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第187話 朝まで、二人で

## 第187話 朝まで、二人で


 夜中に目を覚ました時も、直樹の腕はめぐみの腹の前にあった。


 薄い毛布の下で、二人の脚が触れている。


 窓の外では雨が降っていた。雨粒が板で塞いだ窓を細かく叩き、廊下の非常灯が扉の下へ細い光を差し込んでいる。


 めぐみが少し身体を動かした。


 背中に触れていた直樹の胸が離れる。


 起こしたかと思った。


 振り返ろうとした時、眠ったままの直樹の腕に力が戻った。


 腹の前へ引き寄せられる。


 直樹は目を開けない。


 ただ、そこにいることを確かめるように、めぐみの肩へ頬を寄せた。


 めぐみは動くのをやめた。


 朝になれば、この腕は離れる。


 誰かが呼べば、直樹は起きる。


 そのことを、今だけは考えなかった。


     *


 大庭からの連絡は、朝食の鍋が空になる前に届いた。


 食堂の窓は白く曇っている。


 健二が流し台で皿を重ね、蓮が椅子を後ろへ傾けて悠斗に脚を蹴られていた。昨夜から残った雨が、軒下のバケツを不規則に鳴らしている。


 直樹は壁際の机で端末を開いた。


 帰着後の任務確認中。


 三名とも生存。


 詳細は後日。


 その下に、一行だけ、帰着報告には必要のない文がある。


 移動予定に変更があれば、早めに共有されたし。


 直樹は画面を上へ戻した。


 最初から、もう一度読む。


「兄ちゃん」


 健二が金属カップを机へ置いた。


「冷める前に飲んで」


「あとで飲む」


「昨日もそう言って、ミーシャに温め直されてたよ」


 直樹はカップを取った。


 一口飲む。


 もう少しぬるくなっている。


「大庭さん?」


 めぐみが隣へ来た。


「ああ」


 直樹は端末を彼女へ向けた。


 めぐみは上から読み、最後の一行でカーディガンの袖口をつまんだ。


「何かあったの?」


「まだ分からない」


「大庭さんは?」


「三人とも生きてる」


「それ以外は書けない?」


「らしい」


 大庭は余計なことを喋る。


 金と酒と女の話なら、頼まれなくても増やす。


 だが、記録へ余計な文章は残さない。


 書けないことがある時だけ、必要のない一行を置く。


「今日は行くの?」


「予定どおり」


「楢ノ沢館?」


「ああ」


「ミーシャも?」


「連絡補助と記録。相良の確認もある」


「昨日、移ったんだよね」


「午後にな」


 直樹たちが海から帰った夜まで、相良は国境第三の臨時医療区画にいた。


 翌日、大庭が帰隊したのと同じ午後に、相良の寝台と衣類箱、訓練用具が楢ノ沢館へ運ばれた。


 新しく得た記憶は、およそ七十二時間で輪郭を失う。


 最後には、直樹が海外へ出る直前の認識まで押し戻される。


 昨日の出来事を言葉で並べることはできない。


 名前も所属も、問いかければ崩れる。


 それでも、足音を拾い、重心を読み、理由の分からない親しさを身体へ残すことはあった。


「そう」


 めぐみの返事が、半拍だけ遅れた。


 直樹は彼女を見る。


「何かあるか」


「帰ってきてから話す」


「今じゃなくていいのか」


「今は、行ってきて」


 直樹は続きを待った。


 めぐみは袖口から指を離す。


「帰りは?」


「二十一時」


「過ぎたら?」


「連絡する」


「できなかったら?」


「国境第三から入れさせる」


「うん」


 直樹は大庭への返信欄を開いた。


 受領。


 現行予定を維持する。


 二行だけを送り、端末を閉じた。


     *


 厨房では、ミーシャが黒パンを切っていた。


 手のひらより少し小さな長方形に揃え、断面へ薄くカラシを塗っている。


 作業台には、ゆで卵、塩漬け肉、千切りのキャベツ。水分の出るトマトはない。


 首には、くすんだアフガンスカーフが巻かれていた。


 直樹から譲られたものだった。


 ハルが給湯器の横で水筒を洗っている。


「二人分ですか」


「はい」


 ミーシャは卵を切った。


 大きい包みへ三切れ。


 小さい包みへ二切れ。


「真柴さんの方が多いですね」


「必要量が違います」


「カラシは?」


「NAOは少ない方が食べます」


「嫌いなんですか」


「嫌いとは言いません」


 ミーシャは塩漬け肉を重ねた。


「ただ、残します」


 ハルが水筒の蓋を閉める。


「よく見ていますね」


「残量確認です」


「一緒に食べるんですよね」


「同じ休止時間です」


「同じ場所で?」


「はい」


「それを、一緒に食べると言うんだと思います」


 ミーシャの手が止まった。


 サンドイッチの角を包装紙の中央へ合わせる。


「同じ場所で摂取します」


「もっと一緒になりました」


 ミーシャは否定しなかった。


 紙を折り、紐で縛る。


 直樹用の包みには、手袋のままでも引ける輪を残した。


「ハルさん」


「はい」


「温水を二本、使用します」


「用意しています」


 ハルは水筒を二本並べた。


 一方には小さな傷がある。


 もう一方には青い布紐が結ばれていた。


 ミーシャは迷わず、傷のある方を直樹の包みの横へ置いた。


     *


 直樹がオートバイを門の内側へ出した時には、雨が上がっていた。


 濡れた校庭に、タイヤの跡が一本伸びている。


 直樹は車体を一周した。


 燃料。


 工具。


 救急用品。


 通信機。


 後部の積載袋には、二つの包みと水筒が収められている。


「通信」


「二系統」


「記録」


「保持しています」


 ミーシャは上着の前を閉めた。


 スカーフの端が、右側だけ外へ出ている。


「出てる」


 ミーシャが自分の胸元を見る。


 直樹は端を取り、上着の内側へ押し込んだ。


「巻き込む」


「確認しました」


「次から自分で見ろ」


「修正します」


 直樹は車体へまたがった。


 めぐみは玄関前に立っている。


 ミーシャが後部座席へ乗った。


 両腕を直樹の腰へ回し、手袋の指を腹の前で重ねる。


「なお」


 めぐみが呼んだ。


 直樹が振り返る。


「二十一時」


「ああ」


「気をつけて」


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 エンジンが校舎の壁を震わせた。


 オートバイが門を出る。


 カーブへ入ると、ミーシャの身体が直樹の背中へ近づいた。


 排気音が消えても、めぐみはしばらく門の前に立っていた。


     *


 楢ノ沢館へ向かう旧道の途中で、直樹はオートバイを停めた。


 廃業した給油所の軒だけが残っている。


 ミーシャは積載袋から二つの包みを取り出した。


「休止、十五分です」


「館で食べる」


「到着後は相良の確認があります」


「あとでもいい」


「昨日の夕食量が不足しています」


 直樹がミーシャを見る。


「見てたのか」


「皿が残っていました」


「食べた」


「必要量ではありません」


 ミーシャは大きい方の包みを差し出した。


「食べてください」


 直樹は紐の輪へ指を掛けた。


 一度引く。


 包装紙が開く。


「これを作ったのか」


「はい」


「いつ」


「朝です」


「訓練に必要か」


「NAOが倒れないために必要です」


 ミーシャは自分の包みを開いた。


「任務補給です」


 直樹は一口食べた。


 カラシはほとんど入っていない。


「薄い」


「残さない量です」


「覚えてたのか」


「三回残しました」


「数えてるのか」


「記録ではありません」


「なら何だ」


 ミーシャは答えず、傷のない水筒から温水を飲んだ。


 直樹もそれ以上は聞かなかった。


 二人で同じ軒の下に座り、雨上がりの旧道を見ながらパンを食べた。


 会話が途切れても、どちらも埋めようとはしなかった。


     *


 楢ノ沢館の二階には、廊下の突き当たりに新しい扉が増えていた。


 扉の横へ、相良の名札と三色の札が掛けられている。


 緑は進める。


 赤は止める。


 白は分からない。


 直樹が扉を二度叩いた。


 返事はない。


 ミーシャが緑の札を外し、扉の下へ差し入れた。


 内側で椅子の脚が鳴る。


 数秒後、札が押し戻された。


「入る」


 直樹が扉を開けた。


 相良は低い机の前へ座っていた。


 固定された寝台。


 衣類箱。


 窓際には握力訓練用の砂袋。


 重量を実物へ寄せた樹脂製ナイフが二本、布の上へ並んでいる。


 相良は二人の顔を見なかった。


 直樹の靴。


 歩幅。


 腰。


 両手。


 最後に、ミーシャの記録板と立ち位置を見る。


 右足が椅子の下で半歩引かれた。


「相良」


 直樹が呼んだ。


 相良の目が上がる。


「マシバァ」


 濁った声だった。


 相良が一息で出せる、最も長い言葉だった。


「ああ」


 直樹が答える。


 相良の足が元の位置へ戻った。


 ミーシャが一歩前へ出る。


「ミーシャです」


 相良はアフガンスカーフを見る。


 記録板を見る。


 直樹の斜め後ろに立つ位置を見る。


 何度か会ううちに、その場所だけは身体へ残っていた。


 相良がミーシャを指す。


 次に直樹。


 机の隅の湯飲み。


「チャ」


「私がNAOへ出す?」


 相良が緑の札を叩いた。


「秘書ではありません」


 相良は聞いていない。


 湯飲みをミーシャへ渡す。


 空いた手の指先を上へ揺らした。


 湯気。


 その上を手のひらで押さえる。


 ミーシャは湯飲みの表面へ指を近づけた。


「熱いままでは出さない」


 相良が緑を叩く。


 ミーシャが机の中央へ置く。


 相良はその手首をつかみ、直樹の左側へずらした。


「左」


 相良は直樹の右手を指す。


 空中へ文字を書く仕草。


 ミーシャが湯飲みを左側へ置き直す。


「右手を塞がない」


 相良が緑を二度叩いた。


 直樹が両手を開く。


「もう動く」


 相良は右手をもう一度指した。


 負傷を覚えているのか。


 現在の癖を見ているだけなのか。


 分からなかった。


 直樹は湯飲みを取らない。


「あとで飲む」


 相良の眉間に皺が寄る。


 机を二度叩いた。


 ミーシャ。


 直樹。


 湯飲み。


「マエ」


「報告より前」


 ミーシャが湯飲みを直樹へ押す。


「するな」


 相良も底を押した。


「ノメ」


「冷めてる」


「ノメ」


 直樹は一口飲んだ。


 机へ戻そうとする。


 相良がまた押し返した。


「ゼンブ」


 直樹は残りを飲み干した。


 相良の肩から、わずかに力が抜ける。


 ミーシャが記録板へ書き込んだ。


「左側。報告前。全量確認」


「書くな」


「引き継ぎ事項です」


 相良が緑の札を叩く。


「お前はどっちの味方だ」


「現在は相良です」


 直樹が息を吐いた。


 相良の口元が、わずかに上がった。


     *


 文章だけの同意書は使えない。


 直樹は二本の訓練用ナイフを机へ置いた。


 一本を自分の前。


 もう一本を相良の前。


 次に隣室の方向を指し、両手を構えた。


 相良はナイフを見た。


 直樹を見る。


 赤、白、緑の札を順に見たあと、緑を机の中央へ押し出した。


 ミーシャが提示した道具、選ばれた札、時刻を記録する。


     *


 隣の旧宴会場は、相良の移動に合わせて訓練区画へ変えられていた。


 畳は撤去され、床へ衝撃吸収材が敷かれている。


 柱には保護材。


 入口の反対側、床へ赤い線が引かれていた。


 直樹は赤い線を越えれば終了。


 相良は、その前に直樹を制圧する。


 二人は薄型の頭部保護具、喉当て、胸腹部の防具、前腕保護、手袋を着けている。


 頭部への打撃は禁止。


 肘と膝は防具へ触れる前に止める。


 関節は極めない。


 相良を移す前に、医療担当と決めた条件だった。


 教育隊の八人が壁際に並ぶ。


 ミーシャはアフガンスカーフを外し、柱へ掛けた。


 記録板を胸の前へ構える。


 相良は右手を下げ、ナイフを脚の外側へ隠した。


 左肩だけを直樹へ向ける。


 直樹も訓練用ナイフを持った。


「始める」


 相良が柱の死角へ入った。


 半歩だった。


 それだけで足音も衣服の擦れる音も消える。


 直樹は赤い線へ向かう。


 相良は正面へ戻らない。


 右後方から刃が脇腹へ走った。


 直樹は前腕で外へ流す。


 相良の肩が胸へ入り、ナイフを持つ腕が畳まれた。


 背後へ回る。


 肘を固定し、床へ伏せさせるための形だった。


 直樹と相良が自衛官だった頃、繰り返した手順。


 崩す。


 倒す。


 腕を取る。


 拘束する。


 直樹の身体が傾いた。


 相良が腕を固めようとした瞬間、直樹はナイフを離した。


 樹脂の刃が床を滑る。


 空いた右手の掌底が、相良の胸当ての前で止まった。


 相良の上体が反応で起きる。


 直樹は腕を抜き、赤い線へ進んだ。


 相良が肩を入れて道を塞ぐ。


 直樹の左肘が喉当ての手前へ来た。


 相良が顎を引く。


 支点になった前脚へ、直樹の低い蹴りが走った。


 相良が足を引く。


 人一人分の幅が開く。


 直樹は相良を追わない。


 開いた隙間を抜ける。


 相良はナイフを持ったまま、直樹の背中へ手を伸ばした。


 拘束する位置まで入ろうとする。


 直樹の右腕はもう動く。


 だが、動かなかった時間に覚えた判断だけは残っていた。


 武器へ戻ろうとしない。


 利き手へ頼らない。


 進路を塞ぐものへ、その時使える最短の打撃を置く。


 相良の手が肩へ触れる。


 直樹は振り返らない。


 後ろへ出した肘が、相良の胸当ての前で止まった。


 相良の身体が一瞬止まる。


 直樹の靴底が赤い線を越えた。


「終了」


 ミーシャの声が響く。


 相良は自分の手に残ったナイフを見る。


 次に、床へ落ちた直樹の刃。


「ハヤイ」


「捨てるのが遅い」


 直樹は床のナイフを拾った。


「それだけじゃない」


 相良が直樹を見る。


「捕まえるところまで行こうとする」


 直樹は赤い線を指した。


「今の俺は、通れればいい」


 相良は返事をしない。


 ナイフを床へ落とす。


 拳を上げた。


「コイ」


     *


 二度目は徒手だった。


 相良は開始と同時に姿を消した。


 柱の裏へ入り、正面へ戻らない。


 直樹の足音、肩の向き、赤い線までの距離を読む。


 直樹が通る位置へ先回りし、背後から腕を抱えた。


 膝裏を崩す。


 直樹が片膝をつく。


 潜伏。


 追跡。


 痕跡を拾い、進路の先へ回る技術は相良の方が上だった。


 相良が腕を畳む。


 拘束へ移ろうとする。


 直樹の肘が後ろへ走り、相良の前腕で止められた。


 次には、反対の拳が腹部防具の前へ来ている。


 相良が横へ逃がす。


 今度は膝。


 膝を抑えれば肩が入る。


 肩を止めれば、支点へ低い蹴りが来る。


 相良が一つ塞ぐたび、直樹は別の打撃で幅を作った。


 相良は直樹の背後を取れる。


 直樹は、取られた場所からでも前へ進む。


 最後に相良が再び直樹の腕を取った。


 直樹は力で振りほどかない。


 相良の手首を一瞬だけ胸へ引き寄せ、その反動で身体を入れ替えた。


 直樹の肩が相良の胸当てへ触れる。


 相良が半歩下がる。


 道が開く。


 直樹は赤い線を越えた。


「終了」


 二人が離れた。


 教育隊の八人は声を出さなかった。


 相良は息を整えながらも、目だけで次の侵入路を探していた。


     *


 相良は壁際へ戻らなかった。


 ミーシャの前へ立ち、記録板を指で下へ押した。


「何ですか」


 相良はミーシャの右腕を指す。


 自分の胸を叩く。


「ヤレ」


「私と?」


「コイ」


 ミーシャは記録板を床へ置いた。


「開始します」


 相良は正面から入った。


 直樹へ向けた動きより遅い。


 試している。


 左手でミーシャの視線を上へ誘い、右手を腹へ伸ばす。


 ミーシャは半歩外へ出た。


 前腕を相良の腕へ重ね、肘を落とす。


 足で位置を変える。


 相良の身体がわずかに流れた。


 相良はもう一度入る。


 今度は速い。


 拳。


 掌。


 足払い。


 ミーシャは最初の拳を外した。


 二つ目を前腕で受ける。


 足を刈られ、片膝が床へ落ちた。


 相良の手が肩へ伸びる。


 ミーシャは倒れない。


 片膝のまま身体を回し、相良の肘へ前腕を差し込んだ。


 立ち上がる力で腕を外へ跳ねる。


 防具の上から、直樹に何度も防御を崩された。


 腕だけで止めるな。


 足で位置を変えろ。


 肘を浮かせるな。


 痛みと一緒に覚えた動きだった。


 相良の右腕が外へ逸れる。


 ミーシャの左掌が、相良の顎の前で止まった。


 相良はその手を見る。


 肘。


 肩。


 後ろ足。


 次に直樹を見る。


「マシバァ」


「ああ」


 相良は直樹の拳を指す。


 ミーシャの前腕を叩く。


「教えた」


 相良は首を横へ振る。


 直樹へ拳を向ける。


 もう一度、ミーシャの腕を叩いた。


「殴られて覚えたと言いたいらしい」


「防具の上からです」


「同じだ」


「違います」


 相良はミーシャの右手首を取った。


 握りの角度を直す。


 肘を指一本分だけ内側へ押す。


 後ろ足を靴先でずらした。


 相良が一歩離れ、構えろと手を動かす。


 ミーシャが同じ姿勢を取る。


 相良は肩を二度叩いた。


「ヨシ」


「受領しました」


 相良は柱に掛けられたアフガンスカーフを取り、ミーシャへ投げる。


 次に直樹を指した。


 湯飲みを持つ仕草。


「チャ」


「報告より先に」


 相良が頷いた。


     *


 ミーシャはスカーフを巻き直した。


 給湯室へは向かわない。


 積載袋から、黒い表紙の手帳を取り出した。


 布で角を補強した、小さな日記帳だった。


 背表紙の輪には短い鉛筆が差してある。


 ミーシャは相良の前へ戻った。


「今回の礼です」


 相良は手帳を見た。


 受け取らない。


 ミーシャは最初の頁を開いた。


 三つの枠を並べる。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 三つ目から左へ戻る矢印。


 矢印の先へ、若い直樹の横顔を簡単に描いた。


 ミーシャは三本の指を立てる。


「三日」


 現在の直樹を指す。


 頁の若い顔を指す。


 指先を矢印に沿って戻した。


「忘れます」


 相良が頁へ顔を近づける。


 ミーシャは楢ノ沢館を四角で描いた。


 扉の横に三色の丸。


 次にアフガンスカーフの形。


 湯飲み。


 拳。


「ここへ」


 ミーシャは鉛筆を相良へ差し出した。


「文字でなくていいです」


 相良は鉛筆を取った。


 しばらく、何も描かない。


 頁。


 直樹。


 ミーシャ。


 部屋の扉。


 順に見る。


 やがて、最初の頁へ文字を書いた。


 マシバ。


 現在の直樹を指す。


 文字の横へ、小さな四角を描く。


 その左側へ矢印。


 ミーシャが湯飲みを見る。


「左へ置く」


 相良はミーシャの肩を一度叩いた。


 次に、細長い布の形を描いた。


 アフガンスカーフ。


 その線から、マシバの文字へ矢印を引く。


 相良はミーシャを指す。


 直樹を指す。


 もう一度、頁を指した。


 ミーシャは何も言わなかった。


 相良は彼女の肩を二度叩く。


 さっきと同じ位置だった。


 ミーシャは黒い日記帳を、相良の机へ置いた。


「保管してください」


 相良は鉛筆を背表紙の輪へ戻した。


 表紙を閉じる。


 その上へ手のひらを置いた。


 次に直樹を指す。


「ノメ」


「まだ言うのか」


 ミーシャが傷のある水筒を直樹へ差し出した。


「適温です」


「お前まで相良に似てきたな」


「引き継ぎを受領しました」


 相良はミーシャの背中を見送った。


 それから直樹の肩を、一度だけ拳で叩いた。


 さっきまでの打撃より、ずっと軽かった。


     *


 旧南第三では、昼食後の厨房に湯気が残っていた。


 ハルは洗い終えた水筒を棚へ戻している。


 めぐみは布巾で皿を拭いていた。


 一枚。


 二枚。


 三枚目を拭き終えたあと、同じ皿へもう一度布巾を当てる。


「宮崎さん」


「うん」


「それ、もう乾いてます」


 めぐみは手元を見る。


「本当だ」


「何かありました?」


「何も」


 ハルは次の水筒へ布を通した。


「何もない人は、同じ皿を二回拭きません」


「健二さんみたい」


「最近、移ったかもしれません」


 めぐみは皿を棚へ戻した。


「今朝、見た?」


「何をですか」


「ミーシャが作ってたもの」


「サンドイッチですか」


「二人分?」


「はい」


 ハルは少し考える。


「真柴さんの方が大きかったです」


「そう」


「カラシも少なくしていました」


 めぐみの手が止まる。


「なお、辛いの嫌いじゃないよ」


「嫌いとは言わないそうです」


「でも残すんだ」


「三回」


 めぐみは小さく笑った。


「数えてるんだね」


「記録ではないそうです」


 笑いは長く続かなかった。


 窓の外へ目を向ける。


 朝、門を出た二人は、まだ戻らない。


「任務なのは分かってる」


 めぐみが言った。


「はい」


「でも、最近は一緒にいる時間が長いよね」


「長いです」


 否定されなかったことが、少し痛かった。


「昨日ね」


 めぐみは布巾を畳んだ。


「なおと同じ寝台で寝た」


 ハルの手が止まる。


「抱きしめてもらったまま」


「うれしかったですか」


「うん」


 めぐみは乾いた皿を見つめた。


「でも、朝になったら足りないと思った」


「抱きしめられるだけでは?」


「たぶん」


「もっと触れてほしい?」


 遠慮した声だった。


 けれど、問いは曖昧ではない。


 めぐみの頬が熱くなる。


「女子同士でも、そこまで聞く?」


「嫌なら、やめます」


「聞いてから言うんだ」


「すみません」


「ううん」


 めぐみは布巾を置いた。


「もっと触れてほしい」


 言葉にすると、逃げ道が一つなくなった。


「私も、なおに触れたい」


 ハルは頷いた。


「本人に言えそうですか」


「無理」


「困るとは思います」


「やっぱり」


「健二さんも困っていました」


「何を言ったの?」


「一緒に休みたいと」


「どうなった?」


「当直表を持ってきました」


「それだけ?」


「二人分、空けました」


 めぐみは笑った。


「健二さんらしい」


「嫌なら、空けなかったと思います」


     *


 裏口が開いた。


 冷たい空気のあとに、煙草の匂いが入る。


「煙、入ります」


 ハルが言った。


「入らない位置にいる」


 えりは扉の外へ立っていた。


 右手に火のついた煙草。


 左手には、角の潰れた携帯灰皿を持っている。


「えり」


「続けて」


「いつからいたの」


「当直表のところ」


「聞いてた?」


「元警察官に何を期待してるの」


 ハルが扉を半分閉めた。


「煙草を消してください」


「今は嫌」


「子どもみたいですね」


「ハル、最近遠慮なくなったね」


「健二さんに移りました」


「悪い感染症」


 めぐみが小さく笑った。


 えりは携帯灰皿へ灰を落とす。


「ミーシャがいなくなれば、それでいい?」


「違う」


「じゃあ何が欲しいの」


 めぐみは窓の外を見る。


「私が待ってる時間に、ミーシャはなおと一緒にいる」


「うん」


「後ろに乗って、仕事して、二人で食べてる」


「うん」


「私がいない時のなおを知ってる」


「それが嫌?」


「寂しい」


 言い直すと、胸の中にあったものへ形がついた。


「また、待つだけになるのが嫌」


 ハルが布巾を畳む。


「ミーシャさんを遠ざけなくても、宮崎さんの時間は作れます」


「私の?」


「二人の、です」


 えりが煙草を指に挟んだ。


「朝まで二人でいたい?」


 めぐみはすぐには答えなかった。


「そこだけ本人に言いな」


 えりは煙を外へ吐く。


「先は二人で決める」


「学校で朝までいるのは?」


「無理です」


 ハルが答えた。


「誰かが呼びます。食事、無線、子ども、燃料、見回り」


「子どもたちを置いていくの?」


「健二さんと私が受け取ります」


「何かあったら」


「連絡します」


「なおがいないと――」


「回らない場所にしてはいけません」


 ハルの声は柔らかい。


 だが、譲らなかった。


「真柴さんが帰る場所なら、真柴さんがいない夜にも残らないと」


 えりが携帯端末を取り出した。


「湖の近くに、旧保養所を直した宿がある」


「もう調べるの?」


「空きだけ」


「予約はしないで」


「本人に言うのは、めぐ」


 えりの指が画面を動く。


「断られたら?」


「理由を聞く」


「行きたくないって言われたら?」


 えりの指が止まった。


「その時は、ちゃんと傷つけばいい」


 めぐみは目を伏せた。


「でも、なおに選ばせないまま諦めるのは違う」


 ハルが空の籠を持ち上げる。


「言わなければ、真柴さんは選べません」


「一晩」


 めぐみが言った。


「何?」


 えりが聞く。


「誰にも呼ばれないところで、なおと一晩いたい」


 えりが画面を見る。


「二日後なら、一部屋空いてる」


「早い」


「空きだけ見た」


 ハルが画面をのぞく。


「一部屋だけですね」


「二人とも急かさないで」


 えりは端末を閉じた。


「帰ってきたら言いな」


     *


 二十一時を九分過ぎて、門の外に灯りが現れた。


 低い排気音が近づいてくる。


 直樹が運転し、ミーシャが後ろに乗っている。


 門の手前で速度が落ちても、ミーシャの腕は直樹の腰へ回ったままだった。


 めぐみは玄関前に立っていた。


 朝と同じ光景だった。


 今度は目をそらさなかった。


 健二が門を開ける。


 オートバイが校庭へ入った。


 直樹がエンジンを切る。


 ミーシャは腕を離し、後部座席から降りた。


「帰着、二十一時九分」


「道路確認で止まった」


「記録します」


 ミーシャは積載袋から、空の水筒と畳んだ包装紙を取り出した。


 二人分とも、何も残っていない。


「宮崎さん」


「おかえり、ミーシャ」


「戻りました」


 首元には、アフガンスカーフが巻かれている。


 ミーシャは直樹を見る。


「NAO。夕食を取ってください」


「分かった」


「朝も同じ返答でした」


「今から食べる」


「確認しました」


 ミーシャは校舎へ入った。


 直樹はヘルメットを外す。


「遅れた」


「九分」


「連絡できなかった」


「うん」


「心配したか」


「少し」


「悪かった」


 直樹がオートバイの鍵を抜く。


「なお」


「何」


「相談がある」


「今聞く」


「ご飯のあとでいいよ」


「先に聞く」


 めぐみは厨房の窓を見た。


 カーテンは閉まっている。


「昨日のこと」


 直樹の手が止まった。


「嫌だったか」


「逆」


 めぐみは袖口をつまむ。


「朝になって、終わったのが少し寂しかった」


「起きたから離した」


「うん」


「離さない方がよかったか」


「昨日は、もう少しあのままでいたかった」


 雨樋に残った水が、一滴だけ校庭へ落ちた。


「今夜か」


「今夜じゃなくていい」


「なら、いつだ」


「学校じゃないところに、一晩泊まりたい」


「二人で?」


「うん」


「話すためか」


「それもある」


「それでいいのか」


 めぐみは直樹を見る。


「今は、決めたくない」


 直樹は黙っている。


「行ってから、二人で決めたい」


「一人では決めたくないのか」


「うん」


 直樹の視線が校舎へ移った。


 門。


 当直室。


 食堂の明かり。


 自分がいない夜にも、学校を残せる人間がいる。


「いつ」


「二日後なら、部屋が空いてるって」


「調べたのか」


「えりが」


 直樹は目を閉じた。


「ハルさんも知ってる」


 直樹が目を開ける。


「どこまで」


「昨日、抱きしめてもらったこと」


「ああ」


「朝になったら、もう少し一緒にいたかったこと」


 直樹は黙った。


「なお?」


「えりに会いたくない」


 めぐみが笑った。


 直樹は笑わない。


「二日後」


「行ける?」


「大庭から追加がなければ」


「うん」


「訓練は外す」


「仕事を空けられるかじゃなくて」


 めぐみは直樹を見る。


「なおが行きたいかを聞いてる」


 直樹は答えるまで時間を置いた。


「行きたい」


 めぐみの袖口をつまんでいた指がほどける。


「俺も、めぐみと朝までいたい」


「うん」


「その先は、その時に聞く」


「私も聞く」


「ああ」


 直樹は鍵をポケットへ入れた。


「先に飯を食べる」


「行こう」


「めぐみは食べたか」


「食べたよ」


「なら、待たなくていい」


「一緒にいる」


 直樹は断らなかった。


     *


 消灯前。


 めぐみは自分の部屋の机へ、小さな旅行鞄を置いた。


 一泊分の着替え。


 洗面用具。


 薬。


 スケッチブック。


 最後に、机の引き出しを開ける。


 奥に白い布袋があった。


 四年前、知らない指輪として渡された。


 裏側の文字を見て、直樹のものだと知った。


 NAO MEGUMI。


 めぐみは布袋を手のひらへ載せた。


 結び目には触れない。


 旅行鞄の上まで運び、しばらく止まった。


 返すためなのか。


 着けてもらうためなのか。


 まだ言葉にはできなかった。


 それでも、布袋を鞄の底へ入れた。


 今度は、遺品として持っていくのではなかった。



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