第201話 入っていい場所
##第201話 入っていい場所
三日目の朝、旧南第三には肉の匂いが満ちていた。
焦げた脂。
黒胡椒。
湿った木が熱を含んだ時の甘い煙。
厨房裏の排気口から白い筋が上がり、まだ青みの残る空へ細く消えていく。
健二は職員室の扉を開けたところで足を止めた。
腹が鳴った。
向かいの机で毛布を畳んでいたハルが顔を上げる。
「聞こえました」
「発電機でしょう」
「近かったです」
「古い建物だから、響くんですよ」
「健二さんから聞こえました」
健二は廊下へ出た。
「朝食を見に行きましょう」
「確認ですか」
「確認です」
「食べるためではなく?」
「結果として食べます」
ハルは毛布を棚へ戻し、健二の後ろへ続いた。
厨房へ近づくほど、匂いに厚みが増す。
肉の表面で焼けた香辛料。
煮詰めた果汁。
酸味のある漬物。
金属の蓋が開き、閉じる音。
健二が勝手口を開けると、冷たい空気と煙が一緒に顔へ当たった。
軒下には、ドラム缶を改造した電熱式の燻煙器が置かれている。側面の温度計は一定の範囲を指し、夜勤者が記録した時刻と温度が、吊り下げた板へ並んでいた。
直樹は温度計の前に立っていた。
灰色のシャツ。
暗いパンツ。
その上には、三日目も白いフリル付きのエプロン。
胸元。
肩。
裾。
細かなひだが、冷たい朝風に揺れている。
背中にはイネスが張り付いていた。
イネスも同じエプロンを着けている。今日は黒い薄手のニットで、腰紐を締めたせいで、胸元のフリルが前へ大きく張り出していた。
直樹は背後の重みを無視し、燻煙器の小窓を開ける。
熱気と一緒に、濃い煙の香りが漏れた。
「何時から起きてるの?」
健二が尋ねる。
「四時」
「寝た?」
「寝た」
「何時間?」
「三時間半」
「少ないでしょう」
「肉は昨夜から入ってる。見に来ただけだ」
イネスが直樹の肩越しから顔を出した。
「私も起きたわ」
「お前は二時にワインを飲んでただろ」
「一杯だけよ」
「二杯あった」
「グラスが小さかったの」
「普通の大きさだ」
「JINには大きく見えたのね」
「酒量の話だ」
健二は燻煙器を覗き込む。
「これがブリスケット?」
「ああ」
「朝から重くない?」
「薄く切る。パンと野菜も出す」
「昼じゃ駄目だったの?」
「昼は総合訓練だ」
「だから朝に肉?」
「終わった後にも残す」
直樹が蓋を閉める。
金属が噛み合い、鈍い音を立てた。
「兄ちゃん、料理の時だけ計画が細かいね」
「食えないと動けない」
イネスが直樹の背中へ顎を置いた。
「父も同じことを言っていたわ」
「お前の父親は酒が先だった」
「礼拝の前は飲まなかった」
「終わったら飲んでた」
「神様も許していた」
「聞いたのか」
「父が言ってた」
「本人の意見だろ」
勝手口の内側で衣擦れの音がした。
めぐみが立っている。
左手の薬指には指輪。
髪は整えているが、目の下には昨日より濃い影が残っていた。
イネスの腕は、直樹の腹へ回ったままだった。
めぐみはその腕を見る。
それから、健二とハルへ一度目を向けた。
「なお」
直樹が振り向く。
「何だ」
めぐみは直樹の近くまで歩き、声を落とした。
健二には最初の言葉しか聞こえなかった。
「二晩です」
直樹の手が温度計の上で止まる。
イネスだけが、嬉しそうに首を傾げた。
「何が二晩?」
めぐみは今度は声を隠さなかった。
「あなたが来てから、なおと一緒に眠れていません」
健二は燻煙器へ顔を向けた。
ハルも同じ方向を見る。
「私は意味が分かりません」
「そのままでいてください」
健二は小声で答えた。
イネスは直樹の背中から半歩離れた。
「今夜は?」
「なおと眠ります」
「ブリスケットの片づけがあるわ」
「私もやります」
「ワインもある」
「飲んだら帰ってください」
「JINの部屋へ?」
「自分の部屋へ」
イネスは直樹の肩を、指先で二度叩いた。
「ずいぶん言えるようになったわね」
「あなたが言わせてるんです」
厨房の奥からミーシャが出てきた。
片手には金属製のカップ。
首元にはアフガンスカーフ。
補修された硬い部分を胸元へ置き、長い端は上着の内側へ入れている。
「何の話ですか」
「今夜、私は自分の部屋へ戻るよう求められているの」
イネスが答えた。
「妥当です」
「あなたも?」
「直樹の部屋へ入るには、本人の許可が必要です」
「取ればいい?」
「めぐみとの予定が先です」
めぐみがミーシャを見る。
「ありがとう」
「規則です」
ミーシャの視線は、めぐみではなくスカーフの端へ落ちた。
イネスが笑う。
「また規則を前へ立たせた」
ミーシャの指が布へ伸びかける。
途中で止まった。
「今は朝食準備中です」
「それも規則?」
「作業です」
「残念」
直樹が勝手口を開けた。
「全員、中へ入れ。冷える」
イネスだけが煙の上がる燻煙器を振り返る。
「あと何分?」
「二十分」
「待つ」
「中で待て」
「JINと一緒に」
「煙でも吸ってろ」
*
朝食の時間になると、食堂の空気は肉の匂いで重くなった。
薄く切られたブリスケットは表面が黒く焼け、火は芯まで通っている。切り口の外側にだけ、赤茶色の煙の輪が細く残っていた。
ナイフを入れると、肉の繊維が抵抗なくほどける。
直樹は子どもの分を小さく切る。
大人には少し厚め。
パン。
酢を利かせた野菜。
じゃがいも。
温かいスープ。
隣ではイネスが皿を受け取り、食卓へ運んでいる。
二人は今日も同じフリル付きのエプロンだった。
蓮は皿を受け取る前に直樹を見た。
「明日もそれ?」
「明日は出る」
「エプロンで?」
「違う」
「持っていく?」
「燃やす」
「三日間ずっと言ってる」
「今日は燃やす」
「もう制服みたいになってるよ」
直樹のナイフが止まる。
「蓮」
「何?」
「野菜を増やすぞ」
「ごめんなさい」
「早いな」
「肉は守りたい」
悠斗が隣から蓮の皿を見る。
「昨日、茸を残しただろ」
「茸は野菜じゃない」
「野菜の横にあった」
「置いてあった場所の話じゃない」
美月は二人の会話を聞きながら、蓮の皿へ野菜を一つ移した。
蓮がすぐに気づく。
「増えてる」
「最初から」
「見てたから」
「見間違い」
美月は自分の皿へ目を落とした。
食堂の端で、ハルが肉を箸でほぐしている。
繊維が簡単に分かれ、湯気が上がった。
「柔らかいです」
「長く火を入れてますから」
「直樹さんが作ったんですか」
「イネスさんも手伝ったみたいです」
「何を?」
健二は厨房を見る。
イネスが切った肉へ手を伸ばし、直樹に手の甲を叩かれていた。
「見張りでしょうか」
「誰の?」
「兄ちゃんの」
ハルはもう一度、肉を口へ運ぶ。
「必要ですか」
「本人は必要だと思ってます」
「直樹さんは?」
「邪魔だと思ってます」
「でも、追い出しません」
「昔からだからでしょう」
厨房では、イネスが今度は直樹のエプロンの裾をつまんでいる。
直樹が指を外す。
イネスは笑い、別の皿を運び始めた。
「嫌ではないんでしょうか」
ハルが聞いた。
「兄ちゃんは、嫌でも言うのが遅い時があります」
「どうしてですか」
「我慢できることを、問題だと思わないんです」
「我慢できたら、嫌ではない?」
「違うと思います」
健二は自分の皿へ目を落とした。
「言わないと、周りには同じに見えますけど」
ハルは箸を止める。
「昨日の話と同じです」
「何の?」
「嫌だと言う話です」
「そうですね」
「直樹さんも、言った方がいい?」
「言ってはいます」
「遅いだけ?」
「はい」
ハルは厨房を見た。
「直樹さん」
直樹が顔を上げる。
「何だ」
「嫌な時は、早く言った方がいいです」
食堂が一瞬静かになった。
健二は箸を置く。
「ハルさん」
「違いましたか」
「違いません。ただ、今言うとは思いませんでした」
イネスが声を立てて笑った。
めぐみは額へ手を当てる。
ミーシャは金属製カップを持ったまま、直樹の返答を待っていた。
直樹はハルを見る。
「分かった」
「イネスさんにも?」
「ああ」
イネスの笑いが止まる。
「何を?」
直樹はイネスを見る。
「今は近い」
「朝食中よ」
「関係ない」
「昨日より早い」
「離れろ」
イネスは満足そうに半歩下がった。
「はい」
素直に返事をしたことで、今度は直樹が疑う顔をした。
*
三日目の準備は、校舎全体を使った総合訓練だった。
午前中に窓へ遮光布を掛ける。
食堂と寝室は通常どおり残す。
子どもたちは訓練区域へ入れない。
廊下には、古い机、旅行鞄、空の薬箱、毛布、折り畳み担架が置かれた。
家族役は大人が務める。
初期訓練生八人。
直樹。
イネス。
健二。
ハル。
えりは記録。
めぐみは受入側。
ミーシャは通信と人数確認。
開始前、直樹は全員を廊下へ集めた。
「目的は、速く出ることじゃない」
白いテープが、廊下を生活区画と訓練区画に分けている。
「家族を分けない。本人の意思を勝手に作らない。十人で入り、十人で出る」
田所が記録表を見る。
「対象者の確認は」
「家族単位。人数と名前、両方だ」
「名前が言えない人は?」
「家族との関係で呼ぶ。番号は受付整理だけ」
芦田が廊下の先を見る。
「出口は二つ?」
「最初はな」
「途中で変わる?」
「ああ」
「失敗条件は」
安西が尋ねた。
「家族を置く。誰かの意思を勝手に決める。こちら側が一人でも欠ける」
「時間超過は?」
「失敗じゃない」
「摘発には間に合わなくなります」
「だから急ぐ」
直樹は安西を見る。
「急いで誰かを消したら、何も残らない」
壁へ背を預けていたイネスが口を挟む。
「速さは、手順を捨てることではありません。迷う時間を減らすことです」
柴崎が聞く。
「武力行使は?」
「今日はしない」
「妨害役は」
「いる。押しのけるな。話すか、道を変えろ」
直樹は照明のスイッチへ手を置いた。
「始める」
灯りが消えた。
*
暗闇の中で、誰かの靴が床を擦った。
完全な闇ではない。
廊下の先に小さな誘導灯が一つ残っている。
顔は見えない。
肩と頭の輪郭だけが、緑色に浮いていた。
「家族一」
田所の声。
「大人二、子ども一」
高城が答える。
「家族二」
「大人一、子ども二」
「家族三」
「大人三。移動困難一」
御厨と森川が担架を持ち上げた。
布が軋む。
今日は健二が乗っている。
胸と腰へ固定帯が回され、天井の黒い染みが、担架の揺れに合わせて上下した。
「出発」
隊列が動く。
先頭は田所。
最後尾は安西。
芦田が水と食料。
江藤と高城が名簿。
柴崎が経路確認。
御厨と森川が担架。
直樹とイネスは、壁際に立ったまま指示を出さない。
最初の角。
昨日動かした机が、今日は元の位置へ戻されていた。
「机」
森川が止まる。
「頭側を上げる」
「そのままでは曲がれません」
御厨が言う。
柴崎が机へ手を掛けた。
「生活側へ出ます」
暗闇の外から、ハルの声が届く。
「美月が夜に通る場所です」
柴崎の手が止まる。
「板を外す」
安西が後方から動こうとする。
「最後尾を空けるな」
芦田が止める。
「私が行きます」
江藤が記録端末を高城へ渡し、壁の板を外した。
古い釘が鳴る。
担架が角へ入る。
「右、三センチ」
ハルの声。
御厨が足側を少し引く。
健二の肩は壁へ触れなかった。
隊列が進む。
二つ目の角で、突然、金属音が響いた。
イネスが古い盆を床へ落としている。
音が暗闇へ弾けた。
家族役の一人が悲鳴を上げる。
「何ですか」
「分からない」
「止まらないでください」
田所が言った。
子ども役のえりが、その場へしゃがみ込む。
「行かない」
「危険はありません」
「音がした」
「盆です」
「見えない」
田所が一歩進みかける。
止まる。
安全だと断言できる材料がない。
「私が先に触ります」
田所は壁沿いへ手を伸ばした。
床。
壁。
倒れた盆。
一つずつ確かめる。
「ここまでは何もありません」
「一緒に?」
「はい」
えりが立つ。
田所の上着の裾をつかむ。
隊列がまた動いた。
三つ目の角へ入ったところで、赤い灯りが点く。
第一出口、閉鎖。
柴崎が地図を見る。
「第二出口へ変更」
「後退、二十八メートル」
高城が答える。
「家族三を先に反転」
「担架が回りません」
御厨の声。
「その場で方向転換」
「幅が足りない」
隊列が止まる。
家族役の声が後方から重なる。
「何があった?」
「戻るの?」
「子どもが一人いない」
最後の声に、全員の動きが止まった。
「誰がいない?」
田所が尋ねる。
「家族二。次女」
高城が名簿を見る。
「確認時は子ども二名。現在、一名」
「最後に見た場所は」
「盆の音がした角」
安西が後方へ身体を向ける。
「戻る」
柴崎が腕をつかむ。
「一人で行くな」
「時間がない」
「単独を出したら、こちらも一人減る」
「二人で戻る」
「隊列はどうする」
言葉が詰まる。
直樹もイネスも動かない。
健二は担架の上から、ハルの姿を探した。
見えない。
「ハルさん」
返事がない。
胸の奥が一度、強く縮む。
「ハルさん」
「ここです」
声は近かった。
白いテープの外、監査役の位置から聞こえる。
健二は息を吐いた。
「名前を確認してください」
ハルが言った。
「人数だけではなく」
高城が名簿を読み上げる。
家族二。
母。
長男。
次女。
「次女の返答がありません」
「最初から?」
江藤が尋ねる。
「確認時は三名でした」
「何を見た?」
田所が聞く。
家族二の母親役は、胸へ毛布の包みを抱えていた。
隣には、歩いている子ども役が一人。
暗闇の中では、母親と子ども二人に見える。
「母親役一名。歩行する子ども役一名。抱えられた子ども一名」
高城の声が少し硬くなる。
「その包みに、反応は?」
誰も答えない。
「名前を呼んだ時は?」
「呼びました」
「返事は」
「ありませんでした」
「それでも数へ入れた?」
「はい」
直樹の声が入った。
「中止」
照明が点く。
白い光が目へ刺さる。
全員が目を細めた。
母親役の腕に、子どもほどの大きさへ毛布で包まれた砂袋がある。
首元には、次女の名前が書かれた札。
人間ではない。
返事もしない。
それでも一人として数えられていた。
直樹は高城の名簿を取った。
「何を確認した」
「人数です」
「名前は」
「読み上げました」
「返事は」
「ありません」
「それで進んだ」
「はい」
直樹は毛布の包みを見る。
「名前を言えない人はいる」
「はい」
「返事だけでも駄目だ」
高城が顔を上げる。
「どう確認しますか」
「身体を見る。家族へ聞く。許された名で呼ぶ。触れられるなら触れる」
直樹は名簿を返す。
「方法を一つにするな」
白いテープの外から、ハルが言った。
「空欄でも、人はいます」
全員の目がハルへ向く。
「名前が分からないことと、いないことは違います」
直樹が頷く。
「最初からやり直す」
安西が時計を見る。
「時間が」
「このままなら、本番でも置く」
「摘発時刻は待ちません」
「だから今日、止める」
直樹は全員を見る。
「本番では止められない。今、失敗しろ」
*
二度目の訓練では、全員が名前と身体を確認した。
名前を言えない役には、家族との関係を使った。
母親。
弟。
祖父。
呼ばれた者が手を上げる。
上げられない者には、隣の家族が肩へ触れる。
荷物には別の札を付けた。
第一出口が閉じても、隊列を崩さず担架の向きを変えた。
盆の音でしゃがみ込んだ子ども役には、田所が先に床を確かめ、同じ高さで待った。
時間は一度目より三分長い。
それでも、最後の出口で十人と家族全員が揃った。
芦田が読み上げる。
「越境要員、十名」
高城が家族名簿を一人ずつ読む。
返事。
手。
家族の接触。
最後の一人まで確認しても、拍手は起きなかった。
直樹は時計を見る。
「遅い」
安西の顔が固くなる。
「はい」
「でも全員いる」
「はい」
「次は速くする」
直樹は名簿を閉じた。
「削るのは迷いだ。確認じゃない」
*
午後、遮光布が外された。
白い光が廊下へ戻る。
汗。
埃。
昼まで保温されていたブリスケット。
いくつもの匂いが、古い校舎の空気へ混じっていた。
健二は担架から降り、腰を伸ばす。
ハルは白いテープを端から剥がし、絡まないよう筒へ巻いている。
「さっき、返事がなくて焦りました」
健二が言う。
「呼ばれた時ですか」
「はい」
「私は監査役でした」
「分かってます」
「では、どうして?」
「見えなかったからです」
ハルの手が止まる。
「見えないと、いないと思いますか」
「思ってはいません」
「でも呼びました」
「確かめたかったんです」
「返事がなければ?」
健二はすぐには答えなかった。
母親役が抱いていた毛布の包みが浮かぶ。
名前はある。
数にも入っている。
けれど、中には人がいない。
「探します」
「訓練を止めても?」
「止めます」
「仕事が遅れても?」
「遅れます」
ハルはテープを筒へ巻いた。
「分かりました」
「何が?」
「健二さんが、どうするかです」
健二はハルの横顔を見る。
「聞かなくてもよかったですか」
「いいえ」
ハルは最後のテープを剥がした。
「聞いてよかったです」
*
夕方、総合訓練の片づけが終わると、直樹は浴室へ向かった。
替えの服。
タオル。
石鹸。
それだけを持っている。
イネスが後ろからついていく。
同じようにタオルと着替えを抱えていた。
健二とハルは、洗い終えた訓練用毛布を乾燥室へ運ぶ途中だった。
廊下の先に二人の背中が見える。
「どこへ行く」
直樹は振り返らない。
「お風呂」
「女湯は反対だ」
「知ってる」
「なら曲がれ」
「久しぶりに一緒でもいいでしょう?」
直樹の足が止まった。
「よくない」
「フランスでは」
「入ってない」
「川には入った」
「任務だ」
「服も脱いだわ」
「濡れた装備を替えただけだ」
「見たでしょう?」
「周囲を見張ってた」
「私は?」
「見てない」
「嘘」
「覚えてない」
「見た人の言い方よ」
直樹が男湯の暖簾をくぐる。
イネスも続こうとした。
直樹は振り返らず、片手だけを後ろへ伸ばした。
掌がイネスの額へ当たる。
右足が敷居へ触れたところで止められた。
「反対だ」
「まだ入ってないわ」
「入ろうとした」
「どこで止めるか見ただけ」
「ここだ」
イネスは額を押さえられたまま笑っている。
廊下の反対から、めぐみとミーシャが歩いてきた。
二人とも足が速くなる。
「イネスさん」
めぐみの声が先に届く。
「まだ入っていないわ」
「入ろうとしてます」
「敷居の外よ」
ミーシャが床を見る。
「右足が触れています」
「細かいわね」
「戻ってください」
「女湯へ?」
「自分の部屋でも構いません」
「身体を洗いたいの」
「女湯です」
イネスは直樹の手の下から顔をずらした。
「JIN。二人が怖いわ」
「自業自得だ」
「守ってくれない?」
「押し込むぞ」
「女湯へ?」
「廊下へ」
イネスは一歩下がった。
直樹の手が離れる。
同じ敷居へは戻らず、今度は暖簾の横から覗こうとする。
めぐみが暖簾を押さえた。
ミーシャはイネスの肩へタオルを掛け、そのまま反対方向へ向ける。
「こちらです」
「二人がかり?」
「必要です」
めぐみが答えた。
「なお。鍵を掛けて」
「ああ」
「今」
直樹が中へ入り、内側から鍵を掛ける。
金属が噛み合う音がした。
イネスは暖簾の前で立ち尽くす。
「信用がない」
「自分でなくしました」
ミーシャが言う。
「最初からなかったんじゃない?」
めぐみが返した。
二人の言葉は重ならなかった。
それでも、イネスを女湯の方へ挟んで歩かせる足並みは揃っている。
健二とハルは、毛布を抱えたまま廊下の端に立っていた。
「毎回、止められる所まで行きます」
ハルが言った。
「そうですね」
「直樹さんは、今日は早く止めました」
「朝に言われましたから」
「私が言ったから?」
「たぶん」
ハルは閉じた扉を見る。
「嫌だと言うと、変わることもあります」
「全部ではないですけどね」
「少しでも?」
「はい」
ハルが健二を見る。
「健二さんも、嫌な時は言ってください」
「ハルさんに?」
「はい」
「分かりました」
「今、ありますか」
健二は自分の腕を見る。
いつの間にか、ハルが抱えていた毛布を二枚取っていた。
「一人で全部持とうとしないでください」
ハルが先に言った。
「今、返してください」
「はい」
二枚戻す。
ハルは毛布を抱え直した。
「私も持てます」
「知ってます」
「なら取らないでください」
「気をつけます」
ハルは先に歩き出す。
健二はその隣へ並んだ。
*
夜、装備の封印作業が始まった。
多目的室の机へ、十人分の袋が並ぶ。
通信端末。
記録媒体。
防寒具。
応急用品。
武器と弾薬は国境第三で受け取る。
学校にあるのは、家族の名簿と意思確認用の記録だけだった。
えりが封印番号を読み上げる。
高城が記録する。
芦田が人数を確認する。
田所たちは一人ずつ署名した。
参加を断った者はいない。
誰も勇ましいことは言わなかった。
八人の名前が並び、最後に直樹とイネスの署名が入る。
「十名」
芦田が確認する。
「出発時も十名」
直樹が答える。
「帰還時も」
「十名だ」
イネスが横から直樹を見る。
「あなたも含むのよ」
「分かってる」
「記録しました」
高城が言った。
直樹は何も返さなかった。
*
封印作業が終わると、健二は最終の食料表を持ち、直樹の部屋へ向かった。
ハルも一緒だった。
翌朝の持ち出し食。
水。
温かい飲み物。
学校に残る人数。
出発する十人。
廊下を曲がると、直樹の部屋の扉が少し開いていた。
中から単純な電子音が聞こえる。
上がる。
落ちる。
短い警告音。
「何の音ですか」
ハルが聞く。
「ゲームだと思います」
二人は扉の前で止まった。
中を覗く。
直樹は机へ座り、封印済みの記録を読み直していた。
イネスは寝台へ腹ばいになっている。
靴は脱ぎ、膝から先を上へ曲げていた。
緩いシャツ。
薄いパンツ。
片手に携帯ゲーム機。
もう片方にワインの入ったグラス。
髪は適当に後ろへ束ねてある。
「また落ちた」
「見れば分かる」
「この車、曲がらない」
「減速しろ」
「負ける」
「壁へ当たるよりいい」
「JINは昔から慎重すぎる」
「お前が突っ込むだけだ」
「代わって」
「仕事中だ」
「一回だけ」
「嫌だ」
「負けるのが怖い?」
「興味がない」
「昔はやったでしょう」
「お前が寝るまでだ」
「三時間続けた」
「お前が勝つまで寝なかった」
「優しいわね」
「うるさかっただけだ」
イネスは子どものように足を振る。
ワインを一口飲み、またゲーム機を傾けた。
直樹が部屋へ入る前、イネスは一応ノックしたらしい。
健二が食堂で聞いた話では、
「一杯だけ」
「飲んだら出ろ」
それだけだった。
入室は許された。
寝台を使えとは言われていない。
ハルが小さな声で言った。
「さっきまでと違います」
「誰もいない時は、こうなんでしょうね」
「足を上げています」
「そうですね」
「誰か来たら下ろす?」
「たぶん」
健二が扉を叩く。
「兄ちゃん」
イネスの動きが止まった。
次の瞬間、寝台の上で身体を反転させる。
片肘を枕へ置く。
髪をほどく。
シャツの襟へ指を掛け、形を整える。
片脚を伸ばし、もう片方を曲げた。
ワイングラスを胸元へ持ち上げる。
「どうぞ」
声まで低くなった。
健二は扉を開ける。
「今のところ、全部見えてましたよ」
イネスの笑みが一瞬止まった。
「何が?」
「腹ばいでゲームしてたところです」
「別人よ」
「同じ服です」
ハルが言う。
「髪も同じでした」
「暗かったでしょう?」
「扉が開いていました」
直樹が書類から顔を上げる。
「だから閉めろと言った」
「暑かったの」
「窓を開けろ」
「寒い」
「どっちだ」
健二は食料表を机へ置く。
「明日の確認です」
「分かった」
直樹が紙を受け取る。
イネスは姿勢を崩さない。
ワイングラスを傾け、健二とハルを見る。
「二人で夜の部屋へ来るのね」
「仕事です」
「ハルも?」
「食事表の確認です」
「残念」
廊下から二人分の足音が近づいた。
めぐみとミーシャだった。
イネスの目が輝く。
寝台の端へ腰を移し、髪を肩へ流す。
グラスを持つ手首まで柔らかくなる。
直樹が言った。
「戻せ」
「何を?」
「さっきの格好に」
「何のこと?」
「ゲーム機を持て」
「今はワインの時間よ」
「三秒前までゲームしてた」
めぐみが扉の前で止まる。
寝台のイネス。
机の直樹。
ワイン。
緩い服。
左手が、扉の取っ手の上で止まった。
ミーシャは室内を見渡す。
「入室許可はありましたか」
「一杯だけなら、って」
イネスが答える。
「飲んだら出ろと言った」
直樹が訂正した。
「でも、寝台を使うなとは言われていない」
「言わなくても分かれ」
「人によるわ」
健二は寝台の下を指した。
「ゲーム機が落ちてます」
全員の目が下へ向く。
携帯ゲーム機が、寝台の脇へ半分飛び出していた。
画面には壁へ突っ込んだ車。
警告音だけが空しく鳴っている。
めぐみがゲーム機を見る。
次にイネス。
ミーシャも同じ順番で見た。
「腹ばいでした」
ハルが言う。
「足も上げていました」
イネスは数秒黙った。
妖艶な姿勢をやめ、寝台の上へ普通に座り直す。
「見られていたのね」
「扉が開いてました」
「JIN」
「俺のせいにするな」
めぐみの肩から少し力が抜けた。
それでも、部屋の中へ入る。
「今日は私と眠る日でした」
イネスがグラスを見る。
「まだ一杯目よ」
「三日間です」
「何が?」
「あなたが来てから、三日間、なおとの時間が減っています」
めぐみは寝台の前へ立った。
声は荒げていない。
左手は身体の横へ下ろしたまま。
指輪は見せつけない。
隠しもしない。
「朝食を作ってくれたことは感謝しています。健二さんとハルさんが眠れたことも」
イネスの目が、健二とハルへ向く。
「でも、なおの部屋で待つ必要はありません」
「友達の部屋でワインを飲んでいただけよ」
「寝台の上で」
「椅子が一つしかない」
「床があります」
「冷たいわ」
「自分の部屋にも寝台があります」
イネスが口元へグラスを運びかけ、止めた。
ミーシャがめぐみの隣へ立つ。
「私も、退室を求めます」
イネスの眉が上がる。
「あなたまで?」
「めぐみ一人では、話をずらされます」
「記録係?」
「違います」
「では、なぜ?」
ミーシャの指が、スカーフへ伸びる。
触れない。
「私も、同じことをされれば嫌だからです」
イネスの目から、笑いが少し薄くなった。
「JINの寝台に私がいることが?」
「はい」
「めぐみのためだけではなく?」
「違います」
「自分も嫌?」
「嫌です」
任務。
運用。
必要性。
どれも前へ置かなかった。
イネスはミーシャをしばらく見た。
「正直になったわね」
「あなたに評価されるためではありません」
「分かってる」
イネスは残っていたワインを飲み、立ち上がった。
寝台の皺を手で伸ばす。
ゲーム機を拾い、電源を切った。
直樹の机へ近づく。
「JIN」
「何だ」
「一晩くらい、いいと思わない?」
「思わない」
「即答ね」
「めぐみと寝る」
室内が一度静かになった。
めぐみが直樹を見る。
直樹は食料表から顔を上げていない。
今夜の予定を確認しただけの声だった。
ミーシャの目が一瞬下がる。
それでも、スカーフには触れなかった。
イネスがめぐみを見る。
「だそうよ」
「聞こえています」
「勝った顔をしないのね」
めぐみはすぐには答えなかった。
ミーシャを見る。
「ミーシャがいなければって、思う時はあります」
ミーシャの目が止まる。
「めぐみ」
直樹が呼ぶ。
「今は黙ってて」
直樹は口を閉じた。
めぐみは続ける。
「でも、本当にいなくなられたら、それも嫌です」
「矛盾しています」
「分かっています」
「私がいれば、あなたは苦しい」
「苦しいです」
「では、なぜ」
「ミーシャがいなくなったら、私も嫌だから」
めぐみは一度息を吸った。
「なおが自分を責めるからだけじゃない。私が嫌です」
ミーシャはすぐには返さなかった。
唇を閉じ、めぐみの指輪を見る。
それから自分のスカーフへ目を落とす。
「理解できません」
「私も、全部は分かりません」
「それでも、私を情報室へ入れるのですか」
「入れるんじゃなくて、私が行きます」
「隣の席ですか」
「嫌なら離れます」
「嫌ではありません」
言ったあとで、ミーシャの眉がわずかに動いた。
「通信を見るには、隣が合理的です」
めぐみの口元が少しだけ歪む。
「また理由を付けるんですね」
「理由がなければ、あなたの隣へ座れません」
「それは、私が嫌だから?」
「違います」
「なら?」
ミーシャは答えなかった。
スカーフへ伸びた指が、布に触れる前で止まる。
「六日目の夜、受入準備が終わったら行きます」
めぐみが言った。
「二十二時以降、通信量が増えます」
「そこから入ります」
「名前を記録します」
「最初から?」
「はい」
「私の分も?」
ミーシャの目が上がる。
「自分で書きます」
「分かりました」
和らいだわけではない。
指輪も、スカーフも、同じ場所へは置けない。
それでも二人は、同じ夜に、同じ人間の帰還を待つことを決めた。
イネスがゲーム機と空のグラスを持ち上げる。
「二人とも、面倒ね」
「あなたに言われたくありません」
めぐみとミーシャの声が重なった。
イネスは両手を上げる。
「今度は何もしていないわ」
「顔で言っています」
ミーシャが返した。
扉へ向かう。
健二とハルの前で、イネスは足を止めた。
「あなたたちも、ずいぶん近くなったわね」
「食料表を持ってきただけです」
健二が答える。
「夜に二人で?」
「用事があります」
ハルは少し考え、続けた。
「用事がなくても、一緒にいることはあります」
イネスの笑みが、ほんの少し柔らかくなる。
「それが一番いい答えね」
廊下へ出る。
めぐみとミーシャの間を通る時、どちらにも触れなかった。
直樹へも戻らない。
「明日は出発ね」
「ああ」
「ブリスケットは成功した」
「肉はな」
「私も成功したわ」
「何が」
「朝食」
「それだけにしろ」
直樹が扉を閉めた。
*
健二とハルは職員室へ戻った。
廊下の灯りは半分落ちている。
子どもたちの寝室から、布団が擦れる音が時々聞こえた。
机には翌朝の食事表が残っている。
健二は椅子へ座る。
ハルも向かいへ座った。
明日の朝、学校を出るのは十人。
持ち出しの食事。
水。
温かい飲み物。
学校に残る人間の朝食。
健二は出発者の欄へ名前を書いていく。
真柴直樹。
イネス・モロー。
田所遼。
江藤沙月。
芦田真希。
安西冬馬。
柴崎誠。
御厨奈々。
森川亮介。
高城真帆。
十人。
ハルが紙を見る。
「帰る人数も書きますか」
「はい」
健二は隣の欄へ、同じ名前をもう一度書き始めた。
「予定ですか」
「予定です」
「保証ではない?」
「はい」
「それでも書く?」
「書きます」
ハルは、まだ空いている帰還欄へ指を置く。
「名前があれば、探せます」
「そうですね」
「いない時も?」
健二の鉛筆が止まる。
「いない時ほどです」
最後の名前を書く。
十人。
出発欄と帰還欄に、同じ名前が並んだ。
健二はその下へ、朝食の数を書く。
持ち出し、十。
学校側、残留人数分。
ハルの分も、最初から入っている。
「明日は早いです」
健二が言う。
「眠りますか」
「はい」
ハルは立たなかった。
「どうしました?」
「用事は終わりました」
「終わりましたね」
「もう少し、ここにいます」
健二は食事表を閉じた。
「はい」
二人は何も話さなかった。
蛍光灯の低い音。
遠くの発電機。
夜の校舎が軋む音。
三日間の準備は終わった。
明日から、十人は学校の外へ出る。
二日かけて国境の向こうへ入る。
二日かけて家族を連れ帰る。
健二の前には、十人分の帰還欄があった。
ハルは向かい側にいる。
どちらにも、今は用事がなかった。




