↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
183/293

第183話 渡されたもの

## 第183話 渡されたもの


 廊下の向こうで、戸が閉まった。


 ミーシャは目を開けた。


 暗い天井。


 肩から足元までを包む重い外套。


 頬に当たっている、硬い縫い目。


 自分の部屋ではなかった。


 直樹の寝台だった。


 胸元には、アフガンスカーフを抱えている。


 眠るつもりはなかった。


 少しだけ外套を借り、気持ちが静まれば戻るつもりだった。


 窓の外は、まだ夜の色を残している。


 早番の職員らしい足音が、廊下を遠ざかっていった。


 ミーシャは身体を起こした。


 端末を持ってきていないため、時刻は分からない。


 直樹がいつ戻るのかも分からなかった。


 めぐみの部屋で朝まで眠ると言ったかもしれない。


 すでに起きているかもしれない。


 ミーシャは外套を脱いだ。


 昨夜、どのように置かれていたかを思い出す。


 寝台の端。


 襟は上。


 片方の袖が垂れていた。


 その程度しか残っていない。


 外套を置き直す。


 袖をそろえたあと、そろえすぎた気がして一本だけ外へ垂らす。


 アフガンスカーフには、自分が抱いていた折り目がついていた。


 一度広げる。


 端を内側へ畳む。


 違う気がした。


 再び開き、擦り切れた側を外へ出す。


 どちらが正しいのか分からない。


 寝台の足元にも、自分の身体の跡が残っている。


 掌で布を伸ばした。


 髪が落ちていないか探す。


 一本だけ、黒くない髪を見つけた。


 指先でつまみ、自分の上着のポケットへ入れる。


 ミーシャは室内を見回した。


 棚のヘルメット。


 鍵の掛かった装備箱。


 寝台の外套。


 枕元のスカーフ。


 誰も見ていない。


 それでも、部屋中の物に、自分がここにいたことを知られているような気がした。


 ミーシャは扉を細く開けた。


 南第三の居室には、火災や急病時に職員が入れるよう、廊下側から掛ける完全な錠はない。


 重要物は室内の保管箱へ入れる。


 だから、入れた。


 入ってよいという意味ではなかった。


 廊下に人影はない。


 ミーシャは音を立てずに部屋を出た。


     *


 めぐみが目を覚ますと、直樹の手はまだ腰にあった。


 寝間着の裾の内側。


 掌が素肌へ触れたまま、動いていない。


 直樹は目を閉じている。


 呼吸は深かった。


 めぐみは昨夜の自分を思い出した。


 触っていたいと言った。


 自分で直樹の手を取り、腰へ置いた。


 朝までいてほしいと頼んだ。


 直樹は拒まなかった。


 それ以上を求めてもこなかった。


 めぐみが手首へ触れると、直樹の指が動いた。


「起きたか」


「起こした?」


「いや」


 直樹が目を開ける。


 窓の外は、ようやく青み始めていた。


「昨日、困った?」


 めぐみが聞く。


「何が」


「私が、あんなふうになったこと」


「困ってない」


「重くなかった?」


「身体は軽い」


「そっちじゃないよ」


 めぐみは直樹の手を寝間着の外へ出した。


 離さず、そのまま両手で包む。


「気持ちの話」


 直樹は少し黙った。


「言ってくれた方が分かる」


「嫌なことも?」


「ああ」


「寂しい時も?」


「ああ」


「なおは言わないでしょう」


「何を」


「寂しいとか、いてほしいとか」


 直樹は天井を見る。


「分からない時がある」


「何が?」


「寂しいかどうか」


「どうしたら分かるの」


 直樹は答えなかった。


 めぐみが待つ。


 しばらくして、直樹が顔を向けた。


「帰る場所を考える」


「どこを?」


 直樹は、めぐみを見た。


 言葉はなかった。


 めぐみは直樹の胸へ額を寄せた。


「もう少しだけ」


「ああ」


 朝の校内放送が入るまで、二人はそのままでいた。


     *


 ミーシャは自室の鏡を見ていた。


 頬に、細い赤い線が残っている。


 アフガンスカーフの補修部分が当たった跡だった。


 冷水で顔を洗う。


 もう一度見る。


 薄くなったが、消えてはいない。


 襟を高くする。


 直樹が室内の変化へ気づく可能性を考えた。


 布の向きが違うだけでも気づくかもしれない。


 外套に自分の匂いが移っているかもしれない。


 スカーフに頬の熱が残っていたかもしれない。


 もう冷えている。


 それでも、何も残っていないとは言い切れなかった。


 扉が叩かれた。


 ミーシャの肩が跳ねた。


「ミーシャさん。朝食です」


 職員の声だった。


「確認しました」


 返事が速くなった。


 足音が離れていく。


 ミーシャは鏡の中の自分を見る。


 襟をもう少し上げた。


     *


 直樹が自室へ戻った時、室内に人はいなかった。


 扉を閉める。


 寝台の端に置いた外套を手に取った。


 袖の位置が昨夜と違う気もした。


 どのように置いたかまでは覚えていない。


 長く使っていないアフガンスカーフも、畳み方が少し崩れていた。


 直樹は不審とは考えなかった。


 自分で急いで置いた可能性の方が高かった。


 スカーフを広げる。


 端は擦り切れている。


 何度も補修してきた布だが、厚みはまだ残っている。


 昨夜、高台でミーシャが外套の襟を顎まで引き上げていた。


 学校へ戻ってヘルメットを外した時も、耳が赤くなっていた。


 直樹は補修部分を指で押した。


 糸はほどけていない。


 防寒具としては使える。


 自分が再び使う予定はなかった。


 スカーフを腕へ掛け、部屋を出た。


     *


 朝食後、ミーシャは車庫にいた。


 昨夜使った二つの金属カップを布で拭いている。


 一つを重ねる。


 向きをそろえる。


 もう一度外して、内側に水滴がないことを確かめる。


「ミーシャ」


 背後から名前を呼ばれた。


 手が止まった。


 直樹が車庫へ入ってくる。


 右手に、アフガンスカーフを持っていた。


 ミーシャの背筋が固まる。


 畳み方を間違えた。


 使用したことに気づかれた。


 外套も調べられた。


 直樹はもう、自分が部屋へ入ったことを知っている。


 直樹はミーシャの前で止まった。


「寒いだろ」


「何がですか」


「首だ」


 ミーシャはスカーフを見る。


「これは」


「使え」


「なぜ、それを持ってきたのですか」


「昨夜、冷えてた」


「昨夜」


 声がわずかに掠れた。


 直樹はミーシャが寒がっていると受け取ったらしい。


 スカーフを広げる。


「動くな」


 ミーシャは動けなかった。


 直樹が布を首の後ろへ回す。


 一方を短く。


 もう一方を胸元へ垂らす。


 昨夜、頬へ押し当てた部分が、再び肌へ触れた。


「NAO」


「きついか」


「違います」


「なら顎を上げろ」


 ミーシャは従った。


 直樹が長い方を折り返し、外套の襟の中へ入れる。


 指が首元へ触れた。


 ミーシャの肩が揺れる。


「冷たいか」


「違います」


「さっきから違うしか言ってない」


「状況を確認しています」


「何の」


「あなたが、これを私へ渡す理由です」


「防寒だ」


「それだけですか」


 直樹はミーシャを見る。


「ほかに何がある」


 ミーシャは答えられなかった。


 昨夜使ったことを知っているのか。


 黙って許したのか。


 本当に何も知らないのか。


 直樹の顔からは判断できない。


「これは、あなたが使っていたものです」


「ああ」


「長く?」


「長い」


「大切ではありませんか」


「使わない方がもったいない」


「私でいいのですか」


「ミーシャが寒そうだった」


 直樹は布の端をもう一度、襟の内側へ押し込んだ。


「長い方を外へ出すな。車輪に巻き込む」


「はい」


「匂いが気になるなら洗え」


「気になりません」


 返事が速かった。


 直樹の眉がわずかに動く。


 ミーシャは続けた。


「洗浄の必要はありません」


「そうか」


 直樹はそれ以上聞かなかった。


 バイクの前へ回り、タイヤの状態を見始める。


 ミーシャは首元へ手を置いた。


 布には、昨夜と同じ乾いた匂いが残っている。


 今度は勝手に触れているのではない。


 直樹が使えと言った。


 本人の手で巻いた。


 その事実が、胸の奥へゆっくり広がっていく。


「マッシー」


 車庫の入口から、大庭の声がした。


 直樹が顔を上げる。


 大庭は端末を片手に立っていた。


 その視線が、ミーシャの首元へ止まる。


「それ、まだ持ってたのか」


「使える」


「かなり前から持ってたやつだろ」


「ああ」


 大庭はミーシャを見る。


 直樹が誰かへ自分の古い私物を渡すことは少ない。


 そのうえ、自分の手で巻いている。


 大庭は何も指摘しなかった。


「似合ってる」


「ありがとうございます」


 ミーシャが答える。


 大庭は笑わなかった。


 端末の画面へ目を落とす。


「来た」


 直樹の手が、タイヤから離れる。


「正式か」


「ああ」


 大庭は端末を差し出した。


 画面の上部に、正式帰隊命令と表示されている。


 所属部隊への帰着期限。


 本日午後二時。


 携行装備と記録媒体の確認。


 部下の状態報告。


 帰隊後、直ちに待機。


「昼前に出る」


 大庭が言った。


「早いな」


「昨日、海へ行っといてよかった」


 直樹は端末を返す。


「送る」


「いらねえ」


「本部までじゃない」


「門までなら、勝手にしろ」


 大庭は端末をポケットへ入れた。


 その時、めぐみが車庫へ入ってきた。


「大庭さん、健二さんが呼んでます」


「車両の話?」


「たぶん」


「すぐ行きます」


 めぐみの視線が、ミーシャの首元へ移った。


 足が一度止まる。


「それ」


 ミーシャの指が、布をつかんだ。


「直樹から受領しました」


「もらったんだ」


「はい」


 めぐみは近くまで来た。


「前に、なおが持ってるのを見たことがある」


「いつですか」


「荷物を整理した時」


 ミーシャは直樹を見る。


「なぜ渡したのかは聞きました」


「防寒だ」


 直樹が答える。


「ミーシャ、寒そうだった?」


「耳が赤かった」


 めぐみはミーシャの耳を見る。


 今も赤い。


 理由は昨夜とは違っていた。


「触っていい?」


 ミーシャが目を上げる。


「はい」


 めぐみはアフガンスカーフの端へ触れた。


 補修された縫い目の上で、指が一度止まる。


 それから、直樹が襟へ入れた布を平らに整えた。


「似合ってる」


「大庭も同じことを言いました」


「じゃあ、本当に似合ってるんだね」


 めぐみは手を離した。


「なお」


「何だ」


「今度、誰かに物をあげる時は、使うか先に聞いて」


 直樹はミーシャを見る。


「使うか聞いた方がよかったか」


「私は使用します」


 ミーシャが即座に答える。


「なら問題ない」


 めぐみは直樹を見たまま、小さく息を吐いた。


「大庭さん、健二さんが待ってます」


「ああ」


 大庭は車庫を出る前に、ミーシャのスカーフをもう一度見た。


 直樹からミーシャへ渡された古い布。


 自分の端末へ届いた新しい命令。


 どちらも、受け取った後の方が重かった。


 大庭はポケットの上から端末を押さえ、そのまま校舎へ向かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。