第193話 群れの席
## 第193話 群れの席
北方班の拠点へ戻った時、空はもう暗かった。
廃材で補強された作業小屋の前だけ、投光器の白い光が地面を切り取っている。
直樹が先頭を歩いた。
左にミーシャ。
その後ろに相良。
堀越は三人から数歩離れ、照明の外縁をついてきた。
光の中にいる者からは、暗がりが一枚の黒い壁に見える。堀越の顔も、肩も、まだ浮かび上がらない。
警戒に立っていた隊員が小銃へ手を伸ばした。
「そのままでいい」
直樹が言った。
「堀越俊介。保護対象だ」
隊員の手は止まったが、銃からは離れない。
森で北方班の隊員を無力化した男だ。
拘束されていない。
背中には古い小銃もある。
ミーシャが一歩進んだ。
「弾倉は私が保持しています。薬室、空。安全装置も確認済みです」
隊員の視線が、ミーシャの肩掛け鞄へ落ちた。
それでも、緊張は消えない。
直樹は振り返った。
暗がりの中に堀越がいる。
姿は見えなくても、いることだけは分かった。
「無理に入らなくていい」
直樹は言った。
「ここで待ってもいい。中へ入ってもいい」
「ゴエサン」
相良が暗がりへ向き直った。
「コイ」
返事はなかった。
その時、作業小屋の扉が開いた。
大庭航平が、紙コップを片手に出てきた。
「おかえり、マッシー」
「ああ」
大庭の目が直樹の後ろへ動く。
相良を見つけたところで、紙コップが止まった。
*
相良は痩せていた。
頬の肉が落ちている。
立つ時の重心も、以前とは違った。
大庭は紙コップを下ろした。
どこを傷めているのかまでは分からない。ただ、触れられる前から身体の一部を固める癖がついている。
昔の相良なら、大庭の顔を見た瞬間に何か一つ悪態を投げてきた。
相良も大庭を見た。
「オオバ」
名前は残っていた。
大庭は口元を上げた。
「忘れてなかったか」
「オンナ」
「再会して一言目がそれかよ」
「カネ」
「そこまで残ってんのか」
相良が鼻から息を吐いた。
「ニゲダ」
「うるせえ。相手も条件も分かった上で遊んでんだ」
「オトコ‥‥ジャネエ」
「言葉が減っても、説教だけはそのままだな」
大庭は笑った。
相良の目からは逸らさなかった。
知っている男だった。
以前と同じではない。
それでも、相良の中には、相良の順序が残っている。
大庭は記憶を試す質問を重ねなかった。
「立ってねえで入れ」
相良は暗がりを顎で示した。
「ゴエサン」
「ああ。そっちが堀越か」
大庭は暗がりへ近づかなかった。
後ろへも下がらない。
相手が自分で距離を決められる場所に立つ。
「大庭航平。真柴の同期だ」
黒い壁の中から声が落ちた。
「堀越」
「怪我は」
「ない」
「食えない物は」
「肉」
「豆は」
「食う」
「寝床は暗い方がいいか」
少し間があった。
「出口」
「出口が見える場所だな」
暗がりの中で、何かが一度だけ動いた。
頷いたらしい。
「用意する」
相良が大庭を見る。
「オオバ」
「何だ」
建物を顎で示した。
「ヤレ」
大庭は眉を上げた。
「俺に命令してんのか」
相良の眉間へ皺が寄る。
大庭の顔。
直樹。
もう一度、大庭。
身体に残っている順序を探しているようだった。
「……ミッツ」
「そうだ。俺が一個上だ」
相良の口元が下がる。
「チイセエ」
「3個上だ。返事は」
相良は黙った。
数秒後、嫌そうに顎を引く。
「……オウ」
「よくできました」
「ウルセエ」
大庭は笑った。
「相良」
声の調子を変えた。
「先に医療確認だ。終わるまで座ってろ」
「ヘイキ」
「平気かどうかは、今のお前が決めることじゃねえ」
相良の目が細くなる。
大庭は笑わなかった。
「座れ」
相良はしばらく大庭を睨んだ。
「……オウ」
大庭の口元へ、わずかに笑みが戻る。
「そこは聞くんだな」
「ミッツダ」
「覚えてるなら十分だ」
「キライダ」
「知ってる」
相良の肩から、少しだけ力が抜けた。
大庭は暗がりへ向き直った。
「堀越」
返事はない。
「入るかどうかは、お前が決めろ。入るなら、こっちは銃を下げる」
隊員たちを見る。
「手を離せ」
一人が迷った。
「ですが――」
「弾はミーシャが持ってる」
大庭の声から、完全に軽さが消えた。
「帰ってきた人間を、入口で敵に戻すな」
隊員たちの手が小銃から離れた。
相良が暗がりへ戻る。
見えない相手の手首を探り当てた。
「コイ」
強くは引かない。
握ったまま待つ。
やがて、暗がりから片足が出た。
泥の乾いた靴。
次に、細くなった身体。
継ぎ合わせた上着。
背負った古い小銃。
堀越は光の中へ入った。
顔を上げる。
最初に見たのは隊員たちではなかった。
出口だった。
*
医療担当による身体確認が終わると、北方班の情報担当者が記録端末を持ってきた。
堀越は扉の横へ座っていた。
背中は壁につけていない。
片膝を立て、扉が開けばそのまま外へ出られる角度を保っている。
「確認事項があります」
担当者が端末を開いた。
「北部森林帯での潜伏期間、接触した組織、補給経路、武器の入手先、それから人的被害について――」
「今日はやらない」
直樹が止めた。
「しかし、情報の鮮度が」
「今日は名前と身体だけだ」
「国境防衛上、緊急性があります」
「帰還者を、帰還した日に情報源へ戻すな」
直樹の声は低かった。
担当者の指が、端末の上で止まる。
「聴取は休んでからだ。答える範囲も本人が決める」
「指揮系統には、どう報告しますか」
「俺が書く」
担当者は直樹を見た。
反論を飲み込み、端末を閉じる。
「承知しました」
部屋を出ていく。
堀越は、閉まっていく扉の隙間から直樹を見た。
四年前なら、直樹は先に聞いたかもしれない。
何人いた。
どこを通れる。
誰が何を持っている。
必要な情報を取り終えてから、休ませた。
今は順番が逆だった。
帰す。
休ませる。
そのあとで、本人に選ばせる。
堀越は何も言わなかった。
ただ、吊り上がっていた片方の眉が、少しだけ下がった。
*
休憩室へ、遅い夕食が運ばれた。
塩で煮た豆。
麦。
皮を厚く残した根菜の汁。
切ると表面の粉が落ちる硬いパン。
大庭が肉を抜いた皿を、堀越から手を伸ばせる位置へ置いた。
「足りなければ言え」
「これでいい」
「風呂は」
「いらん」
「身体を拭く布は、出口の横に置く」
堀越は答えなかった。
大庭も繰り返さない。
相良は長椅子へ座った。
食事へ手をつける前に、ミーシャを見る。
ミーシャは肩掛け鞄から、黒い手帳を取り出した。
表紙には白い文字で、名前だけが書かれている。
**相良**
「本日の分を残します」
相良が手帳を開く。
最初のページには、毎周期確認する事項が記されていた。
自分の名前。
新しい記憶が、およそ七十二時間を目安に失われること。
前の自分が決めたことへ、現在の自分が従う必要はないこと。
直樹が過去に自分を刺したこと。
その事実は、直樹本人から毎周期説明されること。
ミーシャは記録を補助するが、読むことも関係を続けることも拒否できること。
その下には、相良自身が残した太い文字が並んでいた。
**マシバァ**
**ウソナシ**
**チャクミ**
**コウハイ**
**ゴエサン**
堀越の匙が止まった。
豆が一粒、匙の端で揺れる。
相良が次のページを開く。
ミーシャの整った文字が並んでいた。
北方森林帯で堀越俊介を発見。
相良が最初に存在を確認。
相良が「ゴエサン」と呼んだ。
相良が同行を促した。
堀越本人が帰還を選択。
四名で北方拠点へ帰還。
その下には、相良が自分で書いた文字があった。
文字の形は崩れている。
紙の裏へ抜けそうなほど、鉛筆が押しつけられていた。
**ゴエサン**
**キタ**
**ナイタ**
**カエッタ**
堀越は日記を見た。
相良を見る。
もう一度、日記。
自分が泣いたことまで残されている。
片方の眉が上がった。
相良が自分の胸を叩く。
「オレダ」
「ナイタ」
堀越の口元が下がる。
「ウルセエ」
相良が笑った。
「ゴエサン」
堀越は豆を口へ入れた。
怒っている顔を作ろうとしている。
口元だけが、どうしても上がっていた。
相良は最初のページへ戻る。
「コウハイ」
指先で文字を叩いた。
ミーシャは日記を覗き込む。
「その呼び方も、今日の記録へ残しますか」
「オウ」
「分かりました」
ミーシャは新しい一行を書いた。
**本日、相良はミーシャを「コウハイ」と呼んだ。**
関係を決め直す質問ではない。
今日、相良が実際に口にしたことだけを残している。
堀越は最初のページをもう一度見た。
前の相良の答えは、次の相良を縛らない。
その一文が、ほかの記録より少し濃い字で囲まれていた。
ミーシャが相良の未来を、自分の都合で塞がないための線だった。
*
ミーシャが茶を注いだ。
最初の一杯を堀越へ置く。
次に相良。
その次に大庭。
最後に直樹へ渡そうとした。
相良は大庭の湯飲みを取った。
直樹の前へ押す。
「マシバァ」
「それ、俺のだぞ」
大庭が言った。
相良はミーシャを顎で示す。
「オンナ」
直樹の眉間へ皺が寄る。
「やめろ」
相良は鼻から息を吐いた。
ミーシャは雨の中で、真柴の左を歩いた。
薬を持っている。
茶を持っている。
相良が忘れても、日記を持って戻ってくる。
そこまで来た女へ、知らない顔をする男が嫌いだった。
家に女がいることは知っている。
宮崎めぐみ。
真柴が長く探していた女。
だが相良には、どちらかを捨てる理由にならなかった。
女が二人なら、二人分働け。
守る相手が二人なら、二人とも守れ。
それだけの話だった。
大庭が、自分の湯飲みを見た。
「また始まったな」
相良が大庭を指す。
「オマエ」
「何だよ」
「カネ」
「また店の話か」
「オンナ」
一拍置く。
「ジャネエ」
「お前の基準ではな」
「ニゲダ」
「最初から境界を決めてんだよ。相手も納得してる」
「ヘリクツ」
「お前の昭和理論よりはましだ」
「オトコ‥‥ジャネエ」
「はいはい」
大庭は相良の皿を指した。
「食え」
相良が睨む。
「ミッツダ」
「三個上の男が、食えって言ってる」
「チイセエ」
「相良」
大庭の声から笑いが消えた。
相良は数秒、目を逸らさなかった。
やがて匙を取る。
「……オウ」
大庭の口元が上がる。
「聞けるじゃねえか」
「ウルセエ」
「お前は最後の線だけは守るからな」
「コロスゾ」
「殺さねえだろ」
相良の匙が止まる。
「ナメルナ」
「舐めてねえよ」
大庭は相良を真っすぐ見た。
「信用してんだ」
相良の眉間から、一瞬だけ力が抜けた。
すぐに鼻を鳴らす。
「キライダ」
「それも知ってる」
大庭は直樹の前から自分の湯飲みを取り返した。
「俺の茶まで使うな」
「ケチ」
「お前にだけは言われたくねえ」
堀越の肩が一度だけ揺れた。
大庭が見る。
「笑ったか」
「別に」
堀越は茶を飲んだ。
顔だけが笑っていた。
*
堀越は、直樹とミーシャを見た。
直樹の周囲には、昔から人が集まった。
傷ついた者。
帰れない者。
行き先を失った者。
直樹は拾った。
足りない物があれば、自分の分を削った。
堀越には、それが群れの長に見えた。
群れの長へ雌が複数集まることも、不自然ではない。
数を誇るためではない。
群れへ入った雌を、外へ捨てないためだ。
役目が違うなら、場所を分ける。
守る数が増えれば、長がその分を背負う。
宮崎めぐみという女がいることは知っている。
直樹が長く探していた。
現在は学校にいる。
それ以上を、直樹はほとんど話していない。
ミーシャは目の前にいる。
直樹と外へ出る。
危険を先に探す。
相良の記憶が消えても、関係を捨てない。
首には、直樹と同じ巻き方をした古い布がある。
直樹も外させようとはしない。
群れの外へ置く理由がなかった。
堀越は立ち上がった。
壁際の空いた椅子を持つ。
床へ脚を擦らせず、直樹の左隣へ置いた。
ミーシャが見る。
堀越は直樹を見る。
片方の眉を上げた。
「何だ」
堀越は答えない。
相良が椅子の座面を叩く。
「チャクミ」
床を指す。
「ソコ」
「勝手に決めないでください」
ミーシャの声は平らだった。
相良は黒い日記を開く。
空いた場所へ、鉛筆を押しつけた。
**マシバァ**
**チャクミ**
**クメ**
ミーシャは赤いペンを取った。
三行を一本の線で消す。
「却下します」
相良は赤線を見る。
その横へ、大きな丸をつけた。
堀越の肩が揺れる。
「日記を何に使ってる」
直樹が言った。
相良は自分の胸を叩く。
「オレノダ」
「そうだが、他人の配置まで決めるな」
大庭が日記を覗く。
「恋愛の世話まで引き継ぐ気か」
相良は直樹を指した。
「ヘタクソ」
「そこは否定しねえ」
「大庭」
直樹が睨む。
「乗るな」
「乗ってねえよ。本人の意思を無視すんなって話だ」
相良が鼻を鳴らした。
「ニゲダ」
「お前は食え」
相良は大庭を睨みながら、豆を口へ入れた。
堀越は目を逸らしている。
口元だけは、まだ笑っていた。
*
学校へ戻ったのは、午後十時を過ぎてからだった。
正門の照明が、濡れた地面に細長く映っている。
守衛室の窓には人影があった。
食堂側から、根菜を煮た汁の匂いが流れてくる。
堀越は門の手前で止まった。
校舎の中から、人間の生活音が押し寄せる。
廊下を走る足音。
それを止める大人の声。
重ねられる食器。
水道管の振動。
森では、一つの音を拾えばよかった。
ここでは、音が重なっている。
敵を探しているのではない。
どの音を無視してよいのか分からなかった。
直樹も止まった。
「ここで待ってもいい」
堀越は門を見る。
「中へ入ってもいい」
直樹は先へ進まない。
「決めろ」
相良が門の内側から手を上げた。
「ゴエサン」
自分の横を叩く。
「コイ」
堀越は相良を見た。
門。
直樹。
もう一度、相良。
一歩を出す。
門の影を越えた。
誰も拍手をしない。
囲まない。
質問もしない。
大庭が先に連絡していた。
帰還者が一人増える。
本人が話すまでは事情を聞かない。
出口の見える部屋を空ける。
肉のない食事を残す。
伝えられていたのは、それだけだった。
玄関へ入る直前、廊下の奥に女が立っていた。
薄い上着。
整えきれず肩へ落ちた髪。
左手には指輪がある。
女は最初に直樹を見た。
直樹の肩から、森に残っていた力が抜けた。
堀越はその変化を見た。
この女が、宮崎めぐみ。
群れの中へ火を残す女。
そう見えた。
めぐみは堀越へ近づかなかった。
直樹。
相良。
ミーシャ。
最後に堀越を見る。
「おかえりなさい」
堀越の顔が止まった。
初めて会う女だった。
堀越が何をしたか知らない。
どこで生きたかも聞かない。
それでも最初から、帰ってきた人間として扱った。
口元が歪んだ。
片方の眉が下がる。
直樹は何も言わない。
急かさず、隣に立っている。
「……ただいま」
声は小さかった。
めぐみは一度だけ頷いた。
それ以上、何も聞かなかった。
*
堀越には、多目的室の隣の小部屋が用意された。
開いた扉から、廊下と窓の両方が見える。
布団を使わなくてもよい。
内側から鍵を掛けてもよい。
必要なら、いつでも外へ出られる。
直樹が説明すると、堀越は扉の錠を確かめた。
「外からは」
「掛けない」
「朝まで決めなくていい」
「何を」
「ここへ残るかどうか」
堀越は直樹を見る。
「お前が決めろ」
「俺が決めることじゃない」
堀越の眉間へ皺が寄った。
群れへ入れるのは、長が決める。
堀越の中には、その考えが残っている。
だが直樹は、入る場所だけを用意し、残るかは本人へ返した。
「相良は」
「隣の医務区画だ」
「消えるか」
「可能性はある」
堀越の顔から表情が消える。
「今回の連続記憶は、捜索へ出る朝で三日目に入ってた」
「今夜か」
「今夜から明日の昼。どこで途切れてもおかしくない」
「今日が」
「ああ」
「俺が来たことも」
「新しい部分は抜けるかもしれない」
堀越は廊下の先を見る。
相良がいる方向。
「毎回か」
「毎回、確かめる」
「刺したことも」
「ああ」
「言うのか」
「言う」
「嫌われるぞ」
「その時は、それでいい」
堀越の口元が固く結ばれた。
「女も」
「ミーシャか」
「毎回、名乗る」
「ああ」
「後輩も」
「その日の相良が決める」
堀越は黙った。
相良が忘れるたび、直樹は自分が刺したことを伝える。
ミーシャも、自分が拒まれる場所へ戻る。
前の相良の答えを使えば、もっと楽に群れを保てる。
二人はそれをしない。
「日記」
堀越が言った。
「相良の物だ」
「女が書く」
「補助してる」
「消すか」
「相良が決める」
「ゴエサンも」
「残すよう言ったのは相良だ」
堀越の口元が、少しだけ上がった。
「寝ろ」
直樹が言った。
「朝、また名乗ればいい」
堀越は返事をしなかった。
直樹が部屋を出る。
扉は開けたまま残された。
堀越は布団へ入らなかった。
出口の見える壁際へ座る。
紙袋から豆を二粒取り出した。
廊下の向こうで、人間の生活音が続いている。
その夜、堀越はほとんど眠らなかった。
*
午前六時十四分。
相良は枕元の黒い日記を開いた。
昨日のページを三度読んだ。
**ゴエサン**
**キタ**
**ナイタ**
**カエッタ**
文字の意味は分かる。
自分の筆圧で書かれたことも分かる。
だが、炭焼き小屋の匂いが戻らない。
堀越の手首をつかんだ感触もない。
学校の門を四人で越えた景色も、どこにもつながらなかった。
相良は日記を閉じ、もう一度開いた。
ミーシャは、その動きを見ていた。
今回の連続記憶は、夜のどこかで途切れている。
机を置かない保全室で、直樹が相良と向き合った。
扉は開けたまま。
廊下には楠本がいる。
「俺は真柴直樹だ」
相良が見る。
「マシバァ」
「ああ」
「お前は相良だ」
相良は自分の胸を叩く。
「オレダ」
直樹は、相良を刺した事実を伝えた。
左の脇腹。
相良が止まらなかったこと。
止めるために刃を入れたこと。
前の相良の同意を、現在の相良へ使わないこと。
今の答えで、生活も治療も変わらないこと。
相良は傷へ触れた。
直樹を見る。
「マシバァ」
「ああ」
「ウソナシ」
「ああ」
現在の相良が答えを出したあと、ミーシャが日記を差し出した。
「私はミーシャです」
相良はミーシャを見る。
首のアフガンスカーフ。
黒い日記。
湯気の立つ茶。
「チャクミ」
「戦術補佐です」
相良は最初のページを開く。
**コウハイ**
その文字へ指を置いた。
「前のあなたが残した言葉です」
ミーシャは言った。
「今のあなたは、違うと言えます」
相良が顔を上げた。
ミーシャは視線を外さない。
日記を押しつけもしない。
茶を勧めもしない。
相良が決めるまで、立ったまま待つ。
「コウハイ」
相良が言った。
ミーシャの喉が一度動いた。
「はい」
日記へ記録する。
筆先は震えなかった。
安堵したとも言わなかった。
*
堀越は廊下で待っていた。
昨日のことを覚えているのは、自分だけだった。
相良に手首をつかまれたこと。
肩へ引き寄せられたこと。
一緒に帰ると言われたこと。
門を越えたこと。
部屋の中から、ミーシャの声がした。
「次の方です」
堀越は保全室へ入った。
出口に近い位置で止まる。
相良が顔を向けた。
昨日の再会は、その顔に残っていない。
堀越の片方の眉が下がった。
口元が震えかける。
泣く前に、名乗った。
「堀越だ」
相良は目の前の男を見る。
日記を開く。
昨日のページ。
自分の文字。
**ゴエサン**
**キタ**
**ナイタ**
**カエッタ**
指先が「ゴエサン」の上で止まった。
大きな黒い目。
ほとんど動かない立ち方。
森の匂い。
もっと古い記憶の奥に、名前が引っかかった。
相良の眉が動く。
「ゴエサン」
堀越の顔が崩れた。
昨日とは違う涙だった。
昨日の帰り道は消えている。
泣いたことも。
肩をつかまれたことも。
それでも、自分は相良の古い場所に残っていた。
「オウ」
堀越は答えた。
相良が手を上げる。
「コイ」
堀越は近づいた。
相良がその肩を叩く。
昨日と同じ場所だった。
堀越はまた泣いた。
顔は笑っていた。
*
朝食の席で、相良は日記の次のページを開いた。
昨夜、自分が書いた文字が残っている。
**マシバァ**
**チャクミ**
**クメ**
その上には、ミーシャの赤い線。
相良は文字を見た。
直樹を見る。
ミーシャを見る。
直樹の左隣にある椅子を叩く。
「ソコ」
「勝手に決めないでください」
ミーシャは椅子へ近づかなかった。
堀越が壁際から立つ。
別の椅子を持ってきた。
直樹の反対側へ置く。
昨夜見た、指輪の女の分だった。
どちらの女をどこへ置くかまでは分からない。
ただ、群れの長の周囲には、二人分の場所が必要だと考えた。
そこへ、汁の入った鍋を持っためぐみが来た。
動かされた椅子を見る。
相良。
堀越。
直樹。
順に見た。
「私の席まで、勝手に決めなくていいですよ」
声は静かだった。
堀越の眉が上がる。
ミーシャも言った。
「私の場所も、私が決めます」
相良の眉間へ皺が寄った。
堀越は二人の女を見る。
群れへ残るかは、雌自身が決める。
昨夜、直樹が自分へ残した選択と同じだった。
堀越は椅子から手を離した。
相良は、まだ納得していない顔をしている。
直樹を指した。
「ヘタクソ」
「朝から何の話だ」
大庭が食堂へ入ってきた。
椅子。
日記。
直樹。
それだけで状況を理解したらしい。
「また余計なことしてんのか」
「オオバ」
「何だ」
「オンナ」
一拍置く。
「ツクレ」
「朝から説教すんな」
「カネ」
「店は駄目だって?」
「ダメダ」
「お前の許可はいらねえよ」
「ニゲルナ」
大庭が相良の前へ椅子を戻した。
「とりあえず座れ」
「ウルセエ」
大庭が相良を見る。
笑っていない。
相良は数秒だけ睨み返し、椅子へ座った。
「……オウ」
「よし」
相良は日記へ新しい文字を書く。
**オオバ**
**キライ**
大庭が横から覗く。
「記録に残すな」
相良は、その下へ書き足した。
**ミッツウエ**
大庭の笑いが止まった。
相良は嫌そうに鉛筆を置く。
「オウ」
大庭は目を細めた。
相良の肩を拳の甲で一度押す。
「分かってるじゃねえか」
「サワルナ」
「三個上の愛情だ」
「キモチワルイ」
「そこまで書くなよ」
堀越の肩が揺れた。
めぐみは鍋を置き、日記を見る。
赤線の下に、相良が新しく文字を足していた。
**マシバァ**
**ニゲルナ**
堀越が鉛筆を取り、二つの言葉を丸で囲む。
ミーシャは赤いペンを持った。
少し考え、線を引かなかった。
めぐみも日記を見た。
「そこは、残しておいてください」
直樹が三人を見る。
「何から逃げる話だ」
誰も答えなかった。
相良は自分の胸を叩く。
「オレダ」
堀越は豆を食べている。
顔だけが笑っていた。
その朝から、相良と堀越はミーシャの味方になった。
相良は、選ばれた男が責任から逃げることを嫌った。
堀越は、群れを守る女を群れの外へ置くことを嫌った。
二人とも、直樹とめぐみとミーシャの事情を、まだほとんど知らない。
席を決める権利が女たちにあることも、ようやく覚え始めたところだった。
それでも一つだけ、三人の意見は一致した。
真柴直樹を、もう逃がさない。
古く、余計で、ひどく不器用な同盟だった。




