第194話 同じ卓の者
## 第194話 同じ卓の者
翌日の昼前、療養宿舎の車が南第三共同生活校の正門前に止まった。
先に降りたのは相良だった。
現行の陸上自衛隊迷彩服に半長靴。上衣の第一ボタンは開けたまま、顎を少し上げている。
療養中で歩幅は狭くなった。それでも、迎える側を待つ立ち方ではなかった。
自分が来た。
ならば、向こうが対応しろ。
発する言葉が短くなっても、その態度だけは以前のままだった。
玄関前で待っていた健二は、後部座席へ視線を移した。
扉が開く。
もう一人の男が降りてきた。
相良と同じ迷彩服。
同じ型の半長靴。
上衣の第一ボタンも開いている。
短く整えられた黒髪。
山で身につけていた継ぎ接ぎの布も、樹皮色の偽装もない。頬や首へ染みついていた泥も洗い落とされている。
昨日、森で見た男とすぐには結びつかなかった。
高くも低くもない鼻。
濃くも薄くもない眉。
厚くも薄くもない唇。
大きな傷も、目立つほくろもない。
年齢相応に疲れて見える。だが、その疲れ方まで、どこにでもいそうだった。
自衛官が十人並んでいれば、その中へ紛れる。
駅前ですれ違えば、数分後には服の色さえ曖昧になる。
健二は一度、男から目を外した。
もう一度見た時、最初からそこにいたはずなのに、探すのに一拍かかった。
相良の半歩後ろ。
顎を上げた、偉そうな昭和の男。その横に、存在の薄すぎる迷彩服の男が立っている。
その組み合わせで、ようやく認識できた。
「相良さんと……」
「堀越だ」
男が名乗った。
「真柴健二、直樹の弟です」
健二は頭を下げた。
堀越は健二の顔を見た。
目。
鼻。
肩幅。
手。
直樹と似ている部分を、一つずつ確かめるような視線だった。
「弟」
「はい」
相良が健二を指した。
「ケンジ」
「覚えてくれとったんですね」
「マシ‥‥バァノ」
「直樹の弟です」
「オトウト」
相良が満足そうに頷いた。
健二は玄関脇の保管箱を示した。
「学校に入る時は、武器をここで預かります」
堀越は腰へ手をやらなかった。
今日は小銃も拳銃も持っていない。
それでも健二は、規則を省かなかった。
「今後、持ってこられた時は、ここへ預けてください。帰る時に返します」
「分かった」
「子どもへ触れる時は、先に声をかけてください。名前を聞く時もです」
「なぜだ」
「この学校では、名前を勝手に取らんためです」
堀越は健二を見る。
健二は目を逸らさなかった。
「本人が名乗るまでは、こちらで呼び方を決めません」
堀越の片方の眉が、少し下がった。
「分かった」
「出入りは自由です。ただ、帰る予定だけ教えてください。捜しに行くべきか判断できんと困るので」
「捜すのか」
「帰らん予定なら捜しません。帰ると言った人が戻らんなら、捜します」
堀越は正門を振り返った。
車。
道路。
門柱。
もう一度、健二を見る。
「それでいい」
「食事は必要な分を取ってください。肉は食べんと聞いとります」
「豆でいい」
「増やしときます」
相良が玄関を顎で示した。
「ハラ‥‥ヘッタ」
「はいはい。食堂に準備してあります」
健二が先に歩いた。
相良が続く。
堀越は相良の斜め後ろについた。
二人は並んでいない。
だが、別々にも見えなかった。
相良が止まれば堀越も止まる。
堀越が廊下の奥を見ると、相良も一度だけ振り返る。
昨日まで、どちらも一人では帰れなかった男たちだった。
今日は互いを目印にして、学校の中へ入っていった。
*
校庭から戻ってきた瀬田ハルは、廊下を歩く相良を先に見つけた。
迷彩服の第一ボタンを開け、顎を上げている。
自分の家へ戻ってきたような歩き方だった。
相良の横に、誰かがいる。
そう思った時には、もう輪郭を見失っていた。
「相良さん」
ハルが声をかけた。
「オウ」
「一人?」
「ゴエサン」
相良が横を示した。
そこに男が立っていた。
柱の前。
迷彩服。
短い黒髪。
隠れているわけではない。
それでも相良の存在感に目を取られると、背景へ沈んでしまう。
「堀越だ」
「ああ。昨日の」
ハルは顔を覚えようとした。
目印になる場所が見つからない。
山にいれば木の中へ消える。
学校にいれば人の中へ消える。
そんな男だった。
「瀬田ハル。ここでは子どものことを見てる」
「八人」
「八人いる」
「守れるか」
ハルは即答しなかった。
相手が何を確かめているのか考える。
「一人じゃ無理」
堀越の眉が動いた。
「だから、みんなで守る」
相良が自分の胸を叩いた。
「オレモ」
「相良さんも」
堀越が続けた。
「俺も」
「じゃあ増えた」
ハルはそれだけ答えた。
過去に何をした男か。
どれほど強いか。
誰の命令を受けるのか。
今は聞く必要がない。
八人を守る側が二人増えた。
それが現在の学校にとっての事実だった。
「お前が決めるのか」
堀越が聞いた。
「何を?」
「子どもを出すか。残すか」
「私一人では決めない」
「誰が決める」
「本人と、健二さんと。必要なら、みんなで」
相良が鼻を鳴らした。
「オソイ」
「遅くても、勝手には決めない」
「メンドウ」
「面倒だから、一人だけに決めさせないんだよ」
相良はハルを見た。
気に入らない顔ではない。
言い返す後輩を見る顔だった。
「ナマイキ」
「相良さんに言われたくない」
相良の口元が少し上がった。
堀越もハルを見る。
子どもの数を把握している。
一人では守れないと言える。
足りない守りを、強がらずに数えられる。
それだけ見れば十分だった。
「メシ」
相良が言った。
「はいはい。食堂ね」
「ハヤク」
「場所、知ってるでしょ」
「アンナイ」
「私が行けって?」
「オウ」
「本当に偉そう」
「オウ」
「褒めてないから」
ハルが歩き出した。
相良がその後ろにつく。
堀越も音を立てずに続いた。
*
食堂の入口で、めぐみは配膳台へ皿を並べていた。
足音が近づく。
最初に相良が入ってきた。
迷彩服姿で食堂へ入っただけなのに、検分に来た古い家長のように見える。
その後ろから、堀越が入った。
めぐみは昨日よりも長く、その顔を見た。
森の中で木のように見えた男。
相良へしがみつき、声を上げて泣いた男。
今は、どこにでもいる男性の顔をしている。
めぐみは皿へ目を戻した。
一枚置く。
もう一度顔を上げると、堀越がどの席へ移動したのか一瞬分からなかった。
相良の隣を探す。
そこにいた。
顔ではなく、位置で見つけた。
「昨日は、きちんと名乗れませんでした」
めぐみは二人の前へ立った。
「宮崎めぐみです」
堀越はめぐみの左手を見た。
銀色の指輪。
次に、食堂の奥にいる直樹を見る。
直樹は健二と書類を確認していた。
めぐみが入ってきた時、直樹の肩からわずかに力が抜けた。
「宮崎」
「はい」
相良もめぐみを見る。
「ミヤザキ」
「覚えていますか」
相良は直樹を指した。
「マシバァ」
次に、めぐみの左手を指す。
「オンナ」
めぐみの手が止まった。
「その言い方は気に入りません」
相良はめぐみを見た。
「オウ」
反省した顔ではない。
聞いたというだけだった。
「直すつもりはありますか」
「ナイ」
「正直ですね」
「オウ」
めぐみは息を一つ吐いた。
腹は立つ。
言葉を失ったから仕方がないと、すべてを許す気はない。
相良は、言葉が短くなっただけだ。
考え方まで幼くなったわけではない。
自分の物言いが相手を怒らせると分かっていて、直す必要がないと思っている。
「では、私も嫌な時は嫌だと言います」
「イエ」
「言います」
相良が頷いた。
それで話は終わったらしい。
めぐみは堀越へ向き直った。
「肉を食べないと聞きました」
「いらん」
「豆と麦を多めにしています。足りなければ言ってください」
「分かった」
「子どもたちが騒がしい時間です。奥の席も空いています」
堀越は食堂を見渡した。
壁際。
出口。
窓。
直樹。
相良。
「ここでいい」
「分かりました」
めぐみは二人の席へ皿を運んだ。
厨房側の扉が開く。
髪を後ろでまとめたミーシャが出てきた。
首には古いアフガンスカーフ。
手には黒い日記と、相良の薬包がある。
「相良さん」
ミーシャは日記を相良の前へ置いた。
「昼の予定です。食後に服薬。十五時に診察があります」
相良は日記を開いた。
「チャクミ」
「戦術補佐です」
「コウハイ」
「はい」
*
今の相良が、今日も自分を後輩と呼んだ。
ミーシャは、その事実だけを受け取った。
次の周期も同じとは限らない。
相良が自分を選び続ける保証はない。
だから、その呼び方を自分へ与えられた恒久的な権利にしてはいけなかった。
ミーシャは日記へ時刻と呼称を記録した。
筆圧を一定に保つ。
胸の奥に生まれた安堵は、文字へ混ぜなかった。
堀越の前へ豆の皿を置く。
「肉類は入っていません」
堀越は皿の中を確認した。
「分かった」
ミーシャは自分の席へ向かおうとした。
相良が水差しを持ち上げる。
「チャクミ」
「はい」
相良は直樹を指した。
「マシバァ」
水差しをミーシャへ押しつける。
「水ですか」
「オウ」
「ご自分で注げます」
「オマエガ」
相良は水差しを離さない。
「ヤレ」
何を考えているのかは分かった。
茶を出す後輩。
男の世話をする女。
直樹のそばに置くべき人間。
相良の中では、その三つに大きな区別がない。
従えば、自分が望んで直樹の女の位置へ入ろうとしているように見える。
だからといって、相良の価値観ごと強く拒絶したいわけでもない。
ミーシャが欲しいのは、誰かに決められた席ではなかった。
直樹の左側で役割を果たすこと。
必要とされた時に戻れること。
それを恋人の権利へすり替えるつもりはない。
ミーシャは直樹を見た。
直樹も書類から顔を上げる。
「自分でやる」
「ヘタクソ」
「水を注ぐのに上手いも下手もない」
「相良さん」
ミーシャは相良の目を見た。
「日常動作まで、補佐の範囲には入りません」
相良の眉間へ皺が寄る。
「オンナ」
「戦術補佐です」
「コウハイ」
「それは認められています」
「ヤレ」
「却下します」
相良は不満そうに水差しを置いた。
直樹が自分で水を注ぐ。
ミーシャは自分の皿へ戻ろうとした。
その隣で、大きな音を立てずにパンが割れた。
堀越が、自分の硬いパンを二つに分けている。
柔らかい内側を、ミーシャの皿へ置いた。
「私は足りています」
「食え」
「堀越さんの分です」
「外がある」
堀越は硬い外側を持ち上げた。
自分はそれでよいという意味らしい。
「受け取る理由がありません」
「ある」
「何ですか」
堀越は相良を見た。
次に直樹。
最後にミーシャ。
「働く」
その言葉には、相良のような男女の役割はなかった。
働く者は食べる。
群れを守る者へ、必要な量を回す。
堀越が言っているのは、それだけだった。
胸の奥で、何かが緩んだ。
直樹の女としてではない。
報われない女としてでもない。
現在のチームで働く一人として、食べろと言われた。
それが思っていた以上に嬉しかった。
だからこそ、全部は受け取れない。
与えられるだけの位置へ入れば、関係は一方へ傾く。
「では、半分だけ受け取ります」
「全部でいい」
「半分です」
ミーシャはパンをさらに割り、半分を堀越へ戻した。
堀越は拒まなかった。
ミーシャは柔らかいパンを口へ運んだ。
噛む間、直樹もめぐみも見なかった。
この温かさを、誰かから何かを奪った証拠にはしたくなかった。
*
めぐみは、ミーシャがパンを半分返すところまで見ていた。
相良はミーシャを、なおの世話をする女として動かそうとした。
堀越は、働く仲間として食べ物を分けた。
似ているようで、意味は違う。
そしてミーシャは、どちらもそのまま受け取らなかった。
水差しを断った。
パンも半分返した。
相良と堀越を利用して、なおの隣へ入ろうとはしていない。
分かることと、平気でいられることは別だった。
ミーシャが露骨になおを奪おうとする女なら、もっと簡単だった。
嫌えばいい。
遠ざければいい。
敵として境界の外へ置けばいい。
だがミーシャは、なおを見ている。
深く、隠せないほど見ている。
それでも指輪を見てから、一歩を越えないようにしている。
自分の気持ちは消せないまま、行動だけを制御している。
相良と堀越がミーシャの側へ立っている。
なおの古い仲間が、ミーシャを必要な人間として認めていく。
自分の知らない直樹を知る者たちが、当然のようにミーシャをそばへ置こうとする。
その光景は、めぐみの中に残る十年分の空白へ触れた。
自分が待っていた時間。
なおが戦場で生きた時間。
ミーシャが知っている、自分の知らないなお。
指輪をした左手へ、無意識に力が入る。
それでも、ミーシャへ怒りを向けるのは違う。
今、勝手に席を決めようとしているのは相良と堀越だ。
なおも明確に止める前に、困った顔をしている。
めぐみが見なければならないのは、ミーシャの感情だけではない。
境界を決めないまま、人を自分の周囲へ置いてしまう直樹の方だった。
*
子どもたちの食事が始まると、ミーシャは配膳を手伝うため席を離れた。
相良は直樹の左側に空いた席を見た。
ミーシャが使っていた皿へ手を伸ばす。
皿を持ち上げ、直樹の隣へ移した。
健二がすぐに元へ戻す。
「皿を勝手に動かさんでください」
相良が健二を見る。
「ソコダ」
「そこかどうかは、ミーシャさんが決めます」
「マシバァ」
「兄ちゃんが言いました?」
「イワン」
「ミーシャさんが言いました?」
「イワン」
「なら、相良さんが勝手に決めたんですね」
「オウ」
悪びれもしない。
健二は額へ手を当てた。
今度は堀越が皿を持った。
同じ場所へ置く。
「堀越さんまで」
「近い方がいい」
「誰にとってですか」
「真柴」
「兄ちゃんに聞きました?」
「聞かん」
「ミーシャさんには?」
「聞かん」
「何でですか」
「見れば分かる」
「分かったとしても、決めるのは本人です」
堀越は食堂を見回した。
直樹。
めぐみ。
子どもへ皿を配っているミーシャ。
相良。
健二。
ハル。
「今いる者で決める」
「その中に、本人も入っとるでしょう」
「入る」
「なら、聞いてください」
堀越は黙った。
反発したのではない。
言われた内容を、自分の中へ組み込んでいるようだった。
ハルが相良の向かいへ座った。
「相良さんも、堀越さんと同じ考え?」
「オウ」
「宮崎さんが嫌でも?」
相良はめぐみを見た。
直樹。
ミーシャ。
堀越。
自分。
順に指す。
「ミンナ」
「全員、仲間ってこと?」
「ナカマダ」
相良はめぐみを外すつもりがない。
ミーシャも外すつもりがない。
選ぶことを理解していないのではなかった。
選んで誰かを外へ出す必要がないと思っている。
ハルが堀越を見る。
「堀越さんも?」
「同じだ」
「世間では、普通じゃないって言われるよ」
「知らん」
「法律とか、昔の決まりとか」
「今、いない」
堀越は食卓を指先で叩いた。
「遠くの決まりは、ここで誰も守らん」
食堂にいる者たちを見回す。
「ここにいる者が今だ」
「減らす理由がないなら?」
「減らさん」
相良がテーブルを叩いた。
「ソウダ」
めぐみは箸を置いた。
理解したからといって、受け入れる必要はない。
自分の気持ちを無視して、全員一緒ならよいと決められることには腹が立つ。
直樹と十年離れ、ようやく互いを選んだ。
その時間を「内を守る女」と「外を守る女」という役割だけで並べられたくない。
「私を追い出したいわけではないんですね」
「ナイ」
相良が答えた。
堀越も首を振った。
「ミーシャを、なおのそばへ置きたい」
「いる」
「もういる、という意味ですか」
「そうだ」
「だから全員、そのままでいればいいと」
「そうだ」
相良も頷く。
「オウ」
「私たちのことは、私たちで決めます」
相良は眉間へ皺を寄せた。
「キメロ」
堀越も言った。
「中で決めろ」
「中?」
「今いる者で」
「私たちが決めた結果なら、受け入れますか」
「今の者が決めるなら」
相良も頷く。
「オウ」
「でも、なおがミーシャを一人にしようとしたら?」
相良が直樹を睨んだ。
「トメル」
堀越も直樹を見る。
「同じだ」
配膳台の前で、ミーシャの動きがわずかに止まった。
相良と堀越に守られることを喜んだのではない。
直樹とめぐみの問題へ、自分の名前を出されたことに耐えている。
ミーシャは振り返らず、次の皿を子どもへ渡した。
めぐみは、自分の中で一つずつ分けた。
ミーシャの感情は、ミーシャのものだ。
なおとの境界は、自分となおとミーシャで決める。
相良と堀越には決めさせない。
世間にも決めさせない。
自分が嫉妬していることまで、なかったことにはしない。
直樹が書類を机へ置いた。
「どうして俺が、すでに何かする前提なんだ」
「ヘタクソ」
相良が言った。
「何がだ」
「オンナ」
「お前に言われたくない」
相良は胸を張る。
「オレ‥‥デキル」
「できてないから、今こうなってるんだろ」
食堂の入口から、大庭の声が飛んできた。
*
大庭は報告用の鞄を肩へ掛けたまま、食堂へ入った。
相良の前にはミーシャの皿。
健二が元の位置へ戻そうとしている。
堀越がまた直樹の近くへ寄せる。
めぐみは静かな顔をしているが、指輪をした左手だけが固い。
聞かなくても、だいたいの状況は分かった。
「お前ら、他人の家庭を勝手に編成すんな」
「オオバ」
「何だ」
「ニゲダ」
「その話じゃねえ」
堀越が大庭を見る。
「群れを持たん」
「お前までそっち側かよ」
「持たんのか」
「持たねえ」
「弱い」
「昨日会ったばかりの男に言われる筋合いはねえ」
「相良が言っていた」
「相良の昭和理論を継承すんな」
「オオバ」
「何だよ」
「オンナ」
相良は大庭を指した。
「ツクレ」
「朝から他人の人生を決めるな」
「カネ」
「店は駄目だって?」
「ダメダ」
「俺の私生活を教育すんな」
「ニゲルナ」
「逃げてねえ。最初から引き受けないって決めてるだけだ」
「ヘリクツ」
「はいはい」
大庭は相良の皿を指した。
「食え」
「ウルセエ」
大庭は笑うのをやめた。
相良は数秒、目を逸らさなかった。
それから匙を取る。
「オウ」
大庭は、相良が食べ始めるまで待った。
「本人らが決めることだ」
大庭は相良と堀越を見る。
「ミーシャを仲間として守るのは勝手だ。飯を分けるのも、味方になるのも好きにしろ」
ミーシャの皿を指す。
「ただし、席まで勝手に決めるな」
相良が鼻を鳴らす。
「ヘタレ」
「何で俺が言われんだよ」
堀越が大庭を見る。
「お前もいる」
「どこに」
「ここだ」
「俺をお前らの群れに入れるな」
「マシ‥‥バァノ」
相良が直樹を指した。
次に大庭。
「ナカマダ」
大庭は口を開きかけた。
直樹の同期。
相良の一個上。
学校と教育隊のために、北方班を動かしている。
否定する代わりに、相良の皿をもう一度指した。
「食い終わってから言え」
「オマエモ」
「俺は食ってきた」
「ニゲダ」
「まだ続けんのか」
堀越の肩が小さく揺れた。
相良も口元を上げる。
大庭は二人を見て、額を押さえた。
「面倒なのが一人増えやがった」
*
食事が終わると、多目的室の机へ地図が広げられた。
教育隊へ与えられる最初の実地任務だった。
旧南第三から北へ約六キロ。
旧水利管理所に設置された非常用無線中継器の確認。
施錠保管箱に残る運用記録の回収。
戦闘を目的とした任務ではない。
建物に最近の使用痕跡があれば入らない。
人影を確認した場合も接触しない。
箱を回収できなくても、任務失敗とはしない。
全員で戻り、見たものを正確に報告することが第一の評価項目だった。
大庭は机の端へ立った。
「箱を持って帰ることが目的じゃない」
教育隊員たちの顔を見る。
「撤退条件を守って戻る。見たものと、見なかったものを分けて報告する。最初の仕事はそれだけだ」
班長役の隊員が地図へ線を引いた。
「最短は西側斜面です」
管理所の西から近づけば、樹木と斜面に隠れたまま建物の裏へ出られる。
距離も短い。
往路だけを見れば、安全に思えた。
「他の案は」
大庭が聞く。
「南側は道路を横切ります。北側は沢が深い。東側は距離が長くなります」
「西を選ぶ理由は」
「最短で、隠蔽が取れるからです」
「使わない理由は」
隊員は地図を見た。
「斜面が急です」
「ほかには」
答えが止まる。
宿舎へ戻る前の相良と堀越が、後ろから地図を見ていた。
堀越が机へ近づく。
西側斜面へ指を置いた。
「駄目だ」
教育隊員が顔を上げた。
堀越の顔を見たあと、相良の横を確認する。その位置関係で、ようやく誰なのか結びついた。
「なぜですか」
堀越は西側斜面から管理所までを指でなぞった。
「行ける」
管理所から西側斜面へ戻る線を、逆になぞる。
「見える」
「帰りがですか」
「身体が浮く」
往路では、斜面と木立が管理所から姿を隠す。
帰路では、斜面を上る背中が尾根側へ抜ける。
管理所から見えなくても、北や南の高所からは輪郭が出る。
「接触しない任務です」
別の隊員が言った。
「敵がいるとは限りません」
「いると分かってから隠れるのか」
隊員は黙った。
班長役が地図を見た。
「西側に後方警戒を一人残します」
新しい印を斜面の途中へ置く。
「帰路は二人ずつ、間隔を空けて移動します。尾根線には出ません」
「観測員との通信は」
大庭が聞いた。
「短距離無線を使います」
「斜面で切れた場合は」
「合図時刻を決めます」
「観測員が先に発見されたら」
班長役の指が止まった。
それでも、西側の線は消さなかった。
「管理所への接近時間を短縮できます。露出も、移動方法で抑えられると考えます」
堀越は顔を動かさなかった。
「短い」
一拍置く。
「死ぬ時も」
部屋が静かになった。
相良が地図を覗き込む。
「ゴエサン」
「何だ」
「コワイ」
「お前よりは普通だ」
相良が鼻で笑った。
教育隊員たちの肩から、わずかに力が抜ける。
直樹は、西側斜面に追加された観測位置と移動間隔を見た。
危険を理解しようとはしている。
ただし、対策を二つ足したことで、危険を管理できたと思い始めていた。
見つかる可能性を減らすことと、見つかった時に撤退できることを、同じものとして扱っている。
「西側を使う理由と、使わない理由を両方書け」
直樹が言った。
「どちらを選ぶべきでしょうか」
「決めるのはお前たちだ」
「堀越さんは駄目だと」
「堀越の結論を借りて戻っても、次は自分で判断できない」
直樹は地図の四方を指した。
「追加した対策が、何を防げて、何を防げないのかまで書け」
教育隊員たちは再び地図へ向かった。
最短という利点は強かった。
滞在時間を短くできる。
目標物へ到達しやすい。
観測員を置けば危険も抑えられる。
彼らは警告を無視しているのではない。
理解した範囲の危険へ対策を足し、これで扱えると考えている。
最初の任務を成功させたい。
箱を持ち帰りたい。
目に見える成果が欲しい。
その気持ちが、西側へ引いた線を消させなかった。
堀越はそれ以上、何も言わない。
警告はした。
決めるのは、その経路を歩く者たちだった。
*
検討が続く中、廊下を速い足音が近づいた。
北方班の隊員が二人、多目的室へ入る。
一人は防水袋を抱えている。
もう一人は小型通信記録器を持っていた。
「大庭三尉」
大庭が顔を向ける。
「戻ったか」
「はい。予定を早めました」
大庭は教育隊の机から離れた。
「何があった」
「結論はありません。兆候だけです」
その言葉で、大庭の顔から軽さが消えた。
「出せ」
防水袋から、複数の報告書と写真が取り出された。
同じ場所から得た情報ではない。
日付も、観測者も異なる。
東京中央部へ向かう北側部隊の車列。
皇居周辺で増設された検問所。
旧宮内庁関係者を対象とした、身分と職歴の再登録名簿。
封印箱に収められた、皇族関係文書らしき物の搬送記録。
通信記録器には、外国公館方面と推定される複数の回線が、同じ時間帯に遮断された形跡が残っていた。
皇居内部へ搬入される食料。
燃料。
医療物資。
大型機器。
焼却炉、または文書処理設備とみられる機材。
北側政治部隊の増員。
大庭は一枚ずつ確認した。
写真の端。
撮影時刻。
観測地点。
誰が見たのか。
誰から聞いたのか。
直接確認された事実と、伝聞を分けて机へ並べる。
教育隊員の一人が地図を見た。
「皇居を取り返す作戦ですか」
「違う」
大庭は即答した。
「これは、こっちの作戦情報じゃない」
「北側が皇居を使う準備を?」
「それもまだ決めるな」
大庭は皇居周辺の封鎖写真を指で押さえた。
「部隊が集まってる。封鎖が強くなってる。人間を登録し直してる。物と文書を運び込んでる。回線を切って、処理設備を増やしてる」
一枚ずつ指を移す。
「ここまでは事実だ」
「目的は」
「分からん」
「正統な政府を名乗る準備では?」
「その可能性はある」
「皇族を利用する?」
「可能性はある」
「内部の記録を消している可能性も」
「ある」
「では――」
「可能性を並べるのと、答えを決めるのは違う」
大庭の声が低くなる。
「誰かを迎える準備かもしれない。誰かを閉じ込める準備かもしれない。記録を作るのか、消すのかも分からない」
教育隊員たちは黙った。
「分からない時に、分かった顔をするな」
大庭は通信記録器を操作した。
「切断前後の記録を全部抜け。現地で直接見た人間には、健軍で話してもらう」
北方班の二人を見る。
「車列を確認した者。通信遮断を記録した者。搬入物を追った者。原本を保全した者」
「はい」
「必要な人間だけ選べ。人数は増やすな」
直樹が報告書を見る。
「健軍へ戻るのか」
「ああ」
大庭は教育隊の地図へ視線を移した。
「こいつらの初任務が終わったら戻る」
「評価も持っていく?」
「持っていく」
大庭は東京中央部の報告書と、まだ空欄の多い教育隊評価表を見比べた。
「北も、こいつらも、動き出すには早い」
「だから止めるのか」
「違う」
大庭は評価表を閉じた。
「今のうちに、どう間違えるかを見る」
相良が東京の地図を覗き込んだ。
皇居の位置。
集まる部隊。
赤い印。
政治的な意味には興味を示さない。
直樹を指す。
「マシバァ」
「何だ」
「イクカ」
「まだ行かない」
「オウ」
それで相良の確認は終わった。
国がどう名乗るか。
皇居が誰の象徴になるか。
どの政府に正統性があるか。
相良にとって重要なのは、今の仲間がそこへ行くかどうかだった。
堀越も地図を見る。
「敵か」
「まだ分からん」
大庭が答えた。
「なら、見る」
「そういう報告だ」
大庭は資料をまとめ始めた。
相良が宿舎へ戻るために立ち上がる。
堀越も同時に立った。
相良が先。
堀越が半歩後ろ。
「面倒なのが二人になったな」
大庭が言った。
相良が振り返る。
「オマエモ」
「俺を入れるな」
堀越が大庭を見る。
「いる」
「何で俺まで、お前らの群れに入ってんだよ」
「マシ‥‥バァノ」
相良が直樹を指す。
次に大庭。
「ナカマダ」
大庭は口を開きかけた。
否定する代わりに、廊下の時計を指した。
「さっさと帰れ。診察に遅れるぞ」
「オオバ」
「何だ」
「イッコダ」
「覚えてるなら、先輩の言うことを聞け」
「ウルセエ」
「返事」
相良は嫌そうに大庭を見る。
少し間を置く。
「オウ」
堀越の肩が小さく揺れた。
二人は多目的室を出ていった。
正門へ向かう途中、堀越は一度だけ食堂を振り返った。
ミーシャが、子どもの皿へ麦を足している。
相良も同じ方向を見た。
何も言わず、宿舎の車へ乗った。
学校には暮らさない。
夜は宿舎へ帰る。
それでも食事の時間になれば、また同じ卓へ戻ってくる。
廊下の先で、相良の偉そうな声がした。
返事をする堀越の声は小さい。
姿が見えなくなったあとも、二人が一緒に帰っていることだけは分かった。
多目的室の机には、二本の線が残されていた。
一つは、教育隊が選びかけている西側斜面への経路。
もう一つは、東京中央部へ集まり始めた北側部隊の流れ。
どちらも、まだ作戦ではない。
どちらも、まだ結論ではない。
だが、見落としたまま進めば、帰り道を失う兆候だった。




