第198話 追う者を残さない
##第198話 追う者を残さない
「遅い」
直樹はオートバイの脇に立ったまま、めぐみを見た。
言い返さなかった。
額の傷から流れた血が、眉の横で黒く固まり始めている。迷彩服の胸元には乾いた泥がこびりつき、左膝の生地が破れていた。
めぐみは立とうとした。
足へ力を入れる。
腰が少し浮き、また砂利へ落ちた。
直樹が歩いてくる。
右足。
左足。
どちらも地面を踏んでいる。
肩の高さも変わらない。
めぐみの前まで来ると、直樹は片膝をついた。
抱き寄せようとはしなかった。
めぐみが触れられる高さまで、自分の身体を下ろした。
めぐみは両手を伸ばした。
額。
頬。
顎。
首筋。
指先へ乾いた泥の粒が触れる。
頬は冷たい。
首には脈がある。
胸へ手を移す。
硬い布の下で、心臓が動いていた。
めぐみはその場所を一度叩いた。
直樹の身体がわずかに揺れた。
「帰ってくるって言ったでしょう」
「言った」
「何で、あなたはいつも最後になるの」
「八人を――」
「聞いてません」
直樹が口を閉じた。
また戦術を説明しようとした。
めぐみが聞きたいのは、誰を守ったかではない。
なぜいつも、自分だけを待つ側へ残すのかだった。
直樹の左袖が後ろへ引かれた。
ミーシャが立っている。
いつ近づいたのか、めぐみには分からなかった。
ミーシャは直樹の肘に近い部分をつかんでいた。
指先が白くなるほど強く握り、迷彩服へ深い皺を作っている。
直樹が振り向いた。
「ミーシャ」
「帰ったのですか」
「帰った」
「本当に?」
「ああ」
ミーシャは袖を離さなかった。
直樹も取り返そうとしない。
めぐみは直樹の胸へ手を置いたまま、ミーシャの指を見た。
離してとは言えなかった。
めぐみは布の内側を確かめている。
ミーシャは布の外側をつかんでいる。
二人とも、直樹が再び消えないようにしていた。
直樹の視線が、ミーシャの肩越しへ移った。
相良が正門の脇に立っている。
口元には乾き始めた血。
左頬が少し腫れていた。
「相良」
「オウ」
「その口は」
ミーシャの指へ、さらに力が入った。
「私が殴りました」
直樹の目が細くなる。
ミーシャが肩をすくめた。
袖は離さない。
直樹が立ち上がろうとした。
「後だ」
堀越が言った。
相良の隣から動かない。
「何があった」
「その話も後だ」
「堀越」
「まず感じろ」
堀越がミーシャを顎で示した。
「お前が戻らないと思って、こいつがどれだけ心配したか」
「殴ったこととは別だ」
「別だ。だから混ぜるな」
直樹と堀越の視線がぶつかった。
「今すぐ裁く顔をする前に、お前がこいつらへ何をしたか受け取れ」
めぐみの胸へ置かれていた直樹の手が止まった。
ミーシャは顔を伏せている。
直樹の袖にできた皺だけが深くなる。
相良が近づいた。
ミーシャの前で止まる。
「コウハイ」
ミーシャは顔を上げなかった。
相良の大きな手が頭へ載った。
指が髪の中へ入る。
そのまま左右へ、ぐしゃぐしゃと乱した。
「やめてください」
相良はやめなかった。
前髪を持ち上げ、後ろへ押し、最後に掌で頭頂を押さえる。
ミーシャがようやく相良を見た。
相良は血の付いた口元を歪めている。
笑ったようにも、痛がったようにも見えた。
拳を持ち上げる。
ミーシャの頭頂へ一つ落とした。
鈍い音がした。
「痛いです」
「ナグルナ」
相良は自分の腫れた頬を指した。
「オマエ‥‥モダ」
ミーシャの目が赤くなる。
「すみません」
「アトダ」
堀越がミーシャの肘へ手を添えた。
支えるというより、そこに立っていることを確かめる触れ方だった。
「謝るのも、倒れるのも、全部終わってからにしろ」
ミーシャは直樹の袖をつかんだまま頷いた。
えりが正門へ来た。
直樹の傷。
相良の頬。
ミーシャの乱れた髪。
堀越の手。
地面へ座っためぐみ。
一度に見た。
「最初に殴ったのは」
「私です」
「一回?」
「一回です」
「相良は」
「イッパツ」
相良が拳で自分の頭を示した。
えりは携帯端末へ入力する。
「双方一回。継続意思なし」
相良の口元を見る。
「外傷は御厨が確認。二人とも、ここで終わりでいい?」
「はい」
「オウ」
「処分なし。事実だけ記録する」
直樹が口を開く。
「あなたも後」
「まだ何も言ってない」
「言う顔をした」
えりは校舎を指した。
「先に負傷、保護対象、物資、敵情。感情の精算で夜を使うのは、その後」
直樹が立ち上がる。
めぐみの胸へ置かれていた手が離れた。
ミーシャの指は袖に残っている。
「歩ける?」
「歩ける」
「御厨に見せてから報告」
「先に――」
「見せてから」
直樹は黙った。
*
多目的室の机が、臨時の報告台になった。
回収した通行証。
車両別の記録。
江藤の通信箱。
柴崎の透明封筒。
相良が持ち帰った油布。
すべてが別々に置かれている。
御厨は直樹を椅子へ座らせた。
額の裂創を洗う。
消毒液が触れた瞬間、直樹の眉が動いた。
「痛いですか」
「沁みた」
「普通です」
御厨は破れた迷彩服の袖と膝を確認した。
肘。
掌。
膝。
脛。
転倒した時の浅い擦過傷がいくつもある。
左前腕には、金属か石の角へぶつけた細い裂創。皮膚は開いているが、深くはない。
「手を開いてください」
直樹が左右の手を開く。
「握って」
握る。
「腕を上げてください」
左右とも肩より上へ上がる。
「足首」
動かす。
「痺れは」
「ない」
「立ってください」
直樹が立つ。
御厨は歩幅と重心を見る。
「四肢に運動・感覚異常なし。擦過傷、裂創、軽い打撲。縫合が必要な深さではありません」
「終わりか」
「煙を吸っています」
「咳は止まった」
「今はです。水分を取ってください」
御厨はガーゼを額へ固定した。
「処置は終わりです」
直樹が席を立とうとする。
「座って報告してください」
「分かった」
御厨が離れる。
直樹の左袖は、まだミーシャがつかんでいた。
報告台まで一緒に歩いてきて、椅子の横に立っている。
えりがその手を見た。
何も言わなかった。
「田所。味方側」
「はい」
田所が記録用紙を開いた。
声は少し掠れていたが、言葉は止まらなかった。
「出発十一名。教育隊八名、教官三名。帰還十一名。死者、行方不明者なし」
めぐみは壁際に立っている。
十一という数字を聞き、胸の奥で息を吐いた。
「教育隊、宮浦が左上腕を負傷。標識片による裂傷です。御厨さんの処置を受け、指の運動と感覚に異常なし」
宮浦が包帯を巻いた腕を胸の前へ支えている。
「ほか七名、戦闘による負傷なし。擦過傷と軽い打撲が数名」
「教官側」
「真柴さんは擦過傷、裂創、軽い打撲。四肢に異常なし。相良さんの口内の傷は帰還後のものです」
相良が露骨に嫌そうな顔をした。
ミーシャはさらに俯く。
堀越が相良の肩を軽く叩いた。
田所は続ける。
「車両二台、帰還。小型ジープは銃座のミニミ本体を喪失。中型トラックは右側面に接触痕。自走可能です」
「保護対象」
「子ども四名。成人女性二名、高齢男性一名。全員、校内で保護確認済み」
「武装者」
「武器を分離し、監視下に置いています。聴取はまだです」
「物資」
芦田が答える。
「医薬品は温度管理を維持しています。点滴、抗菌薬、鎮痛薬、インスリン、縫合用品、包帯類。箱ごとの数量は再確認中です」
「柴崎」
「車両A、車両B、回収班の記録は分離済みです。同一行政印が使われていますが、発行経路は未確認。通行証の番号列に不自然な重複があります」
「江藤」
「通信断までの音声と時刻を保存しました。別地点でも、同一印の通行証が増えているという報告があります」
えりが端末へ記録する。
「成果と損失を分ける」
紙を二枚並べた。
「成果」
田所が一度息を吸う。
「保護対象七名の確保。医薬品の回収。車両別の証言と通行証の分離。同一行政印の不正使用を確認。未記入の身分証用紙、印型、小銃部品、暗号基板を現認。灰色の男と外部回収班の連動を確認」
「損失」
「黒い封印箱を奪われました。ミニミ本体を現地へ残置。弾薬を消費。回収班と斜面の射手を取り逃がしました」
相良が油布を机へ置いた。
布の中で金属が鳴る。
えりが開く。
ガイドロッドに巻かれた、油の黒いリコイルスプリング一式が現れた。
「ミニミの作動部?」
「そうだ」
直樹が答えた。
「本体は」
「現地へ残した」
「無力化は」
「作動部を抜いた。そのままでは使えない」
相良が油布を自分の方へ引いた。
「オレノダ」
「借り物だ」
「カエセ」
「本体は無理だ」
相良の鼻に皺が寄る。
油布を包み直し、胸へ抱えた。
堀越が横から覗く。
「中身だけ帰ったな」
相良が睨んだ。
口を開きかけ、やめる。
眉間の皺だけが深くなる。
堀越が口元を曲げた。
直樹は地図を引き寄せた。
「箱を積んだ車両は東へ抜けた」
部屋の空気が戻る。
全員の目が地図へ集まった。
「追跡は二つに分かれた。箱を運ぶ車両と、帰路を見る人間」
「確認できた人数」
えりが聞いた。
「地上で四。斜面に最低一。回収時に見えた人数と合わない」
「逃げた可能性は」
「箱を持った連中は逃げた」
直樹の指が、確認所から東へ伸びる道をなぞる。
「こっちは違う」
指が北東斜面へ移る。
「車列が出た後も斜面を並行していた。俺が撃った後、一度離れたが、学校側へ回る尾根に入った」
江藤が小型端末を開いた。
「旧中継器の振動反応が一つ入りました」
「場所」
「旧林道の北側です」
地図へ印を置く。
堀越が身を乗り出した。
「逃げる方向じゃない」
「ああ」
「尾根の先は」
片桐が地図へ指を置く。
「旧砂防監視所です。屋根は落ちていますが、南第三まで見通せます」
えりが顔を上げた。
「位置を見られたら」
「後続へ座標を渡せる」
直樹が答える。
田所が椅子から腰を浮かせた。
「追跡班ですか」
「可能性が高い」
「まだ任務は終わっていない?」
「逃げたなら終われる」
直樹が地図から目を上げた。
「追ってくるなら、終わってない」
堀越が机へ両手をついた。
「俺が指揮する。三人で行く」
田所が立つ。
「自分たちも行きます」
「却下だ」
直樹が即座に返した。
「主任教官を一人残して帰りました。次は――」
「だから行かない」
「しかし」
「今日、お前たちは人を帰した」
直樹は八人を見た。
「次は、戻った後に自分へ何が残ったか確認しろ」
安西の顎が硬くなる。
宮浦は包帯の上へ右手を置いている。
片桐の右足が、床の上で細かく動いていた。
江藤は通信箱の角を何度も撫でている。
芦田は子どものいる廊下へ視線を送る。
田所だけが、まだ地図を見ていた。
「戦った後に平気な顔をする訓練はしていない」
直樹が言った。
「何が残ったかを見るのも任務だ」
ミーシャが袖を引いた。
「私も行きます」
直樹はつかまれた布を見る。
「駄目だ」
「左側が必要です」
「今日は置かない」
「相良さんの件ですか」
「相良の件は終わった」
ミーシャが顔を上げる。
「今のお前を前へ出せない」
「罰ですか」
「任務判断だ」
直樹は袖を振り払わなかった。
「俺が戻らないと思った時、お前は自分で止まれなかった。今、武器と他人の命は預けられない」
ミーシャの指が固くなる。
それでも反論はしなかった。
えりが用紙を一枚取り出す。
教育隊八人の名前が並んでいた。
「待機だけではない」
ミーシャへ渡す。
「八人のストレス確認」
「私が?」
「診断はしない。食事、震え、音への反応、過度な警戒、沈黙、自責、同じ場面の反復。聞いて、記録して、御厨へつなぐ」
ミーシャが用紙を見る。
「一人にしない方がいい人間も分ける」
「了解しました」
「九人目も」
ミーシャが顔を上げた。
「誰ですか」
「あなた」
えりは淡々と言った。
「一番先に確認して」
相良がミーシャの乱れた頭を、もう一度押さえる。
「コウハイ」
「何ですか」
「ミトケ」
相良は教育隊を指した。
「了解しました」
「メシクエ」
「今度は全部食べます」
相良が満足そうに顎を上げた。
*
装備庫の奥に、長い樹脂製ケースが置かれていた。
元銃砲店の保管庫から運ばれてきた物だった。
堀越が棚から引き出す。
留め金を外す。
黒い樹脂製銃床のボルトアクションライフルが収められていた。
機関部に豊和の刻印。
銃床の内側には、銃砲店で使われていた白い管理番号が半分残っている。
銃身の上には、三倍から十八倍まで変えられる可変倍率スコープ。
外筒には細かな擦り傷が走っていた。
「それを使うのか」
直樹が聞いた。
「今回は俺が上から動かす」
堀越はHowa M1500を持ち上げた。
重さと均衡を確かめる。
「前の二人に全体は見えない」
相良がケースを覗き込む。
「フルイ」
「お前より若い」
「ウソダ」
相良の顔が露骨に歪んだ。
直樹がスコープを覗く。
倍率環を低い位置へ戻した。
「山の中だ。上げすぎるな」
「分かってる」
「弾は」
「専用箱に二十」
堀越は短く答えた。
三人が同じ武器を持たない。
直樹と相良は八九式小銃。
堀越はM1500。
近い場所を二人が見る。
遠い場所と、二人の見えない場所を堀越が見る。
江藤が小型無人機を机へ置いた。
「可視光カメラは故障しています」
「赤外線だけでいい」
堀越が答えた。
「顔も服も見えません。木の下へ入ると反応も切れます」
「熱だけで撃たない」
「はい」
「俺が確認する」
江藤は送信機を確認した。
「映像は学校と富士川側へ同時送信します。久世一尉が監視に入ります」
直樹が腕時計を見る。
「十分で出る」
相良は八九式小銃の負い紐を調整する。
堀越は専用弾をケースから取り出した。
直樹は地図を畳む。
めぐみは装備庫の入口に立っていた。
何も言わない。
直樹が二人を見る。
「先に出てくれ」
堀越はめぐみを見る。
次に直樹を見る。
「五分で来い」
相良が直樹とめぐみを交互に見た。
口を開きかける。
堀越が襟をつかみ、外へ引いた。
「お前は来い」
「ナンダ」
「顔がうるさい」
相良はさらに不満そうな顔になった。
二人が出ていく。
江藤も送信機を持って続く。
装備庫に、直樹とめぐみだけが残った。
外の足音が遠ざかる。
直樹は装備台へ八九式小銃を置いた。
めぐみの前まで歩く。
「悪かった」
めぐみは答えない。
「何が?」
「帰ると言って、残った」
「また行くんでしょう」
「ああ」
「謝った直後に?」
「ああ」
めぐみの目が細くなる。
「何を謝ってるのか、本当に分かってる?」
「約束だけ渡して、自分で破った」
「理由を言えば許されると思ってない?」
「思ってない」
「でも行く」
「追ってる人間がいる」
「分かってる」
めぐみの声が震えた。
「分かってるから、嫌だって言えないのが一番嫌なの」
直樹は黙った。
めぐみの指が、自分の服の裾をつかむ。
「私が行くなって言ったら、行かない?」
直樹はすぐに答えなかった。
その間だけで、答えは分かった。
「行くんでしょう」
「ああ」
「最低」
「ああ」
直樹は否定しなかった。
「だから、今回は消えない」
めぐみが顔を上げる。
「どういう意味?」
「位置情報を学校へ出す。無線が落ちても、江藤の画面に帰路を残す」
「ずっと?」
「戻るまで切らない」
「敵に拾われたら」
「閉鎖回線だ。堀越と学校にしか見えない」
「それで、四年前みたいにならない?」
「ならない」
めぐみは笑わなかった。
直樹から目もそらさなかった。
「それで補ったつもり?」
「足りない」
「分かってるんですね」
「ああ」
直樹はめぐみの右手を取った。
自分の胸へ置く。
迷彩服の下で心臓が動いている。
「日付が変わる前に戻る」
「また約束?」
「今回は帰る線も渡す」
「その後は?」
「朝までそばにいる」
「私の部屋?」
「ああ」
「途中で運用室に呼ばれても?」
「行かない」
「眠れなくても?」
「いる」
「何もしなくていい?」
「ああ」
「ただ、いる?」
「ああ」
めぐみの指が迷彩服をつかんだ。
直樹が自分から腕を回す。
短く抱き寄せた。
めぐみの頬が胸へ当たる。
乾いた泥。
消毒液。
煙。
その下に直樹の体温があった。
めぐみは両腕を背中へ回さなかった。
胸元の布だけを握った。
「二回目の『遅い』は言わせないで」
「分かった」
「今日もう一回言ったら、許さない」
「分かった」
「絶対?」
「戻る」
めぐみは目を閉じた。
一呼吸分だけ、直樹の胸へ額を預ける。
それから自分で離れた。
「行ってらっしゃい」
「行ってくる」
*
三人は旧林道の手前で車両を降りた。
そこから先は徒歩だった。
西には学校。
東には、黒い封印箱を運んだ車両の逃走路。
北側には杉林の尾根が延び、その先に旧砂防監視所がある。
屋根は落ちている。
しかし、そこまで上がれば南第三の校舎と正門を見下ろせた。
追跡者が監視所へ到達し、後続へ位置を送れば、学校はもう隠れた場所ではなくなる。
ドローンの残り飛行時間は九分。
監視所まで、急げば六分。
選べる時間は三分しかなかった。
夕方の青い暗さが、杉の幹の間へ溜まっている。
雨の残った土から冷気が上がっていた。
下には枯れた水路。
中央には旧林道。
上には杉林と崩れかけた作業道。
三本の道が、監視所の手前で一つになる。
堀越は旧採石場の岩棚へ上がった。
直樹と相良より八十メートルほど高い。
そこからなら、林道と水路の一部、作業道の切れ目が見える。
すべては見えない。
だから無人機を使う。
堀越は岩へ腹をつけ、M1500の銃床を肩へ入れた。
可変倍率スコープを三倍へ落とす。
右側に小さな受信端末を置いた。
赤外線映像では、地面と木々が濃い灰色に沈んでいる。
熱を持つ物だけが白い。
四つ。
一つが水路を先行している。
二つが林道と作業道を並行して進む。
最後の一つは、尾根の途中で停止していた。
顔は見えない。
服装も分からない。
武器も分からない。
杉の枝が重なるたび、白い人影は欠け、途切れ、別の場所から現れる。
堀越はスコープへ目を移した。
水路の割れたコンクリート。
林道へ倒れた杉。
錆びた排水管。
白い熱源が次に姿を出す場所を、一つずつ実景へ重ねた。
前方では、直樹と相良が林道脇に伏せている。
二人とも堀越を振り返った。
相良は目を大きく見開き、四本の指を出す。
直樹は眉間へ皺を寄せた。
分かっている。
堀越は片眉を上げた。
うるさい。
開放無線は使わない。
声を出せば、斜面へ位置が広がる。
堀越が送れるのは、二人の手首へ届く短い振動だけだった。
一回。
止まれ。
二人が同時に動きを消した。
直樹の頬が湿った土へ近づく。
相良の肩から力が抜ける。
さきほどまで二人だった場所に、木の根と泥だけが残った。
静かな相良は、普段より身体の輪郭が薄かった。
呼吸の動きすら見えない。
直樹が相良を横目で見る。
視線だけで右の杉林を示した。
相良の片方の眉が上がる。
俺が右か。
直樹が小さく顎を動かす。
相良の口元が歪む。
不満そうだが、身体はすでに右へ向いていた。
堀越が二度、振動を送る。
動け。
相良が杉の根元へ滑り込んだ。
音はしない。
枯れ枝を手の甲で押さえ、足を置く場所だけを選び、右の斜面へ消える。
直樹は反対に、林道へ身体を出した。
腰を高くする。
わざと足を置いた。
小石が一つ、乾いた水路へ落ちる。
硬い音が二度跳ねた。
水路を先行していた男が振り向いた。
黒い帽子。
胸の前に短い小銃。
肩から無線機。
男の銃口が直樹へ向いた。
堀越は撃たない。
照準の中で直樹の肩と男の胸が重なる。
ここで撃てば、弾道の先に直樹が入る。
男が安全装置へ触れた。
銃床が肩へ上がる。
直樹は逃げない。
目だけを右へ動かした。
杉の陰から、相良の顔が現れた。
歯を見せている。
早い。
直樹の目が細くなる。
相良の眉がさらに上がった。
遅い。
男の指が引き金へ入る。
相良が動いた。
背後から左腕を巻き取る。
銃口が空へ跳ねた。
発砲音が杉林を叩く。
鳥の群れが暗い枝の上から飛び立った。
相良は男の重心へ腰を入れ、身体を水路の縁へ落とした。
男の背中がコンクリートへ当たる。
肺から空気が漏れる音。
小銃が手を離れた。
相良は銃を蹴り、男の首筋へ腕を当てた。
抵抗が止まるまで三秒。
首から無線機を引き抜く。
背面の電池を外し、水路の反対側へ投げた。
男の両手を後ろへ回し、結束帯で束ねる。
直樹はもう見ていなかった。
二つ目の熱源が銃声へ反応した。
林道上の倒木から、男が半身を出す。
直樹が水路へ飛び込んだ。
膝までの深さしかない。
靴底が乾いた落ち葉を擦り、腐った水の臭いが立った。
銃弾が水路の縁を削った。
砕けたコンクリート片が直樹の頬へ当たる。
口の中へ白い粉が入った。
石灰と血の味がした。
相良が一人目から離れる。
今度は隠れない。
林道へ飛び出した。
枝を肩で払い、斜面を横へ走る。
靴が土を蹴る。
男の銃口が相良へ移った。
相良はそれを見て、歯をむき出した。
来い。
連続した銃声。
杉の皮が弾けた。
湿った木屑が相良の首筋へ貼りつく。
相良は倒木の向こうへ滑り込む。
顔だけを上げた。
撃ってきた男へ、露骨に不愉快そうな顔を向ける。
もっと右だ。
直樹は水路の中を進んでいた。
相良の足音と銃声が、直樹の靴音を消す。
男の視線は相良へ固定されている。
直樹が割れた排水管の陰から上がる。
男の左側。
距離は十数歩。
男は小銃を持っている。
相良へ向けて発砲を続けている。
直樹は警告しなかった。
八九式が一度だけ鳴った。
男の胸が後ろへ折れる。
身体が倒木へぶつかった。
小銃が枝へ引っかかり、男だけが土へ落ちる。
火薬の臭いが杉の樹脂へ混じった。
直樹の銃口は、倒れた男を追わなかった。
すぐに林道の奥へ移る。
まだ動く影を探している。
相良が立ち上がった。
両腕を広げ、直樹を見る。
俺が引きつけた。
直樹は肩をすくめた。
知っている。
相良が鼻に皺を寄せる。
感謝が足りない。
直樹は次を見ろと顎を振った。
二人の間で、声のない口論が続いている。
堀越の端末で、三つ目の熱源が大きく外へ回った。
林道でも水路でもない。
杉林の上側。
直樹と相良の背後へ向かっている。
堀越は赤外線映像からスコープへ目を移した。
三倍。
杉の幹が何本も視界を横切る。
四倍へ上げる。
倒れた木。
濡れた岩。
男の肩が一瞬だけ出た。
長い銃を持っている。
男は直樹たちを見下ろせる位置へ膝をついた。
堀越は銃床を肩へ押し込む。
頬を当てる。
スコープの中で、直樹と相良は見えない。
男だけが見える。
男の銃口が水路へ向いた。
直樹の背中が、その先にある。
堀越の呼吸が止まる。
照準が男の胸へ収まった。
指へ重さが返る。
発砲。
銃床が肩へ短く跳ねた。
乾いた音が谷を渡る。
男の上体が後ろへ折れ、杉の幹の陰へ消えた。
堀越はスコープを外さない。
ボルトを上げる。
引く。
熱を持った薬莢が岩へ落ち、高い音を立てた。
次弾を送る。
前方で直樹と相良が同時に伏せた。
二人とも堀越のいる岩棚を見上げる。
相良は目を見開き、口を大きく開けていた。
驚かせるな。
堀越はスコープ越しに片眉を上げた。
背中を見ていなかった方が悪い。
見えるはずのない距離だった。
それでも相良の顔が、さらに腹立たしそうに歪む。
直樹は相良を見た。
口元だけを少し曲げる。
相良が両手を広げた。
お前も見ていなかっただろう。
直樹は無視した。
*
南第三の臨時運用室では、赤外線映像が折り畳み表示へ映っていた。
木々の間に、白い熱源が六つ浮いている。
動いている味方が二つ。
追跡者が四つ。
そのうち三つは、すでに移動を止めていた。
映像の右端には、赤外線とは別の緑の点がある。
直樹の胸元にある発信器。
木の下で熱源が欠けても、緑の点だけは水路沿いに残っている。
めぐみは画面の前から動かなかった。
「なおの反応は」
「継続しています」
江藤が答えた。
「堀越さんと相良さんも、位置情報に異常ありません」
めぐみは頷かなかった。
緑の点から目を離さない。
画面の端に、ドローンの残り時間が表示されていた。
「五分を切ります」
江藤が操縦器を握り直す。
「風が強くなっています。電池の減りが予定より早いです」
富士川側から接続された閉鎖回線に、久世の声が入った。
『一人目は相良が取ったか』
「組みついて制圧しました。生体反応は残っています」
『触れられる位置へ入ったからだ』
ミーシャは教育隊の確認用紙を持ったまま、画面を見ていた。
用紙の最初には、自分の名前がある。
「二人目は、NAOが撃ちました」
『銃口が相良へ向いていた』
「警告はありませんでした」
『する場面じゃない』
久世の声は低かった。
『相良は、銃を持つ腕を完全に取れた。だから組んだ。真柴は違う。相手が銃を持ち、味方へ撃っていた。あいつの中では、そこで判断が終わっている』
「殺す判断ですか」
『味方を撃たせない判断だ』
画面上の緑の点が少し動く。
めぐみの指が机の縁へ食い込んだ。
『自衛官の教則だけで、ああはならない』
久世が続ける。
『制圧できる距離と、迷えば味方が死ぬ距離を、身体が先に分けている。日本の外で作られた感覚だ』
ミーシャの指が用紙の端を強くつかんだ。
「NAOは、武器を捨てた相手には撃ちません」
『ああ。逃げる相手も追わない。だが、銃口か刃が味方へ向いた後に、もう一度確かめたりはしない』
えりがミーシャの手を見る。
「息」
ミーシャが息を吸った。
「吐いて」
長く吐く。
「自分の欄。手の震え、あり」
ミーシャは用紙へ記入した。
画面から目を離さなかった。
*
堀越は赤外線端末へ目を戻した。
最後の熱源が尾根を下っている。
東側。
学校とは反対方向。
距離が開く。
堀越は引き金から指を外した。
逃げるなら終われる。
それが、三人の間で決めている線だった。
武器を捨てる。
学校と反対へ離れる。
後続を呼ばない。
それなら追わない。
直樹と相良も動かなかった。
相良は拘束した男から小銃を離し、弾倉を抜く。
直樹は倒れた二人の武器を蹴り分けた。
無線機を外す。
電池を抜く。
通信能力と再行動の可能性を一つずつ消していく。
最後の熱源が遠ざかる。
六十メートル。
七十。
そこで止まった。
堀越の目が細くなる。
白い人影が膝をつく。
胸元から長方形の物を出した。
腕が顔の横へ上がる。
無線機。
身体の向きが変わった。
東ではない。
旧砂防監視所へ続く尾根。
堀越は手首の送信器を押した。
長く一回。
危険。
直樹と相良が同時に顔を上げる。
次に短く二回。
北。
相良が直樹の肩を叩き、監。
相良が直樹の肩を叩き、監視所の方角を指した。
直樹の眉が上がる。
逃げていない。
位置を送ろうとしている。
ドローンの残り時間は四分。
男が監視所の尾根へ入れば、杉の枝が赤外線映像を切る。
堀越の位置からも、崩れた石壁が射線を遮る。
撃てる場所は、男が尾根の切れ目を横切る数秒だけだった。
直樹と相良がその場所へ着く方が早いか。
男が監視所へ入る方が早いか。
選択肢が一つずつ消えていく。
直樹が走れば、音で男が気づく。
相良だけを走らせれば、男の銃口が一人へ集中する。
堀越が今撃てば、石壁へ当たる。
三人が止まれば、学校の位置が渡る。
堀越は振動を送った。
相良、動。
直樹、静。
相良が林道へ飛び出した。
隠れる気のない走りだった。
斜面を蹴る。
枝を払い、監視所へ向かって一直線に上がる。
男が振り向いた。
無線機を胸へ押し込み、小銃を上げる。
相良へ銃口が向く。
直樹は動かない。
水路の陰で、男の視界から消えている。
銃声。
相良の横で土が跳ねた。
二発目。
杉の幹が裂け、白い木肌が露出する。
相良は倒れたように身を沈めた。
男が一歩、監視所側へ下がる。
直樹が動いた。
枯れた水路の中を走る。
低いコンクリート壁が身体を隠す。
相良の発砲音が、直樹の足音を消した。
相良は倒れていない。
膝をついた姿勢から短く撃ち返し、男の顔を石壁の向こうへ押し戻す。
男の視線が相良へ固定される。
直樹が水路の終わりへ達した。
壁へ左手をつく。
身体を上げる。
男の背後まで二十歩。
相良が直樹を見た。
直樹の顔が、水路の縁から半分だけ出ている。
相良の目が大きくなる。
まだ早い。
直樹の眉が寄る。
分かっている。
男が無線機へ手を伸ばす。
相良の表情が変わる。
今だ。
直樹が水路から飛び出した。
男が気づいた。
小銃を直樹へ向ける。
相良も立ち上がる。
男の目が相良へ戻る。
直樹が止まる。
相良が進む。
男の銃口が相良へ動く。
相良が止まる。
直樹が進む。
二人が交互に男の視界へ入り、消える。
右。
左。
近い方。
動く方。
男の目が追いつかない。
銃口が左右へ揺れた。
どちらへ撃っても、もう一人が近づく。
後退すれば監視所の石壁。
前へ出れば相良。
水路へ下りれば直樹。
逃げる道が一つずつ消えた。
堀越には三人の位置がすべて見えている。
スコープの中で、男の肩だけが石壁から出た。
撃てる。
だが、堀越は撃たない。
直樹と相良が近すぎる。
相良が右へ大きく踏み込んだ。
男の銃口が相良を追う。
直樹が石壁の影へ入った。
一瞬だけ、男の視界から消える。
相良が一発撃った。
弾丸が男の頭上で石を砕く。
男が肩を縮めた。
目が相良へ固定される。
直樹が男の左側へ現れた。
男が振り向く。
小銃を持ち上げる。
銃口が直樹の胸へ向いた。
直樹は止まらなかった。
警告もしない。
武器を奪うために、さらに近づくこともしなかった。
銃口が向いた時点で、判断は終わっていた。
八九式が短く鳴った。
男の胸が後ろへ沈む。
背中が石壁へ当たる。
指から小銃が離れた。
金属が石を叩く。
男は壁を擦りながら崩れた。
直樹の銃口はすぐに別の方向へ移った。
倒れた男を見続けない。
相良が小銃を蹴り離す。
無線機を踏み、外装を割った。
直樹は監視所の入口を見る。
相良は背後の杉林を見る。
一人が倒した相手を、もう一人が確認する。
一人が前を見る間、もう一人が後ろを見る。
赤外線端末の中で、立って動く熱源は二つだけになった。
直樹。
相良。
倒れた反応が三つ。
拘束された反応が一つ。
旧砂防監視所へ向かう新しい熱源はない。
堀越は短い終了信号を送った。
*
南第三の表示画面で、四つ目の反応が止まった。
江藤が操縦器を握ったまま息を吐く。
「外周への移動反応、止まりました」
めぐみは緑の点を見る。
直樹の発信器はまだ動いていた。
相良の反応へ近づく。
次に、堀越の位置へ向きを変える。
「なおは」
「移動しています。帰還方向です」
江藤の答えを聞いても、めぐみは画面から目を離さなかった。
えりが閉鎖回線へ顔を向ける。
「久世一尉」
『終わりだ』
「評価は」
回線の向こうで、久世が短く息を吐いた。
『堀越が全体を閉じた。前の二人は、その中で静と動を交換した』
教育隊の八人も画面を見ている。
田所は立ったまま。
安西は両腕を組んでいる。
片桐の右足は、いつの間にか止まっていた。
『相良は、最初の一人へ触れられる位置を取った。武器を制御できたから組んだ』
ミーシャは確認用紙へ視線を落とす。
自分の欄。
手の震え、あり。
過度な警戒、あり。
同じ場面の反復、あり。
食事、未確認。
『真柴は違う。武器を持った相手が味方へ銃口を向けた時点で、接触制圧を捨てる』
「NAOは、迷いませんでした」
『迷う場所を前で終わらせている』
久世の声には、賞賛も非難もなかった。
『銃口や刃物がこちらへ向いてから、相手の意思を確認することはしない。自衛官としてだけじゃない。日本の外で、そうしなければ隣が死ぬ場所を歩いてきた人間の判断だ』
「冷たいのですか」
ミーシャが聞いた。
『逆だ』
久世はすぐに答えた。
『武器を捨てて離れる相手は追わない。制御できる相手なら相良に任せる。だが、撃つと決めた相手へ中途半端な手加減もしない。味方の命を使って、自分の優しさを証明しないだけだ』
ミーシャは用紙の相良の欄へ書き込んだ。
過度な自己犠牲の可能性。
一度、手を止める。
自分の欄にも同じ言葉を書く。
さらに、直樹の名前を書きかけた。
ペンが止まった。
その欄は自分の担当ではない。
ミーシャは新しい行を作らず、ペンを置いた。
『欠点もある』
久世が続ける。
『前の二人は、互いに自分が危険を取る方が早いと思っている。噛み合っている間は強い。長く続ければ、いつか同時に前へ出る』
えりが久世の言葉を記録した。
「堀越が必要な理由はそこ?」
『ああ』
表示画面の端で、堀越の反応が岩棚から下り始めた。
『あの二人へ、止まる順番を決められる人間が要る』
*
男は、水路脇の土へ倒れていた。
両手は背中側で束ねられている。
胸が上下するたび、喉の奥から湿った音が漏れた。
監視所の周囲に、新しい動きはない。
直樹は八九式小銃の銃口を下げず、男の前へしゃがんだ。
上着の内側。
腰。
足首。
靴の中。
予備弾倉。
折り畳みナイフ。
小型無線機。
紙片。
方位磁針。
見つけた物を一つずつ、男の目の前へ並べた。
相良が肩から下げていた袋を外す。
薄い上着も脱がせた。
残したのはシャツとズボン、靴だけだった。
堀越が倒れた三人を見た。
「どうする」
直樹は答えなかった。
男を連れて山を下りれば、一人は監視へ固定される。
歩みは遅くなる。
敵側の人間に帰路を見せることにもなる。
その先には、戦闘へ出せない人間がいる。
子どもたちがいる。
傷ついた者がいる。
守られる側へ戻った者たちがいる。
敵一人を保護するために、そちらへ向ける人数を減らすことはできなかった。
堀越がもう一度聞いた。
「連れていく余裕はないな」
「ああ」
拘束された男の目が、三人の間を動いた。
誰か一人でも異なる答えを出す可能性を探している。
相良が男の肩をつかみ、身体を起こした。
両手は縛ったままだ。
「この三人を見ろ」
直樹が言った。
男は顔を背けた。
相良の手が後頭部へ載る。
「マエミロ」
顔を戻させた。
倒木の下に倒れた男。
杉の根元へ崩れた男。
監視所の石壁を背に倒れた男。
「同じ班か」
男は答えなかった。
「同じ周波数を使っていた」
直樹が無線機を見せる。
「俺たちの帰路を追い、位置を送ろうとした。違うか」
男の喉が動いた。
「命令だった」
「誰の」
「名前は知らない」
「この三人は」
男が口を閉じる。
相良が倒木の下の男を顎で示した。
「ダレダ」
「柴田」
堀越が紙片の裏へ書く。
申告名、柴田。
杉の根元。
「野口」
監視所の石壁。
「藤村」
堀越が三つの名前を並べた。
「お前は」
「近藤」
申告名、近藤。
「所属」
「決まった名称はない」
「雇われたのか」
男が頷いた。
「追跡の目的は」
「位置を確認して送れと言われた」
「どこへ」
「無線の向こうだ。相手は知らない」
「箱の中身は」
「知らない」
直樹は男の顔を見た。
答えの真偽までは確認できない。
それでも、四人を無名のまま残すよりは情報になる。
直樹が無線機から電池を抜いた。
端末と電池を別々に回収袋へ入れる。
「俺をどうする」
男が聞いた。
相良の手の下で肩が震えている。
直樹は倒れた三人を見た。
相良が最初の接触で銃を制御できなければ、この男も同じ場所へ倒れていた。
生きているのは、相良が殺す必要のない位置まで入り込んだからだ。
「オレダ」
相良が自分の胸を指した。
男には意味が分からなかった。
直樹には分かった。
殺さなかったのは自分だ、と相良は言っている。
「お前を連れていく選択肢はない」
直樹が男へ言った。
「こちらは、お前を守るために人数を割けない」
「なら、ここへ置いていくのか」
「縛ったまま残せば、夜を越せない」
「では」
「ここで終わらせることもできる」
男の身体が硬くなった。
相良は止めなかった。
堀越も口を挟まない。
三人にとって、これは異常な言葉ではなかった。
戦争は終わっていない。
停戦線の外で武器を向けた人間が、食事と寝床を与えられ、翌朝まで保護されるとは限らない。
むしろ、生きて立っている今の方が例外だった。
「だが、一度だけ走らせる」
直樹は東へ続く作業道を示した。
「この道を進め」
「逃がすのか」
「生きて帰れるとは言っていない」
直樹の声は平らだった。
「お前の後ろに誰がいるかは知らない。家族か、仲間か、誰もいないのかも知らない」
男が直樹を見る。
「こちらには、お前より先に守る人間がいる」
直樹は視線を逸らさなかった。
「だから連れていかない。ここで撃たれるより、走る方を選ぶなら、一度だけ背中を向けさせる」
「断ったら」
「ここで終わる」
男は倒れた三人を見た。
自分で申告した名前が、堀越の紙へ残っている。
「走る」
相良が男を立たせた。
両手はまだ背中側で束ねられている。
堀越が回収品の中から細長い布を取った。
男の目へ巻く。
後頭部で二度結ぶ。
余った布を長く残した。
「見えるか」
「見えない」
「光は」
「分からない」
相良が男の身体を東へ向けた。
直樹は最後に腰と足首を確認する。
武器はない。
通信手段もない。
隠した刃物もない。
情報を聞き出し、装備を取り上げ、進ませる方向も決めた。
ここで初めて、直樹は結束帯へ刃を入れた。
男の両手が自由になる。
すぐに腰へ伸びかけた手が、何もない場所で止まった。
「なぜ切る」
「目を塞いだまま、手まで縛って走らせれば死ぬ」
「殺さないのか」
「殺すなら、走らせない」
直樹は切った結束帯を土へ落とした。
「転んだら手をつけ。起きて走れ。目隠しには触るな」
男が両手を胸の前へ上げる。
指が震えている。
「止まるな」
堀越が言った。
「振り返るな。こちらへ戻るな」
「どこまで走ればいい」
「俺たちの声が聞こえなくなるまでだ」
「その後は」
「好きにしろ」
男は黙った。
相良が背中へ掌を当てる。
「ハシレ」
強く押した。
男が二歩よろめく。
両手を前へ伸ばし、足先で地面を探る。
歩き始めた。
「走れ」
直樹の声が追う。
男の歩幅が広がった。
濡れた土を靴が蹴る。
低い枝が頬へ当たる。
声を漏らしても、止まらない。
十メートル。
二十。
三十。
石へ足を取られ、前へ倒れた。
自由になった両手が地面へつく。
顔を打たずに済んだ。
男はすぐに起き上がった。
目隠しには触らない。
再び走り出す。
堀越が直樹へ手を出した。
「貸せ」
直樹はその手を見る。
「何をする」
「走る理由を残す」
男は五十メートル以上離れていた。
目隠しの端が、後頭部で白く跳ねている。
直樹は八九式小銃を渡した。
「頭へ近づけるな」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「お前に言われたくない」
堀越が小銃を構える。
男の足が遅くなった。
顔がわずかに横を向く。
「止まるな!」
堀越の声が山を走った。
男が弾かれたように前を向いた。
また足を動かす。
長く残した布の端が、左右へ大きく跳ねた。
一度、谷から上がった風を受ける。
白い布が、男の頭から外側へ長く伸びた。
堀越は、その瞬間まで指を動かさなかった。
発砲。
乾いた音が作業道を追い越す。
男の頭が前へ沈んだ。
身体から離れていた布の端が千切れ、白い蝶のように宙へ舞った。
結び目が緩む。
目隠しが頬から外れ、肩を滑って地面へ落ちた。
男は数歩走ってから、自分の頭へ両手を当てた。
血は付いていない。
指先を見た瞬間、顔から色が消えた。
振り返らない。
何も叫ばない。
さきほどより速く走った。
枝へ肩をぶつける。
斜面側へよろめく。
それでも止まらなかった。
作業道の暗がりへ入り、姿が消える。
相良が堀越を見る。
口を大きく開けている。
「ハズシタ」
「当てた」
「アタマ」
「布だ」
相良は信じていない顔をした。
直樹が八九式小銃を取り返す。
「危なすぎる」
「だから戻らない」
「頭を動かしていた」
「布が離れるまで待った」
「次は貸さない」
「次を作るな」
直樹は返事をしなかった。
男が消えた方向を見る。
正確な帰路は見せていない。
位置情報も送らせていない。
しかし、男はこの山域に三人がいることを知った。
生かした以上、情報が漏れる可能性は残る。
それでも、走る機会は与えた。
今の三人にできる慈悲は、それが限界だった。
直樹は八九式小銃を胸へ戻した。
三人は回収品を分けて持ち、山を下り始めた。




