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第190話 ただいまを持ち帰る

## 第190話 ただいまを持ち帰る


 朝食を終えても、直樹はすぐに席を立たなかった。


 焼いた川魚の骨が、皿の上へきれいに並んでいる。味噌汁の椀は空だった。


 窓の外では、朝の湖を薄い霧が覆っていた。対岸の山は裾を隠し、木々の上だけが白い空へ浮かんでいる。


 めぐみは湯飲みを両手で包んでいた。


 左手の薬指にある指輪が、朝の光を細く返している。


 直樹が腕時計を見る。


 八時十三分。


「帰る?」


 めぐみが聞いた。


「まだいい」


「学校、心配じゃない?」


「心配だ」


「じゃあ、どうして?」


 直樹は窓の外を見た。


 霧の切れ間から、湖面が少しずつ現れている。


「十六時までに戻ればいい」


「昨日は、五分遅れたら連絡するって言ってたよ」


「遅れない」


「早く戻ろうとは思わないの?」


「思う」


 直樹は腕時計から手を離した。


「でも、湖を見てから帰る」


 めぐみは湯飲みを置いた。


「誰が?」


「二人で」


「なおから言った」


「ああ」


「あとで忘れないように、書いておこうかな」


「書くほどのことか」


「私には、そうなの」


 めぐみは左手でスケッチブックを引き寄せた。


 まだ開かない。


 指輪を一度見てから、直樹を見る。


「行こう」


     *


 遊歩道には、昨夜より多くの光が落ちていた。


 濡れた落ち葉が、木の階段へ張りついている。


 直樹が先に一段下りた。


 振り返り、めぐみへ手を差し出す。


 今度は手首を取らなかった。


 最初から指を開いて待つ。


 めぐみが、その間へ自分の指を入れた。


「覚えたね」


「何を」


「持ち方」


「荷物じゃない」


「うん」


 二人で階段を下りる。


 湖畔には朝の風が吹いていた。


 水面から霧が離れ、低い雲のように岸辺を流れている。


 直樹は湖を見る。


 めぐみは、その横顔を見た。


 今朝、部屋がまだ青かった頃に見つけた笑みは、もう消えている。


 けれど、以前の顔へ完全に戻ったわけでもなかった。


 眉間の力が少し抜けている。


 周囲を確認する目の動きも、昨日より遅い。


「なお」


「何」


「まだ、うれしい?」


 直樹が横を向く。


「何が」


「私がいること」


「ああ」


「顔には出てない」


「出す必要があるのか」


「私が見たい」


 直樹は答えなかった。


 めぐみが、つないだ手を少し揺らす。


「無理に笑わなくていいよ」


「なら言うな」


「でも、出たら教えて」


「自分で見ろ」


「見る」


 湖の上を、水鳥が一羽、低く横切った。


 直樹の目がそれを追う。


 口元が、ほんのわずかに緩む。


「今」


「何が」


「出た」


「出てない」


「見たよ」


「鳥を見てた」


「鳥がいることが、うれしかった?」


「違う」


「じゃあ、何?」


 直樹は答えず、めぐみの手を引いた。


 足元に、濡れた根が張り出している。


 めぐみがそれを越える。


「ごまかした」


「転ぶところだった」


「それも本当。でも、今ごまかした」


 直樹は否定しなかった。


 霧がさらに薄くなる。


 二人の影が、濡れた道へ並んだ。


     *


 宿を出たあと、小さな売店へ寄った。


 木造の店内には、乾燥させた果物や焼き菓子が並んでいる。棚の端には、この地域で採れた蜂蜜の瓶が置かれていた。


 直樹は包装された焼き菓子を手に取る。


「何個入りだ」


「十二個」


 めぐみが袋の表示を確認した。


「足りないね」


「二袋買う」


「誰から数えた?」


「子どもが八人」


「うん」


「健二、ハル、えり」


「十一人」


「ミーシャ」


「十二人」


「俺たち」


「十四人」


 直樹は二袋目を籠へ入れた。


 めぐみが蜂蜜の瓶を見る。


「相良さんは?」


 直樹の手が止まる。


「楢ノ沢館へ持っていく」


「次に会った時、旅行のことを覚えてないかもしれないよ」


「ああ」


「それでも?」


 直樹は小さな瓶を一つ取った。


「日記には残る」


「マシバから土産を受け取った、って?」


「ああ」


「食べるかな」


「食べなくてもいい」


「どうして」


「受け取ったことが残ればいい」


 直樹は蜂蜜を籠へ入れた。


 その横に、黒い蜂蜜の瓶が並んでいる。


 説明書きには、香辛料を混ぜ、甘さのあとに舌へ刺激が残るとあった。


 めぐみが一つ取る。


「これは?」


「何だ」


「ミーシャに」


「菓子がある」


「これは別」


「好きか分からないだろ」


「だから聞く」


「今買うのか」


「気に入らなかったら、みんなで食べればいい」


 めぐみは籠へ入れた。


 直樹は戻さなかった。


     *


 学校まで、あと三十分ほどの場所だった。


 めぐみは助手席で、左手を膝へ置いている。


 親指で、指輪をゆっくり回した。


 直樹の目が、一度だけそこへ動く。


「きついか」


「違う」


「痛む?」


「痛くない」


「なら、なぜ触ってる」


 めぐみは窓の外を見た。


 道路脇の木々が、一定の速さで後ろへ流れていく。


「みんな、見るよね」


「見るだろうな」


「子どもたちも」


「ああ」


「えりは、すぐ分かる」


「ああ」


「ミーシャも」


 直樹は答えなかった。


 めぐみの指が、指輪をもう一度回す。


 関節の近くまで、少し持ち上げた。


「外すのか」


「少し考えただけ」


「見られたくない?」


「違う」


「なら、着けていろ」


「なおは平気?」


「ああ」


「ミーシャが見ても?」


 直樹の手が、ハンドルの上で動きを止めた。


 車は真っすぐ走っている。


「隠す方が悪い」


「悪いって?」


「めぐみと決めたことを、なかったように扱うことになる」


 めぐみは指輪を薬指の根元へ戻した。


「二人で決めたんだよね」


「ああ」


「私だけの約束じゃない」


「ああ」


 直樹は片手をハンドルから離した。


 助手席へ伸ばす。


 めぐみの左手を取った。


 指輪の上へ親指を置く。


「着けててくれ」


「うん」


 めぐみの指が直樹の手を握る。


 直樹はすぐには離さなかった。


 緩いカーブが近づき、ようやく手をハンドルへ戻す。


     *


 校門が見えたのは、十五時四十二分だった。


 守衛室の前に健二が立っている。


 ハルは門の留め具を外していた。


 車が近づくと、蓮が校舎から飛び出してきた。後ろから悠斗と美月が続く。


 蓮は門が完全に開く前から、両手を振った。


 直樹が速度を落とす。


 校庭へ入る。


 エンジンを切るより先に、蓮が後部扉へ回った。


「土産は?」


「先に人を迎えろ」


 健二が言った。


「迎えてる」


「荷物しか見てないだろ」


「どっちもできる」


 直樹が車を降りる。


「触るな。後ろに工具がある」


「どれ?」


「だから触るな」


 蓮の手が止まった。


「おかえり」


 健二が言う。


 直樹は弟を見る。


 門。


 守衛室。


 校舎の窓。


 煙突から細く上がる煙。


 どこにも異常はない。


「ただいま」


 健二の目が一度だけ細くなった。


 次に、助手席から降りためぐみを見る。


 その左手で、視線が止まる。


 指輪。


 めぐみは隠さなかった。


 健二は何も聞かない。


 めぐみから旅行鞄を受け取る。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 健二はもう一度、直樹を見る。


「兄ちゃん」


「何だ」


「少し、力抜けたね」


「抜けてない」


「なら、そういうことにしとく」


 健二は鞄を肩へ掛けた。


「土産!」


 蓮が後ろから叫ぶ。


「持ってこい」


「どの袋?」


「菓子が入ってる方だ」


「蜂蜜は?」


「触るな」


「誰の?」


「蓮」


 悠斗が止めた。


「先に荷物を運べ」


「見ただけだって」


 蓮が菓子の袋を抱える。


 美月は、めぐみの前に立っていた。


 視線が左手へ向いている。


「それ、前からありましたか」


 めぐみは指輪を見る。


「持ってはいたよ」


「でも、着けていませんでした」


「うん」


「昨日ですか」


「昨日、なおに着けてもらったの」


 美月の目が直樹へ移る。


 直樹は工具箱を持ち上げていた。


 聞こえている。


 背中は向けなかった。


「結婚したの?」


 蓮が袋を抱えたまま戻ってくる。


「急に聞くな」


 悠斗が言う。


「だって指輪だぞ」


「二人が話すまで待て」


「今、話してる」


 めぐみが少し笑った。


「まだ、結婚したわけじゃないよ」


「じゃあ何?」


「一緒に暮らすって決めたところ」


 蓮はめぐみを見る。


 次に、直樹を見る。


「ここで?」


「場所は、これから考える」


 直樹が答えた。


「学校からいなくなる?」


 蓮の声から、さっきまでの軽さが消えた。


 美月も直樹を見る。


 悠斗は何も言わない。


 ただ、返事を待っている。


「いなくならない」


 直樹は工具箱を地面へ置いた。


「外へ行くことはある。任務にも出る」


「また長く?」


「分からない」


「じゃあ」


「帰ってくる」


 蓮の口が止まる。


 直樹は子どもたちを見た。


「二人とも、ここに帰ってくる」


 めぐみが直樹の隣へ立つ。


 指輪のある左手が、直樹の右手へ触れた。


 子どもたちの前でも、直樹は避けなかった。


「土産、開けていい?」


 蓮が聞いた。


「夕食後だ」


「今、一個だけ」


「だめだ」


「帰ってきても厳しい」


「帰ったから変わると思ったのか」


 蓮が菓子の袋を抱え直す。


「少しくらい」


「変わらない」


 美月が小さく笑った。


     *


 ミーシャは玄関の内側にいた。


 直樹が預けていた金属製の水筒を受け取る。


 蓋を開けた。


 残量を確認する。


「全量の六割を摂取しています」


「十分だろ」


「八割を想定していました」


「宿で飲んだ」


「確認できません」


「めぐみが見てた」


 ミーシャの視線が、直樹の後ろへ動く。


 めぐみは旅行鞄から薬の袋を取り出していた。


 左手が見える。


 薬指の輪。


 ミーシャの目が止まった。


 一秒にも満たない。


 けれど、直樹には分かった。


 ミーシャは水筒の蓋を閉じた。


「帰着を確認しました」


「ああ」


「予定より十八分早いです」


「問題か」


「問題ありません」


 ミーシャは直樹から離れた。


 めぐみの前へ立つ。


「発声補助具は」


「使わなかった」


「薬は」


「予定どおり飲んだよ」


「体調に変化は」


「少し眠いくらい」


「確認しました」


 ミーシャの目が、もう一度指輪へ下りた。


「NAOが着けましたか」


「うん」


 めぐみは左手を隠さなかった。


「昨日、着けてもらった」


「そうですか」


 声は変わらない。


 アフガンスカーフの端を握る指だけが、強く曲がっていた。


「ミーシャ」


「何ですか」


「売店で、これを見つけたの」


 めぐみは黒い蜂蜜の瓶を差し出した。


「甘いあとに、少し辛いんだって」


 ミーシャは瓶を見る。


 受け取らない。


「私への土産ですか」


「うん」


「なぜ」


「好きかもしれないと思ったから」


「根拠がありません」


「だから、一緒に味を見る」


 ミーシャの目が、めぐみの顔へ上がった。


「今ですか」


「夕食のあと」


「私は物資確認があります」


「終わってからでいいよ」


 ミーシャは瓶を受け取った。


「気に入らなかった場合は」


「みんなで食べる」


「了解しました」


 めぐみが少し笑う。


「そういう時は?」


 ミーシャは答えなかった。


 指輪を見る。


 瓶を見る。


 それから、めぐみを見る。


「……ありがとう」


「うん」


 ミーシャは瓶を持ったまま、廊下の奥へ歩いていった。


 背筋は伸びている。


 歩幅も変わらない。


 角を曲がる直前、スカーフの端をもう一度強く握った。


     *


 学校に異常はなかった。


 発電機の燃料残量は、引き継ぎ用紙どおり。


 貯水槽も問題ない。


 定時連絡はすべて実施されている。


 医療箱の使用は、絆創膏二枚だけだった。


「蓮が板で指を切りました」


 ハルが説明する。


「工具を触ったのか」


「薪箱を直そうとしたそうです」


「許可は」


「取っていません」


「蓮」


 直樹が呼ぶ。


 廊下の向こうから、


「もう怒られた!」


 と声が返ってきた。


「誰に」


「健二さんとハルさん!」


「ならいい」


 直樹は引き継ぎ用紙を閉じた。


 書き足さなかった。


 ハルがそれを見ている。


「何だ」


「何もありません」


「言え」


「本当に、帰ってきたんだなと思って」


「予定どおりだ」


「そうですね」


 ハルは紙を受け取った。


「でも、以前なら最初から全部確認し直していました」


「確認した」


「私たちの報告を聞いただけです」


 直樹は守衛室の外を見る。


 健二が夕食用の薪を運んでいる。


 蓮も片手で一本ずつ運んでいた。


 包帯を巻いた指は使っていない。


「問題があれば言うだろ」


「はい」


「なら、それでいい」


 ハルの口元が少し緩んだ。


「おかえりなさい」


「さっき聞いた」


「もう一度です」


 直樹は外を見たまま答えた。


「ただいま」


     *


 えりは多目的室の窓際にいた。


 煙草を一本、指の間で転がしている。


 直樹とめぐみが入ると、まず二人の顔を見た。


 次に、めぐみの左手へ視線を落とす。


 煙草の先が、箱の口へ触れたまま止まった。


「着けてもらった?」


「うん」


「本人に?」


 めぐみが笑う。


「他に誰がいるの」


「一応ね」


 えりは煙草を口へくわえた。


 ライターを出す。


 火花が一度散る。


 火はつかなかった。


 二度目で、小さな炎が上がる。


 煙を吸い込み、窓を少し開けた。


「なおが着けた」


 めぐみがもう一度言う。


「今の二人で決めた」


「そう」


 えりは煙を外へ吐いた。


 あの指輪がめぐみの掌へ戻った日、えりは人の来ない部屋を一つ空けた。


 今日は、薬指にある。


「えり」


「何」


「怒ってる?」


「誰に」


「分からない」


 えりは煙草を灰皿へ押しつけた。


 半分も吸っていない。


「今度は、ちゃんと帰ってきたね」


 めぐみは指輪を見なかった。


 えりを見たまま頷く。


「うん」


 えりが直樹へ目を向けた。


「もう押し込んで終わりにしないでよ」


「ああ」


「守ったつもりで、自分だけ消えるのもなし」


「ああ」


「今度やったら」


「分かってる」


「分かってない男が言う台詞なんだよ、それ」


 直樹は返さなかった。


 めぐみが直樹の袖をつかむ。


「私が言うから」


「何を」


「帰ってきてって」


 えりは二人を見る。


 今度は煙草を取らなかった。


「なら、いい」


     *


 夕食後、黒い蜂蜜の瓶が開けられた。


 ミーシャは小さな匙の先へ、ほんの少しだけ取った。


 舌へ載せる。


 表情は変わらない。


「どう?」


 めぐみが聞いた。


「甘いです」


「そのあと」


 ミーシャは口を閉じた。


 数秒後、眉がわずかに動く。


「刺激があります」


「辛い?」


「許容範囲です」


「好き?」


 ミーシャは瓶を見る。


「判断には追加試験が必要です」


 蓮が横から匙を伸ばす。


「じゃあ俺が」


 ミーシャが瓶を持ち上げた。


 蓮の匙が空を切る。


「私への土産です」


「一緒に食べるって言ってた」


「試験終了後です」


「いつ終わるんだよ」


「未定です」


 美月が笑った。


 ハルも口元を隠す。


 めぐみはミーシャを見る。


 ミーシャも一瞬だけ、めぐみを見る。


 その目は穏やかではない。


 しかし、敵意だけでもなかった。


 瓶を抱える指は、まだ強く曲がっている。


     *


 消灯前、直樹は臨時運用室へ入った。


 机の上には、旅行中の記録がまとめられている。


 国境第三からの定時連絡。


 相良の日記帳の様式案。


 物資の入出庫。


 子どもたちの外出記録。


 ミーシャが一つずつ説明した。


「二十一時十四分、北側外周で動物反応。目視確認により鹿と判定しました」


「ああ」


「二十二時、国境第三との定時連絡。異常なし」


「ああ」


「零時三十二分、相良担当者から受信。新規記録はありません」


「ああ」


「今朝七時、発電機の燃料確認。誤差は二パーセント以内です」


「分かった」


 直樹は記録を閉じた。


 ミーシャは次の書類を取ろうとする。


「ミーシャ」


「まだ報告があります」


「先に話す」


 ミーシャの手が止まる。


 直樹は椅子へ座らなかった。


 机を挟んだまま、ミーシャを見る。


「めぐみと一緒に暮らす」


「聞きました」


「誰に」


「子どもたちの会話です」


「俺からも言っておく」


「必要ありません」


「必要だ」


 ミーシャは書類を机へ置いた。


 紙の端を揃える。


 一度。


 二度。


 三度。


「場所は決めていない。学校から離れるという意味でもない」


「私の配置は変わりますか」


「任務上は変わらない」


「私的には?」


 直樹は答える前に、一度息を吸った。


「めぐみを選んだ」


 ミーシャの指が、紙の端で止まった。


「知っていました」


「ああ」


「最初から知っていました」


 声は平らだった。


 紙の角だけが、指の下で折れた。


「だから、問題ありません」


「任務への影響を聞いてるんじゃない」


 ミーシャの目が上がる。


「なら、何を聞いていますか」


「お前が何を感じてるかだ」


「必要ありません」


「ある」


「ありません」


「ミーシャ」


「ありません」


 ミーシャは次の紙を取ろうとした。


 指が滑った。


 金具が机へ落ち、大きな音を立てる。


 廊下の向こうで、誰かの足音が一度止まった。


 ミーシャは動かない。


 直樹も扉を見なかった。


「私は知っていました」


 ミーシャがもう一度言う。


「NAOが宮崎さんを探していたことも。名前を失っていても、何かを待っていたことも」


「ああ」


「あなたが眠れない夜も、名前を思い出せない時も、私はそこにいました」


「分かってる」


「分かっていません」


 ミーシャの掌が机へ落ちた。


 乾いた音が運用室に響く。


「任務だと言えば、黙っていられた。必要だからいる。必要だから待つ。必要だから触れない」


 呼吸が一度途切れる。


「そう言い続ければ、何も望んでいないことにできました」


 アフガンスカーフの端を握る。


「でも、違いました」


 ミーシャが一歩、机へ近づいた。


「あなたが戻った時、うれしかった。宮崎さんの名前を思い出した時も、うれしかった。声を聞いた時も」


 次の言葉が、喉で止まる。


「それでも、私を見てほしかった」


 直樹は口を挟まなかった。


「一度でいいから」


 ミーシャは笑おうとした。


 口元だけが歪む。


「宮崎さんより先に、私を呼んでほしかった」


「できない」


「知っています!」


 声が壁へぶつかった。


 ミーシャ自身が、その大きさに息を止める。


 運用室の中だけが静まり返った。


「知っています」


 今度の声は低かった。


「だから蓋をしていました」


 ミーシャは机の端を握った。


 指の関節が白くなる。


「宮崎さんがいなければ、と考えたこともあります」


 直樹の目がわずかに細くなる。


「死ねばいいとは思っていません」


「分かってる」


「分かりません」


 ミーシャは首を横へ振った。


「私にも分かりません。いなければいいと思って、その直後に生きていてほしいと思いました」


 スカーフを握る指が震える。


「それでも、指輪を見た時、外してほしいと思いました」


 直樹は何も言わない。


「宮崎さんの指から取って、見えない場所へ戻してほしいと思った」


 ミーシャは自分の右手を見る。


「私が取ればいいとも、一瞬だけ思いました」


 直樹の身体に緊張が入る。


 ミーシャはすぐに続けた。


「しません」


「信じてる」


「なぜ」


「ミーシャだからだ」


 ミーシャの顔が歪んだ。


「それが残酷だと言っているんです」


「ああ」


 ミーシャが机を回り込んだ。


 直樹の前で止まる。


 一歩分の距離しかない。


「一度でも」


 ミーシャの声が掠れた。


「一度でも、私を女として見たことがありますか」


 直樹はすぐには答えなかった。


「答えてください」


「部下としてだけ見ていたわけじゃない」


 ミーシャの呼吸が止まる。


「では、何ですか」


「大切な仲間だ」


 ミーシャの目に怒りが戻った。


「それが嫌なんです」


「ああ」


「私は、あなたの仲間になりたかったわけではない」


「分かってる」


「分かっていません」


 ミーシャの手が持ち上がる。


 直樹の胸元まで来る。


 指先が上着へ触れる寸前で止まった。


 手は行き場を失い、その場で強く握られる。


「宮崎さんと同じ意味で見たことは?」


「ない」


 ミーシャの拳が震えた。


「一度も?」


「ああ」


「私が近づいても?」


「めぐみを選んだ」


「彼女がいなければ?」


「その仮定には答えない」


「なぜ」


「今、いるからだ」


 ミーシャは目を閉じた。


 持ち上げていた拳を下ろす。


 右手でスカーフを握り、口元へ押し当てる。


 声を閉じ込めるように。


「私の居場所を奪うつもりはない」


 直樹が言った。


 ミーシャの目が開く。


「同じではありません」


「ああ」


「選ばれないことと、追い出されないことは同じではありません」


「そうだな」


「私を慰めないでください」


「慰めてない」


「では、何ですか」


「仲間として、ここにいてほしい」


 ミーシャの唇が震えた。


「その言葉が、今は一番残酷です」


「それでも、曖昧にはできない」


「宮崎さんを選んだから?」


「ああ」


「私を傷つけても?」


「ああ」


 直樹は目を逸らさなかった。


「期待させる方が悪い」


 ミーシャは机へ戻った。


 落ちた報告板を拾う。


 折れた紙の角を指で伸ばした。


 元には戻らない。


「祝福はできません」


「しなくていい」


「理解もしたくありません」


「ああ」


「諦めるとも言えません」


 直樹の目がミーシャへ向く。


「気持ちは消せません」


「ああ」


「いつか消えるとも約束できません」


「ああ」


 ミーシャは直樹を見る。


 目の縁が赤くなっている。


「でも、二人の間へ入る行動はしません」


「分かった」


「彼女から奪いません」


「ああ」


「それでも、私はあなたを好きなままです」


 直樹は一度だけ頷いた。


「分かった」


「返事は要りません」


「ああ」


「出ていってください」


「報告は」


「終了しました」


「明日の配置は」


「後で送信します」


 直樹は扉へ向かった。


 手を掛ける。


「NAO」


 呼ばれて振り返る。


 ミーシャは机の前に立っていた。


 スカーフを握ったまま。


「私は、まだあなたを愛しています」


 直樹は目を逸らさなかった。


「ああ」


「今は、宮崎さんのところへ行ってください」


 直樹は扉を開けた。


 廊下へ出る。


 閉める前に、ミーシャを見る。


 彼女はもう報告板へ目を落としていた。


 扉が閉まったあと、金具の音が一度鳴る。


 その直後、息を押し殺すような音が、扉越しにわずかに聞こえた。


 直樹は戻らなかった。


 ただ、すぐにも歩き出さなかった。


 扉の前に数秒立ち、それから廊下を進んだ。


     *


 ミーシャは一人になった。


 報告板を机へ置く。


 紙を揃える。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 指がうまく動かない。


 何度揃えても、端がずれる。


「任務に影響はありません」


 口に出す。


 声が震えた。


「配置変更は不要です」


 もう一度言う。


 今度は途中で切れた。


 ミーシャは報告板を机へ押しつけた。


 息を吸う。


 吐く。


 相良へ教えた記録方法を思い出す。


 現在地。


 時間。


 事実。


 感情は分ける。


 机の上の用紙を一枚取った。


 時刻を書く。


 二十一時四十八分。


 現在地。


 南第三共同生活校、臨時運用室。


 事実。


 NAOは宮崎めぐみを選択した。


 そこまで書いて、ペンが止まる。


 次の欄。


 感情。


 ミーシャは長い間、書けなかった。


 やがて、紙へペン先を置く。


 悲しい。


 違う。


 線を引いて消す。


 苦しい。


 それも消す。


 腹が立つ。


 残した。


 奪いたい。


 書いたあと、強く線を引く。


 文字は消えなかった。


 それでも読める。


 諦めたくない。


 その文字には線を引かなかった。


 ペンを置く。


 両手で顔を覆う。


 声は出さない。


 肩だけが、一度大きく震えた。


     *


 運用室を出た直樹は、多目的室へ戻った。


 めぐみが一人で窓を閉めている。


 左手の指輪が、窓枠の下で光った。


「終わった?」


「ああ」


「ミーシャは?」


 直樹は答える前に、少し間を置いた。


「怒ってる。俺にも、めぐみにも、自分にも」


 めぐみは窓の鍵を閉めた。


「諦めるって言った?」


「言わなかった」


 めぐみの指が、わずかに動く。


「二人の間へ入る行動はしないと言った」


「それを信じた?」


「ああ」


「私も信じる」


「怖くないのか」


「怖いよ」


 めぐみは指輪へ触れなかった。


 両手を身体の前で組む。


「ミーシャは、私が知らないなおを知ってる」


「ああ」


「自分の名前が分からなかった時も、眠れなかった時も、隣にいた」


「ああ」


「そこには、私は入れない」


「入る必要はない」


「でも、なくならないでしょ」


「ああ」


 めぐみは直樹の前へ来た。


「私も引かない」


「ああ」


「ミーシャに諦めてって言うつもりもない」


「なぜ」


「言われて消える気持ちじゃないから」


 めぐみは直樹を見上げた。


「でも、なおが曖昧にするのは嫌」


「しない」


「仲間として大切だからって、恋人みたいに扱わないで」


「ああ」


「優しくすることと、期待させることを間違えないで」


「分かった」


「本当に?」


「めぐみを選んだ」


 めぐみの顔から、わずかに力が抜ける。


「もう一回」


「必要か」


「必要」


「めぐみを選んだ」


 めぐみは直樹の胸へ額を当てた。


 抱きつかない。


 ただ、そこへ触れる。


「ミーシャに悪いと思う」


「ああ」


「でも、指輪は外さない」


「外すな」


「命令?」


「お願いだ」


 めぐみは顔を上げた。


「うん」


     *


 壁際の通信端末が鳴った。


 一度。


 短い受信音。


 直樹がめぐみから離れ、画面を開く。


 国境第三からの暗号通信だった。


 認証を通す。


 表示された文章は短い。


 大庭航平を含む帰還要員三名。


 明朝、旧南第三へ移動。


 接触前に、真柴直樹本人による確認を要請する。


 直樹の目が、最後の一行で止まる。


 本人確認が必要。


 通常の帰還ではない。


 めぐみが隣へ来た。


「大庭さん?」


「ああ」


「帰ってくるの?」


「三人で」


「誰と?」


「書いてない」


「何かあった?」


「分からない」


 直樹は端末を持ち直した。


 頭の中で移動経路を組み始める。


 国境第三。


 接触地点。


 警戒配置。


 本人確認。


 隔離の必要性。


 手順が一つずつ並び始める。


「なお」


 めぐみが呼ぶ。


 直樹の目が画面から離れた。


「何」


「一人で決める?」


 直樹は端末を見る。


 次に、めぐみの左手を見る。


 指輪がある。


「先に、一緒に考える」


 端末をめぐみへ向けた。


 めぐみが片側を持つ。


 指輪のある手が、端末の端へ触れた。


 直樹はもう片方を支える。


 二人で同じ画面を見る。


 外では、消灯前の校舎を健二が見回っている。


 蓮の笑い声が廊下を走る。


 ハルが静かに注意する。


 運用室では、ミーシャが一人、消せなかった言葉を見つめている。


 そのすべてが、この学校の夜だった。


 明日の知らせを、直樹はもう一人で読まなかった。



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