第195話 通行証
## 第195話 通行証
片桐航が小型ジープのエンジンをかけた時、田所遼はまだ旧水利管理所までの経路図を持っていた。
昨夜、八人で机を囲んで決めた道だった。
赤鉛筆で印をつけた崩落箇所。
倒木を避けるための細い迂回路。
負傷者を運ぶ場合の中継地点。
帰路を塞がれた時に使う沢沿いの歩道。
紙の中央には、田所が引いた太い線が残っていた。
全員で行き、全員で帰る道だった。
真柴直樹は、その経路図の上へ一枚の連絡票を置いた。
薄い紙が地図を半分隠した。
旧県道臨時確認所。
接近中の車両二台。
通行証の照会番号なし。
子どもが乗っている可能性あり。
田所は、赤い線の終点が見えなくなったことに気づいた。
「水利管理所は延期する」
直樹の声には迷いがなかった。
田所は経路図を畳んだ。
紙の折り目がずれた。いつもなら角をそろえるところを、そのまま胸ポケットへ入れる。
「確認所へ向かうのですね」
「そうだ」
「目的をお願いします」
「止めろ。降ろせ。分けろ」
短い言葉が机の上へ落ちた。
田所の頭には、まだ何も並ばない。
誰を止めるのか。
どこまで降ろすのか。
何と何を分けるのか。
「何を基準に分けますか」
「人。武器。荷物。証言」
直樹が連絡票を田所へ滑らせた。
「混ぜるな」
田所は紙を受け取った。
指先に汗がつき、薄い紙がわずかに波打つ。
命令はある。
方法も示された。
それでも、どこまで自分で決めてよいのかは書かれていない。
安西冬馬が田所の肩越しに連絡票を見た。
「武装者がいた場合は、先に制圧しますか」
「するな」
「銃を向けられてからでは遅れます」
「向けた奴を見ろ」
「隣にいる者は」
「向けてない」
安西の顎がわずかに前へ出た。
「同じ部隊かもしれません」
「かもしれない、で撃つな」
安西は口を閉じた。
喉の奥で何かを飲み込む音がした。
「了解しました」
田所は安西の横顔を見た。
納得したわけではない。
それでも命令には従う。
安西は、そういう男だった。
ただ、その我慢がどこで切れるのかを、田所はまだ知らない。
柴崎誠は照合用の透明封筒を机へ置いた。
角が机の縁と平行になるまで、指先で二度直す。
「通行証は自分が確認します」
「やれ」
「偽造の疑いがあれば、通行を止めます」
「無効と決めるな」
柴崎の指が封筒の上で止まった。
「確認不能で保留します」
「そうしろ」
「了解しました」
封筒の端を押さえる指から、少しだけ力が抜けた。
規則の外へ出ろとは言われなかった。
規則の中にいろとも言われなかった。
田所には、柴崎の前にだけ細い板が渡されたように見えた。
踏み外せば落ちる。
どちら側へ落ちるのかは分からない。
御厨奈々が救急鞄を肩へ掛けた。
八九式小銃の負い紐と重なり、鞄が胸元で止まる。
御厨は二本の紐を外し、救急鞄を下、小銃を上へ入れ替えた。指の動きに迷いはない。
「医療上の処置は、自分で判断します」
「任せる」
「低温管理品があれば、所有者の確認前でも移動させます」
「位置を残せ」
御厨が柴崎を見る。
柴崎も御厨を見た。
「了解しました」
返事は御厨一人のものだった。
片桐が車両配置図を手に取る。
紙の上に指を置き、確認所へ入る角度をなぞった。
「現地の車両配置は、自分が決めます」
「決めろ」
「対象車両も動かします」
「必要ならな」
片桐の指が止まる。
「記録担当と判断がぶつかった場合は」
「二人で決めろ」
片桐が柴崎を見る。
柴崎は透明封筒から視線を上げた。
二人とも、すぐには返事をしなかった。
「了解しました」
声だけが重なった。
江藤沙月は通信箱の留め具を閉じた。
金具が噛み合う乾いた音がした。
「車両ごとに記録を分けます」
「任せる」
「通行証が一括でもですか」
「見たものを残せ」
「了解しました」
江藤は通信箱の側面へ、白い布テープを二枚貼った。
A。
B。
まだ見ていない車両へ、先に名前を与えた。
田所は八人を見た。
全員に仕事が渡されている。
誰も、命令が来るまで動くなとは言われていない。
それなのに、部屋の空気は軽くならなかった。
御厨が薬を動かせば、柴崎の記録する位置が変わる。
片桐が車両を動かせば、江藤が受け取った情報が古くなる。
子どもを守ろうとすれば、同行する大人から引き離すことになる。
誰かの仕事へ触れずに済ませられる仕事が、一つもなかった。
田所は胸ポケットの経路図へ指を当てた。
折り畳んだ紙の角が、迷彩服越しに肋骨へ当たる。
昨夜決めた道には、正解が描かれていた。
今日向かう場所には、線がない。
「行くぞ」
直樹が部屋を出た。
椅子が戻される音も、紙をまとめる音も続かなかった。
八人は一斉に立った。
*
校舎脇には二台の車両が並んでいた。
先頭は小型ジープ。
低い車体には、泥をこすり落とした跡と古い擦過痕が残っている。後部には簡素な銃座が設けられ、ミニミ機関銃が道路とは反対側へ向けられていた。
後続は中型トラックだった。
荷台には木製の長椅子が左右へ固定されている。床には洗っても落ちなかった黒い染みが点々と残っていた。
任務へ出る十一人は、全員が折曲銃床式の八九式小銃を携行していた。
田所。
柴崎。
安西。
江藤。
片桐。
宮浦颯。
御厨。
芦田真希。
教育隊八名。
直樹。
相良遼介。
堀越俊介。
芦田が負い紐を直した。
銃床が腰の水筒へ当たり、硬い音が鳴る。
安西が振り返った。
「銃口をこちらへ向けないでください」
芦田は小銃の先を見た。
「向けていません」
「今、足に向いていました」
「足も人に含まれるんですね」
「自分の足です」
芦田は一度、安西の靴を見た。
「すみません」
小銃を背中へ回す。
今度は銃床が肩甲骨へ当たり、芦田の顔がわずかに歪んだ。
「安西さんも昨日、扉へぶつけていましたけど」
安西が黙る。
宮浦が顔を伏せた。
肩が一度だけ揺れた。
「宮浦さん」
「はい」
「笑っていますか」
「いいえ」
「顔を上げてください」
宮浦は口元を手の甲で隠した。
「今は無理です」
田所は笑えなかった。
それでも、喉の奥に張りついていたものが少しだけ剝がれた。
玄関前には、相良と堀越が立っていた。
相良は迷彩服の第一ボタンを開け、顎を上げている。胸元には八九式小銃。黒い任務票が、左胸のポケットから半分だけ覗いていた。
堀越はその隣にいた。
同じ迷彩服。
同じ八九式小銃。
相良より背を丸めているわけではない。
それでも、目を離すと背景へ溶けてしまいそうだった。
直樹は相良の前で止まった。
任務票を抜き、裏返す。
昨日の日付の横に、大きな丸がある。
直樹は鉛筆の先で、その丸を二度叩いた。
「昨日の丸は使わない」
相良が紙を見る。
直樹は今日の日付を指した。
「今朝の話は」
「キイタ」
「俺がお前を刺した」
「キイタ」
「今、出るか」
相良は直樹を見る。
目の奥に迷いはなかった。
迷いがないことが、田所にはかえって怖かった。
昨日何を選んだのかではない。
今この瞬間、もう一度同じ場所へ立つと決める。
相良は短く答えた。
「イク」
「嫌になったら降りろ」
「ウルセエ」
相良は直樹の手から任務票を奪った。
胸ポケットから短い鉛筆を抜く。
今日の日付の横へ、大きな丸をつけた。
芯が紙へ食い込み、裏側まで跡を残す。
相良は任務票を堀越へ押しつけた。
「ゴエサン」
「預かる」
堀越は昨日の丸と、今日の丸を見比べた。
紙を折らず、胸ポケットへ入れる。
「医療側の許可は出ている」
直樹がジープの後部を指した。
「相良。銃座」
相良の口元がわずかに上がる。
「オレノダ」
「借り物だ」
「ケチダ」
相良は八九式小銃の負い紐を短くした。
小銃を背中へ回す。
後輪へ足を掛け、車体の縁をつかんだ。
踏み込む足に迷いはない。
銃座へ上がり、ミニミの銃把を握る。
銃架を左右へ振った。
金属がわずかに鳴る。
「マシバァ」
「何だ」
「ユルイ」
相良が留め具を指した。
直樹は車体へ上がり、固定具を締め直す。
金具を指で押し、もう一度体重を掛けた。
「見ろ」
相良が銃架を動かす。
今度は余計な遊びがなかった。
「マアマア」
「落ちるな」
「オマエ‥‥ガナ」
直樹は答えず、助手席へ乗り込んだ。
八九式小銃を膝の間へ立てる。
右手で銃床を押さえた時、指の動きが一瞬だけ遅れた。
田所は見なかったことにしようとした。
目をそらす前に、相良が同じ場所を見ていることに気づいた。
相良は何も言わない。
片桐が運転席へ座り、ミラーを合わせた。
銃座の相良が映る位置まで少し上げる。
「シンペイ」
片桐が手を止めた。
「はい、相良さん」
「マエミロ」
「乗員を確認しています」
「オレ‥‥ミルナ」
「銃座から落ちた場合に困ります」
「オチナイ」
「先ほど固定具が緩んでいました」
相良の眉が上がった。
「ナマイキ」
「失礼しました」
片桐は前を向いた。
口元がわずかに動いていた。
堀越は中型トラックの荷台へ向かう。
田所は乗員を確認した。
「片桐さんを除き、七名です」
堀越が荷台の縁へ手を掛けた。
「八人だ」
田所は先頭のジープを見る。
運転席に片桐がいる。
手はハンドル。
目は前方。
荷台にはいない。
それでも、教育隊の一人だった。
「片桐さんを含め、教育隊八名です」
「運転手を消すな」
「了解しました」
堀越が荷台へ上がる。
田所はもう一度、全員を目で追った。
柴崎。
安西。
江藤。
片桐。
宮浦。
御厨。
芦田。
田所。
八人。
八丁の八九式小銃。
教官役三名にも一丁ずつ。
銃座にはミニミ機関銃。
鉄と油の臭いが、朝の湿った空気へ混じっていた。
これほどの武器がありながら、田所は守られているとは思えなかった。
銃が増えるほど、間違えた時に失うものも増える。
玄関の扉が開いた。
宮崎めぐみが出てきた。
直樹は助手席の扉へ掛けた手を止めた。
めぐみは走らなかった。
けれど、歩幅はいつもより広い。
直樹の前まで来ると、迷彩服の襟へ手を伸ばした。
折れた布を、指先でゆっくり直す。
「帰る?」
「帰る」
「今日中に?」
「帰る」
めぐみの指が止まった。
「なお」
直樹が目をそらさない。
「今日中に帰る」
「最初からそう言って」
「最初からそのつもりだ」
めぐみは直樹の目を見た。
そこに嘘があるかを探しているのではない。
約束を破るつもりがなくても、帰れなくなる人だと知っている目だった。
「約束?」
「ああ」
「銃を持っていく時のなおは、返事だけは早いね」
「遅い方がいいのか」
「考えてから言ってほしい」
「考えた」
「何を?」
「帰ることを」
めぐみの指が、直樹の襟をつまんだまま動かなくなる。
田所は視線を外そうとした。
それでも、めぐみの声が耳へ入った。
「自分が残る理由じゃなくて?」
直樹は答えなかった。
校舎の軒先から落ちた水滴が、ジープのボンネットへ当たった。
一度。
もう一度。
めぐみは直樹の襟から手を離した。
指先が迷彩服の布を離れるまで、少し時間がかかった。
「待ってる」
「ああ」
めぐみが一歩下がる。
距離ができた瞬間、直樹の表情から何かが消えた。
田所には、それが任務へ戻る顔に見えた。
ミーシャが通信箱を抱えて近づいた。
肩にはアフガンスカーフが掛かっている。
箱の重さを支える左腕に、細い血管が浮いていた。
「予備周波数を登録しました」
「学校側を持て」
「了解しました」
「北側回線も見ろ」
「確認します」
ミーシャは通信箱を江藤へ渡した。
江藤が両手で受け取り、留め具へ指を掛ける。
ミーシャはジープの後部を見た。
相良は銃座に座り、ミニミの銃口を道路から外している。
「コウハイ」
ミーシャが顔を上げた。
「何ですか」
「メシクエ」
「食べました」
「ウソダ」
ミーシャの目が一度だけ横へ動いた。
「半分です」
「クエ」
「帰還後に食べます」
「ナマイキ」
相良は鼻を鳴らした。
ミーシャは相良の背中へ回された八九式小銃を見る。
続いて、ミニミの固定部へ視線を移す。
「銃架は確認しましたか」
「シタ」
直樹が助手席から答えた。
「俺が見た」
「分かりました」
ミーシャの目が、直樹の八九式小銃へ移る。
弾倉。
負い紐。
折り畳まれた銃床。
右手。
順番に追った。
最後に直樹の顔を見る。
「帰還してください」
命令ではない。
願いとも違う。
任務連絡と同じ形へ押し込んだ声だった。
直樹が答える前に、相良が口を開いた。
「オマエ‥‥モダ」
ミーシャは相良を見上げた。
「了解しました」
直樹が助手席の扉を閉める。
「片桐」
「はい」
「出せ」
「了解しました」
片桐がクラッチをつないだ。
小型ジープが動き出す。
相良は銃座で上体を低くした。ミニミを正面へ向けず、道路脇と後方を見渡せる角度に保つ。
中型トラックが続いた。
荷台の床から、エンジンの振動が田所の靴底へ伝わる。
田所は校舎を振り返った。
めぐみとミーシャが玄関前に立っている。
二人とも、遠ざかるジープを見ていた。
めぐみの左手は胸元。
ミーシャの手は身体の横で固く閉じられている。
その間には、人ひとりが通れる距離が残っていた。
*
旧県道へ入ると、舗装の割れ目が深くなった。
タイヤが亀裂を踏むたび、トラックの荷台が鈍く跳ねる。
片桐は速度を上げなかった。
路肩へ寄りすぎない。
後続車を曲がり角の向こうへ消さない。
銃座の相良を大きく揺らさない。
田所には、片桐が何度も同じ道を走っているように見えた。
実際には初めての道だった。
「右側が崩れています」
片桐の声が無線から届く。
「左へ寄せろ」
「後続との間隔を広げます」
「任せる」
片桐が車載無線を取った。
「後続車、車間を五十メートルまで広げてください」
田所は無線機を押した。
「後続車、了解しました」
トラックが速度を落とす。
前を走るジープとの間に、灰色の道路が伸びた。
曲がり角が近づく。
相良が銃座から後方を見る。
「シンペイ」
片桐の返事が返る。
『はい』
「アキスギ」
田所も前を見る。
ジープの後部が、曲がり角へ半分隠れかけている。
田所の腹の奥が縮んだ。
見えなくなる。
それだけで、前方のすべてから切り離される気がした。
片桐の声が飛ぶ。
『後続車、四十メートルまで詰めてください』
「了解しました」
運転手がアクセルを踏む。
荷台が前へ押される。
曲がり角を抜けると、ジープの銃座が再び見えた。
相良が前を向く。
片桐の声が無線へ入る。
『主任教官』
「何だ」
『五十メートルでは開きすぎました』
「ああ」
『相良さんの判断が正しいです』
「ああ」
短い返事が続く。
片桐はそれでも聞いた。
『事前に分かっていたのですか』
「道を見て決めろ」
『自分の判断が間違っていた場合は』
「直せ」
無線の奥で、片桐が息を吸う音がした。
『それだけですか』
「それだけだ」
片桐は返事をしなかった。
田所は膝の上の八九式小銃へ目を落とした。
間違えてもよいとは言われていない。
正解を当てろとも言われていない。
間違えたと気づいた後、直せ。
それだけだった。
銃座から相良の声が入る。
「ヘタクソ」
『相良さんも、先ほど固定具を見落としました』
相良の肩が動いた。
「シンペイ」
『はい』
「マエミロ」
『了解しました』
荷台で宮浦が小さく息を吐いた。
笑ったのか、緊張が漏れたのか、田所には分からなかった。
通信機が鳴る。
『こちら南第三』
ミーシャの声だった。
直樹が応答する。
「言え」
『対象車両は二台。追随車両は確認されていません』
「情報はいつだ」
『十四分前です』
「古い」
『更新します』
「学校名が漏れていないかも見ろ」
返事がすぐには来なかった。
雑音の向こうで、何かを操作する音がした。
『確認します』
回線が切れる。
片桐が前を見たまま聞いた。
『学校名が漏れていると考えているのですか』
「分からない」
『では、なぜ調べるのですか』
「分からないからだ」
田所は胸ポケットの連絡票へ手を当てた。
分からないから調べる。
分からないから止める。
分からないから、すぐには敵と決めない。
その間にも、相手は近づいてくる。
相良が銃座から直樹を見る。
「マシバァ」
「何だ」
「オマエ‥‥モダ」
「何がだ」
相良は少し間を置いた。
「ハチニン」
直樹は返事をしなかった。
田所はトラックの中で顔を上げた。
八人。
片桐を消すな。
運転している者も数えろ。
それだけではない。
相良が数えている中には、直樹も入っている。
そのように聞こえた。
相良は前へ向き直った。
「ヘタクソ」
無線は静かになった。
*
臨時確認所は、旧県道の途中へ置き去りにされていた。
錆びた遮断棒。
窓の割れた事務室。
雨染みの残る積荷確認用の屋根。
人を分けられる小部屋。
東へ延びる保守道路。
北と南には、低い木の生えた斜面。
風が吹くたび、割れた窓の奥で何かが鳴った。
完全に背中を預けられる場所はない。
片桐の声が無線へ入る。
『ここへ止めます』
小型ジープが舗装区画の端へ入った。
車体を斜めに向ける。
銃座が道路の正面を向かない。
前にも後ろにも出られる。
中型トラックが転回する場所も残る。
直樹が助手席から聞いた。
「理由は」
『対象車両から銃座が正面に見えません。退路も残ります』
「止めろ」
『了解しました』
ジープが止まる。
相良は銃座に残り、ミニミの銃口を低く外したまま、道路と斜面を見た。
直樹が助手席から降りる。
八九式小銃を胸の前へ回した。
銃口は下。
指は引き金から外れている。
後続車が確認所へ入った。
田所たち七名と堀越が荷台から降りる。
地面へ足をついた瞬間、湿った土と古い油の臭いが鼻へ入った。
「散れ」
「了解しました」
直樹が指で場所を示す。
「柴崎。事務室」
「はい」
「江藤。通信」
「はい」
「御厨、芦田。小部屋と電源」
「了解しました」
「安西、宮浦。斜面」
「はい」
「片桐。車両」
「了解しました」
「田所。全体」
田所の喉が一度詰まった。
全体。
何か一つを見る仕事ではない。
誰か一人の判断へ隠れる場所もない。
「了解しました」
「堀越。後ろ」
「分かった」
相良が銃座から声を飛ばした。
「シンペイ」
八人が顔を上げる。
「ウゴケ」
「了解しました」
坂の向こうからエンジン音が聞こえた。
一台。
少し遅れて、もう一台。
音が地面を伝い、田所の靴底へ入ってくる。
指先が冷えた。
訓練では、対象車両がどこで止まり、何人降り、誰が武器を持っているかまで決められていた。
今は音しかない。
音の向こうにいる人数も、目的も分からない。
先頭のワゴン車が姿を現した。
白かった車体は泥で灰色になっている。右側のライトは割れ、透明なテープで覆われていた。
後部窓には段ボールが貼られている。
小型輸送トラックが続く。
二台の間隔が狭い。
片桐が道路中央へ出た。
八九式小銃を背中へ回し、両手を見える位置へ出す。
「先頭車は白線の手前で停止してください。後続車は十メートル空けてください」
ワゴン車が止まる。
ブレーキが軋んだ。
トラックは指定された位置を越えた。
片桐は一歩も退かない。
「後続車、五メートル下がってください」
動かない。
運転席の男は片桐を見ていなかった。
小型ジープ。
銃座の相良。
ミニミ。
直樹。
順番に見ている。
片桐の背中が、迷彩服越しにも硬くなるのが分かった。
「後続車。下がってください」
返事はない。
片桐が運転席へ近づく。
「運転手だけ降りてください」
助手席で人影が動いた。
安西の八九式小銃が数センチ上がった。
金具が鳴る。
「下げろ」
堀越が命じた。
「しかし、助手席が――」
「撃ってない」
安西は銃口を下げた。
「了解しました」
田所が道路へ出た。
胸の中で心臓が強く打っている。
声だけは揺らさないよう、腹へ力を入れた。
「両車両とも、運転手だけ降りてください。両手を見える位置にお願いします」
ワゴン車の扉が開く。
痩せた男が両手を上げて降りた。
助手席の扉も開きかける。
「運転手だけです」
田所が止めた。
扉が閉じる。
トラックの運転手も降りた。
「通行許可があります」
ワゴン車の男が言った。
汗の跡が、首元で黒くなっている。
片桐は男へ近づかない。
「車両位置を直してください」
「責任者と話します」
「車両は自分の担当です」
「あなたが責任を取るのですか」
片桐の頬が硬くなった。
視線が直樹へ動きかける。
途中で止まる。
「下げてください」
「責任者を呼んでください」
片桐の右手が身体の横で閉じた。
一度開く。
もう一度、男を見る。
「従えない場合は、エンジンを切って鍵を預かります」
田所は片桐を見る。
そこまで許可されていたかは分からない。
片桐自身にも分かっていないはずだった。
けれど、後続車が出口を塞いでいる。
今動かさなければ、必要な時に自分たちが出られない。
トラックの運転手は、片桐の後ろにいる直樹を見た。
直樹は何も言わない。
運転手は舌打ちし、車内へ戻った。
トラックが五メートル下がる。
排気の臭いが広がった。
片桐が戻ってくる。
柴崎が端末を向けた。
「移動前の位置を記録していません」
「自分が見ています」
「記憶は記録ではありません」
「道が塞がっていました」
「写真を撮る時間はありました」
片桐の呼吸が一度深くなる。
「次から撮ってください」
「次からでは遅いです」
「では、どうすればよかったのですか」
「自分を呼んでください」
「呼んでいる間に動かれたら?」
「記録せずに動かすよりましです」
「道を塞がれるよりはましです」
声が一段ずつ硬くなる。
二人とも自分の仕事を守ろうとしている。
どちらも間違っているようには聞こえない。
だから、田所の喉が乾いた。
「二人とも、そこまでです」
二人の視線が田所へ向く。
田所は胸の中で言葉を探した。
片方を正しいとすれば、もう片方の判断を潰す。
両方正しいと言えば、次も同じ場所で止まる。
「柴崎さんは移動後の位置を記録してください。片桐さんは元の位置を図面へ残してください」
柴崎の眉がわずかに動く。
片桐も口を開きかけた。
それでも二人は答えた。
「了解しました」
声が重なった。
片桐が図面を出す。
柴崎が端末を構える。
直樹は口を挟まない。
田所の背中に汗が流れた。
止められなかったわけではない。
任された。
その重さが、今になって肩へ乗った。
ワゴン車の男が透明袋を差し出す。
「全員分の通行証です」
柴崎が受け取った。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
紙をめくる音だけが続く。
すべてに同じ赤い行政印がある。
発行番号の並びだけが不自然だった。
「照会番号が登録規則と一致しません」
「現地発行です」
「発行元へ照会します」
「子どもが乗っています」
「確認中です」
「具合が悪い」
田所がワゴン車を見る。
段ボールの隙間から、小さな指が見えた。
すぐに引っ込む。
田所の胸の奥が引かれた。
「先に降ろしてください」
「通行許可が先でしょう」
「子どもの具合が悪いのですよね」
男は黙った。
「違いますか」
「違いません」
「なら降ろしてください」
「武器を持った護衛もいます」
「武器は肩から外さないでください。両手だけ見せてください」
「それでは子どもを守れません」
直樹が口を開いた。
「俺たちが守る」
男が直樹を見る。
「全員を?」
「降ろせ」
男の口元がわずかに動いた。
田所は、その表情を見逃さなかった。
安心した顔ではない。
脅された顔でもない。
何かを確かめた顔だった。
ワゴン車の後部扉が開く。
湿った布と汗の臭いが流れ出た。
最初に降りたのは、毛布を肩へ巻いた女の子だった。
片方の靴紐がほどけている。
靴底が地面へついた瞬間、身体が小さく揺れた。
続いて少年が二人。
成人女性。
高齢の男性。
小銃を持った男が二人。
田所は人数を数えた。
一人ずつ、目で輪郭をなぞる。
「子ども三名。成人女性一名。高齢男性一名。武器所持者二名。運転手一名」
宮浦が手帳へ書く。
鉛筆を持つ指が少し震えている。
相良が銃座から子どもたちを指した。
「コドモ‥‥サキ」
武器を持つ男が相良を見る。
「俺たちは護衛だ」
「ウゴクナ」
「話が通じているのか」
相良の顎が上がる。
「シンペイ」
田所が振り返る。
「はい、相良さん」
「オマエ‥‥ヤレ」
相良は銃座から降りない。
ミニミも男へ向けない。
田所へ場所を渡した。
そのことが、田所には命令より重く感じられた。
田所は子どもと武器所持者の間へ入る。
背中へ子どもたちの気配がある。
正面には二丁の小銃。
喉の奥が乾く。
「武器はそのままで構いません。両手を見える位置へお願いします」
男は相良を見る。
次に田所を見る。
小銃を背中へ回し、両手を開いた。
トラックからも人が降りる。
子ども一名。
成人女性一名。
武器を持つ男二名。
運転手。
最後に、灰色の上着を着た男が降りた。
他の乗員より衣服の汚れが少ない。
襟は折れていない。
靴の泥も落としてある。
男は直樹ではなく、田所を見た。
「情報提供を行った者です」
声は穏やかだった。
穏やかなことが、田所にはかえって不自然に感じられた。
柴崎が通行証を持って近づく。
「お名前をお願いします」
男は書類に記された名前を答えた。
「生年月日は」
答えが二年ずれている。
柴崎が顔を上げた。
「記載と一致しません」
「発行者の間違いです」
「出発地は」
男が地名を答えた。
ワゴン車の高齢男性が、杖を地面へ打ちつけた。
乾いた音が響く。
「違う」
灰色の男が振り返る。
「長い移動で混乱しています」
「混乱しとらん」
老人は杖を握り締める。
節の浮いた指が白くなる。
「俺は、そこから来とらん。途中で乗せられた」
成人女性も顔を上げる。
「私もです」
柴崎が女性へ身体を向けた。
「運転手とは、いつ会いましたか」
「昨日です」
女性はワゴン車の運転手を見た。
「昨日の夕方」
「書類では、三日前から同じ集団です」
「そんなの知りません」
灰色の男が小さく息を吐いた。
「些細な違いです」
柴崎の指が止まる。
透明封筒の端が、指の力で曲がった。
「些細かどうかは、こちらで判断します」
「判断できるのですか」
「どういう意味ですか」
「あなたは書類を見る方でしょう」
男は田所へ視線を移した。
「決める方ではない」
柴崎の頬が赤くなる。
田所の胃の奥も固くなった。
男は見ている。
誰が決めるのか。
誰が直樹へ視線を送るのか。
八人の間にある見えない継ぎ目を、指でなぞるように見ている。
江藤が透明封筒を二つ机へ置いた。
「柴崎さん」
「何ですか」
「分けてください」
「全員、同じ行政印です」
「車両が違います」
「同じ集団として申告されています」
「申告です」
江藤はワゴン車を指した。
「こちらに子ども三名」
次にトラックを指す。
「こちらに一名」
灰色の男を見る。
「あなたが一緒だと言っただけです」
「子どもを引き離すのですか」
江藤の指が止まった。
田所は江藤の横顔を見る。
通信箱を持つ時と同じ顔をしている。
けれど、左手の親指だけが記録紙の端を強く押さえていた。
「二台を、同じ記録にしないでください」
声が低くなる。
「混ぜたら、誰がどこにいたか消えます」
柴崎は封筒の一方へA、もう一方へBと書いた。
文字の最初の線が少しだけ曲がる。
それでも、通行証を分け始めた。
灰色の男の笑みが消えた。
田所はその変化を見た。
男が嫌がったのは、銃を向けられることではない。
記録を分けられることだった。
トラックから降りた少年が咳をした。
乾いた、小さな咳だった。
御厨が近づく。
「診ます」
灰色の男が腕を伸ばした。
「先に通してください。低温管理の医薬品もあります」
御厨は男の腕の前で止まる。
「子どもの呼吸が先です」
「薬も人命です」
「分かっています」
「なら、順番を間違えないでください」
御厨の目が細くなる。
「どいてください」
「責任を取れるのですか」
「どけ」
直樹の声が飛んだ。
灰色の男が直樹を見る。
腕を下ろす。
御厨が少年の前へしゃがんだ。
八九式小銃を背中へ回す。
膝が地面の砂を擦った。
「名前は言わなくて大丈夫です。息は苦しいですか」
少年は答えない。
灰色の男を見る。
武器を持つ男を見る。
最後に、ワゴン車から降りた三人の子どもを見る。
年上の少年が小さく首を振った。
トラックの少年は唇を結ぶ。
田所はその動きを見た。
答えないのではない。
答えられない理由が、どこかにいる。
芦田が水筒を出した。
蓋を緩める。
「ここへ置きます」
少年の手へ渡さず、地面へ置いた。
「飲みたくなったら取ってください」
水筒が砂の上で少し傾いた。
少年の肩がわずかに下がる。
「四人は一緒です」
灰色の男が言う。
田所は男を見る。
「誰へ聞かれましたか」
「私が案内しました」
「子どもに聞きます」
「怯えています」
「あなたにですか」
男の顔から笑みが消えた。
田所は子どもたちへ向き直る。
どの言葉なら答えられるのか分からない。
質問を間違えれば、沈黙を大人の都合へ使うことになる。
「一緒にいたい人がいるなら、指を差してください」
誰も動かない。
女の子のほどけた靴紐だけが、風で揺れた。
「離れたい人がいるなら、見なくていいです」
トラックの少年が俯いた。
ワゴン車の女の子が成人女性の服をつかむ。
小さな指が布へ食い込んだ。
「小部屋を分けます」
田所が言った。
自分の声が遠く聞こえた。
「車両Aの子ども三名と女性一名。車両Bの子ども一名は御厨さんが確認してください」
灰色の男が一歩出る。
「南第三は、沈黙を同意として扱わないと聞きました」
田所の背中が固くなる。
学校の名前。
原則。
言葉の使い方まで知っている。
「黙っている子どもを、あなた方の判断で引き離すのですか」
田所は答えを探した。
間違えれば、男の言うとおりになる。
直樹の位置を、視界の端で感じた。
見れば答えが来る。
そう思った瞬間、自分の首を自分で止めた。
「沈黙しているから、一緒にするのですか」
灰色の男の目が細くなる。
田所は続けた。
「その子が答えるまで、あなたは入れません」
「誰の権限で?」
喉の奥が狭くなる。
直樹は何も言わない。
銃座の相良も、田所だけを見ている。
「自分の判断です」
声に出した瞬間、足の裏が地面へ沈んだ気がした。
「正式な拘束ですか」
「違います」
「違いは?」
「扉を閉めません」
田所は小部屋を指す。
「出たいと言えば聞きます。あなたは入れません」
「なぜです」
少年の俯いた頭が見える。
「子どもが、あなたを見て黙るからです」
灰色の男は答えなかった。
その沈黙は、子どもたちの沈黙とは違った。
御厨と芦田が子どもを移動させる。
芦田が女の子の前へしゃがみ、ほどけた靴紐を結んだ。
女の子は芦田の頭を見下ろしたまま、動かなかった。
トラックの幌が上がる。
荷台には白い保冷箱が三つ並んでいた。
輸液。
抗菌薬。
鎮痛薬。
インスリン。
縫合器材。
包帯。
薬品と冷却材の臭いが、荷台から流れてくる。
御厨が温度表示を確認した。
「温度が上がっています」
柴崎が荷台へ近づく。
「所有者を確認できていません」
「待てません」
「動かせば位置が変わります」
「動かさなければ使えなくなります」
「記録が先です」
「患者は待ちません」
二人の視線がぶつかった。
御厨の右手は保冷箱の取っ手。
柴崎の右手は端末。
どちらも離さない。
田所は直樹を見なかった。
見れば、決めることから逃げられる。
胸の奥で心臓が速く打っている。
「江藤さん。写真をお願いします」
「撮ります」
「芦田さん。箱の数を」
「保冷箱三つ。医療物資四箱です」
「柴崎さん。時刻と位置を残してください」
柴崎が田所を見る。
「その後はどうしますか」
「移します」
「後で問題になります」
「その時は自分が説明します」
「班長だからですか」
田所の喉が動く。
班長だから。
命令されたから。
直樹がいるから。
どれも、今口にすれば逃げに聞こえる。
「今、決めたからです」
柴崎は田所を見る。
何かを確かめるように、一秒だけ長く。
端末を構えた。
「撮ります」
御厨が保冷箱へ手を掛ける。
片桐がジープへ向かう。
「車両を寄せます」
「お願いします」
「対象トラックを動かす必要があります」
柴崎が振り返った。
一度目と同じ衝突が来る。
田所の肩へ力が入った。
柴崎は端末を上げた。
「移動前を撮ります」
片桐の目がわずかに見開かれる。
「お願いします」
二人の視線が一度だけ合った。
今度は、どちらも言葉を重ねなかった。
小型ジープのエンジンがかかる。
相良は銃座に残り、ミニミを保守道路と斜面の間へ向けた。
人へは向けない。
荷台の奥で木箱がずれた。
乾いた音が鳴る。
安西が荷台へ足を掛けた。
「待て」
堀越が命じる。
「中を確認します」
「一人で入るな」
安西の足が止まった。
「了解しました」
宮浦が懐中灯を出した。
スイッチを入れる手が一度滑る。
二人で荷台の奥を照らす。
木箱の蓋がずれていた。
未登録の身分証用紙。
行政印の金型。
北側部隊用の通行票。
油紙に包まれた小銃部品。
暗号通信機器の基板。
一番奥に、黒い封印箱がある。
光を吸うような黒だった。
角だけが金属で補強されている。
灰色の男が箱を見た。
一瞬だった。
それでも銃座から相良の声が飛んだ。
「マシバァ」
直樹は男から目を離さない。
「見た」
「ハコダ」
灰色の男が直樹へ顔を戻す。
「医薬品以外は、私たちの所有物ではありません」
「誰の物だ」
「知りません」
「同じ荷台にある」
「途中で積まれました」
「誰が積んだ」
「見ていません」
「お前が案内した」
「人を案内しました」
男は声を荒らげない。
「荷物ではありません」
田所は男の言葉を聞いた。
正しい。
同じ荷台にあるから、同じ所有者とは限らない。
第195話の最初に直樹が言った。
混ぜるな。
その言葉を、今度は男が盾に使っている。
「箱の中身を知っていますか」
田所が聞いた。
「知りません」
「なぜ見たのですか」
「あなたも見たでしょう」
「自分は今、初めて確認しました」
「私もです」
「嘘だ」
安西が言った。
灰色の男が安西を見る。
「証明できますか」
安西の手が八九式小銃の銃床へ沈む。
指の関節が白くなる。
「できます」
「安西さん」
田所が止める。
安西は男から目を離さない。
「何ですか」
「今のは推測です」
「見たでしょう」
「見ました。意図は分かりません」
「それでは遅い」
安西の声に、斜面へ入る風の音が重なった。
「推測で撃つよりましです」
田所は言った。
安西の目が田所へ向く。
責められている目だった。
それでも、安西は銃床から手を離した。
灰色の男が二人の間を見ている。
江藤が記録用紙へ書いた。
鉛筆の先が紙を擦る。
「情報提供者を名乗る男性が、黒い封印箱を注視」
男の視線が江藤へ向く。
江藤は続けた。
「意図は未確認」
「慎重ですね」
「忘れないためです」
「何を?」
江藤が初めて顔を上げる。
「あなたが、子どもより先に箱を見たことです」
男の表情が消えた。
堀越が北側の斜面へ顔を向けた。
「いる」
安西が反応する。
「位置をお願いします」
「上」
「人数は」
「分からん」
「武器は見えますか」
「見えん」
「確認へ行きます」
「行くな」
安西の足が斜面へ向いたまま止まる。
「しかし――」
「寄せてる」
「何をですか」
堀越は東側の保守道路を見る。
「目を」
田所も東を見る。
何も見えない。
木の葉。
壊れた柵。
道路の先で揺れる陽炎。
灰色の男も同じ方向を見ていた。
金属を打つ音がした。
一度。
遠い。
偶然の音にも聞こえる。
合図にも聞こえる。
相良が銃座で上体を低くした。
「ミテル」
直樹は灰色の男へ八九式小銃を向けない。
「誰を待っている」
「誰も待っていません」
「何を待っている」
「通行許可です」
通信機から、めぐみの声が入った。
『こちら南第三。なお、聞こえる?』
直樹の肩が、ごくわずかに下がった。
「聞こえる」
『怪我人は』
「いない」
『子どもは』
「四人」
田所は小部屋を見る。
四人。
数字だけなら短い。
その一人ずつに、顔と靴と咳がある。
雑音が混じる。
『帰ってくる?』
直樹は東側の道を見たまま答えた。
「帰る」
『約束?』
「ああ」
短い返事だった。
出発前と同じ声だった。
田所は、なぜかその声を信じきれなかった。
『なら、待ってる』
回線の奥で、機材が触れ合う音がした。
ミーシャの声が割り込む。
『NAO、北側照会から追加です』
「言え」
『同じ行政印の通行証が、別地点でも確認されています』
「何枚だ」
『七枚。増えています』
「金型が流れてる」
『可能性があります』
田所は荷台にある金型を見る。
赤い印。
同じ集団に見せる紙。
違う場所から来た人間を、一つの記録へ押し込む道具。
「学校名を知っていた」
『確認します』
「内側も探せ」
回線の向こうで、ミーシャが息を止めたような間があった。
『了解しました』
江藤が端末を見る。
受信表示が短く揺れた。
「受信強度が落ちています」
「予備へ切り替えろ」
「了解しました」
江藤がつまみを回す。
回線が切り替わる。
雑音。
『こちら南第三――』
めぐみの声が途中で消えた。
『NAO――』
ミーシャの声も千切れる。
「こちら確認所。応答してください」
江藤が呼ぶ。
返事はない。
表示灯が一度暗くなる。
また戻る。
「もう一度送ります」
「やれ」
「こちら確認所。南第三、応答してください」
一つ目の表示灯が消えた。
次も消える。
江藤の指がつまみの上で止まった。
「通信断です」
田所の胸の中で、何かが切れた。
学校までの距離が急に伸びた。
さきほどまで聞こえていた声がない。
帰ると言った直樹の声だけが、耳の奥に残る。
その瞬間、東側からエンジン音がした。
一台ではない。
低い音。
その後ろに、もう一つ高い音が重なる。
片桐が顔を上げた。
「車両を出せます」
柴崎が書類を見る。
「照合が終わっていません」
御厨が保冷箱へ手を置く。
「薬を置いていけません」
安西が斜面を見る。
「先に上を押さえるべきです」
宮浦が小部屋を振り返る。
「子どもが分かれたままです」
声が重なった。
車両。
書類。
薬。
斜面。
子ども。
どれかを先にすれば、別の何かが遅れる。
田所は灰色の男を見る。
男の顔に、驚きはない。
エンジン音が近づくことを知っていた顔だった。
田所は直樹へ視線を向けかけた。
教えてほしかった。
どれを先にすればよいのか。
何を諦めてよいのか。
間違えた時、誰が責任を取るのか。
銃座から相良が呼んだ。
「シンペイ」
田所が顔を上げる。
相良は田所だけを見ている。
「はい」
「ワケロ」
一言だった。
人。
武器。
荷物。
証言。
そして、仕事。
全部を一つに抱えようとするな。
田所は鼻から息を吐いた。
肺の奥に残っていた空気を押し出す。
「柴崎さん。保護記録と確認記録を分けてください」
「はい」
「御厨さん。薬は電源へ移してください」
「了解しました」
「片桐さん。退路を作ってください」
「対象車両も動かします」
「お願いします」
「安西さん。東側を見てください。追わないでください」
安西が田所を見る。
「発砲を受けた場合は」
田所の声が止まった。
その先だけが、まだ決められない。
堀越が安西を見る。
「撃った奴を撃て」
「周囲は」
「撃ってない」
安西の顔から迷いが一つ消えた。
「了解しました」
直樹が八九式小銃を持ち直す。
右手の指が負い紐へ触れ、一度だけ止まる。
東側のエンジン音が近づいてくる。
直樹は田所を見なかった。
八人全員へ言った。
「始めろ」
「了解しました」
田所は動いた。
七人も動く。
さきほどまで重なっていた声が、それぞれの場所へ散った。
*
南第三共同生活校の臨時運用室で、めぐみは受話器を耳へ押し当てていた。
雑音しか聞こえない。
砂を流し続けているような音の奥に、なおの声が残っている気がした。
「こちら南第三。なお、応答して」
返事はない。
「こちら南第三。現地確認所、聞こえますか」
送信灯だけが点滅する。
赤い光が、めぐみの指輪へ映った。
末安えりは隣の端末へ手を伸ばした。
予備回線。
北側回線。
記録回線。
三つを切り替える。
反応が消えた時刻を、細い字で記録紙へ書き込んだ。
「予備も切れた。北側も同時」
「ミーシャさんは?」
「二分前に出た」
えりは時計を見ない。
書いた時刻から計算している。
「どこへ行きましたか」
「通信箱。予備機だと思う」
ガムを奥歯へ移す。
包み紙を折り畳んだ小さな銀色の四角が、端末の脇へ置かれている。
「最後に聞こえた音は?」
「エンジンです。複数かもしれません」
「発砲は?」
「ありません」
えりが机を指で二度叩いた。
「めぐ。事実だけ」
めぐみは口を開いた。
声が出ない。
四年前も、最初は声が消えただけだった。
電話がつながらない。
連絡が来ない。
誰に聞いても、確認中だと言われる。
日が過ぎるたび、直樹がいた痕跡だけが薄くなっていった。
えりはめぐみの返事を待たず、指を折った。
「怪我人の報告なし。発砲音なし。子ども四人。通信断。以上」
「でも、エンジンが」
「記録した。まだ足さない」
めぐみの左手が閉じる。
指輪の縁が、隣の指へ食い込んだ。
少し前まで、なおの声があった。
怪我人はいない。
子どもは四人。
帰る。
約束する。
胸の中で、その四つを並べる。
どれも手で触れられない。
「また、消えたみたいで」
えりの指が一度だけ止まった。
めぐみを見ない。
すぐに別の周波数を入力する。
「知ってる」
それだけだった。
大丈夫とは言わない。
帰るとも言わない。
分かると言ったあと、指を動かし続ける。
えりの優しさは、いつも目を合わせる前に仕事へ戻った。
「なおの部屋。予備受信機と電池。三分」
「取ってきます」
めぐみが受話器を置く。
立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。
「走らないで」
えりは端末から目を離さない。
「転んだら四分になる」
めぐみは扉へ向かった。
一歩目で膝が硬くなる。
それでも歩く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
えりは、もう次の回線を呼び出していた。
*
廊下は静かだった。
瀬田ハルが子どもたちを反対側の階段へ誘導している。
一人が臨時運用室を振り返ると、ハルは背中へ手を添え、そのまま歩かせた。
誰も通信断を知らない。
知らなくていい。
めぐみは歩幅だけを速めた。
走らない。
転んだら四分になる。
えりの言葉を頭の中で繰り返す。
階段を上る。
手すりへ触れた掌が冷たい。
二階の廊下へ出ると、窓から入る夕方前の光が床へ細長く伸びていた。
直樹の私室は、突き当たりに近い。
扉の前で鍵を出す。
直樹本人から預かっている。
不在時にも入っていい。
必要な物を取っていい。
着替えを置いていい。
ここで待っていてもいい。
そう言われた時、めぐみは鍵の重さを何度も掌で確かめた。
扉を開けられる道具ではない。
戻ってくる人が、自分を部屋の内側へ置いた証だと思った。
鍵を差し込む前に、扉へ触れた。
開いた。
蝶番が小さく鳴る。
鍵は掛かっていなかった。
「なお?」
呼んだあとで、いるはずがないと思う。
それでも、部屋の中から返事があることを一瞬だけ待った。
返らない。
扉を押す。
寝台。
畳まれた毛布。
机。
壁の釘。
掛かっているはずの上着がない。
机の上に、金属製のカップがあった。
直樹の物ではない。
細い傷が縦に三本入っている。
ミーシャが外勤で使っている物だった。
カップの底が触れていた場所には、乾いた輪がいくつも重なっている。
一度置いただけではできない跡だった。
水筒が二本並んでいた。
一つは直樹の物。
もう一つは、ロシア側で使われている細い容器。
充電器には、直樹が使わない接続具が付いている。
ケーブルには、何度も同じ形に巻かれた癖があった。
記録用紙の角は正確にそろえられ、小さな文字で分類名が書かれている。
ミーシャの字だった。
胸の奥で、何かがゆっくり冷えた。
予備受信機を取りに来た。
それだけのはずだった。
けれど、部屋の中にある物が、違う時間を示している。
なおがいない時。
めぐみが知らない時。
ここで誰かが水を飲み、機器を充電し、紙をそろえた時間。
今日、初めて入った人の置き方ではなかった。
めぐみは寝台の向こう側を見る。
壁際に、ミーシャが座っていた。
肩にはアフガンスカーフ。
腕の中には、直樹の上着がある。
抱き締めてはいない。
胸へ押し当て、両手で握っている。
指が白くなっていた。
上着の袖口には、今朝めぐみが直した襟と同じ布の色が続いている。
少し前まで、自分の指が触れていた服だった。
「ミーシャさん」
ミーシャが顔を上げた。
泣いてはいない。
見つかった人の顔でもなかった。
どこへ帰ればよいのか分からなくなった人の顔だった。
めぐみは、そう見えたことにも腹が立った。
ここは直樹の部屋だ。
迷った人が偶然たどり着く場所ではない。
「何をしているんですか」
ミーシャは上着を見る。
次に、自分の手を見る。
指を離そうとした。
布が少し戻る。
それでも手放さない。
「分かりません」
「どうして、ここにいるんですか」
「通信が切れました」
「それは知っています」
「私だけ、ここにいます」
言葉がつながっていない。
ミーシャも気づいたように、唇を閉じる。
上着を握る手へ再び力が入った。
「いないと、ここへ来てしまいます」
めぐみの左手が指輪へ触れた。
自分も同じ理由で来た。
予備受信機が必要だった。
電池も取らなければならない。
三分で戻れと言われた。
それだけではない。
なおの匂いが残る場所へ来たかった。
直樹が帰る部屋で、声が戻るのを待ちたかった。
だから、分からないとは言えなかった。
分かることと、許せることは違う。
「なおは知っていますか」
ミーシャは答えなかった。
机の上のカップ。
二本目の水筒。
充電器。
角のそろった記録。
どれも仕事で触れる物だった。
寝台の近くに置かれた、小さな私物袋を除けば。
袋の口から、畳まれた布が少し見えている。
今日だけではない。
偶然でもない。
めぐみの喉が狭くなる。
扉の外から職員の声がした。
「宮崎さん」
めぐみは振り返らない。
「現地との通信、完全に切れました」
ミーシャの肩が動く。
めぐみの指が指輪へ食い込む。
二人とも同じ言葉に身体を固くした。
それでも、ミーシャは上着を離さなかった。
出てください。
返してください。
ここは、私が入っていい部屋です。
三つの言葉が、喉の手前まで上がった。
どれを言っても、自分が何に怒っているのか隠すことになる。
無断で入ったこと。
上着を持っていること。
自分の知らない時間が、この部屋に積み重なっていたこと。
めぐみは、もっと前から聞かなければならなかった言葉を選んだ。
「いつから、入っていたの」




