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第182話 今日はやめる 改正版

## 第182話 今日はやめる


 南第三共同生活校の灯りが、山道の後ろへ消えていった。


 ミーシャは直樹の腰へ腕を回している。


 昼間、海岸でめぐみに告げた言葉が、まだ自分の中に残っていた。


 私は、NAOが好きです。


 口にしたことで、気持ちが整理されたわけではなかった。


 直樹がめぐみのところへ帰ることも知っている。


 めぐみがその場所を譲らないことも知っている。


 それでも、直樹の後ろへ座り、身体の動きに合わせて夜道を進む時間を失いたくなかった。


 バイクが右へ傾く。


 ミーシャも同じ角度へ身体を預けた。


 直樹の外套からは、夜気に混じって薄く潮の匂いがした。海から戻ったばかりの服だった。


 学校を出た時には雲に覆われていた空が、山へ入る頃には少しずつ開いていた。


 月はまだ見えない。


 直樹は速度を落とさなかった。


 ミーシャも、今夜は止まってほしいとは言わなかった。


     *


 富士川の療養施設へ着いたのは、午後十時三十六分だった。


 入口の上に、青い認証灯が点いている。


 直樹が身分証を出した。


 夜勤の看護師は記録板を確認し、二人を中へ通した。


「相良さんは起きています」


「状態は」


「昨夜の出来事が一部残っています。ただし、順番が崩れています」


「何を覚えてる」


「真柴さんが戻ってきたこと。海という言葉。宮崎さんの名前」


 看護師はミーシャへ視線を移した。


「女性がもう一人いたことも覚えています。顔と名前はつながっていません」


「今夜の確認は」


「改めて行います。昨夜の同意は使いません」


「ああ」


 ミーシャが来訪記録へ署名した。


 昨夜と同じ欄。


 同じ筆跡。


 紙の上では続いて見えても、相良にとっては、同じ夜の続きとは限らない。


「写真を使う場合は注意してください」


 看護師が言った。


「自分が海へ行ったと思い込む時があります。本人の記憶ではないことを、先に説明してください」


「分かった」


 二人は廊下の奥へ進んだ。


     *


 相良は訓練室ではなく、小さな面談室にいた。


 壁に日付。


 机に水差しとカップ。


 窓は指二本分だけ開けられている。


 相良は椅子に座り、暗い外を見ていた。


 直樹が入る。


 相良の目が動いた。


「マシバァ」


「ああ」


「ウミハ」


「今日、行ってきた」


 直樹は上着の内側から写真を出した。


「これは俺たちが今日撮った写真だ。相良は行ってない」


 机の中央へ置く。


 一枚目の写真だった。


 風に髪を乱されためぐみ。


 片目を閉じた大庭。


 正面を見ているミーシャ。


 海の方を向いた直樹。


 相良は、しばらく写真を見ていた。


 めぐみを指す。


「ミヤザキ」


「そうだ」


「イッショ?」


「ああ」


 次に大庭を見る。


「オオバ」


「そうだ」


 指がミーシャの上で止まった。


「コノヒト」


「ミーシャだ。俺と一緒に来た」


 相良が顔を上げた。


 ミーシャは一歩前へ出る。


「ミーシャ・アレクセーエヴナ・サボリナです」


 相良は写真と目の前の彼女を見比べた。


「キノウモ?」


「はい」


 ミーシャは一度だけ言葉を止めた。


「ただし、あなたが覚えていなくても問題ありません」


 相良の目を見た。


「初めまして」


 昨夜より、自然に言えた。


 忘れられたことが平気になったわけではない。


 その痛みを、相良へ返さない方法を覚え始めていた。


 相良は小さく頷き、写真へ視線を戻した。


「ウミヘ‥‥イッタ?」


「はい」


「タノ‥‥シカッタ?」


 ミーシャは直樹を見なかった。


「楽しかったです」


 相良が直樹へ顔を向ける。


「マシ‥‥バァモ?」


 直樹は写真の外側を見た。


「ああ」


「ナニシタ」


「魚を食った。歩いた。風呂に入った」


「クンレン」


「してない」


 相良の口元が少し緩んだ。


「アソベタ?」


 直樹は答えなかった。


 相良が写真の中の直樹を指す。


「ウミ‥‥ミテナイ」


「見てる」


「ソトダ」


「そこに海があった」


 相良が小さく笑った。


「カワ‥‥ラナイ」


 いつの直樹へ言ったのかは分からなかった。


 直樹は訂正しなかった。


 相良の手が、胸元へ移った。


 服の下にある刺創痕を確かめる。


 直樹は机の前へ立った。


「その傷は、俺が刺した」


 相良の笑いが消えた。


「相良が俺を止めた。俺が刺した。相良は生き残った」


 相良は写真から目を離した。


「昨夜も話したとは言わない。今の相良には、今夜初めて聞く話だ」


 看護師が相良の横へ椅子を寄せる。


「今の説明は理解できますか」


 相良は胸に手を置いたまま、長く黙った。


 やがて頷いた。


「今夜、真柴さんと訓練をするか、今日はやめるかを選べます」


 看護師が二枚のカードを机へ置いた。


 続ける。


 今日はやめる。


「どちらを選んでも、次回の扱いは変わりません」


 直樹は扉へ向かった。


「外にいる」


 相良の視線が、直樹の背中を追う。


 扉が閉まる前に、看護師がミーシャを見た。


「ミーシャさんも外へ出ますか」


 相良が先に手を上げた。


 ミーシャを指し、掌を下へ向ける。


「私が残ってもいいですか」


 相良が頷く。


 直樹だけが退室した。


     *


 相良は二枚のカードを見ていた。


 右手が「続ける」へ近づく。


 指先が止まった。


 胸元へ戻る。


 ミーシャは壁際の椅子に座り、待った。


「キノウハ」


 相良が声を出した。


 看護師が答える。


「昨夜の記録はあります。ただし、先に見せることはしません」


「ナゼ」


「昨夜のあなたに、今夜のあなたが従わなくていいようにです」


 相良は写真を見る。


「マシバァ」


 ミーシャが顔を上げる。


「アシタ‥‥クルカ」


「必要なら来ます」


 ミーシャが答えた。


「メイレイ?」


「違います」


「ヤクソク?」


「はい」


「オナジカ」


 ミーシャは少し考えた。


「命令なら、あなたの返事は必要ありません」


 相良がミーシャを見る。


「ヤクソク?」


「あなたが来るなと言えば、NAOは来ません」


 相良の目が、二枚のカードへ戻る。


 右手が動いた。


 今度は「今日はやめる」の上に置かれた。


「今日は訓練をやめますか」


 看護師が尋ねる。


 相良が頷く。


「何をしたいですか」


 相良は写真を指した。


「ハナス」


「誰と?」


「マシ‥‥バァト」


 少し間を置き、ミーシャへ目を向ける。


「コノ‥‥ヒトモ」


 看護師が時刻を記録した。


「分かりました。今日は訓練をしません」


 扉が開けられた。


 直樹が入る。


「相良さんは、今日はやめると決めました」


「分かった」


 直樹は持ってきた訓練札の箱を、開けずに壁際へ置いた。


 相良が箱を見る。


「オコ‥‥ラナイ?」


「何に」


「ヤメタ」


「相良が決めた」


「キノウハ」


 一度、カードを見る。


「ツヅケタ?」


「今夜はやめるで確認した」


 直樹は向かいの椅子へ座った。


 ミーシャも少し離れた場所に座る。


 三人の間に、すぐ言葉は生まれなかった。


 窓の隙間から冷たい風が入る。


 看護師が室温計を見て、窓を閉めた。


 相良は写真を手に取る。


 めぐみを指した。


「ミヤザキ」


「そうだ」


「イッショ‥‥ニイル」


「ああ」


 少しして、ミーシャを指す。


「コノヒト」


「ミーシャだ」


 相良はミーシャを見る。


「ナニスル」


 一度、写真を見る。


「ヒトダ」


 ミーシャは膝の上で指を組んだ。


 ロシア側連絡員。


 通訳。


 記録担当。


 随伴員。


 どれも間違ってはいない。


「今は、南第三で暮らしています」


 相良が写真を見る。


「ウミヘイク」


 ミーシャを見る。


「ヒトカ」


「はい」


「マシ‥‥バァト?」


「今日は四人で行きました」


「フタリデ?」


「バイクで一緒に来ます」


「ウシロカ」


「はい」


 相良が直樹を見る。


「ノセテル?」


「ああ」


「ミヤザキ」


 写真のめぐみを指す。


「シッテル?」


「知ってる」


「オコル」


「怒る時もある」


 相良が少し笑った。


 直樹は笑わなかった。


 ミーシャは昼間のめぐみの顔を思い出した。


 嫌な時はある。


 平気なふりもしない。


 相良はまた写真へ目を落とした。


「マシバァ」


「何だ」


「ウミハ」


 写真の外を指す。


「ヨカッタ?」


「ああ」


「マタ‥‥イクカ」


「行けるなら」


「オレモ?」


 直樹は看護師を見た。


 看護師は相良へ視線を戻した。


「身体と移動方法を確認する」


 直樹が答える。


「相良が行きたいかも聞く」


「イキタイ」


「今夜の相良はな」


 相良の表情が曇る。


「オレダ」


「ああ」


「ツギ‥‥モオレ」


「そうだ」


「ワス‥‥レテモ?」


「その時にも聞く」


 相良は写真を机へ置いた。


 手だけは、しばらくその上に残した。


     *


 面談が終わったのは、午前零時前だった。


 廊下へ出たところで、ミーシャが看護師を呼び止めた。


「質問があります」


「どうぞ」


「相良は、今日訓練をやめたことも忘れますか」


「可能性はあります」


「明日、続けると言えば、今日やめたことは取り消されますか」


「取り消されません。記録にも残ります」


 ミーシャは直樹を見る。


「記録があるからですか」


「違う」


 直樹が答えた。


「今夜、相良がやめた」


「本人が覚えていなくても?」


「ああ」


「忘れれば、本人には残りません」


「だから俺たちが覚える」


 直樹は出口へ向かった。


 ミーシャは閉じられた相良の部屋を一度見て、その後を追った。


     *


 施設を出て二十分ほど走ったところで、直樹が速度を落とした。


 バイクは往路とは違う高台へ入る。


 エンジンが止まった。


 ミーシャが腕を離す。


「異常ですか」


「違う」


 直樹は空を見た。


 雲が二つに分かれている。


 その間から、細い月が見えた。


 周囲に星が三つだけ浮かんでいる。


「見えました」


「ああ」


 直樹が後部収納を開けた。


 保温容器と二つの金属カップを取り出す。


「今日は準備していたのですか」


「昨日の残りじゃない」


「聞いていません」


「言いそうだった」


 コーヒーを二つに分ける。


 ミーシャは受け取ったカップへ口をつけた。


「苦いです」


「砂糖を入れるか」


「不要です」


 風が首元へ入り込む。


 ミーシャは空いた手で、外套の襟を顎の下まで引き上げた。


 直樹の目が一度、そこへ止まった。


「寒いか」


「走行中よりは」


「寒いんだな」


「少しです」


 直樹は自分の立つ位置を半歩ずらした。


 道路側から吹く風を、身体で遮る。


 ミーシャはそれを指摘しなかった。


「NAO」


「何だ」


「相良は、私を忘れていました」


「ああ」


「それでも、海へ行く人だと言いました」


「そうだな」


「私は、任務の人ではなくなっていますか」


「任務もある」


「それだけではない?」


 直樹はコーヒーを飲んだ。


「南第三で暮らしてる」


「私が言った言葉です」


「間違ってない」


 ミーシャはカップを両手で包む。


「私は、あなたの後ろで走る時間が好きです」


 直樹がミーシャを見る。


「そうか」


「それだけですか」


「何を言えばいい」


「分かりません」


「嫌なら乗せてない」


「相良に会わせる必要があるからでは?」


「それだけなら、毎回は乗せない」


 ミーシャの指が止まる。


「では、なぜですか」


「帰りに黙ってても問題がない」


「話さないから便利ですか」


「違う」


「何が違いますか」


 直樹は月から目を離した。


「落ち着いてる」


「誰が」


「俺が」


 ミーシャは直樹を見る。


 直樹は、それを特別な告白だとは考えていなかった。


 後ろにミーシャがいる。


 腕の力が一定である。


 呼吸が乱れていない。


 帰る方向が同じである。


 それだけで、周囲へ向けている意識の一部を下ろせる。


 健二や大庭といる時にも安心はする。


 だが、同じではないことに、直樹だけが気づいていなかった。


「確認しました」


 ミーシャが言った。


「何を」


「今は、これ以上聞かなくてよいことです」


 雲が動いた。


 月の輪郭が少しだけ広がった。


     *


 学校へ戻ったのは、午前零時四十六分だった。


 直樹はバイクを車庫へ入れた。


 ミーシャが後部座席から降り、ヘルメットを外す。


 冷えた耳が赤くなっていた。


「眠れるか」


 直樹が聞く。


「努力します」


「無理なら夜勤室へ行け」


「はい」


「一人で外へ出るな」


「了解しました」


 廊下の角で二人は別れた。


「おやすみ、NAO」


「ああ」


     *


 直樹は自室へ入った。


 南第三の個室は、火災や急病時に職員が入れるよう、廊下側から完全には施錠できない。


 重要物は、室内の鍵付き保管箱へ収める決まりだった。


 直樹は通信記録を閉じ、端末を認証休止状態へ入れる。


 装備箱へ収め、鍵を掛けた。


 ヘルメットを棚へ置く。


 バイクで着ていた外套を脱ぎ、寝台の端へ置いた。


 潮。


 燃料。


 コーヒー。


 冷えた夜道の匂いが布に残っている。


 枕元には、古いアフガンスカーフが畳まれていた。


 端は擦り切れ、何度も補修されている。


 直樹は着替えを済ませた。


 部屋を出る。


 めぐみの部屋の前で止まり、扉を軽く叩いた。


「めぐみ」


 中で布が動いた。


「……なお?」


「帰った」


「入って」


 直樹が扉を開ける。


 めぐみは寝台の上へ身体を起こしていた。


 枕元の小さな灯りだけが点いている。


「相良さんは?」


「今日は訓練をやめた」


「自分で決めたの?」


「ああ」


「なおは、何て言った?」


「分かったって言った」


 めぐみの肩から力が抜ける。


「そっか」


 直樹が椅子へ向かう。


「そこじゃない」


「どこだ」


「こっち」


 めぐみが掛け布を持ち上げた。


「もう部屋へ戻らなくていいよ」


「今夜は?」


「ここで寝て」


 直樹はめぐみを見る。


 めぐみは視線を逸らさなかった。


「嫌?」


「嫌じゃない」


「じゃあ、来て」


 直樹は上着を脱ぎ、灯りを消した。


 めぐみの隣へ入る。


 寝台がわずかに沈む。


 めぐみはすぐに身体を寄せた。


 普段より速かった。


 直樹の胸へ額をつけ、服の上から脇腹へ手を回す。


「めぐみ」


「少しだけ」


「何が」


「触っていたい」


 直樹は動かなかった。


「なおが、ここにいるって分かるまで」


「いる」


「分かってる」


 めぐみの指が、直樹の背中を確かめる。


「分かってても、今日は足りなかった」


 海岸で聞いたミーシャの声が、夜になっても残っていた。


 私は、NAOが好きです。


 相良のところへ行く直樹を止めるつもりはなかった。


 ミーシャをバイクから降ろせとも思わない。


 それでも、自分の知らない夜道で、別の女性が直樹の腰へ腕を回している。


 二人で月を見ている。


 直樹自身も、その時間を嫌がっていない。


 めぐみは直樹の胸へ唇を押し当てた。


 服越しだった。


 直樹の呼吸が一度止まる。


「嫌なら言って」


「嫌じゃない」


「本当に?」


「ああ」


 めぐみが顔を上げた。


 直樹の頬へ触れ、自分から唇を重ねる。


 短い口づけでは終わらなかった。


 直樹の首へ腕を回し、身体を近づける。


 直樹は急がなかった。


 めぐみが自分から距離を詰められるだけの間を残し、背中へ手を置く。


 めぐみが、その間を埋めた。


「なお」


「何だ」


「今夜は、私のところにいて」


「いる」


「朝まで」


「ああ」


 めぐみは直樹の手を取った。


 寝間着の裾の内側へ導く。


 直樹の掌が、腰の素肌へ触れた。


 めぐみの身体が小さく揺れる。


「ここでいい?」


 直樹が聞いた。


「うん」


「やめるなら言え」


「やめない」


 めぐみは再び唇を重ねた。


 直樹の手は、腰から動かなかった。


 めぐみが触れてほしい場所を、自分で選ぶまで待った。


 やがて、めぐみは直樹の胸へ顔を戻した。


「もう今日は終わり?」


「終わりだ」


「呼ばれても?」


「学校の緊急以外は行かない」


「そっか」


 服の裾を握っていた指から、少しずつ力が抜けた。


 直樹の掌は、めぐみの腰に置かれたままだった。


     *


 ミーシャは自室の寝台に横になっていた。


 灯りは消している。


 目だけが開いていた。


 相良の声。


 海の写真。


 高台で見えた細い月。


 直樹の言葉。


 それだけなら、毎回は乗せない。


 俺が落ち着いてる。


 何度並べ替えても、眠りにはつながらなかった。


 通信端末にも、アレクセイから新しい連絡はない。


 直樹は今夜、めぐみのところへ行った。


 分かっている。


 分かっていても、胸の内側にあるものは静まらなかった。


 校舎の足音が途絶えた後、ミーシャは起き上がった。


 上着を羽織る。


 武器も端末も持たず、廊下へ出る。


 直樹の部屋へ入るつもりはなかった。


 扉の前へ行くだけだった。


 中に気配があるか、確かめるだけだった。


 扉の下から光は漏れていない。


 呼吸も、衣擦れも聞こえない。


 直樹はいない。


 ミーシャは取っ手へ伸ばしかけた手を止めた。


 戻ろうとした。


 足は動かなかった。


 ゆっくり取っ手を下げる。


 扉が開いた。


 室内には誰もいない。


 棚にヘルメット。


 寝台の端に外套。


 充電器には、何もつながっていない。


 鍵付きの装備箱は閉じられている。


 ミーシャは扉を閉めた。


 外套の前に立つ。


 触れるつもりはなかった。


 手袋を外した。


 指先で布へ触れる。


 まだ完全には冷えていない。


 潮と燃料とコーヒーの匂い。


 夜道で、自分が腕を回していた身体の残り。


 枕元に、アフガンスカーフがあった。


 擦り切れた端。


 不揃いな補修の縫い目。


 ミーシャの知らない年月を通ってきた布だった。


 手に取る。


 顔へ近づける。


 外套より乾いた匂いがした。


 ミーシャは外套を肩へ掛け、寝台の足元へ腰を下ろした。


 少しだけ借りる。


 落ち着いたら、自分の部屋へ戻る。


 直樹が帰る前に、元の位置へ戻す。


 外套の前を合わせる。


 アフガンスカーフを胸へ抱いた。


 直樹は今、めぐみの隣にいる。


 自分がめぐみへ言った言葉も覚えている。


 私は、NAOが好きです。


 何も求めないとは、もう思えなかった。


 また後ろへ乗りたい。


 腕を回したい。


 月が見えたら止まってほしい。


 二つのカップへ、コーヒーを分けてほしい。


 ミーシャは靴を脱ぎ、寝台の足元側へ身体を横たえた。


 枕には触れない。


 外套の中へ膝を入れ、スカーフを頬へ寄せる。


 少し休んだら戻るつもりだった。


 補修された硬い縫い目を避けようと、顔をわずかに動かした。


 その途中で、ミーシャは眠った。


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