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第199話 七日分の朝

## 第199話 七日分の朝


 午前三時を回っても、職員室の蛍光灯は一本だけ消えずにいた。


 古い安定器が、天井の奥で低く唸っている。


 外に風はない。それでも、板で塞いだ窓の隙間から入った冷気が床を這い、机の下へ溜まっていた。


 健二は長机に食事表を広げ、翌朝の人数を鉛筆の先で追っていた。


 中原悠斗。


 宮原美月。


 笹原蓮。


 浅野悠太。


 佐伯千紘。


 高瀬陸。


 村瀬花音。


 小野寺颯太。


 子どもが八人。


 当直が二人。


 早番が三人。


 楢ノ沢館から戻る者が一人。


 朝一番で車を出す人間には、食堂ではなく持ち出しの印を付ける。


 一人増えれば、器が一つ増えるだけではない。


 鍋へ入れる水の高さが変わる。米をよそう順番が変わる。遅れて戻る人間の分は、先に食べた者が間違えて取らないよう、別の棚へ置かなければならない。


 健二は、直樹の欄で鉛筆を止めた。


 兄ちゃんは今夜、学校にいる。


 明日の朝もいる。


 そのつもりで、小さな丸を付ける。


 紙の上に、黒い輪が残った。


 健二は別の欄へ移ろうとして、もう一度その丸を見た。


 いるから書く。


 帰ると言ったから書く。


 それでも、朝になっても手を付けられなかった食事を知っている。


 鉛筆の木軸が、指の中で少し温くなっていた。


 廊下の向こうで床板が鳴った。


 一歩。


 間を置いて、もう一歩。


 足音は職員室の前で止まった。


 ノックはない。


 健二が顔を上げると、開いた扉の向こうにハルが立っていた。


 寝間着の上から薄い上着を羽織っている。後ろでまとめた髪から短い毛が落ち、頬の横へ張り付いていた。


 手には何も持っていない。


 書類も。


 洗濯籠も。


 鍵の束も。


「どうしました?」


「別に」


「眠れません?」


「眠れます」


「何か届いた?」


「届いていません」


「子どもたちは?」


「寝ています」


 健二は机の左右を見た。


 封筒は閉じてある。


 配給券も数え終わった。


 朝の担当表にも印が付いている。


 ハルに渡せる仕事は残っていなかった。


「なら、座れば」


 ハルの目が、向かいの椅子へ落ちた。


「用事はありません」


「俺も今は、朝飯の数を書いてるだけです」


「それは仕事です」


「見てても減らんですよ」


 健二は椅子を足で少し引いた。


 木の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。


 ハルはすぐには動かなかった。


 座るための理由を探しているように見えた。


 手伝う。


 確認する。


 見張る。


 書き写す。


 名前が付けば、その場所にいられる。


 終われば、自分から立ち上がる。


 健二は食事表へ目を戻したまま待った。


 やがて、椅子の脚がもう一度鳴った。


 ハルが向かいへ座る。


 二人の間に、翌朝の人数が並んでいた。


「朝飯、食べます?」


「はい」


「なら、人数に入れます」


「昨日も食べました」


「今日も食べるでしょう」


「たぶん」


「たぶんでも、作る量は決めんといかんです」


 健二が空いた欄へ鉛筆を置く。


 ハルは、その先を見た。


「まだ書いていません」


「今からです」


 一人分を書き足したところで、廊下の奥から別の足音が近づいてきた。


 速い。


 だが走ってはいない。


 えりが扉を開けた。


 片手に端末を持ち、上着を肩へ引っかけている。


「健二さん。ハルさんも来て」


 健二は鉛筆を置いた。


「何かあった?」


「北側から閉鎖回線」


「アレクセイ?」


「そう」


 ハルの両手が、膝の上で重なった。


 指先だけが、互いの爪を押している。


「兄ちゃんは?」


「もう入ってる。ミーシャとめぐも」


「相原さんは?」


「国境第三。学校には来てない」


 健二は食事表を閉じた。


 それならよかった。


 相原が学校にいれば、外の作戦まで校舎の中の出来事になる。


 ここで眠っている子どもたちと、国境の向こうへ入る人間が、同じ一枚の紙へ載ってしまう。


 外の任務を学校へ持ち込まないための人間は、外にいるべきだった。


 健二は鉛筆を食事表の上へ置き、ハルと一緒に立った。


     *


 臨時遠隔運用室は、元の放送室を改装してある。


 壁には遮音材。


 窓には厚い板。


 古い放送卓を取り外した跡へ、端末と無線機が並んでいる。


 扉を開けると、機器の熱と金属の匂いが鼻へ入った。


 小型の送風機が回り続けている。


 その音の中に、直樹は立っていた。


 暗いシャツ。


 暗いパンツ。


 上着は椅子の背へ掛けてある。


 めぐみは、その斜め後ろにいた。


 左手を机の端へ置いている。


 薬指の指輪へ、表示灯の白い光が当たった。


 大きな石はない。


 表面には焦げ跡と細かな傷が残っている。


 一度は死んだ男の遺留品として戻された金属を、生きて帰った兄が、もう一度めぐみの指へはめた。


 健二が見ても、二人は手を隠さなくなっていた。


 見せつけてもいない。


 説明もしない。


 そこにあることが、少しずつ普通になっている。


 ミーシャは端末の前へ座っていた。


 首元には古いアフガンスカーフが巻かれている。


 端は擦り切れ、補修した箇所だけが固い形を残していた。洗っても落ちなかった血や泥の染みが、白い表示灯の下では黒く沈んで見える。


 直樹が長く使っていた布。


 今はミーシャの物だ。


 端末の横には、金属製のカップ。


 水筒。


 細い充電ケーブル。


 健二が入ると、直樹が振り向いた。


「健二」


「兄ちゃん」


「ハルも座ってくれ」


 ハルは健二の隣へ座った。


 黒い画面へ、一本の白い線が走る。


 灰色の粒が一度広がり、その奥からアレクセイの顔が浮かんだ。


 背景には灰色の壁しかない。


「直樹」


「生きてるな」


「今は」


 ミーシャの指が、金属製カップの縁で止まった。


「時間を限定した返答は不要です」


「六時間後に確認しろ」


「確認します」


「今夜は死なない」


「今夜以外も確認します」


 アレクセイの口元が、わずかに動いた。


 笑ったのではない。


 ミーシャの言葉を、拒まなかっただけだった。


 視線が直樹へ戻る。


「家族を連れ出してほしい」


 直樹の返答は早かった。


「人数」


「確定十八。未確認七」


「子ども」


「六。未確認側に二人いる可能性がある」


「場所」


 箱根北東部の地図が表示された。


 境界線の北側。


 山の斜面に、古い保養施設と林業集落、閉鎖された宿泊区画が点在している。


 赤い印は三つ。


「一か所じゃないな」


「三群に分かれている」


「摘発は」


「八日後の夜明け前」


「使えるのは七日」


「そうだ」


「移送先」


「成人は思想再確認区画。子どもは教育管理施設」


 北日本再建評議会の内部文書が開いた。


 対象思想。


 和気道。


 その下へ赤い文字が並ぶ。


 非公認愛国教育。


 家族主義的地方結合。


 旧国家連続思想。


 愛国概念奪取活動。


 健二は文面を追った。


 長い。


 言葉を増やすほど、何をするつもりなのかが薄くなる。


 アレクセイが頁を送る。


 家族関係の再編成。


 未成年者の教育環境変更。


 旧家族依存の解消。


 生活名の再付与。


 ハルが画面を見たまま言った。


「第七と同じです」


 アレクセイの目が、ハルへ向く。


「どこが」


「急に家族を消すとは書きません」


 ハルの指が、膝の上で動いた。


 互いの爪を押していた指が離れ、今度は上着の裾を握る。


「生活環境を変える。教育を変える。本人が混乱しないように、別の呼び方を使う。親と子どもを別の場所へ運ぶ。そのあとで、元の名前を使わなくする」


「この計画も同じだと?」


「同じとは言いません」


「では」


 ハルは赤い文字を指した。


「旧家族依存の解消。この言葉が先にあるなら、家族を守るための移送ではありません」


 送風機の音が、急に大きく聞こえた。


 アレクセイは数秒、ハルを見た。


「そのとおりだ」


 健二が画面へ身を寄せる。


「親と子どもを、別の車へ乗せる?」


「そうなる」


「名前も変える?」


「可能性が高い」


 健二は資料の文字をもう一度見た。


 教育環境。


 依存の解消。


 再付与。


 誰も、泣くとは書いていない。


 親が子どもの名前を呼べなくなるとも書いていない。


「なら、書いてあることは長いけど、やることはそれだけですね」


「それだけで多くを壊せる」


 画面が切り替わった。


 暗い庭。


 五人の家族が、家の前へ立っている。


 両手を胸へ戻す。


 二度。


 左足から三歩。


 最後に後ろを見る。


 映像に音はない。


 窓から漏れる明かりが、身体の縁だけを薄く浮かべていた。


 子どもの手が、大人より少し遅れる。


 隣にいる女が腕の高さを下げ、子どもの動きに合わせた。


「武道ですか」


 健二が聞いた。


「武器は使わない」


 アレクセイが答える。


「家族の名前を確認する。家族が暮らす土地を確認する。その土地と人間が連なってできた国を確認する」


「政府は?」


 直樹が尋ねた。


「最後だ」


「家族、土地、国」


「政府は、それを守る限りにおいて従う対象になる」


 ミーシャが別の資料を拡大する。


「評議会への忠誠と、国家への帰属意識を切り離す思想として警戒されています」


「政府が家族を壊すなら、政府に従わない」


 アレクセイが続けた。


「中国側顧問団は、それを愛国概念の奪取と呼んでいる」


 健二は、映像の中の子どもを見た。


 もう一度、胸へ手を戻している。


「家族を好きで、住んどる所を好きで、それが国まで広がっただけでしょう」


「その順番が問題だ」


「逆にしたい?」


「評議会は、国家が地域を作り、地域が家族を教育すると考える」


「逆じゃないですか」


「和気道は、そう教える」


 家族。


 土地。


 国。


 最後に政府。


 旧南第三も、国から始まった場所ではない。


 寝る場所が必要な子どもがいた。


 飯を作る人間がいた。


 水を運ぶ人間がいた。


 それから学校になった。


 ハルが画面へ少し身体を寄せる。


「逃げる意思は確認できていますか」


「一部だけだ」


「全員ではない?」


「そうだ」


「では、連れ出すことを先に決めないでください」


 直樹が答えた。


「本人が拒否したら残す」


「摘発されると分かっていても?」


「本人の意思を勝手に変えない」


「子どもが逃げたいと言って、親が拒否した場合は?」


 直樹はすぐには答えなかった。


 視線だけが、地図の赤い印から映像の子どもへ移る。


「親の前だけで聞かない」


「親から引き離さないでください」


「声が届く所に置く」


「親が代わりに答えたら」


「子ども本人へ聞く」


「親を置いていけないから残ると言ったら?」


「言葉だけで決めない」


 直樹はハルを見る。


「確認の形を作ってくれ」


「私が?」


「第七で、答えを変えられた順番を知ってる」


 ハルの顔から、一度だけ血の気が引いた。


 上着の裾を握る指へ力が入る。


 健二は、その手を見た。


 大丈夫かと聞けば、ハルは大丈夫だと答える。


 できるかと聞けば、できると言う。


 だから聞かなかった。


 机の下で足を少し動かし、ハルの靴先へ触れる位置へ置く。


 ハルがこちらを見た。


 健二は頷いた。


「作ります」


 声は小さかった。


 それでも途中では切れなかった。


 画面には別の男が映った。


 窓辺。


 胸へ二度。


 左へ三歩。


 一人だけ、その場へ残る。


「家族分離」


 アレクセイが言った。


「三名は移動可能。一名は移動困難」


「大庭隊の映像か」


「そうだ」


「もう入ってるな」


「四度越境した。現在も一班が北側にいる」


「接触は」


「まだだ」


「情報だけか」


「今のところは」


 直樹が地図へ近づいた。


「大庭の隊だけでは抜けない理由」


「一人なら抜ける」


 アレクセイは、画面の外を確かめるように一度目を動かした。


「情報源一人。負傷者一人。その程度なら、隊の判断で連れ帰れる」


「二十五人は無理だ」


「家族を切らずに運ぶ訓練ではない」


 アレクセイの目が、直樹へ戻る。


「だから、お前たちが必要になる」


 任務要員案が表示された。


 原型任務教導隊初期訓練生。


 暫定資格。


 損失時再分類。


 直樹の顔から、わずかな動きが消えた。


「損失時再分類」


「死亡、拘束、行方不明の場合、民間協力者へ戻せる」


 壁際の表示が点滅した。


 国境第三から、音声だけの回線が開く。


『聞いている』


 相原だった。


 姿はない。


 学校にもいない。


「消せ」


 直樹の声は低かった。


『国境第三側では止めた。南雲へ上げる』


「今日中だ」


『訓練へ入る前に返す』


「死んだ時だけじゃない」


『拘束、行方不明も身分を維持する。公開記録と封印記録は分ける』


「補償」


『正式要員と同等で申請する。決裁は南雲だ』


「家族への説明」


『本人の同意後。拒否権も書く』


「お前の所で消すな」


『消さない』


「学校へ人を寄越すな」


『分かってる。俺は国境第三から動かない』


 音声が切れた。


 直樹は画面を見たまま動かなかった。


 怒鳴らない。


 机も叩かない。


 誰の名前を、どこへ残すかだけを確認している。


 生きている間は命令に使い、死んだ後は知らない人間に戻す。


 その一行を、兄は見逃さなかった。


 アレクセイが言う。


「大庭から七日間の説明が入る」


 ミーシャの指が、金属製カップへ戻った。


「次の接続は」


「六時間後」


「あなたは戻りますか」


「今夜は戻る」


「次も同じように答えてください」


「努力する」


「努力ではありません」


「約束はしない」


 ミーシャの指がカップを離れ、首元のスカーフへ移る。


 柔らかな部分が、指の間で細くなる。


 補修箇所だけは折れない。


 アレクセイの視線が、その布へ一度落ちた。


 何も言わない。


 それから、めぐみを見る。


「宮崎めぐみ」


「はい」


「直樹を帰せ」


 めぐみは左手を机へ置いたまま答えた。


「本人にも言ってください」


「直樹。帰れ」


「依頼か」


「そうだ」


「聞いた」


 画面が暗くなった。


 送風機の音が、部屋へ戻ってきた。


     *


 大庭との回線は十五分後に開いた。


 背後には箱根北側の地形図がある。


 大庭は椅子へ浅く座り、片方の袖を肘までまくっていた。


「夜中に悪いな」


「三行で言え」


「まだ一行目も言ってねえだろ」


「早くしろ」


 大庭は指を一本立てた。


「一。対象は最大二十五人」


 二本目。


「二。うちだけじゃ、家族のまま抜けない」


 三本目。


「三。原型任務教導隊へ援助を求める」


「日程」


 地図の横に、七つの枠が出た。


「今日から三日間、旧南第三で準備」


「三日全部か」


「ああ。生活者を含めた誘導を作る。戦闘訓練じゃない」


 大庭が一つ目の枠を指す。


「一日目。家族名簿、本人意思、受入順」


 二つ目。


「暗所誘導、搬送、家族が分かれた時の再集合」


 三つ目。


「総合確認。終わり次第、装備封印」


「四日目」


「学校を出る。国境第三で車両、記録媒体、補給を受領」


「五日目」


「前進拠点へ移動。先行班と合流して越境」


「六日目」


「三つの対象群へ接触。意思確認後、集合」


「七日目」


「西側へ脱出。夜明けまでに受入区画へ入れる」


「摘発まで」


「十二時間残る計算だ」


「余裕じゃないな」


「余裕と思った奴から外す」


 大庭の声から、普段の軽さが消えていた。


「八人は訓練生のまま出さない」


「任務限定要員で処理する」


「相原から聞いた」


「なら、俺からは言わん」


「先行班の接触は」


「お前らが来るまでしない」


「救出権限」


「ない」


「情報収集の越境権限だけか」


「ああ」


「発覚したら」


「北側は侵攻と呼ぶ」


「西側は」


「俺たちを知らないと言うかもしれん」


 大庭は笑わなかった。


「それでも行くかは、八人に一人ずつ聞け」


「分かってる」


「マッシー」


「何だ」


「お前一人への依頼じゃない」


「それも分かってる」


「説明役を送った」


「誰だ」


「もう着いてる」


「帰せ」


「本人に言え」


 扉の外で、硬い靴音が止まった。


 二度、ノック。


 えりが表示を確認する。


 扉脇の灯りが、赤から緑へ変わった。


「確認しました」


 解錠音が鳴る。


 扉が開いた。


     *


 女性は濃紺の軍服を着ていた。


 階級章は大尉。


 片手に資料鞄。


 もう片方には、金属製のタンブラー。


 暗い髪。


 鋭い目。


 口元には、部屋へ入る前から何かを見つけたような笑みがあった。


 女性は室内を見渡した。


 健二。


 ハル。


 めぐみ。


 ミーシャ。


 最後に直樹へ目を止める。


「JIN」


 直樹は驚かなかった。


 短く息を吐いただけだった。


「イネス」


 イネス・モローは、資料鞄とタンブラーを机へ置いた。


 そのまま直樹へ歩み寄る。


 歩幅は急いでいない。


 止められないことを知っている者の近づき方だった。


「本当に生きてる」


「見れば分かる」


「触らないと分からないわ」


 両手を直樹の肩へ置く。


 左頬へ顔を寄せる。


 直樹の反応は遅かった。


 唇が触れる直前になって、ようやく顎を引く。


 イネスの口元が、耳の下をかすめた。


「あら。少し速くなった」


「前にも避けた」


「十回に一回ね」


「覚えてない」


「私は覚えてる」


 イネスはそのまま、直樹の腕へ自分の腕を絡めた。


 身体の側面を寄せる。


 直樹は、すぐには外さなかった。


 健二は兄の顔を見る。


 照れてはいない。


 困ってもいない。


 また始まった、という顔だった。


「兄ちゃん」


「何だ」


「知り合い?」


「元上官の娘だ」


「それだけ?」


 イネスが直樹の肩へ頬を寄せる。


「父の家へ何度泊まった?」


「命令でな」


「食事も一緒だった」


「断れなかった」


「朝の礼拝にも来たわ」


「起こされた」


「休暇も」


「護衛だ」


「荷物も持ってくれた」


「持たされた」


「車も運転した」


「帰れと言われたら帰りたかった」


「父が気に入っていたのよ」


「接待に使うな」


 直樹は、自分から過去を説明しない。


 イネスが一つ出すたび、必要な部分だけを訂正する。


 それでも健二には、二人の間へ積もった年月が見えた。


 家の食卓。


 朝の礼拝。


 知らない家族の休暇に放り込まれ、荷物を持ち、運転席へ座らされた兄。


 めぐみが立った。


「なお」


 直樹が振り向く。


「近い」


 直樹は、そこでようやく自分の腕を見る。


 イネスが絡みついている。


 外そうと手を動かす前に、イネスがするりと腕を解いた。


 いい笑顔のまま半歩離れる。


 ただし、指先だけは直樹の袖へ残している。


 めぐみの視線がそこへ落ちた。


 イネスは指を離し、何事もなかったように机へ腰を預けた。


「始まったな」


 直樹が言った。


「何が?」


「いつもの遊びだ」


「昔より鈍くなっていないか確かめているの」


「昔から同じだ」


「今は周りが反応してくれる」


 ミーシャが尋ねた。


「すべて意図的ですか」


「ほとんど」


「恋愛感情があるのですか」


 イネスはすぐには答えなかった。


 直樹の上着の端を指でつまむ。


「その言葉は便利すぎるわね」


「否定しないのですか」


「今夜、JINと一晩同じベッドで寝ろと言われても、私は困らない」


 笑いはなかった。


 からかう声でもなかった。


 室内の空気が、ほんの少し止まった。


 ミーシャの指が、金属製カップの縁で動かなくなる。


 めぐみの左手が、机の端へ置かれる。


 指輪が白い光を返した。


 直樹だけが顔を変えない。


「俺が困る」


「知っている」


「なら言うな」


「本気と、奪うことは別でしょう?」


 イネスは直樹の上着から指を離した。


「私は困らない。あなたは嫌がる。だから何も起きない」


「説明するな」


「二人が聞いたから」


 めぐみの指が、机の縁をつかんだ。


「そういう言い方も嫌です」


 イネスはめぐみを見る。


 何も言わない。


 二歩下がる。


 次に直樹へ近づいた時には、触れず、その隣の机へ腰を預けた。


 謝らない。


 言い訳もしない。


 ただ、同じ線へは戻らない。


 口元の笑みだけを残し、爪を引っ込めた猫のように座り直した。


「説明を始めろ」


 直樹が言った。


「八人がまだでしょう?」


「朝にする」


「起こさないの?」


「七日ある」


「正解」


 イネスの声から、遊びが消えた。


 地図へ向き直る。


「今夜は中核要員だけで大枠を確定します。初期訓練生八名への正式説明は朝食後。参加意思は個別に確認」


 先ほどまで直樹へまとわりついていた女と、同じ人物には見えなかった。


「作戦は、境界で待つ任務ではありません」


 三つの赤い印を指す。


「北側へ入る。家族がいる場所へ行く。本人の意思を確認する。家族を分けず、西側まで連れ出す」


 経路を一つ表示する。


「大庭隊が先行し、監視と経路確認を行う。接触後は、直樹たちが家族単位を維持する」


「準備場所は学校だ」


 直樹が言った。


「武器と北側の詳細図は持ち込まない」


「同意します」


「戦闘手順は移動後」


「国境第三で行う」


「学校でやるのは」


「名前。家族。意思。順番。搬送」


 ハルが聞いた。


「子ども役は、子どもたちがするのですか」


「しない」


 直樹が答えた。


「初期訓練生と大人で代わる」


「子どもたちには?」


「避難訓練として必要な範囲だけ伝える」


 健二が言った。


「校舎全部は使いませんよ」


「生活区画を分ける」


「食堂と寝室は残す」


「ああ」


 イネスが健二を見る。


「あなたが学校側の動線を決めて」


「軍事的なことは分からんですよ」


「食事中の子どもを通路へ出さない。眠っている人の前で叫ばない。担架が角を曲がれるかを見る」


「それなら分かります」


「ハルは」


 イネスがハルへ目を移した。


「誰が、誰の代わりに答えたかを見て」


「名前も?」


「名前が変わった時も」


 ハルは頷いた。


 先ほどまで握っていた上着の裾から、指が離れていた。


「分かりました」


     *


 会議が終わったのは、午前五時前だった。


 大庭との回線が切れる。


 えりは記録を封印し、端末から記憶媒体を抜いた。


 ミーシャは金属製のカップと端末を持ち、自分の部屋へ戻る準備をした。


 首元のアフガンスカーフの長い方を、上着の内側へ入れる。


 直樹が資料をまとめ、扉へ向かおうとした。


 イネスは何も言わなかった。


 机へ置いていたタンブラーを取る。


 直樹の上着を胸元でつかむ。


「何だ」


 答えない。


 そのまま直樹を引き寄せる。


 タンブラーの蓋を開け、飲み口を口元へ押しつけた。


 直樹は、こぼさないために一口飲んだ。


 葡萄。


 柑橘の皮。


 舌の上で弾ける香辛料。


 温かさのあとに、薄いアルコールの苦味が残る。


 直樹がタンブラーを離した。


「酒か」


「Vin chaud」


「先に言え」


「言ったら飲まないでしょう」


「当たり前だ」


 イネスは満足そうに、自分も同じ飲み口から一口飲んだ。


「父の家の味」


「会議に持ってくるな」


「七日間の前祝い」


「まだ参加意思も聞いてない」


「だから一口」


 めぐみが二人の前へ来た。


「勝手に飲ませないでください」


 ミーシャも端末を持ったまま立つ。


「同意のない摂取は不適切です」


 二人の声が、ほとんど同じところで重なった。


 イネスの目が細くなる。


「二人とも、同じ時に来るのね」


「止める必要があります」


 ミーシャが答えた。


「なおに勝手なことをされるのは嫌です」


 めぐみも言った。


 イネスは直樹の上着を離した。


 タンブラーを閉じる。


「帰ってこなければ、静かになるのに」


 めぐみの指が、指輪の横で止まった。


「静かじゃなくていいです」


 言葉が出たあとで、めぐみ自身が少し息を止めた。


「帰ってきてほしい」


 イネスは何も答えず、ミーシャを見る。


 ミーシャは首元のスカーフを握った。


「越境要員は、全員が帰還予定です」


「全員?」


「はい」


 ミーシャは一度だけ直樹を見た。


「NAOも含みます」


 イネスは、それ以上聞かなかった。


 タンブラーを片手へ持ち替え、先に廊下へ出た。


 めぐみとミーシャは、互いを見た。


 今度はどちらも、すぐには目を逸らさなかった。


 仲良くなったわけではない。


 言いたいことも、欲しい場所も違う。


 ただ、同じ瞬間に、同じ男を帰還予定へ入れた。


     *


 健二は職員室へ戻ろうとした。


 時計は五時を過ぎている。


 朝食の準備を始めなければならない。


 ハルも後ろからついてくる。


 厨房へ向かう角で、イネスが先回りした。


「どこへ行くの?」


「朝飯です」


「寝なさい」


「でも」


「私が作る」


 健二はイネスを見る。


「子ども八人いますよ」


「知ってる」


「大人も」


「数えたわ」


「学校の厨房、使えます?」


「JINが知ってる」


 イネスは直樹の上着をつかんだ。


「俺を勝手に入れるな」


「父の家で朝食を何度作った?」


「お前が起きなかったからだ」


「上手でしょう?」


「普通だ」


「兄ちゃん、料理できると?」


「普通だ」


「それ、できる人の言い方ですよ」


 ハルが言った。


「私も手伝います」


「駄目」


 イネスは即答した。


「あなたは寝る」


「用事がありません」


「だから寝るの」


「でも」


「二人とも、最後に朝まで寝たのはいつ?」


 健二は答えられなかった。


 ハルも黙った。


 イネスは健二の肩を押し、職員用休憩室の方へ向けた。


 直樹へ触る時ほど近くない。


 ふざけてもいない。


「三日間、人を待つ準備をするのでしょう?」


「はい」


「なら最初に寝なさい」


 直樹が言った。


「健二」


「何?」


「寝ろ」


「兄ちゃんが朝飯作るなら、毎日寝るよ」


「三日だけだ」


 イネスが笑った。


「三日間は私たちが作るわ」


「決めるな」


「もう決めた」


     *


 健二が目を覚ました時、時計は八時半を過ぎていた。


 一度も途中で起きなかった。


 上体を起こしても、数秒は場所が分からなかった。


 職員用休憩室。


 畳んだ毛布。


 壁へ立てかけた折り畳み椅子。


 朝食。


 その言葉が浮かび、健二は立ち上がった。


 廊下へ出る。


 向かいの休憩室から、ハルも出てきた。


 髪の片側が少し潰れている。


 ハルは健二を見たあと、壁の時計を見た。


「寝すぎました」


「俺もです」


「朝食が終わっています」


 廊下の奥から、焼けたパンの匂いが流れてきた。


 溶けたチーズ。


 卵。


 温めた林檎。


 コーヒー。


 バターが鉄板へ落ちた時の、少し焦げた匂い。


 二人で食堂へ向かう。


 厨房の前まで来たところで、健二は足を止めた。


 直樹が鉄板の前に立っていた。


 黒いシャツの袖を肘まで上げている。


 その上から、白いエプロン。


 胸元。


 肩紐。


 裾。


 すべてに細かなフリルが付いていた。


 隣のイネスも、まったく同じ物を着ている。


 軍服ではない。


 身体へ沿う濃い色のニット。


 細身のパンツ。


 腰で結ばれた大きなリボン。


 胸元のフリルが前へ押し出され、細かなひだが必要以上に波打って見えた。


 健二は一度だけ見て、すぐに同じ格好をさせられた兄の方へ目を移した。


「兄ちゃん」


 直樹が顔を上げる。


「起きたか」


「何、その格好」


「こいつが持ってきた」


「何で二枚あるの?」


 イネスが嬉しそうに答えた。


「JINの分だから」


「最初から?」


「もちろん」


 直樹がホットサンドを返す。


 鉄板が小さく鳴った。


「捨てろ」


「もう着てるでしょう?」


「朝飯が終わったら脱ぐ」


「明日もあるわよ」


「燃やす」


 ハルが二人を見る。


「同じです」


「ペアルックよ」


 イネスが言った。


「違う」


 直樹が即座に否定する。


「同じ物を着ています」


「物理的にはな」


「それをペアルックと言うのでは?」


 イネスが直樹の背後へ回る。


 肩越しに鉄板を覗く。


 片腕を脇から伸ばし、取っ手へ手を重ねた。


「もう返していいわ」


「まだだ」


「焦げる」


「中が温まってない」


「昔より慎重ね」


「お前が具を入れすぎた」


「子どもは多い方が喜ぶわ」


「閉じなかった」


「あなたが押せば閉じる」


「料理を腕力で解決するな」


 イネスは直樹の背中へ頬を寄せた。


 直樹は鉄板から目を離さない。


 取っ手の端を持ち、火を少し弱める。


 食堂では、子どもたちがすでに食べていた。


 卵とチーズ。


 昨日の蒸し鶏と野菜。


 林檎と蜂蜜。


 温かいミルク。


 薄いココア。


 大人にはコーヒー。


 蓮が直樹のエプロンを見て、口元を膨らませている。


「蓮」


「何も言ってません」


「顔で言ってる」


「似合ってます」


「嘘をつくな」


 悠斗が空いた皿を重ねている。


 美月は林檎のホットサンドを半分に切っていた。


 颯太がエプロンの裾を目で追っている。


「直樹さん、それ女の人のじゃないの?」


「そうだ」


「着るんだ」


「着せられた」


「脱げばいいじゃん」


「料理中だ」


 蓮が吹き出した。


 直樹が見る。


 蓮はホットサンドへ顔を伏せる。


 厨房の入口近くには、めぐみが立っていた。


 ミーシャは食堂側にいる。


 金属製カップへコーヒーを入れ、首にはアフガンスカーフを巻いていた。


 イネスの指が直樹へ触れるたび、二人の視線が同じ場所へ動く。


 今度は、どちらも先に目を逸らさなかった。


 イネスが直樹の背中から離れた。


 今度は前へ回り、フリルの付いた胸元のリボンへ手を伸ばす。


「曲がってる」


「触るな」


「せっかく可愛いのに」


「要らない」


「私とお揃いよ」


「だから要らない」


 めぐみが厨房へ入った。


「イネスさん」


「何?」


「そこは近いです」


 イネスは手を止めた。


 直樹からは離れない。


 肩だけを軽く当てる。


「ここは?」


「それも近いです」


「調理に必要ありません」


 ミーシャの声が重なった。


 めぐみとミーシャが互いを見る。


「仲良しね」


 イネスが笑った。


「違います」


 二人の声が、また同時に出た。


 イネスは声を立てずに笑い、半歩だけ横へ移った。


 肩は離れる。


 それ以上は触れず、鉄板の反対側へ回った。


 止められた場所からは退く。


 ただし、そのすぐ外側にはいる。


「遊ぶなら出ろ」


 直樹が言った。


「働いているわ」


「具を食べてるだけだ」


「味見よ」


 イネスは切ったチーズを一枚取った。


 自分では食べず、直樹の口元へ差し出す。


 直樹は鉄板を見たまま顔をそらした。


「いらない」


「何も食べていないでしょう」


「あとで食べる」


「今」


 めぐみがイネスの手からチーズを取った。


 皿へ戻す。


「勝手に食べさせないでください」


「昨日のワインと同じ?」


「同じです」


 イネスの視線が、めぐみの左手へ落ちる。


 焦げ跡のある指輪。


 めぐみは手を隠さなかった。


「それ、JINが?」


「なおが、戻してくれました」


 めぐみは指輪を持ち上げない。


 鉄板の横へ立ったまま、イネスを見る。


「だから、なおの代わりに決めるつもりはありません。でも、嫌なことは嫌だと言います」


 イネスは数秒、指輪を見た。


 それから直樹へ目を移す。


「ずいぶん遠くまで戻ったのね」


「朝飯を運べ」


 直樹が皿を差し出した。


「命令?」


「仕事だ」


「それなら従うわ」


 イネスは皿を受け取った。


 去り際、直樹の肩へ寄ろうとしたが、めぐみとミーシャの視線を見て、そのまま食堂へ向かった。


 健二は、ハルと並んで厨房の入口に立っていた。


「兄ちゃん、人気ですね」


「やめろ」


「褒めてないよ」


 イネスが食堂から振り返る。


「健二。二人の皿はそこ」


 保温箱の中に、二枚の皿があった。


 ホットサンドが二種類ずつ。


 コーヒー。


 ハルの分には温かいミルク。


 ハルが皿を見る。


「私たちの分もあります」


「ありますよ」


「起きなかったのに」


 健二は皿を一枚取り、ハルへ渡した。


「最初から数えてたからです」


 ハルは両手で受け取った。


 温かさを確かめるように、親指を皿の縁へ置く。


「何もしていません」


「寝たでしょう」


「それは仕事ではありません」


「朝飯を食べるのも、仕事じゃないですよ」


 ハルは答えなかった。


 二人で長机へ座る。


 ホットサンドを割ると、湯気が出た。


 卵とチーズの匂い。


 パンの端は薄く焦げ、噛むと乾いた音がする。


 林檎の方は、熱い果汁が舌へ広がった。


 厨房では、同じフリルのエプロンを着た直樹とイネスが、次のパンを鉄板へ置いている。


 イネスが直樹へ寄ろうとする。


 めぐみが名前を呼ぶ。


 ミーシャが続ける。


 直樹は、また始まったという顔でパンを返す。


     *


 朝食後、えりが封印袋を多目的室へ持ってきた。


 南雲の署名。


 任務限定要員。


 死亡、拘束、行方不明の場合も身分を維持する。


 補償は正式要員と同等。


 拒否権を明記。


 直樹は袋から出した文書を読み、八人の名前を一つずつ確認した。


 田所遼。


 江藤沙月。


 芦田真希。


 安西冬馬。


 柴崎誠。


 御厨奈々。


 森川亮介。


 高城真帆。


「名前は合ってるか」


 八人が、それぞれ自分の欄を確認する。


 高城が最後まで文書を読んだ。


「公開記録では、訓練支援ですか」


「そうなる」


 えりが答えた。


「封印記録には越境任務と全員の氏名を残します。西側が関与を否定しても、あとから皆さんを民間協力者へ戻せないようにする」


「原本は」


「国際共同記録側にも保全します」


 柴崎が聞いた。


「決裁は確定ですか」


「確定しました」


 直樹は、全員の名前を見終えてから地図を開いた。


「北側への越境救出作戦だ」


 窓の外から、子どもたちの声が聞こえる。


 校庭で、蓮と陸が何かを言い合っていた。


 こちらの部屋の内容は知らない。


「準備三日。移動二日。接触と脱出に二日」


 イネスは軍服へ着替えていた。


 フリルのエプロンは、どこにもない。


「対象は確定十八名。最大二十五名」


 田所が尋ねる。


「子どもは」


「確定六名。さらに二名いる可能性があります」


 柴崎が言った。


「正式な救出権限は」


「ない」


 直樹が答えた。


「大庭隊が持つのは情報収集の越境権限だ」


 室内の空気が変わった。


 ペンを持つ指。


 膝の上へ置かれた手。


 それぞれが、わずかに動く。


 イネスが続ける。


「発覚すれば、北側は侵攻と呼ぶ。西側が関与を否定する可能性もあります」


 芦田が文書を見る。


「身分と補償は残る」


「残す」


 直樹が答えた。


「約束ではなく、記録で」


 高城が端末へ入力する。


「参加意思は、今ここで答えますか」


「答えなくていい」


 直樹は八人を見る。


「今日の準備へ参加したことは、作戦参加の同意にはしない」


「返答期限は」


 江藤が聞いた。


「今夜、一人ずつ聞く」


「撤回は」


「出発前までできる」


「北側へ入ったあと」


「戻れる場所までは戻す」


「戻れない場所では?」


 江藤の質問に、直樹はすぐには答えなかった。


「その状況を作らないために、三日使う」


 できない約束はしなかった。


 イネスが人数表を表示する。


「越境要員は十名」


 芦田が画面を見る。


「主任教官。イネス大尉。初期訓練生八名」


 自分を含め、一人ずつ数える。


「十名です」


「帰還予定も」


「十名」


「救出対象が増えても、こちらを減らさない」


「はい」


 イネスの手が、直樹の肩へ伸びかける。


 めぐみとミーシャの姿は多目的室にはない。


 それでもイネスは途中で手を曲げ、机の縁へ置いた。


「特に、主任教官を最初から帰還人数へ入れる」


「俺だけ別に扱うな」


「一番、勝手に減りそうな一人として扱っているだけ」


 安西の口元が少し動いた。


 直樹が見る。


「笑うな」


「笑ってません」


「顔で分かる」


 朝食時の蓮と同じことを言われ、安西は目を伏せた。


 肩だけが一度揺れた。


     *


 一日目の準備は、紙から始まった。


 多目的室の長机へ、仮の家族名簿が並べられる。


 家族名。


 本人名。


 現在の呼び名。


 本名を言えるか。


 言えないか。


 答えないか。


 家族代表の同意。


 本人の同意。


 移動可能。


 不明。


 健二は一枚目で手を止めた。


「これ、子どもの欄にも代表者同意の印が付いてます」


 江藤が端末を確認する。


「家族代表が同意した場合です」


「子ども本人へ聞くって話でしょう」


「親が同意すれば、移動準備は進められます」


 ハルが紙を引き寄せた。


「消してください」


 江藤がハルを見る。


「どこをですか」


「子どもの欄にある代表者同意」


「家族を分けないための記録です」


「親が行くと言えば、子どもも行くと決めたことになります」


「通常の移送では」


「通常ではありません」


 ハルの指が、印の上で止まった。


「親が怖がって、残ると言うかもしれません。子どもが親を置いていけなくて、同じ答えをするかもしれません」


「それでも家族は分けません」


「分けないことと、聞かないことは違います」


 紙をめくる音が止まった。


 ハルは声を荒らげていない。


 けれど、指の腹が紙へ白く押しつけられていた。


 江藤は端末へ目を落とす。


「家族同意と本人同意を分けます」


「本人が答えなければ?」


「保留」


「沈黙を拒否にしますか」


「いいえ」


「同意にも?」


「しません」


 ハルの指が紙から離れた。


「その欄なら使えます」


 健二は別の紙を取る。


「名前が言えない人は?」


「仮番号を付けます」


 高城が答えた。


「呼ぶ時も番号ですか」


 ハルが聞く。


「受入時に混乱を避けるためです」


「番号で呼ばないでください」


「では、どう識別しますか」


「本人が呼ばれてもいい名前を聞きます」


「答えなければ」


「空欄」


「空欄が複数あれば」


 健二は紙の余白へ線を引いた。


「家族一。大人二、子ども一。名前は空欄。毛布三。食器三」


 高城が健二の書いた文字を見る。


「物資側から識別する?」


「名前がなくても、寝る場所と飯は要るでしょう」


 健二は別の紙を取った。


「名前が分かったら、あとから書く」


「先に番号を固定しない?」


「受付の整理なら使っていい。でも、呼ぶ時は使わない」


 ハルが言った。


「番号を名前にしなければいいです」


 直樹が頷いた。


「それで作れ」


 午前の終わりには、名簿の形が変わっていた。


 家族代表の同意だけで、子どもの欄に印は付かない。


 沈黙は同意にも拒否にもならない。


 本名を言えない欄には、空白を残せる。


 仮番号は受付整理だけ。


 呼ぶ時は、本人が許した名か、家族との関係を使う。


 ハルは一枚ずつ確認していた。


 健二は、その隣で毛布と食器の数へ置き換えていく。


 空欄一つを残すだけで、午前が終わった。


     *


 夕方、八人は一人ずつ別室へ呼ばれた。


 参加する。


 保留する。


 断る。


 どの返答も、ほかの七人には聞こえない。


 健二は廊下の端で、受入用の毛布を数えていた。


 扉が開くたび、一人が出てくる。


 田所は口を結んだまま。


 江藤は自分の端末へ何も書かず。


 芦田は時計を見た。


 安西は廊下を曲がってから、一度だけ深く息を吐いた。


 柴崎は次に呼ばれる者へ何も言わなかった。


 御厨は水を一口飲んだ。


 森川は両手を握り、すぐに離した。


 高城は、自分の署名欄を最後まで見てから扉を閉めた。


 結果を知っているのは、直樹、イネス、えりだけだった。


 健二も聞かなかった。


 自分で選ぶための部屋なら、外から覗いてはいけない。


     *


 夜。


 一日目の準備が終わり、食堂の灯りが落とされた。


 健二は職員室で、翌朝の食事表を開いていた。


 向かいにはハルが座っている。


 今度は、用事がないとは言わなかった。


 直樹が廊下を通る。


 めぐみが、その後ろから来た。


「なお」


「何だ」


「今夜、私の部屋に来るよね」


「ああ」


 健二の鉛筆が止まりかけた。


 めぐみの声は普通だった。


 隠していない。


 説明もしていない。


 左手の指輪へ、廊下の灯りが触れる。


 直樹も否定しなかった。


 その後ろから、イネスが現れた。


 片手に翌朝の献立表。


 もう片方には、洗って乾かした二枚のフリル付きエプロンを抱えている。


「JIN。明日は四時」


「早い」


「トマトソースを作る」


「朝から?」


「マカロニも」


「今夜仕込め」


「一緒に?」


「お前がやれ」


「では、三時半に迎えに行く」


「来るな」


 イネスはめぐみを見る。


「JINは、どの部屋?」


 めぐみの目が細くなった。


「私の部屋です」


「では、そこへ」


「来ないでください」


 廊下の反対側から、ミーシャが来た。


 金属製カップと水筒を持っている。


 首元にはアフガンスカーフ。


「イネス大尉に、めぐみの部屋への入室権限はありません」


「直樹の部屋なら?」


「直樹在室時も、ノックと返答が必要です」


「面倒ね」


「必要な境界です」


 直樹が言った。


「俺の部屋で寝る」


 めぐみの手が、直樹の袖をつかんだ。


「何で?」


「三時半に起こされる」


「来ても入れなければいいでしょう」


「扉の前で騒ぐ」


「失礼ね」


「するだろ」


「少しだけ」


 めぐみは目を閉じた。


 指輪が直樹の袖へ触れ、小さな音を立てた。


「それ、私だけ損してる」


 直樹は答えなかった。


 言い返せない時の顔だった。


 イネスは、二枚のエプロンを胸へ抱いたまま笑っている。


「三日間だけよ」


「あなたが決めないでください」


 めぐみが言う。


「朝食は作ってもいいです」


 ミーシャが続ける。


「入室は別です」


「二人とも、分けるのが上手になったわね」


「あなたのせいです」


 めぐみとミーシャの声が、また重なった。


 二人は互いを見る。


 どちらも、すぐには目を逸らさなかった。


 直樹がイネスの腕からエプロンを一枚取った。


「明日は着ない」


「持っていくの?」


「隠す」


「もう一枚あるわ」


「両方寄越せ」


 イネスは自分の分を抱き締めた。


「これは私の」


「なら俺のだけ寄越せ」


「お揃いじゃなくなる」


「それが目的だ」


 イネスは心底残念そうな顔をした。


 けれど目だけは笑っていた。


 直樹は自分のエプロンを持ち、めぐみと一緒に廊下を戻っていく。


 ミーシャは二人の背中を見たあと、自分の部屋へ向かった。


 スカーフの長い端が、歩くたび背中で揺れる。


 イネスだけが職員室の前に残った。


「明日の朝、マカロニは何人分?」


「学校全員です」


「彼女も?」


 イネスがハルを見る。


 ハルは食事表へ目を落とした。


「明日の表にも、私の分はありますか」


 健二は顔を上げなかった。


 人数の欄には、すでに一人分が書かれている。


「最初から入ってますよ」


 ハルの指が、紙の端へ触れた。


 そこには役割も、担当も書かれていない。


 ただ、食べる人間の数として一人分がある。


 三日後に学校を出るのは十人。


 二日かけて北側へ入る。


 二日かけて家族を連れ帰る。


 七日後に戻る人数は、まだ分からない。


 それでも翌朝の欄には、用事のない人の分も入っていた。


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