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第181話 四人分の海

## 第181話 四人分の海


 午前九時五十分。


 南第三共同生活校の正門前に、灰色の連絡車が止まっていた。


 大庭は運転席に座り、提出済みの運行申請書と時計を交互に見ている。


 助手席には道路地図。


 後部には救急箱、毛布、飲料水。


 健二から渡された紙袋も二つ積まれていた。


 直樹が車の前へ回る。


「確認は終わってる」


 大庭が窓を開けた。


「見てるだけだ」


「それを確認って言うんだよ」


 直樹はタイヤと車体の下を見た。


「問題ない」


「でしょうね。俺を誰だと思ってる」


「大庭」


「知ってるよ」


 校舎の玄関から、めぐみとミーシャが出てきた。


 めぐみは布製の鞄を一つ肩へ掛けている。


 ミーシャは暗色の上着に小型の鞄だけだった。


 装備品は持っていない。


 少なくとも、外から見える位置にはない。


 大庭が二人を見る。


「宮崎さん、体調は?」


「大丈夫です」


「ミーシャ、本日の任務は」


「海を見ることです」


「優秀。マッシーより話が早い」


「聞いてる」


 直樹が言った。


「聞いて理解してないから言ってんだよ」


 健二が玄関から出てきた。


 手には運行申請書の控えがある。


「午後五時までに戻ってください」


「五時一分は?」


「次回の私用車両申請を止めます」


「五時までに帰る」


「判断が早いですね」


 健二は後部座席の紙袋を指した。


「大きい方は子どもたちへの土産用です。帰るまで開けないでください」


「小さい方は?」


「渋滞か何かで昼食が遅れた時の軽食」


「遠足だな」


 大庭が言った。


「遊びで失敗したくないって言ったのは、大庭さんでしょう」


「失敗と空腹は別問題だろ」


「空腹で機嫌が悪くなる人が二人いるので」


 健二の視線が、直樹と大庭を順番に通る。


「俺はならない」


 直樹が言った。


「兄ちゃんは黙るから、余計に分かりにくい」


 健二はめぐみを見る。


「途中で兄ちゃんが仕事を始めたら、止めてください」


「止まるかな」


「ミーシャさんと二人なら」


「了解しました」


 ミーシャが答える。


 直樹は二人を見た。


「仕事はしない」


 大庭がエンジンをかけた。


「本人の供述は参考程度にしとけ。乗るぞ」


     *


 運転は大庭。


 助手席に直樹。


 後部座席に、めぐみとミーシャが並んだ。


 午前十時ちょうどに、車は正門を出た。


「予定を説明する」


 大庭が言う。


「一時間弱で海。昼飯。散歩。共同浴場。帰還」


「緊急時の集合地点は」


 ミーシャが尋ねる。


「早速それか」


「必要です」


「今日は遊びだぞ」


「遊びでも離れる可能性はあります」


 大庭がルームミラー越しに直樹を見る。


「お前が教えたの?」


「聞かれたから答えただけだ」


 直樹は前を向いたまま言う。


「食堂入口。そこへ戻れなければ、高い道路へ出る。海側へは下りない」


「確認しました」


「満足?」


 大庭が聞く。


「はい」


「よし。ここから先、仕事の話は禁止」


「帰隊予告も?」


 直樹が聞いた。


「それは最も禁止」


 大庭は古い音楽再生機を動かした。


 短い雑音のあと、弦楽器と低い歌声が流れ始める。


 直樹が音量調整へ手を伸ばした。


「触るな」


「大きい」


「昨日より寝てる。耳も正常だ」


「外の音が聞こえにくい」


「今日は索敵しない」


 ミーシャが言った。


「ほら。ミーシャはもう遊びを理解してる」


 直樹は音量を一段だけ下げた。


「触ってんじゃねえか」


「一段だ」


「細かい反抗すんな」


 山道を抜ける。


 畑が減り、住宅の屋根が低くなった。


 空の色が広がる。


 やがて、道路の先に青い帯が見えた。


 めぐみが助手席の背へ手を掛ける。


「なお」


 直樹が振り返る。


 めぐみは窓の外を指した。


「海」


 直樹は前方を見る。


 山の切れ間から、光を返す水面が広がっていた。


「見えてる」


「道路じゃなくて、海を見た?」


 直樹はもう一度、水面へ顔を向けた。


「ああ」


 めぐみは満足したように座り直した。


 隣のミーシャは、直樹の横顔を見ていた。


 海が見えても、直樹は最初に道路を見る。


 めぐみに言われた後で、もう一度海を見る。


 その順序が直樹らしいと、ミーシャは思った。


     *


 食堂は、旧県道から海側へ一本下りた場所にあった。


 低い木造の建物。


 軒下には古い網が干されている。


 入口の横には、文字が薄くなった営業札が掛かっていた。


 大庭が駐車場を見回す。


「混んでない。予定どおり」


「客が少ないだけでは」


 ミーシャが言った。


「計画成功って言わせろよ」


 店内には窓際に二組の客がいた。


 年配の店主が四人を見て、海の見える大きな卓を示した。


「四人なら、そこ使って」


 壁に品書きが並んでいる。


 焼き魚。


 煮魚。


 貝汁。


 刺身は入荷なしと、紙が貼られていた。


「焼き魚でいいだろ」


 大庭が言う。


 ミーシャは品書きを見上げたまま動かなかった。


「煮魚もあります」


「食いたい?」


「比較しています」


「食いたい方を選べ」


 ミーシャは少し考えた。


「煮魚にします」


「了解」


 直樹は焼き魚を指す。


「俺はこれでいい」


「それ、食いたいのか、早く決めただけなのか」


「食べたい」


「なら最初からそう言え」


 料理を待つ間、直樹は窓の外を通る漁船を見ていた。


 大庭が茶を飲みながら言う。


「何運んでるか考えるなよ」


「考えてない」


「船尾の沈み方見てただろ」


「見えたから見た」


 めぐみも窓の外を見る。


「きれいだね」


「ああ」


 直樹は答えた。


 大庭は茶を置く。


「俺が言うと反論するのに」


「言い方が違う」


「内容は同じだろ」


 料理が運ばれてきた。


 焼き魚と煮魚。


 根菜。


 麦飯。


 貝汁から湯気が上がっている。


 大庭は貝汁を一口飲み、黙った。


「どうですか」


 めぐみが尋ねる。


「七割成功」


「まだ昼ですよ」


「飯がうまけりゃ、遊びは大体成功する」


 ミーシャは煮魚を一口食べる。


「こちらを選んで正解でした」


「だろ。自分で選ぶと少しうまくなる」


「味は変わりません」


「そういう意味じゃねえよ」


 直樹は魚を食べながら、ミーシャを見る。


「食べたい方だったか」


「はい」


「ならいい」


 ミーシャは箸を止めた。


 直樹にとっては、それだけの確認だった。


 自分が何を選んだのか。


 その選択が本人のものだったのか。


 相良に対する時と同じように、直樹は結果より先にそこを見る。


 ミーシャは煮魚をもう一口食べた。


     *


 食後、四人は海岸沿いの歩道へ出た。


 風は強かったが、空は明るい。


 古い舗装には砂が薄く積もり、場所によって足元が傾いている。


 めぐみは急がず歩いた。


 ミーシャは、その歩幅に合わせる。


 少し先では、大庭が直樹の腕を引き、風で傾いた案内板の方へ連れていっていた。


「道路ばっか見んな。こっちだ」


「倒れそうだ」


「だから見に行くんだよ」


 二人が先へ進み、めぐみとミーシャは自然に後ろへ残った。


 波が消波ブロックへ当たる。


 白い飛沫が風に散った。


「昨日の月、きれいだった?」


 めぐみが尋ねた。


「はい」


「星も?」


「多く見えました」


「川沿い?」


「退避所です」


「私とも、前に止まったことがある」


 ミーシャは前を歩く直樹を見る。


「NAOは、同じ場所へ止まりますか」


「その時は別の場所だったよ」


「では、場所が基準ではない」


「空と、一緒にいる人じゃないかな」


「一緒にいる人?」


「考えすぎてる時に止まることが多いから」


 ミーシャの歩幅が少し変わった。


「分かって停止しているのでしょうか」


「なおに聞いても、休憩しただけって言うと思う」


「事実です」


「そういうところ、少し似てきたね」


「誰に」


「なおに」


 ミーシャは返さなかった。


 しばらく波の音だけが続いた。


「ミーシャ」


「はい」


「バイクで行くの、好き?」


 ミーシャはすぐに答えなかった。


 直樹の背中が前方にある。


 昨夜、自分の腕の中にあった腰。


 曲がるたびに同じ方向へ動いた身体。


 走行音の中では、言葉を探さなくても許される。


「好きです」


「なおと行くことが?」


「はい」


 ミーシャは海から目を逸らさなかった。


「NAOの後ろで、腕を回して走る時間が好きです」


 めぐみは黙って聞いている。


「なおが好きだから?」


 ミーシャの足が一度止まった。


 前を歩いていた直樹と大庭は、まだ気づいていない。


 大庭は案内板を押し戻そうとし、直樹がそれを止めていた。


「はい」


 ミーシャは答えた。


 弁明しなかった。


 任務上必要な接触だとも言わなかった。


「私は、NAOが好きです」


 めぐみが小さく息を吸った。


「そうなんだ」


「知っていたと思いました」


「思ってた。でも、聞くのは違うね」


「嫌ですか」


「嫌な時はあるよ」


 めぐみの声は柔らかいままだった。


「昨日、なおと二人で月を見たって聞いて、少し寂しかった」


「停止しない方がよかったですか」


「そういうことじゃない」


 めぐみは首を横へ振る。


「なおがミーシャを一人にしなかったことは、嫌じゃない」


「では、何が」


「私が知らないなおの時間が増えるのが、寂しい時がある」


 ミーシャは直樹の背中を見る。


「私は、その時間を失いたくありません」


「うん」


 めぐみはすぐに否定しなかった。


「私も、なおと暮らす場所を消したくない」


「消そうとはしていません」


「分かってる」


「でも、好きです」


「うん」


「止められません」


「私も止めてとは言わない」


 めぐみは少し考える。


「でも、平気なふりもしないよ」


「NAOに伝えますか」


「伝える」


「私が好きだと言ったことも?」


「それはミーシャが言うことだと思う」


 ミーシャは眉をわずかに寄せた。


「まだ言いません」


「どうして?」


「NAOは答えようとします」


「うん」


「今、答えを求めたいわけではありません」


 めぐみはミーシャを見る。


「それでも好きなんだ」


「はい」


 直樹が最終的に誰のところへ戻るか、ミーシャは分かっている。


 昨夜も、直樹は一時前に学校へ戻った。


 最初にめぐみへ「ただいま」と言った。


 その事実を知っても、気持ちは消えなかった。


 めぐみも、自分の場所を譲らなかった。


 二人は同じ男を見ていたが、同じ場所には立っていなかった。


「確認しました」


 ミーシャが言う。


「何を?」


「あなたが、平気ではないこと」


「それだけ?」


「自分の場所を消さないことも」


「覚えてて」


「覚えます」


 大庭が前方から振り返る。


「何話してるんですか」


「大庭さんには関係ない話です」


 めぐみが答えた。


「宮崎さん、今日ちょっと厳しくない?」


「気のせいです」


 大庭は直樹を見る。


「マッシー、お前のせいだぞ」


「聞いてない」


「聞いてないから面倒なんだろ」


     *


 海岸の先には、古い展望台があった。


 金属製の手すり。


 色の剥げた案内板。


 風で傾いた双眼鏡。


 大庭が小型カメラを取り出す。


「写真撮るぞ」


 直樹が止まった。


「俺はいらない」


「分かってる。だから撮る」


「三人で撮れ」


「俺も外すなよ」


 大庭は案内板の上へカメラを置いた。


 角度を調整する。


 めぐみが画面をのぞいた。


「大庭さんが、ほとんど入らない位置です」


「タイマー押してから走る」


「端しか写らないですよ」


「端でいいんです、俺は」


「四人で来たでしょう」


 大庭の手が止まった。


「写真くらい、撮る側でもいいだろ」


「駄目です」


「宮崎さん、意外と命令強いな」


「写真の話です」


 めぐみはカメラを少し左へ向けた。


「ここなら、全員入ります」


 大庭はタイマーを設定した。


「十秒。並べ」


 直樹が中央へ立つ。


 めぐみがその右側へ入る。


 ミーシャは左側に立った。


 大庭が走ってきて、ミーシャの隣へ滑り込む。


「もう少し中」


 めぐみが言う。


「手すりに当たる」


「当たりません」


「マッシー、詰めろ」


 直樹が半歩だけめぐみ側へ寄った。


 撮影音が鳴る。


 直後、風が強く吹いた。


 めぐみの髪が顔へ掛かる。


 大庭は片目を閉じている。


 直樹はカメラではなく海を見ていた。


 ミーシャだけが、正面を見たまま動かなかった。


 大庭が画面を確認する。


「全員ひどい」


「撮り直しが必要です」


 ミーシャが言った。


「一枚でいい」


 直樹は海を見たまま答える。


「記録として不十分です」


「四人とも写ってる」


「顔が適切ではありません」


 めぐみが画面を見る。


「私は好き」


「宮崎さん、優しいな」


「なおが海を見てるから」


「写真の意味がねえだろ」


「今日らしいよ」


 大庭はもう一度タイマーを設定した。


「次は全員、カメラ見ろ」


 二枚目では、四人とも正面を見た。


 笑っているのは、めぐみだけだった。


 大庭は少し口元を上げている。


 直樹は撮影が終わるのを待つ顔をしていた。


 ミーシャは無表情だったが、直樹の後ろには立っていない。


 画面には、四人の靴先まで入っていた。


 誰も端から切れていなかった。


     *


 共同浴場では男女に分かれた。


 大庭と直樹は先に湯から上がり、古い畳敷きの休憩室へ入った。


 大庭が冷えた水を一本、直樹へ投げる。


 直樹が受け取った。


「たぶん、明日には正式命令が来る」


 大庭が言う。


「帰隊か」


「ほかに俺を急いで呼ぶ理由があるなら、聞きたいね」


「部下は」


「休ませた。三宅と沢村は医官の確認待ち。片桐も勤務から外した」


「そうか」


 大庭は水を飲む。


「何だよ」


「何が」


「今、何か言おうとしただろ」


「戻れ」


 大庭の手が止まった。


「お前に言われたくねえ」


「部下が待ってる」


「知ってる」


「なら戻れ」


「今日は遊びの話だけじゃなかったのか」


「今は風呂上がりだ」


「規則の隙を突くなよ」


 直樹は水を飲んだ。


「今日は助かった」


「礼は現金で頼む」


「いくらだ」


「そこ即答すんなよ。少しは感謝を込めろ」


 大庭は空になった容器を卓へ置いた。


「写真、二枚とも残すからな」


「一枚でいい」


「俺が決める」


「一枚は誰に渡す」


「まだ決めてねえ」


 直樹はそれ以上聞かなかった。


 大庭も説明しなかった。


     *


 帰りの車内では、音楽が小さく流れていた。


 運転席に大庭。


 助手席に直樹。


 後部座席では、めぐみが窓へ頭を預けて眠っている。


 車が緩いカーブへ入るたび、頭が少し揺れた。


 ミーシャは自分の上着を畳み、窓との間へ差し込んだ。


 次のカーブで、めぐみの身体が反対側へ傾いた。


 頭がミーシャの肩へ触れる。


 ミーシャは動かなかった。


 前方の鏡に、直樹の目が映る。


 後ろを確認している。


 ミーシャは小さく頷いた。


 直樹は前へ向き直る。


 大庭も何も言わなかった。


 速度を少し落とす。


 めぐみが目を覚ましたのは、学校まで残り二十分ほどの場所だった。


 自分の頭がミーシャの肩にあることへ気づく。


「ごめん」


「問題ありません」


「重かった?」


「問題ありません」


「二回言った」


「事実です」


 めぐみは身体を起こした。


 窓との間に挟まれた上着を見る。


「これもミーシャが?」


「頭部の接触を防止しました」


「ありがとう」


「はい」


 めぐみは上着を畳み直し、ミーシャの膝へ置いた。


「肩、痛くない?」


「ありません」


「そう」


 めぐみはもう一度目を閉じた。


 今度は座席へ深く座り、窓から少し離れた。


 ミーシャは膝の上の上着へ手を置いた。


 めぐみが自分の肩で眠ったことは、直樹への愛とは別の場所に残った。


 敵ではない。


 譲る相手でもない。


 直樹が帰る場所にいる人だった。


     *


 午後四時三十八分。


 連絡車は南第三共同生活校へ戻った。


 正門では、健二と数人の子どもたちが待っていた。


 大庭が窓を開ける。


「帰着。二十二分前。事故なし。負傷なし」


「遊びに行った人の報告じゃないですね」


 健二が言った。


「仕事の話は禁止されたから、帰ってから言ってる」


 悠斗が後部の紙袋を見る。


「それ、土産?」


「受領責任者へ確認しろ」


「急に真面目になるなよ」


 蓮が紙袋を引っ張り、健二が止めた。


「中で開ける。人数を数えてから」


「八人だろ」


「知ってても数える」


 子どもたちが袋を持って校舎へ戻っていく。


 健二は直樹を見る。


「どうだった?」


「魚を食った」


「海は?」


「見た」


「風呂も?」


「ああ」


 健二が笑う。


「ちゃんと遊んできたね」


 直樹は否定しなかった。


     *


 日が沈む頃、めぐみは多目的室の窓際に座っていた。


 海岸から拾った小さな石を、白い紙の上へ置いている。


 直樹は隣で、印刷された写真を見ていた。


 健二が古い小型プリンターを動かし、展望台で撮った二枚を出してくれた。


 一枚目。


 風に乱れた四人。


 二枚目。


 正面を向いた四人。


 めぐみは一枚目を取った。


「こっちが好き」


「大庭は二枚目を持っていった」


「なおは?」


「いらない」


「一枚は持ってて」


「めぐみが持ってる」


「私がなくしたら?」


「また印刷できる」


「そういう話じゃないよ」


 直樹は写真を見る。


 海を見ている自分。


 髪を風に乱されたまま笑っているめぐみ。


 片目を閉じた大庭。


 正面を見たミーシャ。


 直樹は一枚目を受け取った。


「持つ」


「うん」


 写真を上着の内側へ入れる。


 めぐみは、その位置を見た。


「昔も、そこに入れてた?」


「何を」


「私の手紙」


 直樹は少し黙った。


「ああ」


「相良さんは、それを覚えてたんだね」


「名前だけだ」


「それでも、残ってた」


 めぐみは直樹の肩へ頭を預けた。


 直樹は動かなかった。


「今夜も行くんだね」


「ああ」


「眠くない?」


「少し眠い」


「正直」


「帰ったら寝る」


「一時まで?」


「同じだ」


「連絡して」


「ああ」


「ミーシャも行く?」


「連れていく」


「そう」


 めぐみは肩から頭を上げた。


「なお」


「何だ」


「寂しい時は、寂しいって言うことにした」


 直樹の目が少し動く。


「今か」


「少し」


「行かない方がいいか」


「違う」


 めぐみは首を横へ振った。


「行って。相良さんに会ってきて」


「ああ」


「でも、帰ってきたら、ここに来て」


「分かった」


「私が寝てても」


「起こすか」


「起こして」


 直樹は頷いた。


 めぐみが顔を近づける。


 直樹は動かずに待った。


 めぐみが離れないことを確かめてから、短く唇を重ねる。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい、なお」


     *


 車庫には、二つのヘルメットが並んでいた。


 ミーシャはバイクの横で待っている。


 昼の上着ではなく、防寒用の暗い外套へ替えていた。


「準備できています」


「疲れてないか」


「問題ありません」


「今日は歩いた」


「端末では、一万一千歩です」


「多い」


「通常より少し多いだけです」


「眠くなったら言え」


「はい」


 直樹がヘルメットを取る。


 ミーシャも隣の一つへ手を伸ばした。


 車庫の入口に、大庭が立っている。


「また富士川か」


「ああ」


「相良さん、今夜は」


「会うまで分からない」


「そうか」


 大庭はバイクの横へ近づいた。


「正式命令が来る前に、もう一回くらいコーヒー飲ませろ」


「学校で飲める」


「そういうところだぞ、マッシー」


 大庭は片手を上げ、校舎へ戻っていった。


 ミーシャはヘルメットをかぶる。


「NAO」


「何だ」


「今日は月が見えますか」


 直樹は車庫の外を見る。


 海から運ばれてきた雲が、空の半分を覆っている。


「今は見えない」


「停止しませんか」


「雲は動く」


 直樹がエンジンをかけた。


 ミーシャは一度、校舎の窓を見る。


 多目的室の灯りがまだ点いていた。


 そこにめぐみがいる。


 直樹が今夜も、そこへ帰ることをミーシャは知っている。


 それでも、直樹を好きだった。


 後部座席へ乗る。


 迷わず腰へ腕を回した。


 海の匂いが二人の上着に残っているうちに、バイクは雲の下へ走り出した。


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