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第196話 数えられないもの

## 第196話 数えられないもの


「いつから、入っていたの」


 ミーシャは、直樹の上着を胸へ押し当てたまま動かなかった。


 机の端で、予備受信機の受信表示灯が点滅している。


 緑。


 暗転。


 また緑。


 明滅するたび、金属製のカップの縁が一瞬だけ光った。


 直樹の物ではない。


 細い水筒も、机に接続された変換端子も、ミーシャがここへ持ち込んだものだった。


 壁の釘には何も掛かっていない。


 あるはずの上着は、ミーシャの腕の中にある。


 めぐみは右手の鍵を握り直した。


 歯のように刻まれた金属の角が、掌へ食い込む。


 直樹が自分へ渡した鍵だった。


 不在でも入っていい。


 必要な物を取っていい。


 ここで待ってもいい。


 そう言われた時の声まで覚えている。


 けれど今は、その鍵が何の証明にもならない気がした。


「ミーシャさん」


 喉が乾いていた。


 呼んだ声が、自分のものではないように聞こえる。


「最初は、通信機を置きに来ました」


 ミーシャの親指が、上着の袖口をなぞった。


 泥を落とした跡なのか、布だけが白く毛羽立っている。


「最初は?」


「それからも、入りました」


「何回ですか」


 ミーシャの指が止まった。


「分かりません」


「覚えてないんですか」


「数えていませんでした」


 鍵が鳴った。


 めぐみの爪が金属へ当たった音だった。


 一度だけなら、理由を探せた。


 通信機が重かった。


 置き場所を確認した。


 扉が開いていた。


 急いでいた。


 けれど、机にはカップの底が残した輪がいくつも重なっている。


 充電ケーブルには、何度も同じ幅で束ねられた癖がついていた。


 机の下には、ロシア語の走り書きが挟まっている。


 今日初めて入った人の痕跡ではない。


「なおに、入っていいって言われましたか」


「いいえ」


「鍵を渡されたんですか」


「いいえ」


「どうやって入ったんですか」


「開いていました」


「開いていたら、入るんですか」


「最初は、すぐに出ました」


「また最初の話ですね」


「はい」


 胸の奥で、何かが細く軋んだ。


 怒鳴りたいのに、声が出ない。


 代わりに呼吸だけが浅くなる。


「その返事、やめてください」


 ミーシャが顔を上げた。


 目の下に薄い影がある。泣いた跡はない。けれど、瞼の縁だけが赤かった。


「何と答えればいいですか」


「私に聞かないで」


「分かりません」


「分からないなら、入らなければよかったでしょう」


 ミーシャの喉が動く。


 上着を離さない。


「入るなとは、言われませんでした」


 めぐみの指先から熱が引いた。


 鍵が急に冷たくなる。


「それ、本気で言ってますか」


「理由にはなりません」


「今、理由にしたでしょう」


「事実を言いました」


「入るなと言われなかったことは、入っていいって意味じゃありません」


「はい」


 めぐみは唇を結んだ。


 ミーシャの返事は、謝罪にも反抗にも聞こえない。


 何を言われても受け止めるつもりで立っている。


 めぐみには、直樹から何も与えられないことに慣れた人の立ち方に見えた。


 その見え方まで腹立たしかった。


「ここで、何をしてたんですか」


「待っていました」


「誰を」


 聞く必要はなかった。


 それでも聞いた。


 言わせたかった。


「直樹です」


 名前が狭い部屋へ落ちた。


 ミーシャの声で呼ばれた直樹は、めぐみの知っている「なお」とは違う人に聞こえた。


 めぐみは鍵を机へ置いた。


 硬い音がした。


 自分の手から離れた鍵が、ミーシャのカップと並ぶ。


「あなたは、なおがどこで眠るか知ってるんですね」


 ミーシャが寝台へ目を向ける。


「ここです」


「そういう意味じゃありません」


 声が低くなった。


 胃の奥が縮む。


 唇の内側に歯が当たった。


「眠れない時、どうするか。怪我を隠す時、どんな顔をするか。銃を持ったら、最初にどこを見るか」


 ミーシャは答えなかった。


「知ってるんでしょう」


「はい」


 迷いのない返事だった。


 舌に薄い血の味が広がった。


「私は知らない」


「知らなくていいことです」


「あなたが決めないで」


「見ない方がいいこともあります」


「それも、あなたが決めることじゃない!」


 声が壁へぶつかった。


 廊下の向こうで足音が止まる。


 一拍置いて、遠ざかった。


 めぐみは息を吸った。


 胸の上だけが持ち上がり、肺の奥まで空気が届かない。


 四年前の病室が戻った。


 白い天井。


 消毒薬の臭い。


 声を出そうとしても、空気しか漏れなかった喉。


 何を聞いても「確認中です」としか答えなかった人たち。


 指輪だけが戻ってきた日。


 裏側の文字を読むまで、それが何なのかも分からなかった。


 NAO MEGUMI。


 あの時、直樹の身体はどこにもなかった。


「私が四年間、どこにいるかも分からず待ってた間、あなたはなおの隣にいた」


「四年間ずっとではありません」


「同じです」


「違います」


「私は一日も見られなかった」


 喉が引きつった。


 言葉が途中で潰れ、息と一緒に漏れた。


「生きてるのかも分からなかった。食べてるのかも、眠れてるのかも。怪我してるのかも」


 左手を握り込む。


 指輪の縁が隣の指へ食い込んだ。


「あなたは、自分の目で確かめられたでしょう」


「隣にいても、選ばれませんでした」


「隣にいられたでしょう」


 ミーシャの肩が動いた。


 上着を抱く腕が少し緩む。


 それでも、手放しはしない。


「相良さんも、堀越さんも、私を直樹の左に置きました」


「任務だからでしょう」


「はい。役に立つ間だけです」


「それを私に言って、どうしたいんですか」


「役に立たなければ、残れません」


「残れたでしょう」


「任務があったからです」


「なおが生きてるって、自分で見られたでしょう!」


 声が裏返った。


 胸の奥に溜まっていた空気が一気に抜けた。


 めぐみは机へ手をついた。


 木の表面が冷たい。


 立っているために力を入れた指が震えていた。


「私は、それすらできなかった」


 ミーシャの視線が、めぐみの左手へ落ちる。


 銀色の指輪。


 裏側には二人の名前。


 めぐみは左手を身体の後ろへ隠しかけた。


 途中で止めた。


 隠したくなったことが悔しかった。


「あなたは、待つだけで直樹が帰ってきました」


 受信表示灯が消えた。


 暗いまま、一秒。


 二秒。


 緑の光が戻る。


「待つだけ?」


「違います」


 ミーシャが立ち上がった。


 膝の裏が寝台へ当たり、薄い毛布がずれた。


 上着を抱えたまま、口を開く。


 閉じる。


 日本語を選び直そうとしている。


「言葉が違いました」


「今、言いました」


「あなたは待って、直樹に選ばれました」


「私の四年を、恋人になるための条件みたいに言わないで」


「でも、あなたには結果があります」


「結果のために待ってたんじゃない」


「私も、結果のためだけに待つわけではありません」


「だったら、どうして四年なんて言うんですか」


 ミーシャの唇が開いた。


 音は出なかった。


 一度、鼻から息を吸う。


 肩がうまく上下せず、途中で引っかかった。


「ほかに、何を数えればいいか分からないからです」


 予備受信機から、細い雑音が漏れた。


 砂を擦り合わせるような音だった。


 二人とも振り向かなかった。


「任務なら距離があります。訓練なら回数があります。射撃なら、当たった数があります」


「愛情は訓練じゃありません」


「分かっています」


「分かってない」


「分かりません!」


 ミーシャの声が跳ねた。


 腕の中で上着が潰れる。


「四年で足りないなら、もっと待ちます。何かが足りないなら、身につけます。でも、何が足りないのか、誰も教えてくれません」


「私に聞かないで」


「ほかに聞ける人がいません」


「私だって分からない!」


 涙で視界が歪んだ。


 ミーシャの輪郭が二重になる。


 めぐみは頬へ落ちる前に、手の甲で目元を拭った。


「愛された理由なんて、私にも説明できない」


 夜中、めぐみは何度も直樹の胸へ指を置いた。


 上下していることを確かめるまで、目を閉じられなかった。


 選ばれたという言葉は、その夜を一度も短くしてくれなかった。


「説明できないものを、あなたは持っています」


「だから、私に渡せって言うんですか」


「言っていません」


「同じです」


「違います」


「同じです!」


 ミーシャの目が見開かれた。


「私は、あなたから直樹を取れません」


「取ろうとしてるでしょう」


「取れません!」


 ミーシャの発音が硬くなる。


 いつもの整った日本語が消えていく。


「あなたは『なお』と呼べます。帰ってきてと言えます。怒れます。嫌だと言えます。それでも、直樹はあなたを捨てません」


「そんな保証はありません」


「あります」


「ない!」


「あなたは、直樹が帰る場所です」


 その言葉だけが、部屋の中央へ残った。


 直樹が帰る場所。


 そうなりたかった。


 けれど、帰る場所であることは、残される場所になることでもあった。


「私は、必要な時だけ呼ばれる人です」


 ミーシャの声が低くなる。


「あなたは左側にいられる」


「役に立つ時だけです」


「なおが一番危ない時に必要とされる」


「間違えたら外されます」


「私は、そこへ行くこともできない」


「私は、帰る場所になれません」


 二人の呼吸が重なった。


 吸う時も、吐く時も合わない。


 狭い部屋の空気が足りなくなったようだった。


 めぐみは寝台を見る。


 枕には、浅い窪みが残っている。


 今朝まで、直樹の頭があった場所。


「選ばれたからって、失わない保証なんかない」


 声が震えた。


「なおは何度でも、自分だけで危険なところへ行く。待っても、約束しても、また一人で残る」


「でも、帰ったらあなたのところへ行きます」


「帰らなかったら?」


 ミーシャは答えなかった。


 めぐみの胸の奥で、最も醜い言葉が形になった。


 言えば、ミーシャを傷つける。


 自分も傷つく。


 それでも止められなかった。


「あなたは、なおのそばにいられた時間を持ってるくせに、それでも足りないって言うんですね」


 ミーシャの頬が引きつった。


「あなたは、選ばれているのに、私がそばにいることまで奪うのですね」


「ここは、なおの部屋です」


「知っています」


「私には、入っていいって言いました」


「知っています」


「あなたには言ってない」


「知っています!」


 ミーシャの目から涙が一粒落ちた。


 頬の途中で光り、顎から上着へ落ちる。


 ミーシャは拭わなかった。


「だから、苦しいのです」


 予備受信機が鳴った。


 二人の身体が同時に反応する。


 めぐみは机へ向き直った。


 ミーシャも上着を寝台の端へ落とす。


 袖が垂れ、床へ触れそうになった。


 雑音。


 誰かの声にはならない。


 めぐみが送信ボタンを押した。


「こちら南第三。なお、聞こえる?」


 返事はない。


 ミーシャが周波数を変える。


「直樹、応答してください」


 受信表示灯が弱く明滅する。


 声は戻らなかった。


     *


 最初に聞こえたのは、高いエンジン音だった。


 田所は東側の保守道路へ顔を向けた。


 小型オートバイが、石の浮いた道を跳ねながら下りてくる。


 細い前輪が溝へ落ち、車体が一度大きく揺れた。


 運転手の膝が外へ開く。


 すぐに姿勢を戻す。


 乾いた土の匂いに、焼けた油の臭いが混じった。


 オートバイは確認所の手前で止まった。


 エンジンは切られない。


 単気筒の振動で、丸いミラーが細かく震えている。


 運転手はキーを差したまま降り、後方へ手を上げた。


 続いて箱型車両が二台現れた。


 大きな車体が、保守道路の向こうに残っていた空を塞ぐ。


 灰色の男の口元が緩んだ。


「決められる人間が来ました」


 田所は車両ではなく、その間隔を見た。


 一台目が出口を塞ぐ。


 二台目が後ろへ残る。


 北側斜面には人影。


 背後には小部屋。


 子ども四人。


 成人女性二人。


 高齢男性。


 医薬品。


 照合途中の通行証。


 黒い封印箱。


 通信は切れている。


 残っているのは、守る物を選び、選ばなかった物を捨てる道だけだった。


 田所の舌に、煤と乾いた埃の味が戻った。


 消防士だった頃、倒壊しかけた家へ戻ろうとしたことがある。


 奥にまだ一人いる気がした。


 上司に襟をつかまれ、外へ引きずられた。


 直後に二階が落ちた。


 置いていく判断だけは、正しくても身体が拒んだ。


 腕章を巻いた男が前へ出る。


「医薬品と被保護者を引き継ぎます」


「確認は終わっていません」


「こちらで続けます」


「引き渡しません」


「医薬品を止め、子どもを分離していると報告を受けています」


「薬は電源へ移しました。子どもは確認中です」


「では、あなた方の作業は終わっています」


 男は田所を見ていない。


 肩越しに直樹を探している。


 自分には決められないと思われている。


 田所自身も、少し前までそう思っていた。


「こちらの確認は終わっていません」


「責任者と話します」


「現場班長は自分です」


 男の視線が、ようやく田所へ合った。


「責任を取れますか」


 田所は踵を地面へ押しつけた。


「取るために残っています」


 灰色の男が黒い封印箱へ目を向ける。


「積荷の一部は、こちらの管理物です」


 柴崎が通行証を透明封筒へ入れた。


 封筒の端を二度滑らせてから、口を閉じる。


「確認できるまで使用させません」


「無効にする権限があるのですか」


「無効にはしていません」


 柴崎の喉が動いた。


「使わせないと決めました」


「誰の判断ですか」


 柴崎の目が直樹のいる方向へ動きかける。


 途中で止まる。


「自分です」


 田所の胸が少しだけ広がった。


 片桐が対象トラックへ向かう前に、柴崎を見た。


「移動前を残してください」


「撮ります」


「終わったら北向きへ変えます」


 柴崎が端末を上げる。


 車輪。


 白線。


 錆びた遮断棒。


 画面へ順に収めた。


「終わりました」


「動かします」


 片桐が運転手を呼ぶ。


 トラックのエンジンが咳き込み、黒い排気を吐いた。


 さきほどぶつかった二人が、一つの動作を半分ずつ受け持っている。


 田所は、その光景を目へ残した。


 江藤の机には三冊の記録が開かれている。


 車両A。


 車両B。


 回収班。


「こちらは一つの任務です」


 腕章の男が言う。


 江藤は鉛筆を止めない。


「あなた方の申告です」


「同じ行政機関の許可です」


「同じ印は、同じ人という意味ではありません」


 鉛筆の先が紙を擦る。


 細い音だった。


 エンジン音の中でも消えなかった。


 御厨は保冷箱の温度表示へ指を当てている。


「保全と使用判断を分けます」


 芦田が荷札を箱へ結んだ。


 所有者未確認。


 温度管理優先。


 未開封。


「電源、安定しました」


「子どもの水分は」


「車両Aの二名が不足しています。水は渡しました」


「吐き気は」


「ありません」


 腕章の男が片手を上げた。


 回収班の二人が、黒い封印箱へ歩き出す。


「止まってください」


 田所が言った。


 二人は止まらない。


 安西の八九式小銃が上がる。


「そこで止まってください!」


 北側の斜面で、白い光が瞬いた。


 田所は音より先に、琺瑯製の標識へ小さな穴が開くのを見た。


 一拍遅れて破裂音。


 白い破片が飛んだ。


 宮浦が身体をひねる。


「っ――」


 左腕の袖が裂けた。


 皮膚へ刺さった破片の周囲から血が広がる。


「宮浦さん!」


 御厨が駆け出す。


 宮浦は膝をついた。


 八九式の銃口が地面へ触れかけ、寸前で持ち上げる。


「動けます」


 声が震えていた。


 自分で立ち上がる。


 安西は斜面へ踏み出した。


「安西さん」


 宮浦が呼んだ。


 安西は止まらない。


 宮浦は前へ回った。


 左腕から落ちた血が、砂利へ丸い跡を作る。


「どいてください」


「行かせません」


「撃たれました」


「追ったら、戻れません」


「命令できる立場ですか」


 宮浦の膝は震えている。


 唇から色が抜けている。


 田所には、安西より宮浦の方が逃げたがっているように見えた。


 それでも、宮浦は退かなかった。


「戻る人数を減らさない役です」


 安西が斜面を見る。


 宮浦の血を見る。


 小部屋の扉を見る。


 八九式の銃口が下がった。


「分かりました」


「安西。東を見ろ」


 堀越の声が飛ぶ。


「了解しました」


 安西は保守道路へ向き直った。


 回収班の一人が発煙筒を投げる。


 白い煙が地面を這った。


 油と薬品の臭いが鼻を刺す。


 視界が削られる。


「子どもを車へ!」


 田所が叫んだ。


 芦田が小部屋の扉を開ける。


「下を見てください。前の人の服をつかんで」


 毛布の女の子が成人女性の上着を握る。


 少年たちは互いの肩へ手を置いた。


 咳。


 小さな靴音。


 水筒が車体へぶつかる音。


 田所は頭を数える。


 一。


 二。


 三。


 四。


 視界から消えるたび、もう一度数えた。


 御厨は宮浦の袖を裂き、傷へ布を押し当てる。


「指を動かしてください」


 宮浦が拳を握る。


「動きます」


「乗ってから処置します」


「了解しました」


 片桐がジープを後退させる。


 タイヤが砂利を噛む。


 相良は銃座で煙の縁を追った。


「相良。撃つな」


「ミテル」


 煙の中で、黒い箱が浮いた。


 人の頭は見えない。


 箱だけが宙を進んでいるように見えた。


 安西の足が前へ出る。


「安西さん」


 宮浦は腕をつかまなかった。


 名前だけを呼んだ。


 安西は黒い箱を見る。


 次に、子どもが乗るトラックを見る。


「追いません」


 田所へ報告した。


「了解しました」


 黒い箱が煙の向こうへ消える。


 追えば届くかもしれない。


 箱の中身も確かめられる。


 灰色の男も止められるかもしれない。


 けれど、子どもは走れない。


 薬も走れない。


 宮浦の血も止まらない。


 首元へ、火災現場で襟をつかまれた感触が戻った。


「箱は捨てます」


 声は、はっきり出た。


 煙の奥で、灰色の男が振り返る。


「賢明です」


 捨てたくない物を、自分の手で切り離したのだ。


「あなたを忘れるとは言っていません」


 田所は柴崎を見る。


「顔と通行証を残してください」


「残しています」


 灰色の男の笑みが消えた。


 東側の箱型車両が動き出す。


 もう一台は、確認所の出口へ車体を寄せた。


 残っていた隙間が半分になる。


「片桐さん」


「抜けます」


「できますか」


 片桐は、狭まる出口だけを見ている。


「決めます」


 ジープの前輪を路肩へ落とした。


 車体が大きく傾く。


 銃座の相良が縁をつかむ。


「シンペイ!」


「落としません!」


 タイヤの下で小石が砕ける。


 片桐は箱型車両の脇へ、ジープの鼻先をねじ込んだ。


「もう一メートル必要です」


 柴崎が対象ワゴンを見る。


「移動前の記録は終わっています。動かしてください」


「了解しました」


 片桐が運転手を呼ぶ。


 ワゴン車が押し出される。


 出口に、車一台分の隙間が開いた。


 二発目が来た。


 道路へ弾が当たり、乾いた土と小石が跳ね上がる。


 子どもの叫び声が耳へ刺さった。


 相良の手がミニミの銃把へ沈む。


 直樹が銃座へ上がる。


「相良。代われ」


「イヤダ」


「八人を帰せ」


「オマエ‥‥モダ」


 相良の声が低くなった。


「命令だ」


 直樹は自分の八九式小銃を背中へ回した。


 銃架の解除具を起こす。


 相良の指へ手を重ねた。


「マシバァ」


「離せ」


 一本。


 次の一本。


 相良の指が銃把から開いていく。


 直樹は給弾箱を付けたまま、ミニミを銃架から持ち上げた。


 重量が右手へ掛かる。


 手首が一度沈んだ。


 直樹は左腕を銃床の下へ差し入れ、支え直した。


 相良が銃座から降りる。


 背中の八九式小銃を胸へ回した。


 着地した足が、一歩だけ直樹へ戻ろうとする。


 堀越がその進路へ立った。


「戻れ」


 直樹が言った。


「戻る」


「必ずだ」


「ああ」


 堀越はそれ以上聞かなかった。


 直樹が田所を見る。


「田所」


「はい」


「数えろ」


 田所は教育隊を見る。


 片桐。


 柴崎。


 安西。


 江藤。


 宮浦。


 御厨。


 芦田。


 自分。


「教育隊八名。全員います」


「子ども」


「四名です」


「帰れ」


 田所の喉が固まった。


 直樹はまた、自分を数から外している。


「主任教官は」


「見るな。数えろ」


 田所は直樹の右手を見た。


 ミニミの重さに抗い、小さく震えている。


 判断を返したかった。


 一緒に帰ってください。


 別の方法を考えてください。


 自分には決められません。


 後ろで子どもが咳き込んだ。


 御厨が宮浦の腕を押さえている。


 保冷箱の警告灯が黄色く瞬いている。


 片桐が出口を保っている。


 柴崎が記録を抱えている。


 江藤が通信機を離さない。


 安西が東側を見ている。


 芦田が子どもの数を確かめている。


 答えを待っている者は、もう一人もいなかった。


 田所だけが判断を返せば、八人の仕事を空白へ戻してしまう。


「了解しました」


 相良が直樹へ一歩近づく。


「マシバァ」


 直樹は東側を見る。


 煙の向こうで、回収班の後続が車列へ回り込もうとしている。


 相良の顎が震えた。


 それでも教育隊へ向き直る。


「シンペイ‥‥ノレ」


「全員、乗ってください!」


 田所が叫ぶ。


 堀越が八九式小銃を構えたまま後退する。


「戻る」


「了解しました!」


 教育隊が車両へ乗り込む。


 片桐は運転席へ入った。


 相良は空いた助手席へ座る。


 扉を閉めない。


 上半身を外へ出し、直樹を見ている。


 直樹はミニミの銃床を肩へ当てた。


 短い射撃音が響く。


 腹の底を叩く連続音。


 地面が一直線に弾け、回収班の前方が伏せた。


「出してください!」


 田所が荷台から叫ぶ。


 ジープが狭い隙間へ入る。


 中型トラックが続く。


 金属板が箱型車両の側面を擦り、耳を刺す音を立てた。


 相良が助手席から身を乗り出す。


「マシバァ!」


 直樹は振り返らない。


 もう一度、短い射撃音。


 追跡車両が止まった。


 車列が曲がり角へ入る。


 確認所が煙の向こうへ沈む。


 田所は保守小屋の脇を見た。


 小型オートバイが残っている。


 キーは差さったまま細かく揺れていた。


 それが逃げ道なのか。


 ただの置き去りなのか。


 田所には分からない。


 次の瞬間、直樹も確認所も見えなくなった。


     *


 トラックの荷台では、宮浦が御厨の膝へ左腕を預けていた。


 包帯が赤く染まり始めている。


「指を動かしてください」


 宮浦が指を曲げる。


「動きます」


「もう一度」


 宮浦が握る。


 田所は一人ずつ顔を見る。


 柴崎。


 安西。


 江藤。


 宮浦。


 御厨。


 芦田。


 前を走るジープには片桐。


 助手席には相良。


 八人。


 全員いる。


 子ども四人もいる。


 それでも、車列の前方に空席が一つあるように感じられた。


 ジープの助手席で、相良が車載無線を取った。


 片桐が荒れた道を避けるたび、相良の肩が揺れる。


「ミヤザキ」


 雑音しか返らない。


 相良が送信ボタンを押し直した。


「ハチニン」


 表示灯が弱く光る。


「コドモ‥‥ヨニン」


 相良は後ろを振り返った。


 直樹の姿はない。


 前へ向き直る。


「カエル」


 回線が大きく乱れた。


 相良は無線機を耳へ押しつけた。


「ミヤザキ」


 返事はなかった。


     *


 予備受信機の雑音が、一瞬だけ形を持った。


『――ハチニン』


 めぐみとミーシャが同時に顔を上げる。


 めぐみが送信機へ手を伸ばす。


 ミーシャの手も伸びた。


 指先が触れかけた。


 どちらも引かなかった。


「こちら南第三。なお、聞こえる?」


 返事はない。


『――コドモ‥‥ヨニン』


 相良の声。


 その奥で、車両のエンジンが唸っている。


「直樹、応答してください」


 ミーシャが送信ボタンを押す。


『――カエ――』


 音が千切れた。


 直樹の声はなかった。


 めぐみは送信ボタンを押したまま、息を止めていた。


「なお」


 名前だけを送る。


 返らない。


 ミーシャが周波数を変える。


 指先が震え、つまみを一度行き過ぎた。


「直樹、応答してください」


 小さな発振音。


 砂嵐。


 声はない。


 寝台の端には、直樹の上着が残っていた。


 袖が床へ触れそうになっている。


 めぐみは直そうとした。


 ミーシャの手も伸びた。


 二人とも途中で止まる。


 どちらが触れていいのか分からなかった。


 直樹がいないのに、上着一枚を挟んで立っている。


 それでも、先ほどの言葉は消えなかった。


 ミーシャが入っていた時間も。


 自分が吐いた言葉も。


 相手の愛情が一時的ではないと知った苦しさも。


 めぐみは受信機から手を離さなかった。


 送信ボタンの丸い跡が、指先へ残っている。


「私、なおが帰ってこなかったら」


 喉に言葉が引っかかった。


 ミーシャが悪いわけではない。


 相良の通信が、直樹の不在を意味するとも限らない。


 それでも、誰かを責めなければ身体が崩れそうだった。


「あなたを許せないと思います」


 ミーシャは、すぐには答えなかった。


 濡れた頬を拭わず、暗い受信表示を見つめている。


「私も、あなたを見ると苦しくなると思います」


「どうして」


「あなたには、直樹と過ごした未来が残るからです」


 未来。


 直樹と食べる朝食。


 帰ってきた靴を玄関で見ること。


 眠れない夜に、同じ部屋で朝を待つこと。


 名前を呼べば返事があること。


 まだ一つも確定していない。


「なおが帰らなかったら、未来なんてありません」


 ミーシャの視線が、寝台の上着へ落ちる。


「私にもありません」


 受信機が一度だけ鳴った。


 二人とも顔を上げる。


 雑音。


 それだけだった。


 めぐみは椅子を一つ引いた。


 脚が床を擦り、低い音を立てる。


 ミーシャの分だった。


 許したわけではない。


 無断で部屋へ入ったことも。


 直樹への気持ちも。


 互いに突きつけた言葉も。


 何一つ終わっていない。


 それでも、一人になれば四年前の白い天井が戻ってくる。


 めぐみは椅子の背へ手を置いた。


 ミーシャが、赤くなった目でこちらを見る。


「怒っていますか」


「怒っています」


「私もです」


「それでも、一人では待てません」


「私もです」


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