第185話 半分だけ
## 第185話 半分だけ
健二が燃料記録をハルの側へ押したあとも、二人は食堂に残っていた。
窓の外では、蓮と悠斗が古いボールを蹴っている。
蓮はボールを追いながら、一度だけ正門へ続く道路を振り返った。
大庭の車は、もう見えない。
ハルは燃料記録を自分の前へ引いた。
「受領印が戻ったら、走行距離と合わせます」
「そこまでせんでいいよ」
「どうしてですか」
「ハルの仕事じゃない」
「誰の仕事ですか」
「俺の」
「学校の仕事でしょう」
健二が顔を上げた。
ハルは数字の横へ、鉛筆で小さな印をつけている。
「全部を健二さんが持つ決まりがありますか」
「ないけど」
「では、私にもください」
「簡単に言うね」
「簡単ではありません」
ハルは翌日の予定表ではなく、その日の午後に届く物資の受領表を取った。
「分からないことが多いです」
「なら急がなくていい」
「分からないから、今聞きます」
健二は椅子の背へ身体を預けた。
「子どもたちのこともあるだろ」
「あります」
「校外活動の記録も」
「あります」
「学校の見回りも」
「守衛の人と分けています」
「全部やったら、ハルも寝なくなるよ」
「それは健二さんが言うことではありません」
健二は口を開いた。
閉じた。
「じゃあ、今日の受領だけ」
受領表を指す。
「保存食と日用品。箱の番号と個数を見て、伝票と違ったら俺を呼ぶ」
「違っていた場合、先に不足欄へ書いていいですか」
「まだ書かない」
「なぜですか」
「積み方が違うだけかもしれない。全部確認して、運転手にも見てもらってから」
「その後に不足として記録する」
「そう」
「担当者名も必要ですか」
「次に誰へ確認するか分からなくなるからね」
ハルは受領表の余白へ、小さく書き込んだ。
「勝手に受領印を押さないこと」
「印は健二さんが持っています」
「そうだけど」
「勝手には押せません」
「そういう意味じゃないよ」
「分かっています」
ハルは顔を上げた。
「受け取る前に、名前と数を確認する」
「そう」
「健二さんが、いつもやっていることです」
「見てた?」
「見ています」
ハルは受領表の宛名欄を指した。
「健二さんは、誰かが物を持ってくると、中身より先に名前を見ます」
「宛名が違ったら、別の人の物になるから」
「使える物でも?」
「駄目だよ」
「覚えました」
健二は少し黙った。
「兄ちゃんから聞いた?」
ハルが尋ねる。
「何を」
「名前を先に見ることです」
「違う」
健二は窓の外へ目を向けた。
「兄ちゃんは、名前を奪われる人を見てきた。俺は、書類の字が一つ違って、物が届かなくなるのを見てきただけ」
「だけではありません」
「そう?」
「食べ物も薬も、書類の名前へ届きます」
健二はハルを見る。
ハルは受領表へ視線を戻していた。
「保存食二箱。乾燥野菜一箱。衛生用品三箱」
「ハル」
「はい」
「無理に褒めなくていいよ」
ハルの指が止まった。
「褒めていません」
「じゃあ何」
「見たことを言っています」
健二は目を逸らした。
「兄ちゃんと同じ言い方するね」
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
「なら続けます」
「続けるんだ」
「はい」
*
午後の物資便は、予定より四十分早く到着した。
荷台の低い中型トラックが、正門の外側へ停まる。
守衛から連絡を受け、健二とハルが門へ向かった。
ハルは受領表と鉛筆。
健二は学校側の印箱と、前月の控えを持っている。
運転手が荷台を開けた。
「南第三共同生活校。保存食二、乾燥野菜一、衛生用品三、医療雑品一」
健二が伝票を見る。
「医療雑品は、うちじゃないですね」
「え?」
「宛名が旧川端共同診療所です」
運転手が伝票をのぞき込んだ。
「積み込みで混ざったか」
「こちらでは受け取れません」
「中身は消毒用品だぞ。学校でも使うだろ」
「診療所へ届かなければ、向こうが困ります」
「預かって、あとで回すのは?」
「転送の記録と、相手側の了承があれば」
「今から取ると時間がかかる」
「では、載せたままにしてください」
ハルは荷台の外から箱の番号を確認していた。
「健二さん」
「何?」
「衛生用品が二箱しかありません」
運転手が荷台を振り返る。
「三のはずだ」
「乾燥野菜の下に、小さい箱があります」
「それだろ」
「番号が違います」
ハルは受領表を見た。
「不足として書きますか」
「まだ」
健二が言った。
「全部を端へ出して、運転手さんにも一緒に見てもらう」
「分かりました」
箱が一つずつ荷台の端へ動かされた。
ハルが番号を読む。
健二が伝票と照合する。
衛生用品は二箱。
不足一箱。
代わりに、別の保護所へ送られる乳幼児用衣類が一箱混ざっていた。
「これは持ち帰る」
運転手が言った。
「不足分は次の便に乗れば届く」
「次はいつですか」
ハルが聞いた。
「分からないな」
ハルは健二を見る。
「不足欄へ書きますか」
「書いて。次便への優先積載も」
ハルが記入する。
「担当者名もお願いします」
運転手が健二を見る。
「そこまでいる?」
「次に確認するためです」
運転手は自分の名前を書いた。
健二が内容を読み直す。
「受け取ります」
印を押した。
ハルが保存食の箱へ手を掛ける。
「持てる?」
健二が聞いた。
「はい」
「重いよ」
「二人で持ちます」
ハルは箱の片側を持ったまま、健二を見た。
健二は反対側へ手を掛ける。
「そういう意味ね」
「ほかにありますか」
「ないよ」
二人は同時に箱を持ち上げた。
*
物資を倉庫へ入れ終えた頃、蓮が走ってきた。
「大庭さんから連絡来た?」
「まだ」
健二が答えた。
「もう着いてるだろ」
「道路の確認もあるからね」
「車で何時間?」
「今の道じゃ、はっきりしない」
「何で何でも分かんないんだよ」
「分からないから確認するんだよ」
蓮は倉庫の壁を蹴ろうとした。
「蓮」
ハルが名前を呼ぶ。
足が止まった。
「壁を壊すと、健二さんが直します」
「じゃあ、どこ蹴ればいいんだよ」
「外の古いタイヤなら壊れません」
「蹴っていいの?」
「人へ向けなければ」
蓮は倉庫の外に積まれた廃タイヤへ向かった。
一度強く蹴る。
タイヤが少し転がった。
もう一度蹴る。
健二は止めなかった。
「紙、何を書いたんだろうね」
健二が言う。
「聞いていません」
「ハルなら見せてもらえたんじゃない?」
「見せないと決めた物を、見せてもらう必要はありません」
蓮は三度目を蹴らず、タイヤへ座った。
ハルがそちらへ向かおうとする。
「俺が行くよ」
健二が言った。
「書類は?」
「今は蓮」
ハルは一度、健二を見る。
「では、倉庫を閉めます」
「ああ」
健二は蓮の隣へ向かった。
ハルは二人の背中を見たあと、倉庫へ戻る。
錠を掛ける前に、箱をもう一度数えた。
*
夕方、大庭から短い連絡が入った。
帰着済み。
部下三名の所在を確認。
医療確認中。
詳細は後刻。
健二が通信室で読み上げる。
美月は肩から力を抜いた。
悠斗は一度だけ頷いた。
蓮は通信機の前へ出る。
「紙は?」
「向こうで見るって言ってた」
「見たか聞いて」
「次の連絡でね」
「今聞けよ」
「医療確認中だよ」
「紙くらい見られるだろ」
「蓮」
ハルが呼ぶ。
蓮は口を閉じた。
「大庭さんは着きました」
「戻るとは書いてない」
「そこは、まだ分かりません」
「じゃあ安心できない」
「全部は無理です」
ハルは通信記録を指した。
「でも、着いたことは安心していいと思います」
蓮は画面を見る。
「戻るかは?」
「まだ分かりません」
ハルは否定しなかった。
蓮は唇を噛み、通信室を出た。
廊下の先では、悠斗が待っている。
二人は何も話さず歩いていった。
「追わなくていい?」
健二が聞く。
「今は悠斗がいます」
「見てたんだ」
「見ています」
「全部?」
「全部は無理です」
ハルは健二を見る。
「だから分けてください」
健二は通信記録を閉じた。
用紙の半分を、ハルの方へ向ける。
「大庭から次に来た連絡を、時刻順に書いて」
「判断は?」
「分からない時は呼んで」
「呼ばなくていいものは?」
健二は少し考えた。
「到着、出発、体調。事実だけなら記録していい」
「分かりました」
「勝手に返事はしないこと」
「返事が必要なら呼びます」
「そう」
ハルは用紙を受け取った。
*
夜になっても、健二は事務室に残っていた。
物資不足報告。
誤積載の記録。
大庭の帰着確認。
子どもたちの翌週予定。
机の上には、処理を待つ紙が何層にも重なっている。
ハルが湯の入ったカップを二つ持ってきた。
「一つでいいよ」
「私も飲みます」
向かい側へ座る。
健二は書類へ目を落としたまま、カップへ手を伸ばした。
「熱いですよ」
「分かってる」
一口飲む。
すぐ離した。
「熱い」
「言いました」
「飲めないよ」
「少し待ってください」
「待ってる間に書く」
健二がペンを持つ。
ハルは書類の端を押さえた。
「何?」
「大庭さんの話をする約束です」
「覚えてた?」
「健二さんが言いました」
「今する?」
「嫌なら帰ります」
「嫌じゃない」
健二はペンを置いた。
「大庭が行って、不安?」
「はい」
「何が一番嫌?」
ハルはカップの湯気を見る。
「戻るか分からないことです」
「大庭は、戻るって言わなかったね」
「正しいと思います」
「うん」
「でも、正しいから平気になるわけではありません」
健二は待った。
「旧第七にいた頃、戻ると言って外へ出た人が何人もいました」
「知ってる人?」
「名前を知っている人も、知らない人もいました」
「戻らなかった?」
「戻った人もいます」
ハルはカップを握った。
「戻らなかった人もいます」
「何があったかは?」
「分かりません」
「それが嫌なんだ」
「はい」
ハルの声は変わらない。
指だけが、カップを強く持っている。
「大庭さんには、戻ると言ってほしかったです」
少し間を置いた。
「でも、嘘は嫌でした」
「どっちでも嫌なものは残るね」
「はい」
健二はカップへ手を伸ばした。
今度は少し冷めていた。
「ハルは、いつも子どもたちの話を先にするよね」
「そうですか」
「今はハルの話を聞いてる」
ハルが顔を上げる。
「大庭が戻らなかったら、子どもたちが困るじゃなくて、ハルが嫌なんだろ」
返事はすぐには来なかった。
「はい」
「最初から、そう言っていいよ」
「健二さんに言って、何か変わりますか」
「変えられない」
「では、なぜ言うのですか」
「一人で考えなくていいだろ」
ハルは健二を見た。
「健二さんには?」
「何が」
「大庭さんが戻らなかったら」
健二は口を開きかけた。
閉じる。
「困る」
「仕事がですか」
「それもある」
「ほかは?」
健二は椅子へ深く座った。
「分からない」
「分からないんですね」
「今はね」
「愛想はあるのに?」
「兄ちゃんよりはあるよ」
「今はありません」
健二は少し笑った。
ハルの口元も、わずかに動く。
「戻ってほしいよ」
健二が言った。
「大庭に」
「はい」
「それ以上は、まだ分からない」
「今は、それでいいです」
ハルはカップを持ち直した。
*
夜が深くなると、校舎の物音が減った。
子どもたちは眠っている。
守衛室から定時確認の無線が入った。
異常なし。
健二が返答し、記録へ時刻を書く。
ハルは向かい側で、不足報告の控えをまとめていた。
「その紙、明日でいいよ」
「もう終わります」
「眠くない?」
「少し」
「部屋に戻っていい」
「健二さんは?」
「これだけ終わったら」
ハルが書類を見る。
「何枚ありますか」
「三枚」
「さっきも三枚でした」
「別の三枚」
「終わりません」
「終わらせるよ」
健二はペンを動かした。
数行書く。
止まる。
再び動かす。
ハルは何も言わず、自分の作業を続けた。
しばらくして、ペンが机へ落ちた。
健二は椅子へ座ったまま、腕に額を乗せている。
「健二さん」
返事はない。
ハルは立ち上がった。
机の脇に畳まれていた薄い毛布を取る。
健二の肩へ掛けようとした。
手首をつかまれた。
健二の目が開く。
焦点が合うまで、少し時間がかかった。
「ハル?」
「はい」
健二は、自分の手を見る。
ハルの手首を握っている。
「ごめん」
指を緩める。
すぐには手が離れなかった。
ハルも引かなかった。
健二がようやく手を離す。
ハルの手首に、薄い指の跡が残った。
「痛かった?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
ハルは何事もなかったように、毛布を健二の肩へ掛けた。
「部屋へ戻って寝てください」
「書類が」
「急ぐものと、明日でよいものに分けます」
「判断がいるのは?」
「分からなければ残します」
「ハルも眠いだろ」
「一緒に戻ります」
「どこまで?」
「廊下の分かれ道までです」
健二は毛布を外そうとした。
ハルが端を押さえる。
「そのままで」
「歩きにくい」
「倒れるよりいいです」
「倒れないよ」
「いなくならないと言いました」
健二の手が止まる。
「覚えてるね」
「健二さんが忘れすぎです」
ハルは机の書類を二つに分けた。
明日でよいもの。
朝一番で見るもの。
急ぐ方には、一枚だけ残った。
「これは朝に確認してください」
「ハルが分けた?」
「はい」
「間違ってたら?」
「直してください」
「合ってたら?」
ハルは一枚の紙を机の中央へ置いた。
「次も渡してください」
健二はその紙を見る。
「全部は無理だけど」
「全部はいりません」
「分かった」
健二は肩の毛布を押さえた。
事務室の灯りを消す。
二人で廊下へ出た。
それぞれの部屋へ向かう道は、途中で左右に分かれる。
分かれ道まで来ても、健二はすぐに自室の方へ向かなかった。
「ハル」
「はい」
「さっき、すぐ離せなかった」
ハルは健二を見る。
「はい」
「ごめん」
「嫌ではありませんでした」
暖房設備が廊下の奥で低く鳴った。
「でも、次は先に名前を呼んでください」
「寝てる時?」
「起きている時も」
「分かった」
健二が自室の方向へ身体を向ける。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
数歩進んだところで、ハルが呼んだ。
「健二さん」
健二が振り返る。
ハルは明日の受領表を胸の前で持っていた。
「これは私が持ちます」
「分かった」
「あとで取り返さないでください」
「取り返さないよ」
ハルは頷いた。
受領表を抱えたまま、自分の部屋へ戻っていった。




