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第188話 返すためじゃない

## 第188話 返すためじゃない


 健二が最後の鍵を受け取った時、直樹の指が一瞬だけ離れなかった。


 真鍮の鍵が、二人の手の間で鳴る。


 守衛室。


 発電機倉庫。


 医療箱。


 校外門。


 それぞれの頭には、色と手触りの違う布が巻かれていた。暗闇でも指先で区別できるよう、直樹が縫いつけたものだった。


「兄ちゃん」


 健二が鍵束を引いた。


 直樹の指から、ようやく抜ける。


「受け取ったよ」


 多目的室の机には、引き継ぎ用紙が一枚置かれていた。


 発電機の確認時刻。


 貯水槽の残量。


 国境第三への定時連絡。


 緊急搬送先。


 直樹は余白へ手を伸ばした。


 ハルが先に紙を取る。


「まだありますか」


「夜間の見回りを――」


「二十二時と二時です」


「西側の板窓は」


「健二さんと確認しました」


「朝の燃料は」


「私が見ます」


 ハルは紙を二つに折った。


 さらに半分にする。


 直樹が書き足せない大きさにして、健二へ渡した。


「続きは、帰ってから聞きます」


「異常があれば呼べ」


「呼びます」


「通信が切れた場合は」


「国境第三へ入れます」


 健二が折った紙を胸ポケットへ収めた。


「兄ちゃん」


「何だ」


「俺たちが困るの、そんなに嫌?」


 直樹の口が閉じた。


 健二は鍵束を一度持ち上げた。


「困ったら考えるよ。兄ちゃんが毎回、先に全部片づけんでも」


 直樹は弟の手にある鍵を見る。


 返せとは言わなかった。


「明日、十六時には戻る」


「うん」


「五分過ぎたら連絡する」


「十六時五分ね」


「車両が止まった場合は――」


「兄ちゃん」


 健二が笑った。


「行ってきて」


 直樹は入口へ目を向けた。


 めぐみが、紺色の旅行鞄を両手で持って立っている。


 昨夜、机から下ろした時より、少し重い。


 直樹は気づいていた。


 何を入れたのかは聞かなかった。


「行ってくる」


 健二の笑みが少し薄くなる。


「ああ。行ってらっしゃい」


     *


 玄関前では、蓮が借りた乗用車の後部を覗き込んでいた。


 めぐみの旅行鞄。


 直樹の暗い色のバッグ。


 救急用品。


 工具。


 予備の水。


 蓮は指を折って数えた。


「少なくない?」


「一泊だ」


「二人で?」


「人数は関係ない」


「そうなの?」


「何が言いたい」


「別に」


 蓮は口笛を吹くふりをした。


 音は出ていない。


 直樹が後部扉を閉めようとすると、蓮が腕を差し入れた。


「土産」


「食えるものだろ」


「全員分」


「ああ」


「八人分じゃないからな」


 蓮の目が、玄関前の大人たちへ動く。


 健二。


 ハル。


 廊下の奥では、えりが煙草の箱を振っている。見送りには出ないという顔だった。


 壁際には、アフガンスカーフを巻いたミーシャが立っていた。


「分かってる」


「なおの分も買ってね」


 めぐみが言った。


「俺は要らない」


「今の聞いた?」


 蓮がめぐみを見る。


「聞いた」


「こういうの頼んだ」


「受け取った」


「二人で何を受け取ってる」


 直樹が後部扉を閉めた。


 蓮が慌てて腕を抜く。


「監視」


「するな」


「ハルさんに頼む」


「私ですか」


 ハルは困った顔をしたが、否定はしなかった。


 ミーシャが直樹の前へ来た。


 手には、傷のある金属製の水筒を持っている。


「途中用です」


「宿にある」


「途中にはありません」


 直樹は受け取った。


 蓋へ触れるより先に、ミーシャが言った。


「適温です」


「相良に習ったのか」


「引き継ぎを受領しました」


「要らないところだけ覚えるな」


「必要項目です」


 めぐみが二人の顔を見る。


「左側に置くんだよね」


 ミーシャの目がめぐみへ動く。


「なぜ知っていますか」


「帰ってきたあと、なおが話してくれた」


「どこまでですか」


「熱いと飲まない。左側。報告より先。全部飲ませる」


 ミーシャは直樹を見る。


「正確です」


「確認するな」


 ハルが口元を押さえた。


 ミーシャの視線が、めぐみの旅行鞄へ移る。


「薬は」


「入れたよ」


「発声補助具」


「外のポケット」


「通信機」


 直樹が上着の内側を叩く。


「ある」


「帰着予定」


「明日、十六時」


「遅延時は」


「連絡する」


「回線断の場合は」


「宿で道路情報を確認する。無理に動かない」


 ミーシャは一つ頷いた。


「確認しました」


「ミーシャ」


 めぐみが呼ぶ。


「はい」


「今日は何するの?」


「記録整理。相良の日記帳の様式作成。ハルさんと物資確認」


「夜は?」


「学校にいます」


「誰かとお茶を飲む?」


「必要量は摂取します」


「一人で?」


 ミーシャは答えなかった。


 ハルが横から言う。


「私と飲みましょう」


「同じ休止時間であれば可能です」


 めぐみが笑った。


「それ、一緒に飲むって言うんだよ」


 ミーシャの唇がわずかに開いた。


 直樹が運転席の扉を開ける。


「置いていくぞ」


「置いていかないで」


 めぐみが助手席へ向かう。


 途中で、ミーシャのスカーフへ手を伸ばした。


 首の後ろで折れた布を、指先で整える。


「今日は風が強いよ」


 ミーシャは動かなかった。


「確認しました」


「そういう時は、ありがとうでいいの」


 ミーシャはめぐみを見る。


 短い沈黙のあと、唇が動いた。


「ありがとう」


「うん」


 めぐみは助手席へ乗った。


 門が開く。


 車がゆっくりと動き出す。


 バックミラーの中で、健二とハルが門を閉める。


 蓮は何か叫びながら、両手を大きく振っていた。


 ミーシャは手を振らない。


 スカーフの端を押さえたまま、車が曲がるまでこちらを見ていた。


     *


 山道には、二日前の雨が残っていた。


 轍に溜まった水が、タイヤの下で薄く割れる。


 杉の幹は根元まで黒く濡れている。斜面から流れた赤土が、路肩へ細い筋を作っていた。


 直樹の目は、前方と三つのミラーを行き来している。


 カーブ。


 対向車線。


 斜面。


 後方。


 また前方。


 めぐみは助手席の送風口へ手を伸ばした。


 直樹の顔へ向いていた冷気を、自分の膝へずらす。


「寒くないか」


「なおが寒そうだったから」


「寒くない」


「耳、赤いよ」


 直樹は片手で耳を触った。


「冷気が当たってただけだ」


「だから、ずらした」


「めぐみが寒くなる」


「二人とも寒くない場所にしたらいいでしょ」


 送風口を中央へ向ける。


 風が二人の間を抜けた。


 次のカーブで、旅行鞄の底から小さな音がした。


 金属が、布越しに何かへ触れた音だった。


 直樹の目が鞄へ動く。


「割れ物か」


「割れない」


「硬いものが入ってる」


「入ってるよ」


「何だ」


「あとで見せる」


「危険物じゃないな」


 めぐみが直樹を見る。


「私と旅行に来る時も、そこから確認するの?」


「車に積むものは確認する」


「じゃあ、危険物」


 直樹の眉がわずかに動く。


「何が」


「なおが困るかもしれないもの」


「それは危険物とは言わない」


「困るって認めるんだ」


「何を持ってきたか分からない」


「分からないから?」


「ああ」


「私も同じ」


 めぐみは鞄を膝へ引き寄せた。


「何が起きるか分からないから、落ち着かない」


 直樹の手が、ハンドルを握り直した。


「帰りたいか」


「どうして、すぐ帰すの」


「嫌なら戻れる」


「嫌じゃない」


「ならいい」


「よくない」


 直樹が横目で見る。


「なおは?」


「何が」


「落ち着いてる?」


 直樹は前方へ視線を戻した。


 ワイパーが、ガラスに残った水滴を一度だけ払う。


「落ち着いてない」


「何が怖い?」


「失敗すること」


「旅行で?」


「めぐみが嫌になることをするかもしれない」


 めぐみは鞄から手を離した。


「それは言うよ」


「何を」


「嫌なら嫌。止めてほしかったら、止めてって」


「言えるか」


「言う」


「本当に?」


「なおも言って」


「俺が?」


「うん。無理なことは無理って」


「俺は――」


「大丈夫って言うのは禁止」


 直樹の口が閉じる。


「すぐ言うから」


「何を」


「大丈夫」


「今も言おうとした」


「言ってない」


「顔が言った」


「顔は喋らない」


「喋るよ。なおの顔、分かりやすい」


「初めて言われた」


「みんな言わないだけ」


 直樹は納得していない顔で前を向いた。


 木立が切れる。


 ガードレールの向こうに、灰色の湖面が現れた。


 雲を映した水が、山と山の間を埋めている。


「見えた」


 直樹が前方を指した。


 めぐみは窓へ顔を寄せる。


 吐いた息が、ガラスを白く曇らせた。


「きれい」


「ああ」


「なおは?」


「見てる」


「何が見える?」


「湖」


「そうじゃなくて」


 直樹は少し黙った。


 風が水面を押し、遠くの光を細かく砕いている。


「広い」


「それ、前にも聞いた」


「暗くなってきた」


「見れば分かる」


「何て言えばいい」


「正解はないよ」


 めぐみが、ガラスの曇りを指で拭いた。


「きれいなら、きれい。来てよかったなら、来てよかった」


 直樹は道路の先を見る。


 カーブを抜ける。


 湖がもう一度、大きく開いた。


「来てよかった」


 めぐみは窓を向いたまま笑った。


「まだ着いてないよ」


「もう言った」


「着いてから、もう一回聞く」


     *


 宿は、湖を見下ろす斜面に建っていた。


 二階建ての旧保養所。


 塗り直された白い外壁。


 玄関脇の石板には、削られた会社名の跡が残っている。


 直樹は駐車場へ車を入れた。


 エンジンを切る。


 視線が建物の東側へ動く。


 非常口。


 避難梯子。


 裏手へ続く細い管理路。


 直樹の右手がドアノブへ掛かる。


 身体は玄関とは反対へ向きかけていた。


「一周する?」


 めぐみが聞いた。


 直樹が止まる。


「必要ならしていいよ」


「待てるか」


「待てる」


 めぐみはシートベルトを外した。


「でも、私は先に中へ行ってる」


「一人で?」


「受付まで十歩くらい」


「待て」


「じゃあ一緒に入る?」


 直樹は非常口を見た。


 次に、助手席から降りためぐみを見る。


 湖から来た風が、彼女の髪を揺らしている。


「入る」


「確認しなくていいの?」


「避難経路図を見る」


「中で?」


「ああ」


「進歩したね」


「子ども扱いするな」


「褒めたのに」


 直樹は後部扉を開けた。


 めぐみの鞄へ手を伸ばす。


「自分で持てるよ」


「重い」


「昨日より?」


 直樹の手が止まる。


「分かるの?」


「机から下ろした」


「あれだけで?」


「ああ」


 めぐみは取っ手を握ったまま、少しだけ笑った。


「なおには、まだ見せないものが入ってる」


「さっき聞いた」


「何だと思う?」


「分からない」


「考えないの?」


「見せないんだろ」


「うん」


「なら聞かない」


「そういうところは、ずるい」


「何が」


「無理に聞かないから、こっちが見せたくなる」


 直樹はめぐみの手から鞄を奪わなかった。


 自分のバッグだけを持つ。


 二人で玄関へ向かった。


     *


 受付には、六十代ほどの女性が一人いた。


 帳面の上に眼鏡を置き、二人の宿泊許可証を確認する。


「一室でよろしいですね」


 直樹がめぐみを見る。


 めぐみは女性を見たまま答えた。


「はい」


 女性は木札の付いた鍵を差し出した。


 めぐみが受け取る。


「二階の奥です。夕食は六時半。お風呂は十時まで。湖へ下りる遊歩道は、雨のあとで滑りやすくなっています」


「分かりました」


「非常口は東側ですか」


 直樹が聞いた。


「はい。客室を出て右手です」


「夜間も内側から開く?」


「開きます」


「外からは」


「入れません」


「避難梯子は」


「廊下の突き当たりです」


「消火器は――」


「なお」


 めぐみが木札で直樹の腕を軽く叩いた。


 直樹が口を閉じる。


 受付の女性は帳面へ目を落とした。


 口元にだけ、笑いが残っている。


「ごゆっくり」


     *


 八畳の和室には、まだ布団が敷かれていなかった。


 低い机。


 窓際に椅子が二脚。


 磨かれた柱の下には、古い傷が数本残っている。


 窓の向こうに湖が広がっていた。


 直樹は扉を閉める。


 鍵を回す。


 掛け金を掛ける。


 一度引く。


 もう一度、指先で押す。


「二回目」


 めぐみの声が背中から来た。


「一回目は鍵だ」


「掛け金は二回触った」


「外れることがある」


「今、外れた?」


「外れてない」


「じゃあ、終わり」


 めぐみがカーテンを開けた。


 夕方の光が、畳の上へ長く差し込む。


 直樹の手が掛け金から離れる。


 上着を脱ぐ。


 腰の通信機を外した。


 画面には、学校からの異常なしを示す表示が出ている。


 直樹の親指が電源の上で止まった。


「切れる?」


 めぐみが聞く。


「緊急連絡が」


「健二さんの端末にも入るよ」


「俺が先に取れる」


「今日は、健二さんが先」


 直樹は画面を見る。


 長押しする。


 光が消えた。


「切った」


「うん」


 腕時計も外す。


 通信機と一緒に、机の引き出しへ入れた。


 引き出しを閉める。


「落ち着かない?」


「腕が軽い」


「変な感じ?」


「ああ」


「私も」


 めぐみは旅行鞄を足元へ置き、畳へ座った。


 直樹は低い机を挟んだ向かいへ座る。


 二人の間には、木目の細かな天板がある。


 めぐみが机を見た。


「遠い」


「何が」


「なお」


「ここにいる」


「そういう話じゃない」


 めぐみは机の端へ両手を掛けた。


「動かすよ」


「重い」


「手伝って」


 二人で机を持ち上げる。


 畳の上を引きずらず、壁際へ運んだ。


 手を離した時、直樹の指がめぐみの指へ触れる。


 どちらも、すぐには引かなかった。


「座ろう」


 めぐみが窓際を指す。


 二人で並んで座る。


 肩の間には、拳一つ分の隙間があった。


 窓の外では、水面の色が少しずつ暗くなっている。


 古いガラスが、風を受けて枠の中で鳴った。


「着いた」


 めぐみが言う。


「ああ」


「車で言ったこと、覚えてる?」


「何を」


「着いたら、もう一回聞くって」


 直樹は湖を見る。


「来てよかった」


「私と?」


 直樹の首がわずかに動く。


「他に誰がいる」


「湖かもしれない」


「湖とは来ない」


「一人では?」


「来ない」


「どうして?」


「用がない」


 めぐみが笑う。


「じゃあ、私が用事?」


「違う」


「違うの?」


「目的だ」


 めぐみの笑いが止まった。


 直樹は湖を見たままだった。


「それ、運転中に言えたんじゃない?」


「今、考えた」


「もう一回言って」


「言わない」


「どうして」


「顔が近い」


 めぐみは少しだけ直樹へ寄った。


 拳一つ分あった隙間が、半分になる。


「これくらい?」


「近くなった」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「じゃあ、もう少し」


 袖が触れた。


 直樹の肩に、めぐみの肩が重なる。


 直樹は避けなかった。


 めぐみが右手を畳へ置く。


 小指の先が、直樹の左手へ触れた。


「手、つないでいい?」


「ああ」


「なおからは聞かないの?」


「めぐみが先に言った」


「次は聞いて」


 直樹の手が裏返る。


 開いた掌へ、めぐみの指が入る。


「これでいいか」


「指も」


「どうする」


 めぐみが指を絡めた。


「こう」


 直樹の指が、ゆっくり閉じる。


 窓の外で、湖面を渡った風が対岸の木を揺らした。


     *


 遊歩道へ下りる木の階段は、ところどころ濡れていた。


 めぐみが一段下りる。


 靴底が落ち葉の上でわずかに滑った。


 直樹の手が背中へ伸びる。


 触れる直前で止まる。


「触っていいよ」


 めぐみは振り返らない。


「落ちる」


「だから」


 左手を後ろへ出す。


 直樹が取った。


 最初は手首に近い場所だった。


 運搬する荷物を落とさないような持ち方だった。


 めぐみは二段下りた。


 足を止める。


「なお」


「何」


「私、荷物じゃないよ」


 直樹の指が緩む。


「どう持つ」


「さっきみたいに」


 めぐみは指を開いた。


 直樹の指の間へ入れる。


 今度は、直樹の方から握った。


 二人の歩調が揃う。


 階段の下には、古い木のベンチがあった。


 湖から吹く風が、めぐみの髪を頬へ貼りつける。


 直樹が空いた手で髪を払う。


 耳の後ろへ掛けた。


 指先が耳たぶへ触れる。


 めぐみは直樹を見る。


「冷たい」


「手が?」


「ううん」


 めぐみは握った手を少し持ち上げた。


「こっちは温かい」


 直樹は耳へ触れた手を離さなかった。


「頬も冷えてる」


「じゃあ、温めて」


「どうやって」


「考えて」


 直樹の掌が、めぐみの頬へ移った。


 耳の下から顎までを包む。


「これでいいか」


「今は」


「今は?」


「続きは部屋で」


 直樹の目が止まる。


 めぐみは先に湖へ顔を戻した。


 つないだ手だけは離さなかった。


     *


 夕食のあと、二人は別々の浴場へ入った。


 直樹が先に部屋へ戻った。


 机の引き出しは閉じたままだった。


 中には、電源を切った通信機と腕時計が入っている。


 直樹は一度だけ引き出しを見た。


 手は伸ばさなかった。


 窓際の椅子へ座る。


 夜の湖には、対岸の灯りが三つ浮いていた。風が吹くたび、細い光が水面で切れ、またつながる。


 廊下を歩く音が近づく。


 部屋の前で止まった。


 鍵が回る。


「ただいま」


 めぐみが入ってきた。


 浴衣の上に、紺色の羽織を重ねている。濡れた髪が肩へ張りつき、毛先から落ちた水が畳へ黒い点を作った。


 直樹は立ち上がった。


「おかえり」


 めぐみの足が止まる。


 鍵を抜いた手が、扉の前に残った。


「もう一回」


「何を」


「今の」


 直樹はめぐみの顔を見る。


「おかえり」


「ただいま」


 今度は、めぐみが笑った。


 直樹は押し入れから乾いた手拭いを取った。


「座れ」


「命令?」


「髪が濡れてる」


「旅行に来てまで、命令されるの?」


「風邪を引く」


「じゃあ、お願いして」


 直樹は手拭いを持ったまま黙った。


「めぐみ」


「うん」


「座ってくれ」


「はい」


 めぐみは座布団へ腰を下ろした。


 直樹が背後へ回る。


 白い手拭いを頭へ掛け、濡れた髪を挟んだ。乱暴に擦らず、布へ水を吸わせるように両手で押さえる。


「上手」


「負傷者にはやったことがある」


「また、それ」


「何が」


「私は負傷者じゃないよ」


 布の下から、めぐみが見上げる。


「恋人」


 直樹の手が止まった。


「分かってる」


「本当に?」


「ああ」


「じゃあ、負傷者と同じ顔で触らないで」


「どんな顔だ」


「仕事の顔」


 直樹は手拭いを外した。


 湿った髪が、めぐみの背中へ落ちる。


 指を入れ、絡んだ毛先をゆっくり分ける。


 耳の前に残った髪を、指先ですくう。


 耳の後ろへ掛けた。


「今は?」


 めぐみが振り向く。


 直樹の顔は、手を伸ばせば頬へ届く場所にあった。


「少し、恋人」


「少しか」


「なおも緊張してるから」


「ああ」


「髪を触るだけなのに?」


「めぐみのだからだ」


 めぐみの指が、直樹の浴衣の袖をつかんだ。


「それは一回でいい」


「もう言わない」


「言ってもいいけど、今は一回で十分」


 直樹は手拭いを畳んだ。


 めぐみは旅行鞄を膝へ引き寄せる。


 ファスナーを開けた。


 着替え。


 洗面用具。


 薬の袋。


 スケッチブック。


 一つずつ畳へ移す。


 鞄の底に、小さな白い布袋が残った。


 直樹の指が、膝の上で止まった。


「持ってきたのか」


「うん」


 めぐみは布袋を取り出した。


 両手に載せる。


 直樹は触れなかった。


「聖マリアで、なおが私に預け直したよね」


「ああ」


「めぐみが持っててくれって」


「ああ」


「あの時は、それ以上聞けなかった」


 めぐみは布袋を低い机へ置いた。


「なおも、言わなかった」


「言えなかった」


「今も?」


 直樹の目が、布袋からめぐみへ上がる。


「今は言う」


 めぐみは結び紐へ指を掛けた。


 軽く引く。


 結び目がほどける。


 四年前、遺留品として戻された時の結び目ではない。


 聖マリア病院で、直樹が一度袋を開けた。


 内側の刻印を確かめた。


 それから、自分の指で結び直した紐だった。


 白い布を左右へ開く。


 細かな傷の残る指輪が現れた。


 直樹は、それを見た。


 奈良では、右のポケットへ何度も指を入れた。


 箱の角へ触れる。


 手を離す。


 また触れる。


 まだある。


 なくなっていない。


 めぐみの隣を歩いているだけなのに、呼吸が浅くなった。


 戦場へ入る時とは違う。


 失敗すれば、自分だけが傷つくのではない。


 そう思うと、用意した言葉が口の中で固まった。


 めぐみと暮らしたい。


 帰る場所を、一つにしたい。


 同じ部屋で朝を迎えたい。


 任務から戻った時、待っている人ではなく、共に暮らす人として迎えてほしい。


 そのために買った指輪だった。


 けれど、直樹が口にできたのは、


 段取りがある。


 そんな言葉だけだった。


 後で、ちゃんと話して。


 めぐみはそう言った。


 ごまかさないで。


 約束。


 直樹は答えた。


 約束する。


 右のポケットの箱を、握りながら。


 そのあと白い光が来た。


 めぐみを地下へ押し込んだ。


 箱を渡さないまま。


 後で話すという約束も果たさないまま。


 何のために握っているのか分からなくなったあとも、身体だけが右のポケットを守っていた。


「なお」


 めぐみの声がした。


 直樹の目が現在へ戻る。


 湖畔の宿。


 低い机。


 白い布の上にある指輪。


 その向こうに、めぐみがいる。


「今、どこにいた?」


「奈良」


「私も」


 めぐみは指輪を持ち上げた。


「これを持ってきた時から、ずっと思い出してた」


「悪かった」


「謝る前に、聞かせて」


 めぐみの声は強くなかった。


 指輪を落とさないよう、掌をわずかに丸めている。


「あの時、何を言うつもりだったの?」


 直樹は答えなかった。


「一緒に帰ろう、だけ?」


「違う」


「待っていて、だけ?」


「違う」


「じゃあ、何?」


 直樹の右手が、膝の上で握られた。


 あの日、ポケットの箱を握った手だった。


「一緒に暮らしたいと思ってた」


 めぐみは動かなかった。


「帰国しても、任務はなくならない。急に呼ばれることもある。毎日同じ時間に帰るとは言えなかった」


 直樹は握った手を開いた。


「でも、帰る場所は一つにしたかった」


「私のところ?」


「ああ」


「私の家に来るつもりだったの?」


「二人で決めるつもりだった」


「なおが決めた家に、私を入れるんじゃなくて?」


「ああ」


「本当に?」


「仕事から近い場所も考えた」


「考えてるじゃない」


「候補だけだ」


 めぐみの口元がわずかに緩んだ。


「どこ?」


「佐賀か、久留米」


「奈良じゃないんだ」


「めぐみの仕事がある」


「そこまで考えてたの?」


「考えてた」


「なのに、何も言わなかった」


「ああ」


「段取りがある、しか言わなかった」


「言い方を間違えた」


「あの時も言ってたね」


 めぐみが小さく息を吐いた。


「言ってほしかった」


「ああ」


「駅前でもよかった」


「ああ」


「格好よくなくても、言ってほしかった」


「ああ」


「突き飛ばされる前に、聞きたかった」


 直樹の顎が下がる。


 めぐみは机へ左手を置いた。


「でも、今いる」


 直樹が顔を上げる。


「なおも。私も」


 めぐみは指輪のある右手を開いた。


「だから、返すためじゃない」


「分かってる」


「本当に?」


「ああ」


「病院では、持っててくれって言われた」


「ああ」


「袋の中に?」


 直樹は答えなかった。


「引き出しの奥に?」


「違う」


「じゃあ、どこ?」


 直樹の目が、机に置かれためぐみの左手へ移る。


「そこに」


 めぐみは自分の薬指を見る。


「なおから言って」


 直樹は指輪へ手を伸ばした。


 めぐみが、その前に掌を閉じる。


「まだ」


 直樹の手が止まる。


「何だ」


「今のなおに聞いてる」


 めぐみは指輪を握ったまま、直樹を見る。


「昔の約束を守るためじゃなくて」


「ああ」


「罪悪感でもなくて」


「ああ」


「私が待ってたからでもなくて」


「ああ」


「今も、私と一緒に暮らしたい?」


 直樹はめぐみの目から逃げなかった。


「暮らしたい」


「任務が続いても?」


「ああ」


「また長く帰れない日があっても?」


「戻る」


「戦えなくなっても、帰ってきてくれる?」


 直樹の呼吸が、一度止まった。


「その時は、帰る資格がないと思ってた」


「それを、なお一人で決めないで」


「ああ」


「右手が動かなくても。何もできない日でも」


「ああ」


「役に立たなくなったら、もっと帰ってきて」


「なぜ」


「一人で何もできないなら、二人でやるから」


「めぐみに負担が――」


「今、私が決めてる」


 直樹の口が閉じた。


「なおが全部決めないで」


「ああ」


「行かないでって言う。帰ってきてって言う。寂しかったら寂しいって言う」


「ああ」


「腹が立ったら怒る」


「分かってる」


「まだ、本気で怒ったところを全部は見せてないよ」


「怖いな」


 めぐみが目を見開く。


「今、冗談?」


「少し」


「なおが?」


「ああ」


 めぐみの眉間から力が抜けた。


「じゃあ、もう一回聞く」


 左手を直樹の前へ差し出す。


「私と一緒に暮らしたい?」


「暮らしたい」


「私に、これを着けてほしい?」


「着けてほしい」


「なおが着けて」


「ああ」


 めぐみが掌を開いた。


 直樹は指輪を取る。


 親指で内側をなぞった。


 刻印の溝が、指の腹へ触れる。


 NAO。


 MEGUMI。


 四年前に渡せなかった未来が、今は二人の間にある。


「めぐみ」


「うん」


「着けていいか」


「うん」


 直樹はめぐみの左手を取った。


 手のひらを下から支える。


 薬指へ指輪を通す。


 関節で、わずかに止まった。


 めぐみの指が反射で曲がる。


 直樹の手も止まる。


「痛いか」


「少しきつい」


「外す」


「待って」


 めぐみは首を横へ振った。


「角度を変えて」


 直樹は指輪をわずかに傾ける。


 親指で、めぐみの指の関節を支えた。


 急がない。


 傷の残る輪が、少しずつ進む。


 関節を越えた。


 薬指の根元へ収まる。


 二人の手は、すぐには離れなかった。


 めぐみは指輪を見つめた。


「病院では、袋に戻った」


「ああ」


「今は、ここにある」


「ああ」


「もう、遺品じゃないね」


「違う」


「昔の約束だけでもない」


「ああ」


「今のなおが着けた」


「俺が着けた」


 めぐみは左手を持ち上げた。


 天井の明かりが指輪の傷へ入り、細い線だけを白く光らせる。


「どう?」


 直樹は指輪を見る。


 次に、めぐみの顔を見た。


「似合う」


「今、考えた?」


「ああ」


「遅い」


「嘘は言ってない」


「もう一回」


 めぐみが左手を、直樹の頬へ置いた。


 指輪の冷たさが肌へ触れる。


 直樹はその手を包んだ。


 掌へ、頬を少し預ける。


「今、言った」


「四年分、足りない」


 直樹は、めぐみの目から視線を外さなかった。


 顔を寄せる。


 唇が耳へ触れそうなところで止まった。


「愛してる、めぐみ」


 吐息が、めぐみの耳をかすめる。


「だから、似合う」


 めぐみの指が、直樹の頬で震えた。


 目に水が溜まる。


 頬へ落ちる前に、直樹の親指が目尻へ触れた。


「泣くのか」


「泣いてない」


「濡れてる」


「お風呂のあとだから」


「目だけか」


「なおが細かいこと言うから」


「悪かった」


「謝らないで」


 めぐみは直樹の浴衣の襟をつかんだ。


「キスして」


 直樹の手が、めぐみの腰へ回る。


「していいか」


「もう言った」


「俺も聞く」


 めぐみは直樹の襟を離さない。


「うん。して」


 一度目は、唇が重なっただけだった。


 直樹の息が止まる。


 めぐみの指輪が、直樹の首筋へ触れた。


 冷たかった金属は、もうめぐみの体温を持っている。


 二人が離れる。


 額が触れた。


「短い」


 めぐみが言う。


「めぐみが離れた」


「なおが追わなかった」


「追っていいのか」


「聞いて」


 直樹の手に、少しだけ力が入る。


「もう一度、していいか」


「うん」


 二度目は、直樹から近づいた。


 今度は、めぐみも離れなかった。


     *


 部屋へ戻った時には、二組の布団が敷かれていた。


 中央に、畳の縁が細く見えている。


 めぐみは片方の布団の前へ座った。


 指輪のある左手で、敷布団の端を撫でる。


「二つだね」


「ああ」


「どうする?」


 直樹は二組の布団を見る。


 間に残された畳を見る。


「めぐみは」


「一人で決めない」


 直樹が彼女を見る。


「二人で決めるんだったね」


「ああ」


「なおは?」


 直樹は自分の布団の端をつかんだ。


「隣がいい」


 めぐみの口元が緩む。


「どれくらい?」


「手を伸ばせば、届くくらい」


「寝たあとも?」


 直樹は、めぐみの指輪がある左手を見る。


「離さない」


 めぐみはもう一方の布団の端を持った。


 二人で畳の上を滑らせる。


 一度では届かなかった。


「もう少し」


 めぐみが言う。


 直樹が引く。


 二組の布団が触れた。


 間に残っていた畳の線が、消えた。


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