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第192話 ゴエサン

## 第192話 ゴエサン


 出発前に、直樹は相良と向き合った。


 午前六時二十二分。


 南第三共同生活校の保全室。


 机は置かなかった。


 扉は開けたままにし、廊下には楠本カレン一曹が立っている。


 昨日の相良が出した答えを、今日の相良へ引き継がない。


 前回の同意が記録に残っていても、それを現在の意思として扱わない。


「俺は真柴直樹だ」


 相良の黒い目が直樹を捉えた。


「マシバァ」


「ああ」


「お前は相良だ」


 相良は自分の胸を拳で叩いた。


「オレダ」


「堀越俊介を捜しに行く」


 相良の眉間が動いた。


「ゴエサン」


「ああ」


 右足が半歩出た。


 言葉より先に身体が反応していた。


「その前に伝える」


 相良の足が止まる。


「四年前、俺はお前を刺した」


 相良は直樹から目を逸らさない。


「左の脇腹。肋骨の下だ」


 相良の左手が、服の上を探った。


 古い傷の位置で止まる。


「お前が止まらなかった。俺を殺しかけた」


 指先が傷を押した。


「止めるために、刃を入れた」


 直樹は声を弱めなかった。


「行かなくても、生活も治療も変わらない」


 相良が開いた扉を見る。


 楠本を見る。


 直樹へ戻る。


「それでも行くか」


「イクゾ」


「自分で決めたか」


 相良は自分の胸をもう一度叩いた。


「オレダ」


 楠本が廊下から頷いた。


 すべての言葉を理解したとは限らない。


 それでも相良は、拒否できる場所に立ち、自分で前へ出ることを選んだ。


「分かった」


 直樹の左後方から、ミーシャが一歩進んだ。


「私はミーシャです」


 相良が顔を向ける。


 ミーシャの首には、くすんだ砂色のアフガンスカーフが巻かれていた。


 端は擦り切れている。


 破れを塞いだ縫い目だけが、ほかの部分より硬い。


 直樹が外人部隊時代から使っていた布だった。


 ミーシャの指が、その補修跡へ触れる。


 直樹は一度だけ見た。


 自分の古い布が、彼女の首にある。


 もう見慣れたはずなのに、それを確認すると、胸の奥にあった小さなざわつきが消えた。


 なぜかは考えなかった。


 誰かに外せと言われれば、たぶん自分が先に止める。


 その理由も、まだ言葉にはならない。


 相良はミーシャを見る。


 スカーフ。


 直樹。


 もう一度、ミーシャ。


 顎で示した。


「チャクミ」


「戦術補佐です」


「チャクミ」


「違います」


 相良が直樹を見る。


「マシバァ」


「何だ」


 ミーシャを顎で示す。


「チャクミ」


「本人は違うと言ってる」


 ミーシャは補修跡を握った。


「NAOに必要なら、お茶も淹れます」


 相良の口元が少し上がる。


「コウハイ」


 ミーシャの返事は速かった。


「それは認めます」


「準備は」


 直樹が聞いた。


「完了しています」


「何時だ」


「四時五十二分です」


「早い」


「装備を五回確認しました」


「焦るな」


「焦っていません」


 縫い目へ食い込む指が、別の答えを出していた。


「行くぞ」


 ミーシャの手が布から離れた。


「はい」


     *


 堀越俊介は、三人が北方班の車両を降りる前から見ていた。


 午前十一時二分。


 車両が、廃材で補強された作業小屋の前に止まる。


 運転席の隊員が降りた。


 周囲を確認する。


 後部扉を開けた。


 最初に出てきたのは、知らない女だった。


 細い身体。


 黒い上着。


 髪を後ろでまとめている。


 首に、使い込まれた砂色の布。


 女は車両を降りると、長い端を上着の内側へ押し込んだ。


 巻き方に見覚えがあった。


 直樹が、布を装備として使う時の形だった。


 次に相良が降りた。


 堀越の顔が動いた。


 片方の眉が上がる。


 頬が引きつる。


 口元が開きかけた。


 声は出さなかった。


 相良は痩せていた。


 身体の大きさは変わらない。


 足の置き方が違う。


 以前は、止められるまで前へ出た。


 今は一歩ごとに、戻る位置を確かめている。


 相良が森へ顔を向けた。


 視線は動かさない。


 鼻から一度、短く息を吸う。


 右足が止まった。


「オルゾ」


 女が相良を見る。


「位置は分かりますか」


「チケエ」


 堀越の口元がわずかに歪んだ。


 声は相良だった。


 言葉の形は変わっている。


 こちらを見つけてはいない。


 それでも、森の中へ人間が一人増えたことを身体で拾っている。


 最後に直樹が降りた。


 扉を閉める。


 留め具を二度引き、固定を確かめた。


 堀越の目元が緩んだ。


 生きている。


 女が直樹へ半歩近づく。


 近すぎたと思ったように止まり、首の布へ触れた。


 直樹はそれを見たが、何も言わない。


 外すようにも言わない。


 女の首にあることを、最初から当然としている。


「見えるのか」


 直樹が相良へ聞く。


「ミエン」


「近いか」


「ソコ」


 相良は足元を顎で示した。


 堀越は作業小屋から十八メートル離れた倒木の下にいた。


 古い防水布へ泥と腐葉土を載せ、身体の輪郭を消している。


 相良は正確な位置まで拾っていない。


 存在だけを捉えた。


 直樹は倒木を見なかった。


「出る気はない」


 女がすぐに聞く。


「なぜですか」


「相良には分からせた」


「試していますか」


「確認してる」


「何を」


「俺たちが、俺たちかどうかだ」


 堀越の片方の口角が上がった。


 相良が先に触れる。


 直樹が意味を読む。


 変わっていない。


 女だけが、二人の間へ入ろうとしていた。


 先に危険を見つけたい。


 先に答えを出したい。


 直樹の役に立つことを証明したい。


 だが、直樹が片手を上げると動きを止めた。


 監視役ではない。


 直樹を拘束している人間でもない。


 三人が森へ入る。


 堀越は動かなかった。


 車両の音が消える。


 北方班の隊員が小屋へ戻る。


 小鳥が地面へ下りる。


 森へ日常の音が戻ってから、さらに七分待った。


 堀越は防水布の下を出た。


 三人とは別の斜面を上がった。


     *


 最初の谷へ入った時、相良が足を止めた。


「ゴエサン」


 無線の電波が上へ抜ける窪地。


 倒木。


 岩。


 北側へ張り出した木の根。


 返事はない。


 ミーシャが直樹より先に倒木へ近づいた。


 膝をつく。


 アフガンスカーフを口元まで上げる。


「枝が戻されています」


「どれだ」


「これです」


 北方班の隊員が踏んだ枝だった。


 折れかけた部分だけが切られ、元の位置へ重ねられている。


「痕跡を消した?」


「違う」


 直樹は枝の下へ指を入れた。


「隊員が壊した跡まで戻してる」


「なぜ」


「自分の跡だけを消したんじゃない」


 直樹が立つ。


「場所を、来る前へ戻した」


「逃走のためではない?」


「逃げる人間は、自分の跡だけを消す」


 相良が斜面へ顔を向けた。


「ゴエサン」


 数歩進む。


 張り出した根の前で止まった。


「オッタ」


 ミーシャがすぐに見る。


 人影はない。


 直樹は根の裏へ回った。


 土と幹の間に、人間一人が身体を押し込める空間がある。


 根の下へ手を入れる。


 周囲より土の水分がわずかに少ない。


「まだいますか」


「イネエ」


 相良が答える。


「俺たちが来る直前までいた」


「相良は見ていません」


「身体で拾った」


「私より先に」


 ミーシャの声が低くなる。


「競うな」


「競っていません」


 補修跡を握っている。


「役に立ちたいだけです」


「分かってる」


 ミーシャの指から力が抜けた。


 相良が二人を見る。


「チャクミ」


「違います」


「外を見ろ」


 直樹が言った。


「後方。上空。退路」


「はい」


 役割を与えられた瞬間、ミーシャの身体が速くなった。


 スカーフの端を肩の後ろへ回す。


 来た道。


 斜面。


 木々の上。


 順に確認する。


「相良が堀越を見つける」


 直樹が言う。


「俺は、残した意味を読む」


「私は外側を守ります」


「ああ」


 ミーシャの返事だけが、少し速かった。


     *


 堀越は、折れた幹の裏から三人を見ていた。


 相良は、自分が根の下にいたことを拾った。


 直樹は、消したのではなく戻したと読んだ。


 女は自分が遅れたことへ傷ついていた。


 直樹から外側を任されると、すぐに立ち直った。


 役割を欲しがっているのではない。


 直樹の役に立つ場所を欲しがっている。


 そばにいる理由を、何度も作り直している。


 女の指が首の布へ触れる。


 直樹の古い物なのか。


 直樹が持たせた物なのか。


 そこまでは分からない。


 ただ、女がそれへ触れると呼吸が戻る。


 直樹も、その布が女の首にあることを受け入れている。


 堀越の片方の眉が上がった。


 直樹は、相変わらず自分のことだけ分かっていない顔をしていた。


 三人が尾根へ向かう。


 堀越は先へ回った。


 古い杉の幹へ、細い傷を三本残す。


 二本を上。


 一本を下。


 群馬で相良が薪を三本しか持ってこなかった時の印だった。


     *


 午後三時二十八分。


 杉の前で最初に止まったのは相良だった。


「ゴエサン」


 幹へ近づく。


 三本の傷へ指を置いた。


「マキダ」


 ミーシャが横から見る。


「記号ですか」


「群馬で使った」


 直樹が答える。


「何の記録ですか」


「相良が薪を三本しか持ってこなかった」


 相良が直樹を睨む。


「ヨンホン」


「一本は枝だった」


「マキダ」


「湿ってた」


「モエタ」


「煙しか出なかった」


「ウルセエ」


 顎の上げ方は、昔の相良のままだった。


 直樹は切り口へ触れる。


「一時間以内だ」


「根拠は」


「水が入ってない」


「この印を選んだ理由は」


「相良が覚えているか確かめた」


 相良は幹を拳で叩いた。


「マキダ」


「覚えてるな」


「オウ」


 ミーシャが周囲を見る。


「近くにいますか」


「オルゾ」


「位置は」


 相良は答えない。


 顎だけを右へ動かす。


 直樹はすぐに右を見なかった。


 杉の傷。


 通ってきた斜面。


 これから下る谷。


 順に見る。


「追い払ってない」


「では」


「通る場所を選んでる」


「接触地点を?」


「まだ分からない」


 相良が存在を拾う。


 直樹が残された意味を積み上げる。


 ミーシャは二人の外側を守る。


 堀越が知っていた形へ、三人の役割が戻っていった。


     *


 雨が降り始めたのは、午後四時十三分だった。


 最初は細かった。


 十分後には、枝から水がまとまって落ちた。


 ミーシャはアフガンスカーフを頭へ回した。


 髪と首を覆う。


 長い端で口元を隠す。


 三人は谷へ下りた。


 地図では細い沢だった。


 前日の雨で水量が増している。


 相良の膝より上まである。


 対岸には、崩れた石垣。


 相良が止まった。


「オルゾ」


「どこだ」


「ムコウ」


 直樹は相良の視線を追わなかった。


 上流。


 川幅。


 水量。


 対岸の足場。


 石垣を流れる雨水。


 中央だけ、水が二つに分かれている。


 何かの輪郭を避けていた。


「向こうだ」


 ミーシャが石垣を見る。


「渡れという意味ですか」


「たぶん」


「確実ではない?」


「確実じゃない」


 直樹はロープを出した。


 支点へ固定する。


 ミーシャが手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「固定を確認しろ」


「はい」


 結び目。


 支点。


 ロープの摩耗。


 順に確かめる。


「問題ありません」


「相良から行け」


「オウ」


 相良が水へ入る。


 一歩。


 二歩。


 上流から枝が流れてきた。


 膝へ当たる。


 身体が傾く。


 直樹がロープを引いた。


「相良」


「ヘイキ」


「進め」


「オウ」


 相良が対岸へ渡る。


 石垣の前で止まった。


「ゴエサン」


 石垣は答えない。


 相良の口元だけが上がる。


「サキイク」


 次にミーシャが渡る。


 スカーフの端を胸元へ挟み、水へ触れさせない。


 対岸へ着くと、自分の足場より先に直樹を見た。


 直樹が渡り終えるまで動かない。


 直樹が対岸へ上がる。


 そこで初めて、ミーシャの肩が下がった。


 直樹は石垣を見なかった。


「濡れるぞ」


 返事はない。


 三人は北へ進んだ。


     *


 堀越は、石垣の隙間から三人を見送った。


 相良は存在を拾った。


 直樹は水の流れを読んだ。


 女は対岸へ渡ったあとも、自分ではなく直樹を見た。


 直樹が安全な足場へ立ってから、周囲へ視線を戻した。


 首の布へ触れ、短く息を吐く。


 堀越の目元がわずかに緩んだ。


 この女は、直樹を生かす側にいる。


 それなら、もうよかった。


 堀越は石垣から出た。


 川下を回る。


 炭焼き小屋へ先回りした。


     *


 午後五時三十七分。


 三人は古い炭焼き小屋へ着いた。


 屋根の半分が落ちている。


 壁は三面だけ残っていた。


 入口で相良が止まる。


 奥に積まれた炭。


 崩れた梁。


 黒く沈んだ壁。


「オル」


「どこだ」


「オク」


 相良は炭の山を顎で示した。


 ミーシャが前へ出ようとする。


 直樹の腕が止めた。


「もう見つかってる」


「確認します」


「動けば消える」


 ミーシャは止まった。


 補修された縫い目を握る。


 直樹と相良には分かっている。


 自分には、まだ黒い炭の山にしか見えない。


 胸の奥へ痛みが走った。


「外を守れ」


 直樹が言った。


「俺の左側だ」


 ミーシャの指が緩んだ。


「はい」


 入口へ下がる。


 沢。


 後方の斜面。


 屋根。


 退路。


 順に確認する。


 相良は炭の奥を見た。


 口元に笑みがある。


「ゴエサン」


 返事はない。


 相良が一歩進む。


 右腕を上げた。


 そこにいる誰かの肩を、昔のように叩こうとした。


 身体をひねる途中で動きが止まった。


 左足の位置を変える。


 胸ではなく、腰から身体ごと向きを変えた。


 左の肋骨を動かさないための動きだった。


 炭の奥で、堀越の笑みが消えた。


「相良」


 声が落ちる。


 相良の口元が大きく上がった。


「ゴエサン」


 堀越が炭の間から出た。


 痩せていた。


 髪には灰色が混じっている。


 複数の装備を継ぎ合わせた服。


 背中には古い小銃。


 腰には豆と木の実を入れた布袋。


 暗がりから身体が出ても、輪郭の半分はまだ壁へ残っているように見えた。


「堀越」


 直樹が呼ぶ。


 堀越の顔が動いた。


 大きな黒目の下が緩む。


 片方の眉が上がる。


 口元が耐えきれないように広がった。


「直樹」


「ああ」


 次に相良を見る。


「相良」


「オレダ」


 堀越は笑った。


 声は出ない。


 顔だけが、四年分の不在を埋めようとしていた。


 相良が近づく。


「ゴエサン」


 堀越も一歩出る。


 肩へ止まっていた小鳥が飛び立った。


 ミーシャの右手が腰へ動く。


 直樹が片手を上げる。


 ミーシャは止まった。


 スカーフの下で、息を一度吐く。


 相良がミーシャを顎で示す。


「チャクミ」


 堀越の眉が上がる。


「茶汲み」


「戦術補佐です」


 堀越はミーシャを見る。


 首の布。


 直樹。


 口元の片側だけが動いた。


「NAOに必要なら、お茶も淹れます」


 ミーシャが言う。


 堀越は一度だけ頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


 視線が相良へ戻る。


 右側へ寄った重心。


 脇腹の近くから離れない左肘。


 身体をひねらず、腰から方向を変える癖。


 堀越の笑みが止まる。


「左」


 相良が顔を向けた。


 堀越は自分の肋骨の下を指す。


「怪我か」


「ヘイキ」


 堀越の片方の眉が下がった。


 平気かどうかは聞いていない。


 顔がそう言っていた。


「見せろ」


 相良の笑みが消える。


「ウルセエ」


 堀越は動かない。


 相良の左脇腹を見たまま待つ。


 直樹も何も言わなかった。


 相良は堀越を見る。


 直樹を見る。


 また堀越へ戻る。


 鼻から強く息を吐いた。


「ゴエサン」


 上衣の裾をつかむ。


 左側だけを持ち上げた。


 肌着も一緒にめくれる。


 左の肋骨の下に、術後の痕があった。


 縫合された皮膚。


 小さく並んだ固定痕。


 周囲より白くなった部分。


 出血はない。


 新しい負傷ではなかった。


 堀越の肩から、わずかに力が抜ける。


 だが、すぐに止まった。


 術後痕の中に、別の線が残っている。


 肋骨の下へ斜めに沈む短い傷。


 入口は狭い。


 その下だけが、不規則に引きつれている。


 刃が入ったあとも、相良の身体が前へ動いた痕だった。


 堀越の顔から笑みが消えた。


 大きな黒目は正面を向いたまま動かない。


 相良の足。


 脇腹。


 直樹の立ち位置。


 二人の距離。


 相良が直樹へ無防備な背中を向けている。


 直樹も、相良の間合いの中へ立っている。


 堀越は、この刺し方を知っていた。


 左足から入る。


 逃げ道を一つ残す。


 それでも前へ来た身体だけを、肋骨の下で落とす。


 真柴の刃だった。


 堀越が直樹を見る。


「真柴か」


「ああ」


 鼻の横へ深い皺が寄る。


 傷へ視線を戻す。


「止まらなかった」


「ああ」


 堀越が相良を見る。


 刃が入った時、身体を引けば、傷はここまで広がらない。


 相良は退かなかった。


 刺されたあとも前へ押し込んだ。


「避けなかったな」


 相良が頷く。


「ソウダ」


 堀越の口元が震えた。


 相良が止まらなくなったのか。


 声も命令も届かなかった。


 半端に押さえれば、次の誰かへ向かう。


 直樹しか止められなかった。


 だが、なぜ相良は避けなかった。


 死ぬためか。


 それとも――。


「相良」


 相良は自分の胸を拳で叩いた。


「オレガ」


 傷へ手を置く。


「ノゾンダ」


 直樹を顎で示す。


「マシバァ」


 傷を一度叩く。


「トメタ」


 もう一度、自分の胸。


「イキタ」


 堀越の仮説が、そこで初めてつながった。


 相良は死ぬために受けたのではない。


 次の誰かを殺す前に、直樹へ止めさせた。


 その結果として、生きた。


 堀越の目から涙が落ちた。


 一滴。


 すぐに次が続く。


 両方の目から、ぼろぼろとこぼれ始めた。


 堀越は拭かなかった。


 手も上げない。


 再会した時の笑みが、顔へ戻る。


 相良が生きている。


 直樹も生きている。


 口元が持ち上がる。


 相良の傷が目へ入る。


 笑顔が崩れる。


 また二人を見る。


 もう一度笑う。


 また泣く。


「俺が」


 声が割れた。


 喉の奥で息が詰まる。


「いなかった」


 直樹が首を振る。


「お前のせいじゃない」


 堀越も首を振った。


 涙が顎から落ちる。


「すまん」


 それ以上は言えなかった。


 相良が壊れる前に見つけられなかった。


 直樹が刃を入れる前に、別の場所へ入れなかった。


 その全部が、眉と頬と震える口元に出ていた。


 相良が上衣を下ろす。


 堀越の前へ立った。


「ゴエサン」


 堀越が顔を上げる。


 相良は首を横へ振った。


「チガウ」


 自分の胸。


「オレダ」


 直樹。


「マシバァ」


 傷。


「ノゾンダ」


 もう一度、直樹。


「トメタ」


 最後に、自分の胸を強く叩く。


「イキタ」


 堀越は両目を閉じた。


 閉じた瞼の間からも涙が流れる。


「生きた」


 相良が頷いた。


「オウ」


 堀越が相良へ手を伸ばす。


 左脇腹を避ける。


 右肩へ触れる直前で止まった。


 相良がその手首をつかむ。


 自分の肩へ引き寄せた。


「コイ」


 堀越の掌が相良へ触れた。


 顔がまた崩れる。


 相良の肩へ額を押し当てる。


 声を抑えずに泣いた。


「相良」


「オウ」


「相良」


「オウ」


 堀越は相良の背中を掴む。


 次に直樹へ手を伸ばした。


 左肩を強く握る。


「直樹」


「ああ」


「いるな」


「ああ」


「帰れ」


 直樹は堀越の手を外さなかった。


「一緒に帰る」


 堀越の指へ力が入った。


 二人の肩を掴んだまま、顔を伏せる。


 どちらも、生きていた。


     *


 ミーシャは小屋の入口へ移動した。


 本当は直樹の近くへ行きたかった。


 堀越が直樹の肩を掴んだ瞬間、身体が前へ出かけた。


 直樹が受け入れていると分かり、止まった。


 今、自分が役に立てる場所は、三人の間ではない。


 外だった。


 沢。


 尾根。


 崩れた壁。


 退路。


 順に確認する。


 背後から直樹の声がするたび、振り返りそうになる。


 ミーシャはアフガンスカーフの補修跡を握った。


 濡れた布は冷たい。


 硬い縫い目へ触れると、直樹が初めて自分の首へ巻いた時の手の位置が戻る。


 ミーシャは外を見続けた。


 三人が泣ける時間を守る。


 それが今、直樹の役に立つことだった。


     *


 堀越の呼吸が戻るまで、二十分近くかかった。


 涙の量が減っただけで、止まってはいない。


 相良が上衣を整える。


 傷が隠れる。


 堀越の顔が、もう一度悲しそうに歪んだ。


「痛むか」


「スコシ」


 堀越の片方の眉が上がる。


 嘘だと分かっている顔だった。


「ウルセエ」


 相良が言う。


 堀越の口元が少し動いた。


 直樹が堀越の小銃を見る。


「弾倉」


 堀越は頷いた。


 弾倉を外す。


 薬室を開く。


 一発も入っていないことを見せる。


 小銃を床へ置いた。


 ミーシャが入口から戻る。


 小銃。


 弾倉。


 堀越の腰。


 両手。


 順に確認する。


 堀越は抵抗しなかった。


 ミーシャが弾倉を受け取る。


「帰還中は私が保持します」


 堀越は一度だけ頷いた。


 直樹も頷く。


 堀越は空の小銃を拾い、背負い直した。


 相良がミーシャを見る。


「チャクミ」


「戦術補佐です」


「エライ」


 自分の胸を叩く。


「センパイ」


 ミーシャは相良を見る。


「その関係は、次の周期にも確認します」


「オウ」


 堀越の目元が緩んだ。


「ゴエサン」


 相良が立つ。


「カエルゾ」


 堀越の笑みが止まる。


 直樹を見る。


「帰る場所はある」


 直樹が言った。


「お前の分もある」


 堀越は相良を見る。


 ミーシャ。


 もう一度、直樹。


「今からか」


「ああ」


 堀越の目から、また涙が一筋落ちた。


 袖で拭う。


 直樹が小屋を出る。


 ミーシャが左側へつく。


 相良が後ろへ続く。


 堀越は小屋に残った。


 三人が沢へ向かって歩き始める。


 足音は三人分だった。


 十歩進む。


 相良が一度だけ振り返る。


「ゴエサン」


 返事はない。


 相良が前へ向き直る。


「オルゾ」


 直樹は振り向かなかった。


 ミーシャだけが視野の端を使う。


 次の木を越えた時、直樹の右後方に堀越がいた。


 身体は森の影へ半分溶けている。


 空の小銃を背負っている。


 弾倉はミーシャが持っていた。


 涙で赤くなった目だけが、三人と同じ方向を向いている。


 森へ入った時、歩いていたのは三人だった。


 相良は誰より早く、四人目がいると知った。


 直樹は、その四人目が何を確かめているかを読み続けた。


 ミーシャは古いスカーフを首へ巻き、直樹の左側を守った。


 帰りも、聞こえる足音は三人分しかなかった。


 それでも、帰る人数は四人になっていた。


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