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第200話 後ろの席

## 第200話 後ろの席


 翌朝、健二は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 枕元の時計は五時十二分。


 板で塞いだ窓の向こうは、まだ夜の色を残している。廊下にも人の気配はなく、遠くで発電機の回転音だけが低く続いていた。


 昨日は、朝食の準備を直樹とイネスへ任せ、八時半まで眠った。


 二日続けて同じことをするつもりはなかった。


 健二は毛布を畳み、職員用休憩室を出た。


 向かいの扉は閉じている。


 ハルはまだ眠っているらしい。


 呼ばなくてよい。


 そう決めてから厨房へ向かうと、食堂の手前まで煮込んだトマトの匂いが流れてきた。


 酸味。


 炒めた玉ねぎの甘さ。


 乾燥した香草。


 鍋底を木べらが擦る、規則正しい音。


 健二は厨房の入口から中を覗いた。


 直樹が大鍋の前に立っていた。


 昨日と同じ、胸元と肩、裾に細かなフリルの付いた白いエプロンを着けている。


 隣のイネスも同じ格好だった。


 軍服ではない。


 淡い灰色の、身体に沿う薄手のニット。その上から腰紐を締めたことで、胸元の布とフリルが大きく前へ張り出している。


 直樹の方は、昨日よりさらに似合わなく見えた。


「兄ちゃん、昨日は燃やすって言ってなかった?」


 直樹は鍋から顔を上げなかった。


「隠した」


「じゃあ、どうして着てるの?」


「別の場所から出てきた」


 イネスが鍋の向こうで笑った。


「三枚あるの」


 直樹の木べらが止まる。


「何で増えてる」


「予備よ」


「何の」


「汚した時の」


「全部捨てろ」


「明日の分も必要でしょう?」


「明日は着ない」


「昨日も聞いたわ」


 健二は鍋の中を見た。


 短いマカロニが赤いソースの中をゆっくり動いている。


 玉ねぎ。


 潰した豆。


 細かく切った人参と茸。


 表面には削ったチーズが溶け、白い筋を作っていた。


「朝からマカロニ?」


「子どもが食べる」


 直樹が答える。


「朝食らしくはないね」


「温かい。腹に残る。昼まで持つ」


「料理の時だけ説明が長いよ」


「聞いたからだ」


 イネスが味見用の匙を鍋へ入れようとした。


 直樹が手首を押さえる。


「まだだ」


「ソースは昨夜から煮たでしょう?」


「マカロニを入れたばかりだ」


「味は分かるわ」


「熱い」


「平気よ」


「子どもの前で舌を火傷するな」


 イネスは直樹の手から自分の手首を抜いた。


 そのまま背後へ回り、肩越しに鍋を覗き込む。


 フリルの胸元が、直樹の背中へ触れた。


 直樹は木べらを動かしたまま、肘だけを後ろへ引いた。


 イネスの身体が半歩離れる。


「そこにいると混ぜられない」


「昨日より早い」


「何が」


「追い出すのが」


「邪魔だからだ」


「成長ね」


「お前が学べ」


 食堂の入口で衣擦れの音がした。


 めぐみが立っていた。


 髪は整えている。


 けれど、目の下には眠気が薄く残っていた。


 昨夜、直樹は自分の部屋で寝た。


 午前三時半にイネスが起こしに来るから、という理由だった。


 実際、三時二十八分には二度のノックが校舎へ響き、返事がないまま三度目が鳴った。


 健二も、その音で一度目を覚ましている。


「なお」


 直樹が顔を向ける。


「何だ」


「今日は早く終わって」


「ああ」


「仕込みも、なしで」


 イネスが直樹の肩越しから顔を出した。


「明日はブリスケットよ」


 めぐみの眉がわずかに動いた。


「いつから作るんですか」


「今夜」


「なおも?」


「もちろん」


「イネス」


 直樹の声が一段低くなる。


「何?」


「勝手に決めるな」


「一人では大きな肉を運べないわ」


「運べるだろ」


「運べるけど、一緒の方が楽しい」


「俺は楽しくない」


 めぐみは一度息を吸い、ゆっくり吐いた。


「今夜、話します」


 誰と、とは言わなかった。


 直樹は鍋を混ぜたまま答えた。


「ああ」


 イネスだけが、二人を見比べて口元を上げた。


     *


 六時を過ぎると、子どもたちが食堂へ集まり始めた。


 最初に来た悠斗は、机へ並べられた皿を見た。


 まだ来ていない子どもの椅子。


 厨房の大鍋。


 保温用の容器。


 目で一周してから、自分の席へ向かう。


「全員分ある?」


「ある」


「昼の分も?」


「残す」


 悠斗はそれ以上聞かなかった。


 美月は熱い鍋に近い席から、小さい子どもの皿を少しずつ遠ざけている。


 蓮は厨房の前で立ち止まり、直樹のエプロンを見た。


「今日も?」


「今日までだ」


「昨日も言ってた」


「明日は着ない」


「赤もあるわよ」


 イネスが皿へマカロニをよそいながら言った。


「着ない」


「青も」


「燃やす」


 蓮はもう笑わなかった。


「慣れてきた」


 それだけ言い、普通に皿を受け取った。


 直樹の顔だけが少し険しくなる。


「蓮」


「何?」


「食べろ」


「今、受け取ったところ」


 千紘と花音が並んで入ってきた。


 千紘が花音の椅子を引こうとする。


 花音は先に自分で椅子を引いた。


 空中で止まった千紘の手を見て、代わりに千紘の椅子を少し引く。


 二人は何も言わず、並んで座った。


 陸は鍋の中を覗いた。


「一人分、何グラム?」


「子どもは百八十前後」


「大人は?」


「二百五十」


「残ったら?」


「昼へ回す」


 陸は納得し、自分の席へ座った。


 颯太は椅子の背に付けられた名札を一つずつ見ている。


 自分の名前を見つけると、指で文字をなぞってから腰を下ろした。


 厨房の奥で、金属製のカップが台へ触れた。


 ミーシャが入ってきた。


 今日も首元には、古いアフガンスカーフが巻かれている。


 擦り切れた端は上着の中へ入れられ、何度も縫い直された硬い部分だけが胸元へ残っていた。


 イネスは、子どもの皿へチーズを振っていた。


 ミーシャが横を通り過ぎようとした時、その手が止まる。


「待って」


 ミーシャの足が止まった。


「何ですか」


 イネスの目は、スカーフに向けられていた。


「それ、JINのね」


 ミーシャは布を隠さなかった。


 ただ、金属製カップの取っ手を握る指へ少し力が入った。


「今は私の物です」


「そう」


 イネスが補修箇所を目で追う。


「まだ残っていたのね」


「知っているのですか」


「長く使っていたもの」


 イネスが直樹を見る。


「ギアナにも持っていった?」


「持っていった」


「奈良にも?」


「ああ」


「よく捨てなかったわね」


「使えたからだ」


「その答えも変わらない」


 イネスはミーシャへ向き直った。


「あなたに渡したの?」


「はい」


「JINが、自分で?」


「はい」


「何と言って?」


 ミーシャは一度、直樹を見る。


 直樹は鍋の蓋を閉めていた。


 助け舟を出す気はないらしい。


「寒いだろ、と」


 ミーシャの指が、カップの取っ手へ深くかかる。


「俺のお古だ。使ってくれ。長い方は中へ入れろ。巻き込む、と言いました」


 イネスは数秒、何も言わなかった。


 食堂にいる蓮が、その沈黙へ顔を上げる。


 悠斗が蓮を見る。


 蓮はまた匙を動かした。


「JINは、自分の物を人にあげないわ」


 直樹が顔を上げた。


「必要なら、何でも貸す」


 イネスは、補修された縫い目から目を離さない。


「食料も、服も、装備も。でも、自分の物を『もう返さなくていい』とは、ほとんど言わない」


「防寒具として渡されました」


 ミーシャの返答は早かった。


「安全上、必要でした」


「そうね」


「特別な意味を示す発言はありません」


「それも、そうでしょうね」


 イネスは否定しなかった。


 用意していた反論を置く場所がなくなったように、ミーシャの唇がわずかに開いたまま止まる。


「でも」


 イネスが言った。


「今日は、それほど寒くないわ」


 食堂には暖房が入っている。


 大鍋の湯気もある。


 子どもたちの体温で、窓際まで温かかった。


「あとで外へ出ます」


「一時間以上あとね」


「防寒具は先に装着します」


「毎朝?」


「必要です」


「眠る時も?」


 ミーシャの顔が固くなる。


「イネス」


 直樹が呼んだ。


 低い声だった。


 イネスは直樹を見る。


 一歩、後ろへ下がった。


「そこは聞きすぎたわ」


 ミーシャは返事をしない。


 スカーフの補修部分を指で一度押した。


 縫い目は元の形のまま戻らない。


「あとで話しましょう」


「話す必要はありません」


「あるかどうかは、あなたが決めて」


 イネスは子どもたちの方へ向き直り、残りの皿へチーズを振り始めた。


 会話はそこで切れた。


 ミーシャは食堂の端へ座った。


 カップを机へ置く。


 金属の底が木へ当たり、乾いた音を立てた。


 少し離れた席で、めぐみがミーシャの首元を見ている。


 左手は膝の上。


 指輪のある指が、反対の手の中へ半分隠れていた。


 健二には、めぐみが何を考えているのかは分からなかった。


 ただ、マカロニを口へ運ぶまで少し時間がかかった。


     *


 二日目の準備には、校舎の一階を使った。


 食堂と寝室へ続く廊下は生活用として残す。


 反対側の廊下へ白いテープを貼り、夜間の搬送経路にする。


 窓には遮光布。


 角には空の木箱。


 古い机。


 毛布を詰めた旅行鞄。


 実際の家で起こりそうな障害を、あえて通路へ置いていく。


 武器はない。


 北側の地図もない。


 人が暮らしている場所から、人を連れ出すための練習だった。


 健二は巻き尺を伸ばし、廊下の角を測った。


「ここ、そのままでは担架が曲がれません」


 森川と御厨が、折り畳み担架を持っている。


 上には成人一人分の重さへ調整した砂袋。


 森川が後方を持ち上げた。


「頭側を先に振ります」


 御厨が砂袋の胸元を押さえる。


「実際に人が乗っていたら、ここまで傾けられません」


「机を動かしますか」


 健二が尋ねた。


 ハルが生活側の廊下を見る。


「その机は、美月が夜に水を飲む時に使います」


「何に?」


「水筒を置きます。両手が空くまで」


「では、生活側にはみ出さない程度に動かしましょう」


 机を二十センチずらす。


 担架が角へ入った。


 それでも、砂袋の肩が壁へ触れた。


「毛布を壁に挟みます」


 御厨が言う。


 ハルは、砂袋と壁の間を見た。


「運ばれる人ではなく、壁を守るんですか」


 御厨の手が止まった。


「違います」


「なら、毛布は人の下に置いた方がいいです」


「はい」


 健二は角に立てかけられていた古い板を外した。


 板の裏から、長く溜まっていた埃が落ちる。


 乾いた木と黴の匂いが広がった。


「これを外せば、あと五センチあります」


「作戦準備より、学校の修理になっていますね」


 安西が言った。


「学校で訓練するんだから、仕方ないですよ」


 健二は板を壁へ立て直した。


「終わった後も、子どもたちはここを通ります」


 廊下の端から、直樹が言った。


「そのまま直せ」


「午後、手伝ってくれる?」


「ああ」


 イネスが直樹の隣へ立つ。


「私は?」


「触るな」


「まだ何も触ってない」


「板のことだ」


「私のことかと思った」


「両方だ」


     *


 一度目の誘導は速すぎた。


 先頭の田所が角を曲がった時、家族役の三人が二歩遅れた。


 最後尾の安西が前へ詰めるよう合図する。


 だが、父親役の健二が旅行鞄を持ち直し、そこで止まった。


 後ろにいたハルも立ち止まる。


 ハルは子ども役だった。


 健二の上着の裾をつかみ、父親から離れない設定になっている。


「進んでください」


 田所の声が廊下の奥から届いた。


 健二は動かない。


「荷物を置いてください」


「無理です」


「持てる物だけです」


「家族の記録が入っている」


「こちらで持ちます」


「渡しません」


 田所が戻ってくる。


 後ろの隊列が廊下へ詰まった。


 柴崎が最後尾を見る。


「停止時間が長い」


「分かってる」


 田所は旅行鞄から手を引いた。


「子どもは進めますか」


 ハルは健二の裾を握ったまま答える。


「父が行くなら」


「父親も行きます」


「行くとは言っていません」


 田所が健二を見る。


「行きますか」


「残る」


「理由を教えてください」


「隣の家へ知らせる」


「先行班へ伝えます」


「知らない人には任せられない」


「ここに残れば拘束されます」


「先に子どもを連れていってくれ」


 ハルが言った。


「私は行きません」


 田所がしゃがみ、ハルと目の高さを合わせる。


「あなたは逃げたいですか」


「分かりません」


「父親と一緒なら?」


「行きます」


「父親が残るなら?」


 ハルは健二を見る。


 健二は視線を外した。


 答えを教えない。


 上着を握っていた指が、少しずつ緩む。


「父に、私と一緒に来てほしいです」


 田所が健二を見る。


「聞きましたか」


「聞いた」


「隣の家の情報は、私たちが引き継ぎます」


「誰が?」


「江藤が二重に記録します。高城が先行班へ送る」


 田所が後ろを振り返る。


 江藤が記録端末を上げた。


 高城も頷く。


「私が戻れなくても、情報は残します」


 健二は旅行鞄を見る。


 中身は毛布と木片だった。


 それでも、誰かの家族を証明する記録だと思えば、簡単に置ける物ではなかった。


「行く」


 田所が立ち上がる。


「再開します」


 今度は、健二の歩幅に隊列の速度が合わせられた。


     *


 遮光布を外すと、昼の光が廊下へ入った。


 埃が斜めの光の中をゆっくり落ちている。


 田所は廊下の端で、記録を見直していた。


 直樹が近づく。


「最初に結果を言いすぎた」


「はい」


「拘束される。分離される。先に言えば脅しになる」


「時間がないと思いました」


「実際にない」


「なら、どうすれば」


「時間がない時ほど、相手の答えを作るな」


 田所の指が、記録用紙の端を押さえた。


「分からないと言われたら」


「分からないまま動ける形を考えろ」


「最後まで拒否されたら?」


「残す」


「危険です」


「ああ」


「正しい判断ですか」


「正しいとは言ってない」


 直樹の声は変わらない。


「本人の代わりに決めない。それだけだ」


 田所は紙へ一行書き足した。


 少し離れた場所で、ハルが子ども役の札を外している。


 紐が髪に引っかかり、一度では抜けなかった。


 健二が手を伸ばしかける。


 ハルは自分で紐を外し、札を箱へ戻した。


「疲れました?」


「できます」


「できるかは聞いていません」


 ハルは健二を見た。


 唇を一度閉じる。


「少し、怖かったです」


「昔のことを思い出した?」


「はい」


「休みましょう」


「五分だけ」


「温かい物を持ってきます」


「健二さんも?」


「俺は父親役で疲れました」


「嘘です」


「分かるようになりましたね」


 ハルは笑わなかった。


 ただ、健二が歩き始めるまで隣で待っていた。


     *


 午後の終わり、ミーシャは中庭に面した廊下で記録を整理していた。


 端末。


 水筒。


 金属製のカップ。


 首元には、まだアフガンスカーフがある。


 朝より緩く巻かれ、布の端が肩へ落ちていた。


 イネスが壁際へ立つ。


 軍服姿だった。


「話す必要はないと言いました」


 ミーシャは画面から顔を上げない。


「あなたが決めて、と言ったわ」


「話さないと決めました」


「分かった」


 イネスは動かなかった。


 返事だけをして、そこにいる。


 端末を打つ小さな音が廊下へ続く。


 中庭では、森川と安西が遮光布を畳んでいる。布が風を含み、低い音を立てた。


 一分。


 二分。


 ミーシャの指が止まる。


「JINは」


 イネスが顔を向けた。


「自分の物を、本当に人へ渡さないのですか」


「ほとんど渡さない」


「なぜですか」


「持っている物が少ないから」


 イネスは中庭へ目を向けた。


「服も、道具も、写真も。自分の物だと言えるもの自体が少なかった」


「執着しているようには見えません」


「執着しないようにしているのよ」


「同じでは?」


「違うわ」


 イネスがミーシャを見る。


「捨てることに慣れた人と、何も要らない人は違う」


 スカーフの端が肩から滑った。


 ミーシャは床へ落ちる前に受け止める。


「彼は実用品として渡しました」


「そうでしょうね」


「特別な意味は」


「言わないでしょうね」


「なら」


「意味がないことになる?」


 ミーシャは答えなかった。


 布を巻き直す。


 補修箇所を胸元へ置き、長い方を上着の内側へ入れる。


 直樹から教えられた巻き方だった。


 イネスは、その手順を見ている。


「それをもらって、嬉しかった?」


「防寒上、有効でした」


「それは性能」


「安全性も向上しました」


「それも性能」


「巻き込み事故を防止できます」


「ミーシャ」


 呼ばれ、指が止まる。


 イネスの声には、笑いがなかった。


「嬉しかった?」


 中庭から、布の端を合わせる掛け声が聞こえる。


 遠くで蓮が誰かを呼んだ。


 ミーシャはスカーフから手を離した。


「はい」


 小さな声だった。


「嬉しかったです」


 イネスは笑わなかった。


 ただ、短く頷いた。


「それでいい」


「何がですか」


「今の言葉」


「評価を求めていません」


「分かってる」


 イネスは壁から背を離す。


「次に聞かれた時は、任務を前へ立たせないで」


「誰にですか」


「自分に」


 それだけ言い、イネスは歩き出した。


 三歩進んだところで、ミーシャが呼び止める。


「イネス大尉」


「何?」


「今夜、オートバイの後部座席を使う予定がありますか」


 イネスの口元が少し上がった。


「JINが連れていってくれるなら」


「任務ですか」


「違うわ」


「そうですか」


「嫌?」


 ミーシャはスカーフへ手を伸ばしかけた。


 途中で止める。


「条件を確認しただけです」


「まだ任務が前にいるわね」


 イネスは、それ以上言わずに廊下を曲がった。


     *


 日が落ちる頃、直樹は校庭の端で偵察用オートバイを点検していた。


 車体は泥を落とされ、黒い金属が校庭灯の下で鈍く光っている。


 直樹が後輪を浮かせ、チェーンを一周させる。


 油の匂い。


 冷えた金属。


 工具が地面へ置かれる小さな音。


 健二は少し離れた場所で、翌日の搬送に使う車両の荷台を確認していた。


 ハルは積まれた毛布を数えている。


 めぐみは校舎の入口近く。


 ミーシャは、その数歩後ろに立っていた。


 アフガンスカーフを首へ巻いている。


 風は弱い。


 それでも、布の端が時々肩から浮いた。


 イネスが校舎から出てきた。


 濃い色の上着。


 動きやすいパンツ。


 片手には手袋。


「JIN」


「何だ」


「どこかへ連れていって」


「用は」


「ない」


「なら行かない」


「朝から校舎と紙しか見ていないわ」


「作戦前だ」


「だから少し走るのよ」


「歩け」


「遠くへ行きたい」


「車を使え」


「あなたの後ろがいい」


 直樹はチェーンを見たまま答えた。


「寒い」


「防寒具はある」


「夜道を見たい」


「明日、車で見ろ」


「今夜がいい」


「なぜ」


「退屈だから」


「理由になってない」


「私にはなる」


 イネスは後部座席へ手を置いた。


 直樹がその手を見る。


「十分」


「三十分」


「歩け」


「二十分」


「十五分」


「二十五分」


 直樹は工具を片付けた。


「十分」


「十五分でいいわ」


 予備のヘルメットを渡す。


 イネスは受け取り、後部座席へ跨がった。


 直樹の腰へ迷いなく両腕を回す。


 身体を寄せる。


 直樹は振り返らない。


「落ちるなよ」


「落とさないでしょう?」


「動くな」


「難しいわ」


「降りろ」


「動かない」


 エンジンがかかった。


 乾いた排気音が校庭へ広がる。


 ミーシャの手が、スカーフの端を握った。


 指の間から古い布が細くはみ出す。


 イネスがヘルメット越しに振り返った。


「この席、あなたが使っていたの?」


「反復訓練への移動時です」


「毎回?」


「必要な時です」


「腰へ腕を回して?」


「安全上、必要でした」


「今は任務じゃない」


「承知しています」


「なら、空席ね」


 イネスは直樹の背中へ頬を寄せた。


 ミーシャの指が布をさらに握る。


 エンジン音の中で、めぐみが横を向いた。


「前は、ミーシャが乗ってたんだよね」


「はい」


「任務で」


「はい」


「今も乗りたい?」


 ミーシャはバイクを見たまま答えた。


「任務上の必要はありません」


「それは聞いてない」


「条件が違います」


「乗りたいかを聞いたの」


 イネスの腕が直樹の腰へ回っている。


 直樹は、その接触を安全上必要なものとして扱っているように見えた。


 ミーシャの指が、補修された布の硬い部分へ触れる。


「乗りたいです」


 めぐみがミーシャを見る。


「任務じゃなくても?」


「はい」


 ミーシャは言い直さなかった。


「任務がなくても、乗りたかったです」


 バイクが動き始める。


 門へ向かう。


 めぐみの左手が身体の横で握られた。


 指輪の縁が掌へ触れている。


「私も嫌」


 ミーシャが顔を向ける。


「何がですか」


「イネスさんが、なおの後ろに乗るの」


「知っています」


「ミーシャも嫌なんだよね」


 ミーシャは、門を出ていく尾灯を見ていた。


「はい」


 返答は、先ほどより早かった。


「嫌です」


 めぐみの握っていた手が少し緩んだ。


 二人の肩は触れていない。


 同じ場所を譲り合ったわけでもない。


「帰ってきたら、言う?」


 めぐみが尋ねる。


 ミーシャは一度、いつもの言葉を探すように唇を開いた。


 必要性。


 運用。


 安全。


 そのどれも言わなかった。


「言います」


「私も言う」


 二人は門の外を見た。


     *


「止めなくてよかったんですか」


 ハルが、毛布を数え終えて言った。


「兄ちゃんを?」


「はい」


「止めても、行く時は行きます」


「めぐみさんたちは」


「帰ってきてから言うでしょう」


「怒りますか」


「たぶん」


 ハルは毛布の端を整えていた。


 数え終わっているのに、まだ両端を揃えている。


「嫌だと言ったら、次から呼ばれなくなることがあります」


 健二は荷台へ積んだ毛布を一枚持ち上げた。


「呼ばれなくても、ハルさんの分は積みますよ」


「何の分ですか」


「毛布でも、食事でも。必要になった方です」


「嫌だと言っても?」


「少なくとも、ここでハルさんの椅子を片づけたりはしません」


 ハルの手が止まった。


「全部の場所では?」


「全部は決められません」


「それでも、言っていいですか」


「言ってください」


 ハルは毛布から手を離した。


「今はありません」


「何が?」


「嫌なこと」


「そうですか」


「でも、あったら言います」


 健二は荷台の端へ腰を下ろした。


 ハルも、少し間を空けて隣へ座る。


 二人とも、もう数える物はなかった。


     *


 十五分を少し過ぎて、単気筒の音が戻ってきた。


 門の外へ灯りが現れる。


 イネスの腕は、出ていった時と同じように直樹の腰へ回っていた。


 バイクが校庭へ入り、直樹がエンジンを切る。


 急に静かになった。


 冷えた排気管が、小さく金属音を立てる。


「なお」


 めぐみが先に呼んだ。


「何だ」


「嫌だった」


 直樹はヘルメットを外しながら、めぐみを見る。


「何が」


「イネスさんを後ろに乗せたこと」


「そうか」


「それだけ?」


「何をすればいい」


 めぐみの唇が開く。


 すぐには言葉が出なかった。


「最初に、分かったって言って」


 直樹はヘルメットを車体へ置いた。


「分かった」


「次からは」


「乗せる前に聞く」


「私に?」


「ああ」


 ミーシャが一歩前へ出た。


「私にも聞いてください」


 直樹がミーシャを見る。


 首元のアフガンスカーフ。


 端末も、金属製カップも持っていない。


「なぜ」


 ミーシャの指が、スカーフへ伸びる。


 布へ触れる直前で止まった。


「私も嫌でした」


 夜の校庭へ、言葉が落ちる。


「以前は、私がその席を使っていました」


「任務でな」


「はい」


 ミーシャは一度息を吸った。


「でも、任務がなくても乗りたかったです」


 直樹の目が、ほんの少し動いた。


 驚いたというより、今まで提出されなかった報告を受け取った顔だった。


「分かった」


「次に任務外で走る時は、私にも乗るか聞いてください」


 直樹はめぐみを見る。


「めぐみは?」


「私は、なおと二人で行きたい」


「同時には無理だ」


「分かってる」


 ミーシャも言った。


「私も理解しています」


 二人は互いを見る。


 譲ったわけではない。


 順番も決めていない。


 ただ、自分が何を欲しがっているかを、相手の前で消さなかった。


 イネスがバイクから降りる。


「やっと主語が出たわね」


「あなたに評価される必要はありません」


 ミーシャが返す。


「知ってる」


「では、言わないでください」


「でも、嬉しいわ」


「なぜですか」


「そのスカーフを巻いた人が、防寒性能以外の話をしたから」


 ミーシャの手がスカーフへ伸びる。


 今度は握り締めず、布の端を上着の内側へ入れただけだった。


 直樹が工具箱を持ち上げる。


「戻るぞ」


「待って」


 イネスが直樹の横へ並ぶ。


「今夜のブリスケットは?」


「話し合う」


 めぐみが答えた。


「誰と?」


「四人で」


 イネスの眉が上がる。


「ミーシャも?」


「必要なら参加します」


「必要です」


 めぐみが即答した。


 ミーシャがめぐみを見る。


 めぐみは視線を外さない。


「一人だと、イネスさんに話をずらされるから」


「私は記録係ではありません」


「知ってる。でも来て」


 ミーシャは数秒黙った。


「分かりました」


 イネスは楽しそうに三人を見た。


「二日目で、ずいぶん進んだわね」


「あなたが進めたわけではありません」


 めぐみとミーシャの声が重なる。


 イネスは両手を上げた。


「まだ何も言っていないわ」


「顔で言っています」


 ミーシャが返した。


 直樹が先に校舎へ歩き始める。


 めぐみが隣へ並ぶ。


 少し遅れてミーシャ。


 イネスは最後に残り、健二とハルの方を見た。


「三日目は、もっと賑やかになりそうね」


「朝食だけは、静かにお願いします」


 健二が答えた。


「それは無理」


「でしょうね」


     *


 健二とハルは、荷台の端に並んだまま、その背中を見送った。


「戻ってきました」


 ハルが言った。


「はい」


「嫌だと言われても」


「はい」


「ミーシャさんも言えました」


「言いましたね」


「めぐみさんも消えませんでした」


 校舎の扉が閉じる。


 中から、イネスの笑い声が一度聞こえた。


 続いて、めぐみの声。


 ミーシャの短い返答。


 直樹は何も言っていないらしい。


「今夜も、職員室にいますか」


 ハルが尋ねた。


「食事表を書きます」


「用事がありますね」


「そのあとなら、ありません」


 ハルは荷台から降りた。


「では、そのあともいます」


 戻っていいかとは聞かなかった。


 許可も求めなかった。


 健二の隣を歩き始める。


 二人の影が、校庭灯の下で並んだ。


 後ろの席は一つしかない。


 同じ場所を欲しがる人間がいれば、誰かが選ばれ、誰かが残る。


 けれど、自分も乗りたいと言うことまで、諦める必要はない。


 校舎へ入る扉を、ハルが健二より先に開けた。


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