第191話 命令されないための階級
## 第191話 命令されないための階級
朝七時九分。
国境第三の灰色の車両が、南第三共同生活校の門をくぐった。
健二は車両の後ろで門を閉めた。
車両は校庭の中央まで入らず、守衛室の脇で止まる。
助手席から相原忍一尉が降りた。
後部扉が開く。
大庭航平が、黒いアタッシュケースを片手に出てきた。
髪は伸びている。
顎には剃り残した髭。
左の頬には、細い擦り傷が一本走っていた。
「遅かったな」
直樹が言った。
「途中の橋が落ちてた」
「報告にはなかった」
「昨日落ちた。現地の連絡より、川の方が仕事が早かった」
大庭はアタッシュケースを持ち上げた。
「それでも、これは落とさなかった。貸し一つな、マッシー」
「頼んでない」
「借りる側は、だいたいそう言う」
「持って帰れ」
「おいおい。中身も見ずに返品かよ」
「面倒な物なんだろ」
「そりゃそうだ。責任なんて、金で払えない借金みたいなもんだ」
「なら、お前が持て」
「俺の給料じゃ利息にもならねえよ」
大庭は笑った。
直樹は左頬の傷を見る。
「それは」
「枝」
「敵じゃないのか」
「敵より木の方が遠慮がない」
「処置は」
「済んでる」
「食事」
「食った」
「睡眠」
「三時間」
「先に寝ろ」
「これを渡してからだ。返せない借りを抱えたままだと、寝覚めが悪い」
自分が部下へ確かめる順序を、大庭は自分にも当てはめていた。
負傷。
食事。
入浴。
睡眠。
報告は、そのあとだ。
「風呂は」
「まだ」
「臭う」
「男の帰還に香りまで求めるな」
「多目的室へ行け」
「ほら。最初からそこで合ってる」
大庭は先に校舎へ向かった。
相原は二人を交互に見た。
口が一度開く。
何も言わず、端末へ到着時刻を入力した。
*
多目的室の中央へ、長机を二つ並べた。
窓側にえり。
その隣に相原。
健二は出入口に近い椅子へ座った。
めぐみは直樹の右側にいる。
左手は膝の上。
薬指の指輪を隠してはいない。
ミーシャは直樹の左後方へ立っていた。
空いている椅子はある。
まだ座らない。
大庭がアタッシュケースを机へ置いた。
黒い樹脂製だった。
角には擦れた跡がある。
特別な紋章も、電子錠も付いていない。
左右の金具を外す。
二度、乾いた音がした。
蓋を開く。
中に入っていたのは、灰色の書類ファイルと、小さな透明袋に収められた階級章だった。
「豪華なのは肩書きだけだ」
大庭が言った。
「箱は使い回し」
「大庭三尉」
相原が呼ぶ。
「説明を始めます」
「はいはい。一尉に怒られると、始末書の利息が高い」
相原は応じず、端末を机へ置いた。
えりが記録装置を起動する。
「録画、録音、原本保存。修正は赤字。差し替えても、元の紙は残す」
「了解しました」
相原が答える。
「ここで返事を急がせない。直樹が持ち帰って読む時間も取る」
「共同運用会議は、早期の回答を求めています」
「求めるのは自由。回答する時刻を決めるのは直樹」
「そのまま伝えます」
「送信先」
相原が画面を表示する。
国境第三運用室。
西方暫定連隊本部。
共同人命保全作業部会。
暫定政府危機調整局。
えりは一行ずつ確認し、画面を撮影した。
「始めて」
直樹が書類ファイルを開く。
表紙の中央に氏名が印字されていた。
真柴直樹。
共同運用等級。
OF―3(T)。
任務指定、時限付与。
役職。
国境第三・原型任務教導隊長。
「OF―3」
健二が数字を見る。
「どのくらいなん?」
「自衛隊の階級へ置き換えるなら、三等陸佐相当です」
相原が答えた。
健二の視線が大庭へ動く。
「大庭さんは?」
「三等陸尉」
大庭が自分で答えた。
「階級表だけなら、今日からマッシーの方がだいぶ偉い。ありがたく敬え」
「正式な昇任ではありません」
相原が続ける。
「給与も、恒常的な身分も変わりません。指定された任務区域と期間に限り、三等陸佐相当の共同運用権限を持ちます」
「三佐相当なら、部隊長?」
健二が聞く。
「単独の班を直接動かすだけではありません。複数の小部隊や専門要員をまとめ、他部隊や行政組織と調整する位置です」
「大庭さんにも命令できる?」
「原則として、できません」
相原はすぐに答えた。
「大庭三尉は西方暫定連隊の指揮系統に残ります。共同任務で指揮権が正式に移された場合を除き、真柴さんの部下にはなりません」
大庭が胸へ手を当てる。
「残念だったな、マッシー。昔みたいに俺を顎で使えない」
「昔も使ってない」
「観測点まで荷物を持たせただろ」
「自分の酒を入れてたからだ」
「半分はお前の分だった」
「飲んでない」
「じゃあ、まだ貸しだな」
直樹は大庭を無視し、次の頁を開いた。
境界回廊の保全。
避難者および負傷者の回収。
越境調整。
付属要員の現場指揮。
限定的な実力行使。
任務中止。
他地域部隊との現地調整。
訓練要員の任務資格認定。
頁の下には、小さな文字が並んでいた。
当該等級は恒常的な階級、昇任および給与上の身分を意味しない。
「権限は任務中だけ」
直樹が言った。
「はい」
「責任は」
「任務後も残ります」
健二が椅子の背へ身体を預けた。
「偉くするんやなくて、責任を取らせるための三佐相当か」
相原は否定しなかった。
「正規自衛官を国境の外へ投入すれば、正式な軍事行動と判断される可能性があります」
「兄ちゃんたちなら、軍事行動じゃない?」
「共同人命保全任務として扱います」
「撃たれたら」
直樹が聞く。
「応戦できます」
「撃ち返したら戦闘だ」
「現場では、そうなります」
「書類では違う」
「はい」
大庭から笑みが消えていた。
壁へもたれず、机の横に立っている。
「俺が国境へ触る時は、赤十字標章を掲げた医療・避難車列の外周防護か、人道回廊の連絡だ」
大庭が言った。
「撃たれない限り、こっちから撃つ理由はない」
「撃たれたら?」
健二が尋ねる。
「車列と人間を逃がすために撃つ」
軽口はなかった。
「俺が撃ちたいからじゃない。撃たなきゃ、名前のある人間が死ぬからだ」
直樹は大庭を見る。
「お前は編制外だな」
「ああ」
「必要な時だけ接続される」
「正規軍側の連絡、観測、外周防護。そこまでだ」
「指揮が競合したら」
「命令書を確認する」
「確認する時間がなければ」
大庭は直樹を見た。
「人を生きて返す方を選ぶ」
「命令違反になっても?」
「生きてりゃ請求できる」
大庭の口元へ、薄い笑みが戻った。
「死んだら、文句も聞けねえからな」
*
編制表の最上段に、直樹の名前がある。
その下にミーシャ。
WO―2(T)。
先任情報・運用准士官。
戦術補佐。
指揮継承順位、第一位。
ミーシャが紙へ近づく。
「現場同行を含みますか」
「任務によります」
相原が答える。
「常設を希望します」
「お前が決めることじゃない」
直樹が言った。
「だから希望を出しています」
「後方でも仕事はできる」
「情報運用だけなら、別の人間でもできます」
「お前でなければできないのは」
「NAOの支援です」
返事は早かった。
声はいつもどおり平らだった。
ミーシャは机の上の識別票を取った。
MYSHA。
WO―2(T)。
直樹の識別票の下へ置く。
角がわずかにずれた。
指先で直す。
もう一度確かめ、二枚の左端を揃えた。
大庭がその動きを見る。
次に、めぐみの左手へ目を移す。
口元がわずかに上がった。
「朝から席取りが早いな」
「席ではありません」
ミーシャが答える。
「配置です」
「そりゃそうだ」
大庭は二枚の識別票を眺めた。
「配置表だけで飯三杯いける」
「大庭三尉」
相原が呼んだ。
「説明中です」
「俺も観察中だ。一応、専門だからな」
「黙れ」
直樹が言った。
「マッシー、左右どっちも強いな」
「黙れ」
「二回目は料金がかかるぞ」
大庭はそれ以上踏み込まなかった。
直樹とめぐみの関係を笑わない。
ミーシャの感情を、下品な言葉へ変えない。
見えていても、本人たちが口にしていない場所までは踏まない男だった。
「戦場のNAOを、私が一番知っています」
ミーシャが相原へ言った。
「右手が遅れる時。呼吸が浅くなる時。視野が狭くなる時。負傷を隠す時。自分だけ残ろうとする時」
一つずつ挙げる。
「全部、分かります」
「俺を優先する」
直樹が言った。
「はい」
「任務より先に」
「必要なら」
「それが問題だ」
「違います」
ミーシャは空いていた椅子を引いた。
直樹の左隣へ置く。
まだ座らない。
両手を椅子の背へ重ねる。
「NAOを失えば、任務の成功率が下がります」
「それだけか」
「それだけではありません」
声は変わらなかった。
「でも、能力があります。感情だけを理由に外すのは不合理です」
大庭は何も言わない。
先ほどまでの笑みも消えていた。
「感情で判断を変えたら」
直樹が聞く。
「記録してください」
「俺を助けるため、ほかを捨てたら」
「処分してください」
「それでも行くのか」
「行きます」
直樹は編制表へ目を戻した。
「継承順位は任務ごとに決める」
「第一位から外しますか」
ミーシャの身体が、わずかに直樹へ向く。
表情は変わらない。
椅子の背を握る指だけに力が入った。
「常設にはしない」
「理由は」
「俺との関係が判断へ影響する可能性がある」
「ほかの人間にも関係はあります」
「ああ」
「私だけを外すのは不公平です」
「外すとは言ってない」
ミーシャの指が緩む。
「任務ごとに選ぶ。お前が最適なら、お前にする」
「確認しました」
ミーシャが座った。
椅子は直樹へ触れない距離で止める。
膝だけが、わずかに直樹側を向いていた。
めぐみが二枚の識別票を見る。
「ミーシャ」
「はい」
「なおの左側、お願いね」
ミーシャの動きが止まる。
「私は右にいるから」
「任せてください」
ミーシャは椅子を一センチだけ外へ動かした。
受け取ったのが生活の隣ではなく、任務上の位置であることを守る距離だった。
大庭はその動きを見ても、もう笑わなかった。
*
相良の欄には、
OR―8(S)。
保護付特殊戦技教導員。
と記されている。
その下に、包括同意の規定があった。
七十二時間以内に参加意思が確認されている場合、緊急時には再確認を省略できる。
直樹は一度読み、最初へ戻った。
「消せ」
「緊急時の継続規定です」
相原が答えた。
「記憶が切れたあとも?」
「七十二時間以内であれば」
「昨日の相良が受けた任務を、今日の相良へ勝手に渡すな」
「再確認できなければ、編制から外れます」
「外せ」
「回廊内に避難者が残っていても?」
「相良を消して続ける任務なら、最初から出すな」
えりが包括同意の一文へ赤い線を引く。
「確認する項目は?」
「本人確認。記憶状態。参加意思」
直樹は三本の指を、順に紙へ置いた。
「全部だ」
「一つでも欠ければ?」
「投入しない」
相原が端末へ入力する。
えりは入力画面も保存した。
*
次の頁には、八人の名前が並んでいた。
田所遼。
江藤沙月。
芦田真希。
安西冬馬。
柴崎誠。
御厨奈々。
森川亮介。
高城真帆。
全員に同じ符号が付いている。
OR―1(P)。
原型任務教導隊・初期訓練生。
直樹は、一人ずつ名前を読んだ。
田所が赤い通路の角材へ、確認より先に手を掛けた時。
江藤が非常口と時計と人の手を順に見た時。
芦田が毛布を七枚数え、自分だけを八人から外した時。
安西が直樹の右腕を、初めて知った人間とは違う目で見た時。
柴崎が命令の優先順位を確かめ続けた時。
御厨が、一人の肩から離れられなくなった時。
森川が二つの箱を抱えたまま、命令の範囲を聞きに戻った時。
高城が封筒を先に届け、見えていた人間へ手を出さなかった時。
八人とも、まだ決まっていない。
強いか、弱いかではない。
誰を見落とすか。
誰を置いていくか。
自分を人数へ入れられるか。
その下に、別の項目があった。
運用可能戦力。
十一名。
真柴直樹。
ミーシャ。
相良。
初期訓練生八名。
「こいつらを見た人間は何人いる」
直樹が聞いた。
「映像と評価記録は共有されています」
「会った人数だ」
「作業部会にはいません」
「一人も?」
「はい」
「それで戦力と書いた」
「候補としてです」
「候補と書いてない」
直樹が書類を相原へ向ける。
運用可能戦力。
十一名。
注記はない。
「俺の記録を使ったな」
「はい」
「ミーシャの分析も」
「はい」
「楠本一曹の身体評価も」
「はい」
「顔も知らない人間が、使えると決めた」
「出したいという意味ではありません」
「出したくないが、出す必要がある」
「はい」
相原は目を逸らさない。
「正規自衛官を越境させれば、国境戦と認定される可能性が高いです」
「俺たちなら戦争じゃない?」
「共同人命保全任務として扱われます」
「撃たれれば応戦する」
「はい」
「死ぬ側には同じだ」
相原は答えなかった。
「負傷した時の扱いは?」
えりが聞く。
「指揮関係と任務区分による個別判断です」
「いつ判断するの」
「事後になる場合があります」
「死んだあと?」
「その可能性もあります」
えりが該当箇所へ赤い線を引く。
「生きてる間は戦力。死んだら会議で所属を決める」
「国境第三は反対意見を提出しています」
相原が端末に文書を表示した。
えりは作成者と時刻を確認する。
「反対したのは本当」
「はい」
「でも消せなかった」
「はい」
*
「条件を言って」
えりが白紙を一枚出した。
「全部つける」
直樹は八人の名前から目を離さない。
「任務ごとの個別同意」
えりが書く。
「拒否しても、居住、食事、治療、訓練資格を奪わない」
「理由は聞く?」
「一回だけ」
「答えなければ」
「そこで終わりだ」
「別の人間が、言い方を変えて聞くのは?」
「禁止する」
「説得は?」
「するな」
えりのペンが動く。
「実任務へ出す時は、訓練生のままにしない」
「身分」
「任務要員として登録する」
「負傷」
「公務上」
「死亡」
「同じだ」
直樹は言葉を弱めなかった。
「任務後に民間人や訓練生へ戻して、責任を切らない」
「補償する組織は?」
「命令を出した全部」
「共同責任?」
「ああ」
相原が口を開く。
「法的な整理が必要です」
「整理してから出せ」
「先に事態が動いた場合は」
「出すな」
「救助を待つ人間がいても?」
直樹が相原を見る。
「一人を助けるために、別の人間の名前を消していいのか」
「いいとは言っていません」
「今の紙は、そうなってる」
相原は黙った。
「次」
えりが促す。
「資格認定は、俺と楠本一曹」
「両方?」
「ああ。俺は動きを見る。楠本は身体を見る」
「どちらかが反対したら」
「出さない」
「医療責任者」
「別に置く」
「中止権は?」
「現場指揮者。医療責任者。本人」
「本人が止められるのは、自分の参加?」
「ああ」
「部隊全体は」
「現場指揮者か医療責任者」
相原が書類を見る。
「権限が強すぎます」
「死なせる権限より、止める権限を軽くしろ」
えりがその一文へ赤い丸を付ける。
「命令系統」
「俺を通さず、八人へ直接命令しない」
「通信断では?」
「任務前に指定した指揮者へ移す」
「外から上位者の命令が届いた場合は」
「現場指揮者が受けるか決める」
「階級が上でも?」
「現場を見ていないなら」
「揉めるよ」
「揉めさせろ」
えりは書き続ける。
「最後」
「南第三共同生活校の子ども八人とは、名簿を完全に分ける」
健二の顔が上がる。
「予算。装備。移動。教育記録。全部だ」
「当然やろ」
「当然なら紙にできる」
直樹は相原を見る。
「補助要員、通信要員、運搬要員に登録しない」
「了解しました」
「見学者にも入れるな」
「見学もですか」
「見学から慣らすつもりか」
「確認です」
「入れない」
相原が端末へ入力する。
えりはその画面も保存した。
*
「全部通るとは思うなよ」
大庭が言った。
「通らなければ受けない」
「それで、八人の名簿が消えると思うか」
直樹の視線が動く。
「どういう意味だ」
「名簿はもう共同運用会議へ上がってる」
「俺の署名前だ」
「お前の隊になる前から、候補としてな」
「俺が断ったら」
「隊長欄が空く」
「八人は」
「残る」
「誰が指揮する」
「本部が別の教導官を入れる」
「決まってるのか」
「まだだ」
「俺の評価は」
「使われる」
大庭は壁から背を離した。
「お前が見た動きも、ミーシャが残した分析も、楠本一曹の身体評価も、そのまま残る」
ミーシャの指が、自分の識別票へ触れた。
「私の分析を、別の指揮官が使う?」
「可能性はある」
大庭が答えた。
「許可していません」
「記録は、もう作業部会へ渡ってる」
「人間の記録です」
「俺に怒るな」
「怒っています」
ミーシャは識別票を動かさなかった。
直樹の名札の真下に置いたまま、大庭を見る。
「私が見た八人を、知らない人間へ渡すことに」
大庭の笑みが消える。
「それは俺も同じだ」
直樹は八人の名前を見る。
「俺が受けなければ、顔も知らない人間が、この記録を使う」
「可能性は高いです」
相原が答えた。
「条件なしで」
「それもあり得ます」
直樹は透明袋の中の階級章を見る。
三本の縦棒。
三等陸佐相当。
命令できる人数を示すためではない。
誰を通すか。
誰を戻すか。
誰を送らないか。
その決定に名前を残すための位置だった。
「条件を付属協定にしろ」
「全部ですか」
相原が聞く。
「一つでも外したら無効だ」
「本部の承認が必要です」
「承認されるまで、階級は使わない」
「緊急時は」
「断る」
「その間に別の教導官へ移される可能性があります」
「今日中に通せ」
相原は直樹を見る。
「分かりました」
えりが付属文書の最後へ一行加えた。
本協定の全部が承認されるまで、共同運用等級および役職は効力を生じない。
「署名する?」
「条件付きで」
直樹はペンを取った。
右手の指が、わずかに遅れる。
持ち直す。
名前を書く。
真柴直樹。
最後の一画が紙へ残った。
*
階級章は、透明袋から出すとさらに小さく見えた。
濃い灰色の台座に、三本の短い銀線。
裏面には識別番号が刻まれている。
相原が装着位置を示した。
「左胸です。任務時のみ着用してください」
「まだ効力はない」
「今日は八人への説明に限り、役職案として提示します」
めぐみが階級章を見る。
「これで、三佐と同じくらい?」
「共同任務の中だけです」
相原が答える。
「終わったら、なおに戻る?」
「ああ」
直樹が言った。
ミーシャが立ち上がる。
直樹の左胸へ手を伸ばしかけた。
指先が止まる。
めぐみの左手に、指輪がある。
「位置は、そこです」
ミーシャは直樹の胸を指した。
「分かる」
「傾きやすいです」
「自分で着ける」
「はい」
ミーシャは手を下ろした。
直樹が階級章を左胸へ固定する。
布の裏で、留め具が小さく鳴った。
誰も拍手しなかった。
相原も敬礼しない。
「似合うとは言わんよ」
健二が言った。
「言わなくていい」
「偉くなった感じもせん」
「なってない」
「責任だけ増えた?」
「ああ」
大庭が直樹の胸を見る。
「命令できる人数の印じゃないんだな」
「違う」
「何の印だ」
直樹は八人の名簿へ目を落とした。
「勝手に命令させないための印だ」
*
楢ノ沢館との閉鎖回線がつながったのは、午前十時十二分だった。
画面の向こうには、八人が並んでいる。
田所遼。
江藤沙月。
芦田真希。
安西冬馬。
柴崎誠。
御厨奈々。
森川亮介。
高城真帆。
その後ろに、楠本カレン一曹が立っていた。
八人の手元には、同じ厚さの書類がある。
「説明する」
直樹が言った。
「今日、お前たちの名前が共同運用名簿へ登録された」
八人は動かなかった。
「符号はOR―1(P)。原型任務教導隊の初期訓練生」
柴崎が手を上げる。
「指揮系統は確定していますか」
「条件が承認されれば、俺の下へ入る」
「主任教官の等級は」
「OF―3(T)」
「正式な自衛隊階級ではない?」
「違う」
「自衛隊の階級では、どの位置ですか」
「三等陸佐相当だ」
柴崎の目が、直樹の左胸へ動く。
「複数の班や専門要員をまとめる側?」
「そうだ」
「任務中だけ有効ですか」
「ああ」
柴崎は頷いた。
田所が続ける。
「いつから実任務へ出ますか」
「決まってない」
「登録されたのに?」
「登録した人間と、出していいと決める人間は別だ」
「主任教官は、まだ出せないと?」
「分からない」
「訓練を見てるのに?」
「一度動いただけで、人間を決める気はない」
安西が口を開く。
「国は決めたんですよね」
「ああ」
「俺たちを使えると」
「ああ」
「戦力として?」
「そう書いてある」
御厨が、安西ではなく残る七人の顔を見る。
芦田の指が、書類の端へ触れる。
「八人全員ですか」
「今の名簿では」
「私も?」
直樹は芦田を見る。
「お前を八人から外すな」
芦田の指が止まる。
「はい」
江藤が手を上げた。
「拒否した場合の扱いは」
「訓練資格、居住、食事、治療には影響させない」
「理由は聞かれますか」
「一度だけだ」
「答えなくても?」
「いい」
「別の人から聞かれることは」
「させない」
江藤は書類へ短く書き込んだ。
御厨が尋ねる。
「負傷した時は、訓練中の事故になりますか」
「させない」
「死亡した場合も?」
八人の間から音が消えた。
「任務要員として扱わせる」
「まだ決まっていない?」
「ああ」
直樹は誤魔化さなかった。
「だから、決まるまで出さない」
高城が手を上げる。
「守る対象と記録媒体の両方を持ち帰れない場合、優先順位は事前に決まりますか」
「任務ごとに決める」
「現場で条件が変わったら」
「見た人間が判断する」
「判断した人だけが責任を負いますか」
「最終責任は俺が負う」
大庭の口元から笑みが消えた。
「真柴」
低い声だった。
直樹が横を見る。
「お前も全員に入れろ」
直樹は答えなかった。
「最終責任を取るのと、最後に一人で残るのは違う」
大庭は続けない。
直樹が返事をするまで待った。
「ああ」
それだけ答える。
大庭の口元に、薄い笑いが戻った。
「生きてりゃ請求できる」
画面の向こうで、高城が二人を見ていた。
森川が手を上げる。
「命令の範囲が曖昧な場合は」
「時間があれば確認しろ」
「なければ」
「目的へ戻れ」
「目的も不明なら」
「人を生きて戻せ」
森川が頷く。
田所が半歩前へ出る。
「班長はいつ決めますか」
「まだ決めない」
「現場へ出るなら必要です」
「出る前には決める」
「今から候補を――」
「急いで役を与えると、その役に合う動きしか見えなくなる」
田所の足が戻る。
安西が尋ねる。
「全員が行きたいと言ったら?」
「全員を出すとは限らない」
「なぜ」
「行きたいことと、出していいことは別だ」
「それを主任教官が決める?」
「俺と楠本一曹が決める」
画面の奥で楠本が腕を組んでいる。
「身体をごまかした者は出しません」
安西の右肩がわずかに下がる。
「軽い痛みでも?」
「痛みがあることと、使えないことは同じじゃない」
楠本が答える。
「でも、隠した痛みは人を巻き込みます」
安西は何も言わなかった。
「今日は決めるな」
直樹が言う。
「何をですか」
田所が聞いた。
「行くかどうかだ」
「もう決めてる人もいます」
「それでも、今日は返事を受けない」
「危険だからですか」
「危険だと聞いた直後の返事は、覚悟とは限らない」
「怖くなって断るかもしれない」
「それでいい」
「訓練してきたのに?」
「訓練は、断れなくするためじゃない」
安西の口が閉じる。
「書類を読め。分からない言葉へ印を付けろ。明日、一人ずつ話す」
江藤が聞く。
「ほかの七人の返事は知らされますか」
「自分が決める前には教えない」
「なぜ」
「人数に合わせて決めさせないためだ」
芦田が書類を持ち直した。
柴崎が直樹の胸を見る。
「その階級章は、私たちへ命令するためのものですか」
八人の視線が集まる。
「違う」
「では、何のためですか」
「お前たちが、俺の知らないところから命令されないようにするためだ」
誰も返事をしなかった。
「俺が受けなくても、お前たちの名簿は残る」
田所の眉間に力が入る。
「別の教官が来る?」
「可能性はある」
「だから受けた?」
「ああ」
「主任教官なら、守れるんですか」
「全部は無理だ」
直樹は答えた。
「でも、誰が何を命令したかは残せる。断った人間の名前も消させない。負傷した時だけ訓練生へ戻させない。八人を数字だけにはさせない」
高城が書類の最上段を見る。
そこには自分の名前がある。
直樹は階級章を外し、掌へ載せた。
「説明は終わりだ」
楠本が口を開く。
「主任教官」
「何だ」
「その章を着けたまま、生活区画の説明を続けないでください」
「もう外した」
「確認しました」
「理由は」
「朝食の席まで命令に見えるからです」
江藤だけが、直樹の掌を見た。
訓練服には、留め具を通した小さな跡が残っている。
「今日は訓練を変えます」
楠本が言った。
「書類を読む。身体を確認する。質問を書く。それだけです」
「運動は?」
田所が尋ねる。
「なし」
「時間が余ります」
「余らせな」
「何のために」
「自分で決める時間にするためだよ」
回線が切れる直前、直樹は八人を見た。
田所は、次の命令を探していない。
江藤は書類から顔を上げている。
芦田は自分を含め、八つの椅子を数えていた。
安西の右拳は開いている。
柴崎は命令を待たず、最初の頁をめくった。
御厨は一人の肩ではなく、全員の呼吸を見ている。
森川は質問する前に、書類の目的を読もうとしていた。
高城は紙を胸へ抱えず、机へ広げている。
画面が灰色へ変わった。
*
会議が終わったのは、十一時を過ぎてからだった。
えりが記録端末を止める。
健二とめぐみは昼食の準備を手伝うため、先に多目的室を出た。
ミーシャは書類を封筒へ戻している。
自分の識別票は、直樹のものと重ねなかった。
すぐ横へ揃えて入れる。
大庭はその手元を見た。
「几帳面だな」
「記録です」
「そりゃそうだ」
大庭は笑った。
それ以上は言わなかった。
相原が、アタッシュケースの底に残っていた薄い封筒を取り出す。
「真柴さん」
直樹が振り返る。
「北方人道回廊支援班からの接触報告です」
封筒の表に、赤い文字があった。
不明人物との接触。
「いつのだ」
「接触は三日前です」
「報告が遅い」
「負傷者の状態は当日に無線で速報されています。現場図、装着映像、採取物は無線で送れませんでした」
相原が大庭を見る。
「詳細記録は、大庭三尉の車両で今朝到着しました」
「うちの部下の件か」
大庭が壁から離れる。
「はい」
「最終報告は俺も見てない」
「部下の状態は」
直樹が聞く。
大庭が答える。
「呼ばれたい名前を確認した。負傷の処置も済んでる。飯、風呂、睡眠も取らせた。長い報告は寝かせたあとに聞いた」
「今は」
「右手に少し握りにくさが残ってる。それ以外は動ける」
直樹が封を切る。
書類は三つに分けられていた。
客観記録。
隊員証言。
映像分析。
客観記録の最初に、負傷者の状態がある。
右手握力の低下。
指の随意運動に遅延。
発汗。
軽度の悪心。
呼吸と循環に異常なし。
約六時間後、握力および随意運動が実用域まで回復。
完全な成分同定には至らず。
自然由来の成分と、既存の医療資材を併用した可能性あり。
穿刺位置は右前腕。
次の項目。
小銃および無線機は、隊員の視界外で移動。
接触者による発砲なし。
接触者から隊員へ接近した足跡なし。
直樹は現場図を開く。
谷間の窪地。
倒木。
岩。
木々の切れ目。
電波が上へ抜ける狭い空間。
「背後を取られた、と本人は言ってる」
大庭が言った。
「違う」
直樹は倒木の北側を指した。
「こいつから近づいてない」
「部下が入った?」
「ああ」
映像分析にも同じ内容があった。
接触者は、倒木北側から大きく移動していない。
隊員が約三メートル以内へ進入。
接触者による追跡行動は確認されない。
「捕まえに来たんじゃない」
直樹が言う。
「捕まる場所へ、先にいた」
次の紙には、隊員の供述を基にした時系列記録が添付されていた。
*
無線を切ったあと、隊員の右手に小さな痛みが走った。
棘に触れた程度だった。
手袋の中で、指を動かす。
人差し指が遅れた。
次に中指。
手首から先へ、自分の意思が届かなくなる。
隊員は小銃へ左手を伸ばした。
あるはずの位置には、濡れた落ち葉しかなかった。
顔を上げる。
谷間には、倒木と岩がある。
細い木が重なり、その奥には光が届いていない。
人はいなかった。
最初は、そう見えた。
倒木の根元に、黒いものが二つ浮いている。
眼だった。
暗さのため、虹彩との境目が見えない。
黒目だけが大きく開き、正面を向いていた。
隊員を凝視しているようには見えない。
それでも左手を腰へ下げると、暗がりの中で片方の眉だけが上がった。
口元が横へ歪む。
やめろ。
声を使わず、顔がそう言っていた。
隊員は手を止めた。
人影は近づいてこない。
最初から、そこにいた。
隊員の方が、無線を使える窪地を選び、自分でその場所へ入っていた。
「誰だ」
暗がりの顔に、樹皮の裂け目のような皺が寄った。
質問が違う。
そういう顔だった。
「所属」
声は低い。
一語だけ。
隊員は答えなかった。
男も聞き直さない。
大きな黒目は正面を向いたまま。
眼球を動かしていないのに、左手、足の位置、腰の装具、背後の斜面まで見られている感覚があった。
小鳥が一羽、男の肩へ下りた。
男は追い払わない。
鳥へ目も向けない。
「自衛隊だ」
隊員が答えた。
男の口角が下がる。
足りない。
「西方暫定連隊。北方人道回廊支援班」
男の鼻の横へ皺が集まる。
次の言葉を待っている。
「大庭三尉の指揮下だ」
大庭の名には反応しなかった。
知らない人間の名を聞いた顔だった。
男は、わずかに顎を上げた。
「中即」
隊員は意味を取れなかった。
男の眉間が深くなる。
「中即を知ってるか、ってことか」
男の目元がわずかに緩んだ。
肯定だった。
「隊長の友人に、元中即の人がいる」
それまで動かなかった顔が変わる。
片方の眉が上がった。
口元の皺が止まる。
「誰」
「真柴直樹」
男は動かなかった。
肩の小鳥が首を傾げる。
大きな黒い眼の下だけが、ほんの少し緩んだ。
「生きてる」
「生きてる」
隊員が答えた。
森の中に張っていたものが、一枚だけ外れたように見えた。
「案内しろ」
隊員は痺れた右腕を押さえた。
「小銃を返せ」
男の顔が歪んだ。
片方の口角が深く下がる。
今それを持たせるほど、自分は馬鹿に見えるのか。
声を使わず、そう問い返していた。
「無線だけでも」
男の眉が上がる。
「連絡しなきゃ、こっちが撃たれる」
数秒後、隊員の足元に無線機が置かれていた。
いつ置かれたのか分からない。
男は、元の場所から動いていないように見えた。
*
隊員は左手で無線を操作した。
所属と本人確認用の短い符号を送る。
不明人物を一名同行させることは言わなかった。
言えば、合流地点が変更される可能性がある。
背後から止められることも考えた。
何も起きなかった。
隊員は谷を出る。
足元を確かめながら、指定された合流地点へ向かった。
男がついてくる音はない。
振り返る。
いない。
倒木の陰にも、岩の脇にも、人間の形はなかった。
「おい」
返事はない。
隊員は数歩戻る。
落ち葉に足跡はない。
枝も折れていない。
肩へ止まっていた小鳥の姿も消えていた。
逃げたのか。
自分を歩かせ、合流地点だけを探ろうとしているのか。
隊員は無線へ左手を伸ばす。
そこで止めた。
男がどこから見ているか分からない。
連絡すれば、また腕をやられるかもしれない。
隊員は歩き続けた。
*
一時間二十分後。
廃林道の終点に、北方班の臨時合流地点があった。
道路側からは、崩れた作業小屋にしか見えない。
実際の待機場所は、小屋の裏手に掘られた排水路の先だった。
隊員は指定された石を二度踏む。
藪の中で、安全装置が外れる音がした。
「認証」
見張りの声。
隊員は符号を答える。
「負傷してる」
「右腕だ。動かしにくい」
「一人か」
隊員は背後を見る。
誰もいない。
「ああ」
そう答えた時だった。
見張りの顔が、隊員の肩越しへ向いた。
小銃が上がる。
隊員も振り返った。
藪と崩れた石垣の間に、顔があった。
身体は見えない。
暗い苔と木の根の中で、大きな黒目だけが正面を向いている。
口元が曲がっていた。
隊員が嘘をついたことへ呆れている顔だった。
男が口を開く。
「ここで合流か?」
隊員の背中を汗が流れた。
途中でいなくなったのではない。
最初から最後まで、ついてきていた。
振り返った時も。
無線へ手を伸ばした時も。
認証符号を口にした時も。
ずっと隊員を捕食範囲の外へ出していなかった。
見張りが小銃を構える。
「動くな」
男は動いていない。
小鳥が一羽、頭上の枝へ下りた。
片方の眉が上がる。
その顔だけで、見張りの命令がどれほど無意味か伝わった。
隊員が左手を上げる。
「待て」
「誰だ」
「分からない。ただ――」
息を整える。
「真柴直樹を知ってる」
暗がりの顔に、新しい皺が浮かんだ。
違う。
逆だ。
そう訂正しているように見えた。
「俺たちが真柴を知ってると分かって、ここまで来た」
男の目元が、わずかに緩んだ。
今度は肯定だった。
*
直樹は時系列記録を閉じた。
「知ってるのか」
大庭が聞く。
直樹は添付された静止画像を見る。
倒木の陰。
木の根元に見える暗い塊。
人間の輪郭はない。
拡大して、ようやく顔の一部が見える。
片方だけ上がった眉。
横へ曲がった口。
暗がりの中で開いた、大きな黒い目。
群馬の林。
焚き火から離れた仄暗い場所。
相良の声。
堀越先輩、また木になってますよ。
「堀越だ」
直樹が言った。
「誰だ」
「堀越俊介。元二等陸曹」
「お前の同期?」
「ああ」
「俺は知らない」
「接点がない」
「狙撃手か」
「狙撃もする」
「それ以外は」
「見つからない」
大庭が静止画像を見る。
「うちの部下は見つけたぞ」
「見つけさせた」
「何のために」
「中即へつながる人間を探してた」
「お前の名前を聞いて、ついてきた」
「ああ」
「真柴直樹へ案内しろ、とは言わなかったのか」
「言う必要がないと思ったんだろ」
「面倒な同期だな」
「喋らないだけだ」
「これで?」
「今日は多い」
ミーシャが直樹の横へ来る。
静止画像を覗き込んだ。
「NAOを知っていますか」
「ああ」
「戦場でも?」
「俺と堀越が同期。相良が一個下だった」
「三人で組んでいた?」
「ああ」
ミーシャが画像を拡大する。
大きな黒い目の位置へ指を置いた。
「今のNAOは知りません」
「競争じゃない」
「はい」
「なら、その顔は何だ」
「普通です」
大庭の口元が上がる。
「また席取りか」
「状況確認です」
「そりゃそうだ」
大庭はそれ以上言わなかった。
「相良とは、休日も一緒だった?」
ミーシャが聞く。
「群馬へ行ってた」
「任務?」
「キャンプだ」
「この人も?」
「ああ」
「喋った?」
「今より少し多い」
「何語くらい」
「必要な分だけだ」
ミーシャは北方班の現場図を横へ並べた。
「北へ行きます」
「決めてない」
「準備します」
「まだするな」
「決定後では遅いです」
「行くと決まってからだ」
「決めるために地形を見ます」
直樹はミーシャを見る。
鞄へは手を伸ばしていない。
装備も動かしていない。
地図だけを開いている。
「見るだけだ」
「はい」
直樹が北方班の移動経路を自分の前へ引き寄せた。
大庭が相原を見る。
「詳細な経路記録を出せるか」
「正式な照会が必要です」
「書く」
大庭は椅子へ座り、申請画面を開いた。
「貸し一つな、マッシー」
「お前の部下の件だ」
「そりゃそうだ」
大庭の指が止まる。
軽口が消えた。
「連れて帰るなら、生きたままにしてくれ」
「堀越を?」
「うちの部下もだ」
直樹は大庭を見る。
「名前は」
大庭は部下の名前を答えた。
人数ではなく。
報告書に印字された記号でもなく。
呼ばれたいと本人が答えた名前を、正確に口にした。
直樹はその名前を覚えた。
静止画像へ目を戻す。
暗がりに溶けた身体。
正面を向いた黒い目。
小鳥を追い払わない肩。
四年間、誰にも発見されなかった男が、北方班の合流地点まで自分から来た。
助けを求めてはいない。
投降もしていない。
ただ、中即へつながる道を見つけた。
ミーシャが北方の森林へ指を置く。
直樹は地図を引き寄せた。
胸ポケットの中で、まだ効力のない階級章が一度だけ鳴った。




