第197話 一人足りない
## 第197話 一人足りない
最初に届いたのは、通信ではなかった。
校舎の窓ガラスが低く震えた。
遠くで、エンジンが唸っている。
予備受信機へ耳を寄せていためぐみは顔を上げた。
一度、音が途切れる。
すぐに別の駆動音が重なった。
軽く跳ねる音が前。
腹へ響く低い音が後ろ。
二台。
「帰ってきた」
声にしたのが自分か、ミーシャか分からなかった。
めぐみは椅子を引いた。
腿が机の角へ当たる。
鈍い痛みが走ったが、足は止まらなかった。
廊下へ出る。
ミーシャも続いた。
二人とも同じ方向へ向かう。
それでも、隣には並ばなかった。
直樹の部屋で互いへ投げた言葉が、身体一つ分の隙間へ残っている。
階段を下りる。
めぐみの靴底。
ミーシャの靴底。
二つの足音が重なり、途中でずれ、また重なった。
玄関を出た時、先頭の小型ジープが正門を通過した。
めぐみは車体を見なかった。
最初から助手席を探した。
相良がいた。
左腕を扉へ掛け、正門の外を見ている。
迷彩服の襟は土で白くなり、頬には煤がこびりついていた。
直樹ではない。
めぐみの視線が後部へ滑る。
銃座は空だった。
ミニミ機関銃もない。
黒い固定具だけが、振動に合わせて揺れている。
運転席には片桐。
その横に直樹はいない。
後続の中型トラックが正門を越えた。
荷台の幌は半分まで上げられている。
泥と煤に汚れた顔が並んでいた。
田所。
柴崎。
安西。
江藤。
宮浦。
御厨。
芦田。
宮浦の左腕には応急包帯が巻かれていた。
白かった布は、肘の上まで赤く染まっている。
御厨が傷口の上を押さえていた。
荷台の最後尾には堀越が立っている。
直樹の姿はない。
めぐみはもう一度、先頭のジープを見た。
助手席。
相良。
銃座。
空。
車体の陰。
誰もいない。
トラックが止まった。
芦田が先に降り、子どもへ両手を伸ばす。
毛布を肩へ巻いた女の子。
少年が一人。
二人。
三人。
四人。
全員いる。
柴崎は透明封筒を胸へ抱えている。
江藤は通信箱を離していない。
安西は校舎へ顔を向けず、正門の外を見ていた。
片桐がエンジンを切る。
車体の震えが止まった。
冷え始めた金属が、短く鳴る。
めぐみは人数を数えた。
片桐。
田所。
柴崎。
安西。
江藤。
宮浦。
御厨。
芦田。
八人。
堀越。
相良。
出ていった時は、十一人だった。
数え方を間違えたと思った。
もう一度、片桐から数える。
左手の指を一本ずつ折った。
八人。
堀越。
相良。
一人、足りない。
折り曲げた指の間へ、指輪が食い込んだ。
指を開こうとしても、動かなかった。
ミーシャが駆け出した。
めぐみの横を抜ける。
砂利を蹴り、相良のいるジープへ向かう。
相良は、ミーシャがたどり着く前に助手席から降りた。
八九式小銃を背中へ回す。
両手を身体の横へ下ろした。
足を肩幅に開く。
逃げるための構えではなかった。
「直樹はどこですか」
ミーシャの声が割れた。
相良は正門の外を一度見た。
「ノコッタ」
「どうしてですか」
相良は帰還した教育隊を指した。
「ハチニン」
次に、芦田に手を引かれる子どもたちへ顔を向ける。
「カエシタ」
「直樹を置いて?」
相良は首を横へ振った。
「メイレイ」
ミーシャの右拳が腰の横で閉じた。
指の関節から色が抜けている。
「あなたが、一緒にいたのに」
相良は答えなかった。
ミーシャの肩を見る。
拳を見る。
もう一度、顔を見る。
顎を引かない。
腕も上げない。
ミーシャの右肩が後ろへ引かれた。
拳が上がってから頬へ届くまで、相良には半歩退く間があった。
それでも両足は動かなかった。
拳が左の頬へ入った。
湿った音がした。
相良の顔が横へ弾かれる。
身体がジープの側面へ当たり、薄い金属板が大きく鳴った。
足が一歩ずれる。
それでも倒れない。
口元から赤いものが流れた。
相良は舌で口の中を確かめた。
手の甲で血を拭う。
反撃しない。
ミーシャを責める顔もしなかった。
「マシバァ」
帰ってきた八人を指す。
「メイレイ」
直樹の命令だった。
相良は、それだけを言った。
堀越が荷台から降りた。
相良とミーシャの横まで歩く。
ミーシャの腕をつかまない。
相良の前にも立たない。
相良の隣へ並んだ。
「俺もいた」
堀越は八九式小銃を背中へ回した。
両手を身体の横へ下ろす。
顎も引かなかった。
「俺も、置いて帰った」
ミーシャの拳がもう一度上がりかけた。
今度は堀越へ向く。
堀越は動かない。
目もそらさない。
ミーシャの腕が震えた。
拳は堀越の顔まで届かなかった。
指が一本ずつ開いていく。
相良の口元の血を見る。
堀越の下げた両手を見る。
泥にまみれた八人を見る。
「命令を……」
言葉が続かなかった。
息が喉で詰まる。
ミーシャの膝が崩れた。
堀越の手が動きかける。
胸の前で止まった。
ミーシャは自分の手を地面へつき、片膝で身体を支えた。
めぐみの足からも力が抜けた。
誰かに押されたわけではない。
膝が身体を支えることをやめた。
正門の内側へ腰が落ちる。
砂利が掌へ食い込んだ。
痛いはずなのに、手を上げる方法が分からなかった。
目の前では人が動いている。
御厨が宮浦を校舎へ運ぶ。
芦田が子どもたちを玄関へ連れていく。
ハルが中から出てきて、女の子の肩へ別の毛布を重ねる。
柴崎が透明封筒をえりへ渡す。
江藤が通信箱を開く。
片桐はジープの横へしゃがみ、足回りを確認している。
安西は正門の外から目を離さない。
全員が、自分のすることを知っていた。
めぐみだけが、何をすればよいのか分からなかった。
誰かが名前を呼んだ。
声は聞こえている。
返事の仕方が思い出せない。
四年前の病室でも同じだった。
「宮崎さん」
田所が目の前へ来た。
頬に細い傷がある。
泥が汗で流れ、黒い筋を作っていた。
手には折り目のついた記録用紙。
握る指が震えている。
「真柴さんが残りました」
めぐみは自分の膝を見た。
「自分で?」
声が掠れた。
田所はすぐに答えなかった。
「命令を受けました」
「誰が」
「自分たちがです」
田所の手の中で紙が鳴った。
「八人と、子どもを帰せと」
「なおは」
「追っ手を、車列から離すためです」
「一人で?」
田所の喉が動いた。
「はい」
めぐみは田所を責める言葉を探した。
なぜ置いてきたのか。
どうして一緒に残らなかったのか。
八人もいたのに、誰も直樹を連れて帰れなかったのか。
何も出なかった。
田所の顔を見れば、すでに何度も自分へ同じ問いを向けていることが分かった。
「帰るって言ったのに」
田所へ言ったのではなかった。
直樹へ向けた言葉だった。
堀越が田所の肩へ手を置く。
「今はいい」
田所は頭を下げた。
そのまま動けずにいる。
堀越がもう一度、肩を押した。
田所はようやく歩き出した。
えりが正門前へ来る。
相良の切れた口元を見る。
片膝をついたミーシャを見る。
地面へ座っためぐみを見る。
何があったのかは聞かない。
「江藤。最後の通信位置」
「確認します」
「片桐。残燃料」
「往復一回分以上あります」
「安西。追跡者」
「人数は確認できていません」
「見た範囲」
「斜面に一。車両側は複数です」
「堀越。帰路候補」
「三つある」
「地図」
堀越が迷彩服の内側から地図を出す。
えりは正門脇の台へ広げた。
誰も、大丈夫だとは言わなかった。
きっと帰るとも言わなかった。
言えない言葉を使わず、できる作業だけが並べられていく。
健二が校舎から出てきた。
腕には灰色の毛布がある。
めぐみの前で止まる。
肩へ掛けようとした手が、途中で止まった。
毛布をめぐみの隣へ置く。
「ここに置きます」
めぐみは返事をしなかった。
健二も求めなかった。
正門の外へ顔を向ける。
兄が戻る道を、相良と同じように見た。
時間が過ぎた。
宮浦の処置が始まる。
子ども四人の確認が終わる。
医薬品が校内の電源へつながれる。
江藤が何度呼びかけても、通信は戻らない。
日差しが正門の柱を横へ滑っていく。
ジープのエンジンが冷え、金属が小さく鳴った。
相良は口元の血を拭わなくなった。
乾いた赤い線が顎の近くまで残っている。
正門の外へ立ったまま動かない。
ミーシャは少し離れた場所に座っていた。
自分の右拳を見ている。
謝らない。
相良も何も言わない。
堀越は地図の上へ指を置く。
保守道路。
旧林道。
沢沿いの道。
直樹が使える帰路を、一つずつ確かめていく。
めぐみは地面に座ったまま、直樹の声を思い出していた。
今日中に帰る。
約束する。
最初からそのつもりだ。
直樹は嘘をついていなかった。
嘘をつかずに、帰らない人だった。
それが一番怖かった。
空が少しずつ赤くなる。
校舎の発電機が起動した。
一定の低い音が、建物の裏から聞こえる。
誰かが戸を閉める。
風が正門脇の標識を揺らす。
その音の中へ、細い振動が混じった。
めぐみは顔を上げなかった。
発電機の音だと思った。
一度、消える。
相良の顎が上がった。
堀越が地図から顔を上げる。
また聞こえた。
今度は少し長い。
高く、途切れがちな単気筒の音。
相良が正門の外へ一歩出た。
「マシバァ」
めぐみの胸が強く縮んだ。
息が入らない。
道路の向こうを見る。
暗くなり始めた道。
木々の影。
その奥に、小さな灯りが現れた。
上下に揺れている。
一度、木の陰へ消える。
また現れる。
相良がもう一歩、道路へ出た。
堀越が相良の肩をつかみ、車道の端へ戻す。
ミーシャが立とうとした。
片膝をつく。
足に力が入らず、もう一度地面へ手をついた。
灯りが近づく。
エンジン音が大きくなる。
小型オートバイだった。
前輪が道路の窪みを踏み、車体が揺れる。
運転している男の肩も傾く。
それでも倒れない。
正門の前まで来る。
ブレーキが短く鳴った。
直樹が左足を地面へつく。
八九式小銃が背中へ回されている。
迷彩服は泥と煤で色が変わっていた。
額の傷から流れた血が、眉の横で黒く乾いている。その上へ、新しい血が細く滲んでいた。
右手はハンドルを握ったまま動かない。
直樹は左腕を身体の前へ交差させた。
キーへ指を掛ける。
一度滑る。
二度目で捻った。
単気筒の音が止まる。
静寂が戻った。
相良が直樹へ近づく。
直樹はオートバイから降りる前に、腰の横へ左手を入れた。
油布に包まれた細長い部品を取り出す。
相良へ投げた。
相良が両手で受け取る。
油布の端がずれた。
ガイドロッドに巻かれた、油の黒いリコイルスプリング一式が覗く。
「ナカミ」
「ああ」
「ホンタイ」
「残した」
相良が部品を見る。
次に直樹を見る。
「作動部は抜いた。そのままじゃ撃てない」
「ヨシ」
相良は油布を包み直した。
胸元へ抱える。
直樹が右手をハンドルから外そうとする。
指が開かない。
左手で、右手の指を一本ずつ伸ばした。
ようやくハンドルから離れる。
直樹はオートバイを傾け、両足を地面へついた。
立ち上がる。
身体が一度だけ右へ揺れる。
堀越の腕が動きかけた。
直樹は車体へ左手をつき、自分で姿勢を戻した。
正門の内側を見る。
口元を切った相良。
その横に立つ堀越。
地面へ手をついたままのミーシャ。
泥と煤にまみれた教育隊八人。
最後に、めぐみを見た。
めぐみは立てなかった。
足へ命令しても、身体が動かない。
直樹の顔を見る。
胸を見る。
右手を見る。
両足を見る。
生きている場所を、一つずつ目で確かめた。
直樹は、なぜ相良の口元に血があるのか知らない。
なぜミーシャが地面へ手をついているのかも知らない。
それでも、学校へ帰ってきた人間として口を開いた。
「ただいま」
めぐみの喉から、掠れた声が出た。
「遅い」




