になった道の先を見る。


「何かありますか」


 健二が尋ねた。


「今はありません」


「仕事も?」


「ありません」


 風が校門の蝶番を鳴らした。


 健二は記録板を抱え直したが、足は動かなかった。


 ハルが校舎を見る。


「戻りますか」


「戻らなくていいですよ」


 ハルが健二を見た。


「用事がなくても?」


「三日前から、そうでしょう」


 ハルは空になった道へ目を戻した。


「はい」


 二人は校門の内側に残った。


 何かを探すわけでもない。


 車列の音が戻ってくるはずもない。


 ただ、もう少しだけそこにいた。


     *


 食堂へ戻ると、子どもたちは朝食の続きを食べていた。


 直樹とイネスが使っていた二枚のフリル付きエプロンは、厨房の壁へ掛けられている。


 三枚目はない。


 イネスの鞄へ入ったまま、国境第三へ向かったらしい。


 健二は食器棚を開けた。


 皿を一枚ずつ手前へそろえる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 十枚。


 毎日使う皿だ。


 七日間、別に保管するわけではない。


 それでも、今は十枚が同じ高さで並んでいた。


 ハルが食事表を持ってくる。


「帰還欄は、そのままですか」


「そのままです」


「予定が変わったら?」


「横へ書きます」


「名前は?」


「消しません」


 ハルは帰還欄の十人を、一人ずつ目で追った。


 その下にある、帰還後朝食の欄を見る。


「ここは空欄です」


「帰ってから聞きます」


 ハルは食器棚へ目を向けた。


 十枚の皿。


 まだ何を盛るかは決まっていない。


 誰が何を食べたいのかも、こちらでは決めない。


 厨房ではスープが湯気を上げている。


 子どもたちの声。


 食器の音。


 窓から入る朝の光。


 十人が出ていっても、学校の朝は止まらない。


 健二は献立欄を空白のまま、食事表を壁へ戻した。


 七日後に何を盛るかは、まだ決まっていない。


 そのための皿だけが、十枚そろっていた。


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