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第180話 月の見える途中

## 第180話 月の見える途中


 夕食が終わっても、直樹は立たなかった。


 食堂の長机には、空になった椀が二つ残っている。


 めぐみは最後の一口を飲み込み、箸をそろえた。


「何かある?」


「明日のことだ」


 直樹の膝には、折り畳んだ運行申請書が置かれている。


 午前十時出発。


 海沿いの食堂。


 共同浴場。


 午後五時までに帰着。


 目的欄には、健二の字で「私的外出」と書かれていた。


「行くことにしたの?」


「ああ」


「大庭さん、喜ぶね」


「まだ言ってない」


「断ると思われてるよ」


「断ろうとはした」


「どうして?」


「用事がない」


 めぐみは申請書へ目を落とした。


「遊びに用事がいるの?」


 直樹は少し考えた。


「いらないらしい」


「誰に教わったの」


「健二と大庭」


「ずいぶん時間がかかったね」


 直樹は否定しなかった。


 食堂の外を、子どもたちが走っていく。


 戸が開き、夜の冷気が足元を抜けた。


 直樹が申請書を畳み直す。


「今夜は富士川へ行く」


 めぐみの手が止まった。


「相良さん?」


「ああ」


「ミーシャも一緒?」


「連れていく」


 めぐみはすぐには返さなかった。


 食堂の隅では、職員が椅子を机の上へ上げている。


 木の脚が床を擦った。


「相良さんは、またミーシャを覚えてない?」


「覚えている部分もあるかもしれない」


「かもしれない?」


「きっかり消えるわけじゃない。昨日だけ残る時もある。順番だけ崩れる時もある」


「じゃあ、会ってみるまで分からないんだ」


「ああ」


「明日の夜も行く?」


「行く」


「今夜を忘れたか、確認するため?」


「忘れていなくても聞き直す」


 めぐみは二人分の椀を盆へ載せた。


 直樹が左手を伸ばす。


「持つ」


「二つ持てる?」


「持てる」


「今夜、バイクでしょう」


「そうだ」


「じゃあ、手は残しておいて」


 めぐみは椀を渡さなかった。


 直樹も手を戻した。


「止めないよ」


「ああ」


「でも、明日、海でずっと眠ってるのは嫌」


「戻ったら寝る」


「何時?」


「一時まで」


「過ぎたら?」


「連絡する」


「自分でできなかったら?」


「施設の管理室から入れさせる」


 めぐみは頷いた。


「それなら待てる」


「待たなくていい」


「ずっと門に立ってるって意味じゃないよ」


「分かってる」


「本当に?」


「今は」


 めぐみは盆を置いた。


 直樹の隣へ戻り、その袖を指でつまむ。


「相良さんは、今夜のことを忘れるかもしれない」


「ああ」


「なおは覚えてる?」


「覚えてる」


「全部?」


「たぶん」


 めぐみは少し目を伏せた。


「忘れない方も、楽じゃないね」


 直樹は答えなかった。


 めぐみも、答えを求めなかった。


「帰ってきて」


「ああ」


「明日の朝じゃなくて、今夜」


「一時までに帰る」


「うん」


 めぐみは袖から指を離した。


 直樹が立ち上がる。


 食堂を出る前に振り返った。


「海には行く」


「聞いたよ」


「寝ない」


「それは帰ってから決める」


     *


 午後九時十二分。


 学校裏手の車庫で、偵察用オートバイのエンジンが低く鳴った。


 ミーシャはすでにヘルメットを着けている。


 暗色の上着。


 厚い手袋。


 小型の鞄。


 直樹が車体の周囲を確認している間、何も言わず待っていた。


「通信」


「確認済み」


「予備電源」


「右側収納」


「防寒」


「問題ありません」


 直樹はミーシャの顎紐を見る。


「緩い」


 ミーシャが締め直す。


「確認してください」


 直樹は指一本分の隙間を確かめた。


「それでいい」


 車体へまたがる。


 ミーシャは後部座席に乗った。


 両足を上げ、最初は後部の取っ手を握る。


「腕を回せ」


 直樹が前を向いたまま言った。


「路面は乾燥しています」


「山へ入ると曲がる」


「保持具があります」


「身体が遅れる」


 ミーシャは一度黙った。


「了解しました」


 直樹の腰へ両腕を回す。


 上着越しに、身体の動きが伝わった。


 息を吸えば腹部がわずかに広がり、吐けば戻る。


 エンジンの振動が、座席から脚へ上がってくる。


「出る」


「はい」


 バイクが動いた。


 校門を抜ける。


 舗装路へ入る時、車体が少し傾いた。


 ミーシャは腕へ力を入れる。


 速度が安定しても、緩めなかった。


 夜間である。


 路面は一定ではない。


 運転者と動きを合わせる必要がある。


 それだけだと、自分へ説明する。


 学校の灯りが遠ざかる。


 直樹は前だけを見ている。


 ミーシャは、その背中の後ろにいる。


 話さなくていい。


 表情を作らなくていい。


 頭の中にあるものを、報告できる順番へ並べなくてもいい。


 直樹が右へ傾けば、自分も右へ傾く。


 左へ戻れば、一緒に戻る。


 それだけで進めた。


 ミーシャは、この時間が好きだった。


 その理由を、まだ分類しなくて済むことも含めて。


     *


 富士川へ向かう旧道へ入ると、空が開けた。


 山の間に月が浮かんでいる。


 満月には少し足りない。


 薄い雲が一枚、その下を流れていた。


 直樹が速度を落とす。


 バイクは川沿いの小さな退避所へ入った。


 エンジンが止まる。


 急に静かになった。


 ミーシャは直樹の腰から腕を離す。


 離した場所へ夜気が入り込んだ。


「異常ですか」


「違う」


「時間は予定内です」


「ああ」


「では、なぜ停止を」


 直樹はヘルメットを外した。


 川の上へ顎を向ける。


「今日は見える」


 ミーシャもヘルメットを外す。


 川面に月の光が揺れていた。


 対岸には建物の灯りがほとんどない。


 月の周囲に、普段より多くの星が見える。


「月ですか」


「星も」


「確認しました」


 直樹は後部収納を開けた。


 小さな保温容器と、金属製のカップを二つ取り出す。


「準備していたのですか」


「出る前に入れた」


「停止する予定があった?」


「空が見えたら」


「見えなければ」


「施設で飲む」


 直樹はコーヒーを二つに分けた。


 一つをミーシャへ渡す。


 ミーシャが口をつける。


「砂糖が入っています」


「寒いだろ」


「不要とは言っていません」


「前も入れた」


「前回は、もっと気温が低かったためです」


「今日は?」


 ミーシャは川面を見る。


「少し寒いです」


「ならいい」


 直樹は道路側へ立った。


 ミーシャを川と月が見える側へ置き、自分は車両が来る方向を見ている。


「NAO」


「何だ」


「アレクセイから連絡がありました」


「聞いた」


「国のことは気にするな、と言われました」


「気になるか」


「はい」


「なら考えていい」


 ミーシャが直樹を見る。


「命令と違います」


「戻るなとは言われた」


「同じ意味です」


「違う」


「どこが」


「考えることまでは止めてない」


「言葉の区分が細かいです」


「ミーシャもだろ」


「私は記録のためです」


「俺は確認のためだ」


 薄い雲が月へ近づく。


 川面の光が少し弱くなる。


「アレクセイは、情報を減らしています」


「そうだろうな」


「危険があると思いますか」


「あるかもしれない」


「確認へ行くべきでしょうか」


「今は行くな」


 直樹の答えは早かった。


「なぜ」


「場所も相手も分からない」


「連絡が切れた後では遅い可能性があります」


「今戻っても、ミーシャが探される側になる」


 ミーシャは黙った。


「連絡が一人増えるだけだ」


 直樹はコーヒーを飲む。


「新しい情報が来るまで待て」


「何も来なければ」


「何もないとは決めない」


「では、どうしますか」


「ここで全部決めるな」


 直樹は道路とミーシャを交互に見た。


「大丈夫とは言えない」


「はい」


「だが、戻る時に一人で戻すつもりはない」


 ミーシャが顔を上げる。


「誰を」


「ミーシャを」


 直樹はそれ以上説明しなかった。


 アレクセイの無事を約束しない。


 騒乱が収まるとも言わない。


 ただ、ミーシャだけを危険の中へ戻さないと言った。


 雲が月へ重なる。


 周囲が一度暗くなった。


 少し待つと、雲の端から光が戻った。


「月は消えていません」


 ミーシャが言った。


「雲だ」


「確認しました」


「そうか」


「今の言葉は、励ましですか」


 直樹は少し考えた。


「事実だ」


「まだ実行されていません」


「必要になったら実行する」


 ミーシャはコーヒーを飲んだ。


 先ほどより甘く感じた。


     *


 富士川の療養施設へ着いたのは、午後十時四十八分だった。


 外から見れば、古い研修所にしか見えない。


 低い建物。


 板で補修された外壁。


 窓の半分には遮光幕が下りている。


 入口の上に、青い認証灯が一つ点いていた。


 直樹が身分証を出す。


 担当看護師が記録を確認した。


「相良さんは起きています」


「状態は」


「夕方の説明は一部残っています。ただ、出来事の順番が崩れています」


「俺は」


「認識しています。ミーシャさんは、顔を見ても名前が出ないと思います」


 看護師は直樹を見る。


「記憶は、決まった時刻で切り替わるわけではありません。今夜の説明が明日まで残る可能性もあります」


「分かってる」


「同意は、今夜の本人から取り直します」


「ああ」


「説明の後、一度部屋を出てもらいます」


 直樹は頷いた。


 ミーシャも記録へ署名する。


 二人は建物の奥へ進んだ。


 訓練室の扉は開いている。


 床に白い線が引かれていた。


 壁には、出口、停止、負傷、人数と書かれたカードが並んでいる。


 相良は中央の椅子へ座っていた。


 灰色の訓練着。


 短く刈られた髪。


 胸元には、古い刺創痕の一部が見える。


 直樹が入る。


 相良の目が動いた。


「真柴」


 声は掠れていた。


「ああ」


「……行く、のか」


 相良の中では、直樹はまだ海外へ出る直前に近い。


 直樹は相良の正面へ立った。


「もう行った」


 相良が眉を寄せる。


「戻った」


 直樹は壁の日付を指した。


 現在の日付。


 日本が分裂した年。


 相良が負傷した日。


 施設へ運ばれた日。


 相良は順番に見る。


 胸の傷へ手を置いた。


「その傷は、俺が刺した」


 相良の指が止まる。


 直樹は続けた。


「相良が俺を止めようとした。俺が刺した。相良は生き残った」


 相良は直樹から目を逸らした。


 壁の白線を見る。


 差し出された水には手を伸ばさない。


 室内の時計が、二度音を立てた。


「前にも話したとは言わない」


 直樹が言う。


「今の相良が聞くのは初めてだ」


 相良の呼吸が深くなる。


 看護師が椅子の横へしゃがんだ。


「今の説明は理解できていますか」


 相良はすぐには答えない。


 胸の傷へ触れたまま、ゆっくり頷いた。


「真柴さんを、いったん外へ出してもいいですか」


 相良が直樹を見る。


 直樹は何も言わない。


 相良が小さく頷いた。


「分かった」


 直樹は部屋を出た。


 扉を閉める。


 ミーシャも外へ出ようとしたが、看護師が相良へ確認した。


「ミーシャさんは、ここに残ってもいいですか」


 相良はミーシャを見る。


 知らない顔を確かめるように、しばらく見た。


 それから頷いた。


 ミーシャは壁際へ立った。


 看護師が二枚のカードを机へ置く。


 続ける。


 今日はやめる。


「真柴さんが戻らなくても、訓練を続けたいですか」


 相良はカードを見た。


「今日はやめても、次に不利益はありません」


 相良の右手が動く。


 一度止まり、胸の傷へ戻る。


 そこから「続ける」のカードへ移った。


「続けますか」


 相良が頷く。


「真柴さんと?」


 もう一度頷いた。


 看護師は記録へ時刻を書いた。


 その後で直樹を呼び戻した。


「本人が続行を選びました」


 直樹は相良を見る。


「確認した」


 看護師が言う。


「途中で止める選択も残っています」


「ああ」


 直樹は相良の前へ立った。


「無理なら止める」


 相良が頷いた。


     *


 訓練は走らなかった。


 誰も倒さない。


 武器も使わない。


 床の白線。


 四枚の人物札。


 出口を示す緑の札。


 負傷者を示す黄色の札。


 直樹が一つずつ置く。


「建物内。四人」


 相良が札を見る。


「一人、歩けない」


 黄色の札を置く。


「出口は二つ。片方は未確認」


 相良の指が、確認済みの出口へ動く。


「最初に何を見る」


 相良は人数のカードを取った。


「名前は」


 四枚の札を並べる。


 一。


 二。


 三。


 四。


 ミーシャは壁際で記録している。


 相良は何度か止まった。


 新しい説明が抜ける。


 出口を選んだことを忘れ、同じ確認へ戻る。


 直樹は「もう決めた」と言わなかった。


「出口は二つ」


 同じ説明を繰り返す。


「片方は未確認」


 相良はまた選んだ。


 同じ出口だった。


 次に、直樹が一枚の札を伏せる。


「一人見えない」


 相良の目が変わった。


 人数札へ手を伸ばす。


 四枚を数える。


 一枚足りない。


 相良は出口ではなく、最後に確認した位置を指した。


 直樹が頷く。


「今の判断だ」


 相良の肩から力が抜ける。


 身体が覚えているのか。


 その場で考え直したのか。


 ミーシャには判断できなかった。


 直樹も決めつけなかった。


 訓練が終わると、相良の額には汗が浮かんでいた。


 直樹が水を置く。


 飲めとは言わない。


 相良が自分で取るまで待った。


「明日は」


 相良が掠れた声を出す。


「何だ」


「来る、か」


「明日の夜に来る」


「昼は」


「海へ行く」


 相良は直樹を見る。


「訓練ではない」


「……海」


「ああ」


「誰と」


「四人だ」


 直樹は一人ずつ言った。


「俺。大庭。ミーシャ。めぐみ」


 相良の目が止まる。


「宮崎?」


「そうだ」


「手紙の」


「ああ」


 相良の安定して残っている頃、直樹の訓練服の内側には、宮崎めぐみから届いた短い手紙が入っていた。


 相良が知っているのは、その名前までだった。


「一緒、なのか」


「ああ」


 相良は直樹の顔を見る。


 少しだけ口元を緩めた。


「遅い」


 直樹は返さなかった。


 相良は水を一口飲んだ。


「明日の夜、また説明する」


 直樹が言う。


「忘れていたら?」


「最初から話す」


「面倒、だろ」


「必要だ」


「今日の、続きは」


「続きだとは言わない」


 直樹は訓練札を集めた。


「その時の相良が決める」


 相良の手が、カップの上で止まった。


 やがて、小さく頷いた。


     *


 施設を出たのは、午前零時十一分だった。


 外気は来た時より冷えている。


 ミーシャは後部座席へ乗った。


 今度は取っ手へ手を伸ばさない。


 最初から直樹の腰へ腕を回す。


「出る」


「はい」


 バイクが走り出す。


 施設の青い灯が、背後へ遠ざかった。


 旧道へ入る。


 ミーシャは往路より深く上体を預けた。


 上着越しの体温と、呼吸で動く背中が近くなる。


 それでも今は、安全な姿勢だと考えられた。


「NAO」


「何だ」


「相良は、明日、私を覚えていない可能性があります」


「そうだ」


「今夜の訓練も」


「残るかもしれない。抜けるかもしれない」


「では、今夜行った意味は」


 直樹はカーブの前で速度を落とす。


「今夜は、相良が決めた」


「それだけですか」


「それでいい」


 車体が左へ傾く。


 ミーシャは腕へ力を入れる。


 直線へ戻っても、そのままにした。


「今夜の月も、いずれ忘れますか」


「相良は見てない」


「私たちです」


 直樹はしばらく答えなかった。


「ミーシャは覚えてる」


「あなたも」


「ああ」


「では、二人分です」


「そうだな」


 学校の灯りが見えた。


 門の時計は午前零時五十二分。


 一時まで、あと八分ある。


 バイクが止まった。


 エンジン音が消える。


 ミーシャは直樹の腰から腕を離した。


 必要な接触は終わった。


「着いた」


「確認しました」


 後部座席から降りる。


 車庫の前に、めぐみが立っていた。


 上着を羽織り、両手を袖の中へ入れている。


「待たなくていいと言った」


 直樹が言う。


「音が聞こえたから出てきたの」


 めぐみはバイクの時計を見る。


「八分早いね」


「ああ」


「相良さんは?」


「続けると言った」


「明日の夜も?」


「また聞く」


 めぐみが頷いた。


「おかえり、なお」


「ただいま」


 めぐみはミーシャを見る。


「寒かった?」


「少し」


「コーヒー、飲んだ?」


 ミーシャの目がわずかに動いた。


「なぜ分かりますか」


「空が澄んだ夜だけ、なおの上着からコーヒーの匂いがするから」


 直樹がめぐみを見る。


「気づいてたのか」


「前から」


「言ってない」


「言わなくても分かることはあるよ」


 めぐみはミーシャへ向き直る。


「月、きれいだった?」


 ミーシャは、川面へ揺れていた光を思い出した。


「はい」


「そっか」


 めぐみはそれ以上聞かなかった。


 直樹が車庫へバイクを押す。


 ミーシャは、空になった二つの金属カップを後部収納から取り出した。


「洗います」


「明日でいい」


「使用しました」


「俺も使った」


 直樹は一つを受け取った。


 残った一つを、ミーシャが持つ。


 めぐみが先に校舎の扉を開けた。


 直樹とミーシャは、空になったカップを一つずつ持って、その灯りへ戻った。


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