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第179話 帰る前に

## 第179話 帰る前に


 川崎文江の帰路は、翌日の昼までに決まった。


 検査を受けるのは三日後。


 当日の夕方便を第一帰宅便とし、一泊が必要になった場合に備えて、翌朝の便にも一席を確保した。


 水路を見る者。


 家の鍵を預かる者。


 運行が変わった時に、文江本人へ説明する者。


 それぞれの名前が、新しい運行票へ書かれた。


 映像通話で内容を確認した文江は、帰宅予定日を指でなぞった。


『帰れなくなった時は、誰が言うんだい』


 相原の隣にいた担当者が名乗る。


『私が連絡します』


『あんたがいなかったら』


 えりが画面へ入った。


『私。記録も引き継ぐ。二人とも倒れていたら、その時はこの施設自体が止まってる』


『縁起でもないね』


『起きないことより、起きた時の順番を決める仕事だから』


 文江は少し考えた。


『なら行くよ』


 それで決まった。


 八人は修正記録を提出し、楢ノ沢館での課程を終えた。


 直樹が伝えたのは一言だけだった。


「戻っても、役割を消すな」


 田所が返事をした。


 八人は同じ扉から出ていった。


 それ以上の訓練はなかった。


     *


 午後の南第三共同生活校には、洗った布の匂いが残っていた。


 めぐみは多目的室の窓際に座り、乾いた衣類を畳んでいる。


 子ども用のシャツ。


 靴下。


 作業用の手袋。


 大人用の暗い色のシャツが一枚、混じっていた。


 ハルは向かい側で、小さな靴下を重ねている。


 右と左を合わせたあと、また離した。


 裏返して、戻す。


 もう一度重ねる。


「ハル」


「何?」


「それ、さっきも畳んでた」


 ハルは自分の手を見る。


「そうだった?」


「三回目」


「数えてたの?」


「見えてたから」


「めぐみさんって、静かに怖いよね」


「えりにも言われる」


「末安さんは静かじゃない」


「本人には言わない方がいいよ」


「言わない。生きたいから」


 ハルは靴下を脇へ置いた。


 めぐみが暗いシャツの襟を整える。


「それ、直樹さんの?」


「うん」


「一緒に洗うんだ」


「洗濯物だから」


「そういう意味じゃないんだけど」


 めぐみは顔を上げた。


「何か相談?」


「どうして分かるの」


「靴下」


 ハルは息を吐いた。


「健二さんのこと」


「うん」


「まだ何も言ってない」


「待つよ」


 ハルは新しいシャツへ手を伸ばした。


 袖を内側へ折る。


「健二さんって、放っておくと人の仕事までしますよね」


「するね」


「私が遅くなると、夜の見回りを代わる。朝、厨房に行くと珈琲が二つある。荷物を持ってると、何も言わず半分持っていく」


「優しいね」


「そこだけ聞くとね」


「違うの?」


「優しいんだと思う」


 ハルは畳んだシャツの角を揃えた。


「だから困ってる」


 めぐみは急かさなかった。


「健二さん、誰かを心配すると、その人の分まで働くでしょう」


「うん」


「私が遅いと、私の仕事を取る。私が疲れてると、自分の休む時間を減らす」


 ハルは窓の外を見る。


 校庭の端で、健二が子どもたちと木材を運んでいた。


 一本ずつ手渡し、誰かが無理な持ち方をすると止めている。


「私まで、健二さんが休めない理由になりたくない」


「それ、健二さんに言った?」


「言えるなら、ここにいない」


「そうだね」


「そこは否定してよ」


「ごめん」


「すぐ謝られると、私が悪いみたいになる」


「じゃあ謝らない」


「切り替えが早い」


 めぐみは少し笑った。


 ハルも笑いかけたが、すぐに健二へ視線を戻す。


「めぐみさんは、直樹さんをどうやって休ませてるの」


「休ませてないよ」


「でも、直樹さん、前より学校にいる」


「なおが、自分で戻ろうとしてるから」


「めぐみさんが待ってるからじゃないの」


「それも入ってると思う」


「本人が言った?」


「少しだけ」


「少しで分かるんだ」


「分からないことも多いよ」


 めぐみは直樹のシャツを畳んだ。


 自分の衣類が入っている籠へ重ねる。


「なおも、できることをしてるだけだと思ってる時がある」


「健二さんと同じ?」


「少し」


「じゃあ、言わないと分からない?」


「たぶん」


 ハルは眉を寄せた。


「何て言えばいいの」


 めぐみは考えた。


「一緒に休みたい、は?」


 ハルが止まった。


「それを言う相談だったのに、先に言わないで」


「当たってた?」


「まだ言ってないから分からない」


「でも、言いたいんだ」


「めぐみさん、今日は本当に怖い」


 ハルは頬を少し押さえた。


「一緒に休んでほしい、だと世話みたいになる」


「うん」


「休みなさい、だと命令になる」


「うん」


「私が休みたいから一緒にいて、なら……私の都合になる」


「それでいいんじゃない?」


 ハルがめぐみを見る。


「自分の都合を言っていいの?」


「相手に選ばせるなら」


 ハルはしばらく黙った。


 校庭の健二が、持っていた木材をほかの職員へ渡した。


 しゃがんで、子どもの靴紐を結び直している。


「めぐみさんも、自分の都合を言ってる?」


 めぐみの手が止まった。


「言えてない時もある」


「ミーシャさんのこと?」


 多目的室の外を、子どもが走り抜けた。


 足音が遠ざかる。


 めぐみは直樹のシャツの上へ手を置いた。


「うん」


「嫌いなの?」


「嫌いじゃない」


「直樹さんの近くにいるのは平気?」


「平気じゃない時もある」


 ハルは少し驚いた顔をした。


「ちゃんと嫌なんだ」


「何でも平気な人に見えてた?」


「少し」


 めぐみは首を横へ振る。


「分かることと、平気なことは違うよ」


「直樹さんには言った?」


「まだ」


「言わないと分からないと思う」


「さっき私が言った?」


「言ってない。私が言った」


「じゃあ、ハルも健二さんに言わないと」


「急に返さないで」


「少し同じだから」


「違うよ」


「少し同じ」


 ハルは畳んだ靴下を、めぐみの前へ置いた。


「先にめぐみさんが言ったら、私も言う」


「ずるい」


「相談料」


「高いね」


「珈琲三日分だから」


 二人は声を抑えて笑った。


 多目的室の扉が開いたのは、その少し後だった。


 直樹が立っている。


 右肩に小さな鞄を掛けていた。


「戻ったの?」


 めぐみが聞く。


「ああ」


「今日は、もう終わり?」


「報告は終わった」


 直樹は室内へ入り、ハルへ軽く頭を下げた。


「健二は外にいる」


「見えてます」


 ハルは立ち上がる。


 畳んだ衣類を両腕へ抱えた。


「私、これを戻してきます」


「手伝う?」


「大丈夫。めぐみさんは直樹さんを休ませてください」


「休ませてないよ」


「その話は聞きました」


 ハルは直樹を見る。


「直樹さん」


「何だ」


「できるだけ、座っててください」


「分かった」


「素直ですね」


「座るだけならできる」


「健二さんにも教えてほしい」


「本人に言え」


 ハルが一瞬だけ黙った。


「……考えます」


 衣類を抱えて出ていった。


 扉が閉じる。


 直樹は空いた場所へ座った。


 めぐみは残っていた衣類を畳む。


 直樹は何も言わず、めぐみの手が終わるのを待った。


「疲れた?」


「少し」


「手は?」


「動く」


 めぐみは直樹を見る。


「痛いかを聞いたの」


 直樹は一拍遅れて答えた。


「少し痛い」


「そう」


 めぐみは直樹の右手を取らなかった。


 ただ、手首の近くへ自分の指を置いた。


「今日は、ここにいる?」


「いる」


「夜も?」


「いる」


 直樹は畳まれた暗色のシャツを見る。


「それ、俺のか」


「うん」


「自分で持つ」


「もう畳んだよ」


 直樹は左手でシャツを取った。


 めぐみの衣類の上へ戻す。


「そこに置くの?」


「駄目か」


「駄目じゃない」


 めぐみは小さく笑った。


 直樹はその隣に座ったまま、窓の外を見た。


 何かを急いで片づけようとはしなかった。


     *


 その頃、直樹の部屋には誰もいないことになっていた。


 廊下側の扉は閉まっている。


 カーテンは半分だけ下りていた。


 ミーシャは寝台で眠っていた。


 靴は脱ぎ、壁際へそろえている。


 直樹が畳んでいた毛布を一枚だけ広げ、肩まで掛けていた。


 枕は使っていない。


 目を覚ましたあとも、しばらく天井を見ていた。


 外から子どもたちの声が聞こえる。


 階段を駆け下りる足音。


 台車の車輪。


 遠くで健二が誰かを呼ぶ声。


 ミーシャは起き上がった。


 毛布を元の形へ畳む。


 寝台の皺を手のひらで伸ばした。


 机の上には、右手用のサポーター。


 折り畳まれた地図。


 直樹が書いた帰還時刻の紙。


 その紙の端に、鉛筆で二人分の手が描かれていた。


 めぐみの絵だった。


 ミーシャは触れなかった。


 棚にはカップが二つある。


 白いカップ。


 縁の一部が欠けた黒いカップ。


 ミーシャは黒い方を取った。


 直樹が使っている物だと知っている。


 湯沸かし器を動かす。


 粉を少なく入れ、湯を注いだ。


 香りは薄い。


 寝台の端へ座り、黒いカップへ口をつける。


 廊下で足音が止まった。


 ミーシャは動かない。


 扉は開かなかった。


 足音はまた遠ざかる。


 誰にも見つかっていない。


 机へ置いた小型端末が震えた。


 表示された識別記号を見て、カップを膝へ置く。


「はい」


『まだ南第三か』


 アレクセイの声だった。


「はい」


『真柴もいるな』


「本日、戻りました」


『大庭も』


「確認しています」


『そうか』


 回線の向こうで、短く紙が鳴った。


 アレクセイはいつもなら先に報告を求める。


 旧南第三の物資。


 子どもの人数。


 境界側の動き。


 誰が何を受け取り、どこを書き直したか。


 今日は聞かなかった。


『ミーシャ』


「はい」


『心配するな』


 ミーシャは黒いカップを見た。


「確認します。何か起きていますか」


『お前が動く話ではない』


「国のことは」


『気にするな』


 返事が早かった。


『しばらく、そこにいろ』


「期間は」


『まだ決められない』


「理由は」


『こちらで処理する』


 ミーシャの指がカップの縁へ触れる。


「処理、ですか」


 アレクセイが黙った。


『訂正する。こちらで止める』


「何を」


『聞くな』


「了解できません」


『了解しなくていい。従え』


 声は荒くない。


 それでも、いつものアレクセイとは順序が違った。


 報告を受ける前に安心させた。


 事実を渡す前に、動くなと言った。


「私は戻りません」


『それでいい』


「必要な場合は連絡してください」


『しない』


「なぜ」


『連絡すれば、お前は来る』


 ミーシャは返さなかった。


『眠れているか』


「少し」


『なら寝ろ』


「命令ですか」


『そうだ』


「了解しました」


『ミーシャ』


「はい」


『国のことは気にするな』


 同じ言葉を、もう一度言った。


 回線が切れた。


 ミーシャは端末を見た。


 心配するなと言われた。


 国のことは気にするなとも言われた。


 どちらも、安心できる言葉のはずだった。


 それでも、アレクセイは一度も「問題はない」と言わなかった。


 扉の鍵が動いた。


 ミーシャは立ち上がる。


 直樹が入ってきた。


 左手に、畳んだ暗色のシャツを持っている。


 ミーシャを見る。


 寝台。


 畳まれた毛布。


 黒いカップ。


 端末。


 順番に確認した。


「無断で入りました」


 ミーシャが言った。


「分かった」


「寝台も使用しました」


「見れば分かる」


「カップも」


 直樹が黒いカップを見る。


「割れてないならいい」


「怒らないのですか」


「次は先に言え」


「はい」


 直樹はシャツを棚へ置いた。


 机の上の端末を見る。


「アレクセイか」


「はい」


「何て」


「心配するな。国のことは気にするな。しばらく、ここにいろ」


 直樹がミーシャを見る。


「それで心配になったのか」


「順序が違いました」


「何が」


「いつもは、先に報告を求めます」


 ミーシャは端末を握った。


「今日は、先に安心しろと言いました」


「何かはある」


 直樹は否定しなかった。


「はい」


「戻れと言われたか」


「いいえ」


「なら戻るな」


「しかし――」


「一人で戻るな」


 直樹の声が低くなる。


「国は、ミーシャ一人の仕事じゃない」


「アレクセイが危険な場合は」


「確認する」


「誰が」


「俺ができる範囲で」


「NAOまで巻き込みます」


「もう聞いた」


 ミーシャが黙る。


 直樹は長く説明しなかった。


「隠す必要はない」


「めぐみにも?」


 直樹の返事が一拍遅れた。


「必要なら話す」


「私がこの部屋にいることも?」


「それは、ミーシャが決める話じゃない」


 ミーシャは黒いカップを見た。


「はい」


「今は外へ出るな」


「危険がありますか」


「あるかは分からない」


「では、なぜ」


「心配してる時に、一人で動くと判断を間違える」


 直樹は自分の右手を見た。


「俺もやる」


 ミーシャの肩から、わずかに力が抜けた。


「ここにいていいですか」


「少しなら」


「少し」


「俺は、めぐみのところへ戻る」


「分かっています」


「知ってるかじゃない。伝えた」


 ミーシャは直樹を見る。


「はい」


「何か来たら呼べ」


「戻るのですか」


「戻る」


 直樹は扉へ向かった。


 ミーシャが呼び止める。


「NAO」


 直樹が振り返る。


「ありがとうございます」


「まだ何もしてない」


「戻るなと言いました」


「一人では、だ」


 直樹は扉を開けた。


「少し寝ろ」


 出ていった。


 扉は完全には閉められなかった。


 廊下の光が、床へ細く伸びている。


 ミーシャは黒いカップを机へ置いた。


 寝台へ戻る。


 今度は毛布を肩まで掛けず、胸の上に置いた。


 目を閉じるまで、さほど時間はかからなかった。


     *


 アレクセイが通話を切った部屋には、四つの通信機が置かれていた。


 一つは沈黙している。


 二つは同時に鳴っている。


 残る一つから、途切れた報告が流れていた。


『第七補給廠、火災継続――警備側の一部が――』


 音声が消える。


 壁の地図には、赤鉛筆で時刻が書き込まれている。


 北側の三都市。


 河川沿いの倉庫群。


 鉄道操車場。


 軍用と民間用の回線が、同じ時間帯に途絶していた。


 机の上には、同じ印章が押された二枚の命令書がある。


 一枚は群衆の排除。


 もう一枚は武器の使用禁止。


 発行者の署名も同じだった。


「北駅から連絡です」


 部下が受話器を押さえた。


「構内へ入った部隊が、命令を拒否しています」


「どちらの命令だ」


「確認できません」


「確認できないなら、拒否とは書くな」


 アレクセイは赤い手帳を開く。


「動いていない。そう記録しろ」


「配給倉庫は」


「人を先に出せ」


「物資が奪われます」


「燃えてからでは誰も受け取れない」


 窓の向こうが赤く明滅した。


 遠くの倉庫街で上がった火が、低い雲を照らしている。


 別の通信機が鳴る。


『南管区、車列が予定経路を離脱』


「目的地は」


『不明です』


「追うな。橋を閉じろ」


『市民車両が残っています』


「先に出せ」


 部下がアレクセイを見る。


「ミーシャには、本当に知らせなくてよかったのですか」


「知らせれば戻る」


「こちらへ?」


「火の中へだ」


 アレクセイはミーシャとの回線記録を閉じた。


「南第三へつながる照会を切れ」


「すでに二件あります」


「消すな。止めろ」


「発信元は」


「後で見る」


 アレクセイは赤い手帳へ、新しい時刻を書いた。


 窓の外で、二つ目の火が上がった。


 騒乱はまだ、国全体の名前を持っていなかった。


 だが、火だけはすでに複数の場所で燃えていた。


     *


 大庭が帰隊予告を受けたのは、日が傾き始めた頃だった。


 南第三の無線室。


 校庭では、子どもたちが使った工具を健二が一つずつ数えている。


 大庭は受話器を耳へ当てた。


『大庭一尉。片桐です』


「どうした」


『帰隊予告が出ました』


「正式命令は」


『明日以降です。早ければ四十八時間以内』


「理由は」


『こちらには降りていません』


「人員」


『欠員なし』


「負傷者」


『三宅士長の左肩。沢村陸士長の右足首』


「勤務は」


『二人とも継続可能と――』


「外せ」


『大庭一尉』


「医官が見るまで勤務表から外せ」


『本人たちは問題ないと』


「問題があるか決めるのは、本人だけじゃねえ」


 大庭の声から冗談が消えている。


「帰した後も使える身体か確認しろ」


『了解しました』


「睡眠は」


『交代で確保しています』


「片桐」


『はい』


「数字じゃなくて名前で言え」


『昨夜の未休養は、片桐、三宅、沢村です』


「お前もかよ」


『連絡調整が続きました』


「三人とも、今日の夜勤から外れろ」


『人が足りません』


「足りない状態を報告しろ。黙って埋めるな」


『承知しました』


「正式命令が出たら送れ」


『大庭一尉』


「何だ」


『戻られますか』


「命令が出たらな」


『遅らせませんよね』


「俺を何だと思ってる」


『真柴さんのところへ行くと、予定を伸ばす人です』


「階級は覚えてるか」


『回線が不安定です』


「片桐」


『失礼します』


 通信が切れた。


 大庭は受話器を見た。


「最近の部下は上官を何だと思ってんだ」


「割と正確に見てると思いますよ」


 入口に健二が立っていた。


 燃料配分表を持っている。


「いつからいた」


「三宅さんを休ませろってところから」


「盗み聞き」


「無線室の扉、開いてます」


「そういう正論、兄弟で似るのやめてくれ」


 健二は机へ書類を置いた。


「帰隊するんですか」


「予告だけ」


「早ければ四十八時間」


「聞いてたなら確認すんなよ」


「大庭さんが、自分のことだけ数えない人だから」


 大庭が健二を見る。


「誰に聞いた」


「兄ちゃんを見てれば分かります」


「似た兄弟だな、本当に」


 大庭は棚から地図を取り出した。


 南第三を中心に広げる。


「健二さん、車一台借りたい」


「何に使うんですか」


「聞いたら貸したくなくなる用途」


「では貸せません」


「そう来ると思った」


 大庭は地図の上へ指を置いた。


「遊びに行く」


 健二が動きを止める。


「帰隊前に?」


「帰隊前だから」


「誰と」


 大庭は紙の端へ名前を書く。


 真柴直樹。


 宮崎めぐみ。


 ミーシャ。


 大庭航平。


 健二は四人の名前を見た。


「兄ちゃん、行くって言いました?」


「まだ」


「めぐみさんは」


「まだ」


「ミーシャさんも」


「まだ」


「決めたのは大庭さんだけですね」


「だから今から、断る理由を減らす」


「逃げ道を潰す、じゃないんですか」


「健二さん、俺を悪人みたいに言うなよ」


「言い方を変えただけです」


 大庭は地図を指でなぞった。


「片道一時間以内。検問が少ない。飯が食える。座れる場所がある。帰りに風呂」


「兄ちゃんの右手は」


「運転させない」


「めぐみさんの体調」


「歩かせすぎない」


「ミーシャさんは」


「知らん。退屈したら海に投げる」


 健二が大庭を見る。


「冗談」


「分かりにくいです」


「ミーシャなら泳いで戻る」


「余計に駄目です」


 健二は海側の古い道を指した。


「ここなら昼だけ開く食堂があります。少し先に共同浴場」


「混むか」


「平日は少ない」


「道は」


「先月、補修が終わっています。ただし、海沿いは風が強い」


「宮崎さんが寒くない時間に出る」


「兄ちゃんじゃなくて、めぐみさん基準なんですね」


「マッシー基準にしたら、夜明け前に出て日没後に帰るぞ」


「否定できない」


 大庭は出発候補時刻を書く。


 午前十時。


 昼食。


 海。


 共同浴場。


 午後五時までに帰着。


「遊びの計画にしては細かいですね」


「遊びを舐めるな。失敗したら一日無駄になる」


「一日くらい無駄にしてもいいんじゃないですか」


 大庭の鉛筆が止まった。


「帰隊前は、そうもいかねえ」


 健二は何も言わなかった。


 大庭はすぐに地図へ視線を戻す。


「車、借りられるか」


「運行申請を書いてください」


「遊びだぞ」


「遊びでも燃料は減ります」


「血も涙もねえな」


「大庭さんに言われたくない」


 健二は申請用紙を一枚置いた。


「目的は」


「親睦」


「曖昧です」


「帰隊前親睦」


「余計に公用車が通りにくくなりました」


「じゃあ、施設間交流」


「誰と誰の」


「俺たちと海」


「却下です」


 大庭は鉛筆を置いた。


「面倒くせえな、遊びって」


「だから、遊びなんでしょう」


 健二が無線室を出ていく。


 大庭は申請用紙を引き寄せた。


 目的欄へ、しばらく何も書かなかった。


 帰隊予告の時刻を見る。


 次に、地図の端へ並んだ四人の名前を見る。


 もう一度鉛筆を持った。


 帰隊予告の時刻の下へ、大庭は四人分の出発時刻を書き足した。


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