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第186話 消された二文字

## 第186話 消された二文字


 大庭航平三等陸尉が連絡拠点へ戻った時、正門脇の時計は午後一時四十七分を指していた。


 帰着期限まで十三分。


 無標識の連絡車から降りると、湿った風が上着の裾を持ち上げた。学校を出た時より雲が低い。建物の窓には空の色が映らず、内側の白い照明だけが浮いていた。


 大庭は後部から濃緑色の鞄を下ろした。


 私物。


 衣類。


 帰隊命令と医療確認書。


 南第三から持ち帰った物は、それだけだった。


 装備は国境第三の保管庫にある。銃器も防弾装具も、学校の門を越えさせていない。


 受付へ通行記録を差し出す。


 担当隊員が時計と書類を交互に見た。


「十三分前ですね」


「余裕だろ」


「大庭三尉の十三分は、普通の人の三分です」


 受領印が紙へ落ちる。


「医療確認室へ」


「三人は」


「全員帰着しています。一名が再診中。二名は宿舎区画です」


「怪我は」


「詳細は医療担当から」


 受付の奥では、端末の着信音が短い間隔で続いていた。


 誰も走っていない。


 怒鳴り声もない。


 それでも、建物の中だけ空気が速く流れている。


 大庭は鞄の取っ手を握り直した。


「先に医療へ行く」


 担当隊員が顔を上げる。


「素直ですね」


「俺は命令に従う人間だから」


 相手は笑わなかった。


 大庭も、笑わせようとはしなかった。


     *


 医療確認室の照明は明るすぎた。


 床の細い傷も、洗面台の水滴も、隠れずに見える。


 体温。


 血圧。


 瞳孔。


 古傷。


 肩の可動域。


 大庭は上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。


 内ポケットに収めた写真と、折り目のついた紙が、布越しに小さく膨らんでいる。


「睡眠は」


 医療担当者が記録板へペンを当てた。


「取った」


「何時間ですか」


「三時間半」


 ペン先が止まる。


「それは睡眠不足です」


「個人差がある」


「海へ行ったそうですね」


「情報が早いな」


「帰着前の体調記録に書いてありました」


 健二の顔が浮かんだ。


 大庭は右腕を上げた。


 肩甲骨の奥で、古い筋が引っ掛かる。


「痛みは」


「ない」


「今、顔が動きました」


「愛想です」


「経過観察にします」


「そこまでじゃない」


 赤い印が記録欄へ押された。


「今夜の単独勤務は禁止」


「勝手に増やすなよ」


「休養指示です」


 大庭は赤い印を見た。


 紙の上では、自分はまだ使える人間ではなく、休ませるべき身体になっている。


「三人の方は」


「一名は右肩の再診中です。復帰許可は出していません」


「催促、来てる?」


 医療担当者は記録板へ目を落とした。


 答えなかった。


 大庭は椅子から立つ。


「出すなよ」


「何をですか」


「復帰許可」


「医療判断が先です」


「上から言われても?」


 医療担当者がペンを置いた。


「先です」


 大庭は上着を手に取った。


「分かった」


 その一言だけは、信用できた。


     *


 三人の部下は、同じ宿舎区画へ集められていた。


 一人は右腕を固定している。


 一人は頬に新しい裂傷がある。


 最後の一人は寝台へ横になったまま、天井を見ていた。


 大庭が入ると、三人とも身体を起こそうとした。


「そのまま」


 右腕の男が、途中まで上げた腰を戻す。


 大庭は入口で靴底を拭き、室内を見回した。


 空の水差し。


 開封されていない服薬袋。


 半分残った食事。


 椅子の背に掛けられた上着。


 整えられすぎた寝台。


 顔は笑える。


 腹が減っていなくても、食ったと言える。


 けれど、手をつけていない容器までは嘘をつかない。


「飯、止まってるぞ」


 頬に傷のある男が容器を見た。


「報告を先にと」


「食いながらでいい」


「口に入ってる時に質問しないでくださいよ」


「なら早く入れろ」


 大庭は壁際の椅子を引いた。


 右腕の男が箸を持ち直す。


 寝台の男も、枕を背へ入れて身体を起こした。


「学校はどうでした」


「海へ行った」


 三人の手が止まる。


「海?」


「大庭三尉が?」


「俺だって海くらい行く」


「公務ですか」


「遊び」


 一拍遅れて、頬に傷のある男が笑った。


「写真あります?」


「ない」


 上着の内側で、写真の角が胸へ当たった。


「帰着後の話をしろ」


 三人は互いを見た。


 誰から話すかではない。


 どこまで話してよいのかを測っている目だった。


「装備と身分の照合」


 右腕の男が言った。


「それから待機です」


「事情聴取は」


「まだです」


「呼び戻された理由は」


「説明なし」


 頬の傷の男が、今度は食事の蓋を完全に外した。


「情報室に人が増えてます」


「どっちの情報だ」


「北側です」


 大庭は椅子の背から身体を離した。


「何を見た」


「皇居周辺の地図を運んでました」


 寝台の男が続ける。


「宮内庁関係の表紙もありました。中身は見てません」


「ほかは」


「ないです」


 大庭は三人の顔を順に見た。


 嘘ではない。


 ただ、三人とも自分が見た物の意味をまだ言葉にしていない。


「医療の許可が出るまで、復帰書類は書くな」


「催促が来てます」


「俺へ回せ」


「大庭三尉も経過観察ですよ」


「口は動く」


「一番休まない人が言ってます」


「今から休憩する」


「どこで」


「情報室」


 右腕の男が、箸を止めた。


「それ、勤務です」


「俺の中では違う」


 今度は三人とも、少しだけ笑った。


 大庭はその顔を見てから部屋を出た。


     *


 情報室へ向かう途中、廊下の窓から車庫が見えた。


 南第三から戻った連絡車の側面に、乾きかけた泥の線が残っている。


 洗えば消える。


 健二の通行記録には残る。


 大庭は壁際の長椅子へ腰を下ろした。


 内ポケットから、蓮に渡された紙を出す。


 向こうへ着いてから見ろ。


 言われたとおり、ここまで開かなかった。


 小さく折られた紙を膝の上で広げる。


 色鉛筆で描かれた海。


 魚。


 四人。


 大庭は両手で魚を抱えている。


 直樹は海ではなく、絵の外側を向いている。


 めぐみは実物より大きな口で笑っていた。


 ミーシャの首には、身体より長い布が巻かれている。


 大庭はそこへ指を置いた。


「誰が描き足したんだよ」


 紙の端には、蓮の字があった。


 かえってこい。


 その下に、少し小さく、


 みやげも。


 大庭は声を出さずに笑った。


 海の写真を取り出す。


 紙の絵と並べた。


 写真の四人は、絵ほど笑ってはいない。


 それでも、誰も端から切れていなかった。


 大庭は蓮の紙を写真の上へ重ね、内ポケットへ戻した。


 端末を開く。


 帰着済み。


 三名の所在確認。


 医療確認中。


 紙も見た。


 土産は検討中。


 送信する。


 数秒後、受領表示が出た。


 同時に別の通知が画面を覆う。


 作戦保全区画。


 入室要求。


 大庭は立ち上がった。


 歩くたび、胸の紙が小さく当たった。


     *


 作戦保全区画は地下にあった。


 入口で端末を預ける。


 金属類を確認される。


 二枚目の扉が閉まると、外の音が消えた。


 室内には長机が一つ。


 窓はない。


 壁面表示も落とされている。


 久世真央一等陸尉が、机の奥に座っていた。


「帰着十三分前」


「間に合ってます」


「医療確認は」


「経過観察」


「だろうな」


 大庭は空いている椅子を引かなかった。


 机の上の封筒を見る。


 複製禁止。


 持ち出し禁止。


 日付の一部は黒く塗られていた。


「部下の復帰を急がせてるのは、ここですか」


「違う」


「誰です」


「今はこっちだ」


 久世が封筒から一枚の紙を出した。


 大庭の前へ滑らせる。


 皇居周辺の見取り図。


 仮設の演説台。


 報道区域。


 群衆の導線。


 警備配置。


 見出しには、


 人民とともに歩む新しい天皇。


 とあった。


 人物名は黒く消されている。


 性別欄だけが残っていた。


 女。


 大庭は椅子を引いた。


 座ってから、もう一度紙を見る。


「誰です」


「未確認」


「女性皇族なのは」


「北側の資料上は、ほぼ間違いない」


 大庭は見出しを指で押さえた。


「即位の発表資料?」


「準備案だ」


「ずいぶん早いですね」


「次を見ろ」


 二枚目が置かれる。


 皇位継承制度の改正草案。


 男系男子の規定が消されている。


 その下に、短い条文が続く。


 新たに即位した天皇の子を、皇族として登録しない。


 傍系への継承を認めない。


 次代の皇位継承者を置かない。


 当代に限り有効。


 空調の音だけが室内に残った。


 大庭は最後の一行を二度読んだ。


「一代限りか」


 返事はない。


 大庭は指で継承停止の条文を隠した。


 紙の上には、新しい天皇という見出しだけが残る。


「女性を立てたいんじゃないな」


 指を離す。


「この人で終わらせたいんだ」


 久世は肯定しなかった。


 次の紙を出した。


 皇統譜を含む身分記録の移管指示。


 移管先は、北側の人民史料管理局。


 原本の保存先は空欄だった。


「ここ、何で空いてるんです」


「確認中だ」


「移す先は決まってるのに、残す場所は決まってない?」


「そう読める」


 大庭は三枚を並べた。


 演説台。


 一代限りの継承制度。


 保存先のない身分記録。


 紙の端に押された日付は近かった。


「同じ時期に動いてる」


「ああ」


「偶然じゃないですね」


「そう見ている」


「北側は何て呼んでるんです」


 久世は封筒の中へ目を落とした。


「移行」


「何から何へ」


「次の紙だ」


 行政システムの移行表が置かれた。


 旅券。


 外交文書。


 国際通信コード。


 中央銀行印。


 国名表記。


 左側には、日本国。


 右側には、見慣れない仮称。


 その間に短い注意書きがあった。


 旧国号の併記期間は設けない。


 大庭の目が止まる。


 紙の端を持ち上げる。


 裏には何もない。


「これ、日本の後継を名乗る気もないのか」


 久世は答えなかった。


「天皇を一人立てる。次は作らない。名前を証明する紙は向こうへ持っていく」


 大庭は国名欄を見た。


「最後に、国の名前まで替える」


「現時点では、資料を並べた上での推測だ」


「でも、同じ方向を向いてる」


「ああ」


 大庭は椅子へ深く座らなかった。


 両肘を机へ置き、もう一度最初の紙を見る。


 新しい天皇。


 その言葉だけなら、始まりに見える。


 二枚目を重ねれば、一代で終わる。


 三枚目を重ねれば、後に残る証明も北側の手に入る。


 最後の紙を重ねれば、日本という名までなくなる。


「女性だから途切れるんじゃない」


 大庭の指が、当代に限り有効という行をなぞった。


「最初から、ここで途切れさせる気だ」


 久世が紙を一枚ずつ回収する。


「今、外へ出せる情報ではない」


「いつまで」


「全体が見えるまで」


「その前に発表されたら」


「発表だけでは動けない」


「記録がなくなったら?」


 久世の手が一瞬止まる。


「保存先を調べている」


「南第三には」


「流すな」


「真柴にも?」


「同じだ」


「本人だけ外へ呼べるでしょう」


「まだその段階じゃない」


 大庭は久世を見る。


「俺は読ませる段階なんですね」


「お前は北側の現場資料を読んだ経験がある」


「読んで、黙ってろと」


「そうだ」


 久世は資料を封筒へ戻した。


 大庭の内ポケットへ目を向ける。


「学校で余計な荷物が増えたか」


 大庭も自分の胸を見る。


「紙二枚です」


「重そうだな」


「命令書よりは」


 久世は封筒の口を閉じた。


「部下を休ませろ」


「言われなくても」


「お前もだ」


「それは医療から聞きました」


「なら従え」


「検討します」


「蓮という子どもと同じだな」


 大庭の目が上がる。


「何で知ってるんです」


「帰着報告に名前があった」


「見るところ、そこですか」


「お前が命令書と別に持って帰った物だからな」


 久世は封筒を立て、保管箱へ収めた。


「今日は終わりだ」


「全容は」


「後日だ」


 大庭は椅子から立った。


     *


 保全区画を出ると、廊下の照明が目に刺さった。


 預けていた端末が戻される。


 南第三から二件の返信が入っていた。


 健二からの業務連絡。


 帰着確認を受領。


 三名の医療判断を優先されたし。


 もう一件は蓮だった。


 みやげは魚じゃなくていい。


 大庭は壁へ背を預けた。


 遠くで扉が開く。


 紙箱を抱えた隊員が二人、廊下を横切った。箱の側面には管理番号だけがあり、中身の名前はない。


 返信画面を開く。


 帰着後の任務確認中。


 三名とも生存。


 詳細は後日。


 指が止まる。


 通常の帰着報告なら、それで終わる。


 大庭は一文を加えた。


 移動予定に変更があれば、早めに共有されたし。


 直樹なら、不要な文だと気づく。


 それ以上は書けない。


 送信する。


 受領表示が出た。


 大庭は内ポケットから蓮の紙を出した。


 かえってこい。


 五文字の下に、魚とも袋ともつかない土産の絵がある。


 紙を折り、写真の上へ戻す。


 北側の全容は、まだ見えていない。


 それでも、地下の机に置かれていた新しい国名の欄には、もう「日本」の二文字がなかった。


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