第187話 朝まで、二人で
## 第187話 朝まで、二人で
夜中に目を覚ました時も、直樹の腕はめぐみの腹の前にあった。
薄い毛布の下で、二人の脚が触れている。
窓の外では雨が降っていた。雨粒が板で塞いだ窓を細かく叩き、廊下の非常灯が扉の下へ細い光を差し込んでいる。
めぐみが少し身体を動かした。
背中に触れていた直樹の胸が離れる。
起こしたかと思った。
振り返ろうとした時、眠ったままの直樹の腕に力が戻った。
腹の前へ引き寄せられる。
直樹は目を開けない。
ただ、そこにいることを確かめるように、めぐみの肩へ頬を寄せた。
めぐみは動くのをやめた。
朝になれば、この腕は離れる。
誰かが呼べば、直樹は起きる。
そのことを、今だけは考えなかった。
*
大庭からの連絡は、朝食の鍋が空になる前に届いた。
食堂の窓は白く曇っている。
健二が流し台で皿を重ね、蓮が椅子を後ろへ傾けて悠斗に脚を蹴られていた。昨夜から残った雨が、軒下のバケツを不規則に鳴らしている。
直樹は壁際の机で端末を開いた。
帰着後の任務確認中。
三名とも生存。
詳細は後日。
その下に、一行だけ、帰着報告には必要のない文がある。
移動予定に変更があれば、早めに共有されたし。
直樹は画面を上へ戻した。
最初から、もう一度読む。
「兄ちゃん」
健二が金属カップを机へ置いた。
「冷める前に飲んで」
「あとで飲む」
「昨日もそう言って、ミーシャに温め直されてたよ」
直樹はカップを取った。
一口飲む。
もう少しぬるくなっている。
「大庭さん?」
めぐみが隣へ来た。
「ああ」
直樹は端末を彼女へ向けた。
めぐみは上から読み、最後の一行でカーディガンの袖口をつまんだ。
「何かあったの?」
「まだ分からない」
「大庭さんは?」
「三人とも生きてる」
「それ以外は書けない?」
「らしい」
大庭は余計なことを喋る。
金と酒と女の話なら、頼まれなくても増やす。
だが、記録へ余計な文章は残さない。
書けないことがある時だけ、必要のない一行を置く。
「今日は行くの?」
「予定どおり」
「楢ノ沢館?」
「ああ」
「ミーシャも?」
「連絡補助と記録。相良の確認もある」
「昨日、移ったんだよね」
「午後にな」
直樹たちが海から帰った夜まで、相良は国境第三の臨時医療区画にいた。
翌日、大庭が帰隊したのと同じ午後に、相良の寝台と衣類箱、訓練用具が楢ノ沢館へ運ばれた。
新しく得た記憶は、およそ七十二時間で輪郭を失う。
最後には、直樹が海外へ出る直前の認識まで押し戻される。
昨日の出来事を言葉で並べることはできない。
名前も所属も、問いかければ崩れる。
それでも、足音を拾い、重心を読み、理由の分からない親しさを身体へ残すことはあった。
「そう」
めぐみの返事が、半拍だけ遅れた。
直樹は彼女を見る。
「何かあるか」
「帰ってきてから話す」
「今じゃなくていいのか」
「今は、行ってきて」
直樹は続きを待った。
めぐみは袖口から指を離す。
「帰りは?」
「二十一時」
「過ぎたら?」
「連絡する」
「できなかったら?」
「国境第三から入れさせる」
「うん」
直樹は大庭への返信欄を開いた。
受領。
現行予定を維持する。
二行だけを送り、端末を閉じた。
*
厨房では、ミーシャが黒パンを切っていた。
手のひらより少し小さな長方形に揃え、断面へ薄くカラシを塗っている。
作業台には、ゆで卵、塩漬け肉、千切りのキャベツ。水分の出るトマトはない。
首には、くすんだアフガンスカーフが巻かれていた。
直樹から譲られたものだった。
ハルが給湯器の横で水筒を洗っている。
「二人分ですか」
「はい」
ミーシャは卵を切った。
大きい包みへ三切れ。
小さい包みへ二切れ。
「真柴さんの方が多いですね」
「必要量が違います」
「カラシは?」
「NAOは少ない方が食べます」
「嫌いなんですか」
「嫌いとは言いません」
ミーシャは塩漬け肉を重ねた。
「ただ、残します」
ハルが水筒の蓋を閉める。
「よく見ていますね」
「残量確認です」
「一緒に食べるんですよね」
「同じ休止時間です」
「同じ場所で?」
「はい」
「それを、一緒に食べると言うんだと思います」
ミーシャの手が止まった。
サンドイッチの角を包装紙の中央へ合わせる。
「同じ場所で摂取します」
「もっと一緒になりました」
ミーシャは否定しなかった。
紙を折り、紐で縛る。
直樹用の包みには、手袋のままでも引ける輪を残した。
「ハルさん」
「はい」
「温水を二本、使用します」
「用意しています」
ハルは水筒を二本並べた。
一方には小さな傷がある。
もう一方には青い布紐が結ばれていた。
ミーシャは迷わず、傷のある方を直樹の包みの横へ置いた。
*
直樹がオートバイを門の内側へ出した時には、雨が上がっていた。
濡れた校庭に、タイヤの跡が一本伸びている。
直樹は車体を一周した。
燃料。
工具。
救急用品。
通信機。
後部の積載袋には、二つの包みと水筒が収められている。
「通信」
「二系統」
「記録」
「保持しています」
ミーシャは上着の前を閉めた。
スカーフの端が、右側だけ外へ出ている。
「出てる」
ミーシャが自分の胸元を見る。
直樹は端を取り、上着の内側へ押し込んだ。
「巻き込む」
「確認しました」
「次から自分で見ろ」
「修正します」
直樹は車体へまたがった。
めぐみは玄関前に立っている。
ミーシャが後部座席へ乗った。
両腕を直樹の腰へ回し、手袋の指を腹の前で重ねる。
「なお」
めぐみが呼んだ。
直樹が振り返る。
「二十一時」
「ああ」
「気をつけて」
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
エンジンが校舎の壁を震わせた。
オートバイが門を出る。
カーブへ入ると、ミーシャの身体が直樹の背中へ近づいた。
排気音が消えても、めぐみはしばらく門の前に立っていた。
*
楢ノ沢館へ向かう旧道の途中で、直樹はオートバイを停めた。
廃業した給油所の軒だけが残っている。
ミーシャは積載袋から二つの包みを取り出した。
「休止、十五分です」
「館で食べる」
「到着後は相良の確認があります」
「あとでもいい」
「昨日の夕食量が不足しています」
直樹がミーシャを見る。
「見てたのか」
「皿が残っていました」
「食べた」
「必要量ではありません」
ミーシャは大きい方の包みを差し出した。
「食べてください」
直樹は紐の輪へ指を掛けた。
一度引く。
包装紙が開く。
「これを作ったのか」
「はい」
「いつ」
「朝です」
「訓練に必要か」
「NAOが倒れないために必要です」
ミーシャは自分の包みを開いた。
「任務補給です」
直樹は一口食べた。
カラシはほとんど入っていない。
「薄い」
「残さない量です」
「覚えてたのか」
「三回残しました」
「数えてるのか」
「記録ではありません」
「なら何だ」
ミーシャは答えず、傷のない水筒から温水を飲んだ。
直樹もそれ以上は聞かなかった。
二人で同じ軒の下に座り、雨上がりの旧道を見ながらパンを食べた。
会話が途切れても、どちらも埋めようとはしなかった。
*
楢ノ沢館の二階には、廊下の突き当たりに新しい扉が増えていた。
扉の横へ、相良の名札と三色の札が掛けられている。
緑は進める。
赤は止める。
白は分からない。
直樹が扉を二度叩いた。
返事はない。
ミーシャが緑の札を外し、扉の下へ差し入れた。
内側で椅子の脚が鳴る。
数秒後、札が押し戻された。
「入る」
直樹が扉を開けた。
相良は低い机の前へ座っていた。
固定された寝台。
衣類箱。
窓際には握力訓練用の砂袋。
重量を実物へ寄せた樹脂製ナイフが二本、布の上へ並んでいる。
相良は二人の顔を見なかった。
直樹の靴。
歩幅。
腰。
両手。
最後に、ミーシャの記録板と立ち位置を見る。
右足が椅子の下で半歩引かれた。
「相良」
直樹が呼んだ。
相良の目が上がる。
「マシバァ」
濁った声だった。
相良が一息で出せる、最も長い言葉だった。
「ああ」
直樹が答える。
相良の足が元の位置へ戻った。
ミーシャが一歩前へ出る。
「ミーシャです」
相良はアフガンスカーフを見る。
記録板を見る。
直樹の斜め後ろに立つ位置を見る。
何度か会ううちに、その場所だけは身体へ残っていた。
相良がミーシャを指す。
次に直樹。
机の隅の湯飲み。
「チャ」
「私がNAOへ出す?」
相良が緑の札を叩いた。
「秘書ではありません」
相良は聞いていない。
湯飲みをミーシャへ渡す。
空いた手の指先を上へ揺らした。
湯気。
その上を手のひらで押さえる。
ミーシャは湯飲みの表面へ指を近づけた。
「熱いままでは出さない」
相良が緑を叩く。
ミーシャが机の中央へ置く。
相良はその手首をつかみ、直樹の左側へずらした。
「左」
相良は直樹の右手を指す。
空中へ文字を書く仕草。
ミーシャが湯飲みを左側へ置き直す。
「右手を塞がない」
相良が緑を二度叩いた。
直樹が両手を開く。
「もう動く」
相良は右手をもう一度指した。
負傷を覚えているのか。
現在の癖を見ているだけなのか。
分からなかった。
直樹は湯飲みを取らない。
「あとで飲む」
相良の眉間に皺が寄る。
机を二度叩いた。
ミーシャ。
直樹。
湯飲み。
「マエ」
「報告より前」
ミーシャが湯飲みを直樹へ押す。
「するな」
相良も底を押した。
「ノメ」
「冷めてる」
「ノメ」
直樹は一口飲んだ。
机へ戻そうとする。
相良がまた押し返した。
「ゼンブ」
直樹は残りを飲み干した。
相良の肩から、わずかに力が抜ける。
ミーシャが記録板へ書き込んだ。
「左側。報告前。全量確認」
「書くな」
「引き継ぎ事項です」
相良が緑の札を叩く。
「お前はどっちの味方だ」
「現在は相良です」
直樹が息を吐いた。
相良の口元が、わずかに上がった。
*
文章だけの同意書は使えない。
直樹は二本の訓練用ナイフを机へ置いた。
一本を自分の前。
もう一本を相良の前。
次に隣室の方向を指し、両手を構えた。
相良はナイフを見た。
直樹を見る。
赤、白、緑の札を順に見たあと、緑を机の中央へ押し出した。
ミーシャが提示した道具、選ばれた札、時刻を記録する。
*
隣の旧宴会場は、相良の移動に合わせて訓練区画へ変えられていた。
畳は撤去され、床へ衝撃吸収材が敷かれている。
柱には保護材。
入口の反対側、床へ赤い線が引かれていた。
直樹は赤い線を越えれば終了。
相良は、その前に直樹を制圧する。
二人は薄型の頭部保護具、喉当て、胸腹部の防具、前腕保護、手袋を着けている。
頭部への打撃は禁止。
肘と膝は防具へ触れる前に止める。
関節は極めない。
相良を移す前に、医療担当と決めた条件だった。
教育隊の八人が壁際に並ぶ。
ミーシャはアフガンスカーフを外し、柱へ掛けた。
記録板を胸の前へ構える。
相良は右手を下げ、ナイフを脚の外側へ隠した。
左肩だけを直樹へ向ける。
直樹も訓練用ナイフを持った。
「始める」
相良が柱の死角へ入った。
半歩だった。
それだけで足音も衣服の擦れる音も消える。
直樹は赤い線へ向かう。
相良は正面へ戻らない。
右後方から刃が脇腹へ走った。
直樹は前腕で外へ流す。
相良の肩が胸へ入り、ナイフを持つ腕が畳まれた。
背後へ回る。
肘を固定し、床へ伏せさせるための形だった。
直樹と相良が自衛官だった頃、繰り返した手順。
崩す。
倒す。
腕を取る。
拘束する。
直樹の身体が傾いた。
相良が腕を固めようとした瞬間、直樹はナイフを離した。
樹脂の刃が床を滑る。
空いた右手の掌底が、相良の胸当ての前で止まった。
相良の上体が反応で起きる。
直樹は腕を抜き、赤い線へ進んだ。
相良が肩を入れて道を塞ぐ。
直樹の左肘が喉当ての手前へ来た。
相良が顎を引く。
支点になった前脚へ、直樹の低い蹴りが走った。
相良が足を引く。
人一人分の幅が開く。
直樹は相良を追わない。
開いた隙間を抜ける。
相良はナイフを持ったまま、直樹の背中へ手を伸ばした。
拘束する位置まで入ろうとする。
直樹の右腕はもう動く。
だが、動かなかった時間に覚えた判断だけは残っていた。
武器へ戻ろうとしない。
利き手へ頼らない。
進路を塞ぐものへ、その時使える最短の打撃を置く。
相良の手が肩へ触れる。
直樹は振り返らない。
後ろへ出した肘が、相良の胸当ての前で止まった。
相良の身体が一瞬止まる。
直樹の靴底が赤い線を越えた。
「終了」
ミーシャの声が響く。
相良は自分の手に残ったナイフを見る。
次に、床へ落ちた直樹の刃。
「ハヤイ」
「捨てるのが遅い」
直樹は床のナイフを拾った。
「それだけじゃない」
相良が直樹を見る。
「捕まえるところまで行こうとする」
直樹は赤い線を指した。
「今の俺は、通れればいい」
相良は返事をしない。
ナイフを床へ落とす。
拳を上げた。
「コイ」
*
二度目は徒手だった。
相良は開始と同時に姿を消した。
柱の裏へ入り、正面へ戻らない。
直樹の足音、肩の向き、赤い線までの距離を読む。
直樹が通る位置へ先回りし、背後から腕を抱えた。
膝裏を崩す。
直樹が片膝をつく。
潜伏。
追跡。
痕跡を拾い、進路の先へ回る技術は相良の方が上だった。
相良が腕を畳む。
拘束へ移ろうとする。
直樹の肘が後ろへ走り、相良の前腕で止められた。
次には、反対の拳が腹部防具の前へ来ている。
相良が横へ逃がす。
今度は膝。
膝を抑えれば肩が入る。
肩を止めれば、支点へ低い蹴りが来る。
相良が一つ塞ぐたび、直樹は別の打撃で幅を作った。
相良は直樹の背後を取れる。
直樹は、取られた場所からでも前へ進む。
最後に相良が再び直樹の腕を取った。
直樹は力で振りほどかない。
相良の手首を一瞬だけ胸へ引き寄せ、その反動で身体を入れ替えた。
直樹の肩が相良の胸当てへ触れる。
相良が半歩下がる。
道が開く。
直樹は赤い線を越えた。
「終了」
二人が離れた。
教育隊の八人は声を出さなかった。
相良は息を整えながらも、目だけで次の侵入路を探していた。
*
相良は壁際へ戻らなかった。
ミーシャの前へ立ち、記録板を指で下へ押した。
「何ですか」
相良はミーシャの右腕を指す。
自分の胸を叩く。
「ヤレ」
「私と?」
「コイ」
ミーシャは記録板を床へ置いた。
「開始します」
相良は正面から入った。
直樹へ向けた動きより遅い。
試している。
左手でミーシャの視線を上へ誘い、右手を腹へ伸ばす。
ミーシャは半歩外へ出た。
前腕を相良の腕へ重ね、肘を落とす。
足で位置を変える。
相良の身体がわずかに流れた。
相良はもう一度入る。
今度は速い。
拳。
掌。
足払い。
ミーシャは最初の拳を外した。
二つ目を前腕で受ける。
足を刈られ、片膝が床へ落ちた。
相良の手が肩へ伸びる。
ミーシャは倒れない。
片膝のまま身体を回し、相良の肘へ前腕を差し込んだ。
立ち上がる力で腕を外へ跳ねる。
防具の上から、直樹に何度も防御を崩された。
腕だけで止めるな。
足で位置を変えろ。
肘を浮かせるな。
痛みと一緒に覚えた動きだった。
相良の右腕が外へ逸れる。
ミーシャの左掌が、相良の顎の前で止まった。
相良はその手を見る。
肘。
肩。
後ろ足。
次に直樹を見る。
「マシバァ」
「ああ」
相良は直樹の拳を指す。
ミーシャの前腕を叩く。
「教えた」
相良は首を横へ振る。
直樹へ拳を向ける。
もう一度、ミーシャの腕を叩いた。
「殴られて覚えたと言いたいらしい」
「防具の上からです」
「同じだ」
「違います」
相良はミーシャの右手首を取った。
握りの角度を直す。
肘を指一本分だけ内側へ押す。
後ろ足を靴先でずらした。
相良が一歩離れ、構えろと手を動かす。
ミーシャが同じ姿勢を取る。
相良は肩を二度叩いた。
「ヨシ」
「受領しました」
相良は柱に掛けられたアフガンスカーフを取り、ミーシャへ投げる。
次に直樹を指した。
湯飲みを持つ仕草。
「チャ」
「報告より先に」
相良が頷いた。
*
ミーシャはスカーフを巻き直した。
給湯室へは向かわない。
積載袋から、黒い表紙の手帳を取り出した。
布で角を補強した、小さな日記帳だった。
背表紙の輪には短い鉛筆が差してある。
ミーシャは相良の前へ戻った。
「今回の礼です」
相良は手帳を見た。
受け取らない。
ミーシャは最初の頁を開いた。
三つの枠を並べる。
一本目。
二本目。
三本目。
三つ目から左へ戻る矢印。
矢印の先へ、若い直樹の横顔を簡単に描いた。
ミーシャは三本の指を立てる。
「三日」
現在の直樹を指す。
頁の若い顔を指す。
指先を矢印に沿って戻した。
「忘れます」
相良が頁へ顔を近づける。
ミーシャは楢ノ沢館を四角で描いた。
扉の横に三色の丸。
次にアフガンスカーフの形。
湯飲み。
拳。
「ここへ」
ミーシャは鉛筆を相良へ差し出した。
「文字でなくていいです」
相良は鉛筆を取った。
しばらく、何も描かない。
頁。
直樹。
ミーシャ。
部屋の扉。
順に見る。
やがて、最初の頁へ文字を書いた。
マシバ。
現在の直樹を指す。
文字の横へ、小さな四角を描く。
その左側へ矢印。
ミーシャが湯飲みを見る。
「左へ置く」
相良はミーシャの肩を一度叩いた。
次に、細長い布の形を描いた。
アフガンスカーフ。
その線から、マシバの文字へ矢印を引く。
相良はミーシャを指す。
直樹を指す。
もう一度、頁を指した。
ミーシャは何も言わなかった。
相良は彼女の肩を二度叩く。
さっきと同じ位置だった。
ミーシャは黒い日記帳を、相良の机へ置いた。
「保管してください」
相良は鉛筆を背表紙の輪へ戻した。
表紙を閉じる。
その上へ手のひらを置いた。
次に直樹を指す。
「ノメ」
「まだ言うのか」
ミーシャが傷のある水筒を直樹へ差し出した。
「適温です」
「お前まで相良に似てきたな」
「引き継ぎを受領しました」
相良はミーシャの背中を見送った。
それから直樹の肩を、一度だけ拳で叩いた。
さっきまでの打撃より、ずっと軽かった。
*
旧南第三では、昼食後の厨房に湯気が残っていた。
ハルは洗い終えた水筒を棚へ戻している。
めぐみは布巾で皿を拭いていた。
一枚。
二枚。
三枚目を拭き終えたあと、同じ皿へもう一度布巾を当てる。
「宮崎さん」
「うん」
「それ、もう乾いてます」
めぐみは手元を見る。
「本当だ」
「何かありました?」
「何も」
ハルは次の水筒へ布を通した。
「何もない人は、同じ皿を二回拭きません」
「健二さんみたい」
「最近、移ったかもしれません」
めぐみは皿を棚へ戻した。
「今朝、見た?」
「何をですか」
「ミーシャが作ってたもの」
「サンドイッチですか」
「二人分?」
「はい」
ハルは少し考える。
「真柴さんの方が大きかったです」
「そう」
「カラシも少なくしていました」
めぐみの手が止まる。
「なお、辛いの嫌いじゃないよ」
「嫌いとは言わないそうです」
「でも残すんだ」
「三回」
めぐみは小さく笑った。
「数えてるんだね」
「記録ではないそうです」
笑いは長く続かなかった。
窓の外へ目を向ける。
朝、門を出た二人は、まだ戻らない。
「任務なのは分かってる」
めぐみが言った。
「はい」
「でも、最近は一緒にいる時間が長いよね」
「長いです」
否定されなかったことが、少し痛かった。
「昨日ね」
めぐみは布巾を畳んだ。
「なおと同じ寝台で寝た」
ハルの手が止まる。
「抱きしめてもらったまま」
「うれしかったですか」
「うん」
めぐみは乾いた皿を見つめた。
「でも、朝になったら足りないと思った」
「抱きしめられるだけでは?」
「たぶん」
「もっと触れてほしい?」
遠慮した声だった。
けれど、問いは曖昧ではない。
めぐみの頬が熱くなる。
「女子同士でも、そこまで聞く?」
「嫌なら、やめます」
「聞いてから言うんだ」
「すみません」
「ううん」
めぐみは布巾を置いた。
「もっと触れてほしい」
言葉にすると、逃げ道が一つなくなった。
「私も、なおに触れたい」
ハルは頷いた。
「本人に言えそうですか」
「無理」
「困るとは思います」
「やっぱり」
「健二さんも困っていました」
「何を言ったの?」
「一緒に休みたいと」
「どうなった?」
「当直表を持ってきました」
「それだけ?」
「二人分、空けました」
めぐみは笑った。
「健二さんらしい」
「嫌なら、空けなかったと思います」
*
裏口が開いた。
冷たい空気のあとに、煙草の匂いが入る。
「煙、入ります」
ハルが言った。
「入らない位置にいる」
えりは扉の外へ立っていた。
右手に火のついた煙草。
左手には、角の潰れた携帯灰皿を持っている。
「えり」
「続けて」
「いつからいたの」
「当直表のところ」
「聞いてた?」
「元警察官に何を期待してるの」
ハルが扉を半分閉めた。
「煙草を消してください」
「今は嫌」
「子どもみたいですね」
「ハル、最近遠慮なくなったね」
「健二さんに移りました」
「悪い感染症」
めぐみが小さく笑った。
えりは携帯灰皿へ灰を落とす。
「ミーシャがいなくなれば、それでいい?」
「違う」
「じゃあ何が欲しいの」
めぐみは窓の外を見る。
「私が待ってる時間に、ミーシャはなおと一緒にいる」
「うん」
「後ろに乗って、仕事して、二人で食べてる」
「うん」
「私がいない時のなおを知ってる」
「それが嫌?」
「寂しい」
言い直すと、胸の中にあったものへ形がついた。
「また、待つだけになるのが嫌」
ハルが布巾を畳む。
「ミーシャさんを遠ざけなくても、宮崎さんの時間は作れます」
「私の?」
「二人の、です」
えりが煙草を指に挟んだ。
「朝まで二人でいたい?」
めぐみはすぐには答えなかった。
「そこだけ本人に言いな」
えりは煙を外へ吐く。
「先は二人で決める」
「学校で朝までいるのは?」
「無理です」
ハルが答えた。
「誰かが呼びます。食事、無線、子ども、燃料、見回り」
「子どもたちを置いていくの?」
「健二さんと私が受け取ります」
「何かあったら」
「連絡します」
「なおがいないと――」
「回らない場所にしてはいけません」
ハルの声は柔らかい。
だが、譲らなかった。
「真柴さんが帰る場所なら、真柴さんがいない夜にも残らないと」
えりが携帯端末を取り出した。
「湖の近くに、旧保養所を直した宿がある」
「もう調べるの?」
「空きだけ」
「予約はしないで」
「本人に言うのは、めぐ」
えりの指が画面を動く。
「断られたら?」
「理由を聞く」
「行きたくないって言われたら?」
えりの指が止まった。
「その時は、ちゃんと傷つけばいい」
めぐみは目を伏せた。
「でも、なおに選ばせないまま諦めるのは違う」
ハルが空の籠を持ち上げる。
「言わなければ、真柴さんは選べません」
「一晩」
めぐみが言った。
「何?」
えりが聞く。
「誰にも呼ばれないところで、なおと一晩いたい」
えりが画面を見る。
「二日後なら、一部屋空いてる」
「早い」
「空きだけ見た」
ハルが画面をのぞく。
「一部屋だけですね」
「二人とも急かさないで」
えりは端末を閉じた。
「帰ってきたら言いな」
*
二十一時を九分過ぎて、門の外に灯りが現れた。
低い排気音が近づいてくる。
直樹が運転し、ミーシャが後ろに乗っている。
門の手前で速度が落ちても、ミーシャの腕は直樹の腰へ回ったままだった。
めぐみは玄関前に立っていた。
朝と同じ光景だった。
今度は目をそらさなかった。
健二が門を開ける。
オートバイが校庭へ入った。
直樹がエンジンを切る。
ミーシャは腕を離し、後部座席から降りた。
「帰着、二十一時九分」
「道路確認で止まった」
「記録します」
ミーシャは積載袋から、空の水筒と畳んだ包装紙を取り出した。
二人分とも、何も残っていない。
「宮崎さん」
「おかえり、ミーシャ」
「戻りました」
首元には、アフガンスカーフが巻かれている。
ミーシャは直樹を見る。
「NAO。夕食を取ってください」
「分かった」
「朝も同じ返答でした」
「今から食べる」
「確認しました」
ミーシャは校舎へ入った。
直樹はヘルメットを外す。
「遅れた」
「九分」
「連絡できなかった」
「うん」
「心配したか」
「少し」
「悪かった」
直樹がオートバイの鍵を抜く。
「なお」
「何」
「相談がある」
「今聞く」
「ご飯のあとでいいよ」
「先に聞く」
めぐみは厨房の窓を見た。
カーテンは閉まっている。
「昨日のこと」
直樹の手が止まった。
「嫌だったか」
「逆」
めぐみは袖口をつまむ。
「朝になって、終わったのが少し寂しかった」
「起きたから離した」
「うん」
「離さない方がよかったか」
「昨日は、もう少しあのままでいたかった」
雨樋に残った水が、一滴だけ校庭へ落ちた。
「今夜か」
「今夜じゃなくていい」
「なら、いつだ」
「学校じゃないところに、一晩泊まりたい」
「二人で?」
「うん」
「話すためか」
「それもある」
「それでいいのか」
めぐみは直樹を見る。
「今は、決めたくない」
直樹は黙っている。
「行ってから、二人で決めたい」
「一人では決めたくないのか」
「うん」
直樹の視線が校舎へ移った。
門。
当直室。
食堂の明かり。
自分がいない夜にも、学校を残せる人間がいる。
「いつ」
「二日後なら、部屋が空いてるって」
「調べたのか」
「えりが」
直樹は目を閉じた。
「ハルさんも知ってる」
直樹が目を開ける。
「どこまで」
「昨日、抱きしめてもらったこと」
「ああ」
「朝になったら、もう少し一緒にいたかったこと」
直樹は黙った。
「なお?」
「えりに会いたくない」
めぐみが笑った。
直樹は笑わない。
「二日後」
「行ける?」
「大庭から追加がなければ」
「うん」
「訓練は外す」
「仕事を空けられるかじゃなくて」
めぐみは直樹を見る。
「なおが行きたいかを聞いてる」
直樹は答えるまで時間を置いた。
「行きたい」
めぐみの袖口をつまんでいた指がほどける。
「俺も、めぐみと朝までいたい」
「うん」
「その先は、その時に聞く」
「私も聞く」
「ああ」
直樹は鍵をポケットへ入れた。
「先に飯を食べる」
「行こう」
「めぐみは食べたか」
「食べたよ」
「なら、待たなくていい」
「一緒にいる」
直樹は断らなかった。
*
消灯前。
めぐみは自分の部屋の机へ、小さな旅行鞄を置いた。
一泊分の着替え。
洗面用具。
薬。
スケッチブック。
最後に、机の引き出しを開ける。
奥に白い布袋があった。
四年前、知らない指輪として渡された。
裏側の文字を見て、直樹のものだと知った。
NAO MEGUMI。
めぐみは布袋を手のひらへ載せた。
結び目には触れない。
旅行鞄の上まで運び、しばらく止まった。
返すためなのか。
着けてもらうためなのか。
まだ言葉にはできなかった。
それでも、布袋を鞄の底へ入れた。
今度は、遺品として持っていくのではなかった。




