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第189話 同じ朝へ

## 第189話 同じ朝へ


 二組の敷布団が触れた。


 間に見えていた畳の縁が、消える。


 直樹は布団の端から手を離した。


 めぐみも離す。


 二人とも立ったまま、寄せた布団を見下ろしていた。


 枕は二つ。


 掛け布団も二枚。


 眠る場所だけが、一つにつながっている。


「これでいい?」


 めぐみが聞いた。


「ああ」


「なおが言ったんだよ」


「何を」


「隣がいいって」


「言った」


「寝たあとも離さないって」


 直樹は答えなかった。


 めぐみが顔を上げる。


「忘れた?」


「覚えてる」


「じゃあ、先に入るね」


 めぐみは片方の掛け布団を持ち上げた。


 枕へ頭を置き、直樹が立っている方へ身体を向ける。


 浴衣の袖から出た左手を、胸元へ置いた。


 薬指の指輪が、天井の明かりを細く返した。


 直樹は枕元を見る。


 水差し。


 二つの湯飲み。


 窓の鍵。


 部屋の入口。


 机の引き出し。


 中には電源を切った通信機と腕時計がある。


「なお」


「何」


「まだ足りないものがある?」


「ない」


「本当に?」


 直樹は水差しの取っ手へ手を伸ばした。


 外側を向いていた取っ手を、布団側へ向け直す。


「これでいい」


「それ、しないと眠れなかった?」


「取りやすい」


「時間を稼いでない?」


 直樹の手が止まる。


 めぐみは布団の中から見上げていた。


「何の時間だ」


「私の隣に入るまでの時間」


 直樹は答えず、照明を一段落とした。


 部屋が少し暗くなる。


「消さないの?」


「顔が見えない」


 めぐみの目がわずかに細くなった。


「見てくれるんだ」


「ああ」


 直樹は掛け布団を持ち上げた。


 めぐみの隣へ入る。


 二人の肩の間に、まだ少しだけ隙間が残った。


 めぐみがその隙間へ左手を置く。


 直樹の目が指輪へ落ちた。


 自分の左手を重ねる。


「手だけ?」


「何が」


「離さないの」


 直樹はめぐみの手を包んだ。


「今は」


「今は、ね」


 めぐみは笑った。


 近くで見ると、入浴後の頬にはまだ赤みが残っている。


 直樹が乾かした髪の一部が耳からこぼれ、枕の上へ細い線を作っていた。


「なお」


「何」


「嫌になったら言ってね」


「めぐみが?」


「なおも」


「俺は大丈夫だ」


 めぐみの眉が上がる。


「禁止」


「何が」


「大丈夫」


「今のは違う」


「同じだよ」


 めぐみは、つないだ手へ力を入れた。


「私だけが守られる話にしないで」


「守るとかじゃない」


「じゃあ、なおも止まっていい」


 直樹の指が動きを止める。


「途中で怖くなったら?」


「止める」


「私が止めたら?」


「止まる」


「そのあとも、ここにいる?」


「ああ」


「なおが止まっても、私はここにいるよ」


 直樹はめぐみを見る。


「失望しないのか」


「何に?」


「最後までできなかったら」


「私が欲しいのは、成功したなおじゃないよ」


 めぐみの親指が、直樹の手の甲を撫でた。


「ここにいるなお」


 直樹の呼吸が、少し深くなった。


「声が出ない時は、手を二回握る」


「止まれ、か」


「うん」


「一回は」


「続けていい」


「分かった」


「なおも使って」


「俺が?」


「言葉が出ない時」


 直樹は小さく頷いた。


     *


 めぐみが先に身体を寄せた。


 肩が触れる。


 掛け布団の中で、膝が直樹の脚へ当たった。


 直樹の身体が一瞬だけ固くなる。


「近い?」


「近い」


「嫌?」


「違う」


「じゃあ、このまま」


 めぐみは離れなかった。


 直樹の胸元へ顔を寄せる。


 浴衣の襟から、鎖骨の下に残る白い傷が見えた。


 その下には、古い火傷の跡がある。


 めぐみの指が襟へ触れた。


 直樹は、その手を見た。


「見てもいい?」


「ああ」


「触っても?」


 直樹の喉が動いた。


「ああ」


 めぐみは浴衣の襟を少し開いた。


 傷へ指先を置く。


 なぞらない。


 押さない。


 ただ、そこに触れた。


「痛い?」


「今は痛くない」


「昔は?」


「眠れないくらい」


「誰かに言った?」


「言ってない」


「そう」


 めぐみの指が傷から離れる。


 次に、傷のない胸へ触れた。


 肩。


 首の下。


 同じ強さで、ゆっくり触れていく。


 直樹の目が、その指を追った。


「聞かないのか」


「何を?」


「どこでできた傷か」


「今、話したい?」


「いや」


「なら、聞かない」


「気にならないのか」


「気になるよ」


 めぐみの手が直樹の胸へ戻る。


「でも、傷のことを知りたくて触ってるんじゃない」


「なら、何だ」


「なおに触りたいから」


 直樹の呼吸が止まった。


 めぐみは目を逸らさない。


「だめ?」


「だめじゃない」


「なら、なおも」


 直樹の手は、掛け布団の上で開かれていた。


 動かない。


 めぐみは自分の頬へ導こうとはしなかった。


 直樹が選ぶのを待った。


 やがて、手が上がった。


 めぐみの髪へ触れる。


 耳の後ろへ指を入れ、頬へ下りる。


 親指が頬骨の下で止まった。


「冷たい?」


「温かい」


 めぐみは直樹の掌へ頬を寄せた。


 指がゆっくり曲がる。


 頬を包む。


「触っていいか」


「もう触ってるよ」


「これ以上」


 めぐみは一度だけ唇を結んだ。


 緊張を飲み込むような動きだった。


「うん」


 直樹が顔を近づけた。


 唇が重なる。


 指輪を着けた時より長く。


 昼間、湖畔で触れた時より深く。


 めぐみの指が、直樹の浴衣の襟をつかんだ。


 直樹の腕が背中へ回る。


 抱き寄せる直前で止まった。


 めぐみが唇を離す。


「なお?」


「力を入れていいか」


「うん」


「苦しくないか」


「今は平気」


「平気は禁止じゃないのか」


「今のは身体の話」


「違いが分からない」


「分からなかったら、聞いて」


 直樹の腕に力が入った。


 めぐみの身体が胸元へ寄せられる。


 掛け布団の中に残っていた隙間が消えた。


     *


 直樹は急がなかった。


 頬。


 耳の下。


 首筋。


 触れるたび、めぐみの顔を見る。


 めぐみも直樹を見ていた。


 どちらかの呼吸が変われば、動きが止まる。


 視線が合う。


 続けていいのかを確かめる。


 めぐみの指が、直樹の浴衣の帯へ触れた。


「ほどいていい?」


「ああ」


 結び目を引く。


 帯が緩み、布団の脇へ落ちた。


 乾いた布が畳を擦る音が、夜の部屋に大きく響く。


 直樹の手も、めぐみの帯へ伸びた。


 指が結び目へ触れる。


 そこで止まる。


「めぐみ」


「うん」


「俺がほどいていいか」


「うん」


 直樹の指が紐の間へ入る。


 右手は動いた。


 けれど、布の重なりへ一度引っかかる。


 めぐみが左手を添えた。


 二人の指で、結び目をほどく。


 帯が畳へ落ちた。


「一人でできたよ」


「二人だ」


「うん」


 浴衣の布が開く。


 直樹はめぐみの顔から目を逸らさなかった。


 めぐみも隠れなかった。


 恥ずかしさは消えない。


 怖さも残っている。


 それでも、二人とも手を引かなかった。


 脱いだ浴衣が、布団の脇へ重なる。


 肌と肌の間には、もう布がなかった。


 直樹の手が、めぐみの背中へ触れる。


 肩甲骨。


 背骨の両側。


 腰。


 手のひらが、めぐみの身体の形を確かめる。


 守る対象ではない。


 搬送する負傷者でもない。


 押し込んで生かす相手でもない。


 自分を求め、自分が求めている人だった。


「なお」


「ああ」


「もっと近く」


 直樹がめぐみを抱き寄せた。


 その時、めぐみの手首が直樹の右手の中へ入った。


 細い骨。


 温かい皮膚。


 奈良の地下入口。


 白い光。


 逃げる人の肩。


 生かすために押した、めぐみの身体。


 もう一度手を取る前に、二人を引き離した爆風。


 直樹の手が開いた。


 身体がめぐみから離れる。


 呼吸が浅くなる。


 視線が部屋の入口へ向いた。


「なお」


 直樹は答えない。


「こっち見て」


 目が戻らない。


 めぐみは腕をつかまなかった。


 自分の手を布団の上へ開き、直樹に見える場所へ置いた。


「今、どこにいる?」


 直樹の喉が動く。


「宿」


「どこの?」


「湖の近く」


「誰といる?」


 直樹の目が、めぐみへ戻った。


「めぐみ」


「私は、どこにいる?」


「ここ」


「地下じゃない?」


「違う」


「白い光は?」


「ない」


「離れたい?」


 直樹が首を横へ振る。


「じゃあ、何が怖い?」


 直樹は自分の右手を見る。


 指が震えていた。


「また、押すかもしれない」


「今は押さなかった」


「握った」


「うん」


「強くなる前に離した」


「うん」


「それでも」


 言葉が止まる。


 めぐみは身体を寄せなかった。


 直樹が選ぶまで待った。


「触れたい」


 直樹が言った。


「うん」


「離したくない」


「うん」


「でも、怖い」


 めぐみの目が揺れた。


「私も怖いよ」


「俺が?」


「違う」


 めぐみは開いた手を、自分の胸へ置いた。


「うれしいのに、うまくできなかったらって思う」


「何を」


「なおが、触らない方がよかったって思ったら嫌だなって」


「思わない」


「私が途中で止めたら?」


「止まる」


「そのあとも?」


「ここにいる」


「私も」


 めぐみは、もう一度手を開いた。


「なおが止まっても、ここにいる」


 直樹はその手を見る。


 手首ではなく、掌を見る。


 薬指の指輪を見る。


「握っていいか」


「うん」


 直樹は手を取った。


 今度は手首をつかまない。


 指と指を絡める。


 めぐみが一度、握り返した。


 続けていい。


 二人で決めた合図だった。


     *


 天井の灯りを消した。


 窓際の小さな照明だけが残る。


 湖から来た風が、古い窓枠を鳴らした。


 掛け布団が動く。


 畳の上で、脱いだ浴衣の袖が揺れる。


 めぐみの指輪が、直樹の肩へ触れた。


 初めは冷たかった。


 すぐに二人の熱を持った。


 直樹は何度も止まった。


 めぐみの顔を見る。


 呼吸を聞く。


 つないだ手が、一度握られる。


 続けていい。


 直樹の唇が、めぐみの額へ触れる。


 頬。


 閉じた瞼。


 唇。


「めぐみ」


「うん」


「痛くないか」


「少し」


 直樹の身体が止まった。


「やめる」


「待って」


 めぐみの腕が直樹の背中へ回る。


「ゆっくり」


「無理なら」


「言う」


「今は?」


「怖い」


 直樹の目が止まる。


「でも、離れたくない」


「俺も」


「なおは?」


「怖い」


「止まりたい?」


 直樹は首を横へ振った。


「止まりたくない」


「うん」


 二人の呼吸は揃わなかった。


 どちらかが息を止める。


 もう一人も止まる。


 目を開ける。


 相手がいることを確かめる。


 また動く。


 急がない。


 正しさを求めない。


 うまくできることより、離れないことを選ぶ。


 その夜、二人は初めて身体を重ねた。


 過去を埋めるためではない。


 失った時間を取り戻すためでもない。


 今ここで、互いを欲しいと選んだからだった。


 めぐみの声が一度、喉の奥で揺れた。


 直樹が止まる。


「痛いか」


 めぐみは首を横へ振った。


 息を吸う。


「なお」


 呼ばれた名前が、夜の部屋に残った。


 苦しさからではない。


 助けを求める声でもない。


 触れたい相手を求めるために、めぐみが選んだ声だった。


 直樹は動かなかった。


 ただ、めぐみを見た。


「聞こえた」


「聞こえるように言ったの」


「もう一回」


 めぐみは直樹の背中へ腕を回した。


「なお」


「ああ」


「ここにいる?」


「いる」


「離れない?」


「離れない」


 直樹は額を重ねた。


 そのあと、言葉は少なくなった。


 呼吸。


 畳を擦る布団。


 指輪が肌へ触れる感触。


 何度も呼ばれる名前。


 何度も返す声。


 直樹は、めぐみの手を離さなかった。


 めぐみも、直樹の背中から腕を解かなかった。


     *


 部屋が静かになったあとも、直樹はすぐには動かなかった。


 めぐみの顔が肩へ寄っている。


 呼吸はまだ少し速い。


 汗を含んだ髪が、火照った頬へ細く貼りついていた。


 直樹は指先で髪を払う。


 耳の後ろへ掛ける。


「めぐみ」


「うん」


「苦しくないか」


「少し重い」


 直樹が身体を起こそうとする。


 めぐみの腕が背中へ回った。


「どこ行くの」


「離れる」


「どうして」


「重いんだろ」


「全部は離れなくていい」


「水もいる」


「あとで」


「喉が――」


「なお」


 直樹が止まる。


「今は、ここ」


 めぐみが胸元へ顔を寄せた。


「離れる方が嫌」


 直樹は身体を戻した。


 重さを腕と肘へ逃がし、めぐみの隣へ横になる。


 背中へ腕を回す。


 今度は確認する前に、めぐみが胸へ入ってきた。


 直樹は受け止めた。


「痛かったか」


「少し」


「悪かった」


「でも、嫌じゃなかった」


「同じじゃない」


「分かってる」


 めぐみは胸元から直樹を見上げた。


「次は、もっとゆっくり」


 直樹の目が止まる。


「次があるのか」


「ないと思ってた?」


「聞いてない」


「今、聞いたよ」


「ああ」


「なおは?」


「何が」


「次もしたい?」


 直樹はめぐみの顔を見る。


 目を逸らさなかった。


「したい」


「よかった」


「めぐみは?」


「したい」


 直樹の腕に力が入った。


 めぐみの頬が胸へ押される。


「苦しい」


 直樹がすぐに緩めた。


「悪い」


「少しだけ」


「どっちだ」


「抱いてほしいけど、潰さないで」


「難しいな」


「できるよ」


「根拠は」


「さっき、できた」


 めぐみが笑う。


 声の振動が、直樹の胸へ伝わった。


「水」


「やっぱりいるのか」


「うん」


 直樹は上半身を起こした。


 水差しへ手を伸ばす。


 湯飲みへ注ぐ時、水が縁へ当たった。


 一滴だけ畳へ落ちる。


 めぐみが見た。


「こぼした」


「一滴だ」


「なおも失敗するんだ」


「水だぞ」


「まだ手、震えてる?」


 直樹は湯飲みを見た。


 指先に、わずかな震えが残っている。


「ああ」


「私も」


 めぐみが左手を上げる。


 指輪が細かく揺れていた。


 二人でそれを見る。


 直樹は湯飲みを渡した。


 めぐみが一口飲む。


「なおも」


 直樹も同じ湯飲みから飲んだ。


「もう一つある」


「今は同じでいい」


 直樹は何も言わなかった。


 湯飲みを置く。


 布団へ戻った。


 布団の脇には、二人の浴衣と帯が重なっている。


 直樹は二枚の掛け布団を引き上げた。


 めぐみの肩まで包む。


 掛け布団の下で、二人の肌が触れた。


 めぐみが胸元へ入る。


 直樹は腕を回した。


「なお」


「何」


「明日の朝も、ここにいて」


「いる」


「起きても?」


「ああ」


「時計を見たあとも?」


 直樹は机の引き出しを見た。


 腕時計も通信機も、その中にある。


「朝までは見ない」


「朝になったら?」


「起きてから決める」


「一人で?」


 直樹は、めぐみの指輪へ親指を重ねた。


「二人で」


 めぐみが目を閉じる。


 呼吸が少しずつ長くなる。


 直樹は、その呼吸に合わせて背中を撫でた。


     *


 直樹が目を覚ました時、部屋はまだ青かった。


 夜が終わる直前の光が、障子の下へ薄く溜まっている。


 湖を渡る風が窓枠を鳴らした。


 遠くで、水鳥が一度だけ声を上げる。


 腕時計は机の引き出しにある。


 通信機も、その隣で電源を切ったままだった。


 直樹は時間を確かめなかった。


 胸元に、めぐみがいた。


 頬を直樹の胸へ寄せ、片腕を脇腹へ回している。


 ほどけた髪が鎖骨から肩へ流れ、毛先が呼吸に合わせて揺れていた。


 掛け布団の下では、二人の肌がまだ触れ合っている。


 めぐみの膝が、直樹の脚へ重なっていた。


 温かかった。


 重さがあった。


 呼吸をしている。


 ここにいる。


 直樹は動かなかった。


 動けば、めぐみが目を覚ますかもしれない。


 それだけではなかった。


 胸元にいる人を、自分の喜びとして抱いてよいとは、まだ信じ切れなかった。


 奈良では、生かすためにめぐみを地下へ押した。


 もう一度手を取る前に、白い光が二人を引き離した。


 京都では、触れられることを拒んだ。


 病院では、手を伸ばしても途中で止めた。


 壊すかもしれない。


 巻き込むかもしれない。


 また失うかもしれない。


 そう考えるたび、直樹は触れたい人から先に離れてきた。


 めぐみの髪。


 頬。


 声。


 眠っている身体。


 自分へ向けられた温かさ。


 一番触りたかった。


 だからこそ、触ってはいけないと思っていた。


 直樹は胸元へ視線を落とす。


 めぐみの左手が、直樹の胸に置かれている。


 薬指の輪が、朝前の光を細く返した。


 遺品ではない。


 預かり物でもない。


 昨夜、直樹が自分の手で着けた指輪だった。


 直樹はゆっくり右腕を動かした。


 めぐみの背中へ回す。


 手のひらを、肩甲骨の下へ置いた。


 すぐには力を入れない。


 逃げ道を残すように触れる癖が、まだ指先に残っている。


 めぐみが眠ったまま、小さく息を吐いた。


 頬が直樹の胸へ、もう少し深く沈む。


 拒まれなかった。


 直樹は腕へ力を入れた。


 乱暴にはしない。


 けれど、今度は遠慮もしなかった。


 めぐみの身体を、自分の胸の中へ抱え込む。


 背中を包む。


 腰を引き寄せる。


 脚の間に残っていたわずかな隙間も消す。


 温かさが、胸から腹へ広がった。


 直樹は目を閉じた。


 戦場から戻った時にも。


 海から引き上げられた時にも。


 自分の名前を書けた時にも。


 こんなふうに胸の奥が満たされたことはなかった。


 生き残った安堵とは違う。


 任務を終えた達成感でもない。


 誰かを守れた時の静けさとも違った。


 欲しかった人を、欲しかったと言える場所にいる。


 触れたかった人へ触れ、離したくないまま抱いていられる。


 それだけのことが、直樹には遠すぎた。


 めぐみの髪へ頬を寄せる。


 湯上がりに使った石鹸の匂いと、夜の汗の匂いが、微かに残っていた。


「めぐみ」


 声にはしなかった。


 名前を胸の中だけで呼ぶ。


 腕の中のめぐみが少し動いた。


 指輪のある手が、直樹の胸を探る。


 薬指の輪が素肌へ触れた。


 その指が、そこにいることを確かめるようにゆっくり閉じる。


「……なお」


 眠りの底から落ちてきた声だった。


 直樹の腕に、もう一度力が入る。


「ああ」


「起きてた?」


「今、起きた」


「何時?」


「分からない」


 めぐみが薄く目を開けた。


「時計、見てないの?」


「ああ」


「珍しい」


 瞼がまた閉じかける。


「どうして?」


 直樹は答えるまで、少し時間を置いた。


「離したくなかった」


 めぐみの指が、直樹の胸で動く。


「私を?」


「ああ」


「ずっと?」


「触りたかった」


 直樹の声が掠れた。


「でも、触ったらいけないと思ってた」


 めぐみは目を開けた。


 すぐ近くから、直樹を見上げる。


「どうして?」


「壊すと思ってた」


「壊れなかったよ」


「ああ」


「嫌でもなかった」


「ああ」


「なお」


「何」


「もっと抱いて」


 直樹は言葉で答えなかった。


 背中へ回した腕を深くする。


 めぐみの身体を胸元へ抱え込んだ。


 額へ唇を置く。


 短く触れたあとも、すぐには離さない。


 めぐみが直樹の胸へ顔を戻しかけた。


 途中で止まる。


 もう一度、直樹の顔を見上げた。


「どうした」


 めぐみは答えない。


 指輪のある手を伸ばし、直樹の口元へ触れた。


「笑ってる」


「笑ってない」


「消さないで」


 直樹の口元が固まりかける。


 めぐみの指が、そこを押さえた。


「そのまま」


「どんな顔だ」


「初めて見る顔」


 直樹はめぐみを見た。


「中学の時とも違う」


 めぐみの指が、直樹の頬を撫でる。


「あの頃は、うれしくても困った顔をしてた」


「そうか」


「奈良の時とも違う。あの時は、ずっとポケットを気にしてた」


「ああ」


「私が撃たれた時の顔でもない」


 直樹の目が、わずかに伏せられる。


 めぐみは頬から手を離さない。


「病院で、私の手に触れた時とも違う」


「なら、何だ」


「うれしい顔」


 直樹は否定しなかった。


 腕の中のめぐみを見る。


「うれしい」


 小さな声だった。


 けれど、めぐみには届いた。


「私がいるから?」


「ああ」


「その顔、誰かに見せたことある?」


「ない」


「本当に?」


「今、初めて出た」


 めぐみの目が細くなる。


「じゃあ、私だけが知ってる」


「ああ」


「忘れないでね」


「めぐみが覚えてろ」


「なおも覚えて」


 直樹の口元に、同じ笑みが戻った。


 今度は隠さなかった。


 めぐみは、その顔を見つめた。


 中学の頃から隠されていた顔ではない。


 奈良で見つけられなかった顔でもない。


 苦しみの裏に押し込められていた顔でもなかった。


 今、めぐみを腕の中へ抱いているから、初めて生まれた顔だった。


「もう一回、笑って」


「できない」


「今、笑ってるよ」


「そうか」


「うん」


 めぐみは直樹の胸へ顔を戻した。


 指輪のある手を、二人の間へ置く。


 直樹は、その手ごと包んだ。


 障子の向こうが、少しずつ朝の色へ変わっていく。


 直樹は腕時計を取りに行かなかった。


 一番触れたかった人を胸の中へ抱き、指輪のある手ごと包んだ。


 障子が白くなっても、腕を緩めなかった。


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