↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
201/321

第201話 入っていい場所

##第201話 入っていい場所


 三日目の朝、旧南第三には肉の匂いが満ちていた。


 焦げた脂。


 黒胡椒。


 湿った木が熱を含んだ時の甘い煙。


 厨房裏の排気口から白い筋が上がり、まだ青みの残る空へ細く消えていく。


 健二は職員室の扉を開けたところで足を止めた。


 腹が鳴った。


 向かいの机で毛布を畳んでいたハルが顔を上げる。


「聞こえました」


「発電機でしょう」


「近かったです」


「古い建物だから、響くんですよ」


「健二さんから聞こえました」


 健二は廊下へ出た。


「朝食を見に行きましょう」


「確認ですか」


「確認です」


「食べるためではなく?」


「結果として食べます」


 ハルは毛布を棚へ戻し、健二の後ろへ続いた。


 厨房へ近づくほど、匂いに厚みが増す。


 肉の表面で焼けた香辛料。


 煮詰めた果汁。


 酸味のある漬物。


 金属の蓋が開き、閉じる音。


 健二が勝手口を開けると、冷たい空気と煙が一緒に顔へ当たった。


 軒下には、ドラム缶を改造した電熱式の燻煙器が置かれている。側面の温度計は一定の範囲を指し、夜勤者が記録した時刻と温度が、吊り下げた板へ並んでいた。


 直樹は温度計の前に立っていた。


 灰色のシャツ。


 暗いパンツ。


 その上には、三日目も白いフリル付きのエプロン。


 胸元。


 肩。


 裾。


 細かなひだが、冷たい朝風に揺れている。


 背中にはイネスが張り付いていた。


 イネスも同じエプロンを着けている。今日は黒い薄手のニットで、腰紐を締めたせいで、胸元のフリルが前へ大きく張り出していた。


 直樹は背後の重みを無視し、燻煙器の小窓を開ける。


 熱気と一緒に、濃い煙の香りが漏れた。


「何時から起きてるの?」


 健二が尋ねる。


「四時」


「寝た?」


「寝た」


「何時間?」


「三時間半」


「少ないでしょう」


「肉は昨夜から入ってる。見に来ただけだ」


 イネスが直樹の肩越しから顔を出した。


「私も起きたわ」


「お前は二時にワインを飲んでただろ」


「一杯だけよ」


「二杯あった」


「グラスが小さかったの」


「普通の大きさだ」


「JINには大きく見えたのね」


「酒量の話だ」


 健二は燻煙器を覗き込む。


「これがブリスケット?」


「ああ」


「朝から重くない?」


「薄く切る。パンと野菜も出す」


「昼じゃ駄目だったの?」


「昼は総合訓練だ」


「だから朝に肉?」


「終わった後にも残す」


 直樹が蓋を閉める。


 金属が噛み合い、鈍い音を立てた。


「兄ちゃん、料理の時だけ計画が細かいね」


「食えないと動けない」


 イネスが直樹の背中へ顎を置いた。


「父も同じことを言っていたわ」


「お前の父親は酒が先だった」


「礼拝の前は飲まなかった」


「終わったら飲んでた」


「神様も許していた」


「聞いたのか」


「父が言ってた」


「本人の意見だろ」


 勝手口の内側で衣擦れの音がした。


 めぐみが立っている。


 左手の薬指には指輪。


 髪は整えているが、目の下には昨日より濃い影が残っていた。


 イネスの腕は、直樹の腹へ回ったままだった。


 めぐみはその腕を見る。


 それから、健二とハルへ一度目を向けた。


「なお」


 直樹が振り向く。


「何だ」


 めぐみは直樹の近くまで歩き、声を落とした。


 健二には最初の言葉しか聞こえなかった。


「二晩です」


 直樹の手が温度計の上で止まる。


 イネスだけが、嬉しそうに首を傾げた。


「何が二晩?」


 めぐみは今度は声を隠さなかった。


「あなたが来てから、なおと一緒に眠れていません」


 健二は燻煙器へ顔を向けた。


 ハルも同じ方向を見る。


「私は意味が分かりません」


「そのままでいてください」


 健二は小声で答えた。


 イネスは直樹の背中から半歩離れた。


「今夜は?」


「なおと眠ります」


「ブリスケットの片づけがあるわ」


「私もやります」


「ワインもある」


「飲んだら帰ってください」


「JINの部屋へ?」


「自分の部屋へ」


 イネスは直樹の肩を、指先で二度叩いた。


「ずいぶん言えるようになったわね」


「あなたが言わせてるんです」


 厨房の奥からミーシャが出てきた。


 片手には金属製のカップ。


 首元にはアフガンスカーフ。


 補修された硬い部分を胸元へ置き、長い端は上着の内側へ入れている。


「何の話ですか」


「今夜、私は自分の部屋へ戻るよう求められているの」


 イネスが答えた。


「妥当です」


「あなたも?」


「直樹の部屋へ入るには、本人の許可が必要です」


「取ればいい?」


「めぐみとの予定が先です」


 めぐみがミーシャを見る。


「ありがとう」


「規則です」


 ミーシャの視線は、めぐみではなくスカーフの端へ落ちた。


 イネスが笑う。


「また規則を前へ立たせた」


 ミーシャの指が布へ伸びかける。


 途中で止まった。


「今は朝食準備中です」


「それも規則?」


「作業です」


「残念」


 直樹が勝手口を開けた。


「全員、中へ入れ。冷える」


 イネスだけが煙の上がる燻煙器を振り返る。


「あと何分?」


「二十分」


「待つ」


「中で待て」


「JINと一緒に」


「煙でも吸ってろ」


     *


 朝食の時間になると、食堂の空気は肉の匂いで重くなった。


 薄く切られたブリスケットは表面が黒く焼け、火は芯まで通っている。切り口の外側にだけ、赤茶色の煙の輪が細く残っていた。


 ナイフを入れると、肉の繊維が抵抗なくほどける。


 直樹は子どもの分を小さく切る。


 大人には少し厚め。


 パン。


 酢を利かせた野菜。


 じゃがいも。


 温かいスープ。


 隣ではイネスが皿を受け取り、食卓へ運んでいる。


 二人は今日も同じフリル付きのエプロンだった。


 蓮は皿を受け取る前に直樹を見た。


「明日もそれ?」


「明日は出る」


「エプロンで?」


「違う」


「持っていく?」


「燃やす」


「三日間ずっと言ってる」


「今日は燃やす」


「もう制服みたいになってるよ」


 直樹のナイフが止まる。


「蓮」


「何?」


「野菜を増やすぞ」


「ごめんなさい」


「早いな」


「肉は守りたい」


 悠斗が隣から蓮の皿を見る。


「昨日、茸を残しただろ」


「茸は野菜じゃない」


「野菜の横にあった」


「置いてあった場所の話じゃない」


 美月は二人の会話を聞きながら、蓮の皿へ野菜を一つ移した。


 蓮がすぐに気づく。


「増えてる」


「最初から」


「見てたから」


「見間違い」


 美月は自分の皿へ目を落とした。


 食堂の端で、ハルが肉を箸でほぐしている。


 繊維が簡単に分かれ、湯気が上がった。


「柔らかいです」


「長く火を入れてますから」


「直樹さんが作ったんですか」


「イネスさんも手伝ったみたいです」


「何を?」


 健二は厨房を見る。


 イネスが切った肉へ手を伸ばし、直樹に手の甲を叩かれていた。


「見張りでしょうか」


「誰の?」


「兄ちゃんの」


 ハルはもう一度、肉を口へ運ぶ。


「必要ですか」


「本人は必要だと思ってます」


「直樹さんは?」


「邪魔だと思ってます」


「でも、追い出しません」


「昔からだからでしょう」


 厨房では、イネスが今度は直樹のエプロンの裾をつまんでいる。


 直樹が指を外す。


 イネスは笑い、別の皿を運び始めた。


「嫌ではないんでしょうか」


 ハルが聞いた。


「兄ちゃんは、嫌でも言うのが遅い時があります」


「どうしてですか」


「我慢できることを、問題だと思わないんです」


「我慢できたら、嫌ではない?」


「違うと思います」


 健二は自分の皿へ目を落とした。


「言わないと、周りには同じに見えますけど」


 ハルは箸を止める。


「昨日の話と同じです」


「何の?」


「嫌だと言う話です」


「そうですね」


「直樹さんも、言った方がいい?」


「言ってはいます」


「遅いだけ?」


「はい」


 ハルは厨房を見た。


「直樹さん」


 直樹が顔を上げる。


「何だ」


「嫌な時は、早く言った方がいいです」


 食堂が一瞬静かになった。


 健二は箸を置く。


「ハルさん」


「違いましたか」


「違いません。ただ、今言うとは思いませんでした」


 イネスが声を立てて笑った。


 めぐみは額へ手を当てる。


 ミーシャは金属製カップを持ったまま、直樹の返答を待っていた。


 直樹はハルを見る。


「分かった」


「イネスさんにも?」


「ああ」


 イネスの笑いが止まる。


「何を?」


 直樹はイネスを見る。


「今は近い」


「朝食中よ」


「関係ない」


「昨日より早い」


「離れろ」


 イネスは満足そうに半歩下がった。


「はい」


 素直に返事をしたことで、今度は直樹が疑う顔をした。


     *


 三日目の準備は、校舎全体を使った総合訓練だった。


 午前中に窓へ遮光布を掛ける。


 食堂と寝室は通常どおり残す。


 子どもたちは訓練区域へ入れない。


 廊下には、古い机、旅行鞄、空の薬箱、毛布、折り畳み担架が置かれた。


 家族役は大人が務める。


 初期訓練生八人。


 直樹。


 イネス。


 健二。


 ハル。


 えりは記録。


 めぐみは受入側。


 ミーシャは通信と人数確認。


 開始前、直樹は全員を廊下へ集めた。


「目的は、速く出ることじゃない」


 白いテープが、廊下を生活区画と訓練区画に分けている。


「家族を分けない。本人の意思を勝手に作らない。十人で入り、十人で出る」


 田所が記録表を見る。


「対象者の確認は」


「家族単位。人数と名前、両方だ」


「名前が言えない人は?」


「家族との関係で呼ぶ。番号は受付整理だけ」


 芦田が廊下の先を見る。


「出口は二つ?」


「最初はな」


「途中で変わる?」


「ああ」


「失敗条件は」


 安西が尋ねた。


「家族を置く。誰かの意思を勝手に決める。こちら側が一人でも欠ける」


「時間超過は?」


「失敗じゃない」


「摘発には間に合わなくなります」


「だから急ぐ」


 直樹は安西を見る。


「急いで誰かを消したら、何も残らない」


 壁へ背を預けていたイネスが口を挟む。


「速さは、手順を捨てることではありません。迷う時間を減らすことです」


 柴崎が聞く。


「武力行使は?」


「今日はしない」


「妨害役は」


「いる。押しのけるな。話すか、道を変えろ」


 直樹は照明のスイッチへ手を置いた。


「始める」


 灯りが消えた。


     *


 暗闇の中で、誰かの靴が床を擦った。


 完全な闇ではない。


 廊下の先に小さな誘導灯が一つ残っている。


 顔は見えない。


 肩と頭の輪郭だけが、緑色に浮いていた。


「家族一」


 田所の声。


「大人二、子ども一」


 高城が答える。


「家族二」


「大人一、子ども二」


「家族三」


「大人三。移動困難一」


 御厨と森川が担架を持ち上げた。


 布が軋む。


 今日は健二が乗っている。


 胸と腰へ固定帯が回され、天井の黒い染みが、担架の揺れに合わせて上下した。


「出発」


 隊列が動く。


 先頭は田所。


 最後尾は安西。


 芦田が水と食料。


 江藤と高城が名簿。


 柴崎が経路確認。


 御厨と森川が担架。


 直樹とイネスは、壁際に立ったまま指示を出さない。


 最初の角。


 昨日動かした机が、今日は元の位置へ戻されていた。


「机」


 森川が止まる。


「頭側を上げる」


「そのままでは曲がれません」


 御厨が言う。


 柴崎が机へ手を掛けた。


「生活側へ出ます」


 暗闇の外から、ハルの声が届く。


「美月が夜に通る場所です」


 柴崎の手が止まる。


「板を外す」


 安西が後方から動こうとする。


「最後尾を空けるな」


 芦田が止める。


「私が行きます」


 江藤が記録端末を高城へ渡し、壁の板を外した。


 古い釘が鳴る。


 担架が角へ入る。


「右、三センチ」


 ハルの声。


 御厨が足側を少し引く。


 健二の肩は壁へ触れなかった。


 隊列が進む。


 二つ目の角で、突然、金属音が響いた。


 イネスが古い盆を床へ落としている。


 音が暗闇へ弾けた。


 家族役の一人が悲鳴を上げる。


「何ですか」


「分からない」


「止まらないでください」


 田所が言った。


 子ども役のえりが、その場へしゃがみ込む。


「行かない」


「危険はありません」


「音がした」


「盆です」


「見えない」


 田所が一歩進みかける。


 止まる。


 安全だと断言できる材料がない。


「私が先に触ります」


 田所は壁沿いへ手を伸ばした。


 床。


 壁。


 倒れた盆。


 一つずつ確かめる。


「ここまでは何もありません」


「一緒に?」


「はい」


 えりが立つ。


 田所の上着の裾をつかむ。


 隊列がまた動いた。


 三つ目の角へ入ったところで、赤い灯りが点く。


 第一出口、閉鎖。


 柴崎が地図を見る。


「第二出口へ変更」


「後退、二十八メートル」


 高城が答える。


「家族三を先に反転」


「担架が回りません」


 御厨の声。


「その場で方向転換」


「幅が足りない」


 隊列が止まる。


 家族役の声が後方から重なる。


「何があった?」


「戻るの?」


「子どもが一人いない」


 最後の声に、全員の動きが止まった。


「誰がいない?」


 田所が尋ねる。


「家族二。次女」


 高城が名簿を見る。


「確認時は子ども二名。現在、一名」


「最後に見た場所は」


「盆の音がした角」


 安西が後方へ身体を向ける。


「戻る」


 柴崎が腕をつかむ。


「一人で行くな」


「時間がない」


「単独を出したら、こちらも一人減る」


「二人で戻る」


「隊列はどうする」


 言葉が詰まる。


 直樹もイネスも動かない。


 健二は担架の上から、ハルの姿を探した。


 見えない。


「ハルさん」


 返事がない。


 胸の奥が一度、強く縮む。


「ハルさん」


「ここです」


 声は近かった。


 白いテープの外、監査役の位置から聞こえる。


 健二は息を吐いた。


「名前を確認してください」


 ハルが言った。


「人数だけではなく」


 高城が名簿を読み上げる。


 家族二。


 母。


 長男。


 次女。


「次女の返答がありません」


「最初から?」


 江藤が尋ねる。


「確認時は三名でした」


「何を見た?」


 田所が聞く。


 家族二の母親役は、胸へ毛布の包みを抱えていた。


 隣には、歩いている子ども役が一人。


 暗闇の中では、母親と子ども二人に見える。


「母親役一名。歩行する子ども役一名。抱えられた子ども一名」


 高城の声が少し硬くなる。


「その包みに、反応は?」


 誰も答えない。


「名前を呼んだ時は?」


「呼びました」


「返事は」


「ありませんでした」


「それでも数へ入れた?」


「はい」


 直樹の声が入った。


「中止」


 照明が点く。


 白い光が目へ刺さる。


 全員が目を細めた。


 母親役の腕に、子どもほどの大きさへ毛布で包まれた砂袋がある。


 首元には、次女の名前が書かれた札。


 人間ではない。


 返事もしない。


 それでも一人として数えられていた。


 直樹は高城の名簿を取った。


「何を確認した」


「人数です」


「名前は」


「読み上げました」


「返事は」


「ありません」


「それで進んだ」


「はい」


 直樹は毛布の包みを見る。


「名前を言えない人はいる」


「はい」


「返事だけでも駄目だ」


 高城が顔を上げる。


「どう確認しますか」


「身体を見る。家族へ聞く。許された名で呼ぶ。触れられるなら触れる」


 直樹は名簿を返す。


「方法を一つにするな」


 白いテープの外から、ハルが言った。


「空欄でも、人はいます」


 全員の目がハルへ向く。


「名前が分からないことと、いないことは違います」


 直樹が頷く。


「最初からやり直す」


 安西が時計を見る。


「時間が」


「このままなら、本番でも置く」


「摘発時刻は待ちません」


「だから今日、止める」


 直樹は全員を見る。


「本番では止められない。今、失敗しろ」


     *


 二度目の訓練では、全員が名前と身体を確認した。


 名前を言えない役には、家族との関係を使った。


 母親。


 弟。


 祖父。


 呼ばれた者が手を上げる。


 上げられない者には、隣の家族が肩へ触れる。


 荷物には別の札を付けた。


 第一出口が閉じても、隊列を崩さず担架の向きを変えた。


 盆の音でしゃがみ込んだ子ども役には、田所が先に床を確かめ、同じ高さで待った。


 時間は一度目より三分長い。


 それでも、最後の出口で十人と家族全員が揃った。


 芦田が読み上げる。


「越境要員、十名」


 高城が家族名簿を一人ずつ読む。


 返事。


 手。


 家族の接触。


 最後の一人まで確認しても、拍手は起きなかった。


 直樹は時計を見る。


「遅い」


 安西の顔が固くなる。


「はい」


「でも全員いる」


「はい」


「次は速くする」


 直樹は名簿を閉じた。


「削るのは迷いだ。確認じゃない」


     *


 午後、遮光布が外された。


 白い光が廊下へ戻る。


 汗。


 埃。


 昼まで保温されていたブリスケット。


 いくつもの匂いが、古い校舎の空気へ混じっていた。


 健二は担架から降り、腰を伸ばす。


 ハルは白いテープを端から剥がし、絡まないよう筒へ巻いている。


「さっき、返事がなくて焦りました」


 健二が言う。


「呼ばれた時ですか」


「はい」


「私は監査役でした」


「分かってます」


「では、どうして?」


「見えなかったからです」


 ハルの手が止まる。


「見えないと、いないと思いますか」


「思ってはいません」


「でも呼びました」


「確かめたかったんです」


「返事がなければ?」


 健二はすぐには答えなかった。


 母親役が抱いていた毛布の包みが浮かぶ。


 名前はある。


 数にも入っている。


 けれど、中には人がいない。


「探します」


「訓練を止めても?」


「止めます」


「仕事が遅れても?」


「遅れます」


 ハルはテープを筒へ巻いた。


「分かりました」


「何が?」


「健二さんが、どうするかです」


 健二はハルの横顔を見る。


「聞かなくてもよかったですか」


「いいえ」


 ハルは最後のテープを剥がした。


「聞いてよかったです」


     *


 夕方、総合訓練の片づけが終わると、直樹は浴室へ向かった。


 替えの服。


 タオル。


 石鹸。


 それだけを持っている。


 イネスが後ろからついていく。


 同じようにタオルと着替えを抱えていた。


 健二とハルは、洗い終えた訓練用毛布を乾燥室へ運ぶ途中だった。


 廊下の先に二人の背中が見える。


「どこへ行く」


 直樹は振り返らない。


「お風呂」


「女湯は反対だ」


「知ってる」


「なら曲がれ」


「久しぶりに一緒でもいいでしょう?」


 直樹の足が止まった。


「よくない」


「フランスでは」


「入ってない」


「川には入った」


「任務だ」


「服も脱いだわ」


「濡れた装備を替えただけだ」


「見たでしょう?」


「周囲を見張ってた」


「私は?」


「見てない」


「嘘」


「覚えてない」


「見た人の言い方よ」


 直樹が男湯の暖簾をくぐる。


 イネスも続こうとした。


 直樹は振り返らず、片手だけを後ろへ伸ばした。


 掌がイネスの額へ当たる。


 右足が敷居へ触れたところで止められた。


「反対だ」


「まだ入ってないわ」


「入ろうとした」


「どこで止めるか見ただけ」


「ここだ」


 イネスは額を押さえられたまま笑っている。


 廊下の反対から、めぐみとミーシャが歩いてきた。


 二人とも足が速くなる。


「イネスさん」


 めぐみの声が先に届く。


「まだ入っていないわ」


「入ろうとしてます」


「敷居の外よ」


 ミーシャが床を見る。


「右足が触れています」


「細かいわね」


「戻ってください」


「女湯へ?」


「自分の部屋でも構いません」


「身体を洗いたいの」


「女湯です」


 イネスは直樹の手の下から顔をずらした。


「JIN。二人が怖いわ」


「自業自得だ」


「守ってくれない?」


「押し込むぞ」


「女湯へ?」


「廊下へ」


 イネスは一歩下がった。


 直樹の手が離れる。


 同じ敷居へは戻らず、今度は暖簾の横から覗こうとする。


 めぐみが暖簾を押さえた。


 ミーシャはイネスの肩へタオルを掛け、そのまま反対方向へ向ける。


「こちらです」


「二人がかり?」


「必要です」


 めぐみが答えた。


「なお。鍵を掛けて」


「ああ」


「今」


 直樹が中へ入り、内側から鍵を掛ける。


 金属が噛み合う音がした。


 イネスは暖簾の前で立ち尽くす。


「信用がない」


「自分でなくしました」


 ミーシャが言う。


「最初からなかったんじゃない?」


 めぐみが返した。


 二人の言葉は重ならなかった。


 それでも、イネスを女湯の方へ挟んで歩かせる足並みは揃っている。


 健二とハルは、毛布を抱えたまま廊下の端に立っていた。


「毎回、止められる所まで行きます」


 ハルが言った。


「そうですね」


「直樹さんは、今日は早く止めました」


「朝に言われましたから」


「私が言ったから?」


「たぶん」


 ハルは閉じた扉を見る。


「嫌だと言うと、変わることもあります」


「全部ではないですけどね」


「少しでも?」


「はい」


 ハルが健二を見る。


「健二さんも、嫌な時は言ってください」


「ハルさんに?」


「はい」


「分かりました」


「今、ありますか」


 健二は自分の腕を見る。


 いつの間にか、ハルが抱えていた毛布を二枚取っていた。


「一人で全部持とうとしないでください」


 ハルが先に言った。


「今、返してください」


「はい」


 二枚戻す。


 ハルは毛布を抱え直した。


「私も持てます」


「知ってます」


「なら取らないでください」


「気をつけます」


 ハルは先に歩き出す。


 健二はその隣へ並んだ。


     *


 夜、装備の封印作業が始まった。


 多目的室の机へ、十人分の袋が並ぶ。


 通信端末。


 記録媒体。


 防寒具。


 応急用品。


 武器と弾薬は国境第三で受け取る。


 学校にあるのは、家族の名簿と意思確認用の記録だけだった。


 えりが封印番号を読み上げる。


 高城が記録する。


 芦田が人数を確認する。


 田所たちは一人ずつ署名した。


 参加を断った者はいない。


 誰も勇ましいことは言わなかった。


 八人の名前が並び、最後に直樹とイネスの署名が入る。


「十名」


 芦田が確認する。


「出発時も十名」


 直樹が答える。


「帰還時も」


「十名だ」


 イネスが横から直樹を見る。


「あなたも含むのよ」


「分かってる」


「記録しました」


 高城が言った。


 直樹は何も返さなかった。


     *


 封印作業が終わると、健二は最終の食料表を持ち、直樹の部屋へ向かった。


 ハルも一緒だった。


 翌朝の持ち出し食。


 水。


 温かい飲み物。


 学校に残る人数。


 出発する十人。


 廊下を曲がると、直樹の部屋の扉が少し開いていた。


 中から単純な電子音が聞こえる。


 上がる。


 落ちる。


 短い警告音。


「何の音ですか」


 ハルが聞く。


「ゲームだと思います」


 二人は扉の前で止まった。


 中を覗く。


 直樹は机へ座り、封印済みの記録を読み直していた。


 イネスは寝台へ腹ばいになっている。


 靴は脱ぎ、膝から先を上へ曲げていた。


 緩いシャツ。


 薄いパンツ。


 片手に携帯ゲーム機。


 もう片方にワインの入ったグラス。


 髪は適当に後ろへ束ねてある。


「また落ちた」


「見れば分かる」


「この車、曲がらない」


「減速しろ」


「負ける」


「壁へ当たるよりいい」


「JINは昔から慎重すぎる」


「お前が突っ込むだけだ」


「代わって」


「仕事中だ」


「一回だけ」


「嫌だ」


「負けるのが怖い?」


「興味がない」


「昔はやったでしょう」


「お前が寝るまでだ」


「三時間続けた」


「お前が勝つまで寝なかった」


「優しいわね」


「うるさかっただけだ」


 イネスは子どものように足を振る。


 ワインを一口飲み、またゲーム機を傾けた。


 直樹が部屋へ入る前、イネスは一応ノックしたらしい。


 健二が食堂で聞いた話では、


「一杯だけ」


「飲んだら出ろ」


 それだけだった。


 入室は許された。


 寝台を使えとは言われていない。


 ハルが小さな声で言った。


「さっきまでと違います」


「誰もいない時は、こうなんでしょうね」


「足を上げています」


「そうですね」


「誰か来たら下ろす?」


「たぶん」


 健二が扉を叩く。


「兄ちゃん」


 イネスの動きが止まった。


 次の瞬間、寝台の上で身体を反転させる。


 片肘を枕へ置く。


 髪をほどく。


 シャツの襟へ指を掛け、形を整える。


 片脚を伸ばし、もう片方を曲げた。


 ワイングラスを胸元へ持ち上げる。


「どうぞ」


 声まで低くなった。


 健二は扉を開ける。


「今のところ、全部見えてましたよ」


 イネスの笑みが一瞬止まった。


「何が?」


「腹ばいでゲームしてたところです」


「別人よ」


「同じ服です」


 ハルが言う。


「髪も同じでした」


「暗かったでしょう?」


「扉が開いていました」


 直樹が書類から顔を上げる。


「だから閉めろと言った」


「暑かったの」


「窓を開けろ」


「寒い」


「どっちだ」


 健二は食料表を机へ置く。


「明日の確認です」


「分かった」


 直樹が紙を受け取る。


 イネスは姿勢を崩さない。


 ワイングラスを傾け、健二とハルを見る。


「二人で夜の部屋へ来るのね」


「仕事です」


「ハルも?」


「食事表の確認です」


「残念」


 廊下から二人分の足音が近づいた。


 めぐみとミーシャだった。


 イネスの目が輝く。


 寝台の端へ腰を移し、髪を肩へ流す。


 グラスを持つ手首まで柔らかくなる。


 直樹が言った。


「戻せ」


「何を?」


「さっきの格好に」


「何のこと?」


「ゲーム機を持て」


「今はワインの時間よ」


「三秒前までゲームしてた」


 めぐみが扉の前で止まる。


 寝台のイネス。


 机の直樹。


 ワイン。


 緩い服。


 左手が、扉の取っ手の上で止まった。


 ミーシャは室内を見渡す。


「入室許可はありましたか」


「一杯だけなら、って」


 イネスが答える。


「飲んだら出ろと言った」


 直樹が訂正した。


「でも、寝台を使うなとは言われていない」


「言わなくても分かれ」


「人によるわ」


 健二は寝台の下を指した。


「ゲーム機が落ちてます」


 全員の目が下へ向く。


 携帯ゲーム機が、寝台の脇へ半分飛び出していた。


 画面には壁へ突っ込んだ車。


 警告音だけが空しく鳴っている。


 めぐみがゲーム機を見る。


 次にイネス。


 ミーシャも同じ順番で見た。


「腹ばいでした」


 ハルが言う。


「足も上げていました」


 イネスは数秒黙った。


 妖艶な姿勢をやめ、寝台の上へ普通に座り直す。


「見られていたのね」


「扉が開いてました」


「JIN」


「俺のせいにするな」


 めぐみの肩から少し力が抜けた。


 それでも、部屋の中へ入る。


「今日は私と眠る日でした」


 イネスがグラスを見る。


「まだ一杯目よ」


「三日間です」


「何が?」


「あなたが来てから、三日間、なおとの時間が減っています」


 めぐみは寝台の前へ立った。


 声は荒げていない。


 左手は身体の横へ下ろしたまま。


 指輪は見せつけない。


 隠しもしない。


「朝食を作ってくれたことは感謝しています。健二さんとハルさんが眠れたことも」


 イネスの目が、健二とハルへ向く。


「でも、なおの部屋で待つ必要はありません」


「友達の部屋でワインを飲んでいただけよ」


「寝台の上で」


「椅子が一つしかない」


「床があります」


「冷たいわ」


「自分の部屋にも寝台があります」


 イネスが口元へグラスを運びかけ、止めた。


 ミーシャがめぐみの隣へ立つ。


「私も、退室を求めます」


 イネスの眉が上がる。


「あなたまで?」


「めぐみ一人では、話をずらされます」


「記録係?」


「違います」


「では、なぜ?」


 ミーシャの指が、スカーフへ伸びる。


 触れない。


「私も、同じことをされれば嫌だからです」


 イネスの目から、笑いが少し薄くなった。


「JINの寝台に私がいることが?」


「はい」


「めぐみのためだけではなく?」


「違います」


「自分も嫌?」


「嫌です」


 任務。


 運用。


 必要性。


 どれも前へ置かなかった。


 イネスはミーシャをしばらく見た。


「正直になったわね」


「あなたに評価されるためではありません」


「分かってる」


 イネスは残っていたワインを飲み、立ち上がった。


 寝台の皺を手で伸ばす。


 ゲーム機を拾い、電源を切った。


 直樹の机へ近づく。


「JIN」


「何だ」


「一晩くらい、いいと思わない?」


「思わない」


「即答ね」


「めぐみと寝る」


 室内が一度静かになった。


 めぐみが直樹を見る。


 直樹は食料表から顔を上げていない。


 今夜の予定を確認しただけの声だった。


 ミーシャの目が一瞬下がる。


 それでも、スカーフには触れなかった。


 イネスがめぐみを見る。


「だそうよ」


「聞こえています」


「勝った顔をしないのね」


 めぐみはすぐには答えなかった。


 ミーシャを見る。


「ミーシャがいなければって、思う時はあります」


 ミーシャの目が止まる。


「めぐみ」


 直樹が呼ぶ。


「今は黙ってて」


 直樹は口を閉じた。


 めぐみは続ける。


「でも、本当にいなくなられたら、それも嫌です」


「矛盾しています」


「分かっています」


「私がいれば、あなたは苦しい」


「苦しいです」


「では、なぜ」


「ミーシャがいなくなったら、私も嫌だから」


 めぐみは一度息を吸った。


「なおが自分を責めるからだけじゃない。私が嫌です」


 ミーシャはすぐには返さなかった。


 唇を閉じ、めぐみの指輪を見る。


 それから自分のスカーフへ目を落とす。


「理解できません」


「私も、全部は分かりません」


「それでも、私を情報室へ入れるのですか」


「入れるんじゃなくて、私が行きます」


「隣の席ですか」


「嫌なら離れます」


「嫌ではありません」


 言ったあとで、ミーシャの眉がわずかに動いた。


「通信を見るには、隣が合理的です」


 めぐみの口元が少しだけ歪む。


「また理由を付けるんですね」


「理由がなければ、あなたの隣へ座れません」


「それは、私が嫌だから?」


「違います」


「なら?」


 ミーシャは答えなかった。


 スカーフへ伸びた指が、布に触れる前で止まる。


「六日目の夜、受入準備が終わったら行きます」


 めぐみが言った。


「二十二時以降、通信量が増えます」


「そこから入ります」


「名前を記録します」


「最初から?」


「はい」


「私の分も?」


 ミーシャの目が上がる。


「自分で書きます」


「分かりました」


 和らいだわけではない。


 指輪も、スカーフも、同じ場所へは置けない。


 それでも二人は、同じ夜に、同じ人間の帰還を待つことを決めた。


 イネスがゲーム機と空のグラスを持ち上げる。


「二人とも、面倒ね」


「あなたに言われたくありません」


 めぐみとミーシャの声が重なった。


 イネスは両手を上げる。


「今度は何もしていないわ」


「顔で言っています」


 ミーシャが返した。


 扉へ向かう。


 健二とハルの前で、イネスは足を止めた。


「あなたたちも、ずいぶん近くなったわね」


「食料表を持ってきただけです」


 健二が答える。


「夜に二人で?」


「用事があります」


 ハルは少し考え、続けた。


「用事がなくても、一緒にいることはあります」


 イネスの笑みが、ほんの少し柔らかくなる。


「それが一番いい答えね」


 廊下へ出る。


 めぐみとミーシャの間を通る時、どちらにも触れなかった。


 直樹へも戻らない。


「明日は出発ね」


「ああ」


「ブリスケットは成功した」


「肉はな」


「私も成功したわ」


「何が」


「朝食」


「それだけにしろ」


 直樹が扉を閉めた。


     *


 健二とハルは職員室へ戻った。


 廊下の灯りは半分落ちている。


 子どもたちの寝室から、布団が擦れる音が時々聞こえた。


 机には翌朝の食事表が残っている。


 健二は椅子へ座る。


 ハルも向かいへ座った。


 明日の朝、学校を出るのは十人。


 持ち出しの食事。


 水。


 温かい飲み物。


 学校に残る人間の朝食。


 健二は出発者の欄へ名前を書いていく。


 真柴直樹。


 イネス・モロー。


 田所遼。


 江藤沙月。


 芦田真希。


 安西冬馬。


 柴崎誠。


 御厨奈々。


 森川亮介。


 高城真帆。


 十人。


 ハルが紙を見る。


「帰る人数も書きますか」


「はい」


 健二は隣の欄へ、同じ名前をもう一度書き始めた。


「予定ですか」


「予定です」


「保証ではない?」


「はい」


「それでも書く?」


「書きます」


 ハルは、まだ空いている帰還欄へ指を置く。


「名前があれば、探せます」


「そうですね」


「いない時も?」


 健二の鉛筆が止まる。


「いない時ほどです」


 最後の名前を書く。


 十人。


 出発欄と帰還欄に、同じ名前が並んだ。


 健二はその下へ、朝食の数を書く。


 持ち出し、十。


 学校側、残留人数分。


 ハルの分も、最初から入っている。


「明日は早いです」


 健二が言う。


「眠りますか」


「はい」


 ハルは立たなかった。


「どうしました?」


「用事は終わりました」


「終わりましたね」


「もう少し、ここにいます」


 健二は食事表を閉じた。


「はい」


 二人は何も話さなかった。


 蛍光灯の低い音。


 遠くの発電機。


 夜の校舎が軋む音。


 三日間の準備は終わった。


 明日から、十人は学校の外へ出る。


 二日かけて国境の向こうへ入る。


 二日かけて家族を連れ帰る。


 健二の前には、十人分の帰還欄があった。


 ハルは向かい側にいる。


 どちらにも、今は用事がなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。